日々旁午

2006


日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

最近、移動手段として単車を乗る機会が多いです。さむい〜

 きのうはワタクシの目の前で、おじいちゃんの乗る原付が白バイに捕まってました。あんなん、残酷やで〜。結果としてじいちゃんを捕まえることになる白バイを目敏くみつけたワタクシは、そのうしろをついて2、3キロほど一緒に走ってたんやけど、そしてミラーをちらちらみながら走っとったから当然ワタクシがうしろついて走っているのを白バイは知っていたけれど、一般道80キロで走ってたやんか、アンタ!それで原付捕まえるのはどうよ!じいちゃん、かわいそうやで。10か15キロオーバーやんか。じいちゃん、目がしょぼしょぼなっとったやんか!

 じいちゃんと白バイをあとにして走っていると、かわいいお姉ちゃん(これも原付)も捕まっとった。エールを送るため、思いっきりアクセルオープンにしたよ。ウォン〜

 原付は乗るもんじゃないよ。だいたい制限時速の30キロ守って走ってる原付なんてワタクシみたことないで。反則金払うために乗ってるとしか思えん。あっ、そういえば、この背景の色、反則キップの色と似てる。ゲン悪いなぁ。

 「うしろのこくばん」に、道路交通法違反のことで「懺悔」されている書き込みがあります。ワタクシなども懺悔に次ぐ懺悔をしなければならない身なんで、コメントできる立場にありません。この質問に関しては、ちょっとレスつけ難いと思いますよ。まさか、「青キップ、赤キップもらったけど教採大丈夫だったよ」とは書き込めませんしね。

 いままで十分懺悔し、行政処分も刑事処分も受けて、免許証がまっさらな状態に戻っておられるなら、そんなに気にされなくてよいのではないかと、不肖ワタクシめは思っております。

 でも教員になった暁には、飲酒運転は絶対やめてください。スピード違反はちょっとだけ許す(笑)。

 スピード違反はマシーンの問題もあります。でも、飲酒はその人間のけじめの問題ですから。

 それから、こんにち、教員の車通勤は地域住民の厳しい目がありますから許可がないならお止めなさい。さらに、途中でパチンコに寄って通信簿の窃盗にあった日には、目もあてられません。

 全国の教職員のみなさま、お互い気をつけましょう!
(1/20)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

勉強会でも「新しい義務教育を創造する」答申のあとで読もうと思っているのが「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」答申である。この2つの中教審答申が今夏の採用試験を左右する。後者の答申は、いままでに議論されてきた特別支援教育論議の集大成であるから、じっくり読んで押さえておかなければならないポイントも多い。

 それにしても、「特殊教育」の名称がなくなるのは朗報である。これに対応し、学校教育法が改正される予定である。この呼称廃止と同時に、「障害児教育」も「障がい児教育」と変更されることを強く望む。おそらく時代の流れはそういうふうに進むであろう。ちなみに、上記の「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」答申のあるところで、「現在の学校教育法における特殊教育の規定にある『欠陥』や『心身の故障』等の語については、特別支援教育の理念にふさわしくないと考えられることから、特別支援教育への転換に伴う法令上の用語等の見直しについて法制的な検討を行う必要がある」と教育術語の改良を明記しているのは、よろこばしいことである。「故障」なんて法令は冷たく書いているが、人間は車じゃないんだぞ。これまでイロイロなところで障がい児教育に触れてきて、この「欠陥」という言葉使いに胸を痛めてきたワタクシとしては、即時変更を要求するものである。

 ただしかし、それをどう変えるかは難しい。たとえば、いま、「欠陥」=「個性」と捉える捉え方が主流であるから、表記を「個性」とするのも考えられるが、これはこれでしっくりいかない。それにもうひとつの問題も絡んでくる。

 というのは、障がい児教育、特別支援教育は必ず必要で、健常児とまったく一緒の教育課程を履修することは絶対的に無理であり、障がいのある子どもの保護者は、是非とも有効な内容の特別支援を心待ちにしていることに関連する。すなわち、「個性」といってしまうと、健常児の個性も障がい児の個性も同じ範疇で捉えられ、特別支援に対する制度保障が低下するのではないかと猜疑心を持ってしまうかもしれないのである。必要な「支援」は、「必要」な支援なのであって、そこを財政に苦しむ行政がヒューザー的手抜きをしてもらっては困るわけである。

