日々旁午

2007



あすは、当サイト主宰第145回勉強会を開催いたします。ご参加の方々には、改めてメールを差し上げております。ご確認ください。よろしくお願いします。
 勉強会では、この秋、どのように教採の学習をすすめればいいのか、当勉強会を卒業し、合格された先生方にご参加いただき、お話していただいておりました。あすは、現職のH先生をお招きしております。みなさまとの質疑応答を楽しみにされていますので、よろしくお願いします。
 あすは、いつもどおりのプログラムですが、手段討論のテーマは、「家庭の教育力の低下について、学校とのかかわりにおいて問題点をあげつつ議論してください」といたします。近年の試験におけるポピュラーなテーマですが、今年風に新鮮な議論に仕立ててくださいね。
 それではあす、お待ちしております。
 なお、勉強会終了後の珈琲会は、どなたでも参加いただけます。もちろん無料。場所は、JR大阪駅徒歩5分のところです。夕方からだけでも参加可能な方は、メールくださいませ。ご案内いたします。
 ■勉強会にお申し込みいただきながら、アドレス間違いのため返信できない方が多数いらっしゃいます。再度、ご連絡ください。お待ちしています。
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太田房江氏がバッシングされている。
 甥や母の自宅を事務所費計上していたのが叩かれたり、公私混同はなはだしき宴会に、おこづかいももらったことを書きたてられたり、知事の信用失墜である。やはり通産省出身の官僚、袖の下には弱いのか。
 ワタクシたちにとって、太田房江氏の功績は何かといえば、大阪府の教職員増加である。この点だけをとると、再々選してほしいというのが本音である。だが、それとこれとは別。『毎日新聞』(2007年11月7日付)が報道するように、関西企業経営懇談会との呑み食いを5年間もしていたとは驚き桃の木山椒の木である。
 970万円はデカイ。しかも、このカネ、『「飲食会の主目的は知事にポケットマネーを提供することだった」』(同上)と懇談会メンバーから暴露されているのだから、グウの音もでない。しかも、そのお手伝いをさせられている府職員は有給休暇をつぶしてしたがったというのであるから、傲慢な女性になりさがってしまったといえる。
 大阪府の経済活性化に寄与する行政活動であるならば、堂々とやればいい。府政は教育行政だけではなく、税収増大を画策するのは当然だからである。それこそ必要経費で落とし、関西の経済界実力者とガラス張りで話し合えばいいのである。そうした行政審議会は、ひとつやふたつあるだろう。それを何の因果か(って、カネなんだけど)、「講師」の立場でプライベートにするのならば、税金で喰っている職員を動員するのはお門違いである。それならホストでも雇ってやるべきだろう。
 こんな摘発がある一方で、マダム房江がいい塩梅しているのだから、不思議な街とは思う。「『このくらい(の接客は)は許して』」(同上)は、関西企業経営懇談会のメンバーの言でもあろう。
(11/8)

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大連立構想が立ち消えになった。この構想は、もともと、中曽根大勲位が参院選敗戦前後に主張しはじめた、ひとつの政治構想であった。
 小沢氏の胸中に大連立構想がいつからあったのかはわからないけれども、今回のスピード党首会談の成立とご破算をみるかぎり、選挙後かなり早い段階から温めていたに違いない。だが、あえなく潰えたところに、ある意味で政治の健全性を確認できる。大連立がこのまま成立していたとすれば、参院選勝利の民意を自ら捨て去ることを一般的には意味し、国民不在の批判の合唱となる。実際、社民・共産は、ワンワン吠えている。大連立は、政党が形式的政府を機能させ続けている体制を崩壊させることにもなるからである。憲政擁護は終了する。しかし、大連立の先にある理想的2大政党政治状況の到来を予想した、舛添氏の見解もある。
 『産経新聞』が、舛添氏の発言を記事に載せている。「1960年代の西ドイツで社会民主党(SPD)が大連立の末に政権交代を実現した例を挙げ、『民主党も大連立を2年ぐらいやり、『そこそこやるじゃないか』となれば、確実に政権に近付く』と指摘」(2007年11月5日付)との見解を紹介しているように、こうした路線に乗り、実現していったならば、本格的な2大政党政治が展開していたのかもしれない。政権交代前における、顔を引き攣らせながらの握手は、弱体政党を強固化する跳躍板の役割を果すのであろう。
