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浩の教室・第62回勉強会の模様




 昨日は、第62回当サイト主宰教育学勉強会に多数ご参加いただき、ありがとうございました。今回は、新しい試みとして、「自己売り込みのツボ」のペーパーをお配りし、その意図を説明いたしました。まずまずみなさまの同意を得、ホッとしています。近いうちに、このペーパーもサイトにアップいたします。「自己売り込みのツボ」は、すでに3月まで予約一杯になりまして(ワタクシがやってね!といったわけですが…)、28日以降の報告が楽しみになりました。この報告には、20分程度を充てたいと考えております。

 さて、昨日は、うえの「自己売り込みのツボ」の説明、次に答申の講読、神戸市の1次試験の復習解説、そして集団討論をいたしました。

 答申の講読は、今回から、中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」を読みはじめました。ワタクシの解説文をたたき台にみなさまから議論が百出することを期待しておりましたが、なかなか思ったようにまいらず、四苦八苦いたしました。しかし、よく考えれば、この日はじめて資料をお配りしたわけで、早々簡単にコメントができるわけでもありませんね。ただ、次回はがんばっていただきたいと思っております。

 この答申は、今夏の出題の目玉であるとひそかに感じています。この答申を活用した予想問題を資料に附載しておりますけれども、もう少し違う角度からの問題も作成します。試験前にお渡しできるようガンバリマス。

 さてその答申の中身に関し、「国民の人格形成」および「国家・社会の形成者」の2つが義務教育のめざすところであるということは忘れないようにしてください。そして、議論になった「義務教育はセーフティ・ネットか」につきまして、ご自宅で再考してみてください。こうした国家戦略的な義務教育の是非についても自分なりの視点を養っておくことが、教採人物対策としても重要です。

 次に、神戸市の問題解説でした。ようやく半分終了し、これまたホッとしています。思うに、神戸市のツボは、特別支援教育と教育心理学ですね。今回は、盲・聾・養護学校学習指導要領の穴埋め問題をもいたしました。大事な資料ですので、復習してください。この盲・聾・養護学校学習指導要領につきましては、体裁を整えて、サイトにアップします。今月末をめどにしています。次回、教育心理学系の問題の解答解説に移ります。これまた20枚程度ありますので、2、3回で終了したいと思っております。

 その後は、京都、三重などの問題をレジュメを使用するのではなく、即時的に解説するような形で進めようか、それとも、基礎的な知識の定着をめざし、なんらかの参考書解説をしようと考えております。

 それにしても4時間は短いですね。うーん、6時間はほしいなぁ。

 最後に集団討論を実践していただきました。時間と参加人数の関係上、今回は、1題にいたしました。参加者から提案があり、「神戸方式」で討論を実施いたしました。テーマは、「教室において物が紛失したとき、そして疑いをかけられた児童生徒がいたとき、私たちはどのように対処するべきでしょうか、議論してください」の一題です。これを30分間、9名の方に実践していただきました。

 このように9名の方に実践していただいたのには理由があります。それは、参加者の中に神戸市をお受けになられる方がいらっしゃり、その方の希望にそうことに、みなさんが同意されたことにあります。神戸はちょっと特殊で、1次試験で集団討論があります。しかも11人という大所帯での討論が行われ、かつ、司会を立てます。これは大阪の場合とまったく違います。多人数で議論が組み立てられるかどうか、ワタクシは興味津々でした。

 結論から討論の出来栄えを申し上げると、「へぇ〜、こんなに多くても、議論が噛み合うものなんだなぁ」です。ふつう、これだけ多くなると、他の参加者に対する遠慮も手伝って、発言のない方を優先しすぎて発表会型の討論になってしまい、失敗するのがオチであると思っておりました。そういう意味では、神戸市の討論は、受験者の個性を見抜く気があるのかなと訝しい気持ちでした。しかし、それでも9名、これが11名になればどうなるのでしょう、想像がつきません。

