日々旁午

2004


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5年ぶりに歯科医にかかった。最も歯ブラシの届きにくい右上の奥歯と奥歯の間に、やや空間が発生したので、これは虫歯の疑いありと思い、印字も褪せた古い診察券を頼りに、渋滞の次に嫌いな歯医者の門を叩いたのであった。ヤニ付いた前歯をさらして診察券を渡す相手は、真珠のように前歯がウツクシイ女性である。その女性が座る受付の奥からは、例のキュィーンという空気を切り裂く不気味な機械音がする。超怖がりのワタクシは、その音に身体を硬直させるのである。予感は的中、虫歯ではあるが、さらに悪いことに虫歯の原因を作りだしている親不知の治療もしなければならなくなった。昔、右下の親不知を抜いた経験がある。その親不知は抜く必要性があった。正常範囲の歯に対し、圧力を加えるはえ方をしていたからである。だから、上下揃ってその機能を果たす歯の一方がないわけである。噛み合う相手のいない残された右上親不知である。それゆえその親不知がどんどん上から下に伸びてきて、歯並びから頭一つ抜け出す長さになっていたのである。そうはいっても2mm程度の違いであるが、歯の全長1cm程の口腔世界にあっては一大事といえる。こんなこともあるもんだなと、説明を聞いたそのときは、ふ〜んで澄ましていたのであるが、その説明につづく先生の言葉は、運命とはこのようにして自己に舞い降りるものであると実感させるに足る強制であった。顔一面を覆っているマスクから、にやっとした眼だけがさしせまる。「抜こか」とひとこと、「親不知は、いらん歯やからな」。ワタクシは虫歯の治療に来たのであって、抜歯しに来たのではないと恐怖を自我で抑え込み、平然とだんまりを決め込んでいた。迷っているのである。考える時間がほしい、わが愛する親不知との今生の別れになるやもしれない決断を、こんな瞬時に果たせというのか。30ン年苦楽を共にしてきた親不知である。友である。齢と書いて、よわいと読むが、歯篇であるところに古代中国人の着想をみる。せめて別離の情を偲ぶ安らかなひとときがほしい。かく運命とは残酷かつ急に人を襲う。しかし、名人戦ちゃうねんで、はよ次の一手を指さんかいと縁台将棋のオヤジが急かすのと同じく、先生も、どうするのかね、とワタクシのよだれのついた手を洗いにいったのであろうか、背後からワタクシに声をかける。こう言葉をかけるとき、先生はニヤニヤしているものなのであろうか。いや、それは違う、ワタクシが、ニヤニヤしているんじゃないかと考えている想像を、先生に投影しているに過ぎない。現実はそういうものであり、先生にとっては単なるルーティーンワークにほかならない。人間とは無機質な言葉がけにも想像をめぐらし、相手の心情を解読しようと試みるものである。麻酔の針が近づく。黒髭危機一髪。電動破砕機が例の音をたてる。唾液を吸い取ってくれる助手をみれば、そこには真珠の前歯をマスクで隠したさっきの受けつけの女性。抜いた親不知を医療ツールに置くときに、カランと音でもさせれば、薬莢の着地する音を連想させ、治療の終了も劇的であるのに、「はい〜、お疲れ」はないであろう。ところで突然の決断を下さねばならない場面はいくらでもあるだろうが、歯医者の場合は時間を考えなければならないことを読者のみなさまに警告する。朝食ったばかりで腹ごしらえをせず歯医者にかかったものであるから、治療後の空腹にはまいった。止血のために飯を食うのも制限される。この教訓は必ず将来生かされる。なぜなら、左下の親不知の治療予定日が、既に予定表に刻まれているからである。そうだ、この先生に聞いてみよう。学校の歯科検診を担当していらっしゃいますか、と。親不知との永遠の別離を惜しむ間にも、教育的思考を忘れないワタクシである(1/31)

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かなり不細工な過ごし方をしたけれど、ワタクシにも青春時代があった。懐かしいその1ページを披露すると、東京ディズニーランドに苦しんだこともある。誰と一緒にいったのかは、家庭の問題があるのでここではふせる。しかし自己の名誉のためにいっておけば、少なくとも野郎と2人で苦しみをともにしたのではない。TDLに入園して驚いたことは、園内はまばら、人がいないことであった。心斎橋の雑踏に慣れているワタクシには不自然極まりなかった。アイスクリーム売り場にも人だかりがない。閑散とした園内をゆるりと歩いていて了解した。みなアトラクションに辛抱強く並んでいるのである。ご丁寧にも数ヶ国語で遊戯機械を説明しているアテンションの掲示に、国際化あるいは日本社会の多民族化を実感しつつ、「順番待ち、ここまで1時間」と、ひとをおちょくる看板が、区画に物言わず従う行列の真ん中に立てられていた。