日々旁午

2005


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もう霜月も晦日である。はやいものである。今年のうちに片付けておかなければならないと思っているアレヤコレヤが山積しているのに、まさに年も暮れようとしている。今年の正月に、越乃寒梅で溶かした絵の具を使い、でっかく書初めした目標が達成されず、そのまま旧友や恩師に年賀状を書く作業に入りそうである。巵言のままに収束するのが「目標」というやつであろう。

 なぜ、「まさに暮れようとしている」と書くのか。

 師走は、一年のうちに入らないと考えているからである。採点はあるし、各方面からありがたくもご連絡をいただき(これは本心である)、週末毎に宴会があるし、年末は生活臭に染まる。とすると、31回のうち、10回は自分の時間ではない。自分の時間だけれど自分のためにだけ割く時間ではない。世間の雰囲気に呑み込まれて、ほんとはそうでもないのに、忙しない態度を背負っている気にもなる。ジングルベルは行進曲と同一である。トナカイが走るのではない、自分が走っているのである。

 師走の生活速度はそれ以外の月の倍ほどあるのである。そういう雰囲気を都会は醸造する。

 標準時刻より5分早い時間を刻んだ時計を携帯しているワタクシは、カレンダーも他人よりひとつき早いわけである。そうでもしないと「締切」という無味な、感情を持たない乾燥した悪魔に胸を刺されてしまう。十字架の効果はないのである。

 手帳における締切日やその他予定の書き込みとは、生涯という国道に設けられた注意喚起のレッドコーンであると同時に、人生に残された時間が如何に僅少であるかを告発する、自分で自分に郵送する速達手紙にほかならない。

 手帳の予定が埋まるのを喜ぶのが若者であり、埋まった予定に殺されていくのが一定程度年を食ったものの感慨であろう。

 「師走はないもの」と自覚し、霜月晦日の今日こそが「年末」だと必死なワタクシである。あたためている原稿はその辺に散らしているし、新たに書いている原稿もある。読みかけの本は2、3冊、もうすぐ創刊するまぐプレの体裁を整える仕事もある。そこに、事務手続きの書類をやっつける「年末」である。

 そうしたわけだから、ワタクシにおける「年末」の今日一日は戦争である。
(11/30)

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髭の話のつづきを書こうと思いましたが、やめましょう。身体的特徴を書いたところで写真で示せるわけでないからです。でもなぜ髭を生やしはじめたのか、一言だけ触れさせていただきます。それは、生来の不精から、それにかこつけて、勉強会に参加してくださるみなさをに勇気付けるためでした。「合格したら剃るわ」、と。

 さて、ここ数日アナウンスしましたように、掲示板「京都のこくばん」と「広島のこくばん」に対する「不良書き込み」=「攻撃」が止みません。もう辟易してます。中国や香港、韓国、ロシア、アメリカそのほか世界中のサーバーを踏み台にして、IPを変動させつつ機械処理で宣伝行為を重ねているので、アスタリスク処理やリファラー対策及び他のアクセスブロックも効果なしです。素人が手を打てる方策はほぼ尽くしましたが、無駄でした。しかも外国サーバー、苦情をいってもはじまらない。とりわけ中国サーバーの踏み台のされ方(いわゆるプロクシです。多重串もあるかもしれません)はひどいです。こんなのにいちいち付き合ってられません。中国のサーバーって管理が甘いのですかね。

 外国サーバー経由の「不良書き込み」は、不思議なことに、アクセスログにも刻印を残さないで書き込みするので、発信元の特定もできない状態です。また、アクセス禁止処理をも乗り越えてくるのです。dnsがわからんというのは無茶苦茶です。いわゆる「名前解決」ができないのです。

 機械的操作による書き込みは、0.1秒くらいでやってしまうのでしょうか、bodyの即下にブロックhtmlを追加してもあきません。それでもパールダック的な書き込みではないので、まだましなのですが、あと2、3日対応してもなんともならなければ、一度、京都と広島は今月末に閉鎖します。そして、新たにこくばんを作り直します。そして、「生け簀化」作戦にでようかと考えています。

 ところで販売広告型とセックス産業型、カジノ誘導型が「不良書き込み」の典型例です。即削除を心がけていますけれども、各こくばん上においてこの書き込みに運悪く遭遇された方は、リンク先を絶対にクリックしないでくださいね。PCになにか悪影響があってもいけませんし、そのクリックがまた呼び水にならないともかぎらないからです。

