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浩の教室・第6期 第21回(通算217回)勉強会の模様

 本日は、当サイト主宰勉強会にご参加いただき、ありがとうございました。現職の先生(当サイト勉強会卒業のMさん)にもご参加いただくことができました。お忙しい中、ありがとうございます。新しくご参加いただいた方もいらっしゃいましたが、いかがだったでしょうか。今後もよろしくお願いします。いつも勉強会開催の3日前の水曜日に、「最終ご連絡メール」を差し上げております。ご確認いただいていることと思います。BCC(ブラインドカーボンコピー)送信しておりますが、不時着もあった模様です。他の方にはちゃんと到着していますので、ある特定の方にだけ不時着する原因はわかりませんが、善処いたしますので、よろしくお願いします。それから、「最終ご連絡メール」に返信する形でワタクシ宛にご連絡いただきますときは、なにとぞ件名にお名前のご記入をよろしくお願いします。携帯から送信いただくと、PCで受信しているワタクシにあっては、お名前が表示されず、どなたかわからないからです。ご協力、よろしくお願いします。

 さて、本日は、20数名の参加者を得て、ワタクシから「議論のたたき台としての教育学講義」をいたしました。生涯学習に関する議論を展開いたしました。最近では、生涯学習は下火といいますか、社会の動向と連動し、収束感が強まっているように思えます。といいますのは、不況期にはいりますと、まず財布の紐をしめるのは、外食と習い事だからです。生涯学習は、理念的には人生の豊かさを求めて自立的に学ぶ学習なのですけれど、それはやはり経済的に豊かな状態があってこそ、展開できると思われます。経済的に豊かな時期に、出発した個々の人びとの学びへの思いが、断ち切られないようにするにはどうすればいいのでしょうか。

 大阪府では財政を立て直すために、大阪府立大学ですら手仕舞いにし、大阪市立大学との統合が進められようとしています。たしかに橋本知事は、ここ数代の知事が成し遂げられなかった府財政の黒字化をやってのけ、評価が高いです。しかし、こうした緊縮が大学にまで及び、公益性の強い学びの中心たる府大や市大が一本化することは、確実に学ぶ機会や場所を二分の一にするわけでして、統合が実現してしまうとするなら、残念でなりません。大学は生涯学習の基盤的組織でもあるからです。大学の教員が講師として公益的な各種センターに派遣され講演をしている事例は枚挙に暇ありません。とすると、府大と市大とが統合し教員数が半減するとすれば、生涯学習に寄与する「頭脳」がこれまた二分の一に削られるということになるかもしれません。

 つい数年前に、大阪大学と大阪外国語大学との統合があって、「母校がなくなっちゃった」と嘆いていた当サイト主宰勉強会の卒業生もいらっしゃいました。伝統を守ることは、そこに関わった人びとの過去を保存することでもあります。自分の学んだキャンパスが消えることに心を痛めている方は多いでしょう。知事のいう校庭芝生化もよいことですけど、あるいは芝生化するはずの大学のキャンパスが更地にされてしまうのは、あまり気持ちのよいものではないでしょう。

 さて、勉強会では、次に、「自己売り込みのツボ」を実施しました。Nさん、がんばりました。

 最後に集団討論です。例によって、その模様は、次回以降の更新といたします。

 ところで、先日、大阪阪急梅田の紀伊国屋書店にいって、時事通信社の『教職教養の過去問2009』を購入しようとしたのですが、ありませんでした。その代わりに、同様の『2008』が平置きで一番みえるところにおいてあるじゃないですか。これはいただけませんね。この夏の過去問ではなく、一昨年の夏の問題なのですから。別に販売するのは悪いことではありません。しかし、この陳列の仕方では、まちがって受験生が買う確率が高いです。新版を買いにいって旧版を買ってしまうということになりかねません。在庫があるからといってこうした販売態度はいただけません。せめて、旧版であることをちゃんと表示した上で販売するべきでしょう。時事通信社という大きな出版社が、ワタクシにいわせれば、こんな姑息なやり方で販売するのは残念でなりません。「なんでも売れればいい」とのやり方は改めていただきたいものです。また、これが、時事通信社の考え方ではなく、紀伊国屋書店の販売態度であるならば、紀伊国屋さんの販売方針を変更するべきでしょう。いずれにせよ、紛らわしい販売は止めるべきだと思っています。


