日々旁午

2007



先日、久々に大阪ミナミの老舗押寿司屋さんにいった。ここは、お持ち帰り専用のお店である。ミナミで遊んだあと、粋人はお土産にここで押寿司を買う。ワタクシが粋人であるかどうかは別として、自分ひとり遊んで、なにもお土産を持って帰らないのも気が引ける。そんな心の動きが購入に結びつくのである。巾着寿司が有名なこのお店、古きよきミナミの在り方を偲ばせるものがある。ここの寿司はお土産といっても別の意味を含ませて購入されもする。巾着寿司は、ミナミ広しといえども、ここでだけしか売っていないから、この寿司を持って帰れば、「ミナミで遊んできたんだなあ」ということが、証明されるのである。巾着寿司はアリバイ寿司でもあった。
 巾着寿司とはその名の通り、巾着型の寿司である。黄色い薄皮卵で巾着が作られ、海老やらなにやらが含まれたちらし風の寿司がその中に詰められている。1個食べればかなりお腹がいっぱいになる。直径8cm、高さ6cmくらいの大きさなのであるが、若い女性ならその食後感は満腹であるにちがいない。
 若い頃、よくミナミで呑んでいたワタクシは、よくこの巾着寿司を買ったものである。1個1000円ほどだが、見栄を張って2個買うのを常とした。呑んで帰るとよく感じることだが、結構、腹が減るものである。通常、そこで、ラーメンでも、となるのであるが、ワタクシの場合はこの巾着寿司であった。店のおかみさんが名物で、ミナミの路地に精通し、あれだけネオンちらちら光るお店の大群を、きわめてよく熟知していた。ここの店、あそこの店、ここのビル、あそこの上、というように。晴れた夜も、雨の夜も、電話一本で呑んでる店まで届けてくれる。雨の日は、自転車に傘を差し、赤い長靴を履いて、電話がかかってきたお店まで笑顔で届ける素敵な人だった。年のころはもう50後半、年下のワタクシがいうのもなんだが、本当に笑顔のかわいい方だった。巾着寿司を届ける人は、こうでなければならない。よく店先で、いまは店をたたんだ南地・大和屋の話をしたり、ミナミのはやっているお店のことを話したり、様変わりするミナミを嘆いたり。そんなたわいもない会話をしたものだった。巾着寿司が出来上がるまでだから、4、5分のことであるけれども、それが粋だと信じていた。
 もう、何個買っただろう。40や50ではない。学生の合格を祝ったあとで、やめればいいのに太っ腹、一つづつ巾着寿司を配ったこともある。
 おいしかったけれども、海老がダメなワタクシは、巾着寿司から海老だけ取り出して残していた。巾着寿司のメインがこの海老なのだから、罰当たりである。許してくれよ、おかみさん。
 ここ最近は忙しすぎたので、また金欠であるから、ご無沙汰していた。1年以上ぶりであろうか、先日、ミナミで呑んだ帰りに、このお店にふと寄ってみた。「おかみさんは?」とご主人に聞く。店構えでいえば、陳列棚がコの字型になっている。その真ん中にいつも鎮座していたおかみさんがいないのである。「どっかへ届けに行っているんやろ」、そう心の中で思っていた。
 「去年の夏、7月ごろ、いつものように届けに行って帰ってきませんねん」、そう主人は告げる。「くも膜下出血で、へたりこんで、そのままでした。遅いなあと思ってたら、病院から電話がかかってきましてん。冗談やろ、そう思ってました。けど、赤い長靴やいうし、着てたもんも、電話でいってるその通りですねん、いたずら電話やなかったんですわ」。
 絶句した。あのかわいらしい笑顔で、愛想よく巾着寿司を包んでくれたおかみさんは、もういなかったのである。このように話してくれた、河童にも似たご主人は、まじめに店を営み、ミナミを愛し、笑顔の素敵なおかみさんを愛していた。ワタクシも好きなおかみさんだった。いまでも自転車に乗って、ミナミの路地裏を忙しく配達しているような気がする。忙しすぎて、ワタクシの眼にとまらないだけのような気がするのである。玉屋から畳屋、千年をいったり来たりしてるに違いない。あの赤い長靴を履いて、雨の日も厭わず巾着寿司をニコニコしながら届けているんじゃないか。
 いろんな物語が、ミナミにはある。
 ウェブを徘徊していたら、写真入のブログがあったので、ここをリンクしておく。また、若き日の冒険談をここにリンクしておく。
(11/30)

