日々旁午

2007



報告が遅れました。第146回開催時の集団討論の模様を再現いたします。今回は6名の方に20分間チャレンジしていただきました。テーマは、「髪を染めている生徒がいたので注意したところ、後から保護者が『誰にも迷惑をかけてないから良いじゃない』と言ってきました。あなた方は教員としてどう対応しますか」でした。ステレオタイプになりがちなこうしたテーマに、どのように新鮮な風を吹き込めるか、それが腕のみせどころといっていいでしょう。あまりにもテーマに近視眼的に接近すると、話題が簡単に尽きてしまうからです。
 まず、Bさんが口火を切りました。いつものようにテーマを確認されつつ、「誰にも迷惑をかけていない」というところにポイントをあて、それでは校則を破っていいのかとテーマの本質に接近します。学校に校則がありそれを児童生徒が守らなければならないのは、児童生徒に規範意識を育みたいという学校の願いがあるからであるとBさんは説かれます。規範意識の形成というように大きな問題意識に結びつける出発点をBさんは用意されたといえるでしょう。Cさんもこれに同意されますが、髪の毛の色にヨリ注目し、色が違うと見た目が違うのであらぬ問題を惹起する可能性があるというニュアンスの内容を話されました。そして、こうした保護者には、電話対応ではなく実際あって話をする、しかも管理職の先生とともにあうことも大切であると述べられました。Cさんは、個性尊重の姿勢と集団生活における規範の問題にも言及されました。ところで管理職の同道を求めるのは、いいのか悪いのか。これは微妙な問題です。なぜなら、先生やっているのであるから独力で問題解決できなくてどうするとの考え方もあるからです。「いつでも管理職といっしょ」では、困ります。職員会議で話題になる昨今のモンスターペアレント対策ですけれども、そこでの教員間の基本ルールの確認と共有があります。それを踏まえての対応というように説明されるとよいのではないでしょうか。
 つづけてFさんは、他者に迷惑をかけていないというのがこの保護者の主張であるとし、しかし、たとえば路上喫煙など誰にも迷惑をかけていないようでありながらどこかで悪影響を与えている例を挙げ、この考え方が間違いであると指摘されます。学校の雰囲気作りのためにも、髪の毛の色は統一感ある方がよいとのお考えで、黒いスプレーですぐに対応してもらいたい旨のことを述べられました。ただ、あとでも話題になりましたが、カツラは…
 しゃべり場!きょうは、ここまで!(ツカレマシタ)
(11/20)

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昨日は第146回勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。現職のG先生のご参加も得ることができました。ありがとうございました。また、今期合格されたNさんにも参加いただきました。
 昨日は、まずワタクシの方から講義をいたしました。そこでは、先週のおさらいである教育課程編成についてや「教育する意味」について深める議論がありました。どのような教育観をもって児童生徒と対面していくべきかは、教員になってから一番問われるものでしょう。それについての私観を述べました。その際、「水のようなもの」という表現で児童生徒を指導していくとのご意見もありまして、考えさせられました。「水」と表現される教員の教育姿勢は、学習における教育方法、児童生徒との信頼関係形成について、自分なりの核を育んでいくことの求めに応じた発言であったと思われます。このあと実存的課題について議論しました。
 次に、大阪府の過去問の検討でした。今回は、特別支援教育についての問題でした。特別支援教育に関する重要答申について、選択肢に関わるかぎりで説明をいたしました。選択肢はそれぞれの教育術語の定義になっているものもあります。それらはそのまま記憶してくださいね。また、表示したキーワードは是非面接でも生かせるようにその使い方をマスターしてください。来年も特別支援については必ず出ます。「新しい障害」についての理解も必須です。がんばってください。
 最後に集団討論を実施しました。この模様の再現は、次回更新時にいたします。
 さて、昨日は、今期合格者を祝い、来年挑戦する方にエールを送る会合、「祝挑会」を開催しました。現職の7人の先生方はじめ、みなさま、お忙しい中お集まりいただきましてありがとうございます。40人を超える盛大な会合となりました。お礼申し上げます。この会合を契機に新しい出会いもありました。今後もよろしくお願いします。
