日々旁午

2004


日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

お茶葉をいれてから湯を注ぐのが普通であり、急須に湯を注いでからお茶葉を入れるのは、日本流儀としては過った作法であろう。教育基本法の改正が先か、日本国憲法の改正が先か、どちらを政府は優先したかったのであろうか。こうした国家的秩序の大きな変革に体制が手を染め出したのは、ロンヤスが仲良しになり、日米関係の安定が約束された80年代中盤、中曽根首相のいわゆる「戦後政治の総決算」事業以降であろう。憲法改正論者中曽根のDNAは自民保守本流の瓦解=橋本派分裂に伴い、ねじれた形で「変人」純ちゃんに継承されているように映る。思うに、80年代中盤における国家整備の手はじめは、経済面における土光民活政策を筆頭としつつ、国家秩序再編成のための基本法の改正にあったのであり、体制は基本法改正をジャンピングボードに、本丸憲法の改正を構想していたといえる。教育基本法改正は、いずれかといえば改正し易いところから手を付ける発想の所産であって、教化領域を活用し、国民の内面的自由を鋳型に嵌め、透明な紐帯を国民意識に絡める。いわゆる体制に都合のよい世論や「公共」が紐帯によって形成されてから、憲法改正手続きを強引に敢行しようと体制は企んでいた。憲法と基本法、両者の順番違わぬ改正に踏み込める土壌を耕していた時期、それが90年代であろう。残念ながらバブルがはじけた世相のもと、お茶葉の煎じ方がくるい、現在では少なくとも同時平行、もっといえば憲法改正論議の方が先走り、与野党の論戦の焦点となっている。なぜくるったのか。それは当然のことながらイラクおよび北朝鮮の問題が発生したからである。軍事的世界情勢は、基本法改正から憲法改正へ接続させようとする青写真の現像に待ったをかけた。その意味では、国内的な秩序構想のはしごをとっぱらわれたようなものであろう。しかもこのような秩序構想のでんぐりがえしに純ちゃんは無頓着な風である。自民党結党のン年記念に改正憲法草案をぶちまけようとするのだから。こうした政治状況を是ととるか非ととるか、沸かしたヤカンに麦茶パックを放り込むがごとき改正の同時平行は、体制にとって手順前後である以上、つけこむ隙がある。その隙に鉄槌を撃つのが民主党のデモクラティクな役割であって、安易に純ちゃんと握手するのは過ちである。菅氏が袖を振ったのは、その限りで正しい。だが、建国義勇軍・刀剣友の会の顧問をかってでていた議員や、斬新な国連常備軍の創設とそこへの参加を主張する角栄の秘蔵っ子を、それでなくても寄り合い所帯の民主党が内包している限り、隙につけこむどころか隙を埋めてしまう可能性がある。現状では民主党左派系を凝集点に、反自民勢力の声を増幅しなければ、総理の政治的地位を「期限付きの独裁者」といってはばからない自民党参議院議員をのさばらせてしまい、この言葉に込められている権力の野望を達成させてしまうであろう。隙あらば攻める、この姿勢が肝要である(1/20)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

