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浩の教室・第8期 第22・23回(通算364・365回)勉強会の模様

 週末の勉強会にご参加いただいたみなさま、お疲れさまでした。ありがとうございました。新しくご参加いただいたかたも多く、緊張されていたようでしたが、いかがだったでしょうか。極力、厳しく楽しく、笑いあり、しかし役に立つをモットーに運営しておりますので、今後もどうぞよろしくお願いいたします。

 土日の連続開催でしたが、内容は異なります。最初に講義、次に「自己売り込みのツボ」、そして模擬授業、最後に集団面接のプログラムは変わりませんが、講義は毎回違う内容の連続モノですし、「ツボ」や模擬授業は担当者が変わりますし、集団面接は、希望者の先着となります。

 講義は今月末までに終了したく思っています。みなさまの担当報告の前に、前座的にワタクシのほうからお話しするのは、それはそれで緊張感を解きほぐし、いいかもしれないと思いまして講義の時間を設けているのですけど、ここにきて担当報告の希望者が多くなってきた関係上、ワタクシの出番より、みなさまの出番を増やすのが筋ではないかと思われるからです。

 この土日の講義の内容は、「ゲームの効用」と申し上げていいでしょう。ワタクシなどの世代は、インベーダーゲーム全盛期ではありましたが、まだゲーム機を「手にとって四六時中できる環境にはありませんでした。ところが、いまではベッドの中でもゲームができるほど普及しています。はたして、ゲームは児童生徒の何をどう変えているのでしょうか。これが講義のプロットだったのですけど、その前に、ワタクシの「豊かな自然」論を展開させていただきました。かいつまんで、いや、かいつまんでないかもしれませんが、以下のようなことです。

 宅地開発にさらされ、雑木林どころか、河川敷の面積も削り取られていく昨今である。見晴らしのよかった高台が、マンションの群れになったり、野球がギリギリできる猫の額的広場が、駐車場になっていたりする。豊かな自然がなつかしい。

 都会は都会で再開発事業がすすみ、空室率が高い旧来のビルがありながら、あたらしいテナントビルが林立する。そこまで街の「塗り替え作業」が必要なのかと新陳代謝のはやさに私たち自身がついていってないところもある。

 今の子どもは、爆竹をカエルのお尻に突っ込んで破裂させる「遊び」や、蝉の足と羽をとってブザーにする「遊び」など、思いも寄らないだろう。子どもとは、残酷の代名詞である。このような無茶な「遊び」をしたあとに、お医者さんごっこに移るのである。

 私も当然、お医者さんごっこにも興味があったが、当時の紅顔の美少年が夢中になったのは、昆虫採集であった。それと、まほろばの川たる大和川でオタマジャクシやカエルと戯れることであった。虫やカエルにとっては、理不尽な大量殺戮を繰り返す皇帝の登場といっていいだろう。

 大和川は日本一汚い川として、一時期有名であった。奈良が里である私は、大和川沿いの集落に、盆と正月はたずねていった。法隆寺の縁日も楽しかった思い出である。

 大和川は虫、カエル、ザリガニ、その他少年が夢中になる生き物の宝庫であった。オタマジャクシの大きさは、なんと、親指をカナヅチでガ〜ンと叩いた後の腫れた大きさに等しい。長さはゆうに5cmは超えていた。口の動きもおもしろく、パクパクしているその口に、雑草の茎を突っ込んで遊んでいた。そしてそのまま突き刺して、地面に刺した。

 聖書を片手に、いまこそ祈りを捧げなければ、地獄行きはまちがいない仕業である。オタマジャクシの頭のサタンに、きっと私は丸太を口から突っ込まれる刑を受けるだろう。おそらくは、死ぬ前に、のような事態に出会うこと必須である。

 オタマジャクシが成長し、後ろ足が生えてくる。2本だけ足が生えたそれは、奇妙な生き物にみえた。もちろん足をちょん切るのである。また、オタマジャクシの腹は薄く、中の腸がうっすらみえている。もちろん手術である。いまはもう見かけない「糸きりハサミ(クロス構造でないハサミ)」でぎゅっと切り裂く。内臓が出てきて汁がでる。それでも口をパクパクしていたのを憶えている。

 あの世にいけば、私は、赤鬼にきっと足を切り落とされる刑を受けるであろう。そのまま血のグツグツ煮立っている大鍋に放り込まれて、痛みを知れと罵られるに違いない。

 こうした残酷な体験があるからこそ、逆に命の大切さを知ることになったし、先のとがったものは危ないとの認識も、思春期の入り口で理解できるようになっているのである。そしていまもこうして思い出し、大和川のほうを向いて、頭をたれている。

 オタマジャクシが成長し、カエルになると、上に書いたように爆竹であの世へ送ってやる。豪快にカエルが吹っ飛ぶ。自爆テロの怖さがわかる。当時の大和川のカエルの大きさは、大人の手のひらにべったり座るほどの大きさがある。ウシガエルだったのだろう。

 カエルの目の前に、半分羽をちぎったトンボをおいて喰わせたこともある。どういうように獲物をとるのか興味津々であった。

 というわけで、大和川は私にあっては命の意味をなんとなく教えられたところであった。カエルにやるトンボは、群れをなして飛んでいたし、蝉はうるさいほど鳴くし、チョウチョはひらひら飛んでいる。ヤゴは岩をひっくり返せばたくさんいた。モンシロチョウの卵は、キャベツ畑に侵入して観察した。

