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浩の教室・第49回勉強会の模様

 すでに2次試験が終了され、どちらにころぶにせよ安堵されている方、面接を来月にひかえ、学習パワーの持続に苦しんでいる方など、それぞれに日々を消化されていることと思います。そんな中、昨日、第49回当サイト主宰勉強会にご参加いただき、ありがとうございました。新しくご参加された2名の方、いずれメールにてご感想などお待ちしております。おひとりご参加いただけなかったのが残念ですが、男性6名、女性10名の方にご参集いただきました。

 当日は、集団討論を2題、個人解剖と模擬授業を行ないました。また、この勉強会の試みに賛同いただき、ルパン先生に来ていただき、強力にバックアップしていただきました。いつもながらのご支援ありがとうございます。勉強会の終了後のコーヒー会では、「うしろのこくばん」に書き込みいただいた「合格のための2次面接」をさらにわかりやすく口頭で教えてくださいました。ありがとうございます。

 では、討論の模様からお伝えします。ひとつめのテーマは、「人の心を読み取るとは、どういう力をつけることによって可能ですか、議論してください」でした。5名(A〜Eさん)の方に25分間で討論していただきました。

 まずEさんが、テーマに関連し、いまの生徒は集団になると「やんちゃ」であるが、一人ひとりをみればいい子どもたちであると認識しているといわれ、そうしたいい子どもたちに、はやいうちから様々な体験を積ませることが、人の心を読み取るよう個を成長させるのではないかとご意見されました。具体的には、就業体験やボランティア活動を実践させてみたいということです。

 Dさんは、特別活動や総合的な学習の時間を活用し、相手の立場を尊重しながら会話ができるよう指導したいと抱負を述べられました。

 こうしたEさん、Dさんの直接体験による児童生徒の情緒形成に対して、Aさんは読書をあげられ、読書活動を充実させることによっても、相手を思いやる気持ちが養われると主張されました。Bさんも、このAさんの意見を受け、直接経験的な他者理解も有効な方法である一方、文章を読み取る力の育成が、客観性を児童生徒にもたらすことになり、現実の学校生活における人間関係をスムーズに始動させることになると考えておられました。

 Cさんは、「人の心を読み取る」能力=コミュニケーション能力であると、ズバリと捉えられ、心のキャッチボールができるようにするにはどうすればいいかを問題にされました。そこから、心のキャッチボールは挨拶からはじまるといわれ、家庭環境が楽しくうまくいっていれば、挨拶も自然とできるようになり、コミュニケーション能力の端緒が築かれると述べられました。

 家庭のことが話題にあがったのを受け、Eさんから、保護者は子育てに不安をもっていると発言、家庭が正常に機能しないと、そこで児童生徒に安定した情緒性が育まれず、ひいては友人や先生との「付き合い方」にも齟齬がでてくるやもしれないと述べられました。またEさんは、Aさん、Bさんの間接経験の有効性の指摘に関し、もちろんそれも重要で、タイミング的に直接経験としての多様な体験を経験させていくことが意のあるところであるとご意見を補強されました。

 こうした直接経験と間接経験とのミックスによって、児童生徒の他者理解が進むわけでありまして、どちらか一方でよい、というわけではありませんね。そういう点では、こうしたふたつのご意見が集団討論のトピックとして話題にあがったことをこそ評価すべきでありましょう。問題は、ではこの両者によって培われる心情理解の力が、具体的にどう醗酵するのか、醗酵させるのか、というところにありそうです。直接経験と間接経験の螺旋階段的実施が、児童生徒にとって一番よい「教育」であることはまちがいありません。ただ、体験活動の最中に、文章理解を通して身についた能力を活かせといっても、それを自覚して捉えている児童生徒は少ないわけで、そのあたりはどうなんでしょうか。その逆はまたどうなんでしょうか。体験活動の事前・事後指導に、文章理解的な学習は可能であり、そうした展開に「人の心を読み取る」方法が具体的にあらわれるのかなとワタクシは考えています。

 とすれば、具体的な体験活動、たとえばこの討論の終盤でも登場しますけれども、老人ホームに行き、福祉感覚を身につけることや高齢者との関わりあいの前提に「読む」書籍において何を選択するか、教員としての手腕が発揮される場面でしょう。だがなにしろ20年も人生を生きていない児童生徒に、その3倍も4倍も生きている高齢者の心情を理解せよ、といってもきわめて難しく、またそれを書籍を通して理解しようと努めることは大切なことですが、そうそう簡単にいくことはなく、実際には体験活動における「新たな発見」の方が多いですよね。高齢者の心情を理解する書籍といっても、具体的に本の名前をあげることができません。ハウツー本以外に、なにかこうした試みを成功させるいい書籍はないでしょうか。

