日々旁午

2007



10月27日に開催した第143回勉強会における集団討論の模様を再現します。今回のテーマは、「教師の職業の楽しさとむずかしさとは何でしょうか。フランクに話し合ってください」というものでした。これは、今年、大阪府のある教科で出された試験問題です。簡単なようで、議論の噛み合わせ方に苦労するテーマといえるでしょう。どのように議論されていったのでしょうか。
 まず、Aさんがテーマを読み上げ、テーマの2つの質問に解答を与える発言をされました。楽しいのは児童生徒と触れ合う時間、児童生徒の意外な一面をみたときなどが楽しいようです。むつかしいのは、何気ない一言を発して、それが児童生徒を傷付けてしまうときと述べられました。いずれにせよ、生徒指導関係の場面における楽しさとむつかしさです。Fさんは、Aさんのいわれた「何気ない一言」に関連し、保護者から電話があったということを実体験として語られ、反省する発言をされました。Bさんは、まず、楽しさとむつかしさは表裏一体であると喝破され、生徒指導の諸問題においては何年か後に、大変だった関係性も昇華し、児童生徒の理解を得られるものであるとお考えです。
 Dさんは、高校数学をめざす立場から、数学の授業をいかにして理解させるかというところに、むつかしさがあると語られ、授業準備に工夫を凝らしても、どうしてもわかってくれないときにどうすればいいか、悩んでいると吐露されました。
 Cさんは、Aさんの議論を引き継ぎ、「何気ない一言が元気づけることもある」といわれ、Eさんも何気ない一言が児童生徒とのなんらかの約束だったときは問題が複雑になると述べられました。Eさんはこれに付け加えて、児童生徒の成長をみつめることができるのが、教師の職業における楽しみであると感じておられます。Eさんのこのご意見にAさんが同意する旨の発言をはさみ、次にBさんから話題を転換する発言がありました。
 Bさんは、教師は、すべてのことに万能でなければならないと述べられ、教師には、身体全体で指導を貫徹することが期待されるとまとめられました。すなわち、「親父の背中を見て育つ」の教員版です。そしてそれが楽しさというわけです。
 次にFさんは、授業の得意、不得意が児童生徒一人ひとりあることから、個性の発見、児童生徒の意外さ発見ということを語られました。一輪車は得意だがボール遊びが苦手であったり、その逆であったり、ということです。
 Cさんは、いわゆるモンスターペアレントについて言及し、保護者対応のむつかしさを挙げられ、かつ、それが連携によって解消されたとき、喜び=楽しさに変わるのではないかと提言されました。これに関連し、現在学校ボランティアに従事しているEさんは、ある児童とうまくいっていないとき、その保護者の方と連携することによって、指導がうまくいったケースを話されました。
 このとき大切なのは、Dさんがいわれるように言葉です。人と人とのつながりにおいて、どんなふうな言葉使いをするか、ひいてはどのような生活態度かということが、関係構築の決定を促進することもあります。ただ教員も聖人君子ではないので、むつかしいところだということです。
 Aさんは、生徒対応は十人十色、すごくむつかしいものであるとし、現実に鍵っ子もいれば経済的に裕福な児童生徒もいるので、教師は多様な応答方策を用意しておかなければならないといわれます。ここにむつかしさを感じておられます。それは、3者のホウレンソウががっちりするとうまくいくというのがBさんの見解でした。保護者との連携は先にも議論されましたが、手品のうまい人、家庭菜園の上手な人、そのほか多様な保護者の得意を知り、活用できるとさらにいいとFさんは付け加えられました。そうした意味では、アンテナを張るのはむつかしいというわけですね。この点、Aさんは、保護者相談会を開催した後、児童生徒がイキイキとしだしたことをつたえてくださいました。
 これまでの議論を聞いて、Cさんは、実感込めて「表裏一体」は本当だ、むつかしさを楽しさに転換し乗り越えていけるよう努力したいと抱負を語られました。
 Dさんは、授業の問題に立ち返り、授業準備において遊び心も必要であるとし、学ぶことの楽しさを授業で伝えることが大切であり、それがまた教師の職業としてのむつかしさになっていると述べられます。そこには、授業実践の工夫とその工夫にのめり込むご自分を想定されているからです。Eさんも、授業におけるユーモアは是非とも必要で、教師にゆとりがあってはじめて楽しさを感じられるのではないかと提起されました。Bさんは、人を磨くのは人との立場から、自尊感情を児童生徒の内面に培うことが教師の使命であって、そこにむつかしさがあるといわれ、わたしたちは磨き役としての能力を身に付けなくてはならないと提言されました。ゆとりということでは、Cさんが休日と出勤とメリハリある生活を送ることも教師にはむつかしいかもしれないと付け加えられました。