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(前承)今回の討論における問題点はどこにあるでしょうか。各討論参加者のそれぞれの発言に、大きな間違いがあったり、いってはならないことをいっていたりというようなことは、ありません。テーマに対するアプローチに問題があったのかといえば、これもそう断言するほど出来栄えの悪い討論でもありません。そこで、一般論的に、テーマの本質を見抜く「解剖作業」がうまくいっていたのかどうかについて、簡単に触れておきましょう。
 ポイントは、「主語」です。テーマを再掲すると、「いじめのない学校づくりのために、学校が変えていくべきところは何だと思いますか、議論してください」でしたが、主語は、「学校」となっています。学校が主語ということは、教員がいじめのない学校に変える主役なのでしょうか。教員が先頭に立ち、学校をよりよいように変えていくのは当然です。しかし、教員といっても管理職もいれば新採もいるわけでして、こうした経験が違う複数の教員がスクラム組んで、いうなれば上の方から学校を変えていくということになるのでしょうか。とすれば、多様な資質を持った教員集団におけるいじめ対策の再編成ということが議論されるでしょう。学校が変えていくべきところといったテーマにおいて、教員が意識変革するという観点から議論するとき、スクラム組んで情報共有というのは、トピックとして正しい。しかし、あとでも議論になったのですけど、学校の施設を変える、たとえば、オープンクラス、壁のない学校、ストレスを感じさせない空間形成、教育相談室の充実、などといった視点も討論の大きなトピックとなるでしょう。
 こだわりますが、学校が主語、ということは、児童生徒は「主語」ではないのでしょうか。本来、学校の主役は児童生徒であるといわれます。いくら教員側ががんばっても、いじめが陰湿化し、教員にその本質がみえにくい現在、児童生徒の意識を変革しないかぎり、いじめ撲滅は達成されません。そう考えると、「いじめのない学校作り」の主役は、児童生徒にほかならないのではないか。ただ、3年あるいは6年で、児童生徒は入れ替わります。そうだとすれば、いじめをなくす児童生徒の意識の伝達、ということが重要になってきます。たとえば、「ひとの失敗を笑わない、これをクラス目標にしましょう」といわれる先生方が多いです。「お友達」の失敗を笑うところに、いじめの芽は発生します。このようなクラス形成のミソを伝統化できないかどうか。このように考えていけば、主語は教員だけではなくなってくる。
 実際に議論にあらわれていましたけれども、社会と学校の接点を重視し、いじめ対策を考えていくことも大切なことです。こうなってくると、主語は学校からスライドし、広く社会一般ともなります。3者連携や開かれた学校作りが、いじめを食い止める橋頭堡になります。そうした立論は広がりすぎると足元をみない空想論になりますけれども、テーマから逸脱しているといい切ることはできないでしょう。
 このように考えてくると、このテーマにおいては、主語をめぐって多様な議論の展開が見込めるといえるでしょう。柔軟にテーマを捉えることが、広がりあり、ひとつところをクルクル回る議論を回避する方法になるのが理解されます。
 もうひとつ、今回の討論では、いじめの予防策ばかりが議論された印象であって、「変わる」という「述語」の方があまりでてこなかったというご批判もありました。主語と述語は対応し、主語が多いと述語も多様になります。したがって、柔軟な態度でテーマに接すると、予防策以外の多様なトピック形成が可能になるということになります。ただ、予防策に追われるのは、「いじめの存在しない学校はない」との立場に立てばどうしてもそうなりますし、これだけいじめの問題が報道されているのに鑑みれば、いささか厳しい指摘ではないでしょうか。
 いじめの問題が出題されたら、どうしても予防策を議論することになりますし、それがない議論も、不自然です。また、予防策でない議論というのは、逆にどのようなものになるのか、予測がつきません。現実のいじめに対する処方を具体的に考えるということになるでしょうか。参加者個々人の経験したいじめの現場を報告し、そのときの対処から発言を整えるのも、一つの手段でしょう。
 このほか、いじめの陰湿化と書きましたけれども、議論に登場しておかしくなかったこととして、いじめが学校世界内にとどまらず、ネットを介して巧妙化し、複数の学校にわたって単一のいじめが深刻化することがあります。この対処としては各学校がネットワークを組む、各学校の教員間の情報共有ということになります。たとえば、大阪でいいますと、府下全域とはいいませんが、高校の制度では4学区体制ですので、この学区内の各学校が連携をとって、いじめのネット化に対応するのも、「いじめのない学校作り」となるのではないでしょうか。
