日々旁午

2004


日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

公立高校の基礎学力が低下しているらしい。このグラフ(『朝日新聞』)をみると、深刻である。ほとんど9割近くの教員が学力低下を意識している。この事態は単に教育課程をいじるとか、なんらかのコースを設置するとか、そうした教育制度改革で弥縫できる程度を超えているといわざるを得ない。指導要領の責任かどうかもにわかには断定できない。ことは、生徒のライフスタイルや保護者の教育意識に関連することではないか。かなりウソっぽかったが、80年代の「勉強せえへんかったら、碌な人間にならへんで」という意識は薄れ、「勉強せんでもなんとかなる」に変わったところに、あるいはライフスタイル変質の所以があるのかもしれない。ウソっぽかっても、そういう「碌な人間にならへんで」的呪文が存在した教育社会的雰囲気に、いやいやながらも生徒を机に向かわせる救いがあったのである。もちろんこれは他律的学習意欲の昂進であるから喜ばれたものではない。バブル期、爛熟した消費社会が多様な欲望を充足し、社会そのものが浮かれ気分に変質したのに歩調を合わせ、生徒のライフスタイルがやや問題ある方向に転回した。だが90年代後半、社会の方は経済的閉塞状況になり、「アマイ考え方ではやっていけん」となったが、そう簡単に80年代に養われた生徒の意識は変わらず、そのまま「アマイ考え方」が通用すると自覚されているのではなかろうか。保護者はジュリアナ世代であろうから、そうしたえもいえぬ循環が二順したというところであろう。これに対し、ある方面からは日教組の教育方針が悪いと、なんら正当な根拠なくあげつらっているわけで、お門違いに道徳、道徳と、こうるさい。しかし左派的発想や自由な理論家からも、学力低下を止める有効な代替解消策を提示し切れていない。理論的には、個性尊重は、個別の追求すべき価値を容認する方向にいざなうのであって、その指差す先に従来の学習価値に重きをおかない生徒の態度が生まれても、なんともしえないのである。理論家が学歴社会を打破した結果、残ったのは9割の学力低下状況というのは、なんたる皮肉であろうか。そしてまた、本来敵対するはずの文部行政と同じ乗り合いバスに乗っている理論家という構図は、なんたる皮肉であろうか(10/20)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

本日は、申し訳ないながら、こちらのサイトをリンクするだけにさせていただきます(10/19)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

物事には一長一短あるけれど、「特殊」教育の名前が消えるのは、喜ばしいことである。中教審の特別委員もようやく時期が来たと判断したのであろう。「特殊教育」から「特別支援教育」への移行の流れは、つい最近の答申でも議論されていたから、かなり予想されていたことではある。「特殊教育」というときの「特殊」は、その反対語が「一般」であるがゆえに、なにか疎外感が漂っていた。当の児童生徒もそうだが、「私たちは『特殊』なんだ、ふつうとちがうんだ」との感覚をややもすると保護者がもっていたのである。おそらく「特殊教育」は「特別支援教育」という名称に変更されるのであろう。でも、ちょっと芸がないように思える。なにか、もっといい言い換えはないものか。そう考えると難しい。ワタクシは「個性尊重教育」や「自立準備教育」でもいいと思うのだけれど、妥当範囲が広すぎるとの指摘があるだろう。なぜなら、学校教育全体で、個性尊重が望まれているし、そもそもの学校の目的は自立準備だからである。そのほか「障害支援教育」も考えられるが、この表現は「障害」とみなすこと自体に問題がある。これも却下されなくてはならない。「等生教育」なども、ある人びとから提案されるだろうけど、なかなかなじみがない言葉であるだけに採用には至らないに違いない。「自立支援教育」、「自立援助教育」など、ちょっと語呂が悪いものもあるが妥当ではないか。いやはや四面楚歌である。それから、例の「欠陥」を「補う」も、やめた方がいい。こっちの表現の変更の方が急がれる問題かもしれない。いずれにせよ学校教育法の相当部分の削除あるいは修正が望まれる。しかし、「特別支援」を含め、どのようにいいかえても、なんら実態が変わらないと意味がない。教育財政的に一番切り捨てられる部分だけに、そこをどうするか。「特別支援教育」の行方は、教育の理想を一番体現する。なぜなら、動物にはない、人間の崇高な理性が一番問われ、できあがった教育だからである。深い議論が中教審で交されることを期待する(10/18)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