 しかし、ワタクシは、ドイツと日本の政治経験の違いから、大連立して数年後における民主党の与党離脱よりも、むしろ翼賛体制維持が長期継続し、権力一本化すると考える。なんでも法案が通るウハウハ状態を権力が手放すはずがないからである。国民の審判は機能しないのではないか。
 ドイツは国境ラインが地続きであり、かつ東西冷戦下の辛苦を経験した。かたや日本は軍解体から経済復興に突っ走り成功した「奇跡の島」であって、戦後の辛苦は、一国として、身体的には大変な経験ではあるが、国際環境の中ではなんらの発言権もないに等しいし湾岸戦争で責められた忌まわしき過去に苛まれている。諍いなく純粋培養された平和な島なわけである。そうした日本の政治の特徴は、最終段階で権力闘争を回避するところにある。それを知恵といえばそうではあろう。ただ、給油問題が騒がれ、ISAF議論があり、戦争がホントに起こりそうな今の状況からすれば、より一層、大本営発表体制になると大いに推測される。
 小沢氏は、角栄になりたいにちがいない。50歳にならずに自民党幹事長の席に着いた彼が首相にならなかったのは、彼のパーソナルな資質に起因するというのが一般的評価である。「秘蔵っ子」といわれた彼は、角栄になり切れなかった。コンピューター付ブルドーザーの21世紀仕様、つまりブルドーザー付コンピューターとして、政界をコントロールしたかったのが小沢氏だろう。金権政治の代わりに、ドロドロしている政治の世界に筋の通った政治思想を開陳し、政治結束させようとしたのであるが、いくら理論的に正しくとも、大方には、彼の思想は理解されないものであるといわざるをえない。
 事は簡単、ISAF協力は派兵容認であって、PKOの発展的延長版であって、理屈も合うものである。このようにISAF派兵は9条に抵触するものではないと小沢氏は考えているし、国家を相対化した世界政府的観点からの出兵は日本の9条を越える超越的理念として捉えられている。こうした政治的すがすがしさは、国民に受け容れられやすいはずなのに、現実的には「戦うこと」に対する人間の本質的な嫌悪感が働き、理解されがたいものだろう。
 ところでなぜ小沢氏は、党首辞任をすら、いいだしたのか。大連立に反対するということは、執行部、役員の理解を得られなかったということであると恣意的に解釈し、それがすぐさま辞任に結びつくとは。小沢氏の政界遍歴からして予想外のことでもないのであろう。だがどうにも腑に落ちない。こうした独断専行の政治癖も角栄譲りといえるようであるが、角栄の場合、政治決断を可能とする「何か」があった。それは「カネ」であった。小沢氏の場合は、それが「カネ」ではない。政治決断を可能とし実現するための裏打ちが、筋の通ったモノの考え方=政治思想というだけでは、実利を好む政治家どもをしたがえることはできない。ワタクシは、小沢氏の辞任理由について、単なる政治混乱の責任をとるといった報道と、ちょっと違う見解を持つ。
 姜尚中氏がいうように、「アメリカは解決だ」、なのである。シーファーに釘を刺されたように、小沢氏は、ISAF協調をいいながら、給油法に対し表面的には反対の政治的、軍事的立場であった。これでは、二進も三進もいかない。国際政治の現実と自党内部をも含む国内野党勢力との間に立って、仏頂面の反面、「雨降って地固まる」の投げ場を求めていたのではないか。表面な給油法反対と軍事的国際協調主義の両者を止揚するには、自民党と手を組んで、恒久的海上ガソリンスタンド法を成立させるほかない。それがうまくいかなかったのであるから、辞任という札を切り出すしか、自己の立場を修繕できないのではなかったか。まあ、彼の場合、切り札がどこまで切り札なのかは、割り引いて考えなければなるまい。
 世に、壊し屋は時代を作れない、との評価がある。西郷隆盛然り、である。現代史の政治の動きを振り返れば、たしかに小沢氏は壊し屋的なところはある。だが、単に壊しただけでなく、細川政権を樹立したというような、また、新進党を最終的には負けたとはいえ形にしたというような、誰もできない政治能力を持っている。その政治能力がこのまま発揮できず埋もれていくのは、いかにも寂しい。「憂国の士」と自民党からも形容されるその能力は、国民的立場からの「再チャレンジ」精神に生まれ変わって発揮されることが望まれる。
 この件で一番慄いたのは、公明党であること、いうまでもない。大連立が不成功になったいま、一番胸をなでおろしているのは、冬柴氏であろう。もし政治的日程に今次の大連立が組み込まれることになったなら、公明党が大臣のイスを減らされる、あるいはまったくなしになるのはあきらかである。そうした意味では、今回の政局について公明党がどういうような目でみているのか、スピークがあってもいい。