 集団討論では、「他者のいっていないことを何とかいおう」とする傾向があります。他者と同じことを焼き直していっても、なかなか評価につながらないからです。そんなとき、空想をめぐらして、テーマからイロイロなところに自分を旅立たせてみることが、広く豊かな発言を生むのではないでしょうか。
 もう、今年もあと少し。いまのうちに、自分なりの教育観を持てるようにし、力を蓄えましょう。では〜
(11/29)

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(前承)次にCさんが、いじめをなくすための措置としては学校だけでなく社会の力も必要であって、社会そのものも反省しなくてはならないとの旨のご意見を述べられました。社会をみても、そこにはいじめがあるのであって、学校からいじめをなくそうとすれば、社会がその見本とならなければならない、逆に、社会一般からいじめがなくなれば、学校でもいじめなどなくなるとお考えのようです。たしかに、社会にもいじめはあります。
 学校にいじめがあるとの前提に立つのは寂しいものですが、いじめのない学校というのはごく少数でしょう。また、いじめはなくなるものではないというのは、「真理」なのかもしれません。しかし、それをそのままズバリいうのは、やはり問題でしょう。これはCさんのことを批判しているのではなく、誰しもが抱いている率直な感覚です。ワタクシたちにあっては、いじめをかぎりなくゼロに近い状態にしていくというのが、現実的な捉え方なのでしょう。
 Dさんは、Cさんのご意見を受け、競争社会がいじめを生み出していると、議論の枠を大きく展開されました。さらに、評価の問題に触れられ、評価があるからいじめが発生するのかも知れないと立論されます。そこから、「差があって当たり前」との感覚を持つべきであり、多様性、個性を尊重する態度で学校がいどめば、いじめ問題が解決するのではないかと考えられているようです。ところが、学校というところが、もともと人を区分けする場所であるかぎり、評価制度の存在=いじめの発生起源とするのは、いささか乱暴すぎるのではないでしょうか。近代以降の学校が選別体制を国家から依頼されているかぎり、評価は学校の命といっていいでしょう。講義でも述べましたが、無理やり5段階の評価1をつける仕事がワタクシたち教員に課されているのをどのように捉えるべきでしょうか。成績が上級の学校を選択する指標となり、さらには、いい仕事へのパスポートとなるのが、有名大学の卒業証書であるというのが、現代人における学校制度を捉える捉え方の限界といえるでしょう。Bさんがいわれるように、一人ひとりの児童生徒の個性は尊重されるべきであり、誰しもいいところを持っているものです。それを生かしたクラス作りが期待されています。
 実にBさんは、ここではじめての発言でありまして、討論がはじまってから13番目の発言であり、時間的には半分が過ぎ去ろうとしているときに、ようやく勇気を振り絞って、ご意見を述べられました。はじめて討論なるものに参加したわけですから、これはこれで仕方がありませんが、本番でどのような評価になるかは、よく考えないといけませんね。でも、がんばりました。
 つづけてAさんからは、人間存在の多様性について議論しようとされました。たとえば、現在では、特別支援教育コーディネーターにのみ、その仕事を専属させる方向に進められているけれども、このあたりを再考し、担任にもと特別支援についての深い理解を持つように方向付け、いじめられるケースの多い障がい児の問題について言及しようとされました。
 この発言をはさみ、Fさんから、Dさんの提起された「競争社会いじめ起源論」に関連し、学級で個性を認め合い、多様性を保障する社会の在り方についてご意見を述べられました。、また、Aさんの問題提起を受け、障がいがあるのも個性として捉えるべきであると述べられました。個性の相互尊重とともに、Cさんからは、なんでも改善点をいい合えるようなクラス作りがいじめ撲滅の方策になると主張されます。Bさんもこれに同意され、いやなことがあっても何でもいえるクラス作りを提唱されます。Eさんは、ここで発言、競争することも大切と一言添えられました。最初は討論に参加してドキドキするし、周りの方が述べていることに、ごもっとも、としか反応できないものです。そこから学び、それを生かし、最終的にご自身が発信者となりましょう。