エンクロージャーの動きがにわかに大きくなってきている。師範塾構想は、オープンマインドな教員開放性という理想的発想からあまり喜ばれなかった構想であった。教員養成塾修了即採用といった流れが杉並区だけでなく東京特別区全域で行なわれるようになると、そして、都道府県規模でも実施されるようになると、入塾希望者が殺到するのは理の当然である。民間で考えれば、契約社員的に1年間括り付け、正社員登用するようなものであろう。1年だから、まだ括り付け機関が短くていいかもしれない。「杉並区によると、入塾の対象者は小学校教諭一種免許を取得している人か、取得の見込みがある大学4年生。教育界だけではなく、経済や文化、スポーツ界などから幅広く公募し、約30人を受け入れる。1年間の研修期間を経て『修了者』と認定されれば、区立小学校の教員として区が採用する」(『讀賣新聞』)のであるから、この30人枠をめぐって厳しい綱引きが行われるのであろう。さらに、地元密着型の教員採用であるが、裏を返せば、地元から離れられない理由のある方々垂涎の就職先となる。特区のこうした大胆な試みが、やがて極フツーの手法になるのであろうか。30人枠が100人枠になり、100人枠が500人枠に規模拡大され、そのうち正規の採用試験合格枠は減少し、なくなってしまうのであろう。いわゆる純潔主義が東京の教育を牛耳るわけである(10/17)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

単車仲間の内ですったもんだがありまして、本日の更新は覚束ない。もっと本質的理由は、すったもんだが終わった後、家に帰ると午前様。そのまま更新作業にはいればいいのに、やおらテレビのスイッチをつける。映っているのはヒゲに眼鏡をかけたあの先生。NHKで、水谷先生の再放送を放映していた。その面白い語り口に包まれた深刻な話題に引き込まれたのである。薬物摂取の恐ろしさを生徒に伝えていた。今月29日には、立命館大学に講演されに来られるそうである。気がついたらもう午前4時。恐れながらの更新休日と相成る次第でございます(10/16)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

土曜わくわくクラブ――いい名称である。ワタクシたちの勉強会のペットネームにしたいくらいである。三重大学の学生さんたちは一生懸命がんばっている。えんぴつゲームも面白そう。こうした工夫で気持ちを伝えることがうまくなるのなら、それは素晴らしい教育的営みといえよう。ET的ご挨拶の指と指の間に、えんぴつを挟むわけである。よし、今度やってみるか。誰とするかは秘密であるが、さしあたり勉強会のメンバーにやっていただこう。こうしたコミュニケーション能力を増進できる様々なヒントゲームを引き出しにいれておくことは、教員になったとき、役に立つ。とすると、パーティゲームの簡単な紹介本を1冊暗記することは、決して馬鹿にはできないことであるといえる。現在、手品(マジックというべきか)がブームになっているけれど、手品も人と人とのコミュニケーションを潤わせる手段だろう。そういう意味では同様の効果がある。口からカードを吐き出す仕草で人々のこころがほんわかするのなら、罪なくいいもんじゃないか。外国語を操れる、なにかスポーツができる、1つ得意な楽器がある、これが揃って「もてる男」らしいが、そこに手品ができれば鬼に金棒となる。いわゆる教員に必要な資質かどうかはわからないのだが(10/15)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

なんでも人と一緒だったら安心するというものでもないだろうに。将来不安は誰でももっているものであろう。それに「負けて」集団で自殺するとは仰天である。7人もの大人が集まって、どうして思いとどまれなかったのであろうか。愛する子どもを残して、どうして死ななければならなかったのか。ネットで自殺話をもちかけたそうであるが、そうした危険をもここ数年、ネットはもたらすようになった。いわゆる出会い系の危険から青少年を守ろうとし、爆弾を製造する中高生を適確に指導し、いままた集団自殺の魔の手から大人を守らなければならない。ネットのもつ怖さや恐ろしさに敏感になりつつ、ネットのもつ有効性を見出さねばならない非常に困難な道をワタクシたちは歩まなければならない。ネットの世界に浸っているワタクシも、なにか侵されている部分があるのかもしれない。自戒せねばならない(10/14)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

内閣改造に伴い文部科学大臣が代わったことは周知のことに属するけれど、新文相中山成彬氏は、9月末に教育基本法改正に絡んで、「愛国心という言葉でいいと個人的には思う。(だが、)国を愛する心と愛国心は同じだ。そういう理解になればいいし、その方向で進んでもらいたい」(『共同通信』)といったり、10月の頭には「もっと子どもたちが切磋琢磨する風潮を高めたい」、「文科省が実施している教育課程実施状況調査(学力テスト)について『全体の中で、自分がどういう位置にあるのかを自覚しながら頑張る精神を養うよう検討していったらいい』」(『同上』)、「前回、政務次官を拝命してから13年がたつが、日本人が外国人に負けていることを痛感した。頑張らないと日本は大変なことになる。これまでの教育は競争しない方がいいという風潮があった」(『同上』)といったりしているようである。愛国心云々は、最近の右傾した論調を継承する発言といえる。政治家の思想信条であるのでその開陳を塞ぐことはできないし、塞ぐつもりもない。しかし、少子化傾向にある我が国において切磋琢磨が難しい環境にあることを近年の中教審答申は指摘しているのだから、そのあたりは勉強しておいてほしいものである。大臣が代わると撞着をおこすようでは心許ない。それから、「全体の中で、自分がどういう位置にあるのかを自覚しながら頑張る精神」というのは、相対評価を復活させようとする意見であろうか。文政のトップがこういうのであるから、なにか思惑があってのことだろう。教育界で、いま一番の関心事を、かくも事もなげにいい放つのであるから驚きを禁じ得ない。個性尊重と競争意識の交錯にマイッタしている現場の身にもなれよと釘を刺しておこう。SMAPの「オンリーワン」思想が流行した社会背景をよく分析しないと旧来教育に戻りかねない。13年前の回想をそのまま実現するようでは困るのである。ただ、この交錯した糸を解きほぐすのは、指摘するのは簡単で、実現するのは無茶苦茶難しい。ワタクシも折に触れイロイロあやとりして考えるのであるが、これというヒントすらも、そうざらに発見できない。それはそうだ、この問題はもう臨教審以来の課題なのであるから。だが、その解決方策は、国家戦略としての教育行政を充実させる立場からは容易に実現できそうである。策はこれしかない。つまり、上から児童生徒学生を「割る」のである。ただ反対の声が大きいのはいうまでもない。日本の教育はまさに岐路に立っている。水割りじゃないけれど、割るか割らないか、しかもその割合をいかほどにするか、どの道を選択するのかは国民次第である(10/13)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