 それでは、集団討論の模様を再現します。今回のテーマは、「児童生徒の意識といいますか、感性といいますか、そうしたものが、こちら面接官とかけ離れているのはいうまでもありません。歳の近いみなさんともズレがあるのではないかと思います。みなさんの周辺の児童生徒の観察からして、どのような印象を持っていますか、議論してください」でした。このテーマに、20分間で6名の方が挑戦してくださいました。仮にA〜Fさんとして、発言論旨を追っていきますが、その前に、テーマのポイントを考えていきましょう。
 このテーマは、ご覧の通り、かなり長い文面ですね。一番肝心なところはどこでしょうか。それは、「印象」です。それはわかりますね。しかし、その「印象」に、「そうしたもの」の内容がなければなりません。つまり、「意識、感性のちがいの印象」ということになります。

 「意識、感性の違いの印象」がテーマの本質であることがわかりました。では、これだけを議論すればそれでいいのかどうか。そうではありませんね。テーマを深読みし過ぎるのはダメですけれども、このテーマを提示したワタクシつまり面接官役は、その違いをよいと捉えるところがあるか、悪いと捉えるところがあるか、を判断し、この両者を今後どのようにしていくか、という内容の議論を期待しているわけです。

 実は、このテーマを今回提示した背景には、以前リンクした『毎日新聞』の連載の記事内容があります。すなわち、「東京都内の小学校。月曜の朝会で体育館に児童が整列している。遅刻してきた男児に男性教諭(57)は『急ぎなさい』と促したが、顔色も変えずゆっくり歩く。友達と笑いながらやってくる女児もいる。なぜ慌てないのか、理解できない」(『同紙』2009年1月19日付)という「意識、感性のちがいの印象」という内容です。学習にせよ、生活にせよ、それらを営む基盤的な意識、感性が指導者と異なるとき、亀裂が生じるのはいうまでもないでしょう。この記事の「理解できない」とは、その前提が崩れているわけで、「生徒理解ができない」との告白といっていいでしょう。実際、こうした子ども達は増えているのでしょう。ワタクシも、これを読んで、57歳の教員に同情します。なんといいますか、「新人類」、「宇宙人」といった感じでしょうか。しかし、こうした児童生徒も人間なのであり、ワタクシたちがこの児童生徒の持つ意識、感性にどうにかして刺激を与え、よい方向に変質させていくことが要求されていると思われるのです。

 今回の議論では、そうしたところはあったかどうか。第1発言者はBさんでした。Bさんは、毎回愛知から熱心にご参加いただいている方でして、頭が下がります。今回、果敢に最初に手を挙げ、テーマを確認し、「印象」を述べることからはじめましょうと方向を定められました。Bさんご自身は、高校で勤務されており、いまの高校生は元気でたくましい一方で、もうちょっとがんばってほしいなと思わずにはいられない場合もあると分析されています。その際、心の弱さが印象に残ると述べられ、生徒の両極端化が進んでいるように思えると発言されました。強い子と弱い子とに分かれている、間がいないということのようです。Fさんは、学習面で印象を語られます。勉強がわからないと、がんばる児童生徒もいるけれども、すぐに投げ出してしまう、放ってしまう児童生徒が多いと指摘されます。Aさんは、成人対象の学校の教壇に立たれている方であり、「一児の母」でいらっしゃいますが、最近の子どもは、とにかく単語でしゃべる、主語がない話し方をすると発言されました。「あれ」とか「それ」とか指示代名詞を使うケースも多いのではないかと「印象」を語られました。Cさんは、こうした批判的印象と一風変わり、「なんやかんやといっても、純粋」と指摘されます。教員からの様々な影響をそのまま吸収することもあるし、たとえば友人関係にも人間形成が左右され、どういう意味合いでも染まっていくと述べられました。Dさんは、小学校2年生の支援ボランティアをされている大学3回生の方ですが、そこからの印象として、甘えたであるといわれます。そして、保護者との関わりが薄いように感ぜられると指摘されました。Eさんは、アフリカに滞在して子どもたちをみつめてきた経験から、子どもの目の輝きは日本の子どももアフリカの子どもも変わるところはないと強調されました。もちろんそれはそうでしょうね。ただ問題は、横ではなく縦の比較で「ズレ」の印象を語っていただくところにあります。いまの子と昔の子の「印象」のちがいを議論してほしいわけで、横の、つまり環境のちがいから分析した「印象」を語るのではないということです。


つづいて発言されたのは、Aさんでした。Aさんは、ご自身の「印象」も含めて、みなさんから出された「意識、感性のちがいの印象」で、小中高一貫して問題が発生するものなのだろうか、また、どの校種の段階で解決可能な「印象」なのだろうかと問題提起されました。