携帯電話の普及と教育基本法改正との関連について稚拙な議論を試みる。一見距離のあり過ぎるように思える両者であるが、生活実態から推してみれば、乾いた法律の文章も身体化されるであろう。携帯の登場以前、彼女にデートの約束をとりつけるのに、家に張りつけられた黒電話しか連絡手段がなかった昭和時代、今の中年世代は、彼女の親が出るのではなかろうかと黒電話をかけるのを躊躇したり、あきらめたりした苦い経験をもつ。それだけ家族は、他者からの進入を限定あるいは見えぬ「コワイオヤジの顔」によって遮断し、家族としての防波堤を保持していたといえる。家族は我が子の人間関係をかなりの程度掌握し、集団としてまとまりをもっていた。だが科学技術の進歩はワタクシたちの所属集団の性格をガラリと変えた。ネズミを代表し、「猫の鈴」がNTTの手によって取り付けられ、御老体の行動はGPSで確認がとれるし、デートに誘う世の男性は、なんのためらいもなくワンタッチボタンを押す。利便性と引き換えに、家族は携帯によって解体されてしまった。確かに無線でつながる個人の在り方は、人類の夢であった。上のようなデートの取り付けから、ひそひそ話、ゴシップ、スピード感あるビジネス契約に至るまで、携帯はワタクシたちの願いを聞きいれてくれた。すなわち、すでに7千万台とも8千万台とも数えられる携帯は、家族から個人を析出したのである。この点、科学技術思想が生活実態を変革していく様子がわかって興味深い。一方、分子化し個人が析出されてしまったことに対し、集合体は恐れを抱く。集合体たる政府が恐れるのは弛緩した団体の在り方そのものである。家族を切り裂いたそのパワーは、国家をも徐々に切り裂こうとしている。国民の属性意識、愛国心は失われつつある。そうした傷口を治癒しようとして、政府が基本法の改正を通して、「新しい公共」を形成し、国家という集合体の自己保全を図ろうとしているのである。国民統合ヘ向けての政府仕立ての標語である「新しい公共」は、日本の国際的な競争力の確保、インターナショナルにおける国家としての日本の優位構築などを達成する動力源になる、そう政府は確信していよう。個人が析出される状況と、新しく国民統合しようとする状況と、方向性を逆にする振り子がメトロノームのようにつりあっている場合はまだよいが、政府の思惑の側に振り子が揺れ過ぎると、メトロノームそのものが壊れてしまう。強制的に「新しい公共」を押し付けられる「全体主義前夜」に国民は気付きつつ、一度水路付けられた個の賛美を決して捨てようとはしない。基本法が3者連携を条文化し、「新しい公共」に寄与し国際競争に勝つ実力を日本人に要求するのは、個人主義の四方八方への無制約な浸透を危惧するからにほかならない。それを国家の枠に制約しなければ、自立日本は成立しないと、政府は頬杖ついて溜め息をつく。だがひとつ携帯の例をみても、個人と国家の均衡がすでに崩壊している様子がわかるのに、それを力づくで連帯させようとするのはコスモポリタンを無視する暴挙といわなければならない。家族の力は、理論的には、この先どうあがいても復活しないのである(1/19)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

95年であったから、もう9年も前になるのか。忘却の彼方に消えいらんとする阪神大震災のことである。当時、神戸のとある学校で教えていたワタクシの後期は、忘れていた自然の恐怖が奪っていった。残ったのは、何処に怒りの矛先を向けていいのか戸惑い、肉親の死や負傷、また愛着と思い出つまった我が家の瓦礫化に、すべての生気を吸い取られ、乾ききってしまった人びとの顔であった。その次の年から毎年、講義の冒頭では、震災の悲惨に触れてからはじめるのを自分に課した。ワタクシの講義を受けてくれるものの中に、神戸出身の学生がいないとは限らないからである。震災で棲家をなくし、一家6人がほぼ1年間ワンルームマンションで暮らさなければならなくなった女子学生の悲話を思い出す。そこにプライベートはない。また、親友がベッドの下敷きになり、がっちり万力で挟まれたかのような抜けない腕を火事場の力で引っこ抜き、一命をとりとめたことを思い出す。燃え盛る火が、親友を呑み込もうかとしている距離にまで近づき、彼の父が彼の名を連呼する修羅である。親友の左の指の数本は、今でも不自由である。ワタクシはNHKに依頼して、親友の名をラジオ放送で流してもらうことしかできなかった。無力であった。彼の結婚記念日は、その後何度目かにめぐってきたこの17日である。曰く、震災も結婚も、絶対忘れられないから、である。神戸のユニークな教育活動に、トライやるウィークという全国的に知られた実践がある。震災の傷癒えぬ頃、小学生であったか、彼らの掲げたテーマは「なぜ町に猫がいないのか」であった。イヌは人間とともに行動し、各避難所の電柱にくくりつけられながらも、人間と生活を共にしていた。しかし放し飼いが常態であった猫は、子どもや大人の周囲から姿を消した。その猫を探そうとするのである。大人はこの先の生活をどうするか右往左往し、他人のことなど構ってられない精神状態に追いつめられていたにもかかわらず、子どもは、猫の行方を気遣っているのである。なんと優しい心をもっているではないか。大人が子どもに教えられた瞬間であった。それから復興は沈着冷静に進んでいったかにみえる。しかしその爪痕は想像以上に深い(1/18)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

