日々旁午

2005


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 この正月は、自分の勉強の資料を読むことと、その資料の活用に必要な研究文献を読むこととに明け暮れていた。当サイト右側にリンクしている「西村茂樹の道徳思想について」を大幅にまとめ直そうとしているからである。
 もともとこの小論は、400字詰原稿用紙換算130枚くらいのものをダイエットしたものである。小論の前提になっている西村茂樹の思想形成についてはカットしているのである。あたらしくその思想形成の考察に、少しばかり手をいれ直し、独立した章として組み込もうと考えている。既に12年前に書いた稚拙かつ論旨の甘さを叩きなおそうとして、また、新しい「知見」を書き込もうとしているわけである。
 なにかものを書くときはいつでもそうだが、何回も書き直さなくてはならないから、2月末を目途に「完成」できればいいなぁと思っている。いろんなものを読んで、いろんなことをこのサイトにも書いて、さらに他の仕事の準備も抱え、新春から棘の道を歩むようである。
 頭の中が煮えてきたら、ふらっと単車で冷やしにいこう。
 旁午読者のみなさんも、様々なことに手を出してくださいね。(1/10)

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 本日は、連休の真っ只中ゆえ、更新お休みします。こちらを1時間ほどお楽しみください。(1/9)

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 教研集会(教育研究全国集会)が札幌で開催されている。土曜授業の復活ともかかわって、学力低下問題に関する朝日新聞のアンケートの結果、日教組メンバーの中でも意見が割れかけているらしい。然もありなん。
 日教組の基本的立場は、岩手の森越委員長が「競争させないから意欲が高まらないとばかりに声高に叫んでいるが、もっと競争を激しくしたら学習意欲の減退はさらに深刻になる」(『朝日新聞』)と、それこそ声高にさけんでいるように、「競争」型教育システムを理想のモデルに設定していないのはあきらかである。この発言の前後の文脈がわからないから、なんともいえないところだけれど、なぜ、「意欲の減退」が「深刻」になるのだろうか。代替案はなんなのであろうか。楽しく学習して成績があがればいうことはないけれど、ギリギリの切磋琢磨と学力の向上を兼ね合せる方法は発見できるのであろうか。
 現実の二こぶラクダの成績分布を解消したい意向は、底上げの教育を要求する。「落ちこぼし」をなくすためには、教室における教員の視点を下方修正しなければならないし、その結果できる子は面白くない顔をする。成績がうえの方の児童生徒に照準を定めたら、エリート育成的教育となじられる。したがって、教室にいるすべての児童生徒に同じ学力をつけさせようとしても、すでにそれは夢物語なのかもしれない。なぜなら、そうした母集団がすでに歴史的にできあがっているからである。20世紀の教育は社会の要求に応じてしか人材を形成しなかったのであり、そうした教育要求に敗戦してきた自らの歴史が、教育から自立性を剥奪したのである。如何ともしがたくなった「なれのはて」が現状の教育の有様だろう。20世紀のめざした「人格の完成」教育は、ひょっとすればなかったのではないか。
 翻って、均質学力の集団育成が可能かどうか。それは無理であろう。学力を体積にたとえれば、学習量を縦軸に、個を横軸に、意欲を高さの軸に設定し、描写しうるものだろうと思われる。そうそう体積の、粒が揃ったブドウのような児童生徒ばかりの教室はありえない。いままでワタクシたちの経験してきたクラスでそんな状態があっただろうか。みたことがないであろう。
 いくら能力別学級編成をしていっても、突き詰めれば個人単位になってしまうのである。個人の四方八方への飛躍を前提にした和気藹々の競争状態を作り上げることができるであろうか。また果たして競争がストレスを引き起こし、あるいは、いじめを発生させるというのは真実なのであろうか。そうだとすれば、永遠にいじめはなくならないといっていい。
 さらに疑問はイロイロある。環境と遺伝の変数によっても学力は違ってくるし、親の経済力によっても学力は左右される。出生のときから差があるのであると多くの人びとに意識されている。とすれば、極めて残念なことであるが、こうした学力格差によって学びの現場からはじきだされることに対する緩和策を議論すること自体が、もう、不毛なのかもしれない。悲しすぎる結果である。涙が溢れる。
 20世紀に完成された1億総中流の国民が、バブルの嵐で攪拌され、勝ち組負け組が噂される社会に変貌したのであるから、教育にだけ均質集団を形成しようとしても所詮無理なのである。親の思惑もあるし、我が子に最大の期待と経済をかける家庭もあれば、貧困によって教育費をどんどんどんどん削減しなければやっていけない家庭もある。つまり教育投資への意識の違いが顕著になってしまったのである。
 「意欲」を評価するのも失敗に終わっている。もう、絶対的な評価に固守し、学力低下防止論を議論したくない気持ちである。
 少し前、資格を取得することに教育の価値をおいていた時期があった。実生活に直結する学びは、学校にあるのではなく、外部の評価に依存しているのがわかる。たとえば公立商業高校では、簿記の資格が取得できることにウリを見出している。そのほか、英検○級、宅建や行政書士資格、情報処理資格など、そうした公的資格をもっていると、履歴書に赤ペンで特筆することだってできる。
 そういうふうな本音のところで証明される学力以外は無意味であると大人は自覚し、うすうす児童生徒も気付いているのに、そこを避けて議論しているのだから、はがゆいといわざるをえない。こうした意識が学歴社会の崩壊と並行して進行していたことが、競争とはなにか、を鮮やかに示している。
 資本主義社会は競争を必要不可欠の要素として自己の体内に組みこんでいる。だから、資本主義の僕に教育がなりさがっている限り、甘美な理想は現実主義の前に潰え去る運命にある。(1/8)