世界で一番渋滞が嫌いで、一度、新御堂筋渋滞の原因を作っている先頭車両に意見しにいってやろうと計画しているワタクシは、TDLには二度といかんと固く決心した。それでも2、3は乗らないと、ワザワザ来た意味もないし、バイトの子が中に入り、汗だくで演じているミッキーと写真をとったところで、将来に恥を残す結果となる。オールインワンになったチケットがもったいないと貧乏根性丸出しで、暗闇の中をスゲー速度でコーストするアトラクションにも渋々並んだのであるが、とりわけ気にいったのは、ササッと入場できるオバケ屋敷系のアトラクションであった。客の回転が早いのがよい。蕎麦好き、回転寿司好きの人格は、ここでもその主張を変えないわけである。さて、「地獄の館」との形容を聞き、無理やり並ばせられる以上の苦しみがあるのを瞬時に理解した。ここにはササッと入れないらしい。例の中3生が骨と皮に化身した、我が地元大阪の虐待事件である。法医学の専門家をして、これ程ひどいのは稀、といわしめた凄惨さである。被虐待生徒が通学していた岸和田のある中学校校長が、TVで悔しさを滲ませながらインタヴューに応じている一方、したり顔でPTAが吠えていた。無理もない。学校は手を拱いているしかなかったのか。学校に厳しく責任追及するPTAのお歴々は、自分たちの無力を省みず、ただ学校に不信感をぶちかましていたように映った。何処に責任があるのかと問われれば、当然学校にその一端があるのはいうまでもない。が、しかし、地域の人びとに責任がないとはいえない。むしろ責任は地域にある。鬼のようなコワモテを相手に、なにかいえるのかといわれればたじろぎもしよう。だが同校保護者の誰かが率先して、警察であれ、児童相談所であれ、1人でも通報あるいは密告していたか。そう、密告でもいいじゃないか。もしそうなら、全く別の展開になっていたかもしれない。3者連携のトライアングルの中で、健やかな児童生徒の成長を願いましょうとの掛け声は、掛け声倒れといわざるをえない。保護者はどこかアトラクションに並んでいたのではないか。順番を抜かされてはたまらない、被虐待児童のことをウワサで知っていながら、自分は並ぶのに一生懸命だったのではないか。その気になればササッと入場できる「地獄の館」なんて、いつでもいいと考えたのではないか。通報する保護者の数がひとり、ふたり、百人となれば、行政機関だって本気になって動かざるをえない。そんなもんじゃないのか。人のいない閑散としたスクールゾーン、泥縄式の会合をもつ地域住民の世界、誰かがなにかしてくれるという他力本願な態度、そうした要因が幾重にも折り重なって、「あっこ、ちょっとおかしいんちゃうか」と微妙な表現をもってして現実を告発しようとした同校多数生徒を無視する最悪の顛末を迎えそうになった。地域の教育力は空しい。地域の復権もほど遠い。日本には、知られていない「地獄の館」がまだまだあるのではなかろうか(1/30)

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「やっ、来たね。こりゃ、是が非でも受かりたいんだなあ。その意気込みは尊敬に値するよ。しっかりがんばってくれよ。なに、あれからぼくのアドバイスを聞き入れて、もう北海道と東北は制覇しましただって?よしよし。そうした地道な勉強こそ、必ず最後に力となってあらわれてくるんだよ。そうやって、毎日、継続的に学習をつづけていくことがなによりも大切なんだ。たとえば、きみは自動車の免許をもっているかな。免許をとるとき、練習乗車の時間と時間の間が1週間も空いたら、感覚を忘れてしまっていたなんて経験がないかな。まさにそれなんだよ、気を付けなきゃならないことは。そうした勉強に対する姿勢をしっかり自覚して、前に話した日々やるべきことをこなしていくんだ。人間、目標が定まったら、あとはそこに邁進するだけ。目標が定まっていない若者が多い中、きみは立派だよ。たとえ、講師で食いつないでいる立場だって、無職であったって、そんなことは関係ない。一生懸命なにかに向かってがんばっていること、それが人間としてウツクしいんだよ。そして、そうしたがんばっているみんなと、話す機会をたくさんもとう。きみは大学やどこかで、教育に関して誰かと議論することがあるかい?ほほう、ちょっとはあるみたいだね。その場を大切にするんだよ。友達と、教育の様々な現象を考えてみることから、いろんなことを気付かされるんだ。そうした動的教育的な思考を作り上げていこうよ。法規についてすごくいえることだけど、机で勉強したことに魂を入れるっていえばいいかな。また、実践的なことまで本は書いてあるかもしれないけれど、やっぱり書かれたものは、動いてはくれない。だから、具体的な実践をしていく将来のために、乾いた知識技能を血の通った知識技能に転換していかなきゃ。