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浩の教室・第57回勉強会の模様


 昨日は、第57回当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。今回、12月から当サイトのこくばんマスターを新しく担当いただく大阪府高校教員のルパンさんに、それから、小学校教員の方にご参加いただきました。ありがとうございました。来年2月から予定されている、「浩の教室学生有志(このリンクは昨年の要領です。来年2月からの開催も、場所未定〈たぶん大阪市内になります〉ですが、ほぼ同じような要領で開催されます。)主催・自然科学系一般教養勉強会」にも、お力を貸してくださいます。月1、2回のペースで実施されます。

 当日は、配布資料多く、参加者によりましては70枚を越えてしまいました。コピー代をご負担いただきありがとうございました。ようやく大阪府の1次試験の教職教養問題の解答解説を配り終え、口頭での解説も残すところあと3題となりました。次回12月4日には、神戸市の教職教養の解答解説の前半をお配りする予定です。こちらも大阪の問題と同様、豊富な資料を引用しつつ口頭解説をいたします。

 勉強会はまず、この大阪府の過去問を検討することからはじめました。フロイトとロジャースについての簡単な説明、人権教育に関する問題の詳細、文部科学省の教育白書からの出題、特別支援教育の課題について、実施しました。このうち、人権教育については、前回お配りした「人権教育の指導方法等の在り方について」(第1次とりまとめ)を参照してください。なお、この10月のおわりに、人権教育の指導方法等に関する調査研究会議が第2次とりまとめ〔案〕を出しましたので、これを年明けに検討する予定です。

 次に、新しく、キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議が昨年1月に報告した「児童生徒一人一人の勤労観、職業観を育てるために−の骨子」を資料提供し、参加者のみなさんからご意見をいただきながら、ワタクシなりの解説を加え、検討していきました。果たして、初等教育段階からのキャリア教育とはどのようなものなのでしょうか。なかなかこれを想像することができず、今回ご参加いただいた大阪府の現役小学校教員の方から具体例をお話いただきました。ありがとうございました。

 そして、キャリア教育の推進の議論をいわば「逆手」にとって、では、ワタクシたちはなぜ職業として教員をめざすのか、めざしているのか、このことについて数名の方にスポットをあてて個別的にやりとりをいたしました。その具体的な内容は個人情報を含むものですからここには記載いたしませんが、社会人としての経験と学校教育に携わることとがどのように関係するのか、公立の学校と私立の学校、教育産業としての塾との相違はどこにあるのか、などといった、ワタクシたち教員をめざすものが考えなければならない論点を含んだものであることだけをお伝えいたします。

 最後に、集団討論をいたしました。テーマは、「現在、教育現場においてゼロトレランスといわれる指導を取り入れようと検討されつつあります。あなた方は、このことについてどのように思われますか」です。今回の勉強会では、新しくご参加いただいた方が多い中、恐縮ではありましたが、この、文部科学省で現在その検討部会の設置が予定されているゼロトレランスについて、参加者のみなさんがどのような意識をお持ちであるのかを知りたく、テーマとして選択したのです。

 はじめてこのカタカナ単語をお聞きになる当サイト閲覧者もいらっしゃることでしょうから、少しだけ新聞報道を引用しつつご紹介いたします。

 産経新聞は、今月13日に、次のように報道しています。「米国で麻薬や銃、暴力が蔓延した学校の再生に効果をあげたとされる生徒指導方針『ゼロトレランス(毅然とした対応)』について、文部科学省は、日本の教育現場への応用の可能性を探るため、専門家による調査研究会議を設置する方針を決めた。国内でも学校内外で生徒による凶悪事件や薬物犯罪が相次いでおり、米国流の厳格な生徒指導を取り入れることで、学校の秩序や規律を取り戻し、安心して通える学校を確立したいとの強い思惑がある」ということです。ここでわかるように日本社会のアメリカ化が進行している現状にあって、厳格な生徒指導を学校に導入しようということです。たしかに大人社会も学校世界も、ある程度アメリカナイズされていることは否定できませんが、しかし、銃社会のアメリカと、そうでない日本とを、同日に語ることもできません。この辺りに議論のひとつのポイントがありそうです。