 「広島のこくばん」におけるその手の書き込み者は、誰も使わない「犬怒る」のgifイメージまで使用しています。そういう選択をしたいのは、ほかならぬワタクシなので、いやな気分になりました。もうちょっとCGIを勉強して、なんかいい方法はないか対策方法をとりたいところです。しかし、そうしたハード面まで手が廻らないのが実情であり、素人の泣き処です。そこで、もう、一切のプロクシ経由のこくばんへのアクセスをシャットアウトしました(したつもりです)。ひょっとすればその弊害があらわれるかもしれませんが、一応これで様子をみることにします。そのかわり、「こくばんのURLをそのままブックマークされている場合、そちらからはアクセスできないかもしれません」と書いた昨日の対処法を停止しました。

 それにしても、そこまで宣伝して効果があるんでしょうか。ワタクシのこんな弱小系サイトでは、そうそう効果はないと思うのですけどね。どうなんでしょう。

 それから、こくばんを活用される場合、メールアドレスを書き込まれるとすれば、「いつ捨ててもいいフリーアドレス」、たとえばホットメールアドレスやMSNのアドレスを使用してくださいね。決してプロバイダから取得したアドレスを書き込まないようお願いいたします。また、各地の勉強会との仲介も、管理人としてワタクシが責任持って勉強会代表者にご連絡いたしますので、なにかありましたら、下のメールフォームからのご連絡をお願いいたします。
(11/29)

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ご迷惑おかけします。京都と広島のこくばんは、トップページからご来場いただくよう、お願い申し上げます。こくばんのURLをそのままブックマークされている場合、そちらからはアクセスできないかもしれません。不良書き込み対策です。ご理解お願いいたします。
(11/28)

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昨日は、有志主宰の広島県教員採用試験報告会が開かれました。開催の労をとられた幹事の方々、お疲れさまでした。

 大変、実りの豊かな会合でした。はじめてお会いする方も多く、10名ほどの参加でしたが、みなさんがレジュメを用意され、密度の濃い報告が行なわれました。各参加者がまとめられた緻密な報告書は、目を通すだけでも大変な価値があります。全部で20枚くらいになっており、すごいです。また、仕事の都合で参加できなかった方々からの報告書も届けられ、みなさんの書かれたものを総合すれば、広島の教採の全貌が見えるようになっていました。これはお世辞ではありません。

 オブザーバーとして参加させていただいたワタクシも、ごく簡単にコメントをいい、プレゼンテーションいたしましたけれども、みなさんの報告がメインであって、その報告をうかがうかぎり、自生的な自立した勉強会になる期待度大です。少し遠いですが、そちらでの成果を武器に大阪の勉強会を蹴散らしにきてくださいね。外野からではありますが、今後も、この有志の勉強会が着実に運営されていくことを期待しております。

 報告会後の楽しい忘年会には、少しの時間でしたけれども、参加させていただいてありがとう。途中退場せざるをえなかったのは残念でした。酒の街西条らしいお鍋は美味でした。

 ただ、汚らしい髭面を晒しましてスイマセン。ダンディーどころかノラ犬です。ハハハ〜
(11/27)

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最近、髭がいたについてきた。この夏のはじまりとともに伸びるだけ伸びてみろと鼻の下と顎に命令した結果である。もみ上げには命じていない。なぜ夏から伸ばしたのかその理由は簡単である。公務として人前に出ることがほぼない夏期休暇に突入したからである。剃刀を頬に当てなくなってから1ヶ月は、伸び率が悪く中途半端さ一杯の我が髭であった。唯一の利点は剃る行為からの解放であった。毎日の七面倒くさい風呂場における業務の時間は、精々伸びろ伸びろと鼻の下とりわけ唇の中央、窪んだ地点に暗示をかける祈祷の時間に変わった。ここが一番生えにくい土地だからである。

 それなりに自らも他者からも髭が髭として認められるようになったのは夏も終わりのことである。その基準はビールを呑んだ時に髭に泡が付くかどうかといえよう。プハッ〜といったその瞬間に、白い泡が我が髭の最先端に付いておれば勝利である。ここまでの道のりは長く、悪友にはキッタネーカオシヤガッテと罵られ、ハヨキレと会う度に戦争になったものである。傍からは気楽にみえるものの実は厳しい夏の休暇なのだが、我が髭のせいで余計に厳しい夏となり、気を使うことにもなった。なぜならそれは、野良犬になるからである。お手入れをしない髭を蓄えたワタクシは、昼間も休みであるとはいえ近所を歩けない。さすがに休みに出かける場合、スーツというわけでもなく、よっぽどのことがないかぎりGパンである。だから、髭にジーンズなわけで、汚いTシャツであったから、野良犬と同一である。近所迷惑はかけないが、不審者扱いは十分にありえた夏である。よく職質を免れたものである。