たしかにペーパーテスト対策も大事だけれど、合格してから、先生になったとき、生きて役立つ発想や知識をもとめなきゃならないってことだね。実はそういう議論の積み重ねが、えもいわぬ香りをたち込めさせて、指導の基礎になるんだよ。勉強に疲れたら、そうだ、自分の母校や、きみは高校物理志望だけれど、近くの小学校だっていい、訪ねてみようよ。ちょっとその学校の先生に無理いって、校内を見させてもらおうよ。講師をしていると学校が身近に感じられるけど、そうでなきゃ、やっぱり、一度いってみようよ。実習以来かもしれないしね。訪ねると、ああ、ここが将来働く場所になるんだっていう気持ちが込みあがってきて、勉強する意欲が一層確かなものになるよ。そうだ、合格したらきみにはこれをおごってやるよ。秋にいっしょに食べよう」―ある受験生への手紙・終わり(1/29)

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社会とどう付きあっていくか。これは大問題である。偶然生み落とされたある社会の中で、そこに適合的に生きていく術を身に付け、個人が参戦していくことを「社会化」という。「参戦」と語気を強めていうのはなぜか。それは、リストラや年功序列賃金体系の崩壊に代表されるように、もう、現代では、社会に「参加」するなど生ぬるいことはいえない状況に突入しているからである。また、個人としてどう生きていくか。これまた大問題である。疾風怒濤の現代社会において、自己をどのように表現し、自己実現していくか、これを「個人化」あるいは「個性化」の問題と呼ぼう。敵を知り己を知る必要が、「社会化」と「個性化」をひとに課している。ワタクシたちが携わろうとしている学校教育は、基本的にはこの2つ術を身に付けることを、児童生徒の成長に応じてサポートする場であろう。ここに所与としての社会が現前に存在する。この社会がたまたま日本社会であるので、日本社会が歴史的に形成してきた政治構造や産業構造など、高度に枝分かれした社会の組み立てられ方を理解し、まずはそこに馴染んでいかなければならない。また、日本的な習俗や伝統から発生する習慣、慣例、あるいは不文律を理解し、それになずみ、適応していかなければ、生活もままならない。換言すれば、生きていくために、日本的な礼儀作法や集団的な規律、日本の社会秩序のなんたるかを獲得することが、社会へのパスポートなのである。それがいやなものであろうと、日本社会に所属し生きていくかぎり、学ばなければならない規範といえる。ひとはその最初に所属する家族集団のうちにあって、多くの「いやなもの」のうちの礼儀作法、いわゆるしつけの洗礼を受け、然る後、学校に入学する。家庭教育を前提に、学校は、社会に慣れない子どもを、自らの力で社会を渡っていけるまでに子どもの成長を促す集団的機関であるといえる。してみると「生きる力」は社会を渡っていく力といっても差し支えないであろう。世の中にはいい奴もいれば、いやな奴もいる。そうした観点から誤解を覚悟していえば、学校に集まってくる児童生徒は、閉鎖的な空間において、多様な人格をもった「奴」とうまく付き合っていく存在といえる。学校はそうした訓練の場であると考えられよう。お仕着せの連帯感を味わうのである。ときには教室の中心人物となったり、ときにははじき出されたりもする。授業のほか、クラブ、遠足、修学旅行と、しのいでいかなくてはならない集団的規律を強制する学校行事が目白押しであり、こうした教科外教育活動は、学校的な集団行動の価値を児童生徒に植え付けることになる。校則は法律に妥当するし、ある程度児童会や生徒会が自主的に担当する部門もあるであろう。他方、そうした集団行動の規律を重んずる学校の中で、自分だけの道を発掘することを期待される。進路、興味、適性、自己実現、そうしたことを一人ひとりが内面で反芻しながら、将来、社会の中で自分を生かす方策を創意あるいは選択しなければならない。教室の中で自分がどのように他人と違うのか、どうすれば自分の能力を伸ばしていくことができるのか、煩悶する。やりたいことだけをやって過ごすことができない学校空間に、やりたいことをみつけなければならない児童生徒が毎日登校してくる不思議である。集団に帰属意識をもたせながら、そこから颯爽とでていく指導を求められているワタクシたち教員は、この矛盾した教室をどのように変更していけばよいのであろうか。その哲学を一緒に考えてみるのも無駄ではないであろう(1/28)