 『朝日新聞』1月8日付けは、今次の「特殊学級」から「特別支援学級」への転換に対し、次のように記事を書いている。「文部科学省が今月召集の通常国会に提出する学校教育法改正案の骨格がわかった。存廃が論議になってきた小中学校の特殊学級は、存続を保護者らが望んでいることに配慮し、07年度をめどに『特別支援学級』と名称を変えて残す。盲・ろう・養護学校は複数の障害に対応する『特別支援学校』に改める。また法改正と併せて文科省は省令を改正し、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)などの子供についても適切な指導が受けられる仕組みづくりをめざす」。やはり保護者は「存続」を強く望んでいるのである。新しい障がいといわれるLDやAD/HDは、ある面「子ども狩り」のような感じで、「悪い子」をその「病気」に確定させて葬り去るような風潮もある。これは十分注意しなければならない。名指しで「あの子LDやからなぁ」という会話が懇談会や授業参観で交わされるようになってきている。まるで新しい障がいを示す言葉が、流行のように使われ、新たな教育差別を生みつつあるのである。このあたりのことを盲・聾・養護学校の特別支援教育専門の先生方は危機感を感じると同時に深く心を痛めておられる。

 「この法改正により、(19)47年の同法制定以来60年近く使われてきた『特殊教育』の用語は法令から姿を消す。今後は障害のある子供の自立や社会参加への取り組みを支える『特別支援教育』に名実ともに転換する」(『同上』)と、当然学習指導要領もまた改正される。文科省からの通達を読むのが待ち遠しい。そして、障がい者の「社会参加」が掛け声倒れにならないよう、措置責任を国が負うとともに、企業の方から採用に関する規定を「努力義務規定」ではなく「必須規定および違反罰則規定」にするようなウルトラ発言がでることを願ってやまない。たとえば、お菓子のメーカーとか、おもちゃのメーカーだとか、子どもの成長に深く関係する企業は、自らの小さな「市場開拓」のためにも積極的発言を求めたい。

 ところで、『朝日新聞』の次の指摘は、どうだろうか。曰く、「LD、ADHDなどの子供は全児童生徒の約6%(約68万人)に上るとされるのに、現在は特殊学級や『通級指導教室』の指導対象にはなっていない。通級指導教室は通常の学級でふだんは授業を受け、特定の教科など必要に応じて別の教室で特別の指導を受ける仕組み。情緒障害や言語障害のある子供らが対象になっている」と。ここからはLD児を通級指導教室で対応させようとする思惑が読み取れるのであるが、それがいいかどうか。ノーマライゼーションの理念を活かしつつ、93年に出発した通級指導の充実した校内構想が期待されるのである。
(1/19)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

報告が遅れましてスイマセン。第62回勉強会の集団討論の模様をお伝えいたします。テーマは、「教室において物が紛失したとき、そして疑いをかけられた児童生徒がいたとき、私たちはどのように対処するべきでしょうか、議論してください」の一題です。これを30分間、9名の方に実践していただきました。

 このように9名の方に実践していただいたのには理由があります。それは、参加者の中に神戸市をお受けになられる方がいらっしゃり、その方の希望にそうことに、みなさんが同意されたことにあります。神戸はちょっと特殊で、1次試験で集団討論があります。しかも11人という大所帯での討論が行われ、かつ、司会を立てます。これは大阪の場合とまったく違います。多人数で議論が組み立てられるかどうか、ワタクシは興味津々でした。

 結論から討論の出来栄えを申し上げると、「へぇ〜、こんなに多くても、議論が噛み合うものなんだなぁ」です。ふつう、これだけ多くなると、他の参加者に対する遠慮も手伝って、発言のない方を優先しすぎて発表会型の討論になってしまい、失敗するのがオチであると思っておりました。そういう意味では、神戸市の討論は、受験者の個性を見抜く気があるのかなと訝しい気持ちでした。しかし、それでも9名、これが11名になればどうなるのでしょう、想像がつきません。

 今回、このように多人数で実践していただいて感じた2つ目の印象は、「神戸市の討論は司会次第である」、ということです。司会がうまく捌かないと、採点官はマズイ飯を喰わされることになります。司会の引き受け手が下手だと、全員の評価が悪くなるでしょう。これは間違いない。

 今回、いうまでもなく司会を引き受けてくれたのは、ほかならぬ神戸市受験希望者です。鮮やかな手捌きでした。9名いると、それぞれの発言の順番が固定されてしまい、一巡してからまた一巡というようになりがちです。ところが、今回の司会者は、みんなが発言しなくても2回目の発言、3回目の発言を誘うよう、組み立てられました。その手法が「発言が発言を呼ぶ構造」を作っておりました。

 さて、仮にAからIさんとして、いつものように討論の模様を再現しますが、Iさんが司会者です。ただ、「Iさん」の「I」の文字が小さくてサイト上でみにくいので、ここでは「司会さん」と書くのも変ですし、単に「司会」と書きますね。それから、30分間沈黙の間がなかったことは、ひとえにこの勉強会に集うみなさんの力量の高さでしょう。沈黙を破る役割を司会がしていたということもありますが、なかなか本番の討論では見受けられない討論であったことを申し添えます。