 ところでテーマに関する第2のポイントとして、Aさんの発言をお借りして述べてみましょう。問題は、「印象」がマイナスであると決めていいかどうかですね。よい「印象」と悪い「印象」を整理することが、これ以降の議論をしやすくすることになると思われます。Aさんの「指示語で話をする」は、悪い「印象」でしょうし、Dさんの「甘えた」というのもそうでしょう。Fさんの「すぐに放り出してしまう」というのもそうです。Cさんの「純粋」というのはどうでしょうか。と、このように考えていくことによって、議論の幅が厚くなってくると思うのですがいかがでしょうか。ところで、校種を超えて、悪い「印象」がどの段階で発生し、どういうように解決していくかについてのAさんの発言は、他の討論参加者の問題意識として共有されることはありませんでした。ちょっと残念でした。

 次に手を挙げられたFさんは、Dさんの議論に言及されたわけです。甘えてくるのは、保護者に愛されていないあらわれである、と。最近の保護者は、夜9時、10時に帰宅する場合があり、そうした家庭の児童生徒は、愛情が足りずに教員に対して甘えてくるとの認識です。やはり、Aさんへの気遣いは必要で、もちろんFさんが「甘えた」に言及するのはいいのですけど、Aさんの発言を無視する形になったのは、ちょっと反省点ですね。Bさんも、保護者以外の他の大人との関係性があまりなく、異年齢で生活や遊びの場面で一緒になることもほぼない現状において、コミュニケーション能力が低下していることを指摘されました。単に言語能力の発達段階に関わるだけでなく、社会環境の変質が、Aさんのいわれるところの指示語でしか話せない児童生徒を生み出しているのかもしれません。また、単語で話をする、流行語や省略語がはなされるのも、社会環境ゆえでしょう。この議論は、煮詰めると面白いかもしれません。ただこの状況は、ワタクシが高校生のときつまり20〜30年前もそうだったのですよね。そうした意味では、「印象」の範囲にワタクシならばはいらないことになります。いまも昔も同じ、ということです。

 Cさんは、社会環境の代表的な変化例として、携帯電話の普及による学校社会の変化を挙げられました。これは、ワタクシたちの社会環境とはまったくちがうところです。IT社会化した現代は、児童生徒の意識も変質させ、「印象」をまったく変えていくものです。小学生でも6割が「携帯」を携帯している現状ですからね。携帯などの電子機器に頼りすぎている「印象」であり、FACE TO FACEの人間関係形成がなくなるのではないかとCさんはご意見されました。これは、情報教育の光と影の問題を惹起します。Aさんは携帯が登場した後の社会環境に関連し、夜9時に友人に電話するのはだめなのか、だめでないのか、という問題を出されました。また、携帯が個人と個人を結びつけ、保護者が我が子の友人関係を掌握できない問題性を指摘されました。その一方で、Eさんが発言されたように、不登校の児童生徒や軽度発達障害児にあっては、携帯を通してコミュニケーションをとることはウレシイ出来事であるとの保護者の意見があると紹介されました。携帯の功罪ということになりますが、これはこれだけで討論テーマになるものですね。Dさんは、携帯がCさんのいわれるように面と向き合っての人間関係を破壊するのは、地域をも崩壊にすすめていっているのではないかと発言されます。それゆえにDさんは地域の復活を期待すると述べられたのですが、さすがに回答はありませんでしたね。どのようにして地域を復活させるかの具体的手段を述べられるといいのですが、これは、ワタクシにとっても難問です。Eさんも、携帯については「私の世代においてもなかった」といわれます。

 「印象」が児童生徒の「印象」をたずねているのに、児童生徒の環境変化に関する「印象」に議論がすすんでいますね。たとえばFさんの遊ぶ場所が少なくなったもそうです。たしかに、蓮華で花飾りを作ることはなくなったでしょう。遊びの実態が変化していることは衆目の一致するところです。あくまで児童生徒の「意識、感性のちがいの印象」なので、議論の方向修正が必要だと思われましたが…。Aさんの24時間寝ない社会の登場ということも、保護者の都合に合わせなければならない児童生徒の実態も、環境論といっていいでしょう。生活リズムの変化はたしかに起こりますが。Bさんは、こうした社会の変質によって規則正しい生活を児童生徒ができなくなっていることを指摘し、それが脳の発達にも悪い影響を与えているのではないかと推測されます。そして、だるいという児童生徒ほど、不規則生活に陥っていると述べられます。養護教諭の立場から、これらを是正するべく、保護者に対しても保健便りを配布して啓発していくと語られました。こうして家庭の議論が出たところで、Fさんは、朝食を摂らない児童生徒の問題、それが学力低下にもつながっている問題を発言されます。Eさんから、Bさんの保健便りを配布する意義の再確認の発言をはさみ、体調をよくする地道な方法を伝えていきたいとの応答がBさんからありました。