 剃る権利はワタクシ以外にない。我が髭の命は我が手中にある。その髭の抱える悩みは茶髪化であった。若者が髭を生やすのとは訳が違い脱色してくるのである。三毛猫の気持ちは理解不能である。しかしなるほど色が違うのはよい気分でもない。鏡を見る癖がなくてよかった。単位面積当たりの生え率が優秀な漆黒の髭を蓄えたいものだが、そうでもないワタクシの髭は茶髪(髭)化、白髪(髭)化と争う毎日である。それは現在もそうである。しかし最大の敵は寝ている間に我が髭とりわけ白物を抜髭しにくる嫁である。腋毛の抜き取り作業をしてやった恩返しのつもりなのであろうか。

 私の抱える悩みは、この髭を触る癖が身に付いたことである。いつの間にか顎に手をやる仕草がひょっとすれば他者を不快にしているかもしれない。一度漱石先生に髭の手入れ方法を聞いてみたいものである。『明暗』を書いていた晩年も、原稿用紙を見つめながら髭を触っていたことだろうからである。ワタクシも勉強会で髭に手をやる場面が多くなり、反省半分先生らしさ半分の気持ちである。唇の端まで伸びている髭をクルクル回しクラブのキングのように触ったり、それを伸ばしたりしているのである。音が鳴らないだけマシな玩具といえる。クルクルピューは洒落にならない。そうした癖から脱出できたのは、本当に髭らしくなった秋である。立派になったものである。他人事ではないぞ。

 その頃にはクチクチ触る癖も一息つき、顎を触るようになった。顎の髭は引力に負け垂直に生える。これを物理法則という。そして人はそれに抗うものである。顎を撫でるように触る。すると顎伝いに髭が肌に密着するようになってくる。顎鬚の伊藤博文化を拒否するのである。伸びれば伸びるほど博文化は避けられないから、顎鬚のお手入れは伊藤の政敵山県に聞くべきであろう。山県有朋に髭があったかどうかは不明である。陸軍のキングオブキングの山県だから有りそうではある。博文は帝国議会でも髭を触っていたのであろうか。現代において髭の政治家がいないのは威容を張る必要がなくなったからであろう。あるいは威張っていると世間にとられて選挙に敗戦するからであろう。その代わり、自宅で金の成る木を生やしている。ただ皮膚科に相談したのではなく歯科医に相談したようである。

 学校がはじまる秋、一大決心をした。このままいってみよう。予想通り笑われた。まあ、夏前のつるつる顔の記憶しかない学生にあっては、いきなり教壇に野良犬が現れたわけだから、ココハドコ気分にもなる。一本づつ我が髭をお裾分けしようと思ったが有難く受け取ってくれそうにもない。

 この髭の話はつづく。
(11/25)

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うーん、各こくばんに、いわゆる「あらし」のような不良書き込みが多くなってまいりました。気分が悪いです。機械的に書き込まれるので、そのたびに手動で削除してまいりましたが、どうも削除作業が追いつきません。1時間毎に書き込みされてしまいます。

 そこで、管理人として、最終手段に出ます。投稿間隔を大幅に長くとります。いままでは、すべての方に対し、一度投稿されると、3分間は同じ方からの投稿を拒否し、不良書き込み対策としてまいりましたが、この投稿拒否間隔を2時間〜5時間くらいに設定します。みなさまには大変ご迷惑をおかけします。PCからも、携帯からも、できうるかぎり不良書き込みを削除しているのですが、限界です。

 もちろん、いつもどおり、書き込みできますので、今後も当サイトの各こくばんへの記事投稿をよろしくお願いいたします。

 さて、第57回当サイト主宰の勉強会における集団討論の模様をお伝えいたします。テーマは、「現在、教育現場においてゼロトレランスといわれる指導を取り入れようと検討されつつあります。あなた方は、このことについてどのように思われますか」です。このテーマに、新しく勉強会にご参加いただいた方も含め、7名の方にチャレンジしていただきました。