 産経新聞は、つづいて「ゼロトレランス」の出発についてこう書いています。「『ゼロトレランス』は直訳すると『寛容さゼロ』の意味」ということです。「一九九七年、クリントン大統領(当時)が全米に呼びかけ浸透させた。学校が明確な罰則規定を定めた行動規範を生徒・保護者に示し、破った生徒にはただちに責任を取らせる。それまで教育現場で支配的だった、生徒の事情をよく聴き、生徒理解に重点を置いて指導する『ガイダンス』と呼ばれる手法とは一線を画し、絶対に許容しない厳格さで臨む」やり方が、これまた日本の学校世界になじむものかどうか。これが第2のポイントになるでしょう。そして、このゼロトレランスの導入が実際実現するとすれば、いままでの教育相談つまり大阪府の過去問にも登場したロジャーズ流の共感的、受容的カウンセリングが支配的である相談体制が崩壊してしまいます。

 さて、こうしたあまりまだ耳慣れないテーマについて、集団討論に挑んでくださった勉強会のメンバーはどのように議論したのでしょうか。このテーマに、新しく勉強会にご参加いただいた方も含め、7名の方にチャレンジしていただきました。

 まず、Cさんから、ゼロトレランス導入についてはその是非の判断がつかないと述べられ、なぜなら、銃社会ではない日本が、アメリカ流の厳格な措置を取り入れるのは社会的現状にあっていないと思われると発言されました。この感覚は当然の感覚であり、日本的な生徒指導の在り方を再考することから出発しないと、ただ西洋流の模倣になると思われますね。

 このCさんのご意見を受け、Gさんが論点を整理する形で提供しつつ、ゼロトレランス導入反対の意思を明確にされました。その論拠は、Gさん曰く、@厳罰化は、義務教育においては「教育を受ける権利」を侵害することにならないか、たとえば、「悪いこと」をすればすぐさま教室から退場させるのは、行き過ぎではないか、Aゼロトレランスは、決まった児童生徒に適用されないか、いわゆる「目を付けた」児童生徒にその適用が集中する、そのことはまた権利侵害になりうる、B保護者にあってはどう考えていただくのかその説明が困難であろう、と発言されました。Gさんは、このように法的観点から鋭く論点整理され、よくわかる一方、3点も提出されるとそれに他の参加者がなかなか対応しにくいところがありました。内容的には素晴らしいのですけど、それに瞬時に返答するのは大変難しいことでしょう。集団討論の難しさはこうしたところにもあります。たとえば、レジュメがあって、3点を順次述べていくのには、聞いている側は対応できます。しかし、他の参加者も発言主体ですので、そこのところをかんがえますと、1点づつ、いい意味で細切れに発言を積み重ねた方が、集団に対する貢献度が高くなるように感じます。

 このCさんのご意見に対し、Fさんは、自己の教育体験から、ゼロトレランス導入賛成意見を展開されました。これも納得いくご意見でした。すなわち、私の出身の中学校は大変荒れていた、受験勉強の時期、成績があまりよくない生徒、勉強を放擲したようにみえる生徒の中には、実際、器物破損行為に出たものもいるし、対教師暴力もあった。甘く対応するとつけこんでくる生徒に手を焼いていた先生方のことを思うと、厳しく対応するのは一理あるのではないか、とのことです。Fさんは、しかし、厳罰化であって、児童生徒を切り捨てるのではないと強調されていらっしゃいました。勉強ができないからそれで終わりというものではない、失敗も人生の肥やしになるということをしっかり伝えていきたいと抱負をも語られました。

 Bさんからは、ゼロトレランスを導入する場合でも、その基準が問題となるのではないかと提案されました。私たち教員の役割は未熟な児童生徒を導いていく存在であって、彼らの自立を支援することが仕事であると発言され、たとえば、児童生徒がしていいこと悪いことの境界を自覚するために教員の側がくっきりとした基準=Bさんのいわれる「カベ」を設けてもいいのではないか。ゼロトレランスだと究極の措置になり得る。しかし一定程度の基準の設定は、学校全体の承認の下、実現可能なのではないか、というニュアンスで発言されたように思えました。

 Aさんは、この導入にはっきり反対を唱えられました。たとえば学校内外で、「反社会的行為」を児童生徒がするということは、その理由として、彼らになんらかの不満があるからにちがいないので、それに対応しないまま、厳罰化を進めていくのは問題であるということです。そして、私たちはたとえ児童生徒を切り捨てしないといっていても、もしも厳罰措置をとれば、結果的に切り捨て対応することになり、客観的には切り捨てているようにみえないか、と発言されました。ただし、叱るときは叱る、そうした態度は教員の生徒指導の基礎であると付け加えられました。