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 日本のN、放送のH、協会のK、3つあわせてNHK。たかがNHKであり、されどNHKである。公共放送の使命を果たそうと努力する一方で、裏では「不心得者」が暗躍している。出場拒否される歌手も多くなってきた紅白が、現NHKのていたらくを示していよう。
 最大の問題はその隠蔽体質にあると思われる。「不心得者」のピンはねは当然許されないけれども、会長自らが登場した国会答弁を放映しなかったのが国民感情を傷つけたのである。ああいう態度は結局批判され、年末には特番も組んだ。だがそれも紅白騒動で再び追い詰められ、末期症状たることが誰の目にもあきらかとなった。紅か白か黒か、反省の色もよくわからない事態である。長期政権が腐敗するのは政治組織だけではないようである。組織たるものは避けられないのかもしれない。
 NHKもそうであれば、中教審もそうかもしれない。ちょっと強引な展開であることをお断りしつつ、鳥居泰彦会長の留任を記しておこう。10年以上継続して座長に就くことはできないにもかかわらず、乗りかけた舟なのか、座長を下りそうにない。文科省の要請強しといったところなのだろうか。だが、ゆとり教育推進の国家的失策の責は誰もとることなく、このまま推移していいのであろうか。中央の教育行政のトップは文科大臣である。しかし答申してきた中教審そのものに責任はないのであろうか。
 その点、アメリカの大統領が2期のみで、絶対代わらなければならないシステムはよく考えられている。我が日本でもこういうところは見習うべきだろう。4年後、ブッシュが再選されることはない。
 その昔、北町奉行と南町奉行が競い合って行政を担当していたシステムを現代流に焼き直すことはできないものであろうか。組織腐敗を防ぐよい方法だと思うからである。(1/7)

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 昨日、Tsudoiに参加いただいた方々、お疲れさまでした。なつかしい顔もみせてくださり、また、こくばんマスターを担当いただいている方々も参加してくださり、ありがとうございました。会場はこちら
 今年、試験を受けられる方からは「新年の抱負」を語っていただきつつ、それにエールを送っていただく現役の先生。そうした感じで会は進行しました。勉強会ではさすがに呑めませんが、Tsudoiでは少しはめをはずし、楽しい「宴会」となったようです。ワタクシは6日朝から用事がありますので2次会は失礼しましたけれどもいかがでしたか。
 つぎのTsudoiは教採試験の合格後ですね。がんばって勉強してまいりましょう!!
 ワタクシに代わって、ご挨拶です。i feel fine!(1/6)

