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浩の教室・第60回勉強会の模様


 昨日は、(ひそかに記念すべきと思っている)第60回当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。今回も期末のお忙しい中、現役の先生お二人にご参加いただき、貴重な助言をいただきました。ありがとうございました。また、遠く福岡からのご参加には魂消ました。来年早々の第61回にも確定参加ということですが、ご自身のペースをお守りになってご参加くださいね。老婆心ながらここに記します。「来るもの拒まず、去るもの追わず」のスタンスが、当勉強会の基本的立場です。帰りのフェリー、お疲れにならないように。

 さて、ワタクシの「作業部会まとめ」に対するコメントは、ちょっと空回りし、そのあたりのことも参加者からご指摘いただいてありがたく思っています。これについてはすぐ後で述べます。

 今回の勉強会も3部構成でした。またたくまに時間が過ぎ去るので、もうちょっと時間がほしいところです。もし、朝から実施しても参加したいというご意見があれば、調整したいと思います。この勉強会に期待するものどもを、どしどしお寄せください。いただいたご意見をできうるかぎり反映するよう努力いたします。それから、集団討論のテーマが枯渇してきております。みなさまから、討論テーマを常時募集していますので、メールいただけるとありがたいです。遠方で勉強会に参加できない方からも、テーマを募集しています。「私の自治体でこんなテーマがでた、いちど討論してもらって、その模様を読んでみたい」というリクエストにも応えたいと思うからです。お待ちしています。

 横道にそれました。序盤は、「学校組織運営まとめ」を、前回に引き続き解説いたしました。そこでは、「教育委員会の関与」、「教員個々の責任とチームワークの関連」、「卓越性に基づくリーダーシップ」、「校務分掌の在り方」が大きなイシューとなったようです。みなさんから、多様なご意見を伺いつつ、ワタクシの理解を示しました。ご参加のみなさんからのご指摘の中にあった、「教育委員会と教育委員会事務局」との違いは区分けして考えないといけませんね。ワタクシの理解では、教育委員会(都道府県や政令指定都市では6人[これについて5人と説明したかもしれません。教育委員の人数についてはまちがったことを伝えている可能性あります。お手元の参考書類で確認してください。すいません。])が決定する事項を、「事務局」の方々が「行政する」、つまり実際に行なう、ということです。それから、「校務分掌」については、講師の先生、現役の先生から、イロイロ現状をお伝えいただき、それが「作業部会まとめ」の文章と絡まりあってよく理解できました。大学生の方々や社会人の方も、想像たくましく頭の中に学校世界を描いていきましょう。

 そこでちょっとワタクシの反省点、上に述べたことなんですけど、それは、次の引用に関わることです。「教職員は、『一人一役』の考え方のもと、担当が細かく分けられ、かえって分かりにくいものとなっている。それゆえ実際には分掌と関係なく、その場で気が付いた者が処理するなど、組織が実態と必ずしも合っておらず、責任の所在が不明確になっているものもある」の解釈です。ここの「その場で気が付いた者が処理する」ということを、ワタクシは即断して「児童生徒への個々の注意」というようなことで申し上げたのですけれど、参加者の中から、それは違うのではないかと意見くださいました。すなわち、ある分掌を担当している教員が、他の分掌に関することで気がついた場合にそちらの「気付いたこと」についても処理する、ということですね。分掌違いのものも、その場その場で本来の分掌担当外の教員が行なうときがある、だから、責任の所在が不明確になる、という理解ですね。こちらが正しいでしょう。ワタクシは「処理」という「述語」に無頓着だったので、安易に考えてしまいました。「処理」からすれば、「児童生徒への指導」とは考えにくいです。いや、ご指摘ありがとう。

 当日は、次に、神戸市の1次試験の解答解説を行ないました。かぎられた時間の中、4つほどすすめられたのでホッとしています。神戸市においては、来年度の1次試験では心理学や時事を主たる出題とすると「公言」しているので、教育原理からは出題皆無になるかもしれません。しかし、兵庫県が面接で法規の知識理解について「短答」を求めることと同じようなケースがないとは断言できません。それゆえ、法規や原理もおろそかにしないようにしましょう。