 まず司会が、テーマを読み上げ、それをどのような斬り口で料理するか、方向性を示されました。司会は、紛失物が出るといっても、大きなもの、小さなものたとえば消しゴムや鉛筆などがある。また、紛失物が「紛失」ではなくて、故意に隠されたというケースも想定される。「紛失物」の背後にイジメ関係が潜んでいることも考えられるということを提示し、では具体的に「疑われた子」にどう対応するかとして、クラスの全員を問い質すのではいけない、それよりも重要なことがあるといわれました。それは、司会はイジメ関係を前提し、犯人探しをするのではなく、疑いをかけたことそのこと自体を問題にしたいということです。

 司会の見解を受け、Cさんも、犯人探しではいけない、クラスのお友達を疑ってかかり犯人扱いする意識を持ってしまうことがよくないのであるとクラスに伝えたいと言され、また、Bさんは、犯人と疑われた子は「ボク悪くないのに、どうして先生は…」と感じることに対して心配を寄せる発言をされました。Bさんは、しかし、「信じつつも疑う」という微妙な表現でもって説明されました。この表現については、討論終了後、ワタクシも意見しました。なぜなら、ふつう、「疑いながらも信じる」というのが、教員の姿勢ではないかと思ったからです。ただ、たしかに、児童生徒にはズルイところもあります。そのあたりの判断は、児童生徒との基本的な信頼関係が形成されているかどうかにかかっているのでしょう。この表現に対する意見はジャストタイムで参加者からでませんでした。こうした微妙なところはスルーするほうがいいかもしれませんね。

 Fさんは、司会の「小さな物の紛失」という提起に関連し、たとえ鉛筆がなくなっただけでもクラス全体に指導をするということを述べられました。Aさんは、それを実践的に膨らまし、教室で物がなくなった事実が重要であり、故意であれ、そうでなかったにせよ、まずはクラス全員で紛失物を探す指導をすると力強く発言されました。そして、万一疑わしい場合つまり故意の「紛失」であった場合でも、その行為そのものを確認していないのであれば、名指しで疑う行為はいけない、そういう疑いの眼でみないよう指導したいと付け加えられました。

 この、「みんなで探す」というのは、お恥ずかしながらワタクシには考え及びもつかなかったことです。こうした人間愛に満ちた指導を今後もしていただきたいと強く思いました。ワタクシなど、ひねくれているのか、駄目な大人になってしまっているのか、こうした指導こそ「愛情ある指導」であり、教師としての資質なんだと教わりました。Aさんありがとう。

 ここで司会が発言します。このテーマには3つの観点がある。@疑われている子どもにどう対応するか、A疑った子どもにどう対応するか、Bクラス全体にどう指導するか、であるとのことでした。Eさんは、@の問題に対し、慎重に対応しないといけないと念押ししつつ、そういうふうに疑をかけた子と話をし、もっと聞いてみる、そして犯人だといった子どもとは個別対応しなければならないと答えられました。その際の注意点として、Gさんから、名前が挙がった疑われた子どもに、なぜそう思ったの、と疑いをかけた理由を個別に聞きたいといわれ、そしてそこで得られたことをもとにクラスにフィードバックし、今後のクラス全体の方向性を探るべきであると発言されました。

 司会は、では、具体的にどのようなことを聞けばいいのか、疑った子も疑われた子も含め、どうすればクラスが気持ちのよい場面に進んでいくのでしょう、と投げかけられました。そして司会は自ら、「なぜそういうふうに(疑うことを)いったの」、「なぜその場面をみてもいないのにいったの」と話をしたいと述べられました。もちろんここには圧迫的なものはないでしょう。このとき教育相談の理論をすこし援用しつつご意見をいわれたら、はっきりニュアンスが討論参加者全員に伝わると思います。ロジャースの受容的態度などです。Dさんが、司会の質問に対し、まずそれぞれの子どものいい分をしっかり聞きたいといわれたのは、そういうことでしょう。疑った子、疑われた子にそれぞれ個別に指導し、そこから生徒指導のエッセンスを引き出して「クラスに降ろす」と表現されました。この表現が、討論の場に影響を与えました。Dさんの発言はこの一回だけだったのですけれど、Dさんが述べられたこの「クラスに降ろす」という言葉を、この後の発言者が使用するようになりました。これは、Dさんの表現がその内容とともに肯定的に受けとめられたということを意味し、一回しか発言していないにもかかわらず、Dさんが何度も発言しているかの印象を集団に与えたし、ワタクシもそう感じました。

 Aさんは、司会の質問に、私なら疑った側に聞いてみたい、といわれ、疑われた相手はどんな気持ちになるかを考えさせる指導をするとご意見されました。そして他のクラスの子どもにも、「どんな気持ちになるか」は大切な観点つまり思いやりに関することなのでフィードバックすると述べられたのです。ではなぜそういうようにフィードバックするのか。そこの理由をいわれたのが、Aさんの説得力あるところでした。