 競争することは決して悪いことではないというのは、Eさんの発言を受けて述べられたFさんのご意見です。たとえば、ラグビーの試合でも勝負です。しかし勝負がついた後は仲間になれる、そんな清々しさをFさんは期待しているようです。ちょっと議論が本筋から違う方向に行きかけていますが、このFさんの発言は、Eさんを思いやっての発言であると、面接官に認められるでしょう。このご意見を鋳直し、Aさんは、体育の時間でも球技系などでは試合があって、そこで負けたときに「お前のせいだ」といった発言があることを問題にされます。そうではなくて、よかった点、悪かった点を挙げ、反省的に振り返り、体育の時間を有意義に、かつ、人間的にすることが要求されているのではないかと指摘され、こうした反省を真摯にする授業態度がいじめの撲滅につながっていくと、Aさんは信じられています。なかなか気合のこもった発言でした。Bさんも、どれだけ「弱い子」をかばってやれるかというところに、いじめを起こさせないクラスの在り方を見出されました。そして、いやなことをも語り合える場を、ホームルームで用意することが可能なら、これもいじめを予防する方策になるとFさんが付け加えられます。
 ここでDさんは、いじめの「事なかれ主義」について言及されました。傍観者の存在についてです。ちょっと提案するのが遅かったかもしれませんね。大事な観点ですから、討論の前半でこれが提起されれば、もう少し違った展開になっていたでしょう。Cさんは、いじめがわかった場合の情報公開について述べられます。いじめがあった事実をオープンにするような組織的な心がけについてです。最後にAさんが、いじめの芽が本物のいじめにならないうちに刈り取ってしまうことが学校には求められているとし、児童生徒の抱えているストレスを教員が慎重に受けとめてやる必要を説かれました。そのためにはよりきめ細かなラポールの形成と個別面談の複数回数化が陽の目をみるといいでしょうとの発言で、今回の討論は締めくくられました。
(つづく)
(11/28)

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勉強会における集団討論の模様をお伝えいたします。今回のテーマは、「いじめのない学校づくりのために、学校が変えていくべきところは何だと思いますか、議論してください」でした。このテーマに、6名の方がチャレンジしてくださいました。時間は20分間です。今回は、大学3回生の方お二人が果敢にチャレンジ、今後、どのようにしていけばいいのか反省点もみえてきたようです。では、再現していきましょう
 まず、Aさんの発言。Aさんは、討論にもかなり慣れておられて、今まで勉強してきたことが態度にあらわれ、言葉にも力がありました。まずテーマを確認され、問題の所在を指摘されます。いじめは絶対に許されないとの立場を表明し、いじめの問題は学校全体で取り組むべきものであると力説されます。そして、絶対に許されないとの意識を児童生徒においても、教員においても、共有することが学校変革への第一歩であると捉えられています。
 つづいてCさんは、Aさんのいわれたことに関連し、教員間の情報共有のあいまいさを指摘されます。いじめがあっても一部教員が知っていて、知らなかったという教員もいる場合がある。こうした状況を回避する必要性を訴えられていました。それが学校が変えていくべきところと捉えられているわけです。Dさんも同様に、情報共有に関し、小さな変化でもおろそかにせず共有するべきと付け加えられました。
 Fさんは、教員間の連携についてA、C、Dさんに賛同を示されつつ、多くの先生が足並みそろえていじめられている児童生徒をみつめる必要を感じておられ、そのために研修会を開くなどすることが学校変革につながると考えられておられます。Aさんは、これまでのご意見をまとめていわゆる「ホウレンソウ(報告連絡相談)」を充実させることを主張されるほか、中学志望の立場から、教科担任制が教員のコミュニケーションを分断しているとすれば、その紐帯を今一度強めるのが理想であると述べられます。Cさんからは、教員だけでいじめの「芽」のすべてをみるのには限界があるかもしれないといい、児童生徒との深い信頼関係を前提に児童生徒からいじめに関する情報を得ることに努力したいと発言されました。信頼関係という言葉に反応し、Fさんは、ある一人の先生のみが信頼されていても仕方がなく、複数の先生、すべての先生が信頼されなければならないと述べられ、さらに情報共有という観点では職員会議を活用するべきであると付け加えられました。従来、職員会議でいじめに関する情報共有と教員間の議論は丁々発止だったと思われますが、いじめのない学校づくりのために、どのように職員会議の在り方を変化させていけばいいでしょうか。それを具体的に語られると、もっと独創的な回答になったと思われます。