 花束、ありがとうございます。「花の似合う男」は1万人に1人といわれます。その1人になれるワケはないですが、不器用でも花束を抱ける幸せを感じることができました。ありがとう。

 これから冬、ほしかった本を買って小脇に挟み、新しいネクタイをこれまた新しいネクタイピンでとめ、紫を少し含んだ帽子をかぶり、ストライプのマフラーをして街にでかけます。
 追記:「大変とは、大きく変わると書きまして…」、祝挑会のお写真お持ちの方、添付メールいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。
 追々記:「忙しいとは、心を亡くすと書きまして…」、みなさま、お風邪など召されませんように。
(11/18)

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あすは、第146回勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、あすは、JRなんば近辺開催ですので、お間違えないようにお願いします。JRなんば駅徒歩1分です。
 当日は、いつものプログラムです。集団討論のテーマをお伝えします。「髪を染めている生徒がいたので注意したところ、後から保護者が『誰にも迷惑をかけてないから良いじゃない』と言ってきました。あなた方は教員としてどう対応しますか」という、モンスターペアレント対策的テーマです。ひろくは生徒指導の問題ですね。
 昨日のつづきを、いじめの問題と絡めて書こうと思っていたのですが、現在、ちょっと熱がありまして、あたまがまわっていません。また次回の更新にいたしますね。フィー
 私信:Yさん、Kさん、資料届きました。ご無理なお願いお聞き届けいただきまして、ありがとうございます。合掌。
(11/16)

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ひとは、泣いたり、笑ったりする。怒ったり、しんみりしたりもする。人間は基本的に感情に支配されるのではないか。理論的にものをしゃべったり、冷静の上にも冷静な判断を下すことができるのも、あらゆる人間の精神的な在り方についてわかっているからである。感情は左に右に動くように考えられているが、実は一定程度の振幅にそのうちに収まるものである。笑いも怒りも、なんらかの価値判断も、その人の持つ根源的な精神に基礎付けられ、いつしか固まり、姿を整える。それが年齢的にいつかというのには個人差はあるけれど、振幅の少ない感情形成がなされるのは、30歳代であろうか。
 いつしか固まった一定のものの考え方は、外的接触を多様に経験し、蓄積し、感情作用を伴ってまとまる。それに思想という名が与えられる。信念もこの思想が形成されて一層堅固なものとなる。ただし、いくら思想が確定するといっても、それは当然流動化している社会環境の影響を受け、さまざまに輪郭が変わっていく。思想はこころの動きにまとまりをつけたものであるから、社会環境、それは政治的状況や経済的状況に大きく左右され、伸びたり縮んだりはするが、しかし、振幅の少ない感情形成ができあがった後では、社会環境から受ける可塑も、そうそう大きなものではない。大人になるということは、こうした思想形成、自己による感情の自己支配が完成している状態を指すのであろう。
 そうすると、一定のものの考え方、それは政治的にはイデオロギーの問題において、倫理的には善悪判断として試される。個人の側に堅固とした思想があれば、主体的判断が可能となる。そうした原質を形成する時間が、6歳から20歳くらいまでの思春期、青春期である。原質だから、そこにどのような方向性を示すか、示されるかが個々人の思想形成にとって分岐点となる。イデオロギー的にはこの時期においては中立的な理解であってほしいし、倫理的にも多様な倫理に接触し、セレクトする自己を形成してほしいものである。この時期における指導者は、大人の立場に立つものとしては、保護者であり、学校の教員である。分岐点に的確な言葉と態度を示すことが、この両者に要求されている。
 いまは、保護者はおくとして、教員は、どのように個々人の思想形成に寄与することができるのか。ことは、思想つまりこころの問題であるから、感情作用の問題であるし、赤ペンをいれることがほぼ無理な対象物である。しかし、人生観や世界観形成にもつながるこころの形成、つまり思想形成に影響を与えられないでは教員とはいえないだろう。
