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浩の教室・第61回勉強会の模様


 みなさま、昨日は、第61回勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。満席になりありがたく思っております。また、遠く、広島からのご参加もあり、ウレシク思っております。

 昨日は、例によって、答申の講読、神戸市の教職教養解答解説、そして集団討論を2題いたしました。討論は時間に余裕がなく、みなさまからのご意見をいただけなかったのが心残りです。

 さて、答申は、「学校組織運営答申」を検討しました。今回でこの答申の検討は終了です。ここでは、教員の評価と処遇について、「能力評価は任用」、「業績評価は給与」と書かれていたことについてお尋ねしました。各々の教職員の「授業力」、「生徒指導能力」が「任用」にかかわり、「自己目的設定⇒達成」ということが業績評価、ということに落ち着きました。

 この答申については、前に「報告」で書きましたように、非常にコンパクトにまとまっておりますので、全文を読みきってください。そして、勉強会の場で議論されたことを重ね合わせ、反芻しつつ答申のイイタイコトを定着させてくださいね。次回からは、新しく中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」(昨年10月)を検討してまいります。この答申は、ちょっと長いもの(A4版37枚)ですが、なんとかワタクシなりに解説をまとめましたので、みなさんの議論の叩き台にはなると思っております。

 神戸市の教職教養は、「障がい児教育」について問う問題多く、本日は性同一性「障がい」の問題と、LDの問題、ノーマライゼーション、マイノリティー、ネグレクトの概念と結びつきの強い述語を問う問題、それから盲・聾・養護学校学習指導要領の問題について解説いたしました。解答するのがそれほど難しい問題ではありませんが、その問題の背後に横たわる教育思想や制度論を理解することが肝要です。もうちょっと述べておけば、どこの自治体でもよく出題されるLD、ADHD、高機能自閉症の定義は完全に暗記してくださいね。

 このことに関連し、勉強会の場でも申し上げましたが、「特殊教育」の名称が消えます。こちらの『朝日新聞』の記事をどうぞ。ようやくワタクシがいってきたことが陽の目をみるようになり、よろこばしいことです。例の「欠陥」の記述がなくなるといいですね。

 レジュメに記載した「それぞれの違いの一覧表」をご確認ください。次回は、盲・聾・養護学校学習指導要領について少し時間をとって学んでいきたいと思っております。次回ご参加のみなさま、あらかじめ問題として表示している穴埋めのところを考えてきてくださいね。そして、15日には、神戸市の問題の後半の解答解説を配布します。すいませんが、コピー代だけご負担お願いします。こちらは20枚くらいです。

 集団討論のテーマは、「社会の期待にこたえる教師とはどのような存在か。どんな心構えが必要か議論せよ」と「生徒指導を実践していく上で気をつけるべきことはどのようなことか、議論せよ」でした。

 ひとつ目の集団討論のテーマは、どのように議論されたでしょうか。6名の方に25分間で討論していただきました。仮にA〜Fさんとし、いつものように討論の再現をしてまいりましょう。

 まずBさんが、世の中が学校になにを期待しているのであろうかと述べられ、学校とは「当たり前のことをきちんと教えてくれるところ」であると規定されました。ではその「当たり前のこと」とはなんでしょうか。Bさん曰く、それはきちんと学力を身につけることであるとされました。中学志望のBさんの立場からは、学校の役割が学力の定着と向上にあってそれが第一に考えられていることがわかります。Bさん以外の方は小学校志望であるので、このあたりに注意して以下の文章を読んでみてください。すると、学力に関してはBさん以外、あまり言及されていないのがわかります。

 Bさんに対して、Fさんは、人間味のある教師が社会に求められていると意見されました。このとき、テーマの「社会」は「保護者」を内容としているようでした。先生も親のように愛してくださいといわれたことがあるようで、それがこの意見の根っこにあるようです。そして児童生徒を親のように愛せる教員は、具体的にFさんによっていい換えられます。それは、常識を外れない教員であり、社会性を身につけた教員であり、自分に厳しい教員である。そうした教員が社会の期待に応えられる教員であると述べられました。

 Aさんは養護教諭の立場から、親のように愛するということをもっとも体現しなければならない養護教諭の自覚を持ち、一人ひとりの児童生徒を詳しく知る必要を訴えられ、Fさんに同意されました。

