教採一般教養(その6)

 夏・殷・周・漢・晋・三国・南北朝・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国。悠久の歴史を持つ隣国です。中国の歴史について、ここ、ウィキペディアを参照しながらまとめてみます。

  中国を統一した隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る(  1  )を採用した。文帝の後を継いだ煬帝は、大運河を建設、度重なる遠征を行ったため、民衆の負担が増大し、農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。

 隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。626年に即位した太宗は、租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の(  2  )は、当時世界最大級の都市である。(  2  )は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれた。

 唐の滅亡後、五代十国時代を経て960年に皇帝となって宋を建国したのが趙匡胤である。庶民文化が発達し、また、士大夫の中には新しい学問をもとめる動きが出て、革新儒教として(  3  )が生まれた。

 13世紀初頭にモンゴル高原で、チンギス・ハーンが、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴル人たちは、広大な領域を支配し、モンゴル帝国と呼ばれる。中国もその餌食となる。華北は満州系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴルすなわち元に滅ぼされた。

 モンゴル帝国の5代目の君主に(  4  )が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。(  4  )は中国に軸足を置くようになった。帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。1271年に(  4  )は元を国号として中国支配をすすめた。

 元は、宮廷費用などを浪費しており、塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。この政策は経済の混乱を招き、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した紅巾党の乱であった。紅巾党の中から頭角をあらわした(  5  )は、1368年に南京で皇帝に即位して洪武帝となり明を建国した。同年、元の都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。

 洪武帝の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が「靖難の変」を起こし、朱棣が(  6  )帝として皇帝になった。(  6  )帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。だが経済問題、庶民に対する重税が批判され、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼした。

 17世紀初頭には、現在の中国東北地方でヌルハチが女真族を統一した。その子のホンタイジは中国東北地方と内モンゴルを征服し、1636年にはモンゴル人から元の玉璽を譲られ、清を建国した。李自成が明を滅ぼすと清の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。17世紀後半から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝という3人の賢帝の下で、清の支配領域は版図と呼ぶにふさわしいものであった。

 18世紀が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。しかし、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年宣戦布告した。アヘン戦争と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスをはじめとするヨーロッパの列強による中国の半植民地化が進んだ。

 アヘン戦争後、清朝政府は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカ合衆国・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。結局、1911年の武昌での軍隊蜂起をきっかけに(  7  )が起こり、各地の省が清からの独立を宣言した。翌1912年1月1日、革命派の首領の(  8  )によって南京で中華民国の樹立が宣言された((  8  )は1914年7月に中国革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称、1921年には上海で中国共産党が成立)。北京にいた清の皇帝溥儀(宣統帝)は、清朝政府内部の実力者である(  9  )により退位させられ、清は完全に滅亡した。

 (  7  )により清国が滅亡すると、その旧領の再編をめぐり、漢人主体で設立された中華民国の共和政権と、モンゴル、チベットなどの民族政権などとの間で、相ことなる二種類の主張が展開され、それぞれが自身の主張に基づく国際的地位の確立を目指した。この二つの路線対立の決着をみるのは、中華人民共和国建国後の1950年である。中華人民共和国は、1949年10月、(  10  )が、その成立を宣言した。

 中国史は難しいよ〜


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