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浩の教室・第147回・勉強会の模様

 昨日の第147回勉強会では、ワタクシからの講義をまずいたしまして、教養の問題と、社会とは何かの問題をみなさまからご意見をいただきながら進めました。

 次にキャリア教育に関する過去問の検討です。緻密に検討するため時間がかかり、申し訳ないものの、どうしてキャリア教育を文部科学省や自治体が進めるのか、理解できたと思います。さらに、キャリア概念、キャリア発達などの言葉の意味、中でも「連鎖」の意味について掘り下げてみなさんと検討しました。えーっと、Fさん、ライフキャリアレインボーですね。これ、文部科学省のサイトのどこかにありました。ドナルド・E・スーパーの理論らしいですね。Fさんが問題にしてくださったのは、「立場と役割の連鎖」でありまして、それは生涯教育の考え方と重なり合いながら、スーパーによって立論されているものです。「連鎖」だから、「展開」でも、「推移」でもありませんが、このあたりの言葉の違いは翻訳上の微妙な違いに依存するのかもしれません。この概念の理解としては、ワタクシやYさん、Mさんが指摘されていた考え方でよいとは思われるのですが、厳密にはちょっと違うようです。「立場と役割の連鎖」の「役割」は、「息子・娘⇒学生⇒職業人⇒配偶者⇒ホームメーカー⇒親⇒余暇を楽しむ人⇒市民」みたいです。Fさん、また調べて報告してくださいね。

 最後は集団討論でした。今回のテーマは、「いじめのない学校づくりのために、学校が変えていくべきところは何だと思いますか、議論してください」でした。このテーマに、6名の方がチャレンジしてくださいました。時間は20分間です。今回は、大学3回生の方お二人が果敢にチャレンジ、今後、どのようにしていけばいいのか反省点もみえてきたようです。では、再現していきましょう

 まず、Aさんの発言。Aさんは、討論にもかなり慣れておられて、今まで勉強してきたことが態度にあらわれ、言葉にも力がありました。まずテーマを確認され、問題の所在を指摘されます。いじめは絶対に許されないとの立場を表明し、いじめの問題は学校全体で取り組むべきものであると力説されます。そして、絶対に許されないとの意識を児童生徒においても、教員においても、共有することが学校変革への第一歩であると捉えられています。

 つづいてCさんは、Aさんのいわれたことに関連し、教員間の情報共有のあいまいさを指摘されます。いじめがあっても一部教員が知っていて、知らなかったという教員もいる場合がある。こうした状況を回避する必要性を訴えられていました。それが学校が変えていくべきところと捉えられているわけです。Dさんも同様に、情報共有に関し、小さな変化でもおろそかにせず共有するべきと付け加えられました。

 Fさんは、教員間の連携についてA、C、Dさんに賛同を示されつつ、多くの先生が足並みそろえていじめられている児童生徒をみつめる必要を感じておられ、そのために研修会を開くなどすることが学校変革につながると考えられておられます。Aさんは、これまでのご意見をまとめていわゆる「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」を充実させることを主張されるほか、中学志望の立場から、教科担任制が教員のコミュニケーションを分断しているとすれば、その紐帯を今一度強めるのが理想であると述べられます。Cさんからは、教員だけでいじめの「芽」のすべてをみるのには限界があるかもしれないといい、児童生徒との深い信頼関係を前提に児童生徒からいじめに関する情報を得ることに努力したいと発言されました。信頼関係という言葉に反応し、Fさんは、ある一人の先生のみが信頼されていても仕方がなく、複数の先生、すべての先生が信頼されなければならないと述べられ、さらに情報共有という観点では職員会議を活用するべきであると付け加えられました。従来、職員会議でいじめに関する情報共有と教員間の議論は丁々発止だったと思われますが、いじめのない学校づくりのために、どのように職員会議の在り方を変化させていけばいいでしょうか。それを具体的に語られると、もっと独創的な回答になったと思われます。