 ここでDさんは、テーマの再確認をされて、主語としての「学校」がどう変わるかの議論をもっとしましょうと問題提起されまして、これまでのひとりの担任の先生でひとつのクラスを育てるとの意識から、複数の先生で複数のクラスを育てるとの、教員の意識変革が学校変革につながっていくと述べられました。このご意見は重要です。今回の集団討論終了後の反省の時間に、「主語としての『学校』」のことについてどう捉えるべきなのか、議論がみなさんからありました。このことについては、後で触れます。Aさんは、Dさんの問題意識に刺激され、教員がひとりで悩みを抱えるのはいけない状態であると指摘されます。今次のテーマ、いじめに関しても、教員だけでなく、学校ボランティアの方々やスクールカウンセラーもいらっしゃるので複数の眼で問題解決していく方策をとるべきであると述べられました。このように発言されてはじめて、学校全体で取り組むことの内容があきらかになってきたようです。
 Fさんは、学校が全生徒の意識を集中させるような、いいかえれば、いじめなどどうでもよくなるような、そんな大きな目標を設定することこそ、学校を変えることになるのではないかと述べられます。具体的に、ご自身の経験談を語られます。それは、野球部が甲子園に出場するということで、全校的に一体感が生まれたことをモデルに、こうした学校の一体感、統一感を生み出すような目標が各学校にあればいいなあと抱負を語られたわけです。ちょっと特殊ですけど、いじめなんて馬鹿らしいと児童生徒におのずと意識付けられるようになるならば、大変すばらしい案といえます。学校が一塊になり活気付くのは、その反面、地道な学習指導がどうなるのかとの一抹の不安はありますものの、フレッシュでいい提案であるといえるでしょう。
(つづく)
おしらせ 当サイト勉強会で使用している問題集や参考書ほかを、大阪駅前第2ビル地下2階で、いつでも購入することができるようになります。地下2階にレンタルボックス・キャビンというお店があります。そこに12月に入りましてから陳列いたします。みなさま、よろしくお願いします。
(11/27)

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昨日は、当サイト主宰勉強会の1月期受付開始の日でありまして、お申込者とメール交換をしているうちに、深夜になり、更新できませんでした。おかげさまで、お申し込み開始10分ほどで満席となりました。みなさま、ありがとうございました。
 さて、昨日の第147回勉強会では、ワタクシからの講義をまずいたしまして、教養の問題と、社会とは何かの問題をみなさまからご意見をいただきながら進めました。
 次にキャリア教育に関する過去問の検討です。緻密に検討するため時間がかかり、申し訳ないものの、どうしてキャリア教育を文部科学省や自治体が進めるのか、理解できたと思います。さらに、キャリア概念、キャリア発達などの言葉の意味、中でも「連鎖」の意味について掘り下げてみなさんと検討しました。えーっと、Fさん、ライフキャリアレインボーですね。これ、文部科学省のサイトのどこかにありました。ドナルド・E・スーパーの理論らしいですね。Fさんが問題にしてくださったのは、「立場と役割の連鎖」でありまして、それは生涯教育の考え方と重なり合いながら、スーパーによって立論されているものです。「連鎖」だから、「展開」でも、「推移」でもありませんが、このあたりの言葉の違いは翻訳上の微妙な違いに依存するのかもしれません。この概念の理解としては、ワタクシやYさん、Mさんが指摘されていた考え方でよいとは思われるのですが、厳密にはちょっと違うようです。「立場と役割の連鎖」の「役割」は、「息子・娘⇒学生⇒職業人⇒配偶者⇒ホームメーカー⇒親⇒余暇を楽しむ人⇒市民」みたいです。Fさん、また調べて報告してくださいね。
 さて、最後は集団討論でした。この模様は、例によって次回更新時といたします。
(11/26)

