浩の教室・第20回勉強会の模様

 さて、この土曜、勉強会に参加していただいた14名(男性6名、女性8名)のみなさま、お疲れさまでした。昨日の議論は大変パワフルな感じだったような気がします。さすがに年明け2週間経ち、みなさん「勉強モード」になっている証拠ですね。

 まず、みなさん議論の叩き台となる講義をワタクシの方から提供しました。一番の関心は、「高3や浪人で培った学力が大学入学とともに散っていく」ので、意図的教育としての学校教育の効果効率はあまりよいものではないのではないか、というところにありました。参加者の方々に、義務教育、高校教育における学習内容に関し強くおぼえていることはありますか、と聞いたのですが、なかなか言葉にならない。口をついて出てくるのは、道徳的な訓戒についてでした。ワタクシも生活指導教官に叱られたクチですので、よく記憶しています。強制される学習、受身の勉強では、剥離する学力しかつかないようです。

 こうした意見がある一方で、「いやいや、数学や英語の実質的内容は忘れているかもしれないが、数学で手順を踏んで考える論理的思考は、いまも役立っているのではないか」と、知らず識らずのうちにワタクシたちが物事の段取りを手際よくできているのも、見えないところで教科教育の恩恵を受けているからではなかろうか、というご意見もありました。
 ワタクシたちは、いわゆる実質陶冶ではなく形式陶冶されているということですね。本来学習はそういうものであると思います。学校教育で学んだことを端から端まで記憶している児童生徒はいないでしょう。中学レベルの内容でも、それをすべて記憶している大人はいません。学ぶ側にひっかかりがなければ、強制教育による学習内容は定着しないのですね。ロック的教育思想がやはり教育の本質といえるでしょう。

 そのために単純なドリル的学習も、逆説的ですが必要不可欠な練習となります。「生きる力」は、こうした作業によって身に付く力なんですよね。なのに電卓持込学習は解せないところです。

 次に、答申輪読では、「これからの教育を語る懇談会」の一次まとめを読みました。このまとめは、去年今年、来年の教育的ロードマップといっていいものです。そこで使われている「人間力」とはなにか、定義を考えることから出発しました。前文科相はどういう意味でこの術語を使ったのでしょうか。

 イロイロみなさんに聞いてみましたが、結論的には「生きる力」の言い換えに過ぎないのではないか、ということにおさまりました。人間力は知徳体の総合されたパワーであると考えるほかないからです。

 そして、この懇談会のメンバーについて考察しました。財界からは「トヨタの人」、「イエローハットの人」がタッグで入っています。それから「ウシオの人」。教育界からは大学教授、あの、ケンケン女史がはいっているとは、いい意味で、びっくりしました。教育行政からは金沢市教育長、改革派知事代表でしょうか、鳥取の片山氏。そのほか、作家の森さん。この方は地方紙の編集長もしていた方ではなかったでしょうか。多士済済のこうしたメンバーがどんなことを語ってくれるのか、既定路線の確認的発言じゃない斬新さを求めたいものです。その具体的方策を検討するのは来週以降になります。しかしなんだか既定的なんだな、これが。

 ところで、この懇談会のいう「知識社会への変貌」に関連し、ワタクシたちの社会は、いわゆる明日が見えない社会、希望がない社会、というのは本当に本当なのかという疑問を呈しました。この問題提起は、「希望格差社会」などと現代社会がいわれる状況に鑑み、大胆に反論するものいいのつもりでした。

 つまり、細木占い師?がどうイチャモンつけようと、「ほりえもん」は「勝ち組」の代表で、希望をもって社会に挑み自己実現できた人物ではないのか。とすれば、そうした人間を生み出すこの社会は希望がどこにでも転がっている社会なのではないか。高度経済成長時の、歯車的で自分をおし殺し、辛抱に辛抱を重ねる生き方に、希望はあったのか。安定と引き換えに希望を封印し、組織に忠誠を尽す60年代の方が、現在よりよっぽど希望のない社会なのではないか。

 しかし、現実にはこの社会に生きる多くの人間が、希望のない社会であると見ている。ワタクシはこの社会を、さしあたって「ラスベガス社会」と呼びました。煌びやかな「100億稼ぐ男」=「ほりえもん」ほか、成功者のイルミネーションがちらちらし、みながそれになろうと希望をもっている。しかし、ラスベガスの路地をある、一枚のコインを探す「浮浪者」もいる。この悲惨な状態は、企業年金が削減され、いわんや公的な社会保障が「保障」の意味をなさない事態によって増幅される。セーフティネットが断ち切られたワタクシたちが、ラスベガス社会を生き抜くにはどうすればよいのか。負ければ一層復活できないラスベガス社会、しかしそこは希望に満ちている。

