浩の教室・第13回勉強会の模様

 昨日は多数のご参加ありがとうございました。連絡の行き違いか、お一人の方が欠席されましたが、次回のご参加をお待ちしております。昨日の4時間は、下に書いていますように、何らかの議論の叩き台になるような教育学の講義をし、少しづつ立ち止まって参加者の問題意識から発する論点を出し合ってもらう形式をとりました。

 そこでは、ちょっとここでは書けない参加者のお勤めの学校における「おはなし」や、障害児教育に関する露骨な、ギリギリの判断を求められるイシューにまで、敢然とメスをいれるということもありました。こうした勉強会の前半部分は、ワタクシとしてもはじめての試みで、有益な刺激を受けました。ややもすると一方通行になりがちな講義スタイルに鉄槌を加えようとし、このような形式で実施したのですけれど、大きな収穫がありました。なによりワタクシの提出した叩き台が叩き台として機能したことが、もっとも喜ばしいことでした。

 個別的なことでいいますと、とりわけ、「理想と現実」をテーマに、教職教養の授業の在り方に対するご批判は、的を射ていると思われます。大学でも、そのほかの学校でも教職教養、たとえば教育原理などは、現実と乖離しすぎていると思いませんか。これはワタクシもかねがね反省しているところなのですが、昨日それがはっきりしました。だいたい美辞麗句の並んだ答申が、果たして厳しい現実に直面している児童生徒そのものになんの意義があるのか。現実を切り盛りしているのは教員そのものであって、そこにどれほどの答申知識が影響を与え学校教育が成立しているのか。そんなのは、現場では机上の空論、答申を考えて授業をするなんてことはまったくないといっていい。

 さらに、教育原理そのものが、ほんとに「原理」たりえるのか。教室の児童生徒を置き去りにした「原理」は机上の弄びにすぎないのではないか。だからこそ、現実=学校世界と理想=教職教養との距離を縮める工夫が是非とも必要になります。原理のテキストなど一字一句に現場の息吹を吹き込む作業は、みなさまの仕事であると断定してしまえば、これほど楽なことはない。しかしいわば息吹の吹き込み方、これをなんとかしようとするのが、教職教養の使命だと思われるのです。

 迂遠なようで初歩から教育に関することを学ぼうとすれば、なんらかのテキストにいざなわれ、そのテキストを乗り越えていく、あるいは自分なりの現実に照らしてテキストクリティクしていく作業が欠かせない、そう思われます。

 昨日の議論でいえば、学習権の議論は60年代、70年代の議論であって、それをそのまま今日に当て嵌めて議論するのは面白くない。それを21世紀の教育社会に適応する形に鋳直してはじめて、学習権の意義が確認できるでしょう。それにしても現代日本は恵まれすぎていて、義務教育は当然、教育を受ける権利は当然なんだと考えている人びとが多いかもしれません。その背後から、公教育を廃止する魔手が迫っているのかもしれません。これはわかりませんが、しかしそうしたことに想像を致すことがややもすると忘れられているとすれば、看過できない点を含んでいるといえるでしょう。

 ただワタクシの問題提起の仕方が古臭いのかもしれません。これを反省材料として、教育原理のあるべき在り方を捉えなおそうと思っています。

 後半は、討論をしていただきました。「あなた方の理想の教師像を語りあってください」というテーマでした。タイミングよくといいますか、叩き台(講義)にマッチしたテーマになりました。討論は初参加の方々のフレッシュな議論になりました。理想の教師像が個別に提出され、それをいかに実現していくか、実践論が話し合われました。

 今後の勉強会では、答申輪読もいたします。批判的な目をもって読む、実現可能な視角から答申を再度教員を目指すものの立場からあぶりだす、そんなふうな方向で、精読していこうと思っています。

 さて来週の土曜日はTsudoiを開催いたします。ご案内を送付させていただいた方々、ふるってご参加お願申し上げます。Tsudoiはいわゆる「勉強会」での由無し事を肴とした「呑み会」だと思っていただければ結構です

上の写真は勉強会の教室風景です。

(2004年10月2日)

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