 こうした経験は、昆虫採集の世界に私をいざなった。虫に突き刺し防腐剤を注入する注射器は、私の採集技術を促進させた。レッドとグリーンの薬品は、それぞれ仮死状態にさせる薬と防腐剤であった。

 私は、自分なりに薬を調合できないかと思い、水割りのように、赤3に緑7とか、勝手に混ぜ合わせて、いろんな虫どもに注入していた。注入といえば、「ラブ・注入〜」なのに、虫には防腐剤である。

 これらの薬品は、一括して昆虫採集セットとして販売されていた。だから薬のほかにも、メスとか、ハサミとか、錐のようなものとか、おおよそ昆虫の解剖に助かる器具も備わっていた。もう、値段はわからない。

 もちろんこの注射を、虫だけでなく、これまで挙げてきたカエルやオタマジャクシにも打った。暴君皇帝私は、死神博士でもあったのである。

 しかし、捕まえたいろんな虫どもを標本することも忘れなかった。図鑑で名前を調べることや、調べた名前を値札のような小さな紙切れに書き込み、「死体」の下にピンで刺して表示した。

 もちろん分類別である。チョウチョはチョウチョの採集標本を、甲虫類はまた別にしていれる。ただ、標本箱は、枠がこげ茶の木でガラスの上蓋を持つ上品かつ高価なものではない。私が使っていたのは、プラモデルの箱をサランラップで巻いたものであった。

 そうした貧弱な標本箱であったが、宝物であった。

 いずれにせよ、ワタクシの過ごした聖なる川・大和川は、本当に自然の恵み豊かであり、遊ぶ材料に事欠かなかった。しかも、自然は未知数である。ここがゲームと違うところである。自然は何が起こるかわからない。カエルの腹を割いたとき、ブシュッと液体が顔にかかることがあるのである。昆虫採集のメスで、指を傷つけることなど茶飯であった。

 これに対してゲームの世界は予定調和的であり、守られた世界であり、想定内のものでしかない。そこには、「人工の自然」的な要素しかない。不意の出来事はあるにはあるのだろうけれども、自分の指から血が出るなどない。守られた世界の中で、冒険心は醗酵するだろうか。「どうせやりなおせるだろう、だいたいこうなるねん」で済ますゲームは、リアルな現象をもたらさない。

 そこで教室のみなさんと議論したのは、では、果たして、ゲームはコミュニケーション能力をはぐくむ機械なのだろうか、とのテーマである。ゲームが媒介となって、そこに登場するキャラクターの話をすることはあるだろう。なにかアイテムのやりとりで友達とお話しすることも考えられる。そうした意味では、コミュニケーションの素材を提供してくれる機械であるといえる。いってみれば、それが凧でもいいし、プラモデルでもいい。ワタクシの時代では、しかしながらそういうものがなかったと「感慨」である。プラモデルにせよ、凧にせよ、それが個人の興味をもとに個人の製作技術を伸ばしはしたが、そこから突っ込んで、友人とコミュニケーションをとるということはなかった。プラモデルは、自己満足の世界であった。

 しかし昆虫採集やカエルは、コミュニケーションの「道具」であったことは間違いない。とすれば、いまの子どもたちにとって、ゲームは昆虫採集と同じ意味を持つものなのだろうか。これを命題化すれば、「ゲームはコミュニケーションツールである」となる。これについて、みなさんに考えていただいて、回答をご連絡していただきたいものである。

 議論はつぎにすすみ、ゲームの学習効果ということが中心となった。ゲームにも、いわばマリオ系と桃電系があるという。学習効果は桃電系にあり、地名の記憶や特産物の理解がすすむ。マリオ系にはそれがないし、怪獣的対戦型では思いやりの心はどうなるのだろう。よくいわれているように「死んでもリセットすればいい」の世界である。古くは長崎の事件の少年思想的根底になっている。

 保護者的意見としても、桃電系はウケがいい。また、保護者的立場からコメントをいただいた中には、ゲーム機に接し、華麗に扱うことが、現代の情報化社会を支配するツール、たとえばワードやエクセル、パワーポイントであろうが、そうしたPC作業にすんなりはいっていける初歩的学習となっているとの見解がある。ゲームの利点を最大限活用するとすれば、現代における「学習の転移」を期待するこの意見は、悪い見方ではない。所詮、電子黒板も教育技術の発展に過ぎず、構造的にはゲームに内蔵されているチップを共有していると思われるからである。

 偶然的要素が排除され、人工的な「危険あふれるストーリー」がゲームにインストールされ、安全の中で子どもたちは育っている。この事態は、自ら学び、考え問題を解決する資質能力を「お釈迦様の手のひら」の上では育みはするであろうが、もみにもまれて人間形成し、たくましく育ってほしいという全保護者の願望を裏切る気配がある。

 講義の後は、自己売り込みのツボに移りました。

 自己売り込みのツボについては、今回は個人情報が多いですので、紹介をカットいたします。3名の方に挑戦していただいたことを付記いたします。

(2011年2月5・6日)

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