 こうして、21世紀にまた、パンドラの箱が開けられた。では誰が開けたのか。みなさん、来週までに考えてみてください。

 最後に集団討論をしました。「学校の週5日制によって授業時間が減ったことに対応するため、小、中学校の現行の学習指導要領はそれ以前より3割削られた。02年度から今年度まで使われる小学校の教科書は、これに則した内容だが、05年度からは削られた内容が復活します。指導の抱負を語ってください」というテーマでした。台形の面積のだし方などが復活の代表例でしょう。討論では、小学校志望の方が少なかったせいか、そして、養教の方もいらっしゃり、教科に即した「復活内容」に議論が集中するのではなく、復活前後の指導の違い、復活したことのメリット、量と時間の問題をどう解消するか、などとの視角から語られました。

 最初の問題提起が討論を支配する傾向があることは否定できません。その意味で最初の発言者が主導権を握ります。この討論でも、「同じ授業時数で内容量が増加すれば、授業進行スピードがあがらざるをえない。おいてきぼりが増えるのではないか」との切り口が支配したと思われます。議論の筋道は、これに答える方向で進展していきます。

 授業スピードが速くなると、どうしてもついてくることができない児童生徒がでてきます。「おいてきぼり」をどのように解消すればいいのでしょうか。この問題提起に対し、少ない割り当て時間の中で、クロスカリキュラムや融合カリキュラム的に教えるべき内容を組み合わせ、関連をもたせて教えるのはどうか、とのご意見があがりました。そして、家庭学習に応援を求め、計算問題など、反復学習は宿題の形や、朝や放課後の時間を使って補填すればいい、これがひとつの解消策になるというご意見がつづきました。

 このご意見を受け、教科以外の子どもの学びを削らないようにしたいのだがどうすればいいか、子どもの自由時間が減るのも、豊かな人間性を開発するためにはもったいないことである、との応答がありました。

 そして、ここで話題が転換したように思います。そのつながりが少しわかりにくかったのですけれど、3割削減の復活は、児童生徒には重たく感じられるであろうというご意見がでました。参加者ご自身の経験からいって、削減内容が復活されたとしても、まだまだ学習量全体は少ないと感想を出されました。しかし、それでもいままでなかった内容が登場するわけですから、児童生徒の学習状況を目の届く範囲におかなければならない。そのために小人数教育体制をとるべきであろうとのご意見です。そうしないと、「おいてきぼり」=「落ちこぼし」が増える…。

 「落ちこぼし」をなくすには、習熟度別の補習が有効であり、教員間で教育方法、教育技術の交換を促進し、教員同士の連携が大切になってきます。

 翻って、教育内容の復活は、いい面もあるのではないか、との提起がありました。とりわけ、自然科学系教科を担当される先生の方から、こうしたご意見が出ると思われます。なぜなら系統的な学習が理科や数学の効果的な指導を可能とするからです。つまり、いままで削られていた内容は、復活したことによって理解促進のために好都合になるとのご意見です。学習計画における「穴ぼこ」が逆になくなり、指導しやすくなるのではないか。「なぜ、そうなるのか」の疑問を児童生徒は発見しやすくなるし、教員の側も滑らかに教え切れるのではないか。こうした発言がありました。

 確かにそうでしょう。週5日制では終了できないほど教科内容量が増えたとしても、先の教育技術の相互交換で指導に期待がもてるかもしれませんね。こうした前向きの姿勢はいいですね。

 逆に、復活した内容を全部が全部教える必要もないので、飛ばすところもある。これをちゃんと保護者に伝えることも教員の仕事であるとの確認がはいりました。

 ほぼ、こうした感じで討論が終了しました。志望教科を異にする参加者の討論ですので、各教科においてどういうところが復活したのか、あえて言及されることはありませんでしたが、本番では教科を同じくする方々が集いますから、復活の内容を確認しておくことを忘れないでくださいね。

 以上、時間20分の討論にあって、多様な観点が提出され、嬉しく思いました。

(2005年1月15日)

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