日々旁午

2006


上にありますように、「合格した参加者の声」をアップしました。ご覧ください。また、みやすいように「サイトマップ」を再構成しました。
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「地域」の教育力とか、「地域」の再生とか、「地域」という言葉が氾濫している。「地域」はどこから来てどこに行くのか、そうしたことについて駄文を連ねるとしよう。

 「地域」社会とパッというが、その領域がどこからどこまでを指すのかよくわからないし、共通理解もないからなんともいえない。だが、たとえば校区、もう少し大きくして校区が3つ、4つくらいまでだろうか。20万都市の半分ぐらいが「地域」と呼ばれる単位なのか。いずれにせよ、都道府県まで広げると、面積的にも人と人との交流度合いからしても、「地域」を名乗る規模としては大き過ぎるだろう。面積議論は現代ではあまり意味あるものとはならないのでさて置くとして、「地域」における人びとのつながり具合は、どう保持されてきたのだろうか。

 この「地域」が、どこから発生したのかを史的に尋ねれば、郷党社会あるいは村落社会=村落共同体がすぐに想起される。ちいさな集団生活単位である。そこには生活上の教えや村落の地縁に由来した共通感覚があり(倫理・道徳の発生)、掟があり(法の存在)、相互の助け合いとして頼母子講などがあり(経済的互助)、そこに居住する人間存在を括りつける運命共同体であった。この共同体の中で大人も子どもも「社会」なるものを認知し、「社会」的規範意識が形成され、そこで一生を過ごすかぎり、そうした不可視の価値が、常に共同体住民の胸中を支配してきた。共同体はフォークロア的な知恵の共有や生活の利便性ということでは有益でもあり、逆に裏切り者を許さない殺風景な場所でもあった。これが少しく変質し、伝統的に「世間」として歴史的には連絡してくるのであろうと思われる。

 この共同体社会の形成および支配構造は、よかれ悪しかれ前近代社会の成果であった。東海道五十三次、人力車が走り、一番速い情報伝達手段が早馬かクノイチである。たとえ商品経済の発達があったとしても、モータリゼーションの発達はなく、生産性でいえば現代の何億分の一であろうか。宅急便がない前近代社会はヨコの移動を封じ込める。ヒトの移動もご法度な世の中であった。それゆえ閉鎖的な村落共同体が無数の細胞となって封建社会に組み込まれているのが歴史的実情であった。そこで生き抜くには、草食動物のように、村落という群れで自己防衛するほかない。それはすなわち共同体住民の堅固な結びつき以外にない。一人暮らしは即、死を意味し、もしも村八分になり引水してくれない田畑をかかえてしまえばそれまでである。サラリーマンにはなれないのはいうまでもないし、下手をすれば小作農どころか、悪党にならざるをえなくなる。共同体社会はそれそのものがライフラインであった。

 人口移動のない共同体は、権力者にとっては支配しやすいブドウの一粒にほかならない。しかもものいわず刀を納め経済的基盤たる年貢米を供給してくれる。しかし強固であればあるほど、それが暴力的に変化すれば、奇兵隊的な実力装置になるパワーも秘めていた。そうした共同体に巧みな支配を染み込ませる。五人組に代表される身分秩序の変型判による分離支配として機能させ、それぞれにネコの鈴をつけていたといえる。その上、鋤や鍬が武器に変るのを怖れる殿様の心境は、太閤殿下の兵農分離政策に模範を求めていた領国制支配の基本の「キ」を常に忘れ去せることはなかったのである。

 だが黒船来航以来近代化を余儀なくされ、封建社会からの脱出および中央集権体制の編成が国際感覚となって意識されはじめた明治の出発は、みずからが形成して来たったこの共同体を潰すのに必死になることを意味した。支配は領国制ではなく、敵は国内ではない。そのための国民創出と国家編成である。下級武士から近代官僚に転換した明治時代の支配層は、その整備の端緒をブドウの房をぐちゃりと潰すことに認め、ブルドーザーと地ならしのためのローラーを持ち込む。村落共同体の人びとの頭の中には、まずは掟がある。その掟の束縛から解放し、新しい法に従わせねばならない。憲法である。憲法が国家の統治組織を規定していることからいえば、封建的な共同体を解体して国家に自発的に従属する装置をスピーディーに動かさなければならない。そうでなければ隣国の植民地化と同じ運命をたどる。しかも、国際関係において一等国にならんとすれば、余計に国民的な統合が支配層に意識されて当然であった。村落共同体、郷党社会、なんと呼んでもいいが、その実質を、そこになじんでいた人びとから強引に奪わなければならない。引き裂かれた共同体住民になにを移植しようとしたのか。いうまでもなく国家意識である。

 ところで共同体住民の軋みを想像することはできても、具体的に生活がどう変化し、ムラオサあるいは地方のボスとしての支配層がどのような顛末を迎えたのかはわからない。こうした人びとがどこに吸収されていったのか、あるいは、どのような存在になったいったのか大変興味があるが、後学にまちたい。ただ推測的にいうとすれば、中央集権体制の官僚組織における小役人になっているか、プチブルジョアとはいえないとしても地方の工業化の中心的存在になっていったのであろう。

 さて国家意識の形成に活用されたのが万世一系連綿とする皇統であった。皇国思想が現実に国民を支配していた観念かどうかといえばそうではないとしても、昭和戦前期、国民を統合してきた観念はこれ以外にはない。ひとことでいうと国体である。そこでは国家はきわめて精巧に作り上げられた。家族を細胞とみなしてグランドデザインが完成した。戦前の国民創出は成功し、紙切れ一枚で死地へ飛ぶことを「誉れ」とされたのである。1868年から1945年のわずか80年ばかりで、ナチスにうらやましがられる程のヨーロッパに負けない国家ができたのだから、その運転に誤りがあっても不思議ではないし、よそ見、わき見も多発した。ここに至れば個人を守り家族が帰依する共同体は壊滅した。日本国家そのものが運命共同体だからである。