 政界再編。なんと響きのよい四字熟語だろう。これを求める政治家で、これを実現したものは、ここ20年の歴史において、小沢氏のほか、誰がいるというのだろうか。
 (小沢氏の辞任撤回前に成稿。この辞任騒動は、政治ショーのようにみえるものの、小沢氏ならではの党内思想一致の策謀であったのかもしれない。その意味では、焼け太り的成功のようではある。ソフトバンク犬ではないが、「すべてのものには理由がある」のであろう)
(11/7)

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昨日、「今回の討論の反省点はどこにあるのでしょうか」と書きました。討論傍聴者の参加者から、どこまで議論の幅を広げていいのかわからないという質問がでました。また、議論の枠組として、「育みたい力」を提出してからみんなでその具体的な方策を議論していったらいいか、との質問も出ました。後の質問については、昨日簡単に述べました。本番の討論は、知らないもの同士がやるわけですから、青写真をもって挑んだとしても、その通りにいくとは限りません。もっといえば、その通りにいくほうが稀でしょう。
 その通りに描こうとすれば、摩擦が生じます。そして、その通りに進めようとした場合は、そういうように進めたいと思っている方が、リーダーシップをとらなければなりません。どういうように進めていくべきか、それを提示する第1発言者となるわけです。しかし、第1発言者になって、「では、育みたい力を列挙してみましょう」といっても、本番では参加者はみんな「パンパン」の状態ですから、そうした枠組を無意識に破るケースが多いのです。しかも、発言を制約することになります。参加者全員が、第1発言者の指示にしたがうとはいえず、結局、その青写真は現像されることなく終わるのが一般です。それでも、こうした枠組を提示する価値はあります。事がうまく運べば、まとまりのある討論になるからです。
 最初の質問、「議論の幅」の問題ですが、これはすなわち、どんな話題を出すべきかということであって、それが的外れではないかとの恐れからくるものであると思われます。話題提供は、むつかしいものです。それは2つのパターンとなります。ひとつは教職教養で学んだことからの発言。もうひとつは、講師経験や教育実習経験に裏付けられた発言。前者は、客観的な話題となり、後者は実践的な話題を集団に与えることになるでしょう。
 このとき気をつけるべきは、前者の場合は乾燥した意見になるということです。本の中の教育的な用語が飛び交い、そこに新鮮な、実践的な雰囲気が介入しないということがあります。ただ、答申などに精通していると、どういう枠組で議論するのが有効であるか、テーマに即して何を話題に据えればいいかということについてよくわかるようになります。ワタクシがよくいう「血の通った教職教養」というのはこれです。
 後者の実践的な話題の提供にあたって最大の問題は、自己満足になってしまって、次の発言者になんらの刺激を与えないようになってしまうことです。たしかに講師経験で「こんなことをした」というのは、価値のある発言でしょう。そこから抽象して、こういう問題がある、こう考えるべきではないか、といった視点を集団に提供しなければならないわけです。いわゆる「発表会型」の討論ほど面白くないものはありませんから。
 ということですから、この両者の淡いを求めて修行を積むことが求められているといえます。簡単にはまいりません。しかし、独りよがりにならず、しかも教職教養に裏打ちされた発言は、聞いていても身を乗り出したくなるものです。それは本番の面接官でも同じでしょう。ここの、「独りよがり」というところが重要で、客観的な立場からものがいえるということが教員には求められるわけです。
 ところで、このほかに、「育みたい力」と「その方策」の関係性が薄い発言があったという厳しいご批判もありました。両者の因果関係をしっかり説明する必要はたしかにありながら、発言時間が長くなるとこれまた問題という板ばさみに陥ります。なんでも説明しようとすると長くなるのですね。これをコンパクトにし、討論のテーマからはずれず妥当性あるものにするのは、むつかしいながらも可能です。べらべらしゃべらず意見を「詰めた」ものとし、それを他者が発言している最中に考えるわけですから、人間業ではないように思えます。ところが、これ、実は日常でやっているんですよね。それがフォーマルな場になるとできないだけなのです。ただし……
 集団討論で一番必要なのはなんだと思いますか。それは、「集中力」です。
 集中力、20分間の議論をすれば、ぐったりするほどの集中力です。
