浩の教室・第23回勉強会の模様

 昨日はJR大阪近辺で勉強会を開催いたしました。大学2年生の方から、ママさんまで、個性溢れる11名の方の参加を得ることができました。男性4名、女性7名の方のご参加です。

 前半は、前回読み残した「これからの教育を語る懇談会」と新しく「高等教育の将来像」の概要を読みました。前者では、「開かれた学校」の理念に加え「信頼される学校」というキーワードが登場しています。学校が信頼されるためにはどのような行政的展望が必要なのか。

 「懇談会」はそれに応え、第1に、住民の学校運営への参画を提案しています。学校評議員だけでなく学校運営協議会の本格的な出発をめざしているようです。協議会は地域運営学校の「首脳部分」であって、学校運営の作戦本部といっていいでしょう。かつ、「懇談会」は地域に育てられる学校を描いているようで、NPOや「おやじの会」との連携を推進するよう述べています。

 第2に、学校評価と教員評価を徹底するべく、外部評価の導入とともに人事管理に有効機能するシステム構築にあたる覚悟を述べています。

 最後に、人事と学級編成にかかわって、校長の権限強化を述べています。これは民間校長の導入以来、校長つまり、ざっくばらんにいえば「学校という会社の社長」の独自な取り組みを優先する名目の下、裁量権=自由に腕をふるえる場面を増やすということですね。各学校が特色を創り出し、互いに競わせようとするところに、学校世界の閉鎖性を打破するよう「懇談会」は見込んでいるといえるでしょう。

 こうした3つの手法で信頼を国民から勝ちとろう、また「公立の復活」をめざそうというわけです。ここに述べられた提案は、しかし、そんなに斬新なものではありません。地域運営協議会は「地域運営学校答申」はいうまでもなく、古くは森元総理大臣の私的諮問機関「教育改革国民会議」のときにすでに提案されたチャータースクールの焼き直しだし、総合規制緩和の波の所産です。外部評価も構造改革特区における「教育の市場化」にあって必須の措置ですね。校長権限強化も年来のものです。校長の権限強化は、委員会との綱引きを予想させます。

 この「学校という会社の社長」たる校長と教育委員会との綱引きは、地域によって全然違います。端から白旗を掲げている校長もいれば、敢然と闘う闘士校長もいます。委員会は権限を奪われたくありませんし、なにしろ校長⇒委員会のステップアップがありますから、にわかに校長は声を上げられない情実もあります。

 地方教育行政を骨抜きにし、中央の意向を貫徹させたい意図は、最近薄まっているように感じますが、委員会と各学校の対立あるいはギリギリの妥協はいまも現前としているわけです。「親」文部科学省⇔「兄」教育委員会⇔「弟」各学校のそれぞれの「⇔」のところに、「対立あるいは妥協」があるわけで、「教育委員会⇔各学校」のぐちゃぐちゃをなんとかしたいと文科省は考えているわけでしょう。変な喩えですが、親が兄弟のケンカをどう諌めるかという構図です。このように考えてくれば、果たして権限統轄を目論む兄である委員会の立場は苦しいようです。だから「ギリギリの」妥協なのです。こうした見方に対しては、反論があると重々承知の助です。ご意見お待ちしております。

 次に、「高等教育の将来像」の概要を読みました。最近、文科省サイトに、この答申がアップされています。時間があれば目を通してください。といっても、なぜかリンクが開きませんが…ワタクシだけでしょうか…

 このようにいうのは、ワタクシたち義務教育および後期中等教育の教員をめざすものにあっては、進路を指導する立場であり高等教育との結びつきは視野に入れながらも、教採試験の問うべきものとしてはその本質ではなく、ズレを感じるからです。ですので長い長い答申を読まずとも、「審議の概要」を読めば足りると考えています。

 さて、日本の高等教育つまり大学教育の再構築にあたって、骨子としての方向性は5つあります。

 @誰もがいつでも学べる高等教育…ユニバーサルアクセスと表現されていますが、少子化で大学在籍者数が減っていることに鑑み、もっと社会人の再学習の場として、また生涯学習機会の拠点に転換するということです。大学が青春を過ごすモラトリアム期間・機関の代名詞ではなく、文字通り研究教育の場に再生するわけです。大学の機能分化も緩やかに進むと指摘しています。総合大学は消えるということでしょうか。ワタクシは教育と研究との分離が一層進み、前期高等教育と後期高等教育に分かれると予想しています。レジャーランド化していると揶揄されていた大学がどこまで最高学府たる意地を見せつけられるかどうかですね。

