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浩の教室・第96回勉強会の模様

 先日19日、第96回当サイト主宰勉強会を開催いたしました。ご参加いただいた男性2名女性10名のみなさま、ありがとうございました。今回も、新しく参加いただいた方がいらっしゃいました。いかがでしたでしょうか。今後もよろしくお願いしますね。勉強会は、「来るもの拒まず、去るものちょっと追う」のスタンスで実施しております。あやしい宗教団体や政治団体ではありませんので(笑)、「よし、勉強しよう!面接とか討論とか、わからん!難しい!苦手!」などと対策にお悩みの方、お申し込みお待ちしていますね。その際、アドレスを間違ってご記入されないよう、気をつけてください。返信できませんから。当サイトの内容や、運営から参加すべきかどうかの判断いただきたく、よろしくお願いします。

 勉強会は営利ではありません。しかし、会合を開くかぎり、若干の負担をお願いせざるを得ないことは、ご理解ください。また、少人数でやっています。座席が20ほどしかありませんので、座席の確定をしております。申し込みながら満席でお断りせざるを得ないときもあります。ごめんなさい。

 さて、第96回では、2つの自治体・美術で合格されましたGさんから2次報告をしていただきました。どうもありがとうございました。つづいて、「議論の叩き台となる教育学講義」をワタクシの方からいたしました。今回は、理性、計画、内界などを手がかりとし、お話させていただきました。次回もこのつづきを講義いたしますので、イロイロとご叱正お願いしますね。講義はあと5回ほどで終了する予定です。1月から、答申を読んだり、討論を2回にしたり、工夫を凝らしてまいります。

 大阪府の過去問解答解説は、同和問題、人権問題の歴史について解説いたしました。穴埋め問題を確認しつつ、理解を深めてくださいね。この問題、世界人権宣言がポイントでした。しかし、同対審答申、水平社宣言も読みました。資料に実際あたるのは、時間がかかるものですが、後で絶対、力になります。来週も人権に関する問題ですが、歴史ではなく具体的内容の解説となります。また、コピー代だけで資料提供しますので、10円玉や100円玉を持ってきてくださいね。あまりお金をかけないのが、勉強会のポリシーですから。

 最後に集団討論を実施しました。テーマは「『教育は人なり』ということについて、議論してください」でした。今夏、実際に出題されたテーマです。その再現はすぐにアップいたしますが、「教育は人なり」をいかに解釈するか、ここが討論の要となるところです。この「人」とは誰のことを指すのでしょうか。その共通理解は討論参加者に生まれたのでしょうか。

 哲学的なテーマのようですが、切り口が問題となりますね。今回このテーマに、6名の方が挑んでくださいました。時間は20分です。A〜Fさんとして、いつものように議論の模様を再現します。

 第1発言者は、Dさんでした。Dさんは、この「教育は人なり」をどう解釈したでしょうか。Dさんは、これをカントの「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」と同じ見地から捉えられ、説明されました。つづいてFさんは、「教える側が『人間』(的)でなければならないということをいっているのではないか」と発言され、教育とは人格と人格のぶつかりあいである、ということを述べられました。

 このように、討論はまず、この「教育は人なり」の解釈論で参加者一巡することになります。Eさんは、児童生徒と教員は、人間と人間の間柄であり、この言葉の意味は人間存在として教育の全体を教えていくことであると解釈され、「自分という人間」を伝えることが教育ではないのかと考えてるとおっしゃいます。Aさんは、教育は人と人とのつながりを意味し、その関係をどう作るかというところに教員としての力量が認められるとし、Dさんの議論に関わりつつ「狼に育てられた子」のことについて若干お話されました。Cさんは、教育によって人は人となるとして、人間は、「人間的」に育てられるべきであると発言されました。ここまでで、討論参加者すべての方の「教育は人なり」論が出揃ったわけです。討論の最初に、こうした考え方を出し合うのは、スタンダートでしょう。おそらく本番でもそうなります。だから、この解釈について、核心を突いた発言者が「有利」となるのは間違いありません。ご覧のみなさんは、どの解釈に同調あるいは共鳴されたでしょうか。

 この言葉の解釈が、ビタッと面接官が考え心に思っているところを代弁するようなものだと、評価が高くなるのは間違いありません。そうした意味では、この6つの解釈は、ワタクシが考えていたものとちょっと違っていましたので、こう思っていました。「ワタクシの考えているのをいってくれるのは誰だろう」、と。