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ふぅ、1週間、はやいですね。もう、第147回当サイト主宰勉強会が明日に迫りました。そろそろ、「自己売り込みのツボ」もはじめなければなりません。それから、今期はまだ答申を輪読していないのですけど、それには理由があります。最近、重要答申がないのです。諮問しているのはありますが、それが出るのはもう少し先でしょう。ここ5年間くらいの重要答申資料集でも作ろうかな。
 あすは、講義をワタクシの方から提供した後、過去問研究です。それから、集団討論。思うに、討論終了後の検討時間が短いので、大胆に1時間半くらいとってみようかと考えています。1時間では、議論と反省をし尽くしていないときがありますからね。
 あすの討論テーマは、「いじめのない学校づくりのために、学校が変えていくべきところは何だと思いますか、議論してください」といたします。学校、そして社会への問題提起として、自殺に追い込まれた生徒の遺書が公開されました。さぞやご両親は無念でしょう。1年以上前のことですが、お心思うと言葉がありません。
(11/24)

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前回、「ここに巨壁が聳え立っている。そう、『心の教育』なるものである。教採試験の討論テーマでもよく出る。この『心の教育』をどうするかは、一種の踏み絵的に作用し、教員になってからも、直接的な懲戒として教員を呪縛するものである。悲しんだり、笑ったり、怒ったり、愛したり。こうした精神作用を『教育』することが、現場で求められているのを、どのように判断するか」と書いた。そのつづきである。
 「心の教育」が、実際に学校空間の隅々にまで行き渡らせることなどできるのか。人間の感情作用を学校が支配できるのかどうか。大きくいえば、そこまで到達する大問題である。泣いたり笑ったりを外在的に支配などできるわけがない。「心の教育」は、自己と他者との相互尊重の精神を養うといったような、当然視される心の在り方を教育しようとするし、また、命の大切さといった、これまた当然持つべき感覚を育成しようとする教育でもある。このようなスムーズに、この手の教育の目的意識が確認される事柄から、いつの間にか愛することをも教える。そう、我が郷土を愛し、我が国を愛し云々についても「心の教育」が担当する。
 法的拘束力を持って卒業式に国旗掲揚・国歌斉唱をするといっても、嫌々歌ったならばどうか。外部強制的によって日本の伝統文化を愛せといっても、それは服従を強いる結果となる。これは児童生徒の自発的判断に任せるべきことであって、強制するようなことではない。
 それを東京都などはとち狂って、行政通達(いわゆる10・23)という名の命令を発して教員に強制的に立たせ、歌わせ、児童生徒の心も無視し、歌わない児童生徒がいたとすれば、過去の罵り言葉である「非国民」、いや「非都民」扱いするようになりつつある。東京都の教育方針は分裂しているのはよくいわれることで、自分の頭で考え行動する自立した人間の育成と、こうした強制的な支配に自発的に組み込まれる態度の形成と、両者をバランス悪く実行しようというのであるから、首を傾げざるを得ない。
 ところで、この問題はナショナリズムに関連する問題だし、多くの指摘もあり、問題の所在と糾弾があちこちで展開されているので、これ以上、立ち入らない。だが、「心の教育」は、いじめ問題とどう関係するのか。
 いじめがない学校は存在しないだろう。「心の教育」を実践していない学校も存在しないだろう。ということは、「心の教育」は、やってもやってもいじめ対策にならないのが現実であるといえる。相手の武器を借りていえば、いじめ対策こそ、強制的にやればいいのではないか。都などは、いじめに関し自発的服従をさせるようなルールを作ればいい。なぜなら、いじめこそ、心の動き、笑ったり、泣いたり、怒ったり、愛したりの一番発現する場だからである。皮肉になるが、こちらの方が「心の教育」としては適当だろう。
 いじめにまつわる問題こそ、心の問題である。いじめがなくなったとき、「心の教育」は学校教育全体に貫徹したといえるであろう。泣いたり笑ったり、人の心の動きに配慮できるようにならなければ、いじめはなくならないからである。相手の立場に立って、相手の心がどういうように動いているのかを知る努力をしなければ、いじめはなくならない。そうした心の理解を支援する教育こそが、「心の教育」である。