 ところが1945年の歴史的断層は権力者の姿勢に劇的変化を与えた。戦前エスタブリッシュメントは平伏すしかなかった。いうまでもなくアメリカから与えられた民主主義的価値に平伏するしかなかったのである。松本蒸治の涙などは拭いてやる必要は全く感じないけれども、民主主義社会にスパッと変った戦後の出発は、共同体もないし、強力な支配統合の国家もないし、一種の弛緩状態にあったのではないか。この時期の国民には思想的にふかふかした安心感あるものなどなにもない。しかも新国家建設は戦前支配層の手によって遂行されたけれども、占領下で思想を枉げて実行されていた。民主主義に反する行政態度は徹底的にマークされた。民主化は「正常な」国家形成の方針であったと客観的に評価できるが、対外的独立と自立国家をめざしたエスタブリッシュメントにとっては、蹂躙された気持ちであったろう。幣原以降、国民統合の象徴としてしか意味のない、しかしだからこそ極めて意義のある、山吹憲法の頂に天皇は据えられることになる。人間宣言は「神聖」にして「犯すべから」ざる天皇存在をフツーの人にした。

 困ったのは生きる希望をどこに見出し、どのように生活を立て直していけばいいのかわからないまま黒い燎原に放り出された国民である。帰るべき共同体もない、村もない。巨大な支配に組み込まれた歪んだ安息感を持つこともできない。空白状態とはよくいわれる形容だが、そこに発見された光は、自由主義経済である。

 精神的に勤勉さを備えているといわれる日本国民は、年貢を淡々と納めてきたごとく実直さを武器に月月火水木金金の終わらない循環小数的経済生活を繰り返す。戦後の一時、国家と国民の蜜月関係が再生したように思えた。所得倍増計画。高度経済成長。朝起きたら給料袋の厚みが倍になっているのだから、互助、掟、頼母子講など不必要である。共同体は必要なし、それはつまり「地域」は必要なしと同意味である。信頼を寄せるあるいは村八分になる心配がない生きやすい世界が出現した。民主主義など思想は関係ない、自由主義経済こそ我が命、しかもそれは支配者がうまいこと掛けてくれた規制によって後押しされた。兵役もない、宿題もない、試験もない、お化けにはもってこいの世界である。すなわち「地域」などに頼らなくとも「会社」がある。「会社」が古い共同体的特徴を備え、代替団体となった。

 こうした仮説が正しいとすれば、「地域」が再生することなどない。共同体が歴史的紛失を迎え、それに代わる強力な国家も消滅し、自由主義経済の下、「政治家の仕事とは、経済である」と感覚された政治状況は、世界から政治は2流国の烙印を押されることとなる。会社が紐帯となって日々の生活を守ってくれる。佐高氏のいう「社畜」の誕生である。

 会社は個人を呑み込み急成長したが、掌を返すときが来た。腕力勝負の新保守主義思想は、経済社会を自己責任という言葉で粉飾し、社畜を解放したんだといって突き放す。帰るべき場所を失った国民。あわれな国民。あたたかな家庭はあるのだろうか。「地域」はあるのだろうか。少なくとも「地域」はない。「地域」は歴史的に叩き潰されすぎた。再生するこれっぽっちの土壌もない。その潰された名残を知っている高齢者だけが、通学路で学校に向かう児童生徒に旗を振り、「地域」に貢献していると昔を懐かしんでいるわけである。高度経済成長以降生まれの新人類に、スプレンディッドな時代があったか!そこでの価値は経済価値一辺倒なのである。ヨーロッパでいえばムーミン村のような共同体、地域社会の構築など夢物語である。房は潰され、粒は水分化し、なにかよくわからない酒が醗酵する。

 封建社会の再編成から国家が生まれ共同体が壊滅する。強大な国家がなくなり、経済国家ともいうべき産業資本資本主義が日本を支配し、地域不在でもやっていけた。「地域」の復興と、いくら猪の突き進む挿絵のある絵馬の裏に書き込んだとしても、叶わぬ願いだというほかないのである。
(11/29・「地域」消滅の歴史的由来)

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一昨日のつづきです。集団討論の模様を再現してみましょう。今回のテーマは、しゃべりやすいテーマではなかったでしょうか。「現在、児童生徒のコミュニケーション能力が低下しているとよくいわれます。なぜ低下したのでしょうか。また、低下することによってどんな問題が出てきたのでしょうか。そしてそれを解決するにはどのような方法が考えられるでしょうか。議論してください」でした。

 なぜこのテーマがしゃべりやすいのか。それは、議論の方向性がテーマに明示されており、迷うことがないからです。テーマのトピックは、「低下の原因」、「問題の発生」、「解決方法」というように分けられ、これを25分間で議論するわけですから、7分づつ議論しても21分消費できます。時間の消費がすべてではないにしても、この3分割ができれば、「議論している」ようにみえます。結構、この「議論している」の「している」雰囲気がある程度大事なわけです。形式面が整えば、あとは内容ということになりますが、果たして、形式が整ったのか、そうでないのか。内容が多様で参加者の発言内容がかぶらなかったかどうか。討論参加者は男性2名女性5名の計7名でした。A〜Gさんとしてみていきます。

 まずテーマを確認し、自説を開陳したのはAさんでした。Aさんは、「低下の原因」と「問題の発生」をひとくくりにしご意見されました。どうやら、後で聞くと、他の討論参加者の中の2、3人はトピックを1つづつするのだろうと予想されていたようで、あらららら〜、となったそうです。しかしAさんの発言の趣旨は論理的で間違ったところはありません。よいご意見でした。それは、コミュニケーション能力が低下したのはテレビゲームなど室内遊戯が流行し、外遊びが少なくなっている、その結果児童生徒が溌剌とつきあったり、話しをしたりしない、これゆえにコミュニケーション能力が低下する。自分の気持ちを伝える機会が減少し、表現力は低下すると同時に、相手の気持ちもなかなか理解できなくなる。その結果コミュニケーションは最悪の場合、暴力を伴うことにもなる、すなわちすぐに「手が出る」ということになってしまう、とのことです。

 一気呵成に2つを述べたので、他の参加者も2ついわなければならないのかなと思ったようですが、第2発言者のDさんは、違う切り口の提供で議論をつなげようとしました。Dさんは、小学生でも高学年になれば2人に1人は携帯電話を所有している。携帯がコミュニケーション能力を低下させているのではないか。なぜなら、メールによって人と人とがつながっている感じはあるが、感情が伝わらないからである。だから、携帯がコミュニケーション能力を低下させている原因ではないか、とのことです。