 言葉の解釈はイロイロですから決して解答とはいいませんけれども、ワタクシがこのテーマで議論してもらうにあたって、「教育は人なり」は、「教育は人=教師なり」⇒「(学校)教育はそこで働く教師にかかっている」⇒「学校教育にたずさわる教員にはどんな資質が必要か」と読み替えており、議論の中心ポイントを教員としての資質能力とみていました。これが正しいかどうかは関係なく、たとえば本番で面接官が感じたこと、つまり議論してほしいことをグサッと刺すことが好評価なワケです。後で討論の傍聴者のお1人がいっていましたように、一般論的な「教員に必要な資質能力論」に、「我が自治体の教員像」を絡ませて議論できればなおよいわけですね。

 一通り発言が終わって、上のワタクシの考え方に近いと感じられるものが出てこず、どうなるのかなと行方を見守りながら聞いていたのですが、どうであったでしょうか。とりわけ、「資質」という言葉が出てこなかったのです。

 Aさんが次に発言されました。Aさん(とすぐ下に書きますようにEさん)の発言が、ワタクシの考え方と一番近かったかもしれませんね。教員としての力量の問題と捉えていたわけですから。Aさんは、この立場から、児童生徒がより人間らしく成長するために、あたたかみや厳しさを持って常に接したいと述べられるにとどまりましたけれども、どうすればそうしたことが実現できるのか、そのためにどんな努力を現在しているのかを付加した発言にすると、グッとよくなります。

 Dさんは、生徒と先生の関係性を議論に取り上げるだけではなく、生徒同士の交流、教員と保護者の関係性をどのように作っていけるのか、ということをAさんの発言された「力量」をきっかけに述べられました。Eさんは、教育とは人からものを教わり学習することであると規定し、だから教員の人間性が大事であると力説され、そこから「教育は先生なり」を導き出されました。ご本人は「うがったみかたかもしれないが」と断り書き発言をされましたけれども、すこぶる核心を突いていますよ。

 また、教員は児童生徒を集団としてまとめる司令塔でなければならないとも発言され、ツボにはまったご意見といえます。Fさんは、このDさんのご意見を受け、それでは教員として何ができるのか、ということを以後議論していきましょうと討論参加者に提案されました。こうした議論の方向を指し示すひとことは、集団に貢献する意味があり、いい感じです。この「教員として何ができるか」に、Fさんご自身は、インターンシップの経験を元に、授業補助体験で学んだことを語ってくださいました。その内容は、授業中飛び出していった生徒についてのことです。ここから、生徒との信頼関係の作り方を問題提起し、生徒が辛いときにどんな声を掛けるべきかということをお話されました。

 Eさんがこれに応え、スクールサポート経験を述べられます。中学校で授業に「入っていけない生徒がいた」。注意しても聞き入れないで苦労した体験談です。そこから、人間関係ができていない状態で注意しても生徒は反発するだけと悟り、人間関係、信頼関係を生徒と結ぶことが第一条件であると自覚したと述べられました。

 Dさんも、この議論に立ち入り、児童生徒は個性の塊で百人百通り、だから多様な「方法」で接していかなければならないと話され、児童生徒のよいところを認め、それを一層発揮させるように指導したいと抱負を語られました。そして、こうしたよいところの発揮のためには、発表型の授業が求められているのではないかとご意見されました。百人百通りという点では、Aさんがつづけていわれたように、生徒の立場に自分が立ってみること、置き換えて考えてみることが大切であるとご意見されました。Bさんは、D、E、Aさんの議論を聞いて、信頼関係を築くには、教員にはカウンセリングマインドが必要、「相談しよう」と児童生徒に思わせるような教員になりたいと話され、児童生徒との信頼関係が成立すれば、保護者との信頼関係もできあがってくるのではないかと述べられました。

 ここから、Cさんは、児童生徒との人間関係をしっかり作り、その上で地域との結びつきも強めていけるのではないかと参加者に投げかけられました。Eさんはこれを受け、学校が地域との関わりを強めるのは、いわゆる「開かれた学校」との観点から求められる喫緊の課題であると述べられました。教員の活動範囲の問題として、この問題はあとで議論になりました。すなわち、「教育は人なり」といったとき、その教育を「学校教育」と捉えるのかどうかということですね。学校以外にも教育の場は多々存在するし、学校外教育に教員がどう関わっていくべきか、こうしたトピックまで議論をおよぼすべきなのかどうかということも検討されました。

 教採が公教育の教員を採用する試験であるかぎり、公教育の学校に勤める先生に求められる資質能力を議論するのが妥当です。だから、学校に勤めながら、いかに外に目を開くことのできるか、いわば視野の広い教員像とはどのような像か、ということをトピックにすえるかぎり、それはこの場で議論するに値するものだと思われます。

