教採一般教養(その19)

 きょうは近代文学史のまとめです〜 次の文章のカッコ内を埋めてね。

 明治初期、( 1 )は『小説真髄』を発表し、従来の勧善懲悪の文学観に方向転換を示した。( 1 )は人間の内面の追求にこそ文学の目標があるとし、その表現方法として写実を提唱する。この方法論を継承したのが『浮雲』の作者( 2 )である。( 2 )は、人間の内面を描くのには、ふさわしい文体があり、それを用いるのが自然であるとした。これを言文一致体という。つまり話し言葉と書き言葉の一致を意味する。

 写実主義文学が、近代における人間精神の豊かな芽生えを新しい綴り方で表現する一方で、それに対抗し、復古的な文学潮流も起こる。開国以来の文明開化的欧化主義に対する反動として、井原西鶴調の華麗な文体を好み、愛する作家があらわれたが、彼らの文学的主張は、擬古典主義と称された。つまり古典を擬すわけである。その代表的作家は、『金色夜叉』の( 3 )がいるし、師匠と弟子との絡み合いを中心テーマとし、職人の世界を描いた『( 4 )』の幸田露伴がいる。

 近代の出発は封建制や村落共同体意識からの脱出を思想的には意味しよう。そこでは人間性の解放がおおらかに謳われるが、恋愛や芸術の絶対性をロマンティックに語ったのが『不如帰』の( 5 )、『武蔵野』の( 6 )、幽玄な作品と講評される『( 7 )』の泉鏡花であった。いわゆるこのロマン主義に読みとることのできる個人主義精神は、自然主義文学の中に遺伝する。そのDNAは、その後の文学に、いい意味でも悪い意味でも影響を与えることになる。自然主義文学は文学発展の大きな大きな捨て石たるところに、その客観的意義があったといえよう。

 主人公丑松の、狂わんばかりの内面的世界における葛藤を浮き彫りにし、明治中期の人権問題・社会問題を鋭く批判した著書『破戒』で知られる( 8 )は、実は姪との情事を語り、自分だけヨーロッパに逃亡したし、弟子入り女性の去った後、女性の使用していた『蒲団』に顔をうずめる結末を( 9 )は大胆に描き切った。2人はエミール=ゾラの影響を受けた「私小説」流行の時代の旗手であった。

 上述のように、「自然主義文学は、醜悪な暴露小説である、個人的体験を面白おかしく書き連ねるだけで、文学理論としては成立しない」との批判を甘受するほかなく、たとえば余裕派・夏目漱石は、こうした自然主義文学とは距離を保ち、本道的な小説の在り方を身をもって示す。やがて明治末から大正にかけて、いわば自然主義文学をたたき台に、新しい文学運動が勃興する。

 まずその担い手は、官能美の価値を表現しようとし、新しいロマンを追求した耽美派に指を屈する。耽美、つまり「美に耽る(ふける)」である。『すみだ川』を書き、三田文学を牽引した( 10 )、主人公が自分の目に針を突き刺す場面が圧巻な『春琴抄』の( 11 )などが耽美派の文学者である。( 11 )が嫁を友人に譲った逸話はロマンのなせる業なのだろうか。

 自然主義を批判した文豪、漱石・鴎外は、あるいは英文学を基盤にした高踏な教養をバックボーンに小説を書いたし、あるいは文学創作の果てに歴史に取材し、倫理的、理知的な作風を守った。漱石は『三四郎』、『それから』、『( 12 )』を創作。鴎外森林太郎は、『雁』、「岡田」が主人公の『( 13 )』をものした一方で、『興津弥五右衛門の遺書』など歴史物を数多く手がけている。

 このほか、自然主義文学が見失った人間性の表現の再建を自覚したのが( 14 )派である。『友情』の( 15 )、『城崎にて』の志賀直哉、『或る女』の( 16 )など。( 16 )の兄弟が里見クである。

 大正末年には、漱石門下の作家が活躍する。さすがに余裕派・高踏派の弟子たちであり、知性や合理性を重んじ人間心理の解剖に長けていた。また彼らは大正期の現実に鋭くメスを入れる。漱石に激賞された『鼻』の作者( 17 )や『恩讐の彼方に』の( 18 )らがいる。

 「ぼんやりした不安」を遺書に書き残し、( 17 )は世を去る。昭和初期の社会不安は( 19 )の『蟹工船』や徳永直の『( 20 )』に表現される。プロレタリア文学運動の季節であった。

 この後の文学史は、新感覚派、振興芸術派、新心理主義派に担われることとなる。それぞれ、『伊豆の踊り子』、『掌の小説』の( 21 )、『檸檬』を残し夭折した( 22 )、『氾濫』の( 23 )が、それぞれのポジションを占める作家たちであったといえよう。


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