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浩の教室・第75回勉強会の模様

 この憲法記念日は、第75回当サイト主宰勉強会の開催日でした。多数のご参加、ありがとうございました。今回は会場を淀屋橋に移しての開催でしたが、なかなかここは快適ですね。

 当日は、まず、大阪歴史文化問題を報告していただきました。大阪の建物について調べていただいた資料と、大阪府のシンボルについて調べていただいた資料とでした。ありがとうございました。試験に出る出ないに関わらず、大切なことですから勉強しておいて損はないです。こうした「豆知識」が役に立つときがきます。試験に出れば丸儲け、といった感じで受けとめてください。しかし、こうした小さな小さな積み重ねが、最後の最後に生きてくる。そんなものなのです。

 この報告検討の後、「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」の検討をいたしました。今回もあまり進まないながら、みなさんから活発な意見がでて、実りありました。朝の読書運動と絡んで、その現状報告や批判、さらに、家庭との接続関係、文化資本の違いなど、考えたいことがイッパイでした。ワタクシの書いたつたない解説文ですが、2パラグラフ進めたので、いいでしょう。答申やこうした資料は、読んで憶えるものではありません。そんなものは1年たたないうちに忘れます。そうではなくて、そこからなにを考えるか、これが大事。そうしたものは忘れずにみなさんの思考の糧として将来も残ります。「試験に出題されるからやる」なんてチマチマした考え方をせず、血の通った教職教養を獲得してください。今後も、みなさんが問題意識を発揮し、いろんなことを話題提供いただければ幸いです。

 つづいて、Mさんに自己売り込みのツボを実践していただきました。こちらもみなさんから形式面、内容面で、多様な批判が出ましたし、よかった〜の声も出ましたね。十分検討されてきて、この場で「自己売り込み」をいい切れていました。あとは、視線、挙動、強調点など、指摘されたところを直せば完璧ですよ。3分間、自分を語れるというのは、並大抵のことではありません。それを40の眼がある前でいい切れるのは、これまた並々大抵のことではありません。やってみてはじめて、その大変さがわかるというものです。20年、30年の人生を誠実に生きてきたのか、自分のやってきたことを、心を虚しくして坦懐に省察する。そうすれば本当にイイタイコトがみえてくる。

 次回の勉強会は、自己売り込み(1分間ヴァージョン)の報告会ですね。与えられた1分間で、どのように自己を表現できるか、どのようにいえば自治体が自分に興味を持ってくれるか。

 教採の試験だけではありませんけれども、ワタクシのやっております「自己売り込み」や自己アピールなどというものは、自分をいかにみつめることができるかではないでしょうか。いままでのキャリア、将来への展望、教育に賭ける情熱、そうしたものが滲み出るような1分間。そしてそれをにこやかに表現する態度、教室に響き渡る声を用いる1分間。7日の参加者に期待しています。

 さて、勉強会における集団討論の模様を再現しましょう。

 今回のテーマは、「学力に関して、基礎基本の定着が大切であるといわれています。しかしできる子もいて、個人にみあった授業も求められる昨今です。みなさんはこの状況に関しどのような見通しをお持ちですか、議論してください」というものでした。このテーマに6名の方(A〜Fさん)がチャレンジしてくださいました。時間は20分です。

 まずCさんが、テーマを確認されつつ、教員は家庭教師ではなく40人(くらい)を対象に授業実践を進める存在であると述べられました。基礎基本の定着に力を注ぎすぎると「できる子」出てくるとテーマを理解し、そのときは発展的な学習でカバーするべきと発言されました。「可能性を持った子」をどのように指導するかが問題ですね。ただ、自分と違う意見にも気付く集団形成を進めたいと付け加えられました。Eさんは、Cさんのご意見を受け、かつご自身の講師経験から、児童生徒一人ひとりの理解力や理解のスピードには開きがあると実感されています。そのためにも授業研究をその開きに対応するよう検討し、基本的には一斉授業で落ちこぼさず「拾っていきたい」と述べられました。そしてその開きに具体的に対応するにはティームティーチングを活用するのも一手段であるとされ、先に進みたい児童生徒にはバージョンアップしたプリントを用意すると実践的ご意見です。

 Bさんは授業研究に関連し、教材についてコメントされました。教室には、いろんな児童生徒が存在する。どのように学習に対する意識付けをすればいいのかを考える。たとえば社会科は暗記教科として捉えられがちだけれども、「社会見学」というように、見学=体験学習と結びついた生きた知識の獲得をめざすべきであると発言されました。それは生活に密着した授業実践を求めるご意見であり、Bさんは、小道具を使った授業をやりたいと抱負を語ってくださいました。