 このことと関連し、Fさんの見解は、児童生徒と地域の関係性は決して濃いものではない、ということで、だからこそ、段階を踏んで関係作りを進めていくべきであると述べられました。地域と児童生徒の関係はたしかに思っているよりも薄いし、「地域の教育力」もその実体はよくわかりません。地域の教育って何を指していうのかはっきりしないのですね。この点、次の発言者Dさんは、地域で児童生徒に注意する大人はいないのではないかとご自身の感覚から述べられました。これを何とか改善するには、挨拶の励行などがひとつの方策となるだろうとのことです。

 それにしても、「地域との連携」や「地域の教育」という事柄は、ほんとによくでてきます。いろんなテーマで議論を毎回している当勉強会ですけど、「地域との連携」はよくよく登場しますね。

 Eさんは、授業風景を見てもらう学校開放週間を設けた学校について語っていただきました。そこでは、多くの方が参観に来られたそうで、どういった教育をしているのかをみてもらういい機会になったそうです。また、学校教育に対する理解も深まったそうです。こうしたオープンスクールは、様々なところで行われていると思います。受験生のみなさん、一度、近くの学校に問い合わせてみて、好奇心持って「いっていいですか」と尋ねられたらいかがでしょう。とりわけ、学校世界と遠いなあと感じておられる方にオススメです。今の現場の抱える問題を垣間見ることができます。将来の職場体験といってもいいでしょう。これは是非やるべきですね。授業をする先生方も緊張するし、生徒も「お客さん」が来ているとどのような態度をとるかもうかがえます。問題意識が高まりますよ。上でもあるように「開かれた学校」なのですから、断る学校は少ないのではないかな。

 こうしたご意見が登場する一方で、Bさんは、地域の人びとは学校をよくみている、児童生徒を観察しているとご意見されました。たとえば、むかしは掃除などちゃんとやっていたのに、いまの児童生徒はあまりしないね、あるいはちゃんとやらないね、といった意見を聞くというのです。人間教育の方で、地域の人びとの目が光っている。そうしたご意見です。

 2つの違った意見が出てきて、どのように討論参加者が折り合いをつけるか面白いところでした。「悪いところは目に付く」、「いいところはなかなかわかってもらえない」というように、議論を膨らませることもできたのではないでしょうか。その先には学校評価の問題、ひいては教育再生会議を話題とし論議する余地がありますね。

 さらには、こうしたことを考えるのは、「いまの子どもと、あなたが子どもだったときと、どういう点が変ってきていますか」といった個人面接質問に答えることの練習にもなります。また、「いじめが陰湿化した」とはよくいわれますけど、このことと情報化の関係を問うてみるのも、いい教育的思考の訓練になるでしょう。「悪いところは目に付く」のはずなのに、それが目に付かなくなってきている。

 チェーンメールで、いじめに強制参加させられるケースがあると聞きます。こうしたいじめは「電脳生活」が進行した結果でしょう。人と人との関係を密接にし、素晴らしい交流を深められるはずの携帯ツールが、逆に児童生徒の学校生活を歪めている悲しく切ない現実があります。ここから、児童生徒に携帯は必要か、といった議論や、学校に持ち込まないとして、家庭教育と連携していないと携帯保持に歯止めがかからないという議論もでてきます。作らない持たない持ち込ませないは非核三原則ですけど、携帯も、持たない持ち込ませないの2つをどうするかですね。高校ともなると、そうはいってられない。すると中高一貫教育において携帯に関する校則をどう作成すればいいのでしょう。中学生はダメで高校生はOKといった校則が浸透するかどうかですね。ちょっと脱線しました。

 実は上のBさんの発言が終わった時点で時間がきて、討論は終了しています。6名で全20発言機会でした。ということは、1回あたりの発言時間は、平均1分ということになります。これは多いか少ないか。テーマに対するアプローチがうまくできて、活発さが増すと、30近くになります。討論の場数を今後どしどし踏めば、もっと短く発言機会が多い集団討論になっていくでしょう。

 このテーマに対するワタクシのコメントは、各発言の行間に埋め込んでおりますが、「教育は人なり」の解釈論からはじまり、どんなふうに議論を進めていくべきかの設計が求められます。これが討論参加者に意識されることを期待します。今回の討論は、ぐるぐる同じ意見が発表されていた時間帯がありました。それをダイエットし、論点をたくさん出すことが要求されます。集団に対し、問題提起型の発言をしてみようと意欲してくださいね。

 内容的には以上ですけど、形式的といいますか、外見的な面では、どこをみて話をするか、意見をいうかということが注意されました。集団討論の際は、あんまり面接官をみなくていいとワタクシは考えています。議論に実りあり白熱するとき、面接官がいることを忘れてしまうものです。そういうのがいいのではないでしょうか。

(2006年11月19日)

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