 この意見に対し、あとで議論を傍聴していた参加者から「ものいい」がつきました。Dさんは、「携帯がコミュニケーション能力を低下させているのではないか」と発言されたのですけれど、実は、「携帯がコミュニケーション能力を低下させている一番の原因ではないか」といわれたのです。「一番の原因」と断定してしまうことに対する心配を感じ取っているわけでした。これは細かなことではありますが、今後注意するべきものでしょう。ではどうすればいいか。「携帯がコミュニケーション能力を低下させている原因のひとつである」といえばいいでしょうね。

 Eさんは、Aさん、Dさんのご意見を認めつつ、現代の児童生徒は自然に触れる機会が少ないことを挙げられました。外遊びと関係することですけど、最近の子どもは、走ってこけるといったような経験が少なく、膝をすりむいて泣いたりすることも少ない。肉体的な痛みというものもわからなくなっているのではないか。自然体験の少なさが、他者の痛みに対する想像を剥奪しているのではないか、とのご意見です。児童生徒同士の思いや痛みを共有あるいは共感できないところに、コミュニケーション能力の低下原因をみる立場です。

 Fさんは、現代の子ども事情は変化し、遊びの仕方も変容している、それはEさんいわれるとおりである。また、情報機器の変化が児童生徒のコミュニケーションを変質させている。このようにDさん、Eさんの意見を受けとめ、そのほかの視点を用意しようとされました。「それに加えて」という感覚で、議論の土俵を広げようとする貢献的態度です。具体的にどのようなご意見だったのでしょうか。Fさんは、社会的な変化に言及され、核家族化の進行、少子化の進行、その結果近所付き合いも少なくなってきていると述べられます。すなわち地域社会の崩壊に言及されているわけですが、それだけでなく、核家族化が各世代における知恵の伝承を疎外している点も指摘され、そして、核家族化した家族も仕事の多忙などで家庭内における子どもとのコミュニケーション不足をもたらしていると述べられました。子どもはどこに行くのか、それはひとりで塾、習い事ということになる。ここに低下原因があるとのことです。

 Cさんもこれに同意され、情報社会といわれる一方で、地域のつながりは低下し、ひとりで過ごす時間が増加している。肌で人間関係を感じることがなくなってきている。言葉で伝える関係性を構築しなくなっているのではないか、それが低下原因ではないかとのご意見でした。Cさんの発言は、的を射たものではありましたが、ややもすると二番煎じと捉えられてしまいます。これは、まだ発言されていないBさん、Gさんにも妥当することですけれど、討論では、やはり「初出事項」が評価されますので、できるだけ早く意見を述べる方が得策です。そしてそれは「意欲の評価」につながってきます。Cさんのあとに発言されたBさんも、その内容は正しい。受験が厳しくなり遊びの時間が減ってきている現状の分析に関する発言、つづけてその結果塾通いが増え、夜まで児童生徒が学習する事態となり、コミュニケーションする時間そのものが失われてきているということ。厳しくいえば、これはEさんやFさんの焼き直し的発言に堕してしまっている…なにか、そうした分析に、ご自身のご意見を追加しなくてはならないわけなのです。独自の視点の追加です。

 言うは易し行なうは難しなのですが、是非、次回の討論参加では、積極性をみせるべく、「すぐさま発言」を心掛けてください。さらには、今回第1番手、第2番手の発言者は、自分が中盤あるいは最後の発言者となったとして、どんなことがいえるか想定しておいてください。本番では、討論をしたことのない方からワタクシたちのように何度も訓練を積んで受ける方まで様々です。どんな集団になるかは運が決するわけだけれども、その準備や心構えがあるのとないのとでは、551の蓬莱があるのとないのと以上の違いがあります。

 討論参加者の最終発言者は、Gさんでした。Gさんも、もうあらかた自分が述べたいことが出揃ってしまった状況になっていたのではないかと思われます。メディアの発達が進んでそれが災いし、コミュニケーションのとり方がわかりにくくなっている現状報告や、家族構成が変質し核家族化しコミュニケーションの時間が減っているというのも、前出でした。しかしGさんは、「では、ワタクシたちにどんなことができるでしょうか」と議論の方向性を指し示される発言を追加し、討論に動きを加えられました。コミュニケーション能力を向上させる方法としてのグループディスカッションの実践、表現を磨くための教科指導の在り方などです。ここはよかったですね。

 このGさんの展開的な指示に沿い、3番目のトピックである「解決方法」に進みました。おそらくこのとき、Gさんの頭の中では、「表現力があまりなく、コミュニケーションのかわりに手が出てしまう」というのを「問題の発生」と捉えていたはずですね。Bさんは、これを受け、少子化している学校教育において、異年齢交流が効果的にコミュニケーション能力を向上させる方法であると提言されました。そうそう、こういうように「すぐさま発言」をしていきましょう。Eさんも、遊びの質に変化があることを感じ取られており、ある学年の児童生徒が自分よりも小さい子どもにどう接すればいいか、お兄ちゃんにどう接すればいいかわからなくなってしまっているのではないかと問題提起されました。その際に、異年齢体験はいい機会を提供すると考えておられます。さらに、クラスでは係活動という「仕事」を与えるといいと述べられました。これは責任感の育成ということではありますが、「仕事」を与えることとコミュニケーション能力向上との関係性がいまひとつわかりにくかったので、注意してください。

 Dさんは、「解決方法」として、自然体験を挙げられました。これは自然散策などを意味するのではなく、Dさんが意図しているのは、生き物を飼うといった自然体験です。斬新な意見でよかったです。生き物を飼うとその生き物をめぐって話ができます。ヒーリング効果もあります。クラスでペットを飼うことは、難しいながらもコミュニケーション能力を向上させる現状打破として述べるべき観点でしょう。実現可能性を考えながらの発言であることが試されます。あまりに無理な提言ではなく、クラスで飼える実際的な小動物を挙げ、具体的に語ることができれば説得力が増しますよ。GさんもこのDさんのご意見に同意され、他人のいたみがわからない児童生徒に、動物の成長過程を実感させることが効果的であることを指摘されました。