 Dさんは、児童生徒には絶対に身に付けてほしいことがあると切り出されます。それは基礎基本の確実な定着ということですね。これを大前提とするがゆえに、Dさんは理解を確実なものとするべく小さなステップを設けて段階を確実に踏んだ授業をしたいと述べられました。また、集団構成員をすべて引き付ける授業研究をすると強調されました。

 Fさんは、従来の学校では集団教育を進める上で、学力的に中レベルの児童生徒に授業進行の視点を定めて進めていたと分析されました。

 Aさんは、いまの児童生徒には2パターンあるといわれます。というのは、塾へ通っていて「なんでも知っている子」と、「知っていない子」だそうです。「知っていない子」は、「もういいや」という気持ちになるのではないかと危惧されています。難しいのは、遅れがちな児童生徒にあわせるのもいいが、できる子にも手を打たなければならないことであると、テーマそのものの示すアポリアを表現を巧みにかえて指摘されています。ここになんらかの光をあてるご意見があればもっとよかったです。しかしそれは、現職の先生でも応え難い難問です。これができないから教育関係者全員が苦労しているわけですね。そうした意味では、このテーマを通して、いま、教育界・学校現場が悩んでいることを受験生に考えてもらおうということです。どんな考え方を受験生が持っているのかを探るといってもいいでしょう。

 この際、大切なのは、どの子も教育の可能性を持っている存在だということであり、「知っていない子」「『もういいや』という子」を救う姿勢を断固として決意することでしょう。たとえば、高校などでは、問題があればすぐに退学させればいいというような考え方もあるようですが、そういう考えの持ち主は教職に向いていないとワタクシは思っています。

 児童生徒をあずかるというのは、このテーマに即して考えてみた場合、能力別学級編成や習熟度別クラス編成を結果しそうですけれど、議論はどうなっていくのでしょうか、つづけて紹介します。

 討論参加者がそれぞれ意見を出しあい、1巡したところです。CさんはEさんの「実感」を自分のご経験から紹介されます。定時制の授業における学力格差を語ってくださいました。Eさんは、児童生徒は少しでも伸びたい気持ちを持っていると児童生徒観を持っておられる一方、授業を退屈に感じる子もでてくるのが現実であるといわれます。だから、児童生徒同士で教えあう時間をとって、互いにアクションある時間を共有することによってこの事態を切り抜けられるのではないかと提案されました。Fさんはこのご意見に賛成の立場から、人にモノを教える際、1のことを教えるには100のことを知っていないと教えられないとし、「わかっているつもり」を批判されます。教えあう教育活動を取り入れることによって、「過去にわかっていたつもりだったのを反省できる」契機になると強調されました。

 Aさんは、「クラス全体」ということを尊重するご意見を提供されました。算数の問題においてであれば、多様な解き方がある場合、それをどしどしいうよう児童生徒を指導する。そこから多面的なものの見方を共有するとのことです。Dさんも、退屈させない時間、密度の濃い時間をどう作るかに日々苦心されているようで、活気のある「空白の時間のない」授業をめざすと抱負を語られました。Bさんは、一斉授業において、できる子だけが活躍するのはいやだな、と述べられ、間違えた子を見下す雰囲気を作らないように注意すると、実践的な配慮を語られました。

 Aさんは、Bさんの発言を受け、「教室は『まちがい』の場所」であると意識しているといわれます。Eさんも同様であり、できる子は班活動においてがんばっている子を助けるなど、いろんなやり方があるといわれます。Dさんも、児童生徒同士の高めあいには賛成であり、児童生徒の自主性を尊重する授業の形態を考えると述べられました。Fさんはその具体策を調べ学習で代表させ説明されます。調べ学習は、グループ学習を活動形態として要請すると付け加えられました。

 ここでCさんは、学習指導要領のことを話題に出されました。現状の学習指導要領は、教育内容の「最低ライン」示しているものとのご認識で、100パーセント理解させるよう教員は要求されているといい、しかもできる子を退屈させてはならないのであるから、今までの議論で登場したように集団相互作用に期待するほかないとまとめられました。

 Fさんは、Bさんのご意見とも関連させつつ、たとえばいい作文を学級通信にのせたり、授業でいい意見をとりあげたりするのも担任の責任であるとされました。Aさんは時間の有効活用をあげられ、できる子がテスト終了後ボーっとしているようでは問題だとご意見されました。

 最後にFさんが「間違いノート」の作成について述べられたところでタイムアップ。

 もっと集団討論の状況を臨場感もってお伝えできればいいのですけれど、「過去形」表現が多く、難しいところです。まとめるのは大変です。意のあるところを汲みとってくださることを期待し、なにか刺激を受けられ、何らかの議論の種を見出してくださいね。