 ここでDさんは、テーマの再確認をされて、主語としての「学校」がどう変わるかの議論をもっとしましょうと問題提起されまして、これまでのひとりの担任の先生でひとつのクラスを育てるとの意識から、複数の先生で複数のクラスを育てるとの、教員の意識変革が学校変革につながっていくと述べられました。このご意見は重要です。今回の集団討論終了後の反省の時間に、「主語としての『学校』」のことについてどう捉えるべきなのか、議論がみなさんからありました。このことについては、後で触れます。Aさんは、Dさんの問題意識に刺激され、教員がひとりで悩みを抱えるのはいけない状態であると指摘されます。今次のテーマ、いじめに関しても、教員だけでなく、学校ボランティアの方々やスクールカウンセラーもいらっしゃるので複数の眼で問題解決していく方策をとるべきであると述べられました。このように発言されてはじめて、学校全体で取り組むことの内容があきらかになってきたようです。

 Fさんは、学校が全生徒の意識を集中させるような、いいかえれば、いじめなどどうでもよくなるような、そんな大きな目標を設定することこそ、学校を変えることになるのではないかと述べられます。具体的に、ご自身の経験談を語られます。それは、野球部が甲子園に出場するということで、全校的に一体感が生まれたことをモデルに、こうした学校の一体感、統一感を生み出すような目標が各学校にあればいいなあと抱負を語られたわけです。ちょっと特殊ですけど、いじめなんて馬鹿らしいと児童生徒におのずと意識付けられるようになるならば、大変すばらしい案といえます。学校が一塊になり活気付くのは、その反面、地道な学習指導がどうなるのかとの一抹の不安はありますものの、フレッシュでいい提案であるといえるでしょう。

 次にCさんが、いじめをなくすための措置としては学校だけでなく社会の力も必要であって、社会そのものも反省しなくてはならないとの旨のご意見を述べられました。社会をみても、そこにはいじめがあるのであって、学校からいじめをなくそうとすれば、社会がその見本とならなければならない、逆に、社会一般からいじめがなくなれば、学校でもいじめなどなくなるとお考えのようです。たしかに、社会にもいじめはあります。

 学校にいじめがあるとの前提に立つのは寂しいものですが、いじめのない学校というのはごく少数でしょう。また、いじめはなくなるものではないというのは、「真理」なのかもしれません。しかし、それをそのままズバリいうのは、やはり問題でしょう。これはCさんのことを批判しているのではなく、誰しもが抱いている率直な感覚です。ワタクシたちにあっては、いじめをかぎりなくゼロに近い状態にしていくというのが、現実的な捉え方なのでしょう。

 Dさんは、Cさんのご意見を受け、競争社会がいじめを生み出していると、議論の枠を大きく展開されました。さらに、評価の問題に触れられ、評価があるからいじめが発生するのかも知れないと立論されます。そこから、「差があって当たり前」との感覚を持つべきであり、多様性、個性を尊重する態度で学校がいどめば、いじめ問題が解決するのではないかと考えられているようです。ところが、学校というところが、もともと人を区分けする場所であるかぎり、評価制度の存在=いじめの発生起源とするのは、いささか乱暴すぎるのではないでしょうか。近代以降の学校が選別体制を国家から依頼されているかぎり、評価は学校の命といっていいでしょう。講義でも述べましたが、無理やり5段階の評価1をつける仕事がワタクシたち教員に課されているのをどのように捉えるべきでしょうか。成績が上級の学校を選択する指標となり、さらには、いい仕事へのパスポートとなるのが、有名大学の卒業証書であるというのが、現代人における学校制度を捉える捉え方の限界といえるでしょう。Bさんがいわれるように、一人ひとりの児童生徒の個性は尊重されるべきであり、誰しもいいところを持っているものです。それを生かしたクラス作りが期待されています。

 実にBさんは、ここではじめての発言でありまして、討論がはじまってから13番目の発言であり、時間的には半分が過ぎ去ろうとしているときに、ようやく勇気を振り絞って、ご意見を述べられました。はじめて討論なるものに参加したわけですから、これはこれで仕方がありませんが、本番でどのような評価になるかは、よく考えないといけませんね。でも、がんばりました。