アメリカと歩調を合わせて進む日本の姿勢を叱りつけた、こういう味わうべき崇高な発言がある。「日本に仁義の大道を起こさねばならない。強国になるのではない。強あれば必ず弱がある。この仁義の道をあきらかにして、世界の世話やきにならねばならない。一発で一万も二万も戦死するというようなことは必ず止めさせなければならない」、「日本は世界第一等の国にならなければならない」。この言葉を鏡として政府を映し出せば、純総理と石防衛庁長官が道を踏みはずそうとしている形相がみえる。第一に、日本は、アメリカとの武器開発協力だけでなく、その他国々との開発も実施しようと予定している。武器商人の末路は、自分の作った武器にやられるものである。第二に、イラク問題と関わって、自衛隊三軍幕僚長の定例インタヴューが廃止されるようである。これはアメリカの場合より酷い。民主主義的表皮を食い破って、体内にずっと巣くっていた大本営的精神がでてきたかのようである。およそ官僚の報告は蟹報告と形容していい。防衛庁制服組は言葉にならぬ言葉を、蟹の泡のように出して、プレスの質問に顔をゆがめていた。はやく満潮が来て体を隠せないか、横走りしたさが画面に充満していた。どう考えても理屈が立たないことを説明せよと、上層部に命令され、それを伝達しようというのであるから哀れである。宮仕えとはみじめである。みじめではあるが、可哀想ではない。いやなら役目を降りればいいだけであろう。こうしたスポークスマンが石のスケープゴートになるだけ、まだ事態はましなのかもしれない。役人から、上意下達で虎の威を借り、高圧的に「イラク軍事現場報告廃止」を謹告されてはたまったもんじゃない。国民に対する「軍事的な」アカウンタビリティーの欠如を許したのは、前回総選挙の争点に戦争と平和の問題がなかった、あるいはあっても関心が低かったところに、つまりワタクシたちの問題意識の低落に遠因があった。いま、ミリタリズムをシヴィリアンが抑え、コントロール化においているようにみえる。だが、戦前の軍国主義と違い、シビリアンが主導のもと両者は結託しているようにもみえる。政府のプレス対応無視に関連し、枝野氏が劇薬的表現を持って民主主義を守護しようとした姿勢は、たんに男義があるなあと鑑賞する対象ではない。なぜなら、ことはポピュラーコントロールの機能を簒奪されることにほかならないからである。冒頭の言葉は、今を去ること150年、幕末期に活躍した経世家の言葉である。なんと立派な先輩を、ワタクシたちは持っていることよ。眠らせてはならない言葉であろう(1/17)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

ひとは独り生れ来て、独り死に行く孤独な存在である。だからこそ生涯を誠実に生き、孤独な実存を営み、発見した実存的課題解決を達成しようとする。時計職人は時を刻むといういわば「労働」を時計に与え、時計をしてこの世に産出せしめ、存在せしめる。職人の設計思想は、時計を手にしただけで理解される。神は人間を作りたもうたが、何らかの確たる使命を与えて、この世にワタクシたちを創造したわけではない。神の設計思想は、ひとを外見からうかがっても確認されない。この世に作られ来たった人間は、神に賦与されなかったおのが存在理由を、個々独力のうちに求めざるを得ない。自己の生きる意味を見出さないと済まない。それゆえ若者は懊悩する。それが実存の艱難といえる。だから、自分の向かうべき道の探索に苦しみ、あるいは師にライトアップマイライフを求め、あるいは先輩に指南を頼むようになる。かような助力を得て、いったい自己の存在を社会的に証明するには何を以ってすればいいのか、そこに悩み、回答を求めるとき、千里の道のスタートラインが漁り火のように見えてくる。カッコよく「自分探しの旅」と、答申はワタクシたちの耳朶を打つようにいうが、この言葉の重みを計る測量計はない。さらには自分探しの旅が青春時代で完了するわけもない。ものさしもないのである。新成人の悪太郎ぶりをいささか笑えぬ大人のひとりであるワタクシは、迷いの森から這い出していない。古希を迎えても至難であろう。たとえば教員の端くれとして、果たして何らかの道標を若者たちに示してきたか。否、雪隠の裸電球より暗い。だが、ワタクシたち教員の一言一句は、たとえ裸電球程度のワット数であっても、それなりに児童生徒に淡い光を与えていることに、思い致すべきであろう。そうした裸電球や豆電球であったとしても、それらが集まって、校内の教室を隈なく照らすなら、そこは楽園となる。教育史で学んだペスタロッチのシュタンツやデューイのシカゴスクール、沢柳の成城学園は、そんなところではなかっただろうか。学ぶ喜びと笑いの絶えない児童生徒を育てる義務を背負った、若き教員たちに贈る言葉である。電源を必要とする裸電球から、決して消えることなき自立した雄々しい松明になっていただきたい。最近、ある祝いの会合に参加できなかったワタクシが、ワタクシなどを慕ってくれる若者のために用意していた挨拶の簡単なメモを、ここに綴る(1/16)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

