浩の教室・第36回勉強会の模様


 昨日は、第36回当サイト主宰教育学勉強会にご参加いただきありがとうございました。今回も定員(男性7名、女性10名)いっぱいとなりました。昨日は新しくご参加の方を2名も迎えることができ、大変うれしく思っています。

 そして、この勉強会から、寄宿舎指導員に合格された方がいらっしゃり、関西を去られるのは寂しいものの、新しい出発を参加者全員で喜び、送り出しました。かの地でもやっていけると信じています。また、一緒に勉強したことをお忘れにならず、さらなるステップにつなげていっていただければウレシイです。いつでも勉強会に遊びに来てくださいね。そして、ルパンさんのように、後輩へのご指導お願いいたします。

 さて今回は、シート式の問題解説では、人権教育をテーマとし、最近の「人権問題」状況と同和教育から人権教育につながる「発展」的な歴史を、国連の動き、我が国の行政の動きに即して解説いたしました。穴埋めの問題は奇を衒ったような感じではありますが、みなさま、おおむねできていたようで、よかったです。次回はまた、違ったテーマのものを用意いたします。3枚から5枚のペーパーで60分か70分という配分も妥当かなと、5回やってみてようやく感覚をつかめてきました。ところで7月後半は必要に応じて模擬授業、個人面接を取り入れていきたいと計画しています。7月31日は、1次試験の検討会も設けたいと考えています。

 次に集団討論をしていただきました。参加者は、男性3名、女性3名の計6人の方々です。お2人が養護教諭志望、4名が中学志望でした。A〜Fさんとします。テーマは、「『家庭の教育力とはなにか』ということを教員の視点から語ってください」というものでした。約25分間の討論です。

 このテーマは、テーマに即した議論がしにくかったのでしょうか、設問の意図と違う方向にいってしまったようです。家庭の教育力の中身がどのようにみなさんに捉えられているのかを答えていただきたかったのに、「3者連携で児童生徒を育てる」となったり、「3者が集まることのできる場の提供」となったりしてしまい、「教育力」の中身の検討は置き去りにされてしまいました。ここではそうした議論は必要ではなく、教員のまなざしから家庭をどうみているのかを尋ねたかったのです。そういう意味では、一番最後に口を開いたDさんの発言が、最も的を射たものでした。Dさんの、ただいま母であり受験生でもある立場を反映し、「子どもの成長に興味のない親もいる」発言や、「勉強中心なのが教育力と捉えている家庭もある」発言は、なかなかいい難いことをズバッといっており、問題の所在を鮮明にした点で討論に大きく貢献していたと思っています。

 家庭では、自信をもって子どもを育てているのではないとの発言も、母かつ受験生プラス講師経験から、おのずとでてきた感慨ではないでしょうか。ご自身も悩まれながら育児に奔走されているのでしょう。昨日の勉強会において、先にお帰りになった新米パパさんにも聞いてみたいところでした。そうした不安を抱えながらも、それと裏腹に子どもは親の背中をみて育っていることも事実、とおっしゃっているのも印象的でした。これをもう少し、「教員の視点」から語ってもらえれば、もっと鋭い指摘になると思います。

 そして、Fさんの学童保育指導員の立場から、これまたいい難いことを語っていただいたのも、新鮮でした、Fさん曰く、学童保育に子どもをあずけて、あずけた親は実は育児放棄に近い状態であった、と。そうしたケースがあるであろうことを想像はしていたものの、実際にそうであるとは驚きで、それだけ家庭のシンドサがみえてきて興味深い発言でした。つまり、それだけ子どもの教育に疲れている家庭が存在するということです。とすれば、土曜日など、どんな状況なのでしょうか。社会で労働している親の疲れが、子どもを教育できない理由になるとすれば、どこをどう改善していけばよいのか、あるいはみえてくるかもしれませんね。

 ところでこうした家庭に対する批判をいうことは、採用試験では憚られるところだと危惧される向きもあるようです。しかし、当り障りのない討論より、一歩踏み込んだ討論をワタクシは支持します。しかし、これはワタクシの支持で、それが一般的であるとは思いません。しかし、しかし、面接官の方々も、人の子であり親であり、教員であるし社会人です。だから、やはり日頃おかしいなーと思っていることやある意味学校現場に対する不満を知っています。まして教育委員会で保護者からの苦情電話を捌いているとすれば、ワタクシたち以上に「最近の家庭像」を知っているといってもいいでしょう。つまり、ワタクシたちは釈迦の掌で議論しているということもできると思うのです。胸を借りるつもりではじけることも必要でしょう。悔いなき討論にしてください。

