浩の教室・第11回勉強会の模様

 本日は第11回「浩の教室」主宰勉強会に参加いただき、ありがとうございました。本日もお忙しい中、たくさんご参集くださり、魅力ある議論が行なわれ、充実した時間を過ごすことができました。また、今年度1次で涙を呑まれたにもかかわらず、巻き返しをはかる強い意欲から、参加された方もいらっしゃり、教職をめざすつよい覚悟を感じました。大阪2次の極めて緻密な報告も、お聞きすることができました。

 勉強会の後、河岸を代えての自由参加・「コーヒー会」にもお残りくださり、最初から最後までいた方なら、正味7時間はお話ししていたでしょうか。次回、第12回においても、2次の報告を臨場感持って語っていただける方が参加していただけるようですので、ここにお伝えいたします。また、「大阪2次の極めて緻密な報告」は、再度同内容のことを報告しても構わないという快いお申し出もありまして、ひろく2次一般の在り方をお知りになりたい方にとっても有益ではなかろうかと思われます。さらにある方から、横浜・岡山の2次試験報告の詳細なまとめノートをも提供いただきました。今後勉強会に参加いただける方に配布できればと思っております。もちろんこれには提供者の許可が必要でありまして、その条件を確認してからのことといたします。第12回当日までには、その結果がわかるでしょう。

 さて本日は11名(男性5名、女性6名)の方に議論していただきました。今回も喧喧諤諤、なんと形容していいか、そうですね、難しいですな、いや、カギカッコ付きでいわせていただくと、「うーむ」討論でありました。この「うーむ」というのは、非常に魅力的でありまして、「みんなで討論する内容そのものや討論姿勢を、オープンに忌憚なく、誠実な理解の上で批判する」という当会合の基本姿勢を守りつつ、自由に議論できているということを意味します。ひとことでいうと「シゲキテキー」ということでしょう。

 討論の場面では叩き合うことや納得できないことをトコトン追及する、しかし、コーヒーの場面では、そんなことを根にもたず、ザックバランになる…非常にいい姿勢ではないかと思われるのです。カントの言葉に、「私は、議論は2人ではしない、3人以上でする」という内容の言葉がありますが、味わうべき至言でしょう。ワタクシたちの勉強会は、行司が多いわけです。それゆえにこそ、客観的判断や生み出された価値を共有できるということなのです。

 第1のメンバーの討論が、まさにそうした討論形態であったわけでして、テーマは「教員の資質として必要なことをまず一言づつ報告し、それらをもとに一般の社会人と教員の違いをどのように捉えるか、(教員に)直す点があれば議論してください」という一歩踏み込んだものでした。なぜ「踏み込んでいる」のかといいますと、「直す点」にまで立ち入って議論することは、採用試験ではなかなかないと思われるからです。しかし、そこに踏み込むことによって、現在の教員世界の問題状況を委員会の方々にも、いい意味で伝えられるという含みを、このテーマにワタクシはもたせていました。

 討論では、「一言報告」でまず、謙虚さ、教員こそ社会人の代表という意識を持つこと、生徒にこうなってほしいという意図をしっかりつこと、他者の視点に立てる態度を伝えること、プロ意識をもつこと、が提出されました。論争的になったトピックのひとつに、全体の奉仕者としての立場をどのように捉えるか、がありました。そして教員の社会貢献のあり方はどのような形で実現するのか、それを探ることが「直す点」のトピックのひとつになりました。
 
 民間の方が所属企業に深くコミットし、利潤追求のために働く姿勢をみせるのとパラレルに、教員は、税金から給与をいただくかぎり、対費用効果をたかめつつ、住民の一員を育てる使命が課されます。税金の使途にコスト意識をすべりこませるとすれば、これは民間のコスト意識を学ばなければならないことになります。ミスコピーをそのまま捨ててしまう学校現場があったとしたら是正しなければならないでしょう。それから、一般人⇒会社の発展のために働くこと、教員⇒国あるいは自治体の発展のために働くことという図式的一刀両断には、対象は違うが発展に向けての姿勢に共通点はあるものの、内容的にはさらなる吟味が必要なように感じ取れました。

 この問題意識に付随して、企業の社会貢献としてメセナ(文化貢献事業)の議論が登場します。このメセナをめぐっても、見解の相違から、いいかえれば「全体の奉仕者性」は公務員一般に課されるだけでなく、それに近いものが利潤追求を眼目とする企業にも、理想として存在するのだということで論争になりました。また、メセナは詰るところ大企業の広告効果をねらったもので純粋な文化的貢献ではないという本音も飛び出しました。企業が社会的貢献を掲げ、社会に理想を投げかけないと、その存在意義は薄っぺらいものになりかねません。

 たとえばトヨタやホンダがエコカーを実用化するのも、例の「環境にやさしい」を企業理念のひとつとしてもっているからでしょう。企業人が「顧客にぺこぺこする」ばかりという辛辣なご意見もでましたが、それに反論するご意見も当然でまして、フトコロの深い議論になりました。やみくもに「ぺこぺこ」は企業であってもできない、提案型の態度で顧客と対応することこそとるべき姿勢であるということでした。