 Aさんは、授業でむつかしさを乗り越え楽しむということについて、ギター指導がうまくいって演奏会が成功したとき、本当に楽しさを実感できたと現場感覚を伝えられ、Cさんもこれに同意し、Dさんが、これをまとめて、授業であれ特別活動であれ、楽しみを児童生徒と共有でき、分かちあえたとき、それが教師の職業的喜びになると述べられました。Fさんは大縄とびの具体的実践をこうした発言に重ねられ、具体的イメージを与えてくださいました。
 最後に、Aさんから、児童生徒がいやなことをさせられたとき、わたしたちはどうすべきかとの問いを提出されたのですが、ここで時間がまいりまして終了です。
 今回の討論は、最初に「噛み合わせ」といったように、楽しさとむつかしさのあらわれる場がどこにあるのか、それを一つひとつ俎上にのせて議論していくべきではなかったかと思います。ここでは、生徒指導関係と授業実践において「楽しさとむつかしさ」が交互に議論されていたので、このあたりを整理しつつ発言がつながるとすれば、もっとよかったのではないでしょうか。どうやらそれは、討論参加者の校種・教科によって意識のされ方が違うことから発生するものでした。教師の職業としての楽しさとむつかしさは、生徒指導と授業実践が両輪的になされ、片方からもう一方に精神的な橋渡しをどうするかというところにありそうです。いいかえれば、学習指導と生徒指導の融合こそが、教師の一番困難な仕事ではないでしょうか。
 ところで、今回の勉強会には、今年合格されたYさんも参加されていました。Yさんからは、採用試験に関する貴重な資料をいただきました。どうもありがとう、Yさん。
(10/31)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

合格報告返信と勉強会受付作業に頭痛がスパイスされ、変更できない週末でした。すんません。そんななか、当サイト主宰勉強会メンバーが、どういう風に勉強し合格を勝ち取ったのか、また、勉強会の特徴というか、雰囲気というか、そうしたことを綴ってくださったので、いただいたものを順次アップしている。是非、読んでいただきたい。
 週末の土曜日は、第143回勉強会を開催しました。昨年合格されたN先生が来てくださいました。誠にありがとうございました。レジュメまで用意いただき恐縮です。来期をめざす方に、一般教養の攻略法、特に数学について具体的な参考書を挙げていただきました。さっそく購入された方もいらっしゃるようですね。
 N先生の報告は、それだけでなく、非常にユーモラスに2次面接についてお話いただきました。昨年の今頃を思い出します。なんといっても、N先生ならぬ「Nさん」のときに、いったい何回くらいエントリーシートを添削しなおしたことか…あっはっは。でも、ほんと、よくがんばられ、立派に合格され、こうして勉強会の後輩たちのために忙しい時間を割いてくださって、本当にありがとうございます。
 つづいて、「議論のたたき台としての教育学講義」をいたしました。一方的にこちらから講義をするのではなく、話をしては質問し、質問の中からトピックを見出し、それについてどんなふうに多様な立場の参加者が捉えていらっしゃるのかを突きつけあうスタイルで進行しています。今回は、評価の問題をとっかかりに、学歴社会について、深めていきました。
 次に、過去問の解答解説です。今回は、心理学の諸問題でした。ピグマリオン効果が登場した、大阪府の問題です。ただ、これだけでは面白くないので、練習問題といいますか、心理学の問題であればおおよそ登場する概念についての簡単な問題を添付しました。これと、『スコープ』とをあわせて、1次試験対策としてください。
 ワタクシは、矛盾したことをいうのですけど、大阪府、市などを受験する場合、教職教養はあんまりしなくてもいいと思っています。教職教養に深く入り込みすぎて、一般教養をなおざり学習にしてしまうと絶対だめだと思っています。ちょっといい過ぎの感がありますが、少しいい直せば、「討論、面接などの土台となる教職教養」を勉強するべきなのです。