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「ふぅ、おなかイッパイになったね。お昼は蕎麦定食にかぎるなぁ。さてと、基本的に毎日しなきゃならないことはもうお話したよね。問題集の全国行脚1年度分と面接ノート1枚は、そうだなあ、最初は時間がかかるかもしれないけれど、2時間から3時間でやってほしいなあ。そして、その他の時間を論作文や専門の時間にあてようよ。論作文は、書いて書いて書きまくる。これは自治体によって字数や時間もちがうから、それに応じた練習をやるべきだね。最初は制限時間なんか無視して、いいものを書き上げる方針で進めていったらいいよ。論作文はできれば月に2枚、もっとがんばるなら週に1枚ペースがオススメ。月2枚だともう12枚しか書けないな。週だと24枚書ける。まあ、最低、18枚書こうか。なんだか中途半端な数字だね、18枚って。じゃ、20枚にしようか。テーマはいろいろあるけれど、それはあるサイトの『論作文道場』にあるから、参考にしてよね。次に、専門。これはかなり時間を割くべきだよ。教職と同じ位時間をかけていい。ぼくは文系の人間だから、物理志望のきみには悪いけれど、英語や国語でお話させてもらうよ。中学英語志望なら、とにかく毎日英語に触る。なにか大学入試用の長文問題集を買ってきて、毎日1題日本語訳するんだ。やっぱり、基本的な文法は先生になってから教えるわけだから、訓練しておかなくちゃ。それに、なにか、英語表現力の力やリーディングの力をつけるために、NHKのラジオ英語講座をやるとか、英字新聞をとって意味把握の練習をするとか、いわゆるオーラルイングリッシュにつながる基礎をやしなわなくちゃね。自治体によっては、英語で集団討論を、課すこともあるから、その対策にもなる。その点からいえば、教育術語の英訳も押さえとかなくちゃならないかもしれないね。たとえば、不登校って、英語でどう表現するんだろう。自己実現は?子どもと同じ目線にたって教育するってよくいうけど、それを英語でいえるかな。こうした勉強もしておかなくちゃね。最近では、英語を読むことより英語をしゃべることに力点をおく傾向が学校教育にはあるから、是非ともカンヴァセーション能力を養成しておこうよ。ぼく?ぜんぜんしゃべれないよ。ぼくは尊皇攘夷だし、ははは。ウソだよ、ウソ。国語なら、これまた現代文・古典・漢文と、じゅんぐりじゅんぐりやっていく。1日4時間あれば、各分野の問題を解けるんじゃないかな。これも大学入試レベルの問題集をやるにかぎるよ。そして教科の指導法だね。これは各教科の学習指導要領をとにかく読んで、どういうふうなことを要求されているのか確認することからはじめようよ。暗記するくらいでなきゃダメだね。その上で、指導案を書いてみる。当然きみなら物理の教科書を全学年分揃えているだろうから、その単元ごとに教科教育法で習ったことをもとにして作っていこうよ。その際、教師用指導書ってのがあるんだけど、もしもこれを見ることができるのなら、参考にすればいい。これは市販されていないんじゃないかな。されていたとしてもかなり高価だと思うよ。指導方法に関する問題は、2次で必ずだされるし、出題の割合からいっても合否を決定的に左右するんだ。だからこころして取り組まなきゃね。ただ、本番の試験ではどれくらいの分量をかけばいいのか、それは自治体の答案用紙から推測するしかなくて、一概にはいえないよ。その点は合格した先輩に聞いたり、大学の先生に聞いたりするしかないなあ。さてっと、午後の授業が終わって、夕方に最後にもう一度まとめて話すよ。結構精神論的なところもあるけど、聞くかい?もし聞きたいならノックして控え室にたずねてきてくれよ。今度はお茶くらいはいれてやるよ。お茶菓子はきみが用意してくれたまえ」―ある受験生への手紙B(1/27)

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いい報せと悪い報せとがあった場合、どちらを先に聞きたいか。イチゴのショートケーキのトップに飾られたイチゴを最初に食べるか、残しておくか、といったところか。ここでは同時にバクッといこう。例の早稲田の件である。寄附金「強制」では、しまったとベソを掻く破目になった。合格者の立場からいえば、面談における寄附金話は、踏絵だったであろう。早稲田の初等教育機関である、だれしも実業に我が子をいれたいにちがいない。そうした保護者心理に、いわばつけ込んで、寄附をせびるのはいかがなものか。強制ではないという言い訳は、世間的には通用しない理屈であろう。都は1億円を上回る補助金を早稲田から引き上げる措置をとりそうであるが、その判断に早稲田はどう対応するのであろうか。喧嘩するか、泣いてすがるか。ノドから手が出るほどほしい学校補助金である。すがるんじゃないかと推測する。一体、寄附金をせびる学校方針をだれが決めたのであろう。入試要項の寄附金に関する記述と、面接の寄附金話とは、その口数にかなりの隔たりが確認されたそうである。親分の早稲田大学総長はご存じだったのであろうか。さてその早稲田は、優秀成績者の学費を無償にし、国立に逃げる学生や、下宿生活の費用を賄えず進学を諦める地方出身学生獲得の宝刀とした。