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 以前の再論になるかもしれないけれども書いておこう。『科学』と『学習』―こんな雑誌が学研から発売されていたことを知っている旁午読者であったなら、その出生の歳がおおよそ知れる。なかなか楽しい『科学』的な教材が付録でついてきたし、社会科の『学習』に役立つこれまた付録がワタクシたちの興味を誘ったものである。
 いままだ出版されているのかどうかは知らないが、しかし、それらの付録は、いわゆる「小学○年生」の付録より高尚、複雑かつ作りがしっかりしており、とりわけプラスチックのそれなどには興奮したものであった。毎日家に配給されるヤクルトと月に一度のこうした雑誌は、70年代の子どもごころをくすぐっていた。
 そうしたいわば学習につながる遊びごころあるいは興味関心が、家庭で成立していたし、たとえ学研が本来めざしていたであろう学習内容の定着が行き届かなかったとしても、子どもの学習意欲は無意識に高まっていたといえよう。
 いわば「恩物」といっていいだろうか。そのような古き良き雑誌の消滅や、たとえば「光の国」などの絵本の衰退は、家庭教育の力を弱め、それに変わるに直接的な塾通い、そろばんや習字など習い事を支持させた。まことに悲しいことであった。
 いま、理科離れが叫ばれているけれども、それは上のような事態と無関係ではない。そのほかあげるとすれば、ひとつは、昆虫採集が夏の楽しみでなくなったこととも関連しているように思われる。もうひとつは、牛乳キャップのコレクションである。それは、世界の国旗一覧を眺めるのと同一の効果が少なくともワタクシにはあった。コレクションは学習の基礎である。
 現代の子ども事情では、どうやらゲームソフトコレクターが増加しているらしいが、それはそれでいいのだろう。なぜなら、きょうびの子どもはPC世代だから、メンコを集めても仕方がないからである。
 先の朝日の記事は、こうもつたえる。「大学教育のあり方についての考え(複数回答)をたずねたところ、『当該分野の基礎を確実に学習させる』が85%でトップ。『インターンシップで産業現場などに触れる機会を増やす』は37%だった。最近は産学協同など実際のビジネスに役立つ研究を求める傾向があるが、専門家の間では基礎を重視する考えが目立った」。
 この複数回答をどのようにワタクシたちは解釈すればいいのだろうか。事は大学でのことであるから、初等中等教育にそのまま当て嵌めることは慎まなければならないけれども、それでも確実な基礎の定着が体験学習よりも優先されているのが読み取れよう。したがって、大学教育につながる中等教育段階であっても、いわば「机上の実論」を積み重ねることが有効な教育内容となるといわざるをえない。
 ゆとり教育の否定から、舌の根も乾かないうちに主知主義一辺倒に転換するのは節操ない教育意見であろう。なんとか基礎的教育内容の定着と学習内容の定着に寄与する刺激つまり体験重視の教育活動とがうまく「合わせるのが味噌」的にとらえられる教育方法の登場が待たれる。
 ただその具体的登場を演出するのは難しく、ワタクシなどからは、『科学』と『学習』の復活のほか、提案とは程遠く忸怩たる思いがあるが、その現代版の学習ソフトの効果的活用を提案するほかない。それともうひとつ、外に出て滑り台で遊ぶことである。自然には学習が期待される仕組みがことのほか多いからである。
 そう、物理学の基礎は、お尻の熱さを感じ滑り台における摩擦係数を自覚することにある。これを笑う読者は、林檎と星を比較した巨人を笑うことにあるいは同定されるやもしれない。(1/5)

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 昨日は結果として更新お休みしてしまいました。旧交をあたためるため、大阪は浜寺公園の方までいっていたからです。公園の滑り台ではしゃぐ子どもたちはかわいいものです。ワタクシもいっしょにやってしまいました。歳のせいか、ふらふらです。
 さすがに若くない歳になりました。年末より読みかけの本を手に転寝ばかりしていましたので、いい運動になったようです。健康に気を付け、日々精進してまいります。
 下にその滑り台をアップいたします。(1/4)

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 他人の給料を云々するのは気が引けるけれども、公人たる教育長のことであるからいいだろう。教育長は特別職である。その給与は、一ヵ月いくらくらいであろうか。
 赤字財政を反映して切り詰めている自治体が多い中で、いわゆる「聖域」は町財政にもなく、教育財政も削減のお呼びがかかる。大阪府の忠岡町では棒給2割を削減し、おおよそ50万円である。毎日新聞が「忠岡町は来年から、和田吉衛町長と、来月に就任する正木輝弥教育長の給与を削減し、退職金を廃止する。10月に岸和田市との合併に反対して初当選した和田町長の財政再建策の一環」と伝えるように、バブル期以降の経済的動揺が町行政を逼迫し、人件費削減を余儀なくされ、退職金すら支給されない。独立自営を標榜し岸和田に「吸収合併」される安易な道を拒否したのであるから、この程度の削減は覚悟の上であったのであろう。その自立精神は現町民の支持を越えて良判断であったと、次世代の評価を得るかもしれない。
 しかし、切羽詰った上での処置が「悠久の制度」に固定化されるとしたら、忠岡町の公務員になりたい若者は減るにちがいない。まあ、特別職だからこうした大鉈を振るうことができるわけで、一般職にこれを適用すれば町政は崩壊するし、その現実性はない。だが上が渋いと下もギスギスするのは世の常なのである。
 退職金もなく給与カットされる特別職の行先は、民間ヘの天下りと相場は決まっている。一生懸命町教育行政につくした結果がそれほど報われないとすれば、今後、教育長のなり手もないだろう。町長もそうだろう。だが、逆説であるが、そうした立場に着任したいと清廉な意欲から願望するのでなければ、教育を切り盛りすることはできないといえよう。
 なぜなら、市町村合併の拒否は、結果として、民間企業との悪しき癒着を促進することになりはしないだろうか、疑念を払えないからである。これはひとり忠岡町だけの問題ではなく、全国津々浦々の赤字体質地方自治体の共有する「悪魔の声」である。
 そうだとすれば、奈良の市長は弾劾される寸前にあるのではないか。また、忠岡町のケースと違うが、奈良市の教育長空白は埋まるのであろうか。「問題が続出する鍵田市長に対し、疑惑の解明や政治責任を問うことを優先する(奈良市)議会は、助役など特別職人事には否決の姿勢を示してきた。しかし、10月中旬に発生した市立富雄北小の小一女児誘拐殺人事件で、教育行政のトツプ不在は問題であるとして、議会も理解を示した。こうして今月16日の本会議最終日に、教育長候補の中尾氏の教育委員選任を全会一致で選任同意した」と奈良新聞は報道する。
 奈良大学と地方行政との狭間にあって、その緩衝にいかに決着をつけるかは、報道されているように双方からの歩み寄りがあるので、あとは時間が解決する。大学もかわいそうであった。
 奈良新聞の論旨を追うかぎり、鍵田氏は税金未納問題を抱えるなどスネに傷もつ市長のようで、ここにも金周りに相当困っている様子がまざまざとうかがえる。「悪魔の声」が鍵田氏に囁かないよう奈良市議会は追及の手を弛めるべきではない。鍵田氏も「バンザイ」すればよい。
 そうしないと教育長不在は荏苒たるままになって、小林容疑者が逮捕されたとはいえ、地域の安全管理に急を要する市教育行政が空転のまま新学期を迎えることになったかもしれないのである。中尾氏は人権教育を大学で担当されるほどの人物であるから「悪魔の声」とは全く無縁の好人選である。市議会は鍵田氏追及と教育長人事の一線を画し、まずは中尾氏の教育長承認およびその速やかな始動を妨げるべきではないであろう。その点、この問題だけは市議会の争点から潔く抜いて教育行政の正常化を市民に訴えたのは、奈良市議会の賢明さを示したものであるし、議会の良心と名誉を保ったといえる。すばらしいの一言であった。
 いま、例の事件の衝撃が極めて大きいだけあって、奈良の学校安全管理の手法がどのようなものであるか注目の的になっている。新教育長の双肩にかかっている重圧は、相当なものであるし、それをまた市議会がチェックしていく小文字の「行政と立法」の関係を、固唾を呑んで国民は見守っているのである。
 奈良市教育行政は奈良県教育行政に刺激を強く与える。ひょっとすれば政令指定都市の座を狙っている奈良市は、ここをチャンスに跳躍するところの、「まほろばの元気」をみせつけていただきたいものである。(1/2)

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 謹賀新年、あけましておめでとうございます。ながく怠けし頭を叩くことのないよう更新を始動いたします。今年も「浩の教室」をよろしくお願いいたします。乙酉2005年睦月元旦。(1/1)

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