時代の然らしめる要請であろうか、企業主導型学校ないしは株式会社による学校が経営されはじめようとしている。従来存在した企業内学校と異なる、この21世紀の教育形態を占う試みは成功するだろうか。昨年、トヨタや中部電力、JR東海の異業種連合による学校設立の報は、世間の耳目を驚かせた。経済的実力を備え名声高き複合企業が立ち上げんとした中等教育学校に対し、校舎の定礎前から期待を寄せている名古屋のご家族も多いに違いない。だがその設立計画は土地利用問題を解決できないまま、現状、頓挫している。行政が企業側に条件を出していたのであるが、それをクリアしていないのである。その条件とは、行政指定された設立予定区画は、デパートのような金を産む商業施設設立に限るという楔であった。行政は景気回復の起爆装置として土地を有効活用してほしいと注文を付けているわけである。活用条件付きの土地をトヨタが購入したのは早計であったのかもしれない。それにしても3社企業経営は、自治体を抜いた第3セクターに類似する経営とならざるを得ない。とすれば、バブル期にセクター系の業者が住宅建築に勤しみ欠陥住宅をあるいは乱立させた上、その責任の所在を巡ってすったもんだしたことを、企業連合は他山の石とするべきであろう。学校が倒産して困るのは、企業者ではなく、そこに通い、将来を託した生徒とその親にほかならないからである。現実に、通っている学校が明日なくなることを想像してみてほしい。伝統校といわれる学校の消滅ほど、その卒業生から恨まれる事態はない。それほどの愛着が母校には芽生えるのであり、それだけに学校新設には慎重さが望まれるわけである。こうした責任の重大さから、学校の設置者を簡単に認可してはならない事情が理解される。戦後一貫して国・地方公共団体・学校法人にだけ、その設置権を許可しているところに、教育事業の公共的性質を死守する政府の良心があった。こうした許可制は、一般企業による無責任な学校経営を戒めている規制であって、そう簡単に緩和できうる壁ではない。ところで利益追求をメインとする私企業であるから、儲けが出ないことには学校を運営しても意味がない。経団連の会長に選出される日本企業のトップは、たんに金ではない「利益」、つまり高度な職業能力をもった企業人を囲い込もうとする思惑をもっていよう。卒業後、自らの企業に役立つ人材形成のために学校を設立しようとするのであれば、中高一貫教育校を作るのではなく、大学を開いた方がよかったかもしれない。青田買いを超え、未開墾地に鍬を入れる覚悟で中等教育学校を開校するのであるから、私企業たることを棚上げて、公的教育理念を用意して挑まなければ、世間を納得させることはできないであろう。その点、全国初の「株式会社立」の中学校を開学する岡山の朝日学園は、利益追求姿勢を水で割って薄めるがごとく、非営利の方針を打ち出した。利益が出ても、寄附するそうである。しかしおそらく顧客としての生徒は納得しないはず。利益が出れば図書を買ってくれ、サッカーゴールを買ってくれと主張するにちがいないからである。こうした当然の要求を朝日はどうかわすのか。朝日学園やトヨタの思惑が実現するか。朝日にせよ、トヨタにせよ、人材囲い込みの「制度」構想を目論む企業群の教育思想は、公教育の進路指導に警告を与える主体になるといえよう(1/15)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