 さて、このテーマは学校現場でも常日頃から問題にされているものであり、その解決に頭を抱えているものですね。学力格差がでてきた教室は、しかし従来からあって、ワタクシもその中で教育経験を積んできました。ワタクシが無感覚であったのか、そんなに先生方が苦労されているとはつゆ知らず、自分が教える立場に立って、はじめて遭遇した難題でした。

 いままで、平均点のところに照準を定めて授業をしていたのが、一般的な学校の授業の在り方だったでしょう。それは教育における平等主義が「まだ」あったからだと考えます。いま、「学力に関して、基礎基本の定着が大切であるといわれ」、「できる子もいて、個人にみあった授業も求められる」という問題が浮上してきたのは、平等主義が教育の指導理念ではなくなりつつあり、できる子をどこまでも伸ばす式の選良主義が、あるいは「個に見合った授業」主義というべきものが教育現場を支配しつつあるからでしょう。この事態は、すなわち憲法の「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」が、どのように解釈されるのか、現場で試されている事態といえるでしょう。

 究極的にいえば、集団教育、一斉授業で個に応じるのには限界があります。これは理の当然で、一人ひとり個性が違うし能力が違うからです。それを無理やり平準化してきたのが歴史的に批判されているというわけですね。解決策は、能力別、理解度別学級編成や、討論にあったようにヴァージョンアップのプリントを用意するほかありません。根本的な解決策はないのです。

 学力の場面では個性が生かせなくても、他の場面たとえば部活などで活躍させればいいというのも、このテーマでは議論しにくいトピックです。教えあいはうまくいけばいいですが、児童生徒も互いに競争心が芽生え、受験が控える中3生くらいになれば、貸し渋る子もでてきます。だから、「一緒にやろうよ、教えあおうよ」との掛け声にも、「なんで?」という子も出てくる可能性がある。非常に世知辛い雰囲気がクラスに漂う。その意味では小中高の志望が微妙に意見に差異を与えることになります。

 結論は、ないのです。集団討論では、そこまで求めていませんし、求められるものでもない。リアリスティックにいえば、評価が教育につきものであるから、人間を差別化するのが教育であるのだから、究極的な解消策はないでしょう。

 ただ、教員は、理解度別学級編成で、「こだま、ひかり、のぞみ」と分けることには無感覚であってはならないと思います。現状、このシステムを取り入れている学校はありますけれども、このシステムは、「できなければ退学させればいい」という考え方につながるものであると捉えています。小中学校に留年制度を取り入れるべきかどうかの議論が「頓挫」しています。なぜなら、こういうことです。「教育的愛情」をどこまでも発揮するのが教員であるのであれば、留年制度を採用した場合に、児童生徒と教員との間の信頼関係が崩壊する危険性がある。そういうふうに文教政策担当者が危険性の一因をそこにを見出しているからでしょう。さらには、「落ちこぼし」との批判が噴出するのを恐れるためかもしれません。

 もう一つ、最後に理解度別、習熟度別編成についてです。たとえば「こだま、ひかり、のぞみ」と分けることに無感覚であってはならないのは、それが教員の心の濃やかさの問題であるからですが、それと同時に、もしそうした教員自身の濃やかさの喪失があったとして、その喪失の根拠を、児童生徒に押し付けてはならないという問題です。どういうことかというと、よく、「あの子が『こだま』のコースにはいったのは、あの子が自分で選んだからだ」というのがあります。これは欺瞞でしょう。「こだま」を選んだ責任を児童生徒に完璧に押し付ける議論です。教員の責任逃れあるいは苦しいことから目をそらす感覚としかいいようがない。「こだま」を選んだ子は、自分で劣等意識を自覚しなければならないし、それで先生は自分自身をエクスキューズしている。このエクスキューズが問題です。本当にそれでいいんだろうか。また、「こだま」には「こだま」のよさがあるで済ませられる問題なのでしょうか。

 先生方の心を軋ませるようなことを書きました。だが、児童生徒という存在が、まだ指導を必要とする「未熟な存在」として発達段階的に捉えておきながら、「こだま」を自覚的に選ばせる責任を、「ことばでなかなか自分のイイタイコトをいえない存在」である児童生徒に背負わせていいものであるのかどうか。

 個に見合った教育と個の切捨ては表裏一体というべきではないでしょうか。

 あっ、勉強会に参加せずとも、このページをご覧の方へ。ちゃんと毎日勉強してますか。「あすも授業」という講師の忙しさにかまけて、なんもやっていないんじゃないでしょうね。授業準備を理由に教職、一般、論作文、手を着けないなら、こりゃ重症。1日どれにも触れないとすれば、それじゃ、ダメです。思考が途切れるからです。意欲も途切れる。あなたもわかっているでしょう?努力しないで受かった人はいませんよ。あなたもやりなさい。

(2006年5月3日)

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