 今回、このように多人数で実践していただいて感じた2つ目の印象は、「神戸市の討論は司会次第である」、ということです。司会がうまく捌かないと、採点官はマズイ飯を喰わされることになります。司会の引き受け手が下手だと、全員の評価が悪くなるでしょう。これは間違いない。

 今回、いうまでもなく司会を引き受けてくれたのは、ほかならぬ神戸市受験希望者です。鮮やかな手捌きでした。9名いると、それぞれの発言の順番が固定されてしまい、一巡してからまた一巡というようになりがちです。ところが、今回の司会者は、みんなが発言しなくても2回目の発言、3回目の発言を誘うよう、組み立てられました。その手法が「発言が発言を呼ぶ構造」を作っておりました。

 さて、仮にAからIさんとして、いつものように討論の模様を再現しますが、Iさんが司会者です。ただ、「Iさん」の「I」の文字が小さくてサイト上でみにくいので、ここでは「司会さん」と書くのも変ですし、単に「司会」と書きますね。それから、30分間沈黙の間がなかったことは、ひとえにこの勉強会に集うみなさんの力量の高さでしょう。沈黙を破る役割を司会がしていたということもありますが、なかなか本番の討論では見受けられない討論であったことを申し添えます。

 まず司会が、テーマを読み上げ、それをどのような斬り口で料理するか、方向性を示されました。司会は、紛失物が出るといっても、大きなもの、小さなものたとえば消しゴムや鉛筆などがある。また、紛失物が「紛失」ではなくて、故意に隠されたというケースも想定される。「紛失物」の背後にイジメ関係が潜んでいることも考えられるということを提示し、では具体的に「疑われた子」にどう対応するかとして、クラスの全員を問い質すのではいけない、それよりも重要なことがあるといわれました。それは、司会はイジメ関係を前提し、犯人探しをするのではなく、疑いをかけたことそのこと自体を問題にしたいということです。

 司会の見解を受け、Cさんも、犯人探しではいけない、クラスのお友達を疑ってかかり犯人扱いする意識を持ってしまうことがよくないのであるとクラスに伝えたいと言され、また、Bさんは、犯人と疑われた子は「ボク悪くないのに、どうして先生は…」と感じることに対して心配を寄せる発言をされました。Bさんは、しかし、「信じつつも疑う」という微妙な表現でもって説明されました。この表現については、討論終了後、ワタクシも意見しました。なぜなら、ふつう、「疑いながらも信じる」というのが、教員の姿勢ではないかと思ったからです。ただ、たしかに、児童生徒にはズルイところもあります。そのあたりの判断は、児童生徒との基本的な信頼関係が形成されているかどうかにかかっているのでしょう。この表現に対する意見はジャストタイムで参加者からでませんでした。こうした微妙なところはスルーするほうがいいかもしれませんね。

 Fさんは、司会の「小さな物の紛失」という提起に関連し、たとえ鉛筆がなくなっただけでもクラス全体に指導をするということを述べられました。Aさんは、それを実践的に膨らまし、教室で物がなくなった事実が重要であり、故意であれ、そうでなかったにせよ、まずはクラス全員で紛失物を探す指導をすると力強く発言されました。そして、万一疑わしい場合つまり故意の「紛失」であった場合でも、その行為そのものを確認していないのであれば、名指しで疑う行為はいけない、そういう疑いの眼でみないよう指導したいと付け加えられました。

 この、「みんなで探す」というのは、お恥ずかしながらワタクシには考え及びもつかなかったことです。こうした人間愛に満ちた指導を今後もしていただきたいと強く思いました。ワタクシなど、ひねくれているのか、駄目な大人になってしまっているのか、こうした指導こそ「愛情ある指導」であり、教師としての資質なんだと教わりました。Aさんありがとう。