 ワタクシの予想するところでは、時事は、やっぱり「教育時事」ということになると思っています。そうであれば、答申類や調査研究報告者会議報告を読み込むことは必須でしょう。時事で答申を出題しないのは、クリープを入れないコーヒーのようなものでしょう。

 年明けあと一回を使って、この「作業部会のまとめ」を終えようと計画しております。本文そのものは、ご自宅でご検討していただくよう期待しています。もちろんたくさんの質問待っています。

 最後に、集団討論をいたしました。第1テーマは、前日、アナウンスしたように、「学校の勉強が社会に出て本当に役に立つのかという児童生徒からの問いにどう答えますか、議論しなさい」でした。このテーマを25分間で5名の方に「料理」していただきました。A〜Eさんとして、発言をトレースし、問題点を抽出してみましょう。

 まずCさんが、発言されました。発言の趣旨は、一言でいえば、思考訓練の重要性という理由で児童生徒を説得する、ということでしょう。Cさんは、小学校教諭をめざす立場ですが、将来的に勉強が役に立つかというこのテーマに対する解答を、高校の学習を引き合いに出して説明されました。勉強の必要性を「考え方が役に立つ」、「一生懸命勉強する行為そのものを大切にしよう」ということで、その際、教員をめざすものがどのように児童生徒に興味を持って授業に体当たりしてくれるか、その順序や構成を示すのが大切だと述べられ、他の参加者に問題を提起されました。勉強の内容そのものではなく、勉強する行為が思考を高め、かつ、そこで学んだ順序つまり整理して自己の考え方を示すことができる能力こそが大切だというのは、まさに「生きる力」だと思います。こうした形式を陶冶する教育が、現代では教育の本質だと捉えてよいでしょう。ただそこに実質的な学習内容の蓄積は前提されますね。イロイロなことを知ってはじめて話ができたり議論ができたりするのであって、実質的な教科内容を手に入れる過程において形式的な学力が身に付くものです。

 Eさんは、この「役に立たない」といい張る児童生徒に、堂々と「役に立っている」とまず答えると力強く述べられました。そうした自信溢れる態度がやっぱり教員には必要です。数学の2次方程式や音楽の音符の名称などそれそのものが役に立つ場合もあるが、それを「学ぶ仕方」が役に立つと語られました。Cさんが述べられた内容とかぶりつつも、それを押し広げようとして発言を練っていたようでした。「他者の意見の焼き直し」はあまり印象がよくないので、この辺の苦労は、参加者みなさんの「苦労」であると思われます。そういう意味では、「いったもん勝ち」になるような今回のテーマでは、「先陣争い」が予想されます。

 ついでAさんは、社会人になってからの「生活」の段階で役に立ってくることもあるのであると主張され、「学ぶことで得ること多し」と、格言的にいわれたのが印象的でした。なにを学ぶかによって、児童生徒の方向性がみえてくるといわれたのも、「可能性」という言葉はありませんでしたが示唆的でした。Bさんは、まさにその教育の可能性ということに言及した発言でしたね。児童生徒はイロイロな可能性を秘めている。その可能性を「夢」に結びつけ、実現を支援すると述べられたのは、ポイント高かった発言です。

 Dさんは、自分の幅を豊かにしていくために勉強するんだよと、諭すように児童生徒にタッチしたいというニュアンスで語られました。ここまではよかったのですが、テーマに「社会にでて役立つのか」とあったので、ここは素直に学ぶ教育内容に対する児童生徒からの批判と捉え、まずはそれに対する解答を用意しましょう。Dさんがいわれた教科外において養成されるべき協調性・社会性、ひっくるめていえば人間性の陶冶は当然学校教育の提供するべき教育内容です。それに対する指摘は、もう少しあとでもよかったかと思います。

