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浩の教室・第48回勉強会の模様

 昨日は、当サイト主宰・第48回教育学勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。昨日は、平日にもかかわらず、男性4名、女性10名の方にお集まりいただきました。新しくご参加いただいた4名の方、いかがだったでしょうか。勉強会の後のコーヒー会では、個別に新鮮なご意見をいただき、ありがたく思っております。いたらぬところがあることは重々承知ではありますが、ご参加のみなさんの要望を受け容れつつ、この会合をよりよく発展的に「創造」してまいりますので、今後もよろしくお願いいたします。

 さて、昨日は、集団討論を2テーマ、および場面指導と個人解剖を実施いたしました。個人解剖は、個人面接と同じですが、面接終了後にどこをどうすればいいか、徹底的にみなさんと議論し、問題点を解消していくというものです。単に面接を受けてハイ終了ではなく、まさに解剖する時間です。

 討論のテーマは、「現在求められている学力とはなにか」と「部活動の意義について、担当できる部を報告しながら議論せよ」でした。

 場面指導は、受験者が小学校における理科実験室使用にあたっての注意(小4対象)を授業でしている最中に、児童役が授業妨害の態度や言葉を投げかけ、その対応をみる、というものでした。本番の試験では場面指導において、邪魔する役は面接官が担当します。立ち歩いたり、携帯を鳴らしたり、友達と私語したり、邪魔の形態は多様です。

 この勉強会では、個人解剖はひとり15分程度、突っ込み満載の少々圧迫型を採用しています。

 個人解剖では、右欄のシートを活用し、コメントを各参加者が記入、それを交換するといういつもの手法です。個人解剖は、10名以上の参加者の前で、ということは衆人環視の下で、面接官役であるワタクシが対象者に質問を投げかけます。それを参加者全員が聞いている。いってみれば10数名の目が対象者に注がれるわけです。かなりの緊張を強いられるでしょう。だからこそ、これを乗り越えられれば、度胸がつきます。しかも、参加者それぞれの視点からのコメントが得られることになります。

 1次面接とちがい、2次面接では、かなり突っ込んだ質問が想定されます。「対象者の人間性を引き出す」観点から、対象者の返答に突っ込んでいきます。付け焼刃では対応できないですね。ワタクシは、できるだけ面接対象者をシドロモドロになるよう追い込む。対象者は、逆に、一本筋が通った受け答えになるようがんばる。

 面接は姿勢です。それは、背筋が伸びているなど外面的なものも含みますが、発言の一貫性、上にいったようにシドロモドロにならないしっかりした自己をお持ちであるかどうか、ということを意味します。自分の発言した言葉に責任を持つといいますか、ある種の力強さが感じとれるかどうか、ではないでしょうか。しかもそれが横柄でなく、説得力がなければならない…。難しいものです。

 ところで、みなさんからの受験報告をナマでお聞きして思うことは、自治体によって面接のやり方がウマイ自治体、ええかげんな自治体があるなあということです。大阪府・市はいずれでしょうかね。膨大な数の面接を捌くと、なんらかの見落としがあるものです。面接を受けられる方は、「印象に残るなんらかの工夫」を是非ともすべきでしょう。

 思うに、面接官は、質問することに必死で、加点式か減点式か、面接評価の方法は多様ですが、なかなか採点するところまで気がまわりません。何十人、何百人やってるうちにフラフラになります。それは事実です。長くしゃべられると、前半部分を忘れることもあります。質問したいタイミングを面接官は持っています。そこのところに間をあけず、受験生が話しつづけてしまうと、「聞きたいことが聞けない」事態が発生します。これは、面接においてはなはだ損です。向こうにわかっていただきたい、という態度を受験生は常に意識してのぞむ必要があります。

 フラフラになるからこそ、面接官は複数人を用意されます。また、ちょっとした失敗を咎められても、そんなところが評価の対象にはなりにくいです。小さな失敗を面接の途中でクヨクヨするより、結構大胆に最後まで切り抜けるようにした方がよいです。面接は与えられた時間精一杯表現している受験生に対する総合評価だからです。

 ワタクシは、個人解剖の面接官役として、のべ人数でいうと100や200はみています。そうした経験からいえることを上に書いています。しかし、この意見はワタクシのもので、それがそのまま各自治体の面接官に共通するものとはいえません。しかし、「面接は姿勢です」というのは、真理ではないかと考えています。10〜15分の受け答えでなにがわかるのか、というご意見もあるでしょう。だが、相当みえてきます。