 ただ、これは頭ごなしに教育しようとしても、効果が薄い。いじめは陰湿に行なわれるのが常だからである。強制的に、たとえば体育館で、「教員」監視の下で歌を歌っているかどうかはすぐわかる。だから、面従腹背的に歌っていたとしても外見的に正しければそれでよいと判断される。心からとっている態度であろうとなかろうと、表面が評価される。むなしい「心の教育」である。だが、君子は独りを慎み、本当に友人として相手のいやがることを安易にやっていいのかどうか、ふと立ち止まるだけでも、真実の「心の教育」はある。一人ひとりの児童生徒が試される。そこで発揮される勇気こそ、「心の教育」の結果でなければならない。
 そうだとすると、泣いたり笑ったりの精神作用の根本となる感受性の世界の問題になるのであろうか。感受性の問題、感性の問題であるならば、これはもう教育できるものといい切れない。個人においてあらわれる多様なモノの受けとめ方、センスの問題になるからである。ただそこに、道徳的判断能力の育成がエッセンスされて、センスも個人差はあっても増進させることはできる。また、知的な訓練が物事の判断能力を養い、それが教育原理でいうところの「転移」作用をなして、他者に対する単なるTPOを超えた心的接触をもたらすことができる。泣いたり笑ったりはいうまでもなく、愛などそういうものであろう。
 官製の「心の教育」ほど、むなしいものはない。そんな上からいわれた教育を実践するよりも、教員個々人が己の心を磨いて、教員個々人の感受性を児童生徒にみせつけることによってこそ、そして、この点では教員間に共通したある感受性を持ってこそ、学校教育活動全体において、「心の教育」というよりはむしろ、感性の教育が成立するのではないかと思われる。
(11/23)

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カツラ発言につづき、Aさんは、こうしたクレームに対しては、直接毅然とした対応が求められると述べられます。また、髪の毛を染めると第1印象が悪くなるということも指摘、本人はいい子でも、「非行に走るのではないか」と疑われてしまうかもしれないので損をすることになるといわれました。Dさんもこれに同意し、他の児童生徒にも迷惑をかけることになるかもしれないと付け加えられます。というのは、Dさんによれば、ひとり髪の毛の色の違う児童生徒がいれば、学校全体が色眼鏡でみられるかもしれない恐れがあるということです。個人の自由と全体の規律と、ここでもこの両者のぶつかり合いに悩まれている討論参加者の姿があります。根本的に、表現の自由とか、自己決定権とか、憲法的価値判断に学校におけるさまざまな出来事がさらされることがあります。実際に争われたことは多々あります。
 外見で判断してしまう人間がいるかぎり、「損をする」ことを事前に回避する指導をすることが学校で正しいのかどうか。これを考えることが大切でしょう。Eさんの問題意識もDさんと同様で、保護者の言葉には「これ(髪を染める)は(個人の)自由だ」が省略されていると捉えられています。学校という集団生活の場で、ぶつかり合いは多いです。そこできまりやルール遵守を教えることは大切ですね。Eさんは、さらに、家庭教育において、こうした「自由」が教えられているのであろうと推測され、長期にわたって家庭との関係を良好にし、指導が行き届くようにしたいと抱負を述べられました。
 Bさんは、規律、きまりを守るとの観点のほか、髪を染めることの物理的な問題性について触れられます。頭皮の健康被害の問題です。高校生では別ですが、たしかに4、5歳児では髪を染めることによって悪影響があるでしょう。Cさんは、髪を染めることも、ピアスなども同じ感覚に根差す態度であると捉えられます。そして、Dさんもいわれていましたが、保護者と児童生徒との関係に注意することを重要項目とされます。長い髪の毛を切ったり、髪の毛を染めたりするのは、なんらかの精神的な変化を具体的に表現した結果であると指摘され、こうした心の動きに敏感であるのが教員の姿勢であるとCさんはいいたいわけです。そうだとすれば、Aさんがいわれるように、日々の観察が不可欠で、児童生徒との常日頃からの信頼関係形成が、こうした問題が発生した際の対処の違いにあらわれます。Fさんは、Cさんの議論に立ち返り、児童生徒の心の中の問題に言及されます。なんらかの悩み、なんらかの苦しみを抱えている児童生徒を前にして、どう対応すればいいのか、生徒指導の前提となる生徒理解の問題です。また、「自由」ということについて、迷惑をかけていなくても、どこかで自分に返ってくるということを力説されていました。学校全体が乱れていくことに対する危惧をもFさんは示されました。その対処療法としてビデオをみせて啓発するとのご意見もだされました。Eさんは、先の児童生徒の心境の変化について、どういう意味で変化しているのかを理解することが、保護者、児童生徒を交えてじっくり話をするきっかけになると指摘されます。これは、保護者と児童生徒が話をする契機でもあります。