 ここで司会が発言します。このテーマには3つの観点がある。@疑われている子どもにどう対応するか、A疑った子どもにどう対応するか、Bクラス全体にどう指導するか、であるとのことでした。Eさんは、@の問題に対し、慎重に対応しないといけないと念押ししつつ、そういうふうに疑をかけた子と話をし、もっと聞いてみる、そして犯人だといった子どもとは個別対応しなければならないと答えられました。その際の注意点として、Gさんから、名前が挙がった疑われた子どもに、なぜそう思ったの、と疑いをかけた理由を個別に聞きたいといわれ、そしてそこで得られたことをもとにクラスにフィードバックし、今後のクラス全体の方向性を探るべきであると発言されました。

 司会は、では、具体的にどのようなことを聞けばいいのか、疑った子も疑われた子も含め、どうすればクラスが気持ちのよい場面に進んでいくのでしょう、と投げかけられました。そして司会は自ら、「なぜそういうふうに(疑うことを)いったの」、「なぜその場面をみてもいないのにいったの」と話をしたいと述べられました。もちろんここには圧迫的なものはないでしょう。このとき教育相談の理論をすこし援用しつつご意見をいわれたら、はっきりニュアンスが討論参加者全員に伝わると思います。ロジャースの受容的態度などです。Dさんが、司会の質問に対し、まずそれぞれの子どものいい分をしっかり聞きたいといわれたのは、そういうことでしょう。疑った子、疑われた子にそれぞれ個別に指導し、そこから生徒指導のエッセンスを引き出して「クラスに降ろす」と表現されました。この表現が、討論の場に影響を与えました。Dさんの発言はこの一回だけだったのですけれど、Dさんが述べられたこの「クラスに降ろす」という言葉を、この後の発言者が使用するようになりました。これは、Dさんの表現がその内容とともに肯定的に受けとめられたということを意味し、一回しか発言していないにもかかわらず、Dさんが何度も発言しているかの印象を集団に与えたし、ワタクシもそう感じました。

 Aさんは、司会の質問に、私なら疑った側に聞いてみたい、といわれ、疑われた相手はどんな気持ちになるかを考えさせる指導をするとご意見されました。そして他のクラスの子どもにも、「どんな気持ちになるか」は大切な観点つまり思いやりに関することなのでフィードバックすると述べられたのです。ではなぜそういうようにフィードバックするのか。そこの理由をいわれたのが、Aさんの説得力あるところでした。

 すなわち、疑う疑われるの関係がクラスに残存するのはクラスそのものにもよくないし、疑われた子が、2次的な被害、つまり、「あの子はあんな子なんや」とお友達に色眼鏡でみられるようにしてはいけないと論理的に説明されました。Hさんは、ここではじめて口を開きました。Dさんの「クラスに降ろす」というのはとっても大切なことであると同調されつつ、後々のクラス運営に関わるので、根拠なく疑う態度を厳しく指導すると発言されました。一人ひとりを大切にするというクラス運営の理想を忘れず、わだかまりのあるクラスに絶対してはならないとご意見されました。担任としての立場がここにはありますね。Bさんは、これを受け、私なら、なぜ疑ったのかを質すことはしないといわれました。灰谷健次郎の『先生家来になれ』の一部を的確に引用し、嫌な目にあう人が(クラスに)いることを許さない姿勢を持つと述べられました。この灰谷さんのチューインガムのお話の引用はワタクシは効果的であったと思います。司会はここでテーマに引き戻し、クラス全体にどう対応するかというBの観点を再度だし、討論の方向を決められました。

 Eさんは、クラスは共同体であると発言されました。疑われた子と疑った子の両者だけの関係を修復すればそれで終了ではなく、司会もいわれるようにどういうようにクラス運営にこの「事件」のいわば教訓を活用するか考えなければならないとされました。それは、「困っているお友達がいれば助けてあげよう」のクラス作り、とまとめられました。