子どもを愛し、慈しむのは世の親のあるべき姿であろう。我が子にできるだけのことをしてやりたいと懸命にして健気な愛情を注ぐのが親である。宗教絵画に発見される聖母マリアの微笑みは、最上級の愛を表現するに余りあり、しかも気品を湛えている。小さな子にはその愛ゆえに可愛いものを着せてやりたい。親が安物を着ても子にはそうはさせない。それが無償の愛であろう。だが、たとえばこういうものを頭に被せてやりたいと、わずかに勘違いする親もいる。近い将来、学校の飼育小屋で出会うことになるウサギは、我が子に近い存在ではあろう。子を胸に抱きながら、親の思いはもう学校世界に翔んでいる。あるいはもう少し遊び心を発揮して、これこういうものを纏ってご近所さんにみせびらかすのかもしれない。小さな動物は無条件で可愛いものであるから、そこにあやかろうとしても不思議はない。小さな赤ん坊をヒヨコに見立てたり、ケロケロに模したり、親の愛はそれほどに深く哀しい。しかし、世の親がそれほど我が子を溺愛しているかといえば、そうでもない。いくら申年だからといって、これを被らせるわけにはいくまい。クリスマスにはこれを着け、トナカイ風のこれも、かなりな親バカといえる。以上のリンク表示を交えた解説は、人間にあてはめるから「しょうがないわね」と笑ってすませられる類の一文である。ワタクシたちは半分呆れ、半分自戒し、「うわぁ、めんこいねぇ」と調子を合わせる次第である。たとえ急ぎの足が遮られるにせよ、調子を合わせることが地域社会を円滑にする心得である。ところが、である。この話は急転直下し、なるほどこれは儲け話になるな、と企画した企業の先見の明に驚嘆する事例となる。たとえばさっきのヒヨコとのハーモニーはこういうふうに素晴らしい。カエルもなかなかのものである。自分がカエルであろうとなかろうと、もうどうにでもしてと匙を投げたこの落ち着いた様子は猫のひとつの特徴たるけだるさを究極にみせつけている。邯鄲の夢のエピソードが現代に甦った感がある。もオツな感じがして許される。着せ替え人形的に愛を注ぐのは、たとえ人間の傲慢であったとしても害はない。当の猫次第であろう。しかしいくら十二支の輪に猫が加えられなかったからといって、このように逆襲するのはどうだろうか。座したその視線の先には煮干しでもあるのでろうか。なぜか裁きのお白洲に臨む町奉行様である。カメラマンの腕に賞賛を贈る。しかしこれで驚いてはいけない。なにが超上級者向けなのか今一つわからないのはさておいて、これは絶品であろう。できれば箒ももたせたい。「赤毛のアンはお掃除中」のキャッチと相俟って、21世紀の猫の棟梁に任命されよう。いい線いっているこれも、赤毛に比べれば、かすまざるをえない。さらに、アラビアの王妃にもてあそばれる猫はこうであったかもしれないが、民情豊かなアンに一歩譲る。これなどはあまりにも普通すぎて、飼い主に刺激を与えないのではないか。なぜなら古来、猫は神秘の象徴、女神か魔女の化身にほかならないからである。さて、これらの品は販売品の一端にすぎない。ワタクシは残念ながら「まい」を飼っていたように、ネコ派ではない。したがって、これらのステキな品々を買うべくもないのであるが、旁午をご覧のみなさまの中には無類のネコ好きの方もあるいはいらっしゃると思うので、このページを紹介し、結びに代える(1/14)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

学校で一番得るべきものは、学力でもなく、体力でもなく、深い絆で結び合った友情であろう。産業資本の教育に対する助教法流の要請をさて擱くとすれば、本来、集団教育を実施する効能はここに見出されるものである。17世紀的貴族教育の主流指導形態としての家庭教師を雇う個人教授は、不完全ではあったが学校教育に席を譲った。少なくとも友情獲得のために登校する価値が存する。トモダチ100人できるかな、歌にまでなる学校教育に対する願望が、小学生の純粋な心情であり続けるべきであり、100の個性のぶつかり合いにこそ、切磋琢磨の標語が生きる。こうした希望と憧れをないがしろにする学校選択は意味をなさない。この先開かれる多様な教室世界に思いをはせ、自己と他者との関係性を学んでいく過程に、真善美を議論する舞台が整えられる。最終的に1人だけだとしても、信頼できるまさかの友を得ることができばそれでよいのである。初等中等教育は児童生徒のこのような希望を第一に叶えてやるようにするべきではないか。魔法の杖はないけれどもそのための教育課程が再検討さるべきであって、学校と地域社会の連携が試される所以もここにあると信じたい。「お受験」してまでエリートコースに我が子を進学させたいのは、親のエゴ、つまり我が子の功利的な人脈形成のためだろう。高等教育段階では、本人の意識と関係なく、何でもいいあえる友情関係形成の裏地に、カネから便宜まで、財にまつわる未来予想が縫いつけられていよう。「人脈」作りは、我が国の誇る「資源としての人材」を有効活用することにほかならない。このことを実証してきたのが、今の閉塞状況を作り出してきた学歴社会であった。美しい友情が学閥の奴隷となる。学閥の磁力は砂鉄を一定に象る。官僚制、企業構造ひいては社会構造を規矩する眼に見えない足枷である。だが導きの磁力が薄れてきた昨今、なぜか初等教育以来、純粋性に出発した友情が、「なあなあ」関係に化け、醜聞や堕落を引き起こす。「なあなあ」関係をそう簡単に切断できないほど、それほどに現代人の学歴桎梏は深い。大学に行かなかったことにはさらさら後悔していないが、大学に通って大学時代の友人を作ることができなかった点だけが悔やまれる、とは大河ドラマ「武蔵」の原作者の言葉である。この達人の嘆きとも負け惜しみともとれる遺訓の本質を看過してはならない(1/13)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