 まず、Cさんから、ゼロトレランス導入についてはその是非の判断がつかないと述べられ、なぜなら、銃社会ではない日本が、アメリカ流の厳格な措置を取り入れるのは社会的現状にあっていないと思われると発言されました。この感覚は当然の感覚であり、日本的な生徒指導の在り方を再考することから出発しないと、ただ西洋流の模倣になると思われますね。

 このCさんのご意見を受け、Gさんが論点を整理する形で提供しつつ、ゼロトレランス導入反対の意思を明確にされました。その論拠は、Gさん曰く、@厳罰化は、義務教育においては「教育を受ける権利」を侵害することにならないか、たとえば、「悪いこと」をすればすぐさま教室から退場させるのは、行き過ぎではないか、Aゼロトレランスは、決まった児童生徒に適用されないか、いわゆる「目を付けた」児童生徒にその適用が集中する、そのことはまた権利侵害になりうる、B保護者にあってはどう考えていただくのかその説明が困難であろう、と発言されました。Gさんは、このように法的観点から鋭く論点整理され、よくわかる一方、3点も提出されるとそれに他の参加者がなかなか対応しにくいところがありました。内容的には素晴らしいのですけど、それに瞬時に返答するのは大変難しいことでしょう。集団討論の難しさはこうしたところにもあります。たとえば、レジュメがあって、3点を順次述べていくのには、聞いている側は対応できます。しかし、他の参加者も発言主体ですので、そこのところをかんがえますと、1点づつ、いい意味で細切れに発言を積み重ねた方が、集団に対する貢献度が高くなるように感じます。

 このCさんのご意見に対し、Fさんは、自己の教育体験から、ゼロトレランス導入賛成意見を展開されました。これも納得いくご意見でした。すなわち、私の出身の中学校は大変荒れていた、受験勉強の時期、成績があまりよくない生徒、勉強を放擲したようにみえる生徒の中には、実際、器物破損行為に出たものもいるし、対教師暴力もあった。甘く対応するとつけこんでくる生徒に手を焼いていた先生方のことを思うと、厳しく対応するのは一理あるのではないか、とのことです。Fさんは、しかし、厳罰化であって、児童生徒を切り捨てるのではないと強調されていらっしゃいました。勉強ができないからそれで終わりというものではない、失敗も人生の肥やしになるということをしっかり伝えていきたいと抱負をも語られました。

 Bさんからは、ゼロトレランスを導入する場合でも、その基準が問題となるのではないかと提案されました。私たち教員の役割は未熟な児童生徒を導いていく存在であって、彼らの自立を支援することが仕事であると発言され、たとえば、児童生徒がしていいこと悪いことの境界を自覚するために教員の側がくっきりとした基準=Bさんのいわれる「カベ」を設けてもいいのではないか。ゼロトレランスだと究極の措置になり得る。しかし一定程度の基準の設定は、学校全体の承認の下、実現可能なのではないか、というニュアンスで発言されたように思えました。

 Aさんは、この導入にはっきり反対を唱えられました。たとえば学校内外で、「反社会的行為」を児童生徒がするということは、その理由として、彼らになんらかの不満があるからにちがいないので、それに対応しないまま、厳罰化を進めていくのは問題であるということです。そして、私たちはたとえ児童生徒を切り捨てしないといっていても、もしも厳罰措置をとれば、結果的に切り捨て対応することになり、客観的には切り捨てているようにみえないか、と発言されました。ただし、叱るときは叱る、そうした態度は教員の生徒指導の基礎であると付け加えられました。

 こうした賛成、反対論が登場する中、Eさんは、「事実の把握」ということを述べられました。ゼロトレランス導入まずありき、ではなく、教員が児童生徒を本当にちゃんとみつめているかどうか、Eさんは自省しながら生徒理解をはじめたいと述べられたのです。人間としてしてはならないこと、いのちの大切さ、こうしたことを軽く見る児童生徒には、それこそ毅然とした態度で対応し、学業の妨げになる私語についても、それ相当の指導が必要であるということです。私語は、今何をするべきかということを児童生徒がわかっていないわけで、そうした指摘をした上での最終手段がゼロトレランスの導入でしょう、とご意見されました。このテーマは、ゼロトレランスの意味を知っていないと議論に加われないように思えますが、実はそうではなく、生徒指導とは何か、これが隠されたテーマだったのです。そうしたポイントを見事についていた発言といえるでしょう。討論の終了後、今回の勉強会の参加者の間で評価が高かった発言でした。

