日々旁午

2004


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 今年も後わずかになりました。ワタクシにおきましては、年賀状も書きあげ、大掃除もすこしばかり手伝い、おおよその行事が終了しようとしております。今年はすっごくイイコトもあったし、ワルイコトもありました。
 そこで、ワタクシなりに今年の教育界10大ニュースをあげておきたいと思います。
 @首都大学東京のいざこざと都知事告発
 A鳥インフルエンザに関する教育的通達
 B大阪府教採の面接重視への移行と1次問題の杜撰
 Cインターネット高校の出現
 Dゆびとまなど教員FA制度の全国化
 E特別支援教育の出発とADHD等ガイドラインの提示
 F長崎の女子児童同級生殺害事件と岸和田の事件など児童虐待の増加
 G義務教育年限の自由分割の提言と留年制度の可否
 H義務教育費国庫負担法のいざこざ
 I教育基本法改正への動きと国を愛する心
 などというところでしょうか。この10項目に順番はありません。今年の教育界を見渡した結果です。ほかにも注目すべき教育記事は多いと思いますが、日々旁午の年間記事を参照していただくと幸いです。
 さて、年内の更新は、本日をもちまして終了いたします。来年もどうぞ「浩の教室」をよろしくお願いいたします。みなさま、よいお年を。(12/30)

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 出口を整備し確保するのはドンキの仕事であり、出口を厳しく管理するのは大学の仕事である。少子化の影響をモロに受け、倒産の憂き目にもあっている大学もあり、学生獲得競争の様相を呈している各大学であるが、従来の入るに厳しく出るに易き姿勢を改めるようである。
 いままでもこうした議論は提案されていたし、大学の9月入学制などもよくよく口にされていた。しかしその議論はほとんど夢を語るに等しかった。それが、2006年ショックとともに大学全入時代を迎え、独自色を打ち出す気運の高まりから、急に現実味を帯びてきた。
 さて、ではどんなふうに出口管理に特色をもたせるのであろうか。「学生の履修成果を的確に把握した上で学位を授与」(『共同通信』)すべきなのは、いままででもそうであるはずであって、いまさらそんなことをいいだすのは不思議であるが、しかし、こうでもいわなければ「大学生の学力低下」の歯止めもできないのであろう。大学受験予備校の教師が大学に登壇して大学基礎課程のお膳立て授業をするほどである。そうした学生を陶冶し、幾多のハードルをクリアさせる必要があるのである。事は思ったほど簡単ではない。
 中教審が「どのような学生を受け入れ、どのような教育をするかは各校の個性の根幹」(『同上』)というのは、選抜システムを大学の自由に任せるとともに、経営の自由をも保障するいい方である。しかし、「どのような教育をするかは個性」との言葉は、出口管理も個性のひとつと受け取られやしないか。大学卒業に、共通テストを導入することなど専門に分化しているのだからありえない。だとすれば、どのような方法をもって学位を授与するのであろうか。
 要するに、それは、各授業科目における提出物の多様化と多量化、綿密な採点に決すると思われる。こうした事態についてこれる学生はどれほどいるのであろうか。たとえば半年の講義で400字詰原稿用紙20枚のレポートを3回要求するとして、それを達成するにはまさに遊んでいられない。しかもそんな科目が週に15コマもあれば、学生の生活は崩壊する。かといって3枚のレポート3回要求では、文章力の育成にすら、なかなか覚束ないだろう。そうしたことを総合して考えてみれば、卒論50枚を100枚にしたところで、ほんとうに管理強化となるのかどうか疑問である。
 多様化と多量化がいわゆるゼミ、演習の時間だけならまだいい。しかし資格関連科目にも及べば、学生負担は相当なものになる。のぞんで入ってくるとはいえ、学生の求める要求もあるから、それと大学当局のシステムとがマッチしないと、これまた大変であろう。途中脱落者の大量創出もありうる話である。
 大衆大学時代からの脱出。学年人口の45パーセントが大学に進学する世界が羨む状況を、ひょっとして文科省は変身させたいのかもしれない。もちろんそのパーセンテージを下げる方にである。(12/29)