 さて、最後に集団討論です。今回、勉強会前にテーマを発表するのを忘れていました。申し訳なかったです。今回のテーマは、「教師の楽しさとむつかしさについて議論してください」という今年、大阪府で出題されたものから選択しました。その再現は、次回の更新時にいたします。が、ちょっと時間ください。どうも、「頭が頭痛」しております。トホホ。風邪がはやっているようです。みなさまもお気をつけて。
 まあ、たるんでいる、とお叱り受けそうです。ごめんなさいね。
(10/29)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

大阪府の発表があって、みなさんから多数報告をいただいた。ありがとう。一つひとつに返事を差し上げた。いい報告もあったし、残念な報告もあった。
 毎年、この時期は、うれしさと悲しさが交差する。なんともいえない気持ちである。
 そのあたりのことは、「なると」や「同じ星」、「合格した君へ」、にまとめてあるので、読んでほしい。上に「合格した参加者の声」を更新したので、来年を目指す方、参考にされたい。
 本日、勉強会開催します。ご参加のみなさま、よろしくお願いします。あすも現職の先生をお招きいたします。いろいろお尋ねくださいね。
(10/27)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

いままで黙認していたことが、あからさまに責められている。
 食品偽装、建築偽装、厚生労働省偽装ほか、偽装列島ニッポンである。おそらく、いまごろビクビクしている業者あるいは部局があるにちがいない。ミートホープの社長は、逮捕までされている。売れ残り肉の最終的な引き取り先がミート社だったわけで、「最後のゴミ捨て場」と北海道の食肉関連業者は噂していた。そこに売り込んだ業者は、産廃処理に廃棄物を渡すような感覚で、渡したと思われる。しかも、それを再利用するのも、ある程度わかっていたのではないか。
 赤福といえば、近鉄沿線住民にはおなじみの伊勢土産である。これまた「むきあん」なんていう隠語があるほど偽装されていた。歴史と伝統は失われ、伝統を守ることは偽装することであると学校で教える教材として使える。ピンクの包みにおいしいアンコ。うちの母親も大好きな和菓子が、再生されたものであったとは、あいた口が塞がらない。
 地鶏の比内、宮崎も、真っ赤な嘘で売り出していた。比内の社長は、テレビで「自殺しようと彷徨っていた」と方言交じりに語っていたが、どうもこれも国民的同情を買うようなマネといわざるをえない。なかなか面と向かって悪口などいえるわけがないので、地場の声が挙がらなかったのも、ある程度はわかる。でも、「なんかおかしいな、偽装してるのちゃうか」と薄々気が付いていたのなら、地場も役所に告げればよかったのかもしれない。しかし、それも、効果はない。役所はそんな告知があったとしても、めんどくさがって調べようとはしないからである。
 薬害関係資料隠蔽と年金二重受給の失態に、顔色をなくす舛添氏である。これらは内心、舛添氏も「なにやってんだ!」の気持ちではあろう。官僚支配下の膿を搾り出す荒業は、舛添氏でも無理だろうと推測する。しょせん、政権与党議員、触れないままに終了するだろう。
 まじめ、とは、日本人の代名詞であった。勤勉、も、そうであった。しかし、それは、売り上げ至上主義と責任回避主義によって、嘘であることがきらかにされた。馬脚があらわれたというべきである。
 そうだとすれば、「日本人の勤勉」も、「まじめ」も、時代が作り出した偽装キャッチというほかない。
(10/25)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

(承前)Fさんの切り口に対して、どういう方針によって教育に望んでいるのかを家庭に示すのもよいとし、学校自身の理念を広く語る手法を採用するべきであると考えているのが、Dさんでした。これは、情報公開を別の表現で具体的に述べたご意見であるといえます。さらにEさんは、学校主体ではなく、担任としてクラス目標を家庭に明示し、地域には学校便りで配布するのがいいといわれます。すなわち、「こうした児童生徒を育てているのだ」との方針提示です。
 Aさんは、逆の形での学校開放が3者連携を推し進めるとお考えで、特別活動において講師を招聘すること、企業訪問し、協力を仰ぐことを提案されました。Cさんも同意見でした。これに付け加えてCさんは、そうした活動をこそ、情報公開するべきであると述べられました。 Bさんは、上のような行事を展開するとして、同時にアンケートも実施するのが有効であるとされました。