 一方、Eさんからは、ちょっと「大げさ」とあとで批判がありましたが、将来の日本を背負って立つ児童生徒を私たちは預かっているのだから、そうした児童生徒を育てる責任があるといわれ、モラルの面も含めた児童生徒のお手本になる教員になることが社会の期待にそうことではないかと語られました。

 Dさんは、これまでの各参加者の発言に促され、指導力と行動力を持ったいわば「人間力」を備えた教員が求められているといわれました。そのためにも児童生徒に信頼されなければならないと述べられました。Cさんも、児童生徒の手本になるべきであるといわれました。

 では、お手本になるとはどのようなことであるのか、Fさんはさらに具体化してリーダーシップについていわれ、クラスを引っ張っていく教員像を提案されました。学級運営について述べられたことが基礎になっている発言です。教員がどこまで学級を引っ張っていくのか難しいところです。いわゆる学級王国になってもいけませんし、児童生徒の自主的な学級運営にも目を配らねばなりませんから。

 ここで、話題を広げようとしてBさんが児童生徒に相対するときどのような心構えでいますかと投げかけました。Dさんがこれを受け、同じ目線に立った指導とし、Aさんは児童生徒の発した言葉を考えることといわれました。また、Aさんは、日頃の指導の背後に、社会の動きとかかわりがあるようにしていきたいとされ、新聞を読んだり情報を摂取したりすると発言されました。Eさんは、Dさん、Aさんのいわれる「目の高さを同じにする」に同意され、児童生徒の気持ちを理解できるようになりたいといわれ、さらにそうするためには児童生徒の周辺に存在する大人とのコミュニケーションを図っていくことも大切であり心構えとして必要であるとご意見されました。もちろんこの周囲に存在する大人の中には保護者も含まれますね。

 Fさんは、児童生徒と同じ立場に立つのは大切であるが、おりっぱなしではいけないといわれました。児童生徒のひとつの意見に引きずられるのは指導者として問題になることもあるという意識からこのように発言さえたのでしょう。教員は、児童生徒に対して公平に接しなければならないといわれ、広いこころを持ち、偏向しないことが求められると述べられました。その上で児童生徒をそのまま受け入れるハートを備えることが大切だと主張されました。児童生徒を受け入れるということに関連し、Aさんは、多様な行動をとる障がい児学級在籍児童の場合、たとえば暴言を吐く児童生徒なら、そうした言葉を発する背景は何であるのか考えていくことが欠かせないだろうといわれました。そして、その「受け入れ」は一方的なものではなく、教員の側の意見も上手に伝えていくこと、つまり相互理解していくことが「受け入れ」の最終地点にあるということを示唆されました。

 Dさんは、「受け入れ」に関し、たとえばいうことを聞かず、教室内を走り回る児童生徒がいたら、その場合は毅然とした対応をとることも心構えとしてわれわれはもつべきではないかといわれました。一方、Bさんは、確固とした自分なりの意見を持っておくことも、教員として必要な資質であろうといわれました。そうしたしっかりした自分を持つことは、学校世界に閉じこもってばかりであると作っていくことはできないというのがEさんの意見でした。豊かな人間性を教員が養うためには、人間的に成長するにはどうするべきか、そうしたことを自覚しておくことが教員生活に刺激を与えると述べられました。ということはFさんいわれるように、日々勉強を重ねる教員ということになります。Fさんは、あちらこちらへぶれることのないしっかりした教育観を持っている教員が社会から求められているのではないかとまとめられました。

 Eさんは、このFさんの意見に対し、変化の激しい社会にあって、多くの期待が教員に寄せられているといわれ、世の中を変えていく主役となる児童生徒を私たちはしっかり育てていかなければならないとご意見を述べられました。

 ここで25分が終了しました。

 討論の終了後、見守っている側から、多様な厳しい意見がでました。ワタクシもちょっと厳しく申し上げました。それを箇条書きで示すと、

 @テーマのいう社会とはどういうものなのか、その指すところを規定すること。
 Aそのうえで、その社会がどういうような期待を教育に要求しているのか分析すること。
 Bそうした分析に対して、教員がどう応えていくべきかをいうこと。

 です。こうした3点の中身がはっきりしていなかったので、聞いていた方が不満を持ったのだと思われます。つまり、出題されたテーマを整理し読み替える作業をしていなかったのではないでしょうか。闇雲に議論をしていた印象があったのはそうした立論の欠如にあったのではないでしょうか。