 すなわち、疑う疑われるの関係がクラスに残存するのはクラスそのものにもよくないし、疑われた子が、2次的な被害、つまり、「あの子はあんな子なんや」とお友達に色眼鏡でみられるようにしてはいけないと論理的に説明されました。Hさんは、ここではじめて口を開きました。Dさんの「クラスに降ろす」というのはとっても大切なことであると同調されつつ、後々のクラス運営に関わるので、根拠なく疑う態度を厳しく指導すると発言されました。一人ひとりを大切にするというクラス運営の理想を忘れず、わだかまりのあるクラスに絶対してはならないとご意見されました。担任としての立場がここにはありますね。Bさんは、これを受け、私なら、なぜ疑ったのかを質すことはしないといわれました。灰谷健次郎の『先生家来になれ』の一部を的確に引用し、嫌な目にあう人が(クラスに)いることを許さない姿勢を持つと述べられました。この灰谷さんのチューインガムのお話の引用はワタクシは効果的であったと思います。司会はここでテーマに引き戻し、クラス全体にどう対応するかというBの観点を再度だし、討論の方向を決められました。

 Eさんは、クラスは共同体であると発言されました。疑われた子と疑った子の両者だけの関係を修復すればそれで終了ではなく、司会もいわれるようにどういうようにクラス運営にこの「事件」のいわば教訓を活用するか考えなければならないとされました。それは、「困っているお友達がいれば助けてあげよう」のクラス作り、とまとめられました。

 ここでCさんが、問題提起をされました。テーマはそもそもなにをメインに尋ねているのか、Cさんは、疑った子と疑われた子の両者の問題が最大の議論すべき事柄なのではないかといわれたのです。するとすぐにAさんが、それも当然であるが、「クラスの中でで物がなくなったこと」、この事実が大きな、大きなポイントだといわれました。疑った子疑われた子の両者の関係性と、クラス全体の問題との双方を議論しなければならないと喝破されました。

 Aさんは、この紛失物の事件に関し、クラスで探してみつかったらほめたい。探してみつからなくてもクラスの友達を大事に思って探したんだから、うんとほめたい。悪戯で隠したのなら、いまその子は悩んでいるだろうし反省しているだろう、というお話をクラスにしたいと述べ、最後に紛失はあるものだけど、みんな気をつけてがんばっていこうねといいたいと、付け加えられました。

 司会は、物がなくなるクラス状態も、友達を疑っても平気なクラスの状態もともに悪い、物をとってもいいという状態は、人が困っていてもいいと感じているクラス状態を意味し、これは学級の病巣であるといわれました。ではこれをどう取り除くか。司会は、この解決策を「事件を蒸し返さない話し合い」に求められました。前進的、団結的なクラスの態度が、この病巣を自力で治癒していくといわれたのです。そこで、司会は、クラスの結束を高める提案はないですか、と振られました。すなわちクラスの雰囲気をよくし団結力を増すイベントのようなものはないかと提起されたのです。

 クラス全体で取り組んでいくものとして、Hさんは、「自分が感じ取った気持ちを言葉にする」イベントを設けたいと応答されました。Hさんは、人を困らせてもいいと思っている子どもが増えてきているのは残念なことであるが、紛失物をみんなで探して終了とするだけでホッとし、それで終わるのではなく、事件について話し合いを持つことが、再度の「事件化」をなくすとの考えから、上のような「イベント」を提案されたのでした。ここでは司会とHさんの提案はまったく違う方向でした。これをどう評価するか、この議論に噛んできたのがAさんであり、Eさんであり、Gさんでした。Aさんは、Hさんに、その話し合いってどんな話し合いですかと突っ込まれ、これに応えHさんは教育実習体験を踏まえつつ、先の発言を補強する形で答えられました。Eさんは、逆に、生徒に任せた話し合いはマズイのではないか、当事者2人がいるクラスだから、私なら、クラスの一人ひとりに疑われたらどんな気持ちになるかを紙に書かせて集め、それを担任である私がクラスの全員にうまく報告したいと提案されました。

 一方、Gさんは、「痛みを知る」イベントをするとご意見されました。そして、5人ほどの仮想劇、今回の事件を題材にロールプレイをしてみたいと構想を報告されました。これは役柄に当たった子どもがどんな気持ちになるかを表現し、それを表現する方もそれをみている方も、そしてイジメで隠したとしてその子どもにも意義があるものでしょう。

 と、ここでタイムアップ。さすがに30分ですから復元すると長くなりました。討論全体に対するコメントは最初に書いたとおりです。参加者各個人がどれだけの問題意識を持っているかに左右されるのが多人数討論でしょう。司会担当者が、これだけ多くても、光っている発言をする人はわかるもんだなあ、と終了後いわれていたのが印象的でした。

 あとから聞けば、司会のいう「イベント」とは、紛失物事件と関わらないクラスの新しい出発に向けてのきっかけとして提案がほしかったようです。しかしまあ、それはそういうように説明しないと、Hさんのような提案が出ても不思議ではありません。