 こうした賛成、反対論が登場する中、Eさんは、「事実の把握」ということを述べられました。ゼロトレランス導入まずありき、ではなく、教員が児童生徒を本当にちゃんとみつめているかどうか、Eさんは自省しながら生徒理解をはじめたいと述べられたのです。人間としてしてはならないこと、いのちの大切さ、こうしたことを軽く見る児童生徒には、それこそ毅然とした態度で対応し、学業の妨げになる私語についても、それ相当の指導が必要であるということです。私語は、今何をするべきかということを児童生徒がわかっていないわけで、そうした指摘をした上での最終手段がゼロトレランスの導入でしょう、とご意見されました。このテーマは、ゼロトレランスの意味を知っていないと議論に加われないように思えますが、実はそうではなく、生徒指導とは何か、これが隠されたテーマだったのです。そうしたポイントを見事についていた発言といえるでしょう。討論の終了後、今回の勉強会の参加者の間で評価が高かった発言でした。

 Dさんは、Eさんの発言を受けつつ、ご自身の「学びんぐ」のご経験から、生徒指導にあっては、「みのがし」も「かまいすぎ」も両方問題であるといわれ、児童生徒と教員との微妙なやりとりを考えなければならないと述べられました。さらに、新しい視点として、体罰についてはどこからどこまでが体罰なのか常に問題になるが、このゼロトレランスを導入した場合も、その導入根拠や導入後の適用についても、体罰と同じように法的問題点が出てくるのではないかということを提供されました。たしかにこの視点も重要で、上の基準の問題が社会的にどう受けとめられるかまでを視野に入れた議論といえます。体罰と懲戒の境目と同様、トレランスとゼロトレランスの申し渡しの境目は、一体だれがどう判断するのか、それを保護者や地域を含めた社会一般がどうみるか、難しい問題です。さらに、出席停止措置がある意味「有名無実」化している現状で、ゼロトレランスといっても、効果があるのかどうかワタクシも疑問です。日本には日本流のやり方が必ずあるはずで、教育までアメリカに右向け右である必要もありません。なにしろ日本の義務教育は世界でもっとも発達した制度なのですから。

 Gさんは、Eさん、Dさんのご意見を受け、ゼロトレランスの基準がアイマイになることを恐れつつ、もしもこの措置の導入によって児童生徒が選別されるようなことになれば、子どもの将来にとってプラスにならないと発言されました。学習指導が能力的選別体制を必ず児童生徒に刻印付け、ゼロトレランスの導入が生徒指導的ニアリーイコール人格的選別体制を表現するとすれば、ゼロトレランス経験をしてしまった児童生徒はレッテル貼りされることになります。児童生徒は未成年です。少年法で保護されている存在です。そうした児童生徒が学校内でレッテルを貼られ、地域で疎外される危険性のあるこのゼロトレランス制度の運用は、学校設置者に慎重な姿勢を求められるでしょう。

 このように制度論に議論が及んだところで、Cさんから、Dさんのご意見を受けながら、ゼロトレランスの導入を前提にした場合、学校一律にこれを導入できるかどうか疑問であると発言がありました。教え諭すのが教員であって、体罰と同じように社会的批判が出てこないともいえないと述べられました。学校で一律にゼロトレランスの運用ができるかどうか、もうこれは、学校教育法施行規則の世界になるでしょう。教育的指導が、法規のまといを完全に借りた場合、どのようになっていくのでしょうか。考えさせられる発言です。アメリカは銃社会であると同時に訴訟社会でもあるわけです。法的権利、自己主張の強いお国柄です。ところが日本はまだまだそこまでバッサリした社会ではありません。風土の違いと申しましょうか、法に対する国民意識の違いを呑み込んで、シビアな運営を実現することができるかどうか。さらに、「特色ある学校つくり」を展開しようとしている昨今、また、各学校が教育課程の編成権を持っている昨今、このゼロトレランスの制度と運用だけ、一律にできるのかどうか、このことも考えるべき視点でしょう。

 その点では、Bさんがおっしゃったように、大人社会に反省を求めないといけません。ゼロトレランスを導入する前に、私たち大人社会のモラルハザードを棚上げしておいて、児童生徒だけにゼロトレランスだといっても、納得しないでしょうし説得力がありません。また、同じくBさんがいわれたように、学ぶことに対する希望を児童生徒が感覚できる体制を整えることが、教育のアルファでありベータでしょう。大人になるプロセスのさなか、ねじふせるような対応つまりゼロトレランスで指導することが本当にいいのかどうかも疑問視されました。