 このことに関して最大の問題は、学校という強制教育の場で、どんなふうに思想形成に寄与する的確な言葉と態度を示せるかということに尽きる。それは、形を変え、手段を変え、教育活動の隅々にまで浸透させる必要がある。
 こころはイロイロに変化する。大きなものでもあるし、小さなものでもある。こころを宇宙に形容することもできるし、薄っぺらな、なんら大切にしなくてもいいものにも喩えていいかもしれない。悲しさを感じればこころはキューンとなり涙が頬を伝う。そう感じるこころを大切にしたい。しかし、何に悲しみを感ずるかは千差万別で、これに悲しめ、と命令することはできない。感受性の違いによってその程度も分野も変わる。
 そうだとすれば、教員はこころの教育をしようとしても限界がある。いくらなんでも児童生徒と完全な同一性を保てるわけがなく、イデオロギーにせよ、倫理観にせよ、強いることもできない。
 ここに巨壁が聳え立っている。そう、「心の教育」なるものである。教採試験の討論テーマでもよく出る。この「心の教育」をどうするかは、一種の踏み絵的に作用し、教員になってからも、直接的な懲戒として教員を呪縛するものである。悲しんだり、笑ったり、怒ったり、愛したり。こうした精神作用を「教育」することが、現場で求められているのを、どのように判断するか。
(つづく)
(11/15)

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PCvsケータイ論争というのか、PC派とケータイ派の区別というのか、インターネットにアプローチするキャリアの問題がある。もちろん両刀使いがほとんどだろうし、ワタクシもそうなのであるけれど、その使用率は、ワタクシの場合圧倒的にPCに割く時間の方が長い。この反対の方もいるであろうが、ケータイで長い文章を入力するのはカンベンしてもらいたいというのが、大方のご意見ではないだろうか。
 ケータイは便利である。一番の利点は、常時スイッチオンということにつきる。いつでも連絡がとれる。電話の延長線上に位置付けられるモバイル端末という表現がピッタリである。いつでも点灯しているということは、いつでも受信OKなわけで、これは、「時は金なり」を地でいける。その意味では、ケータイの留守電というのは、不思議なものといえる。それなら電源を切っていればいいのであるから。
 ところで、すでに電話としての使用よりも、メーラーとしての使用の時間が長い人の方が多いだろう。それは、電話よりメールの方が対人的な距離感がないように感じるからだろう。ウェットなのである。だが、舌足らずになって、内容が正確に伝わらなかったり、受け手が十分な読解能力を持っていなかったりすれば悲惨ではある。これについては「情報教育の『内容問題』」で論じたので、参照していただきたい。
 手軽さ、これがケータイの魅力である。やわらかさ、遊びゴコロ、そうした性格も備えている。絵文字などの使用は、ココロをほぐす役割を持っているのだろうし、アスキーアートをも駆使して楽しんでいる人びとは多い。「気にしているよ」との心境をすぐさま10数文字で伝えられるメリットもある。
 ケータイに対してPCはどうか。短所を挙げる。
 第1に、モバイルといっても限界がある。重さでいえば1kgを切る軽量ノートPCも存在するが、それでも持ち運びに躊躇するときはあろう。
 第2に、PCは、起動時間が長い。ケータイのように常時点灯でもない。テレビのようにスイッチをつければすぐに画面が立ち上がるのならいいのであるが、2、3分は待たなければならない。もちろん常時点灯ではない。ここでケータイとまた差が出る。メンドクサイのである。
 第3に、電源の問題がある。ACがないと不安なのはもちろん、モバイル仕様であっても、現状では10時間ほどが最長の駆動時間ではないか。ワタクシのPCで4時間30分持つ。予備のバッテリーを持ち歩いているときでも8時間くらいしか持たない。これでは、ここぞというときの機を逃す。
 第4に、落ち着いてどこかで開いて使わないとダメである。まあ、所詮、ケータイと比べること自体が間違いなのかもしれないが。
 しかし、大画面は魅力である。セコセコしたケータイの画面でネット接続しても、得られる情報には限界がある。PCが有利である。それに、ケータイでネットをすると、リンクをたどるのがとっても手間。これだけでいやになる。だから、両刀使いのワタクシでも、滅多なことでケータイでネットに接続しない。調べ物や文書類、たとえば最近よくみる最高裁判例や各種政府系文書PDFなど、ケータイでみられるわけがない。ネットヘヴィーユーザーになればなるほど、ケータイから離れていく。このサイトでいえば、ケータイ対応のページを用意しているものの、そのアクセス数はそれほど多くない。しかし、このサイトを知ってもらうチャンスとして、設置している。