 Dさんは、Eさんの発言を受けつつ、ご自身の「学びんぐ」のご経験から、生徒指導にあっては、「みのがし」も「かまいすぎ」も両方問題であるといわれ、児童生徒と教員との微妙なやりとりを考えなければならないと述べられました。さらに、新しい視点として、体罰についてはどこからどこまでが体罰なのか常に問題になるが、このゼロトレランスを導入した場合も、その導入根拠や導入後の適用についても、体罰と同じように法的問題点が出てくるのではないかということを提供されました。たしかにこの視点も重要で、上の基準の問題が社会的にどう受けとめられるかまでを視野に入れた議論といえます。体罰と懲戒の境目と同様、トレランスとゼロトレランスの申し渡しの境目は、一体だれがどう判断するのか、それを保護者や地域を含めた社会一般がどうみるか、難しい問題です。さらに、出席停止措置がある意味「有名無実」化している現状で、ゼロトレランスといっても、効果があるのかどうかワタクシも疑問です。日本には日本流のやり方が必ずあるはずで、教育までアメリカに右向け右である必要もありません。なにしろ日本の義務教育は世界でもっとも発達した制度なのですから。

 Gさんは、Eさん、Dさんのご意見を受け、ゼロトレランスの基準がアイマイになることを恐れつつ、もしもこの措置の導入によって児童生徒が選別されるようなことになれば、子どもの将来にとってプラスにならないと発言されました。学習指導が能力的選別体制を必ず児童生徒に刻印付け、ゼロトレランスの導入が生徒指導的ニアリーイコール人格的選別体制を表現するとすれば、ゼロトレランス経験をしてしまった児童生徒はレッテル貼りされることになります。児童生徒は未成年です。少年法で保護されている存在です。そうした児童生徒が学校内でレッテルを貼られ、地域で疎外される危険性のあるこのゼロトレランス制度の運用は、学校設置者に慎重な姿勢を求められるでしょう。

 このように制度論に議論が及んだところで、Cさんから、Dさんのご意見を受けながら、ゼロトレランスの導入を前提にした場合、学校一律にこれを導入できるかどうか疑問であると発言がありました。教え諭すのが教員であって、体罰と同じように社会的批判が出てこないともいえないと述べられました。学校で一律にゼロトレランスの運用ができるかどうか、もうこれは、学校教育法施行規則の世界になるでしょう。教育的指導が、法規のまといを完全に借りた場合、どのようになっていくのでしょうか。考えさせられる発言です。アメリカは銃社会であると同時に訴訟社会でもあるわけです。法的権利、自己主張の強いお国柄です。ところが日本はまだまだそこまでバッサリした社会ではありません。風土の違いと申しましょうか、法に対する国民意識の違いを呑み込んで、シビアな運営を実現することができるかどうか。さらに、「特色ある学校つくり」を展開しようとしている昨今、また、各学校が教育課程の編成権を持っている昨今、このゼロトレランスの制度と運用だけ、一律にできるのかどうか、このことも考えるべき視点でしょう。

 その点では、Bさんがおっしゃったように、大人社会に反省を求めないといけません。ゼロトレランスを導入する前に、私たち大人社会のモラルハザードを棚上げしておいて、児童生徒だけにゼロトレランスだといっても、納得しないでしょうし説得力がありません。また、同じくBさんがいわれたように、学ぶことに対する希望を児童生徒が感覚できる体制を整えることが、教育のアルファでありベータでしょう。大人になるプロセスのさなか、ねじふせるような対応つまりゼロトレランスで指導することが本当にいいのかどうかも疑問視されました。

 そうすると、非寛容の体制を学校が採用する前に、教員をめざす私たちが何をすればいいかということになります。Fさんは、コミュニケーション能力が問われるといわれ、児童生徒とどのような会話をするべきかを今一度反省しなければならないと述べられました。そして、Fさんの最大の主張である「勉強をする環境を作ってやりたい」という立場から、強力なご意見が出ました。それは、勉強をしたくない人にあわすのはおかしい、勉強をする人にこそ環境をあわすのが正しいのではないか、ということです。