 A誰もが信頼して学べる高等教育…大学はその学問の質を維持しなければなりません。シラバスや財務諸表を公表し、素顔の大学を国民に紹介することによって信頼を得ようとする方向です。

 B世界最高水準の高等教育…世界最高水準の大学をいくつ日本に作れるかどうか、はわかりませんが、ノーベル賞を獲得する人材育成ということでしょう。博修士の課程を意味付け直し、カリキュラム編成を整理する。そして、いまなにかと話題になっている専門職大学院の充実をめざした提言です。

 C「21世紀型市民」の学習受容に応える質の高い高等教育…これがわかるようでわからない。主専攻と副専攻を履修し教養専門を学び、完成するという。多様な教育機関に大学を脱皮させるというほかなく、21世紀型市民の内実がわからない。ただ、大学3年制に大学院をつけて4〜6年制高等教育を制度的に用意しようというようである。この、「21世紀型市民」というのは具体的にどのような人間なのか。

 D競争的環境の中で国公私それぞれの特色ある発展…財政的支援を高等教育にどのように振り分けるかを合理化している。競争的環境を適正に確保するべく提言された。国立大学運営費交付金や私学助成の在り方について述べている。

 以上が高等教育のためのロードマップです。

 勉強会の後半は、集団討論を2回いたしました。ひとつめのテーマは、「学力低下の原因は、総合的な学習の時間の設置に問題があったのかどうか。学力ということについて、あなた方が身につけさせたいと考えるものを議論してください」でした。6名のグループ、25分です。かりにA〜Fとして議論の流れとそれに対するコメントを紹介しましょう。
 まずAさんが学力にどのようなイメージをもっているかみなさんに聞く形で議論ははじまりました。それを受け、Eさんから学力には2つある、「測れるもの」と「測れないもの」であると返答があり、前者は教科教育にかかわる単位修得、後者は問題を解決する力といっていいかもしれないと発言されました。Aさんはそれを「見える学力」、「見えない学力」と換言され、総合学習は「見えない学力」を養成する目的があり、テーマにある「学力低下の原因は、総合的な学習の時間の設置に問題があったのかどうか」について、問題はない、関連性はないと明確に答えられました。こうした題意に対するスタンスを明示することは、そうした意図を含んでいるテーマに対しては大切です。Dさんからも、総合学習は「測れない力」を身につけさせるものであるとの主張がありました。Bさんからは、知識の詰め込みが学力なのではなく、読解力や表現力など創造的な力を学力と捉えられていました。一方、Fさんからは、長期的な視野で通用する力こそ学力であると提起され、印象に残っています。

 このように議論は、教科教育で育成する学力と、総合で育成する学力との相違を確認した上で、では、その両者をどのように融合するかに論点は移ったようです。Dさんが述べたように、教科で学んだことを総合へいかに生かすか、またその逆も大切です。この考え方の前提には、知識の定着があってこそ、総合のよりよい授業展開が期待できるという思想があります。それはEさんも同様に感じられていたことでしょう。机での勉強を長くつづけられる力と体験的な学びとのバランスの問題ですね。

 したがってFさんのいう「体験学習などを総合の時間に期待する」のであって、それと各学科との関係を以下に構築するかに問題は所在するわけです。みなさん、「学校の授業を楽しいと思わせる総合学習の確立」をめざしましょう。それはまた、総合があるから何かを準備するのではなく、学びたい意欲が総合の時間を有意義にするということですね。とすれば、Cさんが述べたように、総合が遊びの時間であってはならないということになります。他の時間との融合あるいは調和を図ることが必要です。また、そうした魅力ある授業を展開するには、教える側の技量を高めていくべきで、少し厳しいいい方でしたがBさんがいったように教員の能力を反省しなければなりません。これはそのままズバリいうのではなく、「自らの反省」として述べる方がいいでしょう。