Bさんはこうした意見だけでなく、話題を広げ、安全パトロールを軸に3者の連携を強めることを提案されました。安全パトロールの限界が「加古川事件」で露呈しましたが、それでも、なにかある行動によって3者の結節点を求めようとする提案は評価されるところです。
 Dさんは、Aさんのご意見を受け、人材協力の視点から、地域の教育資源について語られ、高齢者の持つ歴史的な知識の学校における活用に着眼されます。行事参加はこうした「講師招聘」の形だけでなく、Fさんがいわれるように、逆に教員が地域に参加するという形ででも実践されます。ところが教員と地域との接点が少ないのが現実であるとFさんは指摘され、例の「お祭り参加」、地域運動会への参加を述べられてわけです。これって、本当によくいわれることではあるのですが、現実に地域のお祭りに参加している先生って何割くらいいらっしゃるのでしょうか。そんな統計などありはしませんが、○○町レベル開催のお祭りに、どれほど参加者がいるものなのでしょう。また、こうしたお祭り参加が、「仕事」になるという「憂き目」に遭うわけですね。うーん、気が抜けない。
 Aさんは、ここで新たな視点として、部活の対外試合に触れられます。ラグビーなど多人数を要する種目においては他校との協力も必要ですね。また、小中の校種連携も必要な場合もありますね。Eさんは、文化祭の在り方から3者連携について考えられています。その開催において、一日は保護者を対象に、もう一日は地域対象にという開催形態を提示され、曜日に関しても弾力的に実施すると述べられます。保護者と地域の住民とを区分けし招待する意図を説明されなかったので、なぜそうするべきなのかわかりませんでした。ここのところを補強してください。3者連携は学校から2本の手を伸ばすだけでなく、家庭と地域との連携もあるわけですから。
 Bさんは、これまで登場した特別活動行事のPR活動を児童生徒とともに手作りでしていくのはどうだろうかと発言されました。チラシ作成と配布を児童生徒も担当し、児童生徒が地域に入っていくというものです。新しいタッチのご意見として、傍聴者の「受け」もいい発言でした。DさんはAさんの問題意識を受け継ぎ、グッドスタートに絡んで、小学校と幼・保との連携が、保護者と教員との密度を高めるといわれます。Cさんは、障がいのある児童生徒の職業体験に触れられ、障がいについての理解を深める方向で連携できないか、ご意見されました。そして、こうした多様な発言をまとめ、Aさんは、これらの活動を学校内で生かしていく方策はないかと述べられつつ、それぞれの活動が単発ではなく継続することが活動の意味そのものを深めるし、3者連携の協力密度も濃くなると一段落つけるご意見を述べられました。
 ここまでの発言でも理解されるように、3者連携に関する実践方針が総花的に発表されている感じですね。このあたりが、「目の肥えた」傍聴者にあっては不満なようです。それでもまあ、多々出てきたわけで、知識の豊富さは感心させられます。この豊富さに質的な緻密さを掛け合わせると、もっともっとよくなるわけです。
 つづいてFさんは、職業体験について触れられ、それが進路とも関係し、地域ともつながるだけでなく、福祉ともかかわり、ひいては3者連携によるキャリア教育の展開になると指摘されました。Bさんは、家庭においても職業・仕事に関する話題があればいいと発言し、児童生徒が親の仕事内容を知ること、そして実際に親の職場を訪ねることも、大切なキャリア教育になると述べられました。
 Eさんは、3者連携の主体の問題に視点を移し、学校評議員について話題にされ、3者一体の開かれた「社会性」ということを提案されました。Aさんは、地域の伝統を教室で学ぶことも、実践の前提として求められる学習であると指摘されます。Fさんは、生徒指導も3者連携で深まるとし、いじめや不登校も学校だけでは解決しがたい現状、3者協力体制が必要と述べられました。このほか、NPOとの連携、教育産業との連携も、この問題解決には欠かせないものとなってきています。
 上述のご意見は、「付け加えて」的、羅列的意見開陳なのですが、文字にしますと、これはこれで「多様な角度から3者連携を考えているな」と思わせます。Dさんの、「子どもの顔が地域住民にわかること」も、そうでしょう。ここに制服の話題も込められそうです。Dさんは、このほか、講師招聘後の手紙のやりとりについても語られました。Eさんは、ボランティア活動も連携につながる、Cさんの、保護者もボランティア活動に参加されたいとの希望を述べられ、20分間が終了しました。