 つづけてFさんは、いたみがわからない児童生徒ということに関連し、最近のいじめ事情について触れられ、どういう言葉を使うべきか、また、「汚い言葉」、「他人がいやがる言葉」とはどのようなもので、それを使わないよう指導することも大切と発言されました。Fさんいわれるように、そのためにロールプレイングを取り入れるのも一つの方法ですね。相手を不快にさせない言葉の操り方は、コミュニケーション能力向上の前提条件となります。Aさんも、学校ボランティアの経験から、乱暴な言葉を使っている児童生徒に悩まされたことを発言され、「○○とってこい」というのを「○○をとってきてくれませんか」といい換え直させた経験をお持ちです。こうした言葉使いに関するロールプレイングを奨励されていました。Cさんもこれに同意されていました。学校生活で起こった具体的な事柄をロールプレイングとして再現することがよいのではないかと指摘されました。Eさんは、ロールプレイングの効果として、話すこと聞くこと、話す力をつけることを挙げられ、これがコミュニケーション能力の向上に結びつくと見解を述べられました。そして、「形式的ではあるけれども」、国語の授業で言葉の訓練をもっとするべきであろうと指摘されました。ここにもう一歩、では具体的に何をすればいいかが付け加えられれば、PR度が向上します。

 ロールプレイングの話がつづきましたが、ここでFさんが、コミュニケーションの基礎には挨拶があると発言され、「おはよう」、「ありがとう」、「お願いします」など、また、ちゃんと返事をすることも含めて、人間関係における基礎的部分の生活指導の必要性を強調されました。これが身についてはじめて対人関係調整能力を手にすることができると考えておられます。Dさんは、挨拶をすることに意義を認めつつ、現場からの告発といいますか、地域社会では、あまり知らない方とは話すなと教えられており、挨拶するのも地域社会の治安の問題とリンクすると実感込めて語られます。知らない方と挨拶をするのすら恐れなければならない点では寂しいかぎりですけれど、それが保護者の意見である以上、これに対し教員がどう対応するかは考えておかなければなりません。

 Gさんは、挨拶に関連し、教育実習体験を話されました。朝、校門の前で挨拶をする取り組みを学校全体で実践されているところで実習を積まれたそうです。そして、Dさんがいわれていたことに関し、犯罪が多い地域では知らない人から声を掛けられても無視する指導をしているようで、その上で知っている人に声を掛けるようにつまり挨拶するように指導していると紹介してくださいました。いやしかし、寂しい世の中です。しかししかし、現実問題として保護者が我が子の安全を考えてほしいと思って学校にこうした指導要求をするのも当然でしょう。コミュニケーション能力の向上と挨拶の関係ひとつとっても、現実社会の問題性が浮かび上がってきますね。

 Bさんは、だから「知っている人」を増やすにはどうすればいいかを問題に掲げられました。また、Aさんは、地域の力を借りることを述べられました。通学路に地域の方を「動員」するのも一つの手でしょう。

 Aさんは、ここで話題を前出の携帯の問題に変えられ、コミュニケーション能力を向上させるための携帯の使い方ということを問題にされようとしました。それは情報教育の分野と関わる領域です。コミュニケーション能力の向上を果たして携帯は疎外しているのでしょうか、それとも低下させているのでしょうか。Dさんの発言とも響きあって、議論の余地がありますね。Fさんは、メールの交換だけではニュアンスが通じない伝わらないときがある、文字で事柄を伝えることの難しさを指摘されました。Cさんいわれるように、たしかに文章表現を磨くことは大切で、語彙力の向上がコミュニケーション能力の育成の前提でしょう。

 ここでタイムアップ。

 今回の討論は、それぞれの参加者が平均的に発言されました。しかも順番にといいますか、均等に発言されました。これはこれで評価できるところです。

 しゃべりやすさも手伝って、空白の時間もありませんでしたし、それぞれの参加者が互いを慮って発言している姿勢が読み取れました。他者に対する配慮の態度がうかがえてよかったです。

 討論終了後、傍聴者から問題点をたずねましたところ、うまくみえる今回の討論でもイロイロでてきましたね。文中に書いたこと以外の指摘では、議論に登場するべきトピックとして、部活のことが話されていない。部活の場はコミュニケーションの大きな場所ではないのかといったご意見、道徳のことをもっと話してもいいのではないかというご意見、表現力ということに関して、読書活動がでてこないのは物足りないという指摘、教員が示すものとしての言葉使いの例示、などでした。

 それでも今回は、ワタクシから60点以上を差し上げます。いい感じです。ハハハ〜、ちょっと厳しい?いや、厳しい評価じゃないと安心してしまって勉強せんからね〜、去年の勉強会参加メンバーはもっとうまかったよ、と少し焦らせときましょう。でも、どんどんうまくなります。焦って焦らず、ちょっとづつ伸びていきましょう。まだまだ時間がありますから(なお、勉強会では、討論終了後、討論参加者にワタクシから個別にひとりづつコメントを申し上げています。そのコメントに込めた反省点を生かし、次回、「もっといい自分」をみせつけてください)。
(11/28)

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昨日は当サイト主宰勉強会にご参加いただきありがとうございました。予定通り、議論の叩き台となる教育学講義と大阪府過去問問題解答解説、そして集団討論を実施いたしました。

 議論の叩き台となる教育学講義では、教養と学校の関係についてお話いたしました。また、自己と他者の関係性についてでした。そして、過去問解答解説は、人権教育についてでした。人権教育・啓発に関する基本計画の内容の確認、そしてそれぞれの人権課題に行政各省がどのようなアプローチをしているのか、資料を確認しつつ解説しました。特別支援教育の議論ができたのは、よかったですね。人権教育は、来年の1次試験でも必須です。この問題の解説数ページおよび先週配った解説数ページあわせて10枚ちょっとですが、是非、ご自宅で空欄をチェックしつつ再確認してください。また、ハンセン病に関する法令もチェックしてくださいね。

 今回の勉強会は、3時間ほとんどワタクシがしゃべっている状態になり、講義とはいえみなさんに申し訳ないことでした。参加者のみなさんに「知識」を提供しようとするあまり、みなさんが主役的になっていないのが悔やまれるところです。しかし、問題の解説などは、どうしてもこうなってしまいますね。少なくとも次回からは、問題の文章を読んでもらうなど、みなさんを指名しながら進めてまいりますね。

 集団討論の模様は、明日の更新でお届けします。
(11/26)

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あすは、当サイト主宰第97回勉強会を開催いたします。満席になりました。ご参加予定のみなさま、よろしくお願いいたします。すでにご案内メールを2通お送りしました(内容微妙にちがいます)ので、ご確認ください。

 予定としましてはいつもどおりでありますが、今回は2次合格報告はお休みします。議論の叩き台としての教育学講義、大阪府過去問解答解説、集団討論です。

 集団討論のテーマは、「現在、児童生徒のコミュニケーション能力が低下しているとよくいわれます。なぜ低下したのでしょうか。また、低下することによってどんな問題が出てきたのでしょうか。そしてそれを解決するにはどのような方法が考えられるでしょうか。議論してください」といたします。ちょっと長ったらしいですが、議論の内容を縛るような出題のされ方にも慣れておかなくてはなりません。

 よし!がんばろう!