 今回、厳罰で臨む姿勢を堅持し、その方向で学校改良したいと正面切って述べられたのはFさんだけでした。その意味ではあっぱれでした。こうしたFさん的思考は、かなりの程度、各家庭の意識を代弁しています。ワタクシもある程度このご意見に賛成なのです。学校世界が無法地帯になることは許されることではありません。それはこのゼロトレランスの導入に賛成の方も反対の方も同じでしょう。2年連続で不登校児童生徒数が減少しているといっても、対教師暴力が小学校で増えてきている現状、保護者だけでなく現役教員の中にも、このゼロトレランスの導入に前向きな層があります。つまり厳罰要求思想がかなりの程度学校現場に胚胎しています。

 Eさんは、しかし、あくまで教員と児童生徒との間の信頼関係が形成されなければ、ゼロトレランスを導入しても意味を成さないとおっしゃっています。児童生徒のダメなところばかりに目をやっても解決策にならないと語られます。

 両者の思想をどのように止揚すべきか。現在回答はみえてきません。そこに回答を与える機関こそ、中教審あるいは調査研究会議ですから、どのような議論がなされ、報告が出されるのか興味津々です。

 さて、ここでGさんが、このゼロトレランスと「生きる力」がどのように関連してくるのか、集団に問いかけられました。自己抑制力をも含めて考えていいこの「生きる力」と、ゼロトレランスは、相容れないのではないか、と視点提供されました。

 Cさんは、現行でも十分罰則はあるのだから、ゼロトレランス的な罰則を作ったとしてそれを適用できるのか、と述べられました。

 最後にDさんから、一定の導きや方向性を持ちつつ教員をめざす私たちがどのような道を児童生徒に示すべきか、毅然とした態度といっても、それがどのような見通しをもってなされる態度であり行為であるのか、と発言がありました。

 こうした3者からの発展誘発的発言がありつつも、惜しくも時間切れとなりました。今回も、25分間の討論でした。

 ご参加のみなさん、いかがだったでしょうか。また、このサイトをご覧のみなさんはどのように考えられますでしょうか。この議論は、賛成反対の是々非々論になるやもしれません。また、反対一方になるやもしれません。ただ、賛成一方の議論にはならないでしょう。

 もしもこのゼロトレランスの導入と運用がはじまれば、学校世界は劇的に変わります。いままでものすごくやんちゃで「問題児」と見做されていた児童生徒がいたとして、おそらく、「麻酔をかけられた犬」のようになるでしょう。あるいは、学校から駆逐されるでしょう。ゼロトレランスの導入は、義務教育に停学・退学を持ち込もうとする制度に近いといえます。出席停止の措置を上回る、厳しい措置で法律上の懲戒処分を児童生徒に迫るものです。すべてのものには教育を受ける権利が保障されていますし、教育の機会均等も保障されています。法の厳格な適用をめざす立場からいっても、基本法とゼロ的法律とがぶつかり合いますので、司法判断を仰がなければならないケースが続出するでしょう。必ずそうなります。なぜなら、そうでなければ、もともとこんなゼロトレランスを導入する意味がないからです。適用できないゼロトレランスなど、画餅以下です。導入するなら徹底的になるのがこのゼロトレランスです。

 それから、ゼロトレランスが導入されれば、いままでの共感的理解・受容的態度の教育相談は崩壊します。教育相談室はとっぱらわれ、懲戒部屋に改築されます。学校カウンセラーもお払い箱になります。教員採用試験から、教育心理学の問題も削除されるでしょう。

 児童生徒の自主的な判断能力の形成にも、あまりいい影響をゼロトレランスは及ぼさないでしょう。命令−服従の教員−児童生徒関係になります。もっといえば、児童生徒が「囚人的感覚」に陥らないでしょうか。

 その昔、内申書に怯えていた児童生徒がいました。生殺与奪権的に内申の前に平伏すことがありました。それが、ゼロトレランスによって権力的に学校が動きます。支配装置としての学校ができあがる可能性があります。

 導入か、撤退か、苦しい判断を教育行政は下さねばならないし、ワタクシたちレベルでも、苦しい集団討論になることが予想されます。
(11/22)

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ふぅ〜、きょうは、こくばんの不良書き込み削除に追われる一日でした。外国のサーバー経由で書き込んでいるので手に負えません。一応、denyhostとして排除しているのですけど、プロクシは星の数ほどありますから、アスタリスク処理しても、書き込まれてしまいます。このままでは、京都と広島のこくばんが閉鎖に追い込まれてしまいそうです。

 24時間監視できませんので、不適切書き込みは無視していただくようお願いいたします。

 ふぅ〜、削除作業でつかれちゃいました。
(11/21)

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