日々旁午

2004


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 夏休みが一週間短縮されるらしい。葛飾区の中学生は叛乱を起こさなければならないかもしれない。8月の25日から2学期がはじまるとは、トホホである。夏の名残を惜しみ、セミ採る網をエンピツにもち替えて宿題をやりはじめる25日が始業式だなんて、土曜が休みでなかったワタクシにあっては信じられないものである。
 今回の短縮は週5日制への反動である。毎日新聞は、冷静にこの事態を「文部科学省が始めた『ゆとり教育』への揺り戻し」とコメントしているが、肯綮にあたっている。もともと「生きる力」を養うのだ、「ゆとり」なのだ、と啖呵を切ってみたものの、文部科学行政は失速しつつあった。それが2000年以降の現実であった。20世紀における文部行政の飲酒運転は、今世紀にはいっても変わるところがない。総合学習が添加されているだけ、状況はさらにマズイ方向にいっているのかもしれない。
 お膝元からの反動は、時間をかけて徐々に地方へ広まっていくだろう。日本全国どこの学校でも授業時間数が足りないと自覚されているからである。結局歴史は繰り返され、土曜が授業につかわれるようになる。都が「土曜日の使い方」を講義していたらしいが、もうそんなことはどうでもいい、区は区で授業を復活させると挑戦状を突きつけているようなものである。
 ところで「(葛飾)区教委は▽特定教科の授業増▽学力向上のためのテスト▽読書や百人一首▽職場体験などを例に挙げている」(『同上』)らしいが、後ろの▽項目のうちの読書やカルタは、付け足しなのじゃなかろうか。数学や英語など主力教科の充実が、なによりも優先されるだろう。だがその付けたしを表明しなければ、タテマエとしての筋が通らないのだろう。
 あと5年たてばまた、指導要領が改訂される。それはこうした反動を無視することのできない編纂になるだろう。現実を指導要領に沿わせるのではなく、指導要領を現実に従わせるよう改訂方針を定めないと、困るのは子どもである。教員である。葛飾的叛乱が子どもの叛乱を招くか、それとも従順な態度を結果するか、大変興味がある。保護者もどのように考えるか、みてみたい。
 花火とプールの誘惑を断って学校に通うことができるかどうか、生徒の自覚的な学習姿勢が問われている。学び方、やる気という教育主体の側の在り方が事を左右するのであり、そういう意味では現代教育の大きな問題の数パーセントが海上に首を出したに過ぎない。そう、意欲の有無は教育制度を空しくするものなのである。(11/10)

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 なんだかね、大喧嘩しました。夕飯にハヤシライスを食ったのだけど、ものすごく急いで仕事を仕上げ、すぐさま飯食って、また仕事に戻らなければならない環境にあったので、味などわからなかった。
 そこで事件は起こった。「おかわり」といって、各家庭によくある深皿をさし返すと、怒った顔なのである。ハヤシライスだから、おかわりぐらいはあるだろうと思って、そんなに考えず、また、仕事のことが頭から抜け切っていなかったので、安易にそういったのである。皿を手渡し、数秒遅れで顔をみると、げっ歯類が頬をふくらますような感じで怒っている。「レトルトにおかわりなんかない!」。そういわれたのである。「食うているうちに、レトルトか、一から私が作ったかぐらい、わかれ!」と、嫁にいわれたわけである。
 なるほど、具が少ないし、小さい。お手製だったらこうではない。まさにレトルトである。なぜ気がつかなかったのだろうか。ここでスマンといえばそれで済んだのに、一言多いワタクシは、「いや、このハヤシライス、うまかったからさぁ」と何の気なしにいってしまい、火に油を注ぐ事態となる。「あんた!味もわからんのか?」。こっちはこっちではやく仕事を続けたいから、ムスッともなる。
 だが配慮が足りなかったというべきか。ここでいいたいのは、ハヤシライスはイヌも食うが、夫婦喧嘩はイヌも食わん、というコトワザの実際でもなければ、レトルトで夕飯を済ます貧乏の憐れみを買うことでもない。食事をすることが、日常の楽しみになっていないことに、愕然としていることである。レトルトでも味はある、風味がある。そしてうまいもんはうまいのである。ただ、レトルトであろうとなかろうと、「このハヤシライス、うまいなあ、どうしたん?」と聞く余裕をもつこと、これが夫婦円満を満たす必要条件である。
 馬鹿じゃないの、というほんの些細な食い違いが、核戦争を引き起こす道理を何度も繰り返しているのに、ハヤシライスでまた戦争である。これを「第2次ハヤシライス戦争」、あるいは、「レトルトの乱」と命名しよう。まだまだ修業が足りない。和平が遠いのはイラクだけではない。(11/9)