 つづけてAさんからは、人間存在の多様性について議論しようとされました。たとえば、現在では、特別支援教育コーディネーターにのみ、その仕事を専属させる方向に進められているけれども、このあたりを再考し、担任にもと特別支援についての深い理解を持つように方向付け、いじめられるケースの多い障がい児の問題について言及しようとされました。

 この発言をはさみ、Fさんから、Dさんの提起された「競争社会いじめ起源論」に関連し、学級で個性を認め合い、多様性を保障する社会の在り方についてご意見を述べられました。、また、Aさんの問題提起を受け、障がいがあるのも個性として捉えるべきであると述べられました。個性の相互尊重とともに、Cさんからは、なんでも改善点をいい合えるようなクラス作りがいじめ撲滅の方策になると主張されます。Bさんもこれに同意され、いやなことがあっても何でもいえるクラス作りを提唱されます。Eさんは、ここで発言、競争することも大切と一言添えられました。最初は討論に参加してドキドキするし、周りの方が述べていることに、ごもっとも、としか反応できないものです。そこから学び、それを生かし、最終的にご自身が発信者となりましょう。

 競争することは決して悪いことではないというのは、Eさんの発言を受けて述べられたFさんのご意見です。たとえば、ラグビーの試合でも勝負です。しかし勝負がついた後は仲間になれる、そんな清々しさをFさんは期待しているようです。ちょっと議論が本筋から違う方向に行きかけていますが、このFさんの発言は、Eさんを思いやっての発言であると、面接官に認められるでしょう。このご意見を鋳直し、Aさんは、体育の時間でも球技系などでは試合があって、そこで負けたときに「お前のせいだ」といった発言があることを問題にされます。そうではなくて、よかった点、悪かった点を挙げ、反省的に振り返り、体育の時間を有意義に、かつ、人間的にすることが要求されているのではないかと指摘され、こうした反省を真摯にする授業態度がいじめの撲滅につながっていくと、Aさんは信じられています。なかなか気合のこもった発言でした。Bさんも、どれだけ「弱い子」をかばってやれるかというところに、いじめを起こさせないクラスの在り方を見出されました。そして、いやなことをも語り合える場を、ホームルームで用意することが可能なら、これもいじめを予防する方策になるとFさんが付け加えられます。

 ここでDさんは、いじめの「事なかれ主義」について言及されました。傍観者の存在についてです。ちょっと提案するのが遅かったかもしれませんね。大事な観点ですから、討論の前半でこれが提起されれば、もう少し違った展開になっていたでしょう。Cさんは、いじめがわかった場合の情報公開について述べられます。いじめがあった事実をオープンにするような組織的な心がけについてです。最後にAさんが、いじめの芽が本物のいじめにならないうちに刈り取ってしまうことが学校には求められているとし、児童生徒の抱えているストレスを教員が慎重に受けとめてやる必要を説かれました。そのためにはよりきめ細かなラポールの形成と個別面談の複数回数化が陽の目をみるといいでしょうとの発言で、今回の討論は締めくくられました。

 今回の討論における問題点はどこにあるでしょうか。各討論参加者のそれぞれの発言に、大きな間違いがあったり、いってはならないことをいっていたりというようなことは、ありません。テーマに対するアプローチに問題があったのかといえば、これもそう断言するほど出来栄えの悪い討論でもありません。そこで、一般論的に、テーマの本質を見抜く「解剖作業」がうまくいっていたのかどうかについて、簡単に触れておきましょう。