 たとえば、テーマの「社会」を「保護者」、「地域社会」、あるいは「企業」というように、想定する「社会」の中身によって、教育要求も変わってきます。このように分類して議論を構築すればうまくいくのではないでしょうか。

 また、これも後に参加者から指摘されたところですが、たしかに「社会の期待」には一定程度の「答え」があります。すなわち、大阪府の求める教師像は、あるいは他の都道府県でも、それなりに確定したものがあります。大阪府ならば、それば教採の願書に示されていますよね。そうした資料を活用すると、議論に方向性が与えられます。

 簡単にいえば、それは、@確かな指導力とすぐれた専門性、A誠実な勤務と真摯な研修、B幅広い教養と豊かな人間性、C教育者としての使命感、となるでしょうか。このうち、議論では、@とBが少しでてきましたね。

 次回は、折角ワタクシたちが読んできた多様な答申、報告をも生かすように討論をする癖をつけてまいりましょう。ただし、資料をそのままいったり、どっぷり漬かってはいけませんよ。

 さて、今回再現した議論に関する資料を次回の勉強会に持参します。これは、メールくださった方の枚数だけあらかじめコピーし用意します。メールお待ちしています。でも、14日までにくださいね。もちろんコピー代だけ、10円はいただきます(笑)。

 第2のテーマは、「生徒指導を実践していく上で気をつけるべきことはどのようなことか、議論せよ」でした。こちらのテーマにも、同じく6名(A〜Fさん)、25分間でチャレンジしていただきました。なお、この討論は、お借りしている教室の時間ギリギリまで実践していただいた関係上、ワタクシからは10分ほどしかコメントできなかったことを申し訳なく思っております。しかし、まあなんと集中した4時間であるか、みなさんもそうでしょうが、ワタクシもこの勉強会が終わるとぐったりしてしまいます。今後もこの調子で参りましょう。ほどよい緊張と集中が続いた方が間延びした時間を過ごすよりよっぽどいいです。勉強は、時間をかければいいというものでもありませんね。

 まず口火を切ったのは、Cさんでした。Cさんは、これまでの生徒指導の実践を反省するところから、自分なりの「これだ」という生徒指導の方法論を確立されていました。曰く、男女の性差によって生徒指導に違いがあって、いままで女子生徒に対して細かいところを気にするような指導をしていた。ボタン、茶髪など、とても敏感であった。細かなことをいい過ぎて嫌われた。その結果、授業もうまくいかなくなった。こうC(女性)さんは語りはじめました。

 だから、細かいことをいうのは止めよう。その代わり、次の3点だけはキッチリ守って指導しよう。@他人を傷付け、あざけるようなことをしたときはきっちり指導する。Aウソをついたら指導する。B注意して1度2度はいい、でも3回指導して気付かなかったら叱る指導をしよう。このように生徒指導の線引きをはっきりさせた、といわれるのです。

 Cさんのこの発言は、発言量が多く長いながらもそれを感じさせないウマイ話し方でありました。このCさんの発言の@に関連し、Aさんは一人ひとりの児童生徒を知るべきだと強調され、とりわけ「あざけること」に対しては厳しく指導したいと同調されました。また、この「あざけり」がいじめに繋がっている可能性を指摘され、学級集団に対する生徒指導についても言及されました。

 翻ってBさんは、生徒指導と校則の関係を述べられました。Bさんは大学生で、教育実習経験しかなく、どうしても「指導された側」=生徒の立場からのご意見あるいは感想を通してこの問題を考えようとされていました。「校則を違反したらなぜだめなの」ということすらいえない頭ごなしの指導を受けてきて、生徒を受け入れるスキを指導に含めるべきではないかと発言されたのです。

 こうしたA、B、Cさんのご意見を受け、Fさんからコンパクトにまとまった生徒指導論が飛び出しました。まずはほめる。児童生徒をほめて向上する喜びを与えたい。次に継続した生徒指導をするべきである、とのことです。私たち教員は、叱る勇気と児童生徒のいいたいことを聞く姿勢と、人権感覚をもって指導にあたらなければならないと発言されました。最後の人権感覚とは、「痛みを知る」指導です。