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 公立諸学校に外部評価を導入すべきとの声が高まっていることは周知の事実であろう。先日の朝日新聞は、「保護者や地域住民など外部から評価してもらう制度を03年度までに導入した公立学校(大学、高専を除く)が全体の64.1%にあたる2万8019校だったことが6日、文部科学省のまとめでわかった」と伝えている。
 外部評価の基準がどのようなものであるか、また評価をする保護者、地域の人びとの意見をどのように反映させ、よりよい学校を整序していけばいいか、難しいところである。公的機関の評価は、内部の手によれば杜撰になってしまう。それは、社会保険庁や警察の内部監査で証明されている。つまり、一般的にいって、自分で自分のことを評価すると、どうしても甘くなる、あるいは恣意的になるということである。そこで行政の眼だけでなく、市民団体の眼を届かそうと、「社会」は力を注いでいる。
 すべてのことを公開することはないけれども、税金で運営されているかぎり、評価とオンブズマンが結び付くことを願ってやまない。結局それが国民の利益を生むからである。
 ところで学校評価は最終的に教員評価へ辿り着く。いや逆か、学校の取り組みそのものについては横におき、取り組みを実現することに関わって、教員評価が学校評価を成立させているといえるかもしれない。とすると、良質の教員確保のため、採用試験で各自治体がしのぎを削るのもわかる道理である。
 また、現在すでに現場でがんばっていらっしゃる教員は、その力量を高めるため各種研修を重ねられているし、行政が更新制をハードルにするのもそれはそれで意義ある試みといえよう。ただし、公務員であるから、そして労働法の法理からいっても、正当な事由ある「懲戒処分」でないかぎり、そう簡単に解雇することはできない。そのあたりは厳密でなければならない。ことは教基法第6条にかかわる。
 評価とは、人間についてまわるものである。その適正な運営ができる評価者の育成を抜きにした議論は成り立たない。そうした視角から、公立学校の管理職の鍛え直しだけでなく、市民団体の眼をも鍛えるべきだろう。それには情報公開の徹底が基本的前提となるといえよう。(11/8)