 ところで、技術立国日本が、たとえば我が国で使い古した飛行機を、経済的に貧しい国へ売り払うのは、どうもいただけませんね。自国の安全基準を超えたマイル数のジャンボをまだ使えるがゆえに売り払う…。どうも矛盾があります。走行過剰乗合バスの輸出も、同様の問題性をはらんでいます。討論の最終段階において、営利は、最小労力で最大利益を追求し、教育は、最大労力で最小利益かもしれぬ、そうした意識が参加者に存することは、教育に賭ける意識の尊さを再確認できたという意味で、年寄りのワタクシなどはうれしい気持ちになりました。「人格の完成」に職を奉ずる気持ちこそ、教員をつづけていく原動力となるのでしょう。

 人をつくるか、金をつくるか、モノをつくるか、共通点と相違点を定める座標をしっかりさせながら、討論を積み重ねることができるかどうかに、内容的なポイントがあるように思われます。

 討論の形式面では見解の相違もありました。それは主観の相違によるところが多分にあり、その食い違った視点を掘り下げることから、それぞれの立場に立つものが、自分に生かせるところを取捨選択すれば問題ないと思われます。

 第2のテーマは、「評価は難しい仕事です。あなた方が評価について工夫したいところはどんなところですか、議論してください」というものでした。討論の出だしに、「成績をつけるのは悩む」と講師的現実を吐露していただきましたが、これはワタクシも含め、教員や教員を目指すものならば誰しもが抱いている感覚といえますね。

 さて、「評価」がキーワードですから、絶対評価や相対評価、到達度評価が議論にでてくることは当然予測されました。しかし問題はそれを自分の工夫・提案として色付けできるかどうか、そこにこのテーマの本質があります。こうした、評価をめぐるいわば制度的な枠組の議論は開始数分で終わり、評価する教員の姿勢、つまりワタクシたち自身の心構えを論じ合うように変化しました。それが「工夫」としてあらわれました。テーマの本質を捉えている証拠でしょう。

 議論を見守っていて、このような流れる転換は、論旨の節目がはっきり認識できて聞きやすかったことを「評価」いたします。その転換以後は、評価が生徒だけでなく先生の自己反省を求めるものなのであって、そのために生徒の実態把握が欠かせない、ということがちらほらでました。つまりは、多様に、複数の角度から生徒をみつめ把握する能力がワタクシたちになければならないのであり、生徒の生活をつかまなければならない。だが、このことに関する教員間の情報交換は思ったより難しく、ここをどのように解消するか。それは連絡の場の設置ということになります。

 評価にぶれや揺るぎがあってはなりませんから、ある程度は職員会議または教科担当者会議で共通した評価基準を設けなければなりません。しかし、これはワタクシの感想ですが、今日、校長の上意下達機関と化している職員会議で基準決定が実現できるかどうか、さらには生活態度を個々の生徒に密着して観察できる余裕があるかどうかという疑問ももってしまいました。しかし、できないと諦めたらそこで終わりでして、若々しく理想を語った解消策の提案があればよかったなとおしみます。

 それから、「先生の自己反省」ということに関しては、カリキュラム編成に対する反省をも議論の俎上にのせることができればよかったと思います。

 さてさて「工夫」ということに立ち戻ると、成績を減点方式でなく加点的態度で実施する手法を採用したいとご意見が出ました。さらに、点数ということから外発的動機付けから内発的意欲に転換する手法に話しがおよびました。大の大人がスヌーピーの「よくできました」のハンコをカバンにしのばせているのは、結構お茶目であります。電車で忘れ物しないことを祈ります。ところで評価とは、生徒を前進させるものでなければならないという名言もありました。評価という言葉そのものを問題視する指摘もでました。ところが、よく考えてみると、生徒は「評価」という言葉にではなく「通信簿」という言葉にあるいは「怯えて」いるのですね。「評価」という言葉は先生たちの言葉であるということを再認識いたしました。

 そして、次に進めるよう「がんばるんだ」と書き添えることが、通信簿を無味乾燥な文書状態から抜け出させるコツであり、○×ではなく、「おしい、もうちょっと、だめ」というような表現を中学生に対しても有効に使うことによって、前に進める意欲を賦与できるのではないかとの指摘がありました。それはポートフォリオ評価の可能性を論ずることでもあります。つまり単なる記号評価が文章を伴った評価スタイルになり、さらに写真入り冊子になる。ワタクシは、権威ある文書としての通信簿を、「少年サンデー」ばりの厚みにして、こんこんと「多角的評価」を述べてもいいのではないかと、討論後、少し乱暴なコメントをいたしました。

 他方、記号評価の意味を問い直す発言もありました。誰もがパッと見てわかる評価をすることも現実的な意味を持っています。進路を決定するのに言葉の評価だけでは読み返すのが困難あるいは入試選別上シンドイということになるとすれば、5段階評価も価値が全くないわけではなく、その活用の仕方にかかっているといえます。したがって、相対評価と絶対評価のどちらを採用するかでもめている大阪の悩みは、先生の卵たる教採受験生の悩みでもあることを鮮やかに示しています。

 4と5の違いを教員は保護者に尋ねられ絶句することしばしばだとすれば、それは確定数値を安易に決定したと批判されても不思議ではありません。数値の持つ重みを知り繊細に扱う姿勢が生徒の信頼を得る道です。生徒指導だけが人としての行為振る舞いを教えるものではなく、成績のつけ方もそれを教えるものでしょう。冒頭に「成績をつけるのは悩む」とあるのはこのあたりの感慨なのですね

(2004年9月9日)

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