 面接官は多様な受験生をみていますし、なによりも多くの児童生徒を育てている方々です。したがって人間を類型化し、ある人とあって二言、三言、会話すれば、その人物がどういうタイプであるのか判別できる能力を持っています。しかし、まま、予断や先入観があることは否定できませんが、そうでもしないと数多の人数をみる採用試験をこなすことはできないでしょう。

 ワタクシの経験からいってもそうで、自分自身の持っている人間類型の、どのタイプ、パターンにあてはまるか、みています。その人間類型の豊富さが、面接評価のヨシアシにあらわれてくるものでしょう。

 さて、集団討論のテーマは、「現在求められている学力とはなにか」でした。これを6名の方に25分で議論していただきました。例によってA〜Fさんとして、討論の模様を再現してみましょう。

 まず、Eさんから、学力といってもどういうものなのか幅が広いので、だいたいのところ参加者のみなさんがどのように捉えているのか一人ひとり述べていきましょう、という提案がありました。これを受け、参加者全員が思うところを順次、述べていくことになりました。

 Dさんは、学力とは読み書き計算の力をつけることであり、まとめていえば「生きる力」が学力ではないか、問題解決の能力を身につけることこそ、現在求められている学力ではないかと述べられました。つづいて、Aさんが、基礎基本を身につけることが学力を身につけることであると主張されました。また小学校教育では、今後中等段階で学ぶ土台としての学力を養成するべきであると強調されました。小学校で九九も満足に学習し切れていない状況を打破しないと、なんともならないからというご自身の教員経験を踏まえての主張です。このほか、Aさんは、学習そのものに対する興味関心を持つことそれ自体が学力であると述べられました。

 Cさんは、学級崩壊も散見される現状、「なぜ学んでいるのか」を理解させつつ、将来にむけて必要とされる学力を付けさせていきたいと抱負を語られました。ただこれは、学力の中身を表現したものではなく、ある意味状況把握であり感想であったので、議論を別の方向にむけさせてしまう危険性がありました。そしてそのレールに集団がのってしまうことになります。というのは、Cさんの学級崩壊という言葉に敏感に反応していくことになったからです。

 順番に学力とはなにかの定義を話すよう討論は進行していっていますので、Bさんは、Cさんの言葉を少し横におき、これから社会にでていく子どもたちには読んだり書いたりする能力、創造していく能力が必要であると述べられました。ここに、AさんとCさんの違いがありましたが、トピックにならなくて逆によかったです。つまり、Aさんのいう中等教育に進む子どもと社会にでていく子どもではニュアンスが若干相違するからです。

 最後にFさんは、学習の仕方、やり方を身につけること、学習方法を修得させることが現在求められている学力ではないかと、他の方が指摘していないご意見を述べられました。最後の発言者は、おうおうにして他の方のご意見の繰り返しになる場合が多い中、違った角度からの切り込みは印象に残ります。また、Aさんのご意見とともにFさんは学習意欲について触れられました。

 そして一巡したところでここから議論が本格化します。EさんがAさんの発言をうけ、塾で中学生を担当した経験から、割り算や少数を理解しないまま進学してきた中学生を指導する困難さを述べられ、わからないまま学年だけがあがる問題性に触れつつ、その結果、学習に対する集中力もなくなると指摘されました。さらに、Cさんの問題意識を汲み、たとえばひきこもりや不登校の子どもたちは、勉強がわからないより先に生活習慣が崩れていっているのが問題ではないかと議論をつなげられました。Eさんは、こうしたことから、生活習慣を自己管理するする力も学力に含めていいのではないかと主張されました。これがCさんの発言とともに波紋を呼ぶことになります。また、聞いている参加者も展開が変わったと感じられたところでした。

 生活習慣を自己管理する能力が学力であるという前提がおのずとできあがってしまったように感じられたDさんは、しんどそうな小学生をみてその理由を聞いてみると、「朝食べていない」という返答があったということを報告され、学校と家庭がタッグを組んで生活習慣を整えていかなければならないとご意見されました。