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 宿題を出す先生はいい先生で、なにもださない先生は、やさしいようで悪い先生。大方の保護者はこのように判断しているのが常である。児童生徒が自分自身の教科理解能力を向上させるという主体的な意図ももちろんあるが、おおよそ宿題の効果は、責任感の育成にある。机に着いて勉強するクセを、小学校段階から養うためというのが宿題を課す表向きの理由で、理念は責任感育成にある。と同時に、夏休みの宿題などからいえることは、崩れやすい生活のペースメーカーの意味を含めているということであろう。
 宿題をやってこないと、罪悪感に襲われる児童生徒の姿は、みるに忍びないものがあるけれども、そういう感性を忘れたところに、キレる行為の温床ができあがるのである。誰かに写さしてもらってでさえ、宿題を完成させようとする姿勢は、実は表面的に先生は怒っても、内心、かわいらしくも感じているものである。「しゃあない奴やなぁ」は怒りのペルソナの裏面なのである。この点、継続的に、論理的に思考する態度を養う学校や先生の願いが、ねじれた形で児童生徒に伝わらないように注意しなければならない。これは自省の戒めでもある。
 このグラフ群は、教員をめざすワタクシたちに、イロイロなことを教えてくれる。賢明な旁午読者は、これを題材に「勉強」しようとするだろう。すなわち、「このグラフから読み取れる傾向を300字でまとめよ」といった採用試験問題が出題されないともかぎらない。
 宿題を出させることによって、家庭の教育を放棄しつつ、宿題を出す先生を悪役にし立てて、家庭で子どもに勉強せよといい含める。前者はいけない。宿題=家の教育ではない。それぞれの家庭なりの教育を用意するべきである。それは教科教育では難しいかもしれないが、そんなものだけが教育ではない。イロイロ大人になるための教育的エッセンスを保護者はもっている。だが、後者はいい。どうぞ先生を悪役にしてくれ。それで児童生徒がすくすく育つなら、よろこんで先生は悪役になるだろう。いいように活用される存在、それが学校の先生といえよう。(11/7)

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 被虐待児症候群という「病名」があるのは知らなかった。一種のPTSDである。そしてそれが障害罪の構成要件になり、犯人が−もちろんこの場合は保護者になるが−逮捕された。最近、虐待報道が多くないだろうか。なんだかいままで陰に隠れていた事件が、庭の石をひっくり返したときに虫がついているように、露わになったような感じである。
 虐待は遺伝するといわれる。親が虐待を受けた経験が、我が子に下降するのである。そういう負の連鎖を断ち切る包括的家庭教育サポートセンターが必要になるであろう。
 あの、19歳の少年が、食事を与えられず、前歯を抜かれ、餓死したのも虐待事件である。ほぼ大人の19歳が自立して家庭から逃げられないところに、事件の悲惨さがある。まして学齢児童が物理的に力の強い保護者に対し、なんともできるわけがない。家庭教育の充実を行政が掲げても、その家庭が自律した躾なり、教育なりができないとすれば、引き受け手がどうしても必要となろう。
 たとえば介護保険は、身体的に困ったご老体を、社会全体で保障するためにできたシステムであろう。そして少子高齢化といって問題を一体化して考えることは、少子の問題を置き去りにできない現代社会を表現している。介護保険とともに「家庭介護保険」なるものを置くという発想もでてくるわけである。少子と虐待問題にどんな関係があるのかないのか興味あるが、厳しい家庭環境において、何らかの非教育的教育が行われたならば、そこから未成年を救うシステムを公的に整備する方策もよいのではあるまいか。
 ワタクシたちが将来を託すべき幼い児童を、現状、ある施設に入れて終了としたり、親族の中でジプシーあるいは盥廻しにして解決したり、そんなふうにごまかしていては福祉重視国家を名乗れない。まあ、誰も日本が福祉を重視している国とは思っていないであろうが。
 少し前に較べて、虐待の発生している家庭の発見数が増えていると思う。しかし虐待事実を隠そう、隠そうとするのが家庭の一般で、わざわざ悪いことをしていると虐待を自覚している保護者が、行政に申告するわけがない。私的世界にメスをいれるのは、政府のご法度であったが、そこのところをどのように折り合いをつけて解決するか、政府のいわば「家庭対策」が問われている。極めて難問である。
 小さな政府の宿題がでてきたようである。(11/6)