こうしたやり方は、他の私立大学に刺激を与えるし、評価に値する。早稲田で学び、青春を謳歌したい学生は多いはず。その心理をくすぐるし、早稲田にとっても利益がある。個人に責任が負わされるべきではあるが、「ワダサン」で名誉失墜した看板のリフレッシュ学策と解釈していいかもしれない。古くは東京専門学校として「学の独立」を綱領にし、政界、実業界へ人材を供給してきた大隈重信侯設立の教育機関である。明治14年政変で井上に政界領袖の地位から突き落とされた大隈が、イギリス政治思想や憲法思想をバックボーンに、若者育成に賭け、一大勢力となって薩長藩閥政府に殴り込みする情熱を忘れるわけにはいかない。立憲改進党を支える党員の政治思想は、ここ早稲田で担われていた。帝国議会の喧騒の一翼を形成し、街頭政治運動の一線に立っていた在野精神は、政府の恣意的政策選択に待ったをかけていたといえよう。近代日本のその在野精神を、現代にまで継続させ、体制に批判的な刺激を与える若者を育んでもらいたいものである。そうした栄光を、寄附金問題が汚すようなことになれば、きっとあの銅像の右眼に、涙の落書きをする学生が出てくるだろう。そして、授業料無償で来春入学してくる学生は、銅像の左眼に好々爺たるにふさわしい目じりの皺を、これまた落書きするであろう。右と左と、筋肉の動きの違う人間像は捨て去って、だれにでも同じ顔つきと思想的基盤をもって相対してほしいものである(1/26)

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「フレッシュはいる?ぼくは砂糖はいらないよ。まっ、飲みながらさっきのつづきを話そうか。2次には当然面接や集団討論、模擬授業があるから、いまのうちからやっておこうよ。受けるところによっては、1次に面接があるかもしれないしね。まずは、面接対策用のノートを作る。ぶっつけ本番で面接を受けるなんて、愚の骨頂だよ。来たるべき日に備えて練習しておく。そうして身に付いた力、それが実力というもんなんだよ。なんの準備もしないで受けにいったって、そんなのは勉強してないだけ。いいたいこと、伝えたいことは、紙に何度も書いて、完全に自分のものにしなくちゃね。面接対策も含め、広くいって人物対策は、これも1日1題は必ずする。たとえば、「制服の必要性」とか、「朝の挨拶」とか、「保護者に学校の方針をつたえなさい」とか、そういう面接で聞かれるような質問項目がたくさんあるよね。それらについて、1分間でしゃべりきれる用の文章、3分間用の文章というように、さっき用意した面接対策用ノートに書き連ねておくんだ。これは集団討論の発言力、表現力の基礎になるよ。自分で書いたものを何度も何度も読んで、さらに自分の考えを練りあげていくんだ。気付いたこと、友達や大学なんかの先生から指摘されたことをどんどんどんどんそのノートに書きこんでいく。だから、ノートは見開き右側は開けておくんだよ。そこに書きこむ。あとは、自治体ごとの特殊な質問があるから、それに対応するような文章も書いておかなくちゃね。たとえば、きみは大阪の人間なのに、なぜ東京を受験するのですか、とか、東京独自の取り組みを知っていますか、だとか、その手の質問に関しても、まとめておく。ものを書くには自分の考えを整理整頓しなくちゃいけない。これがほんとうの勉強になるんだよ。そういえば、数年前に合格した子はボロボロになった面接対策ノートをいまでも大事にもっていたよ。受験の1年間は、ほんと、がんばってたなぁ、っていってたなあ。今度、kou君が質問事項を精選してサイトにアップするってウワサ、ほんとうかなあ。もしほんとなら参考にすればどうかな。さあ、これで、1日にやるべきことがちょっと見えてきたね。問題集の全国行脚1年度分と面接ノート1枚。必ずやりつづけること。「継続は力なり」っていうでしょ。これにあとは、教職教養、集団討論や論作文、それにきみの専門だね。まずは教職教養から話そうか。教職は、幅広いといっても、基本を押さえることだね。原理と心理と法規と答申。まず、こういうことに関する本を読む。いっておくけど、眺めるんじゃないよ、読むんだよ。やるべきことは多いけど、けどね、1から100まできっちりノートにまとめるとか、そういうのは効率が悪いんじゃないかな。たとえば2、3度通読した後は、原理や心理の参考書などは、ほんとに参考として使うだけでいい。いわば、辞典として使うような感じ。それから、原理や心理のノートを作りたいのなら、都道府県によって違うけれど、それぞれの傾向を踏まえて実践的に作っていくべきだね。まあ、実践的っていってもわかりにくいかな。いいたいことは、たとえば高校のときとか、古典の授業で本文写して、横に訳を書いて、品詞分けして、赤ペン青ペン駆使して完璧を期すようにノートを作っていた子がいたでしょ。