 ここでCさんは、「ひとつの行為を許してしまうと歯止めがきかなくなる」といわれました。校則外のズボン、スカート、ワタクシたち自身の過去を振り返っても、イロイロそうしたものがありました。学ランの裏にトラを刺繍していたり、昇竜の刺繍があったりします。集団の規範意識の問題に、Cさんはかなり問題意識を持っておられます。あるいは非行につながるかもしれない行為を、Bさんは、学校、児童生徒の本分は学習、とスパッと一刀両断。学業不振からこうした態度にでるのかもしれないと発展させました。ただ、テーマは保護者が「自由」といってきているのであることを踏まえなければなりません。Dさんも「心のサイン」として児童生徒の物理的変化を捉えられまして、ひょっとすれば「ちょっとしてみたかったんだ」といった安易な「あこがれ」から髪を染める行為にでたのかもしれないと述べられました。ストレスや欲求不満、児童生徒が発するサインは、保護者にとっても困るものかもしれません。このようにDさんは指摘されます。
 議論の流れは、読んでいただくとわかるでしょうが、テーマに即してテーマを超えていく方向に進んでいます。テーマの本質は、保護者対応です。それが主旋律でしょう。テーマを超えるというのは、児童生徒の内面変化について議論することです。ただし、これは、議論するに値することです。教員をめざす立場からは当然こうした議論がなされるはずです。ワタクシたちの教育対象なのですから。この、保護者対応と児童生徒対応と、20分間においてどう比率を定めるか。あまりに児童生徒の抱える問題に時間を割きすぎると本質的な議論になりません。これは落とし穴ですね。
 さて、Aさんは、また違った視点を用意されます。児童生徒が先生のことを好きなら、校則違反をするような態度をとらなくなるというものです。このご意見はユニークなご意見ですね。発言の趣旨はよくわかります。こうなってくると、好かれる好かれないで、学校ではなく、教員個々人の在り方に指導が分散することにもなる。これは残念ながら組織体である学校としては受け容れられない考え方になるのではないでしょうか。また、児童生徒の立場に立ち過ぎると、問題が発生するケースも想定されます。教員の立ち位置の問題になってくる。多様、多彩な人材が集まって形成されるべき組織が学校でしょう。ただしかし、教員の個性にすべてを還元し指導・対応することは、諸刃の剣ともいえます。このあたり、現実的にどう動いていくのかは、ギリギリの場面では、管理職判断となります。それに批判的見解を持ってしまうと、厳しい立場に自分自身をおくことにもなりましょう。組織にいながら組織を批判すること、ワタクシも組織に属しつつ組織にけんかを売る性分を持っていますが、協調性という点では失格です。まして、協調性が問われる集団討論において、どういう意味で面接官にとらえられるか、そうした点も考えましょう。
 このあと、Fさんから、対児童生徒において頭ごなしに「校則ですから」ではすまないときもあるとのご意見がありました。また、卒業式において借制服コーナーを用意する事例を挙げられ、簡単にお話を続けられました。Bさんからは、家庭環境は様々であって、保護者をほめることによって子育てに自身を持たせる必要もあるとし、Aさんからは保護者をほめるには保護者とかかわる時間を多く持つ必要があるとの発言があって、家庭訪問の話になりました。
 これで20分間が終了です。テーマの解剖を試み、何が本質なのかを捉えつつ、どんなトピックを用意するか、今回の具体的なテーマでは、逆に抽象化していく作業が必要であると思われます。討論後の議論では、討論傍聴者から、「学校では必要のないことはしない」との観点から、髪を染めるのは「不必要」とのご意見もでましたし、学校は社会生活の基礎を学ぶところであるとの立場から、TPO的にいっても染めるのはあかんのではないかとの指摘もありました。染めるのはダメとの「暗黙の了解」は、学校、家庭、地域社会からなくなってしまったのか、といったご意見も挙がりました。いずれも貴重なご意見といえるでしょう。
 また、来週ですね。がんばりましょう。
(11/21)

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