 あ、いつもワタクシは勉強会にはネクタイしていっています。しかし、あすはコーヒー会終了後、今年初の忘年会がありまして、それが「暴年会」に変りそうでなんです。そこで、あすだけは、ラフな格好でいくことをお許しくださいね。
(11/24)

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ワタクシたちの社会は、一体どうなっているのだろう、どうなっていくのだろう。新聞や雑誌ほかメディアの伝えるところから世相を手繰り寄せてみれば、非常なる不安を覚える。こんな社会でいいのだろうか、そんなため息交じりの気持ちしか、おこらないのである。

 政治でいえば、呆れるおためごかしが罷り通っている。審議を尽くさないまま多様な法案を通そうとする政府自公。豚肉脱税の企業から汚れた献金をごっそりいただいている安倍政権。この安倍政権は、安晋会とAPAのグレーな関係、そして宗教団体との関係などによって、微妙に動揺している。耐震工作が必要であろう。2ヶ月でこれだけ疑惑が持たれる政権も珍しい。妖怪の血筋はホンモノである。

 岐阜の女性政治家2人が火花を散らしている。例の復党問題からきているマドンナ対決である。そこには、郵政民営化反対議員が、禊を果たせば易々と古巣に戻れてしまう体質が確認される。渦中の人・平沼氏は、「俺がいないと参院選は勝てない」とタカを括っており、虎之助はなりふり構わず仲間にしたいらしい姿勢をみせる。だが、秀直は気に喰わないらしい。どっちもどっちに映るけれど、これなら亀の方が筋が通っててよい。その亀も本音は戻りたいのかもしれないが。

 政治的節操というのは、もうない。政治倫理などクソ喰らえなのだろう。そりゃ、「政治家は使い捨て、総理も使い捨て」と臆面もなくいえる神経の持ち主が、ここ10年政治首班だったのだから、倫理などなくなるのもよくわかる。考えてもみよ、使い捨てと思っているのなら、だれが仕事に励むだろうか。内心こうした心境で政治を執っていたのかと思うと情けなくなる。100円ライター政治家が考えることは、私腹を肥やすことくらいである。ドロドログチャグチャである。

 中央がこうなら、地方も真っ黒。福島、和歌山で首長逮捕、宮崎でもそうなりそうである。先の沖縄首長選挙でも、不在投票の異常な多さから、選挙そのものに疑惑を抱く報道も流れている。小文字の地方の状況はどうか。奈良市の公共事業談合はひどい。クジビキ談合の様子がこれでもかと映像で流される。なにが2900やねん。また、京都や奈良の公務員の勤務態度は言語道断の様相である。神戸でも公務員がお好み焼きを焼くバイトをしているのだから困ったものである。

 経済でいえば、なによりも格差社会を演出する非正規雇用問題。きのうおとついのNEWS23でもやっていたが、日雇い労働ともいうべきワンコールワーカーの絶望的な生活をどう考えるべきか。ホワイトカラーエグゼンプションによる中間管理職の過労死も、すぐそこだろう。人間を人間として扱わないといっていい雇用形態は、この国に革命を勃発させる契機とならないのだろうか。遠くフランスでは第2次暴動が起こったというのに。搾り取るだけ搾り取るのが資本家の論理であり、多くの国民の犠牲の上に成り立つ景気回復傾向なら、徳川時代と変らない。近代人はどのように労働権を再確認し、生活を守っていくのだろう。このままでは間違いなく窒息である。この点、ワールドの雇用姿勢が他業種にも浸透することを願わずにはおれない。

 ところで、経団連と同友会の主張の違いに乗じて、なにかできないものなのか。御手洗氏も足元で運動が起こっているから、連合が攻めるのも、いまをおいてないはずである。飲食サービス産業にようやく組合ができる時代である。高額時給ではじき出された若者の労働権をきっちり守ってやってほしい。そのためには、民主党ももう少し支援するべきである。瑞穂・清美に力がないのだから。だが民主党も、自民と色合いがさほど変らないから、国民からすれば悲惨である。

 財政でいえば、どこまでいっても減らない国債残高。もう10年もすれば、みせかけでも国、地方の合計借金は1000兆円を超えるだろう。ちょっと償還されて喜んでいる場合ではないだろう。法人税課税の上限をもっと上げるべきである。企業の利益は上のような非正規雇用に支えられている。300万の非正規雇用労働者よ、メイドの服着てデモするだけでなく、同盟罷業を遂行してはどうか。

 そして、年金。100年安心プランはどこへいったのか。公明党の坂口氏が大言壮語していた年金構想は、たった2年で崩れ去った。ウソばっかりである。合計特殊出生率の予想の甘さから、現役時給与の半分保障は夢となった。「将来何人子どもを生みたいですか?」という予想数値を元に徴収金額と年金支給額とを計算するという砂上楼閣的な年金制度見直しが実施されるといわれている。国民年金なら毎月1万4000円余り払う。支給は将来70歳以上からに決まっている。しかも、月2、3万円に支給額減額だろう。紳介ではないが、「老後が心配」と70歳の老人がぼやく時勢である。苦しい労働環境にいる非正規雇用労働者も、年金の網に完全にかかる。企業が天引きするのである。企業もこれには猛反発だか権力には擦り寄っていくに違いない。