 討論が微妙にテーマからズレていっているように感じられた部分です。

 さらにCさんから、学びんぐサポート経験が語られ、不登校の現状をどうみるかと、テーマからのズレが鮮明になってしまいました。学力論と不登校問題とは、深いところでつながっているのはワタクシも同意するのですが、現在求められている学力というテーマに対して、生活習慣、そして不登校とトピックが移動すると、採点官役のワタクシとしましても困惑します。Cさんは、無自覚ではあるでしょうが、問題意識が強くて不登校など学校をめぐる病理の解決の方に論をもっていこうと「誘導」されていたようにも感じられました。討論参加者にもそう思われた方がいらっしゃったようです。ただ、こうした問題意識が強いことは、それだけCさんがこれを深く考えようとされているわけで、それはきわめて大切なことです。

 こうしたズレを含む展開は、はじめて会ったものどうしですし、調和をはかるのは難しいものです。それをなんとかしようと、Fさんが、学習用具の話題を提供されました。学習に対する姿勢が児童生徒の持ち物に、自然、あらわれるものです。忘れ物の多い子どもは、その子ども自身の「注意度」にも依るとともに、家庭の教育に対する「関心度」にも依りますね。このほか、給食袋や体操服袋の汚れ方や、学校に持参する様々な教育的小道具の状態に、家庭と学校との接点を見出すことは可能でありましょう。このFさんの発言は、こうした議論を掘り起こすだけではなく、Fさんの内面的感覚としても、聞いている側の客観的感覚としても、議論を立て直す発言です。このように両者から捉えられているところに、討論に対する貢献度つまり評価が認められます。というのは、議論が上のように撹拌してきたとき、もう一度、純粋にテーマに即した「学力」問題へと舳先を切ろうとしているからです。不登校や、生活習慣の話題を、学習用具を話題にすることで受けとめ、かつ、鉛筆や消しゴムが揃っている児童生徒の状態が、学力を身につけさせる前提になるとして、ここから学力そのものに話題を戻す契機になっていることが理解されるからです。ただ、このあと、Dさんの発言が、ものを大切にしない子どもが増えているという論調となって、また別の方向にいかないかどうか、少し心配ではありました。

 議論の立て直しは、Aさんの発言にもうかがわれます。前の議論をスパーンと切り捨てて、もう一度学力とはなにかに立ち戻り、ご自身の教員経験から、難しい問題も自分の力で解決するためにはどうすればいいか方法論を提供されました。それがスモールステップを設けて子どもを理解に導く、達成感を味わわせるという発言となりました。個人の課題解決の方法論、そして問題解決の先に、教員として「感動する心」を子どもたちに身に付けさせたいとのご意見は、力強いものでした。これを受け、そうした学びへの姿勢をどうすれば自覚させられるか、Cさんから発言がありました。子どもは、「やれやれ」とせかされてもそう簡単には勉強するものではない、だから、態度で示すことが大切なのではないか、と。大人の姿勢を子どもは観察しているのだから、教員をめざす私たちを含め、大人一般が学びへの姿勢を示すべきである。読書についてもそうだろうとのことでした。ここには、教員の「常に学ぶべき姿勢を忘れない」という教員という存在への反省が確認できます。教材研究にせよ、生徒指導の実践力の向上にせよ、それを自分たちの課題として強く主張することが、採点官へのPRになりますね。

 Eさんからは、先生だけが学びへの興味関心をもたらすのではないという意味で、友人に触発された経験を披露してくださいました。Dさんも、友人と学びあい、切磋琢磨する重要性を指摘し、自尊感情の形成が大切と述べられ、学習の前提に子どもたちの相互の尊重があって、それが学級の学ぶ姿勢を強化するという内容を主張されたと思います。とすれば、Cさんのいわれたように、学力の向上の根底に良好な対人関係の形成が望まれるというのも当然でしょう。

 ここでEさんが、情意の伸張と学力の形成の問題は区別して捉えていたと述べられ、それが過ちであったと教育実習経験から教えられた旨、報告的にご意見されました。国語の物語の授業において、登場人物の心理を追いつつ進めていくやり方は、単に知育ではなく、心情理解というところから人の心を理解しようとする情意感覚の向上につながっているのを、実習の担当教官から教わったということです。