 最初にも、途中でも、百花繚乱といいますか、一般論的な3者連携の定番スタイルは出尽くしたかんじですね。まあ、もっといえば3者連携で読書活動を進める、もあります。ということは、あらゆる教育活動になんでも冠詞のように3者連携をつければいいということなのでしょうか。教育評価も3者連携、道徳教育も3者連携… こうなれば、魔法の掛け声になってしまいます。
 果たして、これでいいのかどうか。次回の勉強会で、あるいは珈琲会の場で、どうするべきか回答を用意しておいてください。ご閲覧のみなさまも、上記を参考に「豊富な知識」を増やすとともに、総花的な状況を打破する方策について、ひとしきり考えてみてくださいね。
(10/24)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

なにかよくわからない鳥の嘴とウサギのからだを合成したキャラクターが、一時、流行ったものである。軽妙な音楽が学習意欲を湧かせたのか、教室運営も拡大の一途を辿った。
 しかし、それがいま、瀬戸際を迎えている。誰しも知る英会話業界の雄・NOVAである。大阪発の企業であるだけに、がんばってほしいところであったが、猿橋社長は雲隠れしているような感じで、社員も講師も愛想をつかすばかりか、ゼネラルユニオンを結成し、遅配された給料だけでも要求するかのような気配である。
 『産経新聞』(2007年10月22日付)がまとめた「今、NOVAで何が起きているのか?」は、情報が外部に伝わらない中において、学校経営の在り方をめぐっての貴重な報告であるといえる。
 以前に何度も書いたことであるが、学校を作るのは、簡単であり、難しい。元手が要らないというのは、もっとも簡単に学校を作ることができる理由である。ヒト・ハコがあれば、体裁は整う。ここにNOVAウサギがあるわけで、宣伝は万全。あとは、授業料をつりあげて、自転車操業。腐っても英語のレッスンがネイティヴから受けられるのであるから、生徒にとっては魅力的であろう。開けば、申し込まれ、申し込まれれば、外国人を雇う。なんとも簡単である。
 同紙によれば、「毎年数十〜百校ものペースで規模を拡大し、英会話業界の50%超のシェアを占めるまでに急成長」なのであって、そりゃこれだけ広がれば製造業とは違うけれども「規模の利益」がある程度でるのであろう。だが、社員の憂いもトップに届かず、「社内で講師やスタッフが不足するとの意見が出ても、猿橋社長は『そんなものは後からついてくる』と一蹴したという」(『同上』)のであるから、経営判断が健全成長方向を向かせなかったといえる。学校経営は夢が広がるし、猿橋氏の脳裏には、きわめて多くの駅前教室が人であふれかえる理想図があったのであろう。
 翻って、ふつうの学校がなぜ増えないのか。それは、「学校を作るのは、簡単であり、難しい」の「難しい」の方である。学校教育法は、学校の設置主体を国・地方公共団体・学校法人に限定している。すなわち、同法第2条、「学校は、国(国立大学法人法 (平成15年法律第112号)第2条第1項 に規定する国立大学法人及び独立行政法人国立高等専門学校機構を含む。以下同じ。)、地方公共団体(地方独立行政法人法 (平成15年法律第118号)第68条第1項 に規定する公立大学法人を含む。次項において同じ。)及び私立学校法第3条 に規定する学校法人(以下学校法人と称する。)のみが、これを設置することができる」であって、「のみ」なのである。
 NOVAなどは、学校法人ではない。なぜか。教室は賃貸だし、講師もほぼ全員が非正規雇用である。もともと不安定な砂上に教室運営を展開しているわけである。経営資金をすべて授業料で賄っているのだから、生徒が集まらなければ沈むほかない。こうしたケースは、家庭教師のトライでも、構造的には同様であった。現在、問題を抱えているLECの大学も、急拡大路線ではないが、開講問題に関連して行政指導が入っていた。社員を生徒にカウントして運営していたのであったから、悲惨といえば悲惨であり、笑い話といえば、そうともいえる。半分くらいの「学生」がLECの社員というのは滑稽というほかなかった事態である。