 さて、Dさんから、これまでの議論は、相手の心を理解するといった、児童生徒側の理解度を考えてきたが、わかりやすく児童生徒の側が相手にいいたいことを伝える能力形成も忘れてはならないと、以上の討論をまとめるような発言がありました。

 そして、ここで1分くらいでしょうか、空白の時間が過ぎていきました。この沈黙をどういうように破ればいいか。集団討論におけるこの種の沈黙は、本番でもオウオウにしてあると思われます。この沈黙が長く続くと、マイナス評価になりかねません。みんな焦る瞬間です。

 この空白に切り込んだのが、Cさんでした。それは、「では、具体的に教科を通して『人の心を読み取る』ことにどのようにタッチしていくか、議論していきましょう」というものです。Cさんは、英語教員の立場から、読む聞く話す書くのコミュニケーション能力の育成を推進し、かつ、相手の立場を理解するため、相手の環境や文化をも視野にいれる必要があると語られました。つづいてDさんは国語志望ですので、物語理解における心情理解について述べられました。登場人物の心情理解については、一人ひとり感じ方が違うので、討論材料になるのではないかという主張です。ただ、こういうようにいってしまえば、試験問題の「登場人物の心情について解説せよ」に正答が無くなる恐れがあります。感じ方は人それぞれとしても、疑問は残ります。Bさんは、道徳の時間の資料活用において、班ごとに分かれ、話あって考えさせるアプローチがいいのではないかと述べられました。いわゆるワークショップ型の討論を実施するということですね。資料に登場する人物に、手紙を書いてみようという提案もありました。

 ここでAさんから、伝記を読むことの効用を語られました。Aさんは生物志望だけに、科学者の伝記を奨めるべくご意見があったわけですが、後の反省で、「ではどんな科学者の伝記があるの」と聞かれると、なかなか答えられず、検討課題となりました。あまりにもマイナーな生物学者の伝記を生徒に紹介してもいいものかどうか、ということも議論になりました。一般には、ファーブル、キュリーなどですかね。参加いただいたルパンさんは数学の先生ですので、ガウスと即座に答えられました。さすがに面目躍如です。

 Eさんは、体育教員をめざされており、「ちょっと読書は苦手」と思わず口をついてしまいましたが、まあ、これはいわない方がいいでしょう。Eさんは、議論を(意識的にでしょうか)転換し、「身体が動けば心が動く」とキャッチをいれながら、動くことの爽快感を強調され、体育のチーム編成について触れられました。球技であれ、陸上であれ、得手不得手があるので、そうした状況において生徒どうしで助けあいをさせてみたいようです。集団指導と個別指導の関連についてもご意見がありました。

 このことに関連し、Aさんから、学級経営の問題についてご意見がありました。クラスをどうまとめていくかについてです。ただ、「人の心を読み取る」という主題から離れてはいけません。経営の問題は重要な問題ですが、それを主題から独立させてしまうと混乱と方向性の不明を招来します。

 この後、Cさんから、部活動のコミュニケーションについてのご意見があり、Dさんから交流教育における取り組み、それに対するEさんからの具体的な老人ホームにおける体験が語られました。体験活動の教育的な意義を主張する方向に再転換していきました。こうした討論のもんどりは、これまたよくあることでありまして、それほどワタクシは不自然に感じませんでした。

 討論の最後にCさんが、体験活動は、生徒に傷つくこともぶつかることも教えてくれる、そしてそのフォローをするのが教員の役割でしょうと締めくくられました。

 ここで25分が経過し終了しました。5人で25分でしたから、単純に割ればひとり5分は消費することができます。かなりいいたいことがいえたのではないかと思っています。本番は7人から8人でしょうね。それだけ「他者」が増えるので、憶えておかなければならないことも増えます。

 討論の秘訣、それは集中力。この言葉を掲げておきます。

 ところで勉強会を週に2回開催すると、報告書を書くのは大変なことなんだと実感しました。いまさらながらに、あはははは。たとえば昨日の報告を書くのに、3時間もかかってしまっているわけで、コリャ、ワタクシの生活時間を剥奪されているなと。あはははは。まだ、こうして笑っていられる内はよいのですが、笑うに笑えず、あらゆるスパゲッティを引っこ抜いてPC環境を自爆させる漫画的将来がやってこないように、沈静剤でも処方していただくとしましょうかな。教育評論的な小品も、最近はこの旁午において書いていないので、ひと段落つけば(いつつけるのであろうか)、再チャレンジいたします。教育最新記事では、噛み付きたい話題がイッパイです。たとえば、網走の高校再編問題、学力テストの復活実施、大阪府高校授業料(14万4千円)減免措置の是非、教員採用権の市町村委譲の行方、NEET対策費7億円の使途、東京都無免許教員問題、生涯学習意識の内閣世論調査、学級編成の自主性、などがそうです。ひとつひとつ考えていくうちに、新たな語らねばならない話題が現実に潜んでいるわけで、いずれまた論じようと思っています。