 この発言をはさみ、Bさんから、自尊感情、セルフイメージ(セルフエスティーム)を高く持たせるにはどうするべきかと問われ、自分を表現できる場所をみつけられるかどうかがきっかけになると述べられました。体育のできる子は、体育の授業におけるモデル例に登場させることで、自尊感情が満たされ、自分を認めてもらえる場となると、現場をイメージしながら述べられました。では、特別支援の場では、これはどういうようになるのかとDさんにバトンがわたり、以降、特別支援教育における学力形成がトピックになりました。

 学力の基礎を築きにくい子どもがいる、LDの子どもが6%も存在することをどう捉えるか。いわゆる健常児の学級にLDやADHDの子どもがいる場合、どのように学級全体としての学力形成を進めていくべきなのか。Dさんの提供されたこの問題は難しい課題です。

 討論の豊かさが、こうした特別支援に話題が進むことで感じられました。Fさんから、障がい児だからといって区別してはならないと別学体制批判の意見もでましたし、Cさんから、知的障がい児に対する指導、叱り方のご意見も登場しました。さらには、簡単な算数の問題を解くにも時間がかかる実態をどのように解決し、障がい児の成長を見守るべきかとAさんが述べられました。生活に役に立つ知恵を伝えさせる工夫をするべきとのことです。そのためには、学べば伸びるという教育の可能性を信頼し、課題を細かく分け、私たちの指導が障がい児にしっかり伝わるようするべきで、彼らが学びへの階段を登れるようにしたいとFさんが述べられたところで時間がきました。

 現在求められている学力とはなにか−これがテーマでした。最後に欠落したトピックを単語で示しておきましょう。小人数教育、能力別学級編成、OECD、ゆとり教育などです。学力をどう捉えるか、評価の問題もあるでしょう。多様なトピックの形成が、この一行のテーマから可能です。豊かな討論を求めて、さらに邁進しましょう。それは、単に教採合格を越えた、みなさんの教育的な問題関心の深さに支えられるものでしょう。

 では、もうひとつの集団討論のテーマ、「部活動の意義について、担当できる部を報告しながら議論せよ」について考えていきましょう。討論参加者は、6名、20分間でチャレンジしていただきました。

 まず、1巡目には、どのような部活動を担当することができる、あるいは担当していた(いる)ということについて報告がありました。Aさんから順に、吹奏楽部、バレーボール部、放送部、ラグビー部、野球部、美術部、武道一般、バスケットボール部ということでありました。この討論のテーマを提示する前に、運動系でも文化系でもいいと指示しましたので、両方答えるのが最善でしょうけれども、報告するのはどちらでもいいと思います。

 1巡したところで、Cさんが、部活動の意義について挙手し話されました。部活動の意義は、チームワークを意識することや、ひとつの活動を通して互いに支えあっていることを実感することにあるということです。また部活動は学年の隔たりをなくし、活動する点に授業では得られないものがあると述べられました。Eさんも、上下関係が発生する集団の中で、自分自身の位置を捉える捉え方について学べるとされ、人間関係の形成の仕方をおのずと知り得る場であるとされました。Aさんも、クラスの活動では得られないものがあることを認め、かつ、どのような活動であれ、部活動はそれを続ける継続力を生徒に教えると主張されました。

 一方、Fさんは、学校生活におけるメリハリについて指摘されました。部活動がなければ学習活動=授業もうまくいかないのではないかということです。部活動は思春期の人間形成に大きな影響を与えます。主将ないしは代表者がリーダーシップを発揮し、自主的な集団活動を可能とするものが部活動です。生徒が主役といいながら、授業では教員が方向性を一定程度与えるのに対し、部活動はかなりの場面で生徒の自主性を尊重しますね。学校生活が有意義になるのも、部活動、授業の両者が欠けてはならないというのが、Fさんの認識であると思われます。ここでひとつ問題なのは、それでは部活動に参加しない生徒はどうなるのかということでしょう。これについてはご自分なりの回答を考えてみてください。

 Dさんは、Fさんの議論を引き継ぎ、部活動と教室でみせる顔は違うということを指摘されました。教員として観察眼を養わなければならないことを教えてくれる発言です。Eさんからは、部活動の成果について話されました。参加してそこで何が築けるか。そして、たとえうまくいかなくても、努力した成果はあるものであって、決して無駄にはならないということを、生徒に伝えることも教育的な指導であると語られました。