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 流動食というものがある。残念ながら、なんらかの病魔に犯され、栄養補給のために致し方なく病院で配膳される食事である。噛む必要が無いからご老体にもやさしい。歯は年齢をあらわし、「よわい」と読む。相当若いときから咀嚼力を養っておかなければ、歯の健康のためにもよくないだろう。
 現代の若者は、咀嚼しないがゆえに、顎が退化しているそうである。そういえば小顔が多くなったもんだ。使わなければ必要なしと人間は深層心理で判断する。顎いらずの遺伝的作用が未来に働いていく恐れなしとしない。授業中にガムを噛んでいるのには眉を顰めるほかないが、給食の時間くらい、噛みごたえのあるものをバリバリ食べさせたいものである。ちょっとした小骨くらいは磨り潰す奥歯を備えたい。骨のない魚だと?そんなものが給食に必要かどうか。
 理科的にも、魚には骨がないと児童に理解されるかもしれない。国語的にも「骨折り損のくたびれ儲け」の意味がわからなくなる。実際、骨をしげしげみる機会は、魚を食べるときくらいしかないからである。それは一部分の骨をみるというのではなく、全体的な骨をみるという意味においてである。
 うちの親父の自慢に、魚をキレイに食べるというのがあった。いや、いまでもそうである。とにかく箸の扱いうまく、キレイに身を取りほぐし、食すのである。骨だけ残し、全部食べる。まあ、親父自慢などしてもしゃあないのだけれど、食文化も変わっていくのだなあと思わざるをえない。
 食べ残しの骨がないなら猫も困るじゃないか。マルハは猫を敵にまわしたといえよう。(11/5)

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 本日、更新お休みいたします。折角のぞいてくださったのにすいません。私事ながら、旁午以外に、いま、ものを書いて書いて書きまくっているので、頭がパンクしているのです。旁午の文章なら、まあ、20分くらいで一日分書けて日々の文章磨きトレーナーになっていいのですけど、いま執筆しているのは、そういうわけにも参らず、くるくる頭がまわっているわけです。しかも、日付けが変わる前の更新で情けなや。いま更新しないと、寝てしまうと思ったからです。どうかみなさま御寛恕のほどを。(11/4)

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おしらせ―11月末日をもちまして、「第1期 こくばんマスター」の担当期間が終了します。12月から、マスターを担当していただける方を募集しております。メールいただければ幸いです。よろしくお願いいたします/旁午の書き方をちょっと変えて、明日から段落を設定しようと思ってます。いまさらの措置なんですけど、最初、こんなに文章を長く書く予定ではなかったんです。ワンフレーズの感じだったんです。というわけで、読みやすくなる旁午を、よろしくお願いしますと、新聞社みたいですが、よろしくです/園遊会における「天皇発言」が話題になっている。毎日新聞は、「天皇陛下が学校での日の丸掲揚と君が代斉唱について『やはり、強制になるということでないことが望ましい』と話した」と、都教委の、この発言に対するスタンスとともに伝えている。こうした「天皇発言」についてイロイロと書くと、やおらメールがくる恐れがないとはいえないが、少し思ったことを書こう。「天皇」は、何かいうと政治性を伴ってしまうシンドサを自覚していると思う。この発言がこんなに議論の的になるとは思っていなかったのではないか。なぜなら、この「天皇発言」は、どちらかというと、現在、政治問題化している「日の丸・君が代」問題を、沈静化しようとし、「問題」になるのを避けようとする意図からの言葉であるからである。強制になるのはのぞましくないといったその言葉自体が、「問題」を複雑にするのであるから、天皇の政治性は増しているといえる。旁午ですらも、これほど慎重に書かなければならない存在が「天皇」なのである。なんだか第2次世界大戦中の精神的雰囲気は、こんなものかと推測させる。さて、都知事は、「一般的に強制するかしないかの問題とこれ(学校現場での指導)は違う」といっている。だが、それはそうではない。指導が貫徹しないと処分するのならば、それは強制にほかならないではないか。どうもこの手の判然としない言葉の解釈が罷り通っているところに、現代の危うさを感じるのである。それは「天皇」も感じているだろう(11/3)