 教育でいえば、児童生徒の自殺問題、必修科目未履修問題、教育基本法改正問題。連鎖自殺にワタクシたちの言葉の虚しさを実感した。いくら新聞など多様な媒体が自殺防止のコメントをタレントに書かせても、文科省がアピールを出しても、とまらない様子である。基本法改正反対で愛国心の強制を批判した北海道のある中学校には、脅迫文が舞い込む事態である。「愛国心は麻薬」というが、健全な批判的精神を強奪するもの、それが愛国心賛美の怖いところといえよう。非宗教的宗教国体の亡霊が甦りそうである。タウンミーティングのインチキは、与党自公のごり押しで、折角設置した調査委員会も報告しなくてよいという低たらく。この仕事は野党がするのが筋である。権力がごり押しをするようになれば、末期である。筋が通らないことをいってみて、それが通ってしまった、無理を通せば云々で、味をしめるのが権力である。これで、何をやってもいいと権力が麻痺しなければよいのだが、公明を政治的仮死状態に持ち込んでいるので、自民の嵐のような暴走は野党諸派を蹴散らして進むことが予想される。

 こんなふうに国民が選んだはずの政権が国民を愚弄することばかりしている。学校には外部評価を厳しく求める再生会議、しかし主宰の安倍は隠蔽の鬼。馬鹿げている。

 一方でセクハラ教師の多発。京大教授も女性の身体を触る始末である。矢野氏以来である。カネも地位も名誉もあるのに、なぜトチ狂うのか理解不可能である。それからもうひとつ、児童に包丁を突きつけた広島のある教員に、やはり教壇復帰はないのだろうか。これは相当難しいだろう。

 こうした単発の事件が起こるたびに悪く評価される教育現場だが、いじめ相談が増え、いじめる方も相談したいという、どうコメントしていいかわからない状況に陥っている。いじめ多発だけではない。崩壊している学級はかなり多い。いじめの数値過少報告と同じで、学級崩壊や対教師暴力の数値も過少申告されている。騙し騙しはもう通用しない現場だといえる。文科省の手先の教委に意味なし、現場がなんとか「再生」する道は、隠蔽をしないこと、これしかない。評価を気にして自分で自分のやりたいことを封印している教員よ、立ち上がってくれ。

 メディアでいえば、NHKの政府への屈服は言論統制の兆しでもある。「命令放送というから悪い、少なくとも言い方を変えなければならない」と虎之助はのたまったが、これにはビビル。なぜなら、外見変えて中身、つまり命令的であることは、そのままでいいといっているにほかならないからである。

 ここに共謀罪が成立すれば強烈な独裁政治が生まれよう。叩くべき強力な左翼が不存在なまま、ライトウィングが膨張し強化する。これが日本型のナショナリズムの特徴である。「日教組解体」などと森や昭一がわめいているけれども、内心はそれほど怖い敵だとは思ってもいまい。そう発言することによって体制強化の助走にしているだけである。謙抑性がなくなれば超警察国家のできあがりである。経済は規制撤廃、思想は束縛、自由の在り処が不自然な現実である。

 大人社会は、もう、死に体である。高度情報化社会とか、国際化社会とか、カッコのいい形容は見せ掛けである。希望ある将来社会がみえない。21世紀の最初の10年間は、おぞましい社会への舵取り期間となった。そのかみ、啄木は時代閉塞の現状と的確に社会を評したけれど、啄木が現代を評しても、このようにいうのではないか。情報が公開される度合いは格段にすぐれている現代であるのに、この無力感はなんなのだろう。暗い世相である。この社会がいい方向に向かっていると考える知識人がいるとすれば、その知識人は、断じてまともではない。なるほど国家の末期とはこうしたような状況なのか。

 ワタクシを含めるかどうかはさておいて、ごく普通の国民は、ぼんやりとした不安を自覚したくないかのように、ギリギリの生活を営んでいる。倫理が政治から削ぎ落とされ、市井の人びともカネに絶対的な価値をおき、美徳を忘れてしまった。近未来に投資するのも自業自得やもしれない。そうした社会に生きる大人が、子どもに何を注意できるのか。何が正しくて、何が間違っているかを判断する能力など、現代では必要でないらしい。これなら教育・学問など不必要だろう。いかに従順であるか、その内容がよいことであろうと悪いことであろうと、上意下達、いうことを聞くのがお役目。人生を守り家族を守るためには耐えなければならない。軋んだ精神。割かれる心。軍国精神の経済版である。個人が潰されていく。

 21世紀は、人間の生きる生き方を示してくれる偉大な哲学者の出現を望んでいる。まちがっても、それは宗教的指導者ではないし、使い捨ての政治指導者でも、腐敗した政治指導者でもない。ロマンティシズムや啓蒙では欲望充ちたこの社会を生きる指針を示せない。そうしたドロドロの地盤から発生するのは、チョビ髭を生やしユニフォームを着た人物と相場は決まっている。国旗に敬意を示すよう強制。危うい。そうした社会にワタクシたちは生きている。
(11/23)

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昨日、「集団討論を実施しました。テーマは『「教育は人なり」ということについて、議論してください』でした。今夏、実際に出題されたテーマです。(中略)『教育は人なり』をいかに解釈するか、ここが討論の要となるところです。この『人』とは誰のことを指すのでしょうか。その共通理解は討論参加者に生まれたのでしょうか。哲学的なテーマのようですが、切り口が問題となりますね」と書きました。今回このテーマに、6名の方が挑んでくださいました。時間は20分です。A〜Fさんとして、いつものように議論の模様を再現します。

 第1発言者は、Dさんでした。Dさんは、この「教育は人なり」をどう解釈したでしょうか。Dさんは、これをカントの「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」と同じ見地から捉えられ、説明されました。つづいてFさんは、「教える側が『人間』(的)でなければならないということをいっているのではないか」と発言され、教育とは人格と人格のぶつかりあいである、ということを述べられました。

 このように、討論はまず、この「教育は人なり」の解釈論で参加者一巡することになります。Eさんは、児童生徒と教員は、人間と人間の間柄であり、この言葉の意味は人間存在として教育の全体を教えていくことであると解釈され、「自分という人間」を伝えることが教育ではないのかと考えてるとおっしゃいます。Aさんは、教育は人と人とのつながりを意味し、その関係をどう作るかというところに教員としての力量が認められるとし、Dさんの議論に関わりつつ「狼に育てられた子」のことについて若干お話されました。Cさんは、教育によって人は人となるとして、人間は、「人間的」に育てられるべきであると発言されました。ここまでで、討論参加者すべての方の「教育は人なり」論が出揃ったわけです。討論の最初に、こうした考え方を出し合うのは、スタンダートでしょう。おそらく本番でもそうなります。だから、この解釈について、核心を突いた発言者が「有利」となるのは間違いありません。ご覧のみなさんは、どの解釈に同調あるいは共鳴されたでしょうか。