もう20年来の知己にいわれた言葉で、いまでも鮮明に覚えているフレーズがある。直接いわれただけでなく、当時彼が参加していたサークル発行の簡単な雑誌に載っていた言葉であるから、余計に記憶にとどまっているのかもしれない。当時は学部の4回生で、オレぐらい本を読んで勉強しているものは文学部にはいないと井の中の蛙気分に優越していた頃である。たとえば暗い書庫のここからここまでは読破してやると新撰組気分で撃ち掛け、あえなくその1lに満足しつつトボトボ帰宅する日常である。満足トボトボ、満足トボトボ、永遠の循環小数である。思い出は甘いものであるか、穴があれば駆け込みたいものであるか、そのどちらかであるかが一般であるが、もちろん後者に属する。時効を信じていおう、書庫の片隅に鉛筆で正の字を刻んだものである。「がんばるぞー」と決意表明を落書きした次の日に、「がんばりやー」と返答が落書きされていた。相手が女性であることを祈った。もしもみつかったら、古代象形文字的価値が個人的には認められる。彼の言葉は魂と力をもっていた。「学生よ、本を読め。それ以外に何ができるというのだ」である。簡単なフレーズであろう。だが真理であった。自分が卒論作成に没頭していたまさにそのとき、この言葉は鮮烈であった。自分の心を代弁してくれているようであった。「それ以外に何ができるというのだ」という箇所が妙味で、恋も趣味もかなぐり捨て、ただ文を読んでは書きとめ、ちょっと考えては文を読んでいた。50枚の卒論をまとめるのに草稿600枚にはなったであろうか。稚拙な論にエンジン全開していた遺産が、今も部屋の片隅に眠っている。その彼は今でもワタクシの講義に、年に1度ゲストとして講演しに駆けつけてくれる。ガソリン代を払ったことはない。言葉を介した友情である(1/12)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

遅々として進まないのである。読書のことである。露伴の『努力論』は余暇の読書であるので、いまのところ気休めに読んでいるのであるが、この度のは自分の研究のための文献なので、漢和辞典を左手にえっちらおっちらやっているものだからそれもしょうがないといえる。読んでいるのは四書五経のひとつ『書経』である。『書経』を読むために読んでいるのではなく、『書経』的知識を理解しないと目的とする文献を読めないのである。本人は、この難解な中国古典の原文及び解説文を精読しているつもり。だが傍から見れば粗読だろう。2時間もすれば粗読の毒が廻ってくる。酩酊調子でフラフラ読み進めると結局意味不明で辿りなおさなければならない。新字源にない漢字が登場すれば、広漢和に頼る。ここでわからなければ手元不如意で買いそびれた大辞典を求めて大学書庫にいかねばならない。2時間で3頁位の平均速度である。身に付いたかどうかは別として、我が師にこうした精読を厳しく教え込まれた。一字一句忽せにせず解読解釈するその姿勢は、飽くなき探究心と文献に対する極めて深い興味が伴わなければできない仕業である。年間30回×90分で、1冊読んだかどうか疑わしかった。いま、「粗毒」に堕してしまったもののそれなりに文献に食らいつく根気を保てるのは、こうした経験が与って力がある。若い時に苦しんで殴られて読んできた。読書経験は宝だなと、いまさらながらに思う。うちの弟の娘の名を「なっちゃん」という。モー娘。を目指しているかどうかは、右手にアイスクリームをかざしてこの2歳児を尋問しなければわからない。オヤジになった弟曰く、勉強でけへんでもええねん、算数できひんでもええねん、けどな、兄ちゃん、なっちゃんな、本好きにしたいねん、そういって大都会へ戻っていった。門松とれて長く怠けし頭を叩く、なるほど昔の文人は新春気分をうまく諌めている旁午では、気になる記事やためになるサイト、あるいは息抜きのサイトを、毎日ひとつ冒頭にリンク〔新しいウインドウが開きます〕しています。また、旁午は毎日更新でi-modeでも見ることができます。ただし、1行目のサイトをi-mode版ではリンクしておりません。その紹介サイトのすべてがPC対応サイトだからです。http://www.liberalarts.cc/i-mode-hibibougo.htmlを入力して下さい。なお、yahoo!モバイルにディレクトリ登録されていますので、そちらからもアクセスできます(1/11)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