 ここでCさんから、別の視点が提供されます。練習量の激しい部活をどうみるか。ご自身が相当厳しい部活に所属されていたようで、そこからくる実感でしょう。いわゆる朝練もあって、早朝から学校に私はいく。だからお弁当もはやくに作ってもらった。そういう負担が家庭にもある。逆に、そうした負担が愛と感じられるかどうか。部活を支えるうえのような「母の愛」的協力や、顧問の指導があって、部活動は成立している。そこのところを気付かせる指導をしたいということです。部活動のことだけで家庭訪問に来てくださった先生方にも言及されました。ワタクシもそうですが、いまから思えば、先生って、休日をほぼ無償提供し、ワタクシたちの「面倒」をみてくれていたのですね。頭が下がる思いです。Fさんからは、こうした顧問の指導に関連し、目標設定を助けてもらったこと、挑戦していく姿勢を学んだといわれました。また、現在、高校で部活動指導している立場から、部活動において生徒が自分で工夫をしていく必要があると主張されました。練習のメニューもそうであるし、球技系におけるシュートの仕方もそうでしょう。

 Bさんからは、たとえばバレーボールでチームメートにトスをあげるにしても呼吸が大切で、相手のことを考えないと、トスもトスにならないということを語られました。チーム内における「思いやり」ということですね。そうした感覚を直接的に身に付けられるのも、部活動であるからでしょう。さらに、Dさんとちょっと意見が違いましたが、生徒の顔が輝くのは、部活動でも授業でも一緒、と述べられました。希望的にいえば、部活動でも授業でも輝く顔は一緒「でなければならない」ということになりますね。何事も、ひとつのことに打ち込む姿勢は美しく、部活は部活、勉強は勉強、というように別けて捉えるべきではないと発言されました。学ぶべき内容は違えど、学ぶ姿勢は両者ともに真剣さを伴ってほしいということですね。

 さて、さきに述べたFさんへの質問、「部活にはいっていない生徒はどうなるのか」については、討論参加者も感じられていたようで、Aさんがこのことを指摘されました。このことに関連し、顧問の立場に立つ私たちは、将来、どのようにして担当する部活の魅力を生徒に伝えるべきか、広報努力についてのヒントがないか、みなさんにご意見を求められました。部活動を敬遠する生徒を無理に入部させようとするのはマズイし、かといって、部活動に参加しなければ、生徒の活動範囲が狭くなるのは事実ですし、どう解消するべきなのでしょうか。

 原理的には、Bさんがいわれるように、目標をともにする部員と過ごす時間はなにものにも代えがたいでしょう。広報という点では、Dさんがいわれたように、部活動紹介に受賞歴を報告するだけでなく、どのようなことをやっているのか積極的に伝えていけば、賛同を得られ、入部もあるのではないかと述べられました。部活動の魅力を伝えることは、とても難しいですね。部活動の勧誘では、厳しさが伝わるばかりで、楽しさを伝えられないところに問題があるのではなかろうか、とは、Eさんの的を射た指摘でした。

 Cさんから、ここで、これまた別の視点の提供があり、学校の部活動のあり方について疑問を投げかけられました。現在の学校における部活動のあり方は、ひとつの部にしばられているのではないか。サッカーなら3年間サッカーをするというように、多様な活動を疎外する形態があると。多くの活動を経験することもいいことではなかろうかというご意見です。また、Fさんからも、大きなトピックになる、アルバイトと部活動の関係について話題提供がありました。どちらを優先させるかは、高校生活を左右する大問題です。Fさんは、「いましかできないこと」を尊重し、高校生として、生きている時間を燃焼するよう勧めたいと力強かったです。

 こうした最後の2トピックは、残念ながら時間の関係で、議論されないまま終了しました。このように、あとからあとから湧くようにテーマに関するトピックが登場することは、それだけ各参加者の問題意識および建設的な学校改革意識が豊富であることを物語っています。

 討論は、なにがしかの結論を要求される場合もありますし、発展的に議論が進行していればそれで可とする場合もあります。テーマの性格によって、どちらがよいか、規定されていくものでしょう。

 討論上達の秘訣は「場数」です。いくら参考書を読んでも、ほとんど進歩はありません。ワタクシはそう感じています。あす、また、実り豊かな討論を求めましょう。

(2005年8月24日)

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