 この言葉の解釈が、ビタッと面接官が考え心に思っているところを代弁するようなものだと、評価が高くなるのは間違いありません。そうした意味では、この6つの解釈は、ワタクシが考えていたものとちょっと違っていましたので、こう思っていました。「ワタクシの考えているのをいってくれるのは誰だろう」、と。

 言葉の解釈はイロイロですから決して解答とはいいませんけれども、ワタクシがこのテーマで議論してもらうにあたって、「教育は人なり」は、「教育は人=教師なり」⇒「(学校)教育はそこで働く教師にかかっている」⇒「学校教育にたずさわる教員にはどんな資質が必要か」と読み替えており、議論の中心ポイントを教員としての資質能力とみていました。これが正しいかどうかは関係なく、たとえば本番で面接官が感じたこと、つまり議論してほしいことをグサッと刺すことが好評価なワケです。後で討論の傍聴者のお1人がいっていましたように、一般論的な「教員に必要な資質能力論」に、「我が自治体の教員像」を絡ませて議論できればなおよいわけですね。

 一通り発言が終わって、上のワタクシの考え方に近いと感じられるものが出てこず、どうなるのかなと行方を見守りながら聞いていたのですが、どうであったでしょうか。とりわけ、「資質」という言葉が出てこなかったのです。

 Aさんが次に発言されました。Aさん(とすぐ下に書きますようにEさん)の発言が、ワタクシの考え方と一番近かったかもしれませんね。教員としての力量の問題と捉えていたわけですから。Aさんは、この立場から、児童生徒がより人間らしく成長するために、あたたかみや厳しさを持って常に接したいと述べられるにとどまりましたけれども、どうすればそうしたことが実現できるのか、そのためにどんな努力を現在しているのかを付加した発言にすると、グッとよくなります。

 Dさんは、生徒と先生の関係性を議論に取り上げるだけではなく、生徒同士の交流、教員と保護者の関係性をどのように作っていけるのか、ということをAさんの発言された「力量」をきっかけに述べられました。Eさんは、教育とは人からものを教わり学習することであると規定し、だから教員の人間性が大事であると力説され、そこから「教育は先生なり」を導き出されました。ご本人は「うがったみかたかもしれないが」と断り書き発言をされましたけれども、すこぶる核心を突いていますよ。

 また、教員は児童生徒を集団としてまとめる司令塔でなければならないとも発言され、ツボにはまったご意見といえます。Fさんは、このDさんのご意見を受け、それでは教員として何ができるのか、ということを以後議論していきましょうと討論参加者に提案されました。こうした議論の方向を指し示すひとことは、集団に貢献する意味があり、いい感じです。この「教員として何ができるか」に、Fさんご自身は、インターンシップの経験を元に、授業補助体験で学んだことを語ってくださいました。その内容は、授業中飛び出していった生徒についてのことです。ここから、生徒との信頼関係の作り方を問題提起し、生徒が辛いときにどんな声を掛けるべきかということをお話されました。

 Eさんがこれに応え、スクールサポート経験を述べられます。中学校で授業に「入っていけない生徒がいた」。注意しても聞き入れないで苦労した体験談です。そこから、人間関係ができていない状態で注意しても生徒は反発するだけと悟り、人間関係、信頼関係を生徒と結ぶことが第一条件であると自覚したと述べられました。

 Dさんも、この議論に立ち入り、児童生徒は個性の塊で百人百通り、だから多様な「方法」で接していかなければならないと話され、児童生徒のよいところを認め、それを一層発揮させるように指導したいと抱負を語られました。そして、こうしたよいところの発揮のためには、発表型の授業が求められているのではないかとご意見されました。百人百通りという点では、Aさんがつづけていわれたように、生徒の立場に自分が立ってみること、置き換えて考えてみることが大切であるとご意見されました。Bさんは、D、E、Aさんの議論を聞いて、信頼関係を築くには、教員にはカウンセリングマインドが必要、「相談しよう」と児童生徒に思わせるような教員になりたいと話され、児童生徒との信頼関係が成立すれば、保護者との信頼関係もできあがってくるのではないかと述べられました。

 ここから、Cさんは、児童生徒との人間関係をしっかり作り、その上で地域との結びつきも強めていけるのではないかと参加者に投げかけられました。Eさんはこれを受け、学校が地域との関わりを強めるのは、いわゆる「開かれた学校」との観点から求められる喫緊の課題であると述べられました。教員の活動範囲の問題として、この問題はあとで議論になりました。すなわち、「教育は人なり」といったとき、その教育を「学校教育」と捉えるのかどうかということですね。学校以外にも教育の場は多々存在するし、学校外教育に教員がどう関わっていくべきか、こうしたトピックまで議論をおよぼすべきなのかどうかということも検討されました。

 教採が公教育の教員を採用する試験であるかぎり、公教育の学校に勤める先生に求められる資質能力を議論するのが妥当です。だから、学校に勤めながら、いかに外に目を開くことのできるか、いわば視野の広い教員像とはどのような像か、ということをトピックにすえるかぎり、それはこの場で議論するに値するものだと思われます。

 このことと関連し、Fさんの見解は、児童生徒と地域の関係性は決して濃いものではない、ということで、だからこそ、段階を踏んで関係作りを進めていくべきであると述べられました。地域と児童生徒の関係はたしかに思っているよりも薄いし、「地域の教育力」もその実体はよくわかりません。地域の教育って何を指していうのかはっきりしないのですね。この点、次の発言者Dさんは、地域で児童生徒に注意する大人はいないのではないかとご自身の感覚から述べられました。これを何とか改善するには、挨拶の励行などがひとつの方策となるだろうとのことです。

 それにしても、「地域との連携」や「地域の教育」という事柄は、ほんとによくでてきます。いろんなテーマで議論を毎回している当勉強会ですけど、「地域との連携」はよくよく登場しますね。