 そうすると、非寛容の体制を学校が採用する前に、教員をめざす私たちが何をすればいいかということになります。Fさんは、コミュニケーション能力が問われるといわれ、児童生徒とどのような会話をするべきかを今一度反省しなければならないと述べられました。そして、Fさんの最大の主張である「勉強をする環境を作ってやりたい」という立場から、強力なご意見が出ました。それは、勉強をしたくない人にあわすのはおかしい、勉強をする人にこそ環境をあわすのが正しいのではないか、ということです。

 今回、厳罰で臨む姿勢を堅持し、その方向で学校改良したいと正面切って述べられたのはFさんだけでした。その意味ではあっぱれでした。こうしたFさん的思考は、かなりの程度、各家庭の意識を代弁しています。ワタクシもある程度このご意見に賛成なのです。学校世界が無法地帯になることは許されることではありません。それはこのゼロトレランスの導入に賛成の方も反対の方も同じでしょう。2年連続で不登校児童生徒数が減少しているといっても、対教師暴力が小学校で増えてきている現状、保護者だけでなく現役教員の中にも、このゼロトレランスの導入に前向きな層があります。つまり厳罰要求思想がかなりの程度学校現場に胚胎しています。

 Eさんは、しかし、あくまで教員と児童生徒との間の信頼関係が形成されなければ、ゼロトレランスを導入しても意味を成さないとおっしゃっています。児童生徒のダメなところばかりに目をやっても解決策にならないと語られます。

 両者の思想をどのように止揚すべきか。現在回答はみえてきません。そこに回答を与える機関こそ、中教審あるいは調査研究会議ですから、どのような議論がなされ、報告が出されるのか興味津々です。

 さて、ここでGさんが、このゼロトレランスと「生きる力」がどのように関連してくるのか、集団に問いかけられました。自己抑制力をも含めて考えていいこの「生きる力」と、ゼロトレランスは、相容れないのではないか、と視点提供されました。

 Cさんは、現行でも十分罰則はあるのだから、ゼロトレランス的な罰則を作ったとしてそれを適用できるのか、と述べられました。

 最後にDさんから、一定の導きや方向性を持ちつつ教員をめざす私たちがどのような道を児童生徒に示すべきか、毅然とした態度といっても、それがどのような見通しをもってなされる態度であり行為であるのか、と発言がありました。

 こうした3者からの発展誘発的発言がありつつも、惜しくも時間切れとなりました。今回も、25分間の討論でした。

 ご参加のみなさん、いかがだったでしょうか。また、このサイトをご覧のみなさんはどのように考えられますでしょうか。この議論は、賛成反対の是々非々論になるやもしれません。また、反対一方になるやもしれません。ただ、賛成一方の議論にはならないでしょう。

 もしもこのゼロトレランスの導入と運用がはじまれば、学校世界は劇的に変わります。いままでものすごくやんちゃで「問題児」と見做されていた児童生徒がいたとして、おそらく、「麻酔をかけられた犬」のようになるでしょう。あるいは、学校から駆逐されるでしょう。ゼロトレランスの導入は、義務教育に停学・退学を持ち込もうとする制度に近いといえます。出席停止の措置を上回る、厳しい措置で法律上の懲戒処分を児童生徒に迫るものです。すべてのものには教育を受ける権利が保障されていますし、教育の機会均等も保障されています。法の厳格な適用をめざす立場からいっても、基本法とゼロ的法律とがぶつかり合いますので、司法判断を仰がなければならないケースが続出するでしょう。必ずそうなります。なぜなら、そうでなければ、もともとこんなゼロトレランスを導入する意味がないからです。適用できないゼロトレランスなど、画餅以下です。導入するなら徹底的になるのがこのゼロトレランスです。

 それから、ゼロトレランスが導入されれば、いままでの共感的理解・受容的態度の教育相談は崩壊します。教育相談室はとっぱらわれ、懲戒部屋に改築されます。学校カウンセラーもお払い箱になります。教員採用試験から、教育心理学の問題も削除されるでしょう。

 児童生徒の自主的な判断能力の形成にも、あまりいい影響をゼロトレランスは及ぼさないでしょう。命令−服従の教員−児童生徒関係になります。もっといえば、児童生徒が「囚人的感覚」に陥らないでしょうか。

 その昔、内申書に怯えていた児童生徒がいました。生殺与奪権的に内申の前に平伏すことがありました。それが、ゼロトレランスによって権力的に学校が動きます。支配装置としての学校ができあがる可能性があります。

 導入か、撤退か、苦しい判断を教育行政は下さねばならないし、ワタクシたちレベルでも、苦しい集団討論になることが予想されます。

(2005年11月19日)

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