 2つ目のテーマは、「子どもの頃の遊びで、現代に活用できるものがあるか。あるとすれば、それをどのように学校で実践するか議論せよ」というものでした。言外に要求されているのは、自分を振り返ることでした。みなさんが少年少女時代を過ごされた70年代、80年代を想い返し、その頃のナマの子どもとしての感覚と、現代の子どもを観察し培った子ども認識と、ズレがあるのか、あるいは、あまりないのか、みなさんの視点から子どもの遊びを通して、一体何が現代の子どもに欠落しているのか、といったモロモロのことを考えていただきたかったのです。ある意味、過去の回想からなる談笑討論となっても、それはやむを得ず、そのことで評価が下がることはないでしょう。みなさんの遊び経験による共通感覚が議論の土俵になるはずで、そういえば、あんな遊びがあったなあと、遠くを見つめる眼になると予想されます。テーマの後半部分の、どう実践するかというところは、そうした遠くを見つめる眼から覚醒させるよう示唆しています。であるからして、モデルとしての討論は、談笑⇒現実分析⇒提案、となるでしょうか。20分間・5名の方に議論していただきました。例によって、仮にA〜Eさんとします。大学3年生の方も含む、小中志望の「おはなし」は、どのように進んでいったのでしょうか。

 まずDさんから、現状認識を議論の出発点にする発言がありました。登校途中、2人の子どもが手に手に携帯型ゲームを持ち、互いに話もせず歩いている。私が挨拶しても気付かない。これは、日常的風景なのでしょう、Dさんは、こうした観察から、しかし、「2人並んでいるということは、たとえ会話がなくても、一緒に過ごしたいという気持ちのあらわれではないのか」ときょうびの子どもの寂しさを抉り出すご意見を頂戴しました。

 Aさんの現状分析がこれにつづきました。現在小学校3年生の担任をしているが、私の子ども時代と変わらないということです。極めて短い朝の休み時間であっても、ボールを持っていって遊ぶ。ハァハァいいながら教室に戻ってくる。お別れ会を開催するにあたっても、何をして遊ぶかと問えば、ボールを使った遊びと鬼ごっこになった。こうしたことからすれば、友達とワーワーいて遊びたいのが、現代の子どもの心理じゃないのだろうか、と述べられました。

 Bさんからは、Aさんの観察と微妙に違い、「子どもたちがテンデンバラバラに遊んでいる」状況を報告されました。つまり、家庭に子どもの様子を聞くと、みんな遊びに家にやってくるのだけれど、みんなで何かをするのではなく、ひとりは好きな本をみているし、他はゲームをしている。Dさんのいう、「一緒にいたい」のだけれど、個人で何かをする遊び方が認められます。Bさんは、集団としての子どもをどう捉えるかという観点から、コンビニの前に群がる子どもたちのことにも触れられました。昔は駄菓子屋さんに集まり、いまはコンビニに集結する。コンビニで遊びのカードを買うにもお金がかかる。子どもたちは十分に消費社会に組み込まれている…。

 鋭い指摘です。これを聞いていて、ワタクシは、討論終了後、ひとつの挑発的な投げかけをしました。昔、駄菓子屋、今、コンビニ、それならいいじゃないかと。子どもたちは金銭感覚がどちらであっても磨かれるのではないかと。少し討論再現からズレますが、これに対して、「使うお金が大きくなっているのが違う」、「駄菓子屋はおじちゃん、おばちゃんがいて、いろいろな注意もあった。それに比べてコンビニでは人間的接触がない」、「駄菓子屋は夕方には閉まる。コンビニは24時間」などなど、多くのご意見がありました。中には、「密室でアジトのようなものができて、そこで陰湿ないじめが発生するのに比べれば、コンビニならまだいい。コンビニ前は人の眼に触れるから」と、現代の子ども事情が、討論終了後に、聞き手にまわっている方々も含め、様々に語られました。