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 試験を受けている夢と、遅刻しないか心配でハッとする夢とが、現代人の2大夢事情と思われる。
 学園を卒業しても、試験の夢を時たまみる旁午読者は多いと同情するが、社会人になれば、ぷっつりといっていいほどみなくなるので安心したらいい(しかし、教員をめざす旁午読者は、少し事情を異にする)。児童生徒あるいは学生時代にあっては、うなされるほど試験を受ける現実を反映して、夢にすらあらわれるのであろう。
 ワタクシなどは、厳しくコワーイ先生に教えていただいたせいか、その先生が夢の中に登場し、叱られることすらあった。寝汗もひどい。ここまでくると学業ストレスも極まれりといったところか。
 一方、遅刻を恐れる夢は、ある意味、いい夢である。それだけ責任感が夢までしばっているからである。ワタクシも、何度ハッとして目を覚ましたことであろう。時計に追いかけられるのは、なにも不思議の国のウサギだけではなさそうである。現代人はつねに時間に追いかけられ、遅刻を恐れ夢にまでみる悲しくも勤勉な存在なのである。
 COMPASS=算数・数学力構成要素型診断テストとか、PA=パフォーマンスアセスメントとか、新しいテストの導入に、子どもたちは果たしてどのような夢をみるのであろうか。「PAは欧米で広がっている評価法で、問題を解く過程を式や言葉、絵など多様な方法で表現させる。COMPASSがプロセスを分解して問題をつくるのに対し、PAは思考過程をまるごと見ようとする」ちがいがあるらしい。こうした試験について、朝日新聞がユニークな紹介をしているので読んでみてほしい。
 日進月歩とはいかない教育評価研究にあって、このような尺度のちがう学力診断を取り入れることは、試される児童生徒は別として、従来型学力テストによる評価法を超えた意義が認められよう。
 いずれにせよ、「文科省は全国学力調査を検討中だが、方法によって見える学力が違ってくる。どんな学力を評価するかから議論すべきだ」と耳塚寛明教授が警告しているのは、的を射ている。なぜなら、文科省が推進したい学力向上の基準そのものを問題にしているからである。
 いままでも、学力という「目にみえないもの」をどのように測定するか、主として心理学の分野で議論が積み重ねられてきた。そして、「関心」や「意欲」を評価すると教課審が答申し、その通りになったけれども、実はこの「関心」項目にマルをつけられるのは、いわゆる「できない子」に対してであった。担任の先生が、どう評価していいかわからない子に、この項目に「仕方なく」マルをつけていたのであった。実際、ごくフツーに考えても、「意欲」を評価するなどというような精神論的評価法が機能するわけがない。ゆとり教育の成績のつけ方として、後年、批判にさらされることであろう。
 そうしたことを大真面目で議論していたのが、90年代の教育行政だったのである。そこに科学的な姿勢は皆目確認できないのに、OECD評価だけは気にする不自然さを、21世紀になって露呈しているのである。不思議といえばこの上ない。
 だが、偏差値教育を乗り越えようとして、意欲の向上つまりやる気の向上に着眼し、それを生涯教育に結びつけようとした80年代以来の教育政策はそれなりに魅力的であったし、学歴社会に反省を迫る意味でも潜り抜けなければならなかった過程だったのかもしれない。いわば否定的媒介の思想と時期である。
 この時期、欧米の教育事情とまったく正反対の教育思想を文部行政がもちえたのは、成熟社会の成立と切り離して考えられないことといえる。とすれば、成熟が爛熟となり、あるいは「老化」していっている現代社会が、明日への若々しい活力を復活させるには、競争が成果を生んでいた時代に回帰せざるをえないのかもしれない。
 高度経済成長時代は、数字だけは立派なものであった。しかしそこには開拓されるべき未知の領域が眼前にひろがっていた。その数字を達成できる肥沃な対象があった。直言すれば、教育もそれを支えやすかった。だが現代、低成長を強制される社会状況は、真の競争を要求する。その社会的要求が、いま教育行政の立案を支配している。
 豊かな社会の実現に寄与すべき教育の使命が、結局、ライバルを蹴落とす競争社会型教育思想にまた席を譲らなければならない事実は、ひとつには、個々人の目標喪失を土台に成立しているのではなかろうか。またもうひとつには、限られたパイを奪い合うことでしか成長できない現実がその導入に拍車をかけているのではなかろうか。
 しかもこの新しい競争社会型教育思想は、学歴全盛期におけるそれと内容を異にしている。いわば学歴全盛期の競争社会型教育思想は、かわいいものであった。かわいいといういい方に語弊があるとすれば、予定調和的な競争であった。そこに団塊の世代のキリキリした競争があったとしてもである。安定した社会保障制度の枠に最終的な安住を見出せることも、それを裏付ける。
 だが、21世紀型の競争社会型教育思想は、もっとドライである。そのドライさに、児童生徒が悪夢をみるわけである。このドライさの説明は、もう少し客観的に歴史をみつめる時間を要するので、定かにはできないけれども、それは、ワタクシたちが、昨日今日、肌で感じているなにものかであるとだけいっておきたい。(12/28)