 こうした意見が登場した後、Bさんから提言がありました。家庭には家庭の教育方針がある、そうした意識が高くなると、個々別々の家庭の児童生徒をあずかる学校は、分解してしまうのではないか。学校はそんなに多様なシツケキョウイク要求を無制限に受けとめられるほどフトコロ深い存在ではない、といったニュアンスのことや、親の考え方が絶対であると思い込んでいる家庭では、きっつい親の庇護下で児童生徒は自我の発達を阻害される危険もあるのではないかとのご意見です。

 こうした家庭の教育方針の偏りを、どのようにして平準化していくかも学校の役割なのでしょうか。自問自答する形でBさんは、「だから私たちの学校ではこうするんだ」というスタンスを明示することも必要ということをおっしゃっていたように思います。「学校、教員があけっぴろげになって、一緒に教育していこう、私たちは児童生徒を教育する作戦参謀になっていこう」という発言が、新しい意味での学校の方針になるのでしょう。

 Eさんからは、学校がここまで、家庭がここまでと線引きできるものではない、といったご意見がでました。これはどうでしょうか。いまではこの線引きを、家庭がしてきているのではないかとワタクシは考えています。極論すると、「うちは勉強を塾でやらすから学校はあんまり邪魔せんといて」というような啖呵を切る親もすでに存在しているでしょう。難しいところです。この線引きがアイマイな点線であったのを、上からなぞるように実線にしたのが、最近の教育行政ではないでしょうか。学校は学校ができることだけを提供したいといっているのは、学校側からの線の引き方です。そうでないと学校が広義の教育的営為を無限抱擁してしまいかねません。

 そして、逆にもっともっと学校はめんどうみてくれという立場もあって、それがFさんによって具体的に告発するように語られていたということになるのではないでしょうか。

 残念なのは、最初に書きましたように、あくまで「家庭の教育力」をテーマに据えなければならないにもかかわらず、「連携」という浮かびやすい言葉が災いし、口をついてでてしまったことです。それが致し方ないといえばそうでしょう。しかし、いつでもテーマを念頭に議論しないと、あらぬ方向にいってしまいます。たとえば、Aさんは地域の進学校に進めたいと願う親がいて、教育力=学力と捉えているところもあるというご意見を提出されました。ここまではよかったのですが、その後、だから3者連携して云々というのは、残念ながら舵取りをあやまったというべきでしょう。

 Fさんの発言を受けてCさんが共働きの家庭もあるし、子育てに無関心の家庭もある、だから、「まとめ役としての先生」でありたいというのも、テーマから逸脱した方向といえます。しかも、「まとめ役」という新しい仕事を学校は抱え込むことになります。「教員としての視点から語ってください」は、「教員としてなにができるかを語ってください」とは違います。それは、繰り返しになりますが、「家庭の教育力とはなにか」を解剖した後の議論にしてほしいのです。そして20分という時間はそれを許さないのではないでしょうか。いいかえれば、テーマの問いである「教育力」に定義をくだした上で、その解決あるいは家庭の教育力低下をこれ以上させない方法を論ずるべきでしょう。

 なお、Bさんの「教育方針を明かしたくない家庭もあるのではないか」という指摘は鋭いですね。そこからも教育を考えるきっかけがあるといえます。ご自身で考えを深めてください。期待しています。

 ところで、討論終了後、全員の方に次の質問をしました。「家庭の教育力と聞いて、@教育力=学力方面の育成を家庭が担当する、A教育力=基本的生活習慣などしつけ道徳の養成を家庭が担当する、どちらをパッと思い浮かべますか」。全員が全員、Aでした。イヤー、これは、これは、でした。こうした教採受験生の意識は、裏返せば、学校はしつけや道徳を養成しなくていいのかなー、と思ったからでした。これはいいすぎですね。家庭の教育力として、Aを教員のタマゴたちは求めている、基本的生活習慣などしつけ道徳の養成方面の教育力が低下していると全員がみなしている…。現在の家庭の実態はそれほどにAの意味での教育力が低下しているのですかね。講師の方が多いので、現実の学校を知っていらっしゃるので、真実なのでしょう。

(2005年6月5日)

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