 これに慣れること、これを身に付けることが、課題です。
 みなさん、次回は、ぐったりしてくださいね〜
(11/6)

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どうすれば集団討論がうまくなるのか。それは、実践のほかありません。場数です。聞いて、やって、聞いて、やって、この繰り返しです。今回、討論に関する質問が、大学生の方から出ましたけれども、それは、議論のフレームワークをどうするかという問題に帰着します。今回のテーマは、「生徒に育くませたい力とその方策について、議論してください」でした。これを面接官から与えられたとき、まず考えるのは、なにをいおうか、でしょう。これは初心者といえます。次に、どういう枠組で議論すればいいか、でしょう。これは中級者です。さらに、他者がどんな意見を出すのか予想しつつ、自分の意見をすり合わせ、議論の流れを崩さないでおこう、これは中級の上です。
 全体を鳥瞰し、議論の枠組を作る一方で、ずれはじめたら修正し、自分の意見を印象に残るように述べ、出すぎず、いい意味で目立ち、協調性あるようみせつける、いおうとしていた意見がすでに出ても、動じずに用意している第2、第3の意見を瞬時にいえて、討論の時間帯のどこで発言するか計画し、あまり討論をやっていない方を見出してその配慮もする、視線を発言者に向けることも忘れず、空白の時間を打ち破る効果的な発言をする準備もしておく、一言でいえば、集団討論を支配できる方、これが上級者でしょうか。
 そんな人いるの?浩曰く、「います」。
 まあ、そうした上級者になるには、修行を積まなければなれないのはいうまでもなく、いままで勉強会に参加された方の中でも十数人ではないかな。とにかく場数を踏んで修行するほかない。
 ちなみに、1次の合格だけなら、なんとでもなる。当サイトでは、1次合格など、問題にしていない。通過にすぎない。折り返し地点でよろこんでいるマラソンランナーに興味はない。大阪府では最近1200、1300人くらい合格者がいるが、毎年その内の50人くらいは当サイト勉強会の卒業生である。毎年、手塩にかけて指導してきたのである。だから、この3年で、ワタクシの目からみて「いい先生になる」と思われる受験生を大阪府に150人は送り込んだ。この数を誇っていいかどうかわからないが、予備校のように大量の人間が受けているわけではないので、良しとせざるを得ない。予備校が1次合格者を誇るのは、馬鹿馬鹿しくってみてられない。
 当サイトでは、100パー合格でないと誇ることはできない。今年も最終合格は50人を越える。ただ、勉強会には80人くらい参加されているので、率が悪い。忸怩たる思いである。くそう、と思う。あかんかった受験生で苦しんでいるのをみると、責任を痛感し、来年は絶対合格させてやると意気込むのだがね。
 前置きが長くなりました。集団討論の再現です。今回は、6名の方が討論に挑戦されました。仮にA〜Fさんとして、発言論旨を追っていきましょう。
 まず、Dさんが、テーマを確認され、教科教育に関しDさんは音楽志望なので、児童生徒に育ませたい力は、楽しむ力であり、心豊かになる力であるとし、歌唱でお腹から声を出す喜びも味わわせたいと育成方策を述べられます。ここで「発散」ということもおっしゃいましたが、これは止めた方がいいでしょう。次にEさんが、児童生徒の使う言葉に触れられ、言葉の使い方によって相手を傷つけることもある、だから思いやるとはどういうことかを考える力を育みたいと発言されました。その際、構成的エンカウンターの手法を取り入れると付け加えられました。Bさんは、大学4年生。豊かな人間性を育みたいといい、お互いにいいところみつけを児童生徒にさせ、発表させる。こうして仲良いクラスを形成したいとご意見されました。
 と、ここまででおわかりのように、3名の方は、育みたい力とその具体的な方策をしっかり述べています。このことから、討論の方針が固まったように思われます。というのは、このテーマの場合、2系統の討論が予想されます。ひとつは、上のようなケース、もうひとつは、どんな力を育成したいかを全員で出し合い、次にその方策を語っていくという2段構えの討論です。どちらがいいかは判断するに苦しむところですけど、どちらでも討論の雰囲気(というとかなり主観的ですけど)がよければ、よしなのです。