 さて、筋を戻します。

 Cさんから、新しい視点の提供がありました。私たちの子どもの頃は、緑がいまよりもたくさんあった。私たちと、花摘みや虫採りも近かった。総じて動植物にかかわる実体験が、現在、減少しているのではないか。こうした経験が生活科や理科に直結するのであって、体験不足の結果は好奇心を低落させることにもなる。これを受けてEさんは、学校にはグランドがあるが、地域にはいわゆる空き地がなくなり、子どもたちが自由に外で遊ぶことのできる領域が少なくなった。空き地の減少は子どもたちを必然的に室内に追い込み、現代流のPCゲームを弄ぶことになる。

 遊び環境が変化していることに対する指摘です。思うに、こうした「資本主義的発展」の結果、緑が掘り崩され、安心した遊び場がなくなっていく現状、子どもたちは、遊び環境を求めるのに必死なのかもしれません。学校が子どもたちを夕方になって締め出してしまえば、子どもたちの行き場はなくなります。コンビニ前に集合する以外、どこでどう遊べばいいのか。室内に囲い込まれる条件を突き付けられて、子どもたちは圧迫やストレスを感じているに違いありません。広く太陽がさんさんと輝く中で遊びたくない子どもなどいないのが、本当のところではないでしょうか。そういう意味ではとっても健全で、後にAさんが主張されることに通じます。

 では、みんなで集まった時に子どもたちにやらせたい遊びは何か。Dさんから投げかけがあり、みなさん考えることになります。Dさんご本人は、ドッヂボールをあげられ、その他の遊びがようやく参加者から発せられることになりました。Cさんはカンケリをあげられたほか、遊びの条件や枠組みを考えるよう提案調に述べられたのです。それは、@全員でできること、Aルールが簡単、Bクラスでも、縦割りの学年縦断的な場面でも実施できること、でした。こうした外堀を埋める発言は、集団に想像力を与えよかったのではないかとワタクシは評価しています。Eさんからは竹トンボと声があがり、日本文化がわかる遊びとして例に挙げたようです。Eさんが述べられたように、子どもの協調性を育成する目的も遊びには必要で、そうした条件をCさんの提案した規定にいれるよう議論を構成すればいいのではないでしょうか。また、竹細工だから削り方など器用さの開発につながりますね。こうした器用さの問題に関連し、Bさんから、実習であぶなっかしいカッターナイフの扱い方をみてハラハラしたと報告されました。Cさんは、家庭科で扱う包丁は、家庭でも指導を充実させれば子どもたちのためになると述べられ、議論がつづけられました。なかなかよい展開です。

 小刀の扱いは下手、でも、ゲームは好きで器用。社会の発達でどんどん器用さが子どもから剥奪されているとは、Aさんのご意見です。ロウ石を使った遊び、探検ゲームなど、子どもたちに生来ある好奇心や力を引き出し、こうした伝承されてきた昔遊びを楽しむことがなによりとのことです。Dさんからは、昔の遊びも装いを変えて登場しているが、これはこれでいいのかなあと発言ありました。昔のカルタは、今では学習カルタ、たとえば都道府県カルタなどになっている。遊びであったものが、学習メインになりつつある。この他、ケン玉やアヤトリなど、子どもに伝えていけないものかと若干、嘆がはいった発言となりました。

 遊びの行為に私たちも参加していくことも必要ではないかとCさんから述べられ、討論は新局面になります。Aさんからは、いま、講師として子どもと交じるため、ドッヂボールを練習していると、涙ぐましい努力を披露され、ジーンときましたよ。遊びの効用をどう学級に活かすべきか。Cさんから、遊びを通しての集団形成に触れられました。最後にBさんが、自分も積極的に遊びに加われば、子どもたちと一体感が生まれ、授業の学習意欲も高まったことを実感したと述べられ、子どもの中でメリハリもでき、クラスの雰囲気もよくなったと、遊びの効用を見出していらっしゃいました。

 ここで時間がきました。均等に発言があり、議論が進んで行ったようです。ただ、聞き手の参加者からは、もっと遊びの種類がでるのかと期待していたとご意見がありました。たしかにそうですね。もっと具体的な昔遊びの名前がでてきても不思議ではないのに、量的には少なかったといえます。どんな遊びがあるのか、もっともっと思い返してみましょうか。

 さて、2つの集団討論が終わり、個人解剖をいたしました。今回はちょっと面接個票を題材に質問をした方もいらっしゃいました。ワタクシとルパンさんとで、面接官役をいたしました。

 模擬授業は小学校・生徒指導の課題でした。

 2次もたけなわ、みなさん、持てるものを出し切ってくださいね。この秋、模擬授業の課題集を右欄に少しアップしようと思っています。では、9月の勉強会でお会いしましょう。

(2005年8月28日)

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