あんなふうにやるのはちょっとマズイっていうこと。なぜなら、教育学の全体像をつかんでから、個別の問題に対応できるようにするのがベストだけれど、もうあと半年しかないし、なかなか難しいと思うからだよ。でも、設計図がないと家を立てられないように、教育学の骨格をつかんでいないと、たとえ教採といえど、空しい勉強になるかもしれないね。そのあたり、自分でうまくやっていくしかないね。基本は「まとめノート」を作ることじゃなくって、問題を解いていくことだと思うよ。そしてそこに出てきた教育術語を調べて関連事項をまとめる。そういうノートを作ればいいんじゃないかな。あっ、授業がはじまっちゃう。次の昼休み時間あるかい?そうか、じゃ、一緒にメシでも食いながら話そうか。ただしワリカンだよ」―ある受験生への手紙A(1/25)

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豪雪地方に住み、その厳しさに心底耐えている方々には叱られるかもしれないが、東京や大阪、愛知など、都会に住んでいる現代人は、なかなか降雪に逢着しない寂しさがある。自然の有様はこうでもあろうか――少し教育と関わらせて記してみる――冬に雪を愛でる素直を実感できるのは、日本人としての優雅な興感を養うものであろう。その雪融けの水は触れるに冷たく、河川を降ってやがて海に注がれよう。断崖絶壁に咲く新春の花、水仙は、訪れるものに再び巡る季節の準備を告げている。海を陸にし、春先に、梅ヶ枝に不如帰が休んでいるのを鑑賞すれば、丁寧に手入れされた盆梅を人は欲するかもしれない。桃の花の甘い香りとその葉の大きなことの感動を後にして、土筆の子を眺め、雛壇の在り処を思い浮かべる。桜とともに入学した子どもたちは「春みつけ」の学習を生活科で楽しむ。皐月の薫風、人びとを外出に誘い出し、なんだが力が漲ってくるのを知らず識らず身体に味わう。梅の実が採れる頃降る雨を梅雨という。昔の人はうまくいいえたものである。カラっと晴れた梅雨の合間の乾いた空気に夏の到来を予測し、そろそろ衣替えの用意に焦らねばならない思念が、人の心をつかんではなさない。人は紫陽花の可憐さを名残惜しそうにしつつも、何時の間にか路傍で小さな紫をみないことにうつろうことの意味を知ることになろう。犬の毛も、絨毯の添え物、ワンと吠え、かろやかに尻尾を振れば、怒る気もしない。大汗かいて遅刻を気にし、ぼうずが走りこむ。教室の扉をバーンと開ける、そんな子どもは、1ヶ月以上つづく休みの計画を深夜まであれこれし、寝過ごした罪を背負っているわけである。ひとりで遠くの方まで泳いでいっちゃいけないよと、夏の注意を子どもらにする反面、教採受験の難儀が頭をよぎる。「今年こそ」。夏の月は思ったよりキレイなものである。見上げる場所がよいからか、澄んだ空気がそうさせるのか、あるいは中秋よりもコクがあるかもしれない。小さい秋をみつけに、子どもたちがスクールゾーンを注意深く散策する。夏の名残のツクツクホーシ、出番を待つコスモスに、子どもたちがつぶらな目を集め、自然の流れに不思議さを感じさせれば、教員は重い荷を降ろした気にもなる。紅葉狩りの遠足に引率すればそれでいい――だがどうやら、都会ではこうした自然も自由に味わうことができないようになっている。クリスマスと歳末のバーゲンセールに冬の到来を自覚し、コートを着る人、着ない人のまだら模様に春を発見、地下鉄の満員電車でTシャツ姿の若者をみて、ああ夏なんだと季節を確認するほかない。子どもたちはTDLやUSJで季節を知るほかないのか。季節を作るのは自然ではなく、人間になっている。人工的な自然。なるほど新感覚は鋭い。自然と引き離された人間は、感性を痩せ細ろえ、自然を征服しようとするワガママを、迂闊にも科学の進歩と見誤る。教科書を通し、季語ある俳句を学習する意欲に欠けるのは当然である。季節の移り変わりなど、もう都会の現代人には意味を見出すほどの変化ではないのかもしれない(1/24)

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「きみが迷うのもわかる。教採に受かるのは大変なことだよ。勉強の量も途方もなく思えるし、何から手をつけていいのか混乱しているようだね。ためになるかどうか、だまされた気になって、ぼくなりの助言を聞き入れてくれるかい。そう、そうか、じゃ、ちょっと話してみるよ。まずは朝の牛乳だね。必ず朝5時に起きて飲むんだ。生活を受験に向けての態勢に整えることがまず大事なんだ。朝の勉強時間の確保、それから夕方からの勉強時間の確保、これをまず、きみに課すよ。講師をしているのなら、余計にそう思うよ。合格したみんなをよく知っているぼくは、彼らを観察していて思うんだ。やっぱり、よく勉強していたなあって。