 Fさんも、相手を思いやる気持ちを育ませたいとされ、国語志望の立場から、作品を通し、登場人物の心情を理解、推測させることが、その手助けになると述べられ、教科教育と人間教育の融合という問題を提起されました。Cさんは、校種教科によって学力の面では多様であるが、思いやりという点では、育ませたい思いは共通ですね、といわれつつ、体験活動やボランティア活動を実施し、心の教育にとりくむのはどうでしょうと切り込まれました。これを受け、Dさんはいじめの問題解決にもかかわってくることであると発言し、さらに、どのような指導であれ、教員の側の善悪の判断基準が揺らいでいれば指導が行き渡らないので注意が必要と釘を刺され、その具体的問題として携帯電話の所持不所持、いつ使ったか、使うべきかの話題を提供されました。
 Eさんは、思いやりということから、担任として、児童生徒に教えあいや学びあい活動を通じて育ませられないかと提起し、困っている児童生徒を助ける人間関係つくりを提唱されます。Cさんも教えあいから自己効力感が生まれると発言され、それを異年齢集団の中で実践すればさらに人間関係形成がうまく機能するとまとめられます。
 ここでAさんがはじめての発言。育みたい力について、ずばり「生きる力」を提出され、徳育、知育、体育について明示し、議論の枠組を提供されました。そしてAさんは、徳育と知育について以上の議論で登場したので、体育とかかわらせつつ、食育について発言されます。特産品などの調べ学習から「つくってみよう」まで、その方策も述べられ、興味深い発言になりました。このAさんの発言を契機に、この討論で何を議論すべきかバラバラになりそうだったのがピシッとした感じです。育成したい力をある程度定めないと、議論の出発点が定まりませんし、討論参加者が各々なんでもいってしまう発表会になってしまいます。これを避けた点で、評価されるべき発言でしょう。
 Bさんも、学力では、問題解決学習を取り入れ、自分で算数なら算数においてやり方を発見させていくことも重要であると述べられましたし、Eさんも、現代の学校はPISA型の力が欠落しているから、低学年においても学んだことの活用能力を増進させるような指導をするべきであると述べられました。学びあいとかかわらせて、各教科において問題を作らせる指導もやってみたいと抱負も語られます。
 Aさんは、確かな学力に関し、基礎基本の学習の重要性を説き、繰り返し学習、反復学習は応用力をつけるための前提であると位置付けられました。ここで、ではどういうような繰り返し学習を実践するかを述べるとさらによかったです。しかし、このAさんの発言が、他の方に影響を与え、イロイロな意見を引き出すことになっていきます。
 たとえば、Fさんからは、担任でないと中高の場合は生徒とのふれあいが少ないので、これを解消しつつ、授業では反復学習として漢字テストを取り入れて基礎学力の定着を図ると発言されましたし、Dさんの朝の学習の話題提供をもたらしました。毎日やることが大切と、まさに「継続は力なり」ですね。さらには、放課後に児童生徒を残すのは、学力定着のためとはいえ問題があるのではないかとEさんから問題提起があり、放課後を児童生徒から奪うのではなく、昼休みに補習を組み込むなどして対応するのはどうかと発言されました。
 これは体力作り(放課後遊ぶこと)につながります。Bさんは総合学習やゆとりの時間において、なわとびなど体を動かし、遊びながら健全成長をめざすとされます。Aさんからは、体力低下は運動場の使用時間制限や公園が減ったからであり、体育館の開放・提供によって基礎体力向上を見込むと建設的なご意見です。また、Fさんの行事を楽しむということも大切です。生徒の協調性も育め、体力向上にも寄与します。また、Cさんが指摘されたように、行事参加は規範意識の形成にも効果ありですね。遠足、旅行など、そうですし、保護者との連携による道徳指導効果もあります。それは、Dさんいわれるように、通信で幅広い展開が見込めるでしょう。Aさんは、規範意識の形成という点では、挨拶からはじめたいと述べられ、朝の指導で児童生徒と信頼関係を築いていくといわれました。
 ここで、Cさんは、これまで教員の立場からイロイロと議論してきたが、教育要求は保護者も持っているのであって、それを学校教育に反映させていくことも求められているとご意見されます。それは、言葉使いなどになります。そこで、Bさんが鉛筆の持ち方などの日常的な指導の効果について述べられました。最後にDさんが、Aさんの挨拶とかかわり、部活動指導の重要性、運動部の挨拶の気持ちよさに言及し、議論が終了しました。
 20分を切る討論時間で、様々なことが語られました。いわゆる噛み合いもよかったと思います。今回の討論の反省点はどこにあるのでしょうか。みなさん、考えてみてくださいね。次回の更新で、ちょっと述べてみたいと思います。
(11/5)