 PCのメーラーは、これまた便利である。送受信において文字制限がない。ケータイにメールを送るとtoo long 500でよく戻ってくるのである。500字以上は受信できませんといって戻ってくるわけである。これが一番困る。ケータイの受信設定に応じて字数を考えて送信しなくてはならないので、ワタクシのようにケータイに向けて文字を多数送ることをやっていると、「ああ〜」となってしまうのである。
 重要なやりとりのメールにケータイを使っている方はいない。もちろん文字制限の問題もあるけれど、送り手の意思が正確に伝わるよう、字数をかけて書くことが必要だからである。それでも大切なビジネス上のやりとりでは、メールは使われない場合が多い。郵送である。メールの場合、不時着もあるからである。
 ところでメールは、文章が証拠として残るから、やりとりに誤魔化しがなくなる。ビジネス上の「失敗」やら「勘違い」やらは、必ず残った証拠を基にして解明されることになる。今後は、電子証明メールが大事な場面では主流になると思われる。いやすでにもうなっているかもしれない。すなわち、PDFのメール版のようなものができて、書状の重要性をヨリ強固かつ正確なもの、つまり、「内容証明化」することになるわけである。これがケータイでできればよいのであるが、おそらくそうした機能付加は無理であり、PCの担当となるにちがいない。
 まあ、以上のことは、すべての方が感じていることを書いたに過ぎない。むしろ問題は、PC派とケータイ派とではどちらのユーザーが多いかということであり、それが情報共有にどんな影響を将来もたらすかということである。むろん、ケータイユーザーの方が圧倒的に多い。そして、思ったほど、PC活用をしている人数が多くないという事実を、ワタクシを含めてPCヘヴィーユーザーは自覚しておく必要がある。
 日本の人口1億2000万人としよう。そのうちPCに余裕もって向かえる人間が、どれくらいいるだろうか。年齢的にいって、15〜55歳で考える。この範囲には異論はあるだろうけれど、そう仮定すると40年×150万とすれば、6000万人となる。これじゃ多いと思われるので、PCおよびケータイを日常的に活用している人数は、4000万くらいになるか。へたをすると、3000万人くらいかもしれない。
 毎日1回以上、自分のためつまり私用でPCの電源をいれる人間となれば、もっと少なくなるだろう。その数は2000万人もいないだろう。
 インターネットは、広告収入でラジオを抜いたとはいえ、まだまだテレビには、およばない。宣伝効果はかなり低い。それは毎日使う人が少ないからである。週に1回しか使わない人もいることであろう。テレビの視聴率1パーセントが100万人であるから、20パーセントで2000万人がみているということで、これはすごい数字である。ゴールデンタイムの1時間に2000万人の目を引き付けるのである。こうした指標がネットにあるのかどうかは知らない。帝国バンク、電通などがイロイロ調べているのだろうとは思う。
 テレビは受動的媒体であるのに対し、ネットは主体的媒体といえる。みるものは自己選択、その幅もテレビとは雲泥の差がある。たかだか10数チャンネルしかないテレビと比べ、ネットではチャンネルといっていいかわからないけど恐ろしい数字である。それは、グーグルの検索総数から理解されよう。情報の平準化装置がテレビであるとすれば、ネットは情報の氾濫装置である。テレビは世論操作可能な装置であるが、ネットはそれとは逆のベクトルを持つ。しかも、学校HPや個人ブログ、このサイトも含めて、極小の世界を個別的に形成する。多チャンネル化した情報世界は人間の意識をあきらかに変質させ、21世紀の人間を、交差点なく、渋滞のない情報空間に放り込んだのではないか。それがいいか悪いか。両方の面がでている。悪い面がいじめにつながっているのはいうまでもない。
 PCではじまったネット空間をケータイが侵食していると現状を捉えることができる。今後は、PC=ネット+メール+仕事中心、ケータイ=メール+ネット(割合小)+遊び中心、というような棲み分けが今後一層進むことと思う。もちろんケータイの電話機能は、仕事活用である。遊びでの電話機能活用は、思ったほどないのではないだろうか。もちろん一部かけ放題のナンバー指定はある。ソフトバンクモバイルのネットつなぎ放題がどこまで成功しているのか、どうなんだろう。
