浩の教室・第22回勉強会の模様

 先日は勉強会に参加していただき、ありがとうございました。男性6名、女性6名の計12名の方々のご参集を得ることができました。当日は、議論のたたき台となる講義と、「個人面接対策としての『個人解剖』の試み」を行ないました。

 講義では、みなさまから考えさせられるポイントを多々提出していただき、ワタクシの考え方をあるいは「修正」しなければならないところまで「追い詰め」られました。その議論の中心は、生涯学習あるいは生涯教育についてです。いまワタクシの考えている生涯学習に関するポイントを示しつつ、議論を整理してみることとします。

 いうまでもなく生涯学習あるいは生涯教育とは、ユネスコでラングランが主張した教育形態の「新しい」在り方です。ラングランは生涯教育といっています。

 生涯「教育」というか、生涯「学習」というかには、かなりの隔たりがあると思います。生涯「教育」という場合、行政からの教育的プレゼントあるいは民間業者からのサービスを受けとって、学ばせられるといった感覚が濃厚です。お仕着せの教育がそこには確認されるように思われます。それに対し、生涯「学習」と表現する場合には、学習者の主体性が前面にでて、まさに「自ら学び考える」ニュアンスが溢れ出ています。

 臨教審が、学歴社会を打破し、それに代わるに生涯教育社会を用意しようとしたことは周知の事実でしょう。その理念はよかった。生涯教育社会を実現するため、多様な教育の在り方が提起され、単位制高校や総合学科が登場することになったからです。

 ここまでの基礎的な共通理解を踏まえて、議論は次の段階に進んでいきます。それはなにか。生涯教育であろうと生涯学習であろうと、その推進に反対であるワタクシは、自己の主張をみなさんにぶつけました。反対の根拠は、「生涯学習の主体性のなさ」にあります。学ぶものの側に、学ぶ意志が薄弱なのではないか、現段階ではどうも「やらされている生涯学習」になっているのではないか、ということです。また、生涯学習の名を借りて、商業主義が蔓延っているのではないか、ということです。かなりに挑発的な問題提起でもあったわけですが、こうした生涯学習否定論に対し、イロイロご意見をいただきました。

 生涯学習を推進する多様な母体が存在することは、学びのチャンスを増やすので、よいのではないか、とまず反論がでました。4回講座で2000円くらいの、たとえば「アロマテラピー講座」なら、おサイフにもやさしく、そのさわりに触れることができる。さらに興味をもてば、アロマのお店を持つにまで至ることもある。これを一般化していえば、「学びの最初の入り口になる」ということです。また、安価な値段でペン字を学べるのはいいのではないか。「1日20分」のキャッチは、時間のなかなかとれない「主婦層」の心も捉えるし、実際効果がある、という反論もありました。

 さらには、職業訓練学校の学費給付制度を活用して、CADの資格をとったり、簿記の免許をとったり、そうした活用の仕方がある。行政サービスのなかにも、見逃しえないものがある…。実際、教員免許と関連し、商業科の免許獲得のために簿記資格は必須でしょう。ここからは、生涯教育という「教育」に「結果を出す」ことが「強制」されているという問題点もあるような気がします。

 学びの入り口であったり、資格修得であったり、それ自体は否定できないし、生涯学習の肯定的な側面です。このあたりはワタクシも「生涯学習否定論」を貫く態度を反省しなければなりませんね。しかし、その学びに「継続性」、「方法論」、「市民性」があるかどうかは、是非とも検討しなければならない観点であると思うのです。

 たとえばアロマはいい、4回受けて終了。ああ楽しかった。これでは、学びの継続性がありません。これでもいいといえば、それまでなのですが、表面的な知識の趣味的な獲得は、人生のある部分を潤しつつも、結局、義務教育の問題と同じく「剥離」していくのではないでしょうか。100人アロマ講座を受講して、店まで開く人は1人いるかいないかでしょう。

 生涯学習の各講座は、学びの方法論を伝えてくれるでしょうか。これは甚だ疑問です。自分の力で新しいなにかを創造したり、趣味的な講座であっても学んだことをまとめるところまで進めるかどうか。これまた、そうした深いところまで求めるものではないいわれれば、そこまでになってしまいます。

 さて、こう考えてくると、生涯学習講座にも2種類あると思われるのです。ひとつは趣味的講座≒「遊びの延長」。これは言葉の使い方に注意しなければなりませんが、おおよそ、こう考えていいでしょう。もうひとつは、資格修得講座です。こちらは、宅建ほか国家資格を含めたもので、ハウツー講座といえます。こちらも、資格を修得すれば終了、それ以上の学びの展開を、主宰者も受講者もなかなか自覚できないものであるといえるでしょう。もちろん、資格の数には際限がなく、マニアも生み出しているほどです。だが、それは資格間に有機的な連絡はないように思えます。コレクション的資格修得でしょう。ひとつ思いつく例外は、英語系の資格類でしょう。英検、国連英検、TOEICなど、英語世界の実力を測定する資格類は、統一間がうかがわれるからです。しかも、こうした資格の背後に英語の学問世界があります。だから、そこには方法論も当然あるし、それを身につけたいと思っている方が大半でしょう。

 最後に「市民性」の問題があります。学びの主体が市民であるとき、生涯学習が最終的に成立するとワタクシは考えています。行政サービスとしてあった講座が基盤となったとしても、そこから市民的な横の連帯が強まり、新しい学びの在り方を個々に追求するミニ集団が生れ出て、自発的に学びのサークル活動が、深海から海上に上昇する小さな小さな泡粒のように、社会にでてくること、こうした動きを潜在させている学びや学びの集団が生涯学習に値するのではないかということです。

 ところで、個人の学びへの関わり方が問題だ、たとえば、資格も個人がとるものだから、その個人がどこまでがんばるか、なのである、とのご意見をいただき、そこにこの議論は収まったようにみえました。しかし、これにはワタクシは不満だったのです。なぜなら、こういってしまうと、講座に提供できる経済力も含めて、すべてが個人の態度になってしまい、なにも生涯学習をいいだす必然性がないのではないかと思うからです。そうした点では、「生涯教育という名前がなんで新しいのかわからなかった。なぜ『新しい理念』なのかわからなかった」とつぶやかれた疑問は、問題の考察に示唆的であったわけです。

 まだまだ、生涯学習に関してはまとまりがつきません。

 生涯学習の美名の下に、商業主義が蔓延り、儲け主義に学びが従属する。芸能人を使ったCMをたれ流し、人びとを「なんかやらなあかんのかなあ」と心情的に追い込むやり方は、生涯学習のあるべき在り方とはどうしても思えない。また、「儲け」のことからいえば、かなりの違いがある。行政サービス的生涯学習は、テレビCMをうたないし、その分、宣伝力は弱い。しかし、講座料金は格安である。開催回数にもよりますが、アロマでもその他趣味的講座でも、2000円〜5000円でしょう。ところが民間の商業主義的生涯学習は、その5倍から10倍は料金がかかる。どうも、「学びを金にする」ということに、ワタクシは怒りを覚えているようです。

 生涯学習でもなんでも教育には金がかかる。それは疑いありません。しかし、義務教育そのほか教育一般に資本の論理が入りすぎると、崩壊する。これも疑いありません。勉強会参加者のみなさんとともに、もう少し考察することにします。

 「個人解剖の試み」については、そのための「シート」を公表することにしましょう。

(2005年1月29日)

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