浩の教室・第35回勉強会の模様

 昨日は、第35回浩の教室主宰教育学勉強会にご参加いただきありがとうございました。本日はめでたく満席になりました。序盤は中教審のまとめと、教員免許更新制の答申の問題および解説をいたしました。いつもの2倍分量がありましたので時間を食っちゃいましたが、まとめとしてはあのようになります。取り上げた問題は簡単でしたが、その後につづく解説をしっかり復習してください。問題で解説した答申類から必ず出題されるからです。答申全体を通した理解の上で、個別的な答申の意味を考えることが大切だと思っています。次回はまた別の問題を用意します。京都の状況も鑑み、人権教育のシートを作成しようと思っています。

 さて、中盤は集団討論をしていただきました。「義務教育において、児童生徒は勉強する義務があるのかどうか議論してください」というテーマでした。かなりに哲学的な課題でしたので、採点官役のワタクシが、テーマをいい渡す前に、かなりの説明をしました。それを聞き漏らさず議論していただけたことをうれしく思っております。

 もともとこのテーマで討論していただきたいと思ったのは、現在ワタクシが読んでいる本の内容について、みなさんにも考えていただきたいという、ある意味「よこしまな」意識からです。広田照幸先生の著書『教育には何ができないか』春秋社・2003年を読み、ワタクシはなにがしかの刺激を受けたのですけれど、そこでの議論に、このテーマにつながる問題が提起されているのです。詳細はいずれまた書く(かもしれない)として、かなりに「いい過ぎだなぁ」と思われる展開がこの本にはあります。しかし、本の題名からしてもそうなのですけれど非常に刺激的で、正鵠を射た教育に対する提言にあふれています。「教育の権力性」を赤裸々に語っているのは、ズバリと現在の教育の諸側面を束ねて斬る視点として「ギター侍」以上の挑発をもっています。ご一読を期待します。

 さてワタクシたちの討論は、6名の方々にしていただきました。男性2名、女性4名(小学校志望2、中学校志望4。仮にA〜Fさんといたします)です。この難しいと思われるテーマに、途切れることなく議論していただけたので、他のどのようなテーマであろうとなんとかやっていけるのではと思っております。

 まず、Cさんが、あるミュージシャン志望の生徒から、「なぜ勉強せなあかんのん」と問いかけられた経験を糸口に、テーマに迫っていかれようとしました。「おれ、ミュージシャンになりたいから、音楽はがんばるわ。けど、国語や算数はいらんねん。しなくていいねん」と、よくある先生と生徒との受け答えから、「勉強する義務があるか」に答えようとしたのです。「あんたがミュージシャンとして成功して有名になることを先生は願っている。でもなあ、有名になってインタビューを受けたとき、国語を勉強してないと、話し方も変になるやろうし、そんなところ先生みたら悲しいわぁ」といって諭したということです。ここには、教員の誰しもが感じる根本的な「学び」に対する疑問があると思われるのです。主体的な意識なしに「学び」が成立するのか、学校が強制力もって教えようとするのは無意味なことなのかなど、一度ならず、かい潜るやりとりでしょう。しかし、結果的には、Cさんも児童生徒は勉強する義務があるというところでは、テーマに対する否定的見解ではありません。それは、他の参加者もすべてそうです。もちろん先生になりたい方ばかりなのですから、当然といえば当然なんです。ただ、ちょっとまってみてほしい、学校にくる児童生徒は勉強を本心からしたいものばかりが集まってくるのか、それは疑問です。

 ワタクシも教育に従事していますが、真剣に勉強あるいは学問をしたいと思ってきている学生は残念ながら経験上超少数派です。上の受け答えは、児童生徒学生のマジョリティーなのではないでしょうか。とすれば、そうした声を絡めとるシステムを用意しないと、学校はツブレです。個に応じた指導と平等な教育水準の提供(=基礎基本という名の教育内容)という2つの均衡にして幸せな天秤をとれるかどうかにかかっていると思われるのです。「ああしなさい、こうしなさい」といっても、学校あるいは教員に力がなくなれば、児童生徒は「ああしなさい」の内容をやりません。

 DさんやEさんがいうように、国家・社会の形成者、文化の伝達者として教育する義務がワタクシたちにあるといっても、その主体たる児童生徒がどこ吹く風のような状況で、意図した教育が実現できるのかどうか。また、様々な試行錯誤をしていくことが「勉強」であるとEさんがおっしゃっていたのは正当な意見です。それをワタクシたちの側がどのようにして説得力をもちつつ児童生徒にいえるのか。さらには、ワタクシたちの社会意識は、それに答える児童生徒に即した「決め手」をもっていないんじゃないか。

 話題は転換し、義務というからダメなんじゃないか、「義務と感じさせない教育」をやっていかないといけないのではないか、「なにかものを考えずにはいられない授業をすることが必要なのではないか」というご意見が、AさんやBさんからでました。つまるところ「勉強の魅力」を伝えることが、「教育を受ける権利」意識を復活させるという議論だと思われます。たとえば、義務という言葉には、勉強を強制させるニュアンスがある、勉強には苦痛が伴なうものであると思わせるニュアンスがあるという発言もそうでしょう。もちろん将来の夢をもたせることによって学習意欲を向上させ、学びにめぐり合う姿勢こそ大切なんだというFさんのご意見ももっともなのです。子どもたちが好きな教科の実力を伸ばすことももちろん大切ですし、そのためにワタクシたち教員がしっかりしていくのも必然です。Eさんの、「教員も教える義務があると構えるのではなく、一緒に学びたいという気持ちがあふれるようになればいい」というのも一理、いやそれ以上に「そうだ、そうだ」という応援の声が聞こえてきそうな発言です。

 先生になりたい立場からいえば、どうやって児童生徒を指導するかに教育の本質を見出すし、それが正常であるといえます。ところが児童生徒の側には学校以外で学ぶ道も多々用意されてきている現状、学校がなんか「うまいもの」を用意できるのかどうか。わだかまりはそこにあります。「うまいもの」を用意できない現状の学校は、悪童に対して「出席停止」を振りかざすことにもなり、「ためらわず道徳を教えよう」ということにもなっています。

 教育制度の複線化は勉強しなくていい選択肢もあるいは用意していくことになるやもしれません。そうした意味で、「学校教育が卒業というパスポートを用意し、社会に船出するにあたり一定の資格となるが、家庭教育がそうした『権威』をもてるのか。もてないであろう」というご意見は、義務教育崩壊を仮定し心配するものであり、義務教育は、逆にいえば絶対ツブレないという自信でもあるのではないでしょうか。

 学校教育が死に体になっている現実において、それを立て直す手立てに苦しんでいるわけで、教員のなすべきことって一体なんなのでしょう。このテーマに解答はないし、いつでもいつでも考えなければならない永遠の問いだと思います。

(2005年5月29日)

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