 ケータイはPDAを駆逐した実績があるものの、ネット空間までは取り込めない。たとえばパーム、クリオやシグマリオンなど、もう復活の可能性はほとんどない。
 コンパクト化の進行はPCにとっては痛し痒しではあるが、さすがに機能的な代償をコンパクト化に求めるわけにはいかないだろう。ケータイは、これ以上劇的に大きさが変わることはない。だから中間域の端末に生きる道がないのである。
 ワタクシは、PCの利用人口が少ないことに、不思議さと恐ろしさを感じている。まさか飽和状態になっているとは思っていないけれども、こんにちの利用状況を若者に限ってワタクシの実感を記せば、大学生でも6割くらいしかPC所持者はいないのではないだろうか(たとえば、1年生に貸し出しを実施している奈良女子大学(だったかな)で、どのくらいの貸与・利用者がいるのか、あまりいないような気がするのである。奈良女の方、ちょっと教えてね、PCのメールで)。そのうち毎日活用するのは2割くらいだろう。とすれば、6割の2割だから、1割ちょっとが「活用者」となる。これはきわめて少ない数字である。
 これがデジタルディバイドを生むし、ごくごく簡単なネットスキルをも理解しないままのケースもある。とりわけ、いくら大画面とはいえ、視角にすべてが入るPCモニターで、イロイロな工夫が凝らされているのに気づかないこともある。簡単なことだが、asahi.comの文字をクリックすると、どのページの記事をみていてもトップにすぐ戻ることができるということさえ、周知されていないように思われるのである。
 推測でしかものがいえないので難儀である。だが、これがワタクシの実感である。この「活用者」の増大が、本格的なICT社会形成に関わっているといえよう。
(11/14)

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「おまえに別件などない!」、「すべてのものには理由がある!」、そのほか、「そうですか〜」でブラッドピットを喰ってしまったソフトモバイル犬であるが、犬=おとうさん、というところに、かわいさと権威のなさが表現されていて、ものがなしい。
 父性の復権などといわれていた時代もあった。それが父親不在で犬にまで成り下がってしまった。犬だと厳しいことをいっても許される雰囲気があって、断定調で「理由がある!」といったとしても、かわいげが厳しさを打ち消している。この役割を果たせる男優はいないであろう。
 これが、おとうさんではなく、おかあさんだったら、どうなんだろう。おそらく登板するのは猫なんだろうなと思うが、猫はすべての状態を表現できないので役不足となろう。おかあさんの代わりの動物はむつかしい。
 ところで、酒のCMに教員が登場するものがある。「先生のこと嫌いだった」、「だから僕も嫌われる先生になる」というせりふのある日本酒のCMである。好かれる先生と嫌われる先生、どちらになりたいですかといった面接の質問事項があるけれども、どうなんだろう。両者兼ね備えた資質を持たなくてはならないのはいうまでもないが、愛される教員、というのが理想なんだろうと思う。
 愛される教員、愛すべき教員という存在の中身はどんなものなんだろうね。
(11/13)

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今回の集団討論の参加者は6名、20分を切る時間でした。仮にA〜Fさんとして、議論の行方を追っていきます。
 まずAさんがテーマを読み上げ、教員の立場から何ができるのかとの問題意識を提示し、「家庭の教育力の低下について、学校とのかかわりにおいて問題点をあげつつ議論してください」にアプローチしようとされます。その際、例の「早寝早起き朝ごはん」の標語を出され、朝食を食べない児童生徒に言及し、学校の取り組みとして、デザートを渡すなどすることも考えられると述べられました。のっけから申し訳ないのですけど、この発言は、「そうした取り組みがある」というのはわかるし、それも一興でしょう。しかし、家庭の教育力の低下を食い止めるというよりはむしろ、さらに「なんでも学校に任せちゃえ」にならないでしょうか。どこまで学校が「サービス」を提供するのかの視角になっています。学校が家庭に食事の重要性を説き、どういうようにタイアップしていくのかを議論にした方が本質的な論議になりますよ。