 もし、教室が賃貸でなく、企業所有物であったとしたら、これだけの教室規模拡大が可能であっただろうか。せいぜい、主要ターミナル駅の100に1つ位の割合でしか、開設は困難であっただろう。報道で1000教室といっているが、全都道府県47≒50×20=1000なのであって、その規模のすごさがわかる。
 学校法人は、つまり私学である。数ある私学において、教室運営を全国的に展開しているところなどない。兄弟校で経営していたとしても、3校くらいではなかろうか。また、小中高大で、姉妹校も合わせたって6校ではないか。それはそうであろう。広い運動場も学校法人の所有物だし、図書館も、保健室も必置だし、健康診断も義務付けられている。同法第12条、「学校においては、別に法律で定めるところにより、学生、生徒、児童及び幼児並びに職員の健康の保持増進を図るため、健康診断を行い、その他その保健に必要な措置を講じなければならない」は、教採を受けるほどの閲覧者のみなさんなら、全員知っている。NOVAに保健室があるだろうか。
 つまり、学校教育法施行規則第1条の「学校には、その学校の目的を実現するために必要な校地、校舎、校具、運動場、図書館又は図書室、保健室その他の設備を設けなければならない」のであって、NOVA的に運営できるはずもない。さらには、同施行規則第5条をみよ、「学校の校地校舎等に関する権利を取得し、若しくは処分し、又は用途の変更、改築等によりこれらの現状に重要な変更を加えることについての届出は、届出書に、その事由及び時期を記載した書類並びに当該校地校舎等の図面を添えてしなければならない」というくらい厳しい定めがある。簡単に駅前であるから教室を作っていいというわけにはいかないのである。
 学校は、児童生徒に責任を持たなければならないのであって、たとえば中高一貫教育校を設立すれば、最初の卒業生が出るのは6年後である。6年間存続できる体制を求めるとすれば、そりゃ、こうした施行規則のように厳しくしなければ、児童生徒もその保護者も安心できない。神戸の滝川高校がいじめ事件で揺れ、瀬戸際に追い詰められているけれども、これも保護者の方で全容解明を求め、それに答えられない現実が同校を絶壁に追い詰めているわけであり、これを解消しないと、本当につぶれてしまう。学校法人であるから私学、すなわち授業料で経営しているからである。もちろん、憲法に現在抵触する可能性があるものの、私学助成はあるだろう。しかし、これも、今後の滝川高校によるガラス張りの情報公開が成立しなければ、「打ち切り」あるいは「返上」も予想される。少し前の早稲田実業と同じ道をいくことになりかねない。
 さてNOVAのことに戻るが、先の最高裁判決は、妥当なものである。この他の事案における判決についても大変真摯かつ市民感覚的な「反対意見」をつける裁判官藤田宙靖大先生が、この判決に携わっている。ワタクシは藤田大先生を、僭越ながら、大変高く評価させていただいている。
 さて、その判決文では、「本件料金規定においては、登録ポイント数に応じて、一つのポイント単価が定められており、受講者が提供を受ける各個別役務の対価額は、その受講者が契約締結の際に登録した登録ポイント数に応じたポイント単価、すなわち、契約時単価をもって一律に定められている。本件契約においても、受講料は、本件料金規定に従い、契約時単価は一律に1200円と定められており、被上告人(つまり、原告−浩の註)が各ポイントを使用することにより提供を受ける各個別役務について、異なった対価額が定められているわけではない。そうすると、本件使用済ポイントの対価額も、契約時単価によって算定されると解するのが自然というべきである」と波線付で指摘され、消費者の正常な感性に沿う判断を裁判官全員一致で示した。
 さらに、「上告人(つまり、NOVAのこと−浩の註)は、本件使用済ポイントの対価額について、本件清算規定に従って算定すべきであると主張する。しかし、本件清算規定に従って算定される使用済ポイントの対価額は、契約時単価によって算定される使用済ポイントの対価額よりも常に高額となる。本件料金規定は、契約締結時において,将来提供される各役務について一律の対価額を定めているのであるから、それとは別に、解除があった場合にのみ適用される高額の対価額を定める本件清算規定は、実質的には、損害賠償額の予定又は違約金の定めとして機能するもので、上記各規定の趣旨に反して受講者による自由な解除権の行使を制約するものといわざるを得ない」として、返還するべき金額設定に恣意的判断を差し挟もうとするNOVAの姿勢を糾弾している。