 議論の結論は、参加者全員の言葉を借りつつまとめれば、「総合があるから学力が低下したのではない。座学としての教科教育において目に見える力をつけ、知的好奇心を向上させ、主体的に総合の時間を創っていく。両者あいまって、知識、理解、発表する力、ひいては将来どのように生きていくかを考える力がつく。教員はこうした授業創造のためにメリハリのある計画を示し学年でするべき内容を明確化する。それが教員の力量である」ということになるでしょうか。

 いかにもよいような結論です。さて、ここで問題をひとつ。学力を上のように2面に分けることは可能なのでしょうか。見える見えないといいますが、果たしてテストにあらわれる点数を伸ばすことが学力を伸ばすことであると直截に考えていなかったでしょうか。教科といえど、その能力を測ることができるのであれば、心理学で学力論義があれほど喧しく行なわれているのも不思議ではありませんか。学力とは、本来見えないものです。教科教育であろうと見えないものではないでしょうか。

 そうだとすると、教科教育で見える学力を育て、見えない学力を総合で育てるという立論自体が崩れてきます。ただし、教科教育で育成できない力を総合で養成しようとしているのは紛れもない事実です。そこの論点に集中すれば、議論が成立すると思われるのです。「ふつうの授業を充実させ、『測れる力』を『測れない力』につなげていく」のではなく、「教科教育で養った思考力を土台にそれを体験を踏まえて生きた力にする」のではないでしょうか。文科省のいう「生きる力」ではなく、「生きた力」です。そうするとFさんのいう「どう生きたいかを考える」ことができ、Aさんのいう「生活に結びつく力」が身につくと思われるのです。

 それにしてもこのテーマは難しいものだったと思います。任命権者も是非とも聞いてみたい問いであることは間違いありません。揺れに揺れている行政方針、学力低下問題と総合学習の削り取り、ドリル学習の復活、100マス計算などへの注目。現場の問題点を教採受験生に聞いてみたい気持ちは少なからずあると思われるからです。

 2つめのテーマは、「教職員の不祥事根絶のために、みなさんはどのように取り組みますか」というものです。教員の不祥事根絶策は、個人の問題として心構えが、学校の体制的な取り組みとして制度が考えられます。

 昨日は大阪府立高校教員が飲酒運転で事故を起こしていますし、先日は九州大学助教授が覚醒剤を所有および使用していたようで逮捕されています。そういえばショーケンやあの人も…彼らは俳優そしてコメディアンで教員ではないですね。しかしどのような職種であっても、不祥事はいけません。

 しかし教員=聖職との認識も強く、教員の不祥事に対してはことのほか厳しく社会の目が注がれます。ワタクシたちはいかにして不祥事を防げばいいのでしょうか。セクハラやアカハラの問題もありますし、受験生がこうしたテーマを言い渡されると、どこまで踏み込んでいいのか頭を抱え込みがちでしょう。

 そうしたテーマに敢然と5名の方が議論してくださいました。仮にA、B、C、D、Eさんとしましょう。討論の流れを紹介し、それにワタクシから若干のコメントを示したいと思います。

 まずEさんから、不祥事は教員一人ひとりの心構えのもちようによって打破できると述べられました。もちろんこれはそうでありますが、やや精神論っぽいところがうかがえます。発言内容を補強するため、剣道の精神から学んだ礼儀礼節を心構えとして維持したいというのは具体的でよかったです。しかしそこにとどまらず、そうした精神論の根底をどうすれば一般化して、Eさんだけでなく先生方全員が身につけることができるかに及べば議論が発展的になるでしょう。そうでなければ、「私は柔道、私はラグビー、私はなにもないなぁ」というような主張の羅列に終始しそうです。しかし、しかし、念を押していいますが、心構えがないと、まったくもって不毛です。

 そうした精神論は、規律の議論につながりました。チャイムで着席など、メリハリのある学校生活が児童生徒だけでなく、ワタクシたち教員もそれにしたがってなければ反省しないといけませんね。学校で喫煙している姿をみせないことも、教員が児童生徒の模範となる意味で重要でしょう。