 つづいてCさんが発言されます。先の標語から睡眠不足の児童生徒が多いことを指摘し、授業中でもつっぷして寝ている児童生徒がいると指摘されます。そこで、朝起きて家庭内で挨拶があるのかどうかを問題にされました。「おはよう」といいあえる家族関係は重要です。では、こうした望ましい家庭環境整備に、学校はどういうところからアプローチできるのでしょうか。そこを考えましょう。Bさんは、「学校が何をやっているのかわからない」という家庭の存在を述べられます。これは、教育内容の公開と情報共有の問題です。とすると、いわれるように学校通信の活用が一つの手法でしょう。学習において「児童生徒の音読チェック」を学校通信を媒介して家庭に示唆を与えることは、学校と家庭とを往復する文書たる通信の面目躍如といえます。最大の課題は、それを読む家庭がどれだけあるか、あるいは、児童生徒がどれだけその通信を保護者に渡しているか、というところにありますね。その点、後で述べましたが、「学校と家庭とを結ぶ最大の存在は児童生徒そのものの存在である」ということを常に意識してほしいです。通信のことばかりいえば、児童生徒の存在そのものが忘れ去られているように感じました。
 この点、家庭環境に対するワタクシたちの洞察が必要です。Eさんがいわれるように、もう何年も前から共働きの家庭が多く、児童生徒と保護者が接する時間が少なくなっています。とすると、愛情が足りない児童生徒もいるわけですね。そこから、Eさんがいわれるように、学校が愛情を補充することはできないか、といった発言になるわけです。これは、具体的には「声かけ」となってあらわれるのでしょう。学校ができる、教員ができることとして、些細な児童生徒の変化に注意するのが限界なのかもしれません。愛情をどのように「血のつながりのない」教員が与えられるのか、いうのは簡単ですけどむつかしい問題です。
 Fさんは養護教諭志望の立場から、虫歯の児童生徒が多いことを指摘され、食事後の歯磨運動を提案されます。これは面白いですね。保健室の先生らしい提案です。しかし、この提案をテーマに即して、つまり、「学校とのかかわりにおいて問題点をあげ」られたのですから、家庭の教育力の低下を食い止める方向に意見をまとめるともっとよくなります。歯磨運動は聞いているものに対してインパクトを与えただけに、「その後」を考えましょう。
 これまで出てきたご意見をまとめて紹介したAさんは、ではどう私たちがかかわっていくべきかと議論の方向性を示され、通信とかかわって連絡帳の活用についてお話されました。ここでも、先に述べたとおり、もう一歩掘り下げた発言を期待します。Eさんは、特別支援教育に携わる立場から、保護者とメールで連絡を取り合いつつ、個別の教育支援計画のあり方について考えられています。このご意見は新しい視角でよかったです。個別の教育支援計画をすべての児童生徒に拡大し適用できないかということでしたが、それは現実的には無理だとしても、そうした意気込みで教員生活を送ることが、本来、求められているのでしょう。Dさんは、ここではじめて発言、学童保育に従事していた経験から、早寝早起き朝ごはんは、結局、生活習慣の乱れということを意味しているといわれます。だから学校では、生活習慣の見直しについて、授業参観後の懇談会を活用しフレンドリーに語り合う場を設けるのがいいのではないかと提案されました。生活習慣の不確立は家庭の大きな責任です。Aさんいわれるように、場合によっては児童虐待なども潜んでいるかもしれません。とすると、関係諸機関との連携との意見が登場するのもわかるところです。ただ、テーマは学校は何ができるかですので、あまり逸脱すると困ることになります。
 虐待の言葉に反応したのがEさんです。問題を抱えている家庭において虐待が発生するのはそうだと思います。そこで「一緒に解決できないか」となるわけですけど、厳しい状態の家庭に学校は腰がひけているのが現実でしょう。児童相談所が、事件後にコメントを出すことが多いのも、この手の問題の解決のむつかしさをあらわしています。といって手を拱いているわけにもまいりません。したがって、Eさんは、具体的な解決方策を述べるべきでしょう。ただし、その意見は、現実離れしたものであってはダメですけど、しかし、半歩前に進むようなご意見であれば、面接官に強い印象を与えるのではないでしょうか。ここで家庭訪問について簡単な発言がBさんからあり、つづけてDさんが、テーマに即して「家庭とのかかわり方について、もっと議論しましょう」との発言がありました。