 結論理由としての、「本件清算規定は、役務提供事業者が役務受領者に対して法49条2項1号に定める法定限度額を超える額の金銭の支払を求めるものとして無効というべきであり、本件解除の際の提供済役務対価相当額は、契約時単価によって算定された本件使用済ポイントの対価額と認めるのが相当である」は、無味乾燥な筆体の中に、原告の感情を深く掬いとった美文と評価しなければならないといえよう。
 この判決は激震をNOVAに引き起こし、上に引用した『産経新聞』が指摘するように生徒離れを促進したのは間違いない。それだけでなく、同業他社の経営方針にも警告を送ったものであるといえる。消費者生徒は、当たり前のことが認定されたと実感し、「当然やん!」ではある。だが、この激震が契約に辛い外国人非正規雇用労働者に与えた影響は甚大である。
 身売りか、自己再生か。それが猿橋氏の心境だろう。ハムレットである。
 あ、討論再現は、ジ、次、次回〜
(10/23)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

「学校、家庭、地域社会の連携についてどのように考えるべきか、具体的に議論してください」が、今回の集団討論のテーマでした。これに6名の方が20分間かけて議論してくださいました。今回は、最初に問題点をあげておきましょう。
 いわゆる「だまされる討論」というのがあります。目の肥えた面接官であるなら、一発で見抜かれるような討論です。これは、どういうものか、テーマに照らしていいますと、3者連携に関する答申用語とその一般的活動の具体例は報告される一方で、自己の経験と実践可能性の高い連携活動の提示とその実現意欲の表出があまりなく、新鮮さに欠ける議論です。おそらく、傍聴していた参加者、なかでも、討論というものに慣れていない方にあっては、「いい感じ〜」との評価が下されるでしょう。しかし、目が肥えてくると、それが「なんだ、普通ジャンか」となるのです。今回は、そうした討論でした。
 また、「地域社会」とは、具体的にどこを指すのかといった、定義がなかったとのご意見もありました。これは難しい批判で、スクールゾーンというのがひとつの解答になるでしょうけれども、小学校と高校では違ってきますしね。「わがまち、わがむら」から、「わが県」と地域認識が成長発達に応じて拡大してきますから、それによって児童生徒の方でも「地域」意識に変化がある。教員が、まちのお祭りに参加するといっても、それが児童生徒の地域認識と符合するものかどうか。これは、あとで登場するご意見であり、受験生一般によくいわれる意見ですけど、本当にお祭りに参加することが地域に溶け込むことなのか。これを一般論的に語らず、具体的に生活レベルまで落として、たとえば「岸和田だんじり」といったように特殊具体的名称を挙げ細かな参加態度を発言すると、印象もかなり違ってくると思います。討論の報告ページには、これに関する他の再現がありますので、探してみてください。そこでは、伝統的民家とニュータウン住民とが同一区域の学校に通うケースの問題点などもまとめています。
 さらに、討論でよく出るいい回しとして、「前の人のご意見に付け加えて」という表現にも注文がつきました。今回の20分間では、この「付け加えて」が何度もあらわれたので、「耳障り」に感じた方も傍聴者にはいらっしゃいました。このあたりは、集団としての印象にかかわるものであり、工夫の余地がありますね。
 これは、よくも悪くも勉強しているからできた討論ではあるのですが、質的によりよい討論をめざす立場から、注文を付けるわけです。しかし、以下で再現する討論が、受験生全体の平均的レベル以上のものではあるでしょう。また、討論実践者の中には、「これであかんといわれたら、どうしたらええねん」との感想をお持ちの方もいらっしゃると思われます。もう一枚、殻を破ってくださいね。
 最初に発言されたのは、Fさんでした。討論の第1発言がでるまで空白があるケースがあります。これは是非回避したい。討論参加者は2つのタイプにわかれます。「ひっぱっていく人」と「のっかっていく人」です。評価は全体の中での位置と発言の内容になりますから、どちらのタイプであろうとかまわないわけですけど、討論初心者が数名いると、「しーん」とした時間が数分過ぎ去ることも考えられます。これを打ち破る役割を、勉強会参加者には身に付けていただきたい。それは具体的にFさんが示してくださいましたので、参考にしてくださいね。ただ、討論では、第1発言者であっても、リーダーシップをとるんだといった意気込んだ姿勢をあえて示すことは不必要です。問題は、リラックスとスムーズと、これをその場に与える努力を少しだけすればいいわけです。