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「不登校児は不良品」というのは、地方行政責任の一端を担う役職についているものの言葉としては、口が滑ったでは済まされない失言だと思われる。ここではこの福井県副知事の失言についてはしばらく擱き、先日の水谷修立命館講演との関わりで、不登校についてちょっと述べておこう。水谷氏は、『眠れない子どもたち』講演の中で慎重に言葉を選びながら、「ひきこもり」のことについてもごくごく短く言及された。犯罪の最近の特徴について話された際、軽犯罪の増加、性犯罪の増加、凶悪犯罪の増加、異常犯罪の増加、薬物犯罪の増加について触れられ、中でも異常犯罪の増加と「ひきこもり」の関連について、やおら話されたのである。「ひきこもり」について氏は偏見をもっていないとことわりつつ、「ひきこもり」は社会性を失い、自分自身のバランスを失ってしまう、そういうところから異常犯罪を引き起こす心理が生まれてくるのではないか、というようなことを述べられた。ここにこう書くのは、氏に対する批判からではない。批判からでないのは、氏もまだ「ひきこもり」の若者といかに付き合っていくべきか、未整理のように感じられたからである。そして、ワタクシもこの両者の関係についてはよくわかっていない。じゃあなぜここでこう書くのか。なぜなら、「ひきこもり」は異常な感覚を養ってしまうかどうか、考えたいからである。おそらく氏は不登校が「ひきこもり」するきっかけとなると捉えられていると思う。不登校者について、登校刺激を与えず無理して学校に行かせないでもよいように文部省が方針転換したことを批判し、水谷氏はそれを憲法違反という。なぜなら、彼らの受け皿となる機関が不在のまま、安易に「いかないでいいよ」といっているからであるとする。こうした氏の主張は正当なものであろう。こうした氏の発言を聞くにつけ、ワタクシは氏に愛ある宗教者的側面を見出しているのだけれど、社会の無責任を一身に引き受けられ過ぎているようで、愛の儚さも同時に氏の中に見出してしまう。で、その「異常な感覚」は、「ひきこもり」をしているうちに増幅させてしまうのかどうか。ワタクシは、「ひきこもり」の特徴は「偏向」なんだと思う。「ひきこもり」とレッテルを貼られる若者は、PCやTVとは切り離されていない。いや、「社会性を喪失」しているがゆえに一層「歪んだかたちで」内から外に関心が向かっておってPCやTVといわば同化している場合もあるのではないか。「ひきこもり」の知的レベルは高いと密かにワタクシは思っている。問題は、電話やテレビのコードを介した「社会」が真の社会性を育むものでないことにある。つくられた社会性をまとっているといえる。こうした環境は「オタク」にも共通するかもしれない。自己の世界をもっているとして、それを社会に開放するかしないか、そこに「オタク」とワタクシとを区別する基準があるのだろう。なんだかこんがらがってきた。不登校と「ひきこもり」と「オタク」、これらは現代の病なのだろうか、それとも多様な価値を容認する現代社会で、認められた存在なんだろうか。誰かちょっと教えてほしい(11/2)