 ここで一巡し、Cさんが、学習内容の広狭に話題を振られ、義務教育では幅広い学習をすることが必要で、わざわざ可能性ある児童生徒の将来を狭くするようなことはいうべきではないだろうといわれました。必要・不必要、また、役立つ・役立たない=実利的かそうでないか、というような二者択一で児童生徒に答えるのではないということですね。ワタクシも、児童生徒が自己を作っていくための実務的な能力、具体的にいうと文章作成能力やプレゼンテーション能力は必要不可欠だと思いますが、勉強のいわば「芸術的側面」も重視すべきであると考えています。Dさんのいわれた人間性を伸張するには欠かせない感覚であり、学びであるでしょう。人間を豊かにする教育内容は、いわゆる副次的教科といわれるものに教わるところ多いと考えます。そうすると、テーマから少しそれますが、ここから各教科の存在意義−学校の時間割になぜその教科があるのか−を語ることも可能になってくるでしょう。

 ここで、話題転換がありました。Eさんから、この児童生徒からの質問を、具体的に学校のある状況の中でいわれたとしてどう対応するべきか考えてみませんか、という提案でした。Eさんは、極めて具体的に発言されており、説得力がありました。なかでも、からだを動かす体育は、児童生徒自身がたのしく気持ちいいから、「なんで勉強せなあかんのん」と疑問があまり出ないのに、面積を求める算数の時間では「なんでするん?」といわれ、文章を書かせても「なんで?」といわれる。「おてがみ」を書かせてもそうである、と。ここで児童生徒が「楽しい、気持ちがいい」という判断がなされる教科であれば問題ないのに、文章題などいわば難しく、強いる学び、それこそ「勉強」なのですが、その場合に、どうやら「なんで?」が顔を出す、といわれました。こうした微妙なところを嗅ぎ分ける感覚の発言に、Eさんの講師経験が最大限に生かされているなあと思いました。

 こうした「場面設定」からの各参加者の発言が続きました。Aさんは、学校サポーターの経験から、「英語なんてやっても意味ないじゃん」といわれ、「外国人と接しないし、英語を使うことないよ」と英語の授業を拒否された経験です。この意見披露につづき、Aさんは、舌足らずではありましたが、現在の児童生徒をめぐる社会的状況は豊か過ぎる、人生を豊かにする内面的な手段をしらないまま、豊かにする道具がなんでもある。インターネットも便利な手段・道具である。ところが、その道具が揃った便利な世界が逆に児童生徒に依頼心を生んでいるのではないか、と大上段に立った批判でした。これでは自分自身の力で道を切り開いていく闊達な精神が養われないのではないか、というご意見ですね。ワタクシたちが豊富なツールの恩恵を受け、それを使いこなすことに精一杯で、それが目的達成の手段・方法であることを忘却してしまえば、若い生命から「創造」が生まれることは難しいでしょう。ではどう指導するか、それを考えるのはこの課題を越えています。しかし是非ご自身で突き詰めていってくださいね。

 Bさんは、このテーマの「なんで?」に立ち返り、討論者がこれまで述べていない、しかしごく普通の感覚から「なんで?」と児童生徒がいう理由として、苦手意識ということを挙げられました。得意なことはやるのであるが、苦手なものは遠ざけてしまう。苦手は苦痛となり、児童生徒の学習からすっぽり抜け落ちやすい。だからこそ、できたときにほめる、それが自信を付けさせることになる、と熱く語られました。問題ができるたびに「やったね」と声かけすることは、そのひとつの大きな手法です。そして教科内容そのものに興味を持たせる写真やビデオの活用にも触れられました。

 一方、Dさんは、「なんで?」には将来不安が潜んでいるのではないかと述べられました。もちろん深層心理的には児童生徒がそうした意識を持っていることはまちがいありません。ただ、ここではどうであったか。それはそれとし、このDさんの問題を肯定したとして、では将来不安の中身はなんであるのかが問われるでしょう。これを具体的に語れるかどうかが、Dさんには要求されます。Dさんは、将来不安を取り除く方策=興味付けといわれて、職業体験について話されました。自分自身で問題点を発見して解決する、そうした個々の自律した主体的学習が自信を生むという発言論旨でした。