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 義務教育の在り方は、日本の将来を左右する。いま、そこに数多の要因、たとえば児童生徒の倫理的堕落や暴力行為、教員の破廉恥な行為行動、国際的比較における学力低下の確認、教育行財政の逼迫、中央と地方の力関係、などが複雑に絡み合い、現状の義務教育制度にヒビがはいり、いいにせよ悪いにせよ、変容を余儀なくされている。
 在官在野を問わず、教育改革の設計図が示されている昨今、この師走の22日、義務教育改革推進本部(本部長・塩谷立副大臣)のはじめての会合があった。朝日新聞が「(この会合の)冒頭、中山文科相は『世界的な知の競争時代が来た。義務教育が国民の間で大きな関心を持って語られている。過去の経緯にとらわれることなく、改革を進めていく』と述べた」と報道するように、改革志向の強い性格をこの会合はもつ。
 知的所有権が語られ、青色発光ダイオード訴訟のような個人の権利主張が強まる事態に照らしても、「知の競争」時代の到来はまちがいないし、すでにそうした社会に変貌している。文科相の認識はその限りで正しい。だが、「過去の経緯にとらわれることなく」推進するのはなにを意味するのであろうか。その意味がはっきりしないままでは、賛否を表明することはできない。土曜授業の再開が「とらわれることなく」の中身なのであろうか。それともほかに、文科相が従前所属していた団体の思想と関連し、なにか意図するところがあるのであろうか。
 文科相は、また別の場所で、「地方が競い合って教育水準の向上に努める時代になる」と予言している。この発言は、クリスマスイブにふさわしい神秘性を伴っている。なぜなら、文科省が教育行政の権限を掌握したい旨を強調し、既得権益を保守する立場から義務教育費国庫負担法を守る一方で、地方の競い合いを自発的に要求し、その行政負担はむしろカットする姿勢をちらつかせているからである。
 財政が悪化する中で学力向上を願う教育政策をうちださねばならない十字架を文科相が背負っていることに深い同情を寄せる。だが、のぞんでその十字架を背負い、義務教育の改良をめざすのであるから、国民的議論を集約する方向で教育行政を舵取りしてもらいたい。
 おそらくもう水面下で検討されている義務教育改良方針に、この実際が影響をあたえていることであろう。トゥーラ・ハータイネン教育相の「平等が原則だが、子どもがみな一様に扱われることはない。能力が劣ったり、社会環境が恵まれない子には支援がある。教師は修士課程修了が原則。さらに国の予算で継続教育をし、教師の質の向上に努めている」とのコメントには学ぶべき点が多いといえる。教員の修士課程終了原則は日本も見習っていい。教員養成大学院の設置が進むのは、これを意味しているが、ただし開放性だけは厳守するようのぞまれる。あからさまに「能力が劣る」というのはこまったものであるが、それもPISA評価の優秀な結果がいわしめた、フィンランドの自信であろう。
 つづいて、「教師に大きな裁量があるので、能力の高い人材が必要だ。今後、退職を迎える教員が増えるのでその補充もしなければならない。現状では優秀な学生が大学の教育学部に集まるが、今後は他分野に進む若者が増えるはず。教職をいかに魅力的な仕事にするかが重要だ。給与水準の引き上げ。非常勤講師を減らして終身雇用を増やす。教師の継続的な教育機会を設ける。こうした施策によって将来も優秀な教師を確保したい」とハータイネン教育相は述べている。
 教師の自由な「裁量」が、このようにあらわれてはならないことからすれば、傾聴に値するインタヴューといえる。また、教職の魅力について言及している部分などは、日本の文科相が見習うべきところであるし、「非常勤講師を減らして終身雇用を増やす」といっているのはどこまで信頼していいかわからないけれども、教育に賭ける熱意を十分に示しているといえよう。
 「教師の継続的な教育機会」を設けることは、更新性に代表される行政手法とはちがったエッセンスを感じさせる。
 どれもこれもスバラシイ理念である。ワタクシたちは、こうしたハータイネン氏のリップサーヴィスに惑わされないよう気を付け、地に足着いた日本的な教育形態を模索するとともに、政治に従属してきた教育の自立性を取り戻し進んでいく必要がある。
 ただ、最大の問題としていえるのは、教育のことなのに教育内在的に議論されるのではなく、地域運営学校然り、国庫負担法然り、教育のことが経済に還元されて結論付けられてしまう空しさであろう。資本主義の教育は資本主義が醸成した葡萄酒を飲みつづけさせられている。サクラメント!その二日酔いだけは避けたく思われる。(12/27)

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 みなさん、クリスマスはいかがでしたか。ワタクシは、近所の丘の上にある教会にいってきました。なにもキリスト教徒ではありません。しかし、去年もいきましたし、ああいうバタ臭いのがけっこう好きなのです。安藤忠雄氏設計の教会は、なかなかいい感じでした。
 日本におけるキリスト教の普及率は全人口の1パーセントくらいらしいですね。明治の「宗教の自由」以来、キリスト教は勢力を拡大しようと活動していますけれども、あるいは国家主義につぶされ、あるいは天皇制に背反するという根拠から