 定番的な第1発言者の在り方というのはないですけど、Fさんのように、テーマを確認し、方向性を示すのが一般的でしょう。討論の間口を広げ、参加者がどのような立場(大学4年生の方もいるでしょうし、講師歴○年という方もいるでしょうから)であっても何かいえるような切り出し方がベストです。こうすれば、「のっかっていきやすい」わけです。第1発言で極端に討論の土俵を狭めてしまいますと、議論がつづきません。いわば、鍋のようなもので、これを入れたらあかん、あれが先といったように限定してしまうとイロイロな意見を出すことができず、場合によっては討論参加者の発言意識を閉ざしてしまうことになります。ですので、第1発言で自分自身の経験談などを語ってしまうと「へー、そうなん」になってしまい、2の矢を他の参加者が討てなくなってしまいます。このサイトを閲覧している方の中にも、本番でこうした意味で苦しまれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。一言もってこれを覆えば、「独りよがりを避けよ」ということです。できるようで、できない… 誰しも面接官に対して、自分自身をいいように印象付けたいからです。
 Fさんは、テーマを確認された後、学校、家庭、地域社会といっても、教員である私たちがこの3者の連携を考える場合にはどうしても学校サイドに立たざるを得ず、そうであれば協力要請のためにするべきことは、学校の情報公開と寄せられた要望を真摯に聞く姿勢であろうと述べられました。学校に対する地域の意識調査もするべきであるし、どういう教育を求めているのかを知ることが、協力をスムースにしていくとまとめられました。
 では、これにつづいてどのようなご意見が重ねられていくのでしょうか。申し訳ない、明日にします。みなさん、参加者になったつもりで考えておいてください。
(10/22)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

昨日は、当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただき、ありがとうございました。
 今回も、お忙しい中、現職の先生にご参加いただき、資料配布もしてくださいつつ、どのように教採試験を乗り越え、合格にいたったのか、お話いただきました。2年間近く当勉強会に通われ、高校教諭となられたA先生、本日は久しぶりに会えてよかったです。立派になられて…。ワタクシとしましては、「Aさん」が「A先生」になられたことを誇りに感じております。大学生の頃から指導してきましたからね。勉強会報告ページに掲載している明治村・モンキーパークにいったTSUDOIも、いまではよい思い出ですね。
 A先生の報告の後、いつものように「議論の叩き台としての教育学講義」をいたしました。今回は、かなり盛り上がりました。講義の最中に「なぜ、勉強せなあかんの」のよくある児童生徒からの質問にどのように答えるか、これで相当議論が続きました。それぞれの立場から、どんなふうにこれに解答するかでして、「勉強することは楽しいこと」と「勉強することは大事なこと」と、この2つの違いに焦点があたりつつ、興味深くワタクシも参加させていただきました。さらに、「勉強は人と人とをつなぐもの」とのご意見も登場し、ワタクシも常々こう考えていたものでしたから(だからこそ、この勉強会も開催しております)、強く共感しました。また、義務教育段階と高校段階とでは、この質問に対する解答も違いますし、その点、多様な校種を希望する方が揃っている当勉強会参加者の間で、ニュアンスの違いや考え方の違いが鮮明になって、それはそれで議論のしがいがありました。
 次に、過去問検討の時間です。今回は、新しい教育基本法の穴埋め問題の解答解説です。解説部分にも穴埋めでキーワードを再確認しつつ進めてまいりました。ここでは第2条第1項のポイントを押さえておくことがなによりも大切です。ご自宅で、この第2章第1項と学習指導要領総則第1をみくらべてみてくださいね。
 最後に集団討論です。この再現は、次回更新時にいたします。気分的には、こんな感じでした。

ああ、青春のグウェン・ガスリー!
(10/21)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