浩の教室・第29回勉強会の模様

 本日は、5名もの新規参加者を得ることができ、また、お久しぶりの方もいらっしゃり、新旧全員で15名がテーブルを囲むというやや緊張感を持った勉強会となりました。新しく参加された方々、毎回このような雰囲気の中、実践しているのですけれど、いかがでしたでしょうか。よろしければ、ご感想メールいただければうれしいです。次回以降への反省にもなります。

 さて、第29回の勉強会は、答申の輪読と集団討論2題でした。答申輪読は、前回の復習がてら「基準性」について若干解説し、つづいて学習指導要領の記述の見直しで、どこをどのように見直すのか、いわゆる「はどめ規定」の確認からはじめました。

 そのポイントは、そのまま引用しますと、「いわゆる[はどめ規定]等は、学習指導要領に示された内容をすべての児童生徒に指導するに当っての範囲や程度を明確にしたり、学習指導が網羅的・羅列的にならないようにしたりするための規定」であるという、答申の定義のことです。どういう意味で「はどめ規定」という言葉が使われているのかを、まずは、おさえることです。そして、「児童生徒の実態等に応じて、この規定にかかわらず指導することも可能であるという趣旨を一層明確にするため、学習指導要領の[はどめ規定]等に係る記述を見直すことが必要」という部分も重要なところです。

 次に、授業時数のことをこの答申を元に考えました。講師をされている方から、授業時間が足りない、あるいは授業時数で教科書を教え切ることはできるなど、ご意見をいただきました。中学校で980時間をいかに使うか、それをどのように各教科に配分するか、大変難しいかつ現実的な問題です。いま、新学期を迎え、まさにこうした問題が職員会議のテーマでしょう。

 答申で使われる「標準」とはどういう意味なのか。おもしろいのは、「国は(中略)『標準』時数の幅は具体的に示しておらず、学習指導要領の解説(総則編)において、授業時数の下限は学習指導要領に定められた各教科等の目標を実現し必要な内容を指導できる限度であり、上限は児童生徒の負担過重にならない限度であるとしている」といっているところでしょう。結局ここでも、上限、下限はいい加減ということでしょうか。指導時間を確保するため、“さらなる”指導方法、指導体制の工夫を凝らすようにと答申がいうのは、現場の先生にあってはちょっとツライですね。

 そして、総合学習の一層の充実です。たかだか1年半前の答申なのに、現状からいうと古色蒼然たる気がする文章が連なっていました。総合学習を計画し実践する難しさ、教員の負担感など、どのように解消するか、それが訴えられていました。総合の目標や内容の明確な設定も難しいと、答申はうめいています。それゆえ、その改善方策に、「不断の検証」といわざるをえないのです。

 最後に、「個に応じた指導」の一層の充実です。これは指導方法においてどのような工夫をするか、T.T.、グループ学習、個別学習の改善を求める主張や、「学習内容の習熟の程度に応じた指導」を実施するとして、学習指導要領に例示されていない場合、「補充的な学習」や「発展的な学習」を組み込んでいいのかどうか、というところがポイントでしょう。

 ここまで細かなところまで、教採試験できかれるかどうかは別として、こうしたことをよくよく考えてみることが、教員になってからも役に立つ「血の通った教職教養」ではなかろうかと思っています。

 さて、勉強会の後半は、集団討論です。1つめは、「キャリア教育とはなにか。学校でキャリア教育をすすめていくためには、あなたはどのような取り組みをしますか」でした。20分6名で議論していただきました。仮にA〜Fさんとして、議論を再現してみましょう。