 今回、このような多人数討論がうまくいったことに、つまり、ワタクシの目からみても評価が高かったことに安心してはいけません(安心することはないと思いますが…)。ひとこと、出来過ぎです。後でこれまた意見が出ましたように、今回のようにうまくいった討論は本番ではヒャクミツでしょう(100回に3回の意)。司会を希望されたIさん、今夏は司会を引き受けてみてはいかがですか。

 では、第63回、難波で会いましょう。次回は集団面接でもいいですね。
(1/18)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

昨日は、第62回当サイト主宰教育学勉強会に多数ご参加いただき、ありがとうございました。今回は、新しい試みとして、「自己売り込みのツボ」のペーパーをお配りし、その意図を説明いたしました。まずまずみなさまの同意を得、ホッとしています。近いうちに、このペーパーもサイトにアップいたします。「自己売り込みのツボ」は、すでに3月まで予約一杯になりまして(ワタクシがやってね!といったわけですが…)、28日以降の報告が楽しみになりました。この報告には、20分程度を充てたいと考えております。

 さて、昨日は、うえの「自己売り込みのツボ」の説明、次に答申の講読、神戸市の1次試験の復習解説、そして集団討論をいたしました。

 答申の講読は、今回から、中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」を読みはじめました。ワタクシの解説文をたたき台にみなさまから議論が百出することを期待しておりましたが、なかなか思ったようにまいらず、四苦八苦いたしました。しかし、よく考えれば、この日はじめて資料をお配りしたわけで、早々簡単にコメントができるわけでもありませんね。ただ、次回はがんばっていただきたいと思っております。

 この答申は、今夏の出題の目玉であるとひそかに感じています。この答申を活用した予想問題を資料に附載しておりますけれども、もう少し違う角度からの問題も作成します。試験前にお渡しできるようガンバリマス。

 さてその答申の中身に関し、「国民の人格形成」および「国家・社会の形成者」の2つが義務教育のめざすところであるということは忘れないようにしてください。そして、議論になった「義務教育はセーフティ・ネットか」につきまして、ご自宅で再考してみてください。こうした国家戦略的な義務教育の是非についても自分なりの視点を養っておくことが、教採人物対策としても重要です。

 次に、神戸市の問題解説でした。ようやく半分終了し、これまたホッとしています。思うに、神戸市のツボは、特別支援教育と教育心理学ですね。今回は、盲・聾・養護学校学習指導要領の穴埋め問題をもいたしました。大事な資料ですので、復習してください。この盲・聾・養護学校学習指導要領につきましては、体裁を整えて、サイトにアップします。今月末をめどにしています。次回、教育心理学系の問題の解答解説に移ります。これまた20枚程度ありますので、2、3回で終了したいと思っております。

 その後は、京都、三重などの問題をレジュメを使用するのではなく、即時的に解説するような形で進めようか、それとも、基礎的な知識の定着をめざし、なんらかの参考書解説をしようと考えております。

 それにしても4時間は短いですね。うーん、6時間はほしいなぁ。

 最後に集団討論を実践していただきました。時間と参加人数の関係上、今回は、1題にいたしました。参加者から提案があり、「神戸方式」で討論を実施いたしました。この模様につきましては、次回の更新にいたします。
(1/16)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

昨日は、さすがに疲れて更新できませんでした。失礼しました。
 昨日、香川県教職員組合主宰学習会にご参加されたみなさま、お疲れさまでした。また、お世話になった先生方、ありがとうございました。厚くお礼申し上げます。
 今後、香川には、4月、5月、7月と参ります。また、右欄に詳細を記しますのでご覧ください。
 本日は「ちょこっと更新」で失礼します。
(1/15)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

あすは、香川に参ります。香川教職員組合の先生方、お世話になります。レジュメが50枚になり、印刷大変かと思います。恐れ入りますがよろしくお願いいたします。集団討論も実施できるよう、レジュメは自主学習可能なように編集しております。

 ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。右欄の「ごあんない」をクリックしてください。

 また、15日は当サイト主宰第62回教育学勉強会を開催いたします。こちらの方も、ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。あすは更新が難しいと思われますので、先に集団討論のテーマを明示いたします。ひとつは、「同和教育、人権教育に対する正しい理解と認識を深めるためには、どのようにするべきでしょうか、議論してください」です。もうひとつは、「教室において物が紛失したとき、そして疑いをかけられた児童生徒がいたとき、私たちはどのように対処するべきでしょうか、議論してください」です。

 また、15日は、「自己売り込みのポイント」のペーパーをお配りします。当勉強会でははじめての試みです。どういうふうになるか、手探りですが、みなさま、お付き合いくださいね。
(1/13)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