 ここでCさんが、問題提起をされました。テーマはそもそもなにをメインに尋ねているのか、Cさんは、疑った子と疑われた子の両者の問題が最大の議論すべき事柄なのではないかといわれたのです。するとすぐにAさんが、それも当然であるが、「クラスの中でで物がなくなったこと」、この事実が大きな、大きなポイントだといわれました。疑った子疑われた子の両者の関係性と、クラス全体の問題との双方を議論しなければならないと喝破されました。

 Aさんは、この紛失物の事件に関し、クラスで探してみつかったらほめたい。探してみつからなくてもクラスの友達を大事に思って探したんだから、うんとほめたい。悪戯で隠したのなら、いまその子は悩んでいるだろうし反省しているだろう、というお話をクラスにしたいと述べ、最後に紛失はあるものだけど、みんな気をつけてがんばっていこうねといいたいと、付け加えられました。

 司会は、物がなくなるクラス状態も、友達を疑っても平気なクラスの状態もともに悪い、物をとってもいいという状態は、人が困っていてもいいと感じているクラス状態を意味し、これは学級の病巣であるといわれました。ではこれをどう取り除くか。司会は、この解決策を「事件を蒸し返さない話し合い」に求められました。前進的、団結的なクラスの態度が、この病巣を自力で治癒していくといわれたのです。そこで、司会は、クラスの結束を高める提案はないですか、と振られました。すなわちクラスの雰囲気をよくし団結力を増すイベントのようなものはないかと提起されたのです。

 クラス全体で取り組んでいくものとして、Hさんは、「自分が感じ取った気持ちを言葉にする」イベントを設けたいと応答されました。Hさんは、人を困らせてもいいと思っている子どもが増えてきているのは残念なことであるが、紛失物をみんなで探して終了とするだけでホッとし、それで終わるのではなく、事件について話し合いを持つことが、再度の「事件化」をなくすとの考えから、上のような「イベント」を提案されたのでした。ここでは司会とHさんの提案はまったく違う方向でした。これをどう評価するか、この議論に噛んできたのがAさんであり、Eさんであり、Gさんでした。Aさんは、Hさんに、その話し合いってどんな話し合いですかと突っ込まれ、これに応えHさんは教育実習体験を踏まえつつ、先の発言を補強する形で答えられました。Eさんは、逆に、生徒に任せた話し合いはマズイのではないか、当事者2人がいるクラスだから、私なら、クラスの一人ひとりに疑われたらどんな気持ちになるかを紙に書かせて集め、それを担任である私がクラスの全員にうまく報告したいと提案されました。

 一方、Gさんは、「痛みを知る」イベントをするとご意見されました。そして、5人ほどの仮想劇、今回の事件を題材にロールプレイをしてみたいと構想を報告されました。これは役柄に当たった子どもがどんな気持ちになるかを表現し、それを表現する方もそれをみている方も、そしてイジメで隠したとしてその子どもにも意義があるものでしょう。

 と、ここでタイムアップ。さすがに30分ですから復元すると長くなりました。討論全体に対するコメントは最初に書いたとおりです。参加者各個人がどれだけの問題意識を持っているかに左右されるのが多人数討論でしょう。司会担当者が、これだけ多くても、光っている発言をする人はわかるもんだなあ、と終了後いわれていたのが印象的でした。

 あとから聞けば、司会のいう「イベント」とは、紛失物事件と関わらないクラスの新しい出発に向けてのきっかけとして提案がほしかったようです。しかしまあ、それはそういうように説明しないと、Hさんのような提案が出ても不思議ではありません。

 今回、このような多人数討論がうまくいったことに、つまり、ワタクシの目からみても評価が高かったことに安心してはいけません(安心することはないと思いますが…)。ひとこと、出来過ぎです。後でこれまた意見が出ましたように、今回のようにうまくいった討論は本番ではヒャクミツでしょう(100回に3回の意)。司会を希望されたIさん、今夏は司会を引き受けてみてはいかがですか。

 では、第63回、難波で会いましょう。次回は集団面接でもいいですね。

(2006年1月15日)

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