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昨日は、当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただき、ありがとうございました。
 新しい参加者の方もいらっしゃったので、この勉強会のことについて簡単に説明し、その後、下に紹介しましたプログラムを実施しました。
 そこで講義は、ほんとイロイロなことを織り交ぜながらやりまして、教育の可能性と理性・計画性から西洋教育史まで「脱線」し、1時間近くお話し、かつ、ご意見いただきました。
 次に、『世界人権宣言』の大阪府過去問を通して、内政干渉のことやら、女性差別撤廃条約に関連し、シャドーワークのことまで話題となりました。
 最後に集団討論です。討論は、参加者主体で「楽しめる」ように、勉強会では必ずやるようにしています。いまのところ、参加者を代表して6〜7名の方が挑戦してくださっています。オブザーブすることにも、大きな意義があります。討論参加者のどの発言が印象に残るのか、そうしたことを受け取りながら、しかも、どんな視点で議論したらいいのかがわかると思われます。そうした「面接官の立場」を経験しつつ、次はご自分が参加してやってみる。その繰り返しが、討論を克服すると、ワタクシは考えています。
 結局、教採の勉強は、参考書や問題集をやることではないんじゃないかとワタクシなどは強く思うのです。教員は、教科書なり、参考書なりをそのまま読んで児童生徒に伝える存在ではなく、教科書「で」教える存在ですから、討論や面接において、「参考書・問題集」で勉強してきたことを自分なりに煮詰めて創造しつつ表現できるようになることが大切といえるでしょう。
 今回の勉強会では、「自己売り込みのツボ」のペーパーを配布しました。これを今後作成していきましょう。
 討論の再現は、次の更新でいたします。
(11/4)

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あすは、当サイト主宰第144回勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いします。いままで、卒業生がおいていってくださった「勉強の方法」のレジュメありますので、ご申告いただいたら、配布します。@10円(コピー代のみ)です。あすのプログラムは、いつもどおりですが、あすは、現職の方はお招きしておりません。現職の先生(昨年、一昨年の合格者)からのコメントは、来々週で最終回となります。
 ということで、あすはのっけから、「議論のたたき台としての教育学講義」を実施し、みなさんとイロイロ議論してみたいと思っています。
 次に、世界人権宣言そのほかについての大阪府の過去問の解答解説をし、ここでも、みなさんの教育的な思考を高めるべく、ご意見を求めたいと思います。
 最後は、集団討論です。討論のテーマは、「生徒に育くませたい力とその方策について、議論してください」といたします。このお題は、今期、実際に出題されたものです。イロイロ考えてきてくださいね。
 なんとか体調も整い、ヒゲもなくなり、すっきりしました。いやいや実は、寂しくって。下顎のヒゲは、ちょろっと残したままです。どうしても寂しくって。ははは〜
(11/2)

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霜月である。
 はやいもので、もう今年もあと2ヶ月。とすると、来年の1次まで、あと9ヶ月ということになる。この9ヶ月をどのように活用するかに、来年の栄冠はかかっているといえよう。長期のレースといっても、1年もないわけで、もう、涙を流すのはやめよう。やるべきことはなにか。それは、昨年において苦手としていたところだろう。とりわけ自己分析である。これは、多かれ少なかれ、受験生にとって一番やりにくいことではあるが、これこそ是非ともなさなければならないアルファであって、いの一番なのである。1の3つ並ぶこの11月1日、自己分析をはじめるにあたって、いい日じゃないか。
 自分のことをみつめ直すことは、つらい作業である。なにがあかんかったのか、原因がわからんという方は、勉強会にくればいい。あかんかったところを、参加者がいやというほど教えてくれる。きついことをいわれても、それで受かればいいじゃないか。試験はそんな簡単なものじゃないし。
 さあ、そろそろ寝床から起きだして、がんばろうじゃないか。
 ワタクシは、ヒゲを剃ったしね〜
(11/1)

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