 ワタクシたちが気を付けなければならないことはなんなのでしょうか。それは、ワタクシたちの持っている多様な経験を、テーマに即して語ることでしょう。その経験は、児童生徒とのかかわりの中から学んだことであったり、答申や教育学から学んだものであったり様々です。そうした勉強からいかにうまくテーマに即した発言ができるかであると思うのです。ピントが合えば、多くを語らずともいい。痒いところにさえ手が届いたら、採点官はうなずくはずです。Cさんの発言は、そのピントにあったものでしょう。「楽しくない、だから嫌」となり、なぜやらなければならないのという疑問となる。そこにうれしい、や、楽しい、をどう注入するか。「達成感やよろこびの提供」というのはまさにそれで、それを味わわせる「仕掛け」や「工夫」をどうするか、と問題を慎重に読み替えられていっていたようにうかがえました。ここに次は具体的な仕掛けの中身を付け加えましょう。

 Eさんは、その「達成感」に関わり、「いまのができたら、次のもできるよ」(あるいは、「いまのができるようになれば、次のができる」)とステップアップの教育思想を披瀝され、ここから補充学習や調べ学習について発言を進めていかれました。うまい展開でした。そして、音符や休符の学習の思考そのものが、次に他の教科の学習にも生かされるという意味で、学習の転移についても暗示されていました。

 Aさんは、学習の方法という観点から、児童生徒間における「教えあい」というコミュニケーションに触れつつ、教員がそこから児童生徒の疑問点を抽出し、全体の問題意識にしていくというニュアンスのことを述べられました。Aさんはそれを「問題の砕き方」という表現で語られたのですが、それをもう少し説明されると、わかりやすかったと思っています。Cさんも、コミュニケーション能力に触れつつ、教室全体が楽しい雰囲気になるよう指導していきたいと抱負を語られました。

 最後にBさんが、夏休みの課題として歴史新聞の作成を出し、休み明けの発表という学習を進め、自分の力で調べ知を得る実践を紹介したところでタイムアップとなりました。

 全体を通して、採点官役としましては、素直に耳に入る事柄が多く、よかったです。常に忘れないでいただきたい点は、上にも書きましたが、的を得た発言、ということです。テーマからはなれず、ポイントを突いた主張、焼き直しでない発言、これだと思います。

 もうひとつ。ワタクシは、討論を拝聴していて、「学ぶことの尊さ」をもっと強調してもよかったのではないかと思っていました。また、学べることの尊さといいいましょうか、「学べる豊かな環境にある君たち」という意識を児童生徒に自覚させる発言があってもよかったと思っていたのです。このことはCさんの発言の中に潜んでいるのですが、学びの尊さがもう少しのところで出てくるかなと期待していたのですけど、あともう一歩でした。

 それから、Aさんの「なんで?」から「なんでこうなるんやろう」へと主体的な学習意識の芽生えへの転換のところは、お聞きしていてグッドでしたよ。いいたいことがシドロモドロであったとしても熱意が伝わってきます。しかしそれを言語化してナンボということで説得力ある話術をあみだしてください。

 第2のテーマは、「学校外での児童生徒の生活は家庭教育の問題であるから、学校の教員は関わらなくてよい、という意見に対してどう対処しますか、議論しなさい」でした。ワタクシの勘違いで25分のところを20分にしてしまいスイマセン。A〜Eさんの5人の方にチャレンジしていただきました。

 第1のテーマにおいてもそうでしたが、テーマを表明する前に、採点官役のワタクシが、参加者の緊張を解くため簡単な会話を挿入いたしました。「1次のペーパーの出来具合はどうでしたか」とか、「何回目の受験ですか」とかです。このほかにもごく簡単に、昨日はよく眠れましたかといった受験生をリラックスさせようとする会話を本番でもするやもしれませんので、手短に応答してください。ここで長々しゃべるといけません。

 とにかく採点官は素のままの受験生をみたいのであり、飾ることは必要ありません。20代前半の若い受験生なら、変に言葉を繕おうとせず、「本当の自分をみていただくんだ」といったある程度の開き直りをチャレンジャー精神で包んでみましょう。また、もう少し年上の方々は、社会人としてあるいは講師としてそれなりのご経験をお持ちですから、それを真摯にみつめなおす姿勢を忘れず、厚みを持った主張にしましょう。

 第2のテーマには、上の記述から予想されるように、大学3年生からママさんまで、年齢層が違いながらも同じく教員として燃焼したいと強く願っている方々が参加されました。口火を切ったのは、唯一の男性討論参加者Dさんでした。