第2のテーマは、「生徒指導を実践していく上で気をつけるべきことはどのようなことか、議論せよ」でした。こちらのテーマにも、同じく6名(A〜Fさん)、25分間でチャレンジしていただきました。なお、この討論は、お借りしている教室の時間ギリギリまで実践していただいた関係上、ワタクシからは10分ほどしかコメントできなかったことを申し訳なく思っております。しかし、まあなんと集中した4時間であるか、みなさんもそうでしょうが、ワタクシもこの勉強会が終わるとぐったりしてしまいます。今後もこの調子で参りましょう。ほどよい緊張と集中が続いた方が間延びした時間を過ごすよりよっぽどいいです。勉強は、時間をかければいいというものでもありませんね。

 まず口火を切ったのは、Cさんでした。Cさんは、これまでの生徒指導の実践を反省するところから、自分なりの「これだ」という生徒指導の方法論を確立されていました。曰く、男女の性差によって生徒指導に違いがあって、いままで女子生徒に対して細かいところを気にするような指導をしていた。ボタン、茶髪など、とても敏感であった。細かなことをいい過ぎて嫌われた。その結果、授業もうまくいかなくなった。こうC(女性)さんは語りはじめました。

 だから、細かいことをいうのは止めよう。その代わり、次の3点だけはキッチリ守って指導しよう。@他人を傷付け、あざけるようなことをしたときはきっちり指導する。Aウソをついたら指導する。B注意して1度2度はいい、でも3回指導して気付かなかったら叱る指導をしよう。このように生徒指導の線引きをはっきりさせた、といわれるのです。

 Cさんのこの発言は、発言量が多く長いながらもそれを感じさせないウマイ話し方でありました。このCさんの発言の@に関連し、Aさんは一人ひとりの児童生徒を知るべきだと強調され、とりわけ「あざけること」に対しては厳しく指導したいと同調されました。また、この「あざけり」がいじめに繋がっている可能性を指摘され、学級集団に対する生徒指導についても言及されました。

 翻ってBさんは、生徒指導と校則の関係を述べられました。Bさんは大学生で、教育実習経験しかなく、どうしても「指導された側」=生徒の立場からのご意見あるいは感想を通してこの問題を考えようとされていました。「校則を違反したらなぜだめなの」ということすらいえない頭ごなしの指導を受けてきて、生徒を受け入れるスキを指導に含めるべきではないかと発言されたのです。

 こうしたA、B、Cさんのご意見を受け、Fさんからコンパクトにまとまった生徒指導論が飛び出しました。まずはほめる。児童生徒をほめて向上する喜びを与えたい。次に継続した生徒指導をするべきである、とのことです。私たち教員は、叱る勇気と児童生徒のいいたいことを聞く姿勢と、人権感覚をもって指導にあたらなければならないと発言されました。最後の人権感覚とは、「痛みを知る」指導です。

 Eさんは、児童生徒一人ひとりはそれぞれの生活背景をもっている。それを知ることが大前提で、それからほめるがあり、叱るがある。叱るのも、愛情をもって叱らなければならない。だから教室開きのときなど人間関係ができていないとき、児童生徒との信頼関係ができていないときは、叱るのも難しいといわれました。Dさんは、このEさんのご意見を受けつつ、つまりは生徒理解を進めて指導しないと空回りになることを強調され、、たとえば問題行動をした場合に、なぜそれが悪いことなのか児童生徒自身に考えさせる指導を是非ともしなければならないとご意見されました。

 Cさんは、Fさんのご意見にいたく感激したようで、「ほめる。本当にそう思う」といわれつつ、児童生徒との人間関係信頼関係ができていないときに叱っても仕方がないと発言。そして、私たちは児童生徒を理解することに努めているけれども、実は児童生徒のことをよく知っているつもりでいるのではないか、と反省的な視点からご意見されました。Bさんは、だから、悪いことをした場合、ほめたいことを実践していた場合、タイミングを逃さず指導を入れることが重要であるといわれました。Dさんは、その「ほめる」という言葉に誘われてか、児童生徒を伸ばすためにほめる、授業中つまり学習指導の際にもほめる指導をする、ひとりの児童生徒をクラスの中でとりあげてほめたい、と述べられました。つまり児童生徒を認めることから生徒指導がはじまるのではないか、ということですね。生徒指導が問題行動対応に終始するのではなく、いいところを最大限に伸ばしてやることが私たちの役割であるといわれたのは力強かったです。

 Aさんは、生徒指導は個人対応の問題でもあり、集団対象の仕事でもあるといい、みんなで生活している集団、他の人がいて自分がいるという視点を養成したい、そのための生徒指導ではないか、と、とてもよいご意見をいわれました。他者と自己の関係性を捉える力の弱さが、生徒指導上の問題に発展することが多いわけで、自己を見つめ直す力を持たせることが何より大切でしょう。Eさんは、AさんとDさんの意見を受けつつ、「教師(自分)を好きになってくれないと、授業も好きになってくれない」といわれました。そうなんですよね。そうであれば、魅力ある教員になることが、生徒指導の最大の方策かもしれません。そこで、Fさんが、何のために生徒指導をするのか、と問われました。児童生徒に「あの先生に嫌われているわ」で終わらないようにするにはどうすればいいのか、と提案されました。それは素で迫ることではないか、自分の教員としての個性を児童生徒にぶつけるべきではないかと発言されました。そのためにも生徒指導に関する研究や研修があるとまとめられました。