 あとで意見がでましたが、「先生も人間」という言葉をどう解釈するか、難しいです。こうしたEさんのご意見をついで、Aさんから「人間、内にこもっていたらあかん、人とのコミュニケーションを活発にしないと」というギリギリの発言がありました。また、「自分の行動が他者にどのようにみられているのかつねに自覚しておかないといけない」、「マスコミ、メディアの目もある。慎重な行動が望まれる」とありました。ということは、大胆に児童生徒や地域の人びとと関わりつつ、自己の行動を慎重にせねばなりません。こうしたいわば精神的な緊張、板ばさみに教員の位置はあるわけですね。とすると、教採試験で「あなたのストレス発散法はなんですか」と聞かれるのも一理あります。だから、ご自身のストレス発散法を述べ、上のような厳しい環境をどうクリアするのかを提言し、それを一般化する方向に議論をもっていけばどうだったでしょうか。

 さて、こうした精神論が主張される膠着状況に問題を投げかけたのがDさんでした。学校が教員の精神的負担をいくらかでも解消する方策として何があるか。厳しい教職員の立場、あらゆる悩みを学校が体制としてどう取り組むか。いい提案でした。こうした問題提起をし、Dさんは「メンタルヘルス的講習」、「グループワーク」などを詳細に論理的に述べられました。かなり説得力のある議論でした。学校カウンセラーや職業的カウンセラーの動員を提起するなどよかったと思います。そうしたカウンセラーは、一般に児童生徒の教育相談のために設置されているわけですけど、それの教職員版といいますか、そのような「体制」を整えるということでした。これは実際に取り組んでいる先進的な学校と、そこまではとてもとても手が廻らない学校とがあるようです。

 しかし、これだけ生徒指導に関する諸問題が浮上している昨今、先生の精神的ストレスは深刻なものがあります。最近偽札事件が横行していますけれども、自分の担任している児童生徒が偽コインでタバコを買っているとして、警察に行かねばならない状況が現前すれば、それは先生の胃に穴があいても不思議じゃない。

 しかし一方、Bさんが指摘したように、「生徒指導でやったらあかんと指導しながら、それを棚に上げて自分を反省しない」実態もある。メンタルなところだけで処理するのではなく、教員が自分のいったことに責任をもつことが要求されているのではないか、と主張がありました。これはもっともなことで、ここから、心構え論と体制再構築論とが2つの大きな論点となって対立するかのごとくにみえました。ひとりの大人としてその姿勢を児童生徒にみせることができつづければノープロブレムです。それができない教員が増えているから、早期退職あるいは合格してすぐ辞職する方が存在するのも事実です。ガイドラインの作成をBさんが提案していたのは至極当然ですね。

 教員間の協力という観点からは、Cさんから「悩みやクラスの問題点を気軽に話せる関係の構築」というご意見がでました。これはDさんの「飲酒運転はあかんでェ〜、と声を掛け合う」ことと同一のようにみえながら、若干違います。なかなか気軽に話し合える関係が教員間にできにくい現実もありますから。これは、政治的、イデオロギー的な関心から気軽になれないこともありますし、自分のクラス運営の問題をそう簡単に公表できない意地が中堅教員以上にはあります。だれしも恥部はみせたくないものだからです。Cさんが大学2年生であるという若々しさがこのような発言をさせているので、微笑ましいことではあります。その点、少し年齢層が上の、いや倍くらいのワタクシなどは、だめですなぁ、学校や社会からなんとも形容し難いペンキを塗りたくられて、斜に構えてしまっています。反省しなければ…

 ひっくるめていうと、Eさんの「教員同士のサポート」をどのように作るかということになり、それこそがテーマが含有する一番のポイントでしょう。そこをどう具体的に話せるかが合否を分けるのかもしれません。

 討論はしかし、大変よかったです。若干の厳しい「ものいい」にどのような評価が下されるかは別として、集団として成功していたと思います。対立は止揚すればいいのです。各人の発表会的討論よりもむしろ言い合いとはいわないまでも自己主張が「出会う」方がいいと感じるワタクシです。

 討論は参加も傍聴もいい経験になります。旁午読者のみなさま、一度ならず二度、ご参加をお待ちしています。

 参加者にお渡ししているレジュメの勉強会日程にミスがあります。すいませんが、こちらにてご確認お願いします。なお、QRコードを設けました。情報を携帯にすぐ取り込めます。おためしください。

(2005年2月6日)

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