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昨日は、多数の新しいメンバーの参加を得て、自称「ニュータイプ」の講義と勉強方法の雑談的議論、集団討論を実施いたしました。参加された16名(男性6名、女性10名)のみなさま、お疲れさまでした。本日も、講義を叩き台にみなさまの問題意識が醗酵し、ワタクシも勉強になりました。6・3・3制と4・4・4制の義務教育制度再編の議論から、学齢の区分けの意味を突っ込んで考えられたことは、大きな収穫でした。小学校中学年と高学年の間に横たわる溝が、具体的にみなさまにどのように実感されているのか、これは興味深かったです。肉体的には第2次性徴期を迎え、かつ勉強の面でも深化がみられて「児童自身が自分なりに納得のいく取り組みを求める学習態度」が生まれようとするこの時期の重要性といいますか、なるほどの観点でした。と同時に、そこから例の免許更新制の話題に飛び火し、面白くなりました。更新制はペーパー免許の、教職についていない一般の教員免許保持者にもかかるのかどうか、など、不明瞭なところも質問にでました。それはそうですね。そういう疑問はあります。でも、教育公務員になった正採に更新制の網がかかると考えるのが一般でしょう。「講師にも免許更新制を」との提案は、現実的に実現不可能でしょうけれども、児童生徒の目からみれば、すべての先生が同一の地位あるい身分にあると「先生」は受けとめられているわけであって、理の通ったご意見であったと思います。民間の厳しい人事考課からすれば、公務員一般はまだまだアマイという厳しい見方もありました。このあたりの改革は、民間に較べればたしかに10年遅れているという感想をワタクシももっていますが、緒につきそうな更新制の評価方式を検討していくことにより、下からの変革が可能であると思います。ただ評価の基準が恣意的でないよう細心の注意が制度化には要求されます。ポルトマンの議論では、胎児を3Dで映視できる最新医療技術があることを教えていただきました。教養を考えるところでは、ボランティア経験や友人間の刺激のうけあいなど、みなさまの個人的な教養体験をお聞かせいただき、それが動態的になっている印象をもちました。本を読むこと=教養ではない姿が、21世紀の教養ということでしょう。また、このことと、それほど教採試験に出ませんが、教養答申との関わりを確認しました。そのほか、ヘルバルトの4段階教授法と単元の関係に触れたり、自我の問題に触れたり、話が拡大していきました。雑談的勉強方法の話題では、やはり王道を歩まないと合格はないというところに落ち着きました。大阪と兵庫、神戸市との傾向の違いは大きく、どちらに絞るべきであるか考えないといけませんね。とにかく「書くこと」をつづけないと、面接や討論には太刀打ちできません。朝2時間、夜2時間の勉強時間は死守してくださいね。ただ、高校社会は勉強の質や量を超越した問題がありますね。受験者数=倍率というのは、なにか神の手が働かないとあかんような気がします。残念ながら。さて、集団討論のテーマは、「学校で徳育をどのように進めていけばよいか、具体的に議論してください」というものでした。6人の方に、25分で討論していただきました。本音を申しますと、ビックリしました。失礼ながら、この時期にこれほどまとまった討論に出会えるとは思っていなかったからです。児童の倫理観をどのようにして引き出すか、相手の気持ちを考えるとはどういうことか、どういうふうに児童生徒に自覚的に考えさせていけばいいか、考え方を一方的に押しつけるのは問題、など、うなづくことばかりです。身近な学校生活に道徳意識の向上を見出すため、イスをそろえる、靴、ゾウリをそろえる具体的な行為行動の意味を悟らせる…なるほど、履物をそろえるのは心をそろえることにちがいありません。また、ノートを提出させるとき、無言で手渡す児童生徒の態度を戒めることなど、忘れてはならないことです。ささいな学校の日常に、倫理の鉱脈が隠されています。一体、心を鍛える術はどこにあるのでしょうね。空き缶などのポイ捨ても、たしかにいけない。そうした心のちょっとした積み重ねが、やがて学校教育活動全体において広く実践されるところに、道徳教育の次へのステップが見出されるのでしょう。将来どのように自分自身をみつめていけるか、道徳教育は、その出発点となるはずですね。さらに、道徳教育は、家庭と切り離して考えられるものではないし、保護者との円滑な関係形成があってはじめて徳育が充実するというご意見もありました。回りの気も引き締まり、回りの人も気持ちよくなる、そうした清々しい行為が学校世界を覆うようがんばりたいものです。集団生活や共同精神はそこからでしょう。ちなみに、今回の討論では話題になりませんでしたが、道徳教育は生徒指導論と密接に関わっています。また教科教育との関わりもポイントになるでしょう。そうした観点からの討論の組み立ても一考してください。いや、いい討論でした。次回の勉強会もよろしくお願いいたします。勉強会にご興味をもたれ、一度参加してみたい方、気軽な、自由な、それでいて真剣な場です。どうぞメールくださいね。お待ちしています。こちらのページをどうぞ(11/1)

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