 Fさんのご意見を受け、Cさんは、しかし児童生徒に迎合することはよいことではない、同じ人間同士ではあっても先生と児童生徒の関係である、そこをしっかりさせたいと述べられました。そして、同じ境遇であっても一人ひとり問題の受けとめ方が違うということを話されました。Fさんは、このご意見に対し、では、無条件の受容と迎合はどうちがうのだろうかといわれ、スパッと切るような感覚で、迎合でもいい、といわれました。児童生徒と地べたから這い上がる覚悟でやればいいと。そうした立ち上がる勇気を持っていれば迎合でもいいじゃないかと。Cさんは、それはもう迎合ではないと返信し、立ち直る手立てがあれば、あるいは手立てを考えようとするのであれば、それは受容じゃないかとフォロー的に述べられました。

 ここでEさんの個人的な生徒指導の感想があり、励ましの意味でいったことが逆に取られて困ったケースを紹介され、Aさんから児童生徒は日々成長していることを忘れてはならないとの発言がありました。

 そして討論の最終発言としてDさんが児童生徒の居場所として教員が存在するのがいいのではないか、と述べられ終了しました。

 討論の最中に拍手が起こるなど、とてもおもしろく、聞き手にまわっている勉強会メンバーも、ミックスアップしている様子をみて、かなり参考になったようです。ワタクシからはあまりコメントはありません。Bさんに、大学生といえど教員としての視点を養うよう努力してください、といった限りでした。こうして討論をみていますと、やはり講師の方の発言量が多いようです。今回は大学生がお2人参加でした。講師の方と互角に闘っていくために、様々なことを吸収してください。

 今回の勉強会には、現役の先生を3名も迎えることができました。貴重なコメントをいただき、厚くお礼申し上げます。

 次回、また実りある討論をしようじゃありませんか!!
(1/12)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

勉強会報告のつづきです。ひとつ目の集団討論のテーマは、「社会の期待にこたえる教師とはどのような存在か。どんな心構えが必要か議論せよ」でした。6名の方に25分間で討論していただきました。仮にA〜Fさんとし、いつものように討論の再現をしてまいりましょう。

 まずBさんが、世の中が学校になにを期待しているのであろうかと述べられ、学校とは「当たり前のことをきちんと教えてくれるところ」であると規定されました。ではその「当たり前のこと」とはなんでしょうか。Bさん曰く、それはきちんと学力を身につけることであるとされました。中学志望のBさんの立場からは、学校の役割が学力の定着と向上にあってそれが第一に考えられていることがわかります。Bさん以外の方は小学校志望であるので、このあたりに注意して以下の文章を読んでみてください。すると、学力に関してはBさん以外、あまり言及されていないのがわかります。

 Bさんに対して、Fさんは、人間味のある教師が社会に求められていると意見されました。このとき、テーマの「社会」は「保護者」を内容としているようでした。先生も親のように愛してくださいといわれたことがあるようで、それがこの意見の根っこにあるようです。そして児童生徒を親のように愛せる教員は、具体的にFさんによっていい換えられます。それは、常識を外れない教員であり、社会性を身につけた教員であり、自分に厳しい教員である。そうした教員が社会の期待に応えられる教員であると述べられました。

 Aさんは養護教諭の立場から、親のように愛するということをもっとも体現しなければならない養護教諭の自覚を持ち、一人ひとりの児童生徒を詳しく知る必要を訴えられ、Fさんに同意されました。

 一方、Eさんからは、ちょっと「大げさ」とあとで批判がありましたが、将来の日本を背負って立つ児童生徒を私たちは預かっているのだから、そうした児童生徒を育てる責任があるといわれ、モラルの面も含めた児童生徒のお手本になる教員になることが社会の期待にそうことではないかと語られました。

 Dさんは、これまでの各参加者の発言に促され、指導力と行動力を持ったいわば「人間力」を備えた教員が求められているといわれました。そのためにも児童生徒に信頼されなければならないと述べられました。Cさんも、児童生徒の手本になるべきであるといわれました。

 では、お手本になるとはどのようなことであるのか、Fさんはさらに具体化してリーダーシップについていわれ、クラスを引っ張っていく教員像を提案されました。学級運営について述べられたことが基礎になっている発言です。教員がどこまで学級を引っ張っていくのか難しいところです。いわゆる学級王国になってもいけませんし、児童生徒の自主的な学級運営にも目を配らねばなりませんから。