 Dさんは、テーマのたずねる2者択一的性格にまず答えを与えました。「賛成」であると。つまり家庭教育に教員は関わらなくてもいいという立場です。しかし、そういいながらはっきりとは学校教育と家庭教育とをわけられないといったり、児童生徒の安全や虐待など「知りません」ではすまないことがあるのでかかわっていく必要もあると続けられました。こうした発言に対し、討論終了後傍聴しているメンバーから、一貫性がないと指摘がありました。賛成といったかぎり、他の参加者が全員反対であっても、意を尽くして諄々と賛成の根拠を述べたほうがあるいはよいかもしれません。討論ではしかしバランス感覚が求められることもありますから、賛成の立場からの論旨を反対者に説き、かつ、反対者の論旨を喝破するのではなく「融合する」ようなまとめをつくりあげるのがいいのではないでしょうか。

 ちょっと批判的に書きましたけれども、主張の内容にある児童生徒の安全や虐待の課題は語るに値するトピックです。

 Eさんはテーマに「反対」する立場から教員は家庭教育に関わっていった方がよいのではないかと述べられました。家庭と学校は本来直結しているのであり、教員が家庭と関わるにあたって連携のとり方を考えるべきであると主張されました。それは家庭のプライバシーに細心の注意を払う必要があるという発言となってあらわれました。Cさんも、「反対」の立場からのご意見でした。Dさんの「安全」を受けつつ、「学校外」の中には登下校時も想定されるわけで、様々な危険や不審者の存在に対応するのは教員の使命ではないかといわれました。教員は学校外における見回りも積極的にこなすべきであり、そのことが地域との連携も成功に導くことになるのではないかと指摘されました。

 Aさんは、「教員が家庭に踏み込まなければならない事態もある」と述べられ、母子家庭と教員との具体的な関わりをご自身の体験を例示されました。そして教員が保護者に対して教えるべきこともあると付け加えられました。

 Bさんからは、3者連携というキーワードがでてまいりまして、個々の家庭には個々の事情があるので、それを踏まえ私たちはどのように対応していくか集団全体に問われました。

 このBさんの発言について2つの注意事項を書きます。ひとつは、質問だけで終わらないことです。必ずご自身の意見をいわなければ、せっかくの発言機会を生かしているとはいえません。もうひとつは、なにを聞きたいのか明確にするということです。なにを集団に対し聞きたいのかはっきり伝わらないと、他の討論参加者がまごつきますし、討論がストップする可能性があります。すなわち、集団討論に「空白の時間」を生むことになるのです。これは「困ったなあ」になります。なにを聞かれているのかわからない質問に答えることは誰もできませんので、次の発言者は強引に話題転換するか、質問の意図を自分なりに解釈して答え返すということになるでしょう。参加者はドキドキしながら、つまり「緊張の頂点」にありながら発言しますので、見当違いの答えになってはいけないと思い、余計に貝になってしまう場合もあります。

 Cさんが勇気を持ってこの意図の明確ではなかったBさんの質問に答えようと苦心しつつ討論をつなげました。Bさんの質問が、「教員が家庭に対して『どう対応していただきたいのですか』と聞くことがいいのか悪いのか」ということなのか、あるいは「教員が家庭にどういう点で協力できるのか」ということを聞きたかったのか、あきらかではありませんでした。Cさんは「質問の意図を自分なりに解釈して答え返す」手法をとって、子どもの寝る時間についてや子どもの食事など学校の手の届く範囲にない生活習慣一般の問題をどうするのか、という質問に転換する形で答えられたとワタクシは理解しています。

 こうしたやりとりをはさみ、Aさんが、もう一度テーマに立ち返り、家庭との関わりは強めるべきであるということを実践的に語られました。不登校となった小学生の家庭で、「母からいかなくていい」といわれた児童の問題をどう解決するか、ということです。この問題に対して、学校全体で取り組み、「母も子もいっしょに外へ連れ出す」対策をとったそうですが、Aさんが発言された「そこまでしないといけない」という言葉が印象に残っています。「そこまでしないといけない」子どもは、たしかに「国の宝」でしょうね。では、「そこまでしないといけない」教育の危機的状況を、政策的にはどう対応すべきなのでしょう。それはEさんのいうプライバシーの問題と絡んできます。ちょっと考えておいてくださいね。