 Eさんは、授業風景を見てもらう学校開放週間を設けた学校について語っていただきました。そこでは、多くの方が参観に来られたそうで、どういった教育をしているのかをみてもらういい機会になったそうです。また、学校教育に対する理解も深まったそうです。こうしたオープンスクールは、様々なところで行われていると思います。受験生のみなさん、一度、近くの学校に問い合わせてみて、好奇心持って「いっていいですか」と尋ねられたらいかがでしょう。とりわけ、学校世界と遠いなあと感じておられる方にオススメです。今の現場の抱える問題を垣間見ることができます。将来の職場体験といってもいいでしょう。これは是非やるべきですね。授業をする先生方も緊張するし、生徒も「お客さん」が来ているとどのような態度をとるかもうかがえます。問題意識が高まりますよ。上でもあるように「開かれた学校」なのですから、断る学校は少ないのではないかな。

 こうしたご意見が登場する一方で、Bさんは、地域の人びとは学校をよくみている、児童生徒を観察しているとご意見されました。たとえば、むかしは掃除などちゃんとやっていたのに、いまの児童生徒はあまりしないね、あるいはちゃんとやらないね、といった意見を聞くというのです。人間教育の方で、地域の人びとの目が光っている。そうしたご意見です。

 2つの違った意見が出てきて、どのように討論参加者が折り合いをつけるか面白いところでした。「悪いところは目に付く」、「いいところはなかなかわかってもらえない」というように、議論を膨らませることもできたのではないでしょうか。その先には学校評価の問題、ひいては教育再生会議を話題とし論議する余地がありますね。

 さらには、こうしたことを考えるのは、「いまの子どもと、あなたが子どもだったときと、どういう点が変ってきていますか」といった個人面接質問に答えることの練習にもなります。また、「いじめが陰湿化した」とはよくいわれますけど、このことと情報化の関係を問うてみるのも、いい教育的思考の訓練になるでしょう。「悪いところは目に付く」のはずなのに、それが目に付かなくなってきている。

 チェーンメールで、いじめに強制参加させられるケースがあると聞きます。こうしたいじめは「電脳生活」が進行した結果でしょう。人と人との関係を密接にし、素晴らしい交流を深められるはずの携帯ツールが、逆に児童生徒の学校生活を歪めている悲しく切ない現実があります。ここから、児童生徒に携帯は必要か、といった議論や、学校に持ち込まないとして、家庭教育と連携していないと携帯保持に歯止めがかからないという議論もでてきます。作らない持たない持ち込ませないは非核三原則ですけど、携帯も、持たない持ち込ませないの2つをどうするかですね。高校ともなると、そうはいってられない。すると中高一貫教育において携帯に関する校則をどう作成すればいいのでしょう。中学生はダメで高校生はOKといった校則が浸透するかどうかですね。ちょっと脱線しました。

 実は上のBさんの発言が終わった時点で時間がきて、討論は終了しています。6名で全20発言機会でした。ということは、1回あたりの発言時間は、平均1分ということになります。これは多いか少ないか。テーマに対するアプローチがうまくできて、活発さが増すと、30近くになります。討論の場数を今後どしどし踏めば、もっと短く発言機会が多い集団討論になっていくでしょう。

 このテーマに対するワタクシのコメントは、各発言の行間に埋め込んでおりますが、「教育は人なり」の解釈論からはじまり、どんなふうに議論を進めていくべきかの設計が求められます。これが討論参加者に意識されることを期待します。今回の討論は、ぐるぐる同じ意見が発表されていた時間帯がありました。それをダイエットし、論点をたくさん出すことが要求されます。集団に対し、問題提起型の発言をしてみようと意欲してくださいね。

 内容的には以上ですけど、形式的といいますか、外見的な面では、どこをみて話をするか、意見をいうかということが注意されました。集団討論の際は、あんまり面接官をみなくていいとワタクシは考えています。議論に実りあり白熱するとき、面接官がいることを忘れてしまうものです。そういうのがいいのではないでしょうか。
(11/22)

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先日19日、第96回当サイト主宰勉強会を開催いたしました。ご参加いただいた男性2名女性10名のみなさま、ありがとうございました。今回も、新しく参加いただいた方がいらっしゃいました。いかがでしたでしょうか。今後もよろしくお願いしますね。勉強会は、「来るもの拒まず、去るものちょっと追う」のスタンスで実施しております。あやしい宗教団体や政治団体ではありませんので(笑)、「よし、勉強しよう!面接とか討論とか、わからん!難しい!苦手!」などと対策にお悩みの方、お申し込みお待ちしていますね。その際、アドレスを間違ってご記入されないよう、気をつけてください。返信できませんから。当サイトの内容や、運営から参加すべきかどうかの判断いただきたく、よろしくお願いします。

 勉強会は営利ではありません。しかし、会合を開くかぎり、若干の負担をお願いせざるを得ないことは、ご理解ください。また、少人数でやっています。座席が20ほどしかありませんので、座席の確定をしております。申し込みながら満席でお断りせざるを得ないときもあります。ごめんなさい。

 さて、第96回では、2つの自治体・美術で合格されましたGさんから2次報告をしていただきました。どうもありがとうございました。つづいて、「議論の叩き台となる教育学講義」をワタクシの方からいたしました。今回は、理性、計画、内界などを手がかりとし、お話させていただきました。次回もこのつづきを講義いたしますので、イロイロとご叱正お願いしますね。講義はあと5回ほどで終了する予定です。1月から、答申を読んだり、討論を2回にしたり、工夫を凝らしてまいります。

 大阪府の過去問解答解説は、同和問題、人権問題の歴史について解説いたしました。穴埋め問題を確認しつつ、理解を深めてくださいね。この問題、世界人権宣言がポイントでした。しかし、同対審答申、水平社宣言も読みました。資料に実際あたるのは、時間がかかるものですが、後で絶対、力になります。来週も人権に関する問題ですが、歴史ではなく具体的内容の解説となります。また、コピー代だけで資料提供しますので、10円玉や100円玉を持ってきてくださいね。あまりお金をかけないのが、勉強会のポリシーですから。

 最後に集団討論を実施しました。テーマは「『教育は人なり』ということについて、議論してください」でした。今夏、実際に出題されたテーマです。その再現はあすにいたしますけれど、「教育は人なり」をいかに解釈するか、ここが討論の要となるところです。この「人」とは誰のことを指すのでしょうか。その共通理解は討論参加者に生まれたのでしょうか。

 哲学的なテーマのようですが、切り口が問題となりますね。
(11/21)

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