 Eさんは、児童生徒一人ひとりはそれぞれの生活背景をもっている。それを知ることが大前提で、それからほめるがあり、叱るがある。叱るのも、愛情をもって叱らなければならない。だから教室開きのときなど人間関係ができていないとき、児童生徒との信頼関係ができていないときは、叱るのも難しいといわれました。Dさんは、このEさんのご意見を受けつつ、つまりは生徒理解を進めて指導しないと空回りになることを強調され、、たとえば問題行動をした場合に、なぜそれが悪いことなのか児童生徒自身に考えさせる指導を是非ともしなければならないとご意見されました。

 Cさんは、Fさんのご意見にいたく感激したようで、「ほめる。本当にそう思う」といわれつつ、児童生徒との人間関係信頼関係ができていないときに叱っても仕方がないと発言。そして、私たちは児童生徒を理解することに努めているけれども、実は児童生徒のことをよく知っているつもりでいるのではないか、と反省的な視点からご意見されました。Bさんは、だから、悪いことをした場合、ほめたいことを実践していた場合、タイミングを逃さず指導を入れることが重要であるといわれました。Dさんは、その「ほめる」という言葉に誘われてか、児童生徒を伸ばすためにほめる、授業中つまり学習指導の際にもほめる指導をする、ひとりの児童生徒をクラスの中でとりあげてほめたい、と述べられました。つまり児童生徒を認めることから生徒指導がはじまるのではないか、ということですね。生徒指導が問題行動対応に終始するのではなく、いいところを最大限に伸ばしてやることが私たちの役割であるといわれたのは力強かったです。

 Aさんは、生徒指導は個人対応の問題でもあり、集団対象の仕事でもあるといい、みんなで生活している集団、他の人がいて自分がいるという視点を養成したい、そのための生徒指導ではないか、と、とてもよいご意見をいわれました。他者と自己の関係性を捉える力の弱さが、生徒指導上の問題に発展することが多いわけで、自己を見つめ直す力を持たせることが何より大切でしょう。Eさんは、AさんとDさんの意見を受けつつ、「教師(自分)を好きになってくれないと、授業も好きになってくれない」といわれました。そうなんですよね。そうであれば、魅力ある教員になることが、生徒指導の最大の方策かもしれません。そこで、Fさんが、何のために生徒指導をするのか、と問われました。児童生徒に「あの先生に嫌われているわ」で終わらないようにするにはどうすればいいのか、と提案されました。それは素で迫ることではないか、自分の教員としての個性を児童生徒にぶつけるべきではないかと発言されました。そのためにも生徒指導に関する研究や研修があるとまとめられました。

 Fさんのご意見を受け、Cさんは、しかし児童生徒に迎合することはよいことではない、同じ人間同士ではあっても先生と児童生徒の関係である、そこをしっかりさせたいと述べられました。そして、同じ境遇であっても一人ひとり問題の受けとめ方が違うということを話されました。Fさんは、このご意見に対し、では、無条件の受容と迎合はどうちがうのだろうかといわれ、スパッと切るような感覚で、迎合でもいい、といわれました。児童生徒と地べたから這い上がる覚悟でやればいいと。そうした立ち上がる勇気を持っていれば迎合でもいいじゃないかと。Cさんは、それはもう迎合ではないと返信し、立ち直る手立てがあれば、あるいは手立てを考えようとするのであれば、それは受容じゃないかとフォロー的に述べられました。

 ここでEさんの個人的な生徒指導の感想があり、励ましの意味でいったことが逆に取られて困ったケースを紹介され、Aさんから児童生徒は日々成長していることを忘れてはならないとの発言がありました。

 そして討論の最終発言としてDさんが児童生徒の居場所として教員が存在するのがいいのではないか、と述べられ終了しました。

 討論の最中に拍手が起こるなど、とてもおもしろく、聞き手にまわっている勉強会メンバーも、ミックスアップしている様子をみて、かなり参考になったようです。ワタクシからはあまりコメントはありません。Bさんに、大学生といえど教員としての視点を養うよう努力してください、といった限りでした。こうして討論をみていますと、やはり講師の方の発言量が多いようです。今回は大学生がお2人参加でした。講師の方と互角に闘っていくために、様々なことを吸収してください。

 今回の勉強会には、現役の先生を3名も迎えることができました。貴重なコメントをいただき、厚くお礼申し上げます。

 次回、また実りある討論をしようじゃありませんか!!

(2006年1月9日)

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