 児童生徒の「意識、感性のちがいの印象」が、「社会環境の変化」による児童生徒の移り変わりというような議論にすすみつつあるというのが、昨日の討論再現の模様でしたが、この傾向は、もう少しつづきます。保護者に朝ごはんを摂ることの重要性を伝えるのが教員の仕事であるとAさんがいわれたのも、その一環といえるでしょう。ここで、Aさんが最初の方で出された問題提起、つまり「小中高のどこかで『印象』を解決するべきものかどうか」に応えるような形でCさんがご意見したのですが、それは、生活習慣の是正は、保育園や小学校の担当するべき課題であるとの発言です。高校地歴志望のCさんにあっては、基本的生活習慣の確立は、高校の生活指導領域と捉えていないように思われます。この感覚については議論の分かれるところでしょう。ワタクシはどちらかといえば、Cさんよりの立場です。高校生の自主性を尊重したいからです。また、小学校に通う児童が23時を過ぎても保護者の都合で外を歩いている状況に対しては、Cさんも当然疑問視されています。やはりそうした状況は、生活習慣に悪影響を与えることになりますね。保護者の意識の変革を求めることが、その是正には欠かせません。しかし、そこまでできるかどうか。学校のスリム化を標榜した90年代後半の教育の在り方に逆行するような感じでしょう。ここは、現代教育のあるべき在り方の再検討を要する議論となり、テーマを越えているものでしょう。

 Eさんは、児童生徒の生活と学力との関係について、先にも登場した朝ごはんと学力向上の関係について言及し、外国とのちがいを語られました。いずれにせよ、児童生徒を取り巻く環境を整えることこそが、「印象」改善の方策と述べられているようです。

 教育への可能性は、こうした環境の改善という方向への議論でしか語ることはやはりできないのでしょうか。この点、ようやく「印象」改善を「意識、感性のちがいの印象」をどうするかとの観点から、Bさんが述べられました。それは、「すべての子どもに丁寧なかかわりを」ということです。そして、それを率先して行なう養護教諭の立場の主張です。

 児童生徒の心の問題に関しては、Fさんが授業参観の話題を出されつつ、花を植える活動を通して児童生徒と保護者と教員との関係を作っていくと述べられます。児童生徒と一緒に活動することが、心の豊かさを増進するとお考えです。こうした内容は、Dさんがいわれたように連絡帳を媒介に、形に残すことが期待されるでしょう。これは、Bさんの保健便りも同様であり、規則正しい生活の指導も含めて、心の弱い児童生徒を救う方策をも探ることになりますね。

 すでに討論時間の90パーセント近くが過ぎたのですが、Aさんは、昔がよく、いまはダメとの比較論で考えるのではなく、「意識、感性のちがいの印象」が、社会環境の変質によって変わっていくとして、情報化社会や治安の問題とリンクさせつつ児童生徒の感性の変化を読み解いていくことが大切なのではないかと発言されました。これは、Cさんの携帯を学校に持ち込むことの是非論や携帯の効果的な活用法ということにも関わってまいります。また、Fさんが最後に述べられたように、インターネットの活用方法ということにもつながってくるでしょう。

 これで20分間が終了しました。開口一番、討論の反省点として登場したのが、「否定的な論点が多かった」ということでした。テーマを再掲しますと、「児童生徒の意識といいますか、感性といいますか、そうしたものが、こちら面接官とかけ離れているのはいうまでもありません。歳の近いみなさんともズレがあるのではないかと思います。みなさんの周辺の児童生徒の観察からして、どのような印象を持っていますか、議論してください」でしたね。いまの児童生徒に欠落しているところの指摘に時間が割かれるのは必然のようにも思われます。そこからどのようにして脱却することができるのでしょうか。

 おそらくそれは、各参加者の「どんな児童生徒を育てたいか」、「どういう能力を持って卒業させたいか」との理念をはっきりさせることにかかっているのではないでしょうか。児童生徒のいいところを見抜く目、これが期待されているということであり、教育実践の上では、これが「ほめる指導」としてあらわれるわけですね。

 そして再説しますと、あくまで児童生徒をめぐる社会環境の変質についての議論は従であり、主たる議論は児童生徒の心の変化について議論してほしいということです。しかし、この議論はむつかしい、ということは、このテーマ自体がむつかしいものであったということでしょうか。しかし、これと同じテーマとして、「あなたが子どもの頃と比べて、いまの子どものちがったところはどういうところでしょうか」という集団面接の質問がありますので、そうそう無視してかかるわけにはまいりません。すなわち、集団「面接」では単発的に解答できるものの、集団「討論」では、苦しくなるのかもしれませんね。そうしますと、いまの児童生徒を観察し、自分の子どもの頃とちがうところを箇条書きで書き出しておくことが必要になってきます。その際に、よい方法に伸ばしてやることを念頭において、いまの児童生徒のいいところを念頭において、「あ、ここは私よりすぐれている」というところを多々書き出していくということになりますね。

(2009年2月14日)

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