 まず、Dさんが口火を切り、テーマにしたがって、そもそもキャリア教育とはなにかを順次述べていこうという提案があって、参加者全員がそれに答え、次にテーマ後半の「問い」に向っていきました。Dさんは、「学校卒業後、君たちがどういうふうに生きていくのかを一緒に考えたい」という語りかけ口調で集団の雰囲気を和やかにしつつ、いかに仕事の魅力を教えていくかということがキャリア教育にとって必要と述べられました。つづけてBさんはそれを継承しつつ、仕事の魅力から生徒の意欲や関心を引き出すこと、もっといって働くことの意義をどのように伝えていくか、それが大切であり、キャリア教育を進路指導、職業指導と重ね合わせて取り組んでいくことの重要性を提起されました。兵庫県のトライやるウィークについての関連発言もありました。

 また、Cさんからは、この両者の意見をまとめようとしながら、生徒に勤労観、職業観を植えつけること、そのためには社会人に学校へきてもらって講話をしてもらうのがいいと実践的にご意見をだされました。具体的なイメージを抱かせるよい提案で、その講話を無駄にしないよう、事前事後指導を忘れてはならないと付け加えられたのがよかったです。

 Cさんがこのバトンを受けて、「身近にいる大人が仕事のおもしろみを伝えるのが大切で、社会人の方に来ていただくのが、現在の学校の在り方を考えると簡単に導入できる」とご意見がありました。このように文章にすると、「簡単かな」と再考してしまいますけれど、討論の場では自然な発言であったことをお断りしておきます。

 このように将来を生徒に考えさせる、Fさんの言葉を借りれば「夢」をもって生徒が学校生活をおくることができるかどうか、こうしたことがキャリア教育推進の大前提となるのでしょう。つまり、長期的な展望で職業指導、進路指導ができるかどうかですね。

 議論はこのような流れにありました。そこに違った角度からのご意見がAさん、またEさんから登場することになりました。すなわち現実的な、地に足着いた発想といいますか、つまりこういうことです。Aさんは、働くことの意義を確認することはもちろん大切で、それに加え、たとえばPC活用能力、様々なスキルを身に付けることが、キャリア教育の支柱にならないか、ということです。これはもっともなご意見です。こうした立場から、自分で表現した英文をPC上で書き、やりとりする実践的な提案が述べられることになります。

 そしてEさんからは、「いま、君ができることを確認しよう」というご主旨のことが述べられました。そのことによって、自分の得意がなにか、仕事と結び付けて考えられるのではないか、学校における学習と職業とのつながりが見えてくるのではないかということです。「大人がやっていることと学びがどのようにつながっているのか」を考えることは、教科教育に新鮮な息吹を吹き込むことでしょう。

 いわば、「働くことの意義」と「実務的能力の育成」がセットになってキャリア教育が推進されると考えていいのでしょうか。前者が長期的な意図をもって指導されるのに対し、後者は短期的な目標設定とそのクリアを主張するものでしょう。

 このほか、生徒が社会人の仕事をよく知ることによって、自分のイメージしていたものと違った場合、軌道修復できるメリットがあるというご意見や教科教育と生活との接点を求めるご意見がありました。短期的目標として英検5級をとらせようと励まし、目に見える成果が生徒を成長させるとAさんがおっしゃっていたのも印象に残っています。ただ、生活するうえで数学がどれほど役に立つのか、四則計算ができれば十分ではないかと生徒にいわれ、うまく答えられなかった経験をFさんは質問として他の討論者に訴えるという場面もあって、ある種、「大丈夫かな」と感じさせられもしました。しかし、それは素朴な、また、大学卒業してすぐの方の、当然持つべき疑問として許容されるでしょう。しかし、しかし、いつまでもそのいわば哲学的な問いに答えられないようでは困るのも事実です。自ら考え問題を解決する、それが生きる力なら、そうした質問に回答を自ら与える努力をおしまないようにしましょう。

 例によって、こちらをリンクします。

 ところで昨日のNHKの特番は、是非、再放送をみてくださいね。ワタクシは、ナマでNHK特番をみて、マトリックスを録音してましたので、結局両方みちゃいました。したがって、NHKの方はテープに残していないのです。普通、逆ですね。反省。