 Eさんは、Aさんの「子どもは国の宝」発言を受け、子どもの健やかな成長を支援するのが学校の役割であるのは間違いないが、それは家庭や地域に共通に課されたテーマでもある、しかしその役割分担がパーフェクトにこなせるかというとそうでもないので、互いに足らないところを補っていかなくてはならないと述べられました。それが子どものためなら一歩踏み込んでいこうという学校の積極的なサポートの必要性を述べる根拠になっていました。その「踏み込み」について、具体的には安全管理のことをトピックに取り上げ、外国では教室を一歩出ればそこは学校外の扱いになっていると紹介し、日本の学校もそうしたきっちりした線引きの下で対応をしていかなければならないのではないかとまとめられました。Dさんはこの発言に反応して、オーストラリアにおけるスクールサポーターの経験を踏まえつつ、日本もプライバシーを重視する世の中になってきており、「必要以外のことまでいってくれるな」という家庭にどう対応するか難しいとし、茶髪にする児童生徒(あるいは保護者が茶髪にさせたい場合など)の権利意識を学校はどうすることもできないのではないかと指摘されました。茶髪にするのは個人の幸福追求権に属するもので、学校が侵入できない個人の精神的自由権、表現の自由の領域でしょう。ちょっと議論が斜めに進行している嫌いがないでもなかったのですが、テーマに付随する論点ではないといい切れないところです。結論としてDさんは、「必要なところだけの支援」ということだったでしょうか。

 先にも少し触れた、Dさんのテーマに「賛成」する立場を補強する立論としては、学校のスリム化における役割分担の明確化ということがあります。茶髪問題はその最たるものでしょう。どこまで学校の役割をスリムにするかは各学校の意思に委ねられます。したがってDさんは、どういうような学校の体制を構想するかによって、ご自身のスタンスも決定されてくるでしょうから、そういった学校の児童生徒に対する貢献の方針を述べてもいいのかもしれません。それが、「学校外での児童生徒の生活は家庭教育の問題であるから、学校の教員は関わらなくてよい」を支持する立場からの議論戦術になるのではないでしょうか。

 また、これは校種によっても意見が変わってくるでしょう。たとえばAさんのいわれた家庭への踏み込みの度合いは、高等学校教育の守備範囲を越えていると判断されるかもしれません。

 ここでBさんから、また違った角度からのご意見がありました。家庭教育の問題といえども、いわゆる問題行動は家庭と学校の双方に足を突っ込んだ問題であるから、粘り強く対応しなければならないというご意見です。児童生徒の家庭でみせる顔と学校でみる顔とは違うケースがあるので、児童生徒の本心を理解することからはじめるとすれば、学校家庭双方の情報の突き合わせが大切でしょう。そしてまたBさんから質問がありました。「具体的に苦心した経験を出し合ってみましょう」というものでした。

 これに対し、Eさんが夜遅く帰宅する母親を持つ家庭の話、弁当も作れない学用品も揃えない父子家庭に実際あがりこんで指導したDさんの話、Aさんの、削ってない買ったままの紙ケースに入った鉛筆を学校に持参した児童の話、などなど、実例が出て、最後は発表会のようになってしまいました。これはいわゆる「積み重ねの討論」ではなく「発表会型討論」の典型で、前半の議論がぼけてしまったようでした。発表型は陥りやすい罠なので、注意が必要です。これについては過去の勉強会報告に何度か書いていますので、ご自身で発見して読んでみてください。下に設置している「サイト内辞書」が役に立ちますよ。

 密室での会話は愛でしょう。しかしこの勉強会の場で傍聴者やワタクシからなにをいわれても、すべては顔と顔を突きつけ合った公開の場での発言ですから発言者には責任が付いてまわりますし、いただいた発言を自分の肥やしにしましょう。ターミネーターのように液体になっては凝固し立ち上がってくる強靭な精神力、これを身に付けてください。現場はヤワでは勤まりませんから。

 昨日は、交通事情も悪化が予想される中、わざわざお集まりいただきありがとうございました。こちらはいつもながら要領よくまとめていますね。

(2005年12月18日)

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