時間より質という意見もあるかもしれないけど、やっぱり受かった子はやってるんだよね。次はね、教採試験には1次と2次があるでしょう?2つに対する勉強を同時平行でしなくちゃならないんだ。1次のための勉強だけ必死にしても、結局2次の準備ができていなくて涙を呑む子も多いんだ。1次に合格するまで2次の勉強に手をつけなかったり、1次に合格してポーっとなってなにもしなくなったり、これをぼくは『1次合格燃え尽き症候群』と呼んでいるんだ。これじゃ、ダメ。だから、2つを同時にする。これが大事。わかったね。じゃ、具体的にいうよ。1次ペーパー試験対策としては、教職、一般、両方あると思うけど、過去問をやっていくことだと思う。全国の過去問がのっている問題集あるでしょ。それを北から南へ縦断するんだ。問題集の全国行脚の旅に出るんだよ。まずは自分の第一志望の自治体の2、3年分をやる。そこで教職、一般、問題の傾向をつかむ。それを踏まえて、今日は北海道2003年度一般の問題をやる。明日は青森2003年度一般の問題をやる。こういうふうに鹿児島、沖縄までする。1日1題というわけ。第一志望の問題と似たような問題は、とくに意識してやる。一般の問題は、数学とか理科とか高校物理志望のきみの得意なものもあるね。ぼくは理数系が苦手だからこういうんだけど、もちろんその逆だってあるんだから、たとえばきみは、歴史や古典、英語なんかをおろそかにしてもいけないよ。なかなか量は多いけど、逃げちゃダメだ。で、わからない問題をおろそかにしない。必ず友達や先生に聞いて確実にしておくんだ。いまできなくてもいいんだよ。本番で同じような問題が出たときに確実に解けるようにするんだ。そういうこと。次は1次ペーパー試験教職対策。これは2日に1回する。今日、北海道2003年度教職の問題をやったら、明後日、青森の教職をする。これをつづけることだよ。そうすると、47日で一般は日本縦断完了するね。教職はその倍かかる。でもやっているうちに慣れてきて、1日に3県分くらいできちゃうものなんだ。あっ、ちょっと長くなったね。じゃ、ここじゃあ、なんだから、コーヒーでも飲みながら次の作戦についてお話しようか」―ある受験生への手紙@(1/23)

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不夜城シブヤの街からティーンエイジャーが消える。東京都の新条例化をめざす第25期東京都青少年問題協議会答申に、権力の放恣を見抜いている旁午読者諸賢も多いと思われる。青少年に対し、深夜のマンガ喫茶、ネットカフェ、カラオケ店への入場制限をかけるPTAの欣喜雀躍しそうな答申条例案は、都民不在の政治的判断で、未成年の行動を抑制する取り決めである。この答申条例案の巧みさは、「まっ、これぐらいいいか」と思わせる遵守精神をすべりこませているところにある。人権享有主体たる地位に付随する権利を、ある程度未成年から剥奪することには、先人の英知ゆえに反論はしない。麗しい政治的教養を育んでいる途上であることを根拠に、参政権を賦与しないのも、大きくは国家統治、小文字でいえば自治体執政を、よりよく機能させる知恵であろうからである。本来個人道徳に依頼するべき深夜徘徊への戒めを、法的に表現しなければならない地平に都市は追いつめられている。だが、お台場にカジノを作って遊ばせ、テラ銭収入をアテにし、古き約束を撤回して後楽園に競輪場の復活を打診する大人は、法を作為し行政執行する側に居座れるほどの存在なのか。馬鹿じゃないか。あんなふうになりたいと見習うべき大人を身近に発見しようがない首都の若者は悲惨極まりない。青少年には青少年の独自の行動があり、大人が目を細めるような生徒会の自主的運営に彼らの矜持を見出す場合もあろう。そうした体験的な民主主義のミニチュアを、「生徒会有権者」として、あるいは斜めに一瞥し、あるいは満喫し、若者は社会人に成長していくものである。それをむげにして、「思いやり」か「押しつけ」かわからないが、形成意図が不明確な取り決めをしていいのであろうか。そこでは深夜であろうと保護者が面倒をみていれば、違反ではないらしい。家族に子育ての自覚をもたせるための条例案例外規定だが、聞いて呆れる。深夜、中学生とカラオケに出かける保護者がいるのか、いたとしてその保護者に子育ての自覚を求められるのか。イギリス古典経済学派の基礎を協議会メンバーや都議会議員に講義するまでもなかろうが、女子高生が「生セラ」(答申そのままの表現)を売るのは、アダムスミスの需要と供給の法則に合致しているからであり、需要を断絶する条例を提案した方が問題解決に決定的である。さて、ことは深刻である。なぜなら経済的な規制緩和が進む一方で、他方、人間の自由な行動に規制をかけることにつながるからである。若者の次は大人への規制であろう。自由をロマンチックな観点から語るだけでなく、むしろシビアな政治的思考を砦に反省しないと取り返しがつかない。行為行動の自由に対する規制は、内面の自由の規制に及ばないとはいえないからである。大都会東京が、この手の規制の先駆けであるだけに、都市的風景をともにするリトル東京自治体が、こぞって条例化を真似する勘違いを起こすとも限らない。21世紀はパンとサーカスだけを欲している国民ばかりではないのである。人間の作為した法や条例、つまり制度一般は、人間の健やかさを保ち、便利のために制度化されるものであって、それが一転して自然に反するニュアンスを含ませるものであるならば、時に、制度に対する一揆が噴出しても不思議ではないといえよう(1/22)