 キャリア教育は、教員や教育関係者の話題によく登りながら、いまひとつつわかりにくい「教育」です。基本的に、「キャリア」ですから、職業、仕事と関係する教育であることは想像がつきます。しかし、あらためて「なにか」と聞かれれば答え難い問いといえるでしょう。参照すべきは2004年1月に「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議」が答申した「児童生徒一人一人の勤労観、職業観を育てるために」でしょう。目を通しておいてくださいね。

 さて、2題めは、「国際コミュニケーションの時間をあなた方の学校で作るとして、どのような取り組みをしますか」でした。このテーマで、6人の方に議論していただきました。構成は中学志望の方1名、他は小学校志望者です。

 外国の言葉や文化を理解しようとする試みは、国際理解という名で、総合学習のテーマ化されやすいことはご承知でしょう。今後はこれが独立していく可能性もあります。たとえば、小学校教育に英語を導入するかの議論はそうした傾向の先端でしょう。

 このテーマで議論していただいて「なんとなくわかった」のは、それを見ていた参加者の方もおっしゃっていましたけれども、集団討論に2つの形態あるいは流れがあるということです。1つは議論が噛み合って、参加者の意見が響き合い同調または反発しあって議論が盛りあがる形態です。もう一方は、出し物的討論です。今回の2つめのテーマは、まさに出し物的討論でした。それがいいか悪いかも1つの「問題」でしょう。しかしそうした形態があるということを知っていれば、その打破の仕方もある程度準備できるのではないかということです。

 出し物的討論とは、「私はこんなことをやってます」、「私はこういうのを考えています」、「私は勤務校でこうした試みをしました」というように、このテーマに即していえば、国際コミュニケーションに関する授業案のオンパレードのような討論のことを意味します。これは時折出現する討論形態で、打破するのは難しいです。「総合学習でなにをしますか」といったテーマでもあらわれやすいものです。出し物は、それはそれで面白い。しかし、それを参加者同士がいわば「鑑賞」しあって、ほめあいで終わってしまうのです。議論ではなく出し物。本番で、「だからなんなの」と、「シーン」としてしまう場合もあります。

 ワタクシたちの討論にあっても、こうした落し穴にはまりました。たとえば、他文化を理解するのにカレーを作る、知っているインド人を講師に呼ぶ。バナナをスーパーで買い、その産出国を調べる。ワタクシたちの身の回りには海外文化があふれている、それを理解していこう。そのルーツを探ろう。中国人や韓国人の文化を知るためにそれぞれの料理を家庭も巻き込んで作ってみる、などなど。1つひとつはよろしい提案なんですが、まさに、だからなんなの、となってしまいます。

 それゆえ、残念ながら今回は建設的な議論とはいえなかったかもしれません。しかし、このテーマを議論する前提に参加者のみなさんがもっていた倫理的土台、これは議論するに値するトピックであると思います。つまり、文化の相互尊重、相手を理解し相互に歩み寄る態度の育成、外国文化に対する差別意識の撤廃などです。こうした、国際コミュニケーションの前提的議論、どのような出し物を実践しようとも忘れてはならない理念を出し合い、いわばここの授業、提案を貫徹する支柱を作ることが、「学校で」組織的に行なう国際コミュニケーションを考える場合、必要不可欠なポイントといえるでしょう。

 今回、そうした意識が参加者に共通認識としてあって、それがもちよられていたのは評価できる点です。

 いや、出し物的テーマが与えられたときの対処の方法を考えておかなければなりませんね。みなさまお疲れさまでした。次回は、個人解剖です。挑戦される3名の方々のご健闘を祈っています。そして、それを評価する側の勉強会参加者のみなさまからの積極的なご発言を期待しています。一定のルールの下、なんでもいいあえる雰囲気作りの形成に努める所存です。

 勉強会終了後の「コーヒー会」では、討論でいい足りなかったこと、指摘が足らなかったことを補いました。時間があれば、参加者のみなさま、こちらの方にも来てくださいね。

(2005年4月3日)

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