 これはもっともなのですけど、Dさん自身も、この提起をすると同時に語らなければなりません。これは反省点ですね。Fさんから、保健室便りを保護者に渡すこととの発言があり、Cさんから、箸の持ち方に関するお話がありました。もう少し、突き抜けたご意見がほしいところです。Aさんからは、モーニングコールをしてほしいといったいわゆるモンスターペアレントの要望に触れつつ、学校がどこまで何ができるのか線引きの問題があるといわれ、個別にモーニングコールをするなどは、それを全員に平等にすることなどできないことであるし、当然却下であるが、最大の問題は、朝起きられないことにあることを指摘し、ではどうするかと話されました。Aさんは、日中に「疲れさせるほど活動することが安眠につながる」との見解であり、自然に眠りにつけるような学校教育活動ということを解答として用意されていました。
 学校で健康的な生活を送ることにEさんも賛成し、食事の面では給食において担任だけでなく、校長や専科の先生も一緒に食事をとることも、児童生徒との重要な交流であると述べられました。
 ほぼこのあたりで15分でしょうか。最後に、Bさんから、「きょうあったことをおとうさん、おかあさんに(保護者)に伝えましょうね」といい、家庭の教育関心を高めるよう気をつけるといわれ、Dさんからは、宿題について父母といっしょにするなど家庭の自発的な学習を期待し、感想を連絡帳に書いてもらうなどしたいとありました。保護者から「ありがとう」と書かれていた経験もDさんはお持ちです。
 以上で議論は終了、18分くらいでした。今回は、討論初心者の方が多く、また、全員女性でした。大学3、4年生が3名、講師の方3名という構成です。文字にしますと議論がつながっているようですが、今回は結構、空白の時間がありまして、討論に慣れていないのが、わかります。最初は、ご自身の発言を練るのに大変でしょう。それは致し方ないことです。大学生などは、教育経験がほぼないわけで、机上の学びで応戦するほかありません。教育実習経験をそこに重ねて、講師とやりあっていく必要があります。
 一方、講師経験のある方は、集団を引っ張っていく役割を担わなければなりません。これは、これでまた致し方ないでしょう。どうしても現場経験がないと、こうした今回のテーマについて実践的なご意見が登場しないわけですから。B、C、Fさんは、発言回数が少なかったです。最初は、笑われても失敗してもなんでも「しゃべること」が大切です。意見を述べて、ドキドキしてください。ドキドキしないと、討論も、恋愛も、面白くないでしょ。
 文章では、伝えたいことの10分の1しかあらわせられません。勉強会終了後の珈琲会でも今回の討論の反省を持ちました。そこでのみなさんとのやり取りも、後に生きてきます。いろんなことを蓄えましょう。
(11/12)

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昨日は、当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。中でも、お忙しい中、現職の先生(当勉強会の卒業生)にご参加いただくことができ、ありがたく思っております。H先生には、教採についてのお話のほか、学校が一般的に現在抱えている問題点についてお話いただきました。また、参考にした本、読むべき本についてもわざわざ持参くださり、示してくださいました。ありがとうございました。
 H先生との質疑応答の後、講義をいたしました。今回は、数字の話にいい意味で「脱線」し、面白かったです。講義をたたき台に、教育課程と学年制、複線制と中高あるいは小中一貫教育の議論がありました。これと、生物学的存在としての人間の成長過程とを重ね合わせた議論になりました。
 過去問の解説は、人権教育分野についてでした。少し時間が足りなかったので、解説を端折ったところがありますけれども、配布したペーパーをご自宅でよく吟味してくださいね。問題の選択肢の出典からどの部分の引用なのかまで明示しておりますので、理解につとめてください。
 最後に、集団討論でした。テーマは、「家庭の教育力の低下について、学校とのかかわりにおいて問題点をあげつつ議論してください」でした。参加者によって、討論の出来具合は違うもの、といったことを、参加者全員が感じたようですが、これについては、次回更新時に述べます。
(11/11)

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