いやワタクシなども親とはよくケンカもし、なんとか一人で生きていけないかと念じたものである。ボランティアなんて「偽善」だと考えていたのが当時の風潮だったかもしれない。高校生になってからも、500円札や100円玉を数枚握り締めて、いまでいう「プチ家出」を繰り返し、大学になってからは家に拠りつかないというといい過ぎだけれども、親の顔はあまりみたくなかったので友人の下宿を渡り歩いたりなどもした。親とうまくやっていこうなんて気持ちはさらさらなかった。それが青春であり、自立への道程だったのだろう。いま、若者たちはそうではないらしい。学者たちは反抗期の欠如したその状態に警鐘を鳴らしている。たしかにそうだ、パラサイトシングルは親との関係がうまくいっているからこそ可能な生活形態だろう。初婚年齢の上昇は、経済的理由もあるけれども、反抗期を経験しないまま思春期を送った若者に顕著なのかもしれない。反抗期の欠如に発し、結婚するとか、家庭をもちたいとか、そうした意識が薄れていく事態は多様な社会問題を生ぜしめる。そこには責任を負いたくない若者気質がよく表現されている。すなわち、反抗期の欠如⇒パラサイトシングル⇒未婚期の長期化、あるいは反抗期の欠如⇒フリーター⇒社会的「責任感」の欠如、なのかもしれない。フリーターにも課税する挙に政府もでるようである。ところで不器用な20代を送ったワタクシであるがゆえに、「親との会話は『父親とよく話す』が26・7%、『母親とよく話す』が54・9%。『親は自分を理解している』と答えたのは70・6%で、『親とうまくいっている』は父親とが77・7%、母親とは87・4%を占めた。『今と同じ家庭に生まれ変わりたい』(46・6%)が『生まれ変わりたくない』(21%)を大きく上回り、親を肯定的にとらえ」(『産経新聞』)ているのは、言葉が悪いけれども、気持ちが悪い。また、親は自分を理解しているなんてのは思い上がりではないのか。父親とうまくいっているがスリーセブンだなんて信じられない。なにも闇雲に反抗せよとはいわないが、どうも丸くなりすぎている感がある。一方で悲惨な虐待が頻発している現代社会であるのに、大勢はこのような砂糖菓子のような結果なのか。家庭からの脱出を願い、冒険せよ。「少年よ、大志を抱け」と札幌の外国人先生はいったではないか。若者が自分にユルイ環境におかれ、それが当たり前と感じてしまい、はじめて会社に就職し、その厳しさに打ちのめされてしまうことにもなる。自信喪失の大学生がどれだけ多いことか。また、1回や2回教採に落ち、茫然自失になる若者もいる。このように書くと叱られそうだけれど、苦労人は多いのである。家庭環境におけるアマイ快適さと学校教育における厳しさとがミスマッチするとすれば、先生は悲惨である。だから、学校現場は児童生徒学生に迎合することにもなりかねない。そして迎合したツケは、就職先の企業が払うわけである。学校の目指すところは「人格の完成」で、企業の目指すところは「利潤追求」である。その海溝を跳躍できるかどうかが反抗期なき中高生の「自分探しの旅」のテーマとなろう(10/12)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

まだまだ未完成なのですが、2、3日前にこのコーナーで述べた「歴史論考」の論文を執筆中です。時間をみつけては資料を読んだり、文章を練ったりしているので、どうも旁午をお留守にしがちです。お許しください。読めば読むほど次の本が読みたくなる、そんな感じの泥沼です。Tsudoiに参加していただいた方や試験情報を提供していただいた方へも返信メールをご無礼している状態です。まとまった時間を作ることが先決かもしれませんが、みなさんも実感されているように、あとからあとから課題がでてきて困ります。滾々と湧き出る知恵の泉は歓迎ですが、問題の湧出にはお風呂の栓を転用し塞ぎとめるほかありませんね(10/11)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