 ポイントは、「主語」です。テーマを再掲すると、「いじめのない学校づくりのために、学校が変えていくべきところは何だと思いますか、議論してください」でしたが、主語は、「学校」となっています。学校が主語ということは、教員がいじめのない学校に変える主役なのでしょうか。教員が先頭に立ち、学校をよりよいように変えていくのは当然です。しかし、教員といっても管理職もいれば新採もいるわけでして、こうした経験が違う複数の教員がスクラム組んで、いうなれば上の方から学校を変えていくということになるのでしょうか。とすれば、多様な資質を持った教員集団におけるいじめ対策の再編成ということが議論されるでしょう。学校が変えていくべきところといったテーマにおいて、教員が意識変革するという観点から議論するとき、スクラム組んで情報共有というのは、トピックとして正しい。しかし、あとでも議論になったのですけど、学校の施設を変える、たとえば、オープンクラス、壁のない学校、ストレスを感じさせない空間形成、教育相談室の充実、などといった視点も討論の大きなトピックとなるでしょう。

 こだわりますが、学校が主語、ということは、児童生徒は「主語」ではないのでしょうか。本来、学校の主役は児童生徒であるといわれます。いくら教員側ががんばっても、いじめが陰湿化し、教員にその本質がみえにくい現在、児童生徒の意識を変革しないかぎり、いじめ撲滅は達成されません。そう考えると、「いじめのない学校作り」の主役は、児童生徒にほかならないのではないか。ただ、3年あるいは6年で、児童生徒は入れ替わります。そうだとすれば、いじめをなくす児童生徒の意識の伝達、ということが重要になってきます。たとえば、「ひとの失敗を笑わない、これをクラス目標にしましょう」といわれる先生方が多いです。「お友達」の失敗を笑うところに、いじめの芽は発生します。このようなクラス形成のミソを伝統化できないかどうか。このように考えていけば、主語は教員だけではなくなってくる。

 実際に議論にあらわれていましたけれども、社会と学校の接点を重視し、いじめ対策を考えていくことも大切なことです。こうなってくると、主語は学校からスライドし、広く社会一般ともなります。3者連携や開かれた学校作りが、いじめを食い止める橋頭堡になります。そうした立論は広がりすぎると足元をみない空想論になりますけれども、テーマから逸脱しているといい切ることはできないでしょう。

 このように考えてくると、このテーマにおいては、主語をめぐって多様な議論の展開が見込めるといえるでしょう。柔軟にテーマを捉えることが、広がりあり、ひとつところをクルクル回る議論を回避する方法になるのが理解されます。

 もうひとつ、今回の討論では、いじめの予防策ばかりが議論された印象であって、「変わる」という「述語」の方があまりでてこなかったというご批判もありました。主語と述語は対応し、主語が多いと述語も多様になります。したがって、柔軟な態度でテーマに接すると、予防策以外の多様なトピック形成が可能になるということになります。ただ、予防策に追われるのは、「いじめの存在しない学校はない」との立場に立てばどうしてもそうなりますし、これだけいじめの問題が報道されているのに鑑みれば、いささか厳しい指摘ではないでしょうか。

 いじめの問題が出題されたら、どうしても予防策を議論することになりますし、それがない議論も、不自然です。また、予防策でない議論というのは、逆にどのようなものになるのか、予測がつきません。現実のいじめに対する処方を具体的に考えるということになるでしょうか。参加者個々人の経験したいじめの現場を報告し、そのときの対処から発言を整えるのも、一つの手段でしょう。

 このほか、いじめの陰湿化と書きましたけれども、議論に登場しておかしくなかったこととして、いじめが学校世界内にとどまらず、ネットを介して巧妙化し、複数の学校にわたって単一のいじめが深刻化することがあります。この対処としては各学校がネットワークを組む、各学校の教員間の情報共有ということになります。たとえば、大阪でいいますと、府下全域とはいいませんが、高校の制度では4学区体制ですので、この学区内の各学校が連携をとって、いじめのネット化に対応するのも、「いじめのない学校作り」となるのではないでしょうか。

 集団討論では、「他者のいっていないことを何とかいおう」とする傾向があります。他者と同じことを焼き直していっても、なかなか評価につながらないからです。そんなとき、空想をめぐらして、テーマからイロイロなところに自分を旅立たせてみることが、広く豊かな発言を生むのではないでしょうか。

 もう、今年もあと1ヵ月。いまのうちに、自分なりの教育観を持てるようにし、力を蓄えましょう。では〜

(2007年11月25日)

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