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ワタクシは、「勝ち組、負け組」と、社会階層を連想させ得る言葉は好きではない。どのような状態に至れば「勝ち組」なのか、社会に蔓延しているこの言葉を実際に聞いた経験や、これを使う週刊誌の記事を分析すると、かなりストレートな意味に使用されているように思われる。そしてこの言葉を若者が好んで使うのに、ちょっぴり危惧している。どうやら経済的成功イコール「勝ち組」らしい。とすると、貧困な状態に陥ったならば「負け組」となる。当然こうした言葉を使う若者は「勝ち組」に入りたいと考えている。「勝ち組」の人びとは、「負け組」のことなど考えないのであろう。政治家ですら福祉政策を語り「社会的弱者」救済を標榜しているのにである。他人のことなど考えない自己中心性からこうした言葉が口をつくのではなかろうか。ワタクシのこうした了解が正しいとするならば、若者は余りにも短絡的な範疇分けをするものであると嘆かざるをえない。「勝ち組」という言葉をあえて使えば、ひとはひとに導かれて、「勝ち組」に入るのではないのだろうか。己を空しくし、こころをそこに到達させれば、他者に対する思いやりが生じるものであろう。また、表面的な「勝ち組」志望者には、あらゆる悩みは存在しない。カネを得るために一生懸命でありさえすればいいからである。24時間働きたまえ、カネ持ちになれること請け合いである。ところでカネには魔力が備わっている。カネにはひとを支配する力がある。そして、カネにひとの価値以上のものを見出してしまうケースもある。その特性として、カネはカネを産む。無生物で子を産むのはカネだけであろう。カネは寝ない。常に目を覚ましている。およそ人間的ではない。企業家であるなら、一日寝て、朝起きると、金利が増え借金がまた嵩んだことに悩ませられる。財産をもつものは通帳の印字をみて、かすかに増えたカネの嵩に一喜する。だがカネを胃袋にしまい込む者がいないように、カネは自分の肉体の一部分にはならない。英語がしゃべれるものを横にして、いいなあ、と羨む。金庫の奥深くしまっていても、カネは盗られる可能性をもっている。しかし、英語をしゃべる能力は盗られることがない。身に付いた技能、技量はほぼ死ぬまで失われることはない。さらには、親友はカネで買えないし、いわんや愛も買えない。そのほか、健康、勇気、若さ、感性、カネで買えないものばかりである。たしかに柳葉氏や矢田氏がいうように「よーく考えよー、お金は大事だよ〜」ではあるが、すべてを金に還元して捉えるところに人間の堕落がはじまるのかもしれない。教育の目的は「人格の完成」にあるのであって、経済的成功ではない。個人的な感想をいえば、たとえアフリカ大陸の4分の1か、3分の1か買える財産を手にしているとしても、歯があるのか、ないのかわからないビルゲイツになりたいとは思わない。だが、ビルゲイツのテクノロジーには脱帽である。尊敬の対象である。彼の恩恵を受けて、こうしてIEを利用しているからである。その意味では、カネの獲得ではなく、なにか価値を産み出す主体にまで自己を高めることこそが肝要であろう。「勝ち組」ならぬ価値を生み出す「価値組」にならなければならないのではなかろうか定期勉強会アンケートへのご協力、誠にありがとうございました。お礼申し上げます。結果をこちらからみることができます旁午では、気になる記事やためになるサイト、あるいは息抜きのサイトを、毎日ひとつ冒頭にリンク〔新しいウインドウが開きます〕しています。また、旁午は毎日更新でi-modeでも見ることができます。ただし、1行目のサイトをi-mode版ではリンクしておりません。その紹介サイトのすべてがPC対応サイトだからです。http://www.liberalarts.cc/i-mode-hibibougo.htmlを入力して下さい。なお、yahoo!モバイルにディレクトリ登録されていますので、そちらからもアクセスできます(1/21)

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