 ここで、話題を広げようとしてBさんが児童生徒に相対するときどのような心構えでいますかと投げかけました。Dさんがこれを受け、同じ目線に立った指導とし、Aさんは児童生徒の発した言葉を考えることといわれました。また、Aさんは、日頃の指導の背後に、社会の動きとかかわりがあるようにしていきたいとされ、新聞を読んだり情報を摂取したりすると発言されました。Eさんは、Dさん、Aさんのいわれる「目の高さを同じにする」に同意され、児童生徒の気持ちを理解できるようになりたいといわれ、さらにそうするためには児童生徒の周辺に存在する大人とのコミュニケーションを図っていくことも大切であり心構えとして必要であるとご意見されました。もちろんこの周囲に存在する大人の中には保護者も含まれますね。

 Fさんは、児童生徒と同じ立場に立つのは大切であるが、おりっぱなしではいけないといわれました。児童生徒のひとつの意見に引きずられるのは指導者として問題になることもあるという意識からこのように発言さえたのでしょう。教員は、児童生徒に対して公平に接しなければならないといわれ、広いこころを持ち、偏向しないことが求められると述べられました。その上で児童生徒をそのまま受け入れるハートを備えることが大切だと主張されました。児童生徒を受け入れるということに関連し、Aさんは、多様な行動をとる障がい児学級在籍児童の場合、たとえば暴言を吐く児童生徒なら、そうした言葉を発する背景は何であるのか考えていくことが欠かせないだろうといわれました。そして、その「受け入れ」は一方的なものではなく、教員の側の意見も上手に伝えていくこと、つまり相互理解していくことが「受け入れ」の最終地点にあるということを示唆されました。

 Dさんは、「受け入れ」に関し、たとえばいうことを聞かず、教室内を走り回る児童生徒がいたら、その場合は毅然とした対応をとることも心構えとしてわれわれはもつべきではないかといわれました。一方、Bさんは、確固とした自分なりの意見を持っておくことも、教員として必要な資質であろうといわれました。そうしたしっかりした自分を持つことは、学校世界に閉じこもってばかりであると作っていくことはできないというのがEさんの意見でした。豊かな人間性を教員が養うためには、人間的に成長するにはどうするべきか、そうしたことを自覚しておくことが教員生活に刺激を与えると述べられました。ということはFさんいわれるように、日々勉強を重ねる教員ということになります。Fさんは、あちらこちらへぶれることのないしっかりした教育観を持っている教員が社会から求められているのではないかとまとめられました。

 Eさんは、このFさんの意見に対し、変化の激しい社会にあって、多くの期待が教員に寄せられているといわれ、世の中を変えていく主役となる児童生徒を私たちはしっかり育てていかなければならないとご意見を述べられました。

 ここで25分が終了しました。

 討論の終了後、見守っている側から、多様な厳しい意見がでました。ワタクシもちょっと厳しく申し上げました。それを箇条書きで示すと、

 @テーマのいう社会とはどういうものなのか、その指すところを規定すること。
 Aそのうえで、その社会がどういうような期待を教育に要求しているのか分析すること。
 Bそうした分析に対して、教員がどう応えていくべきかをいうこと。

 です。こうした3点の中身がはっきりしていなかったので、聞いていた方が不満を持ったのだと思われます。つまり、出題されたテーマを整理し読み替える作業をしていなかったのではないでしょうか。闇雲に議論をしていた印象があったのはそうした立論の欠如にあったのではないでしょうか。

 たとえば、テーマの「社会」を「保護者」、「地域社会」、あるいは「企業」というように、想定する「社会」の中身によって、教育要求も変わってきます。このように分類して議論を構築すればうまくいくのではないでしょうか。

 また、これも後に参加者から指摘されたところですが、たしかに「社会の期待」には一定程度の「答え」があります。すなわち、大阪府の求める教師像は、あるいは他の都道府県でも、それなりに確定したものがあります。大阪府ならば、それば教採の願書に示されていますよね。そうした資料を活用すると、議論に方向性が与えられます。

 簡単にいえば、それは、@確かな指導力とすぐれた専門性、A誠実な勤務と真摯な研修、B幅広い教養と豊かな人間性、C教育者としての使命感、となるでしょうか。このうち、議論では、@とBが少しでてきましたね。

 次回は、折角ワタクシたちが読んできた多様な答申、報告をも生かすように討論をする癖をつけてまいりましょう。ただし、資料をそのままいったり、どっぷり漬かってはいけませんよ。

 さて、今回再現した議論に関する資料を次回の勉強会に持参します。これは、メールくださった方の枚数だけあらかじめコピーし用意します。メールお待ちしています。でも、14日までにくださいね。もちろんコピー代だけ、10円はいただきます(笑)。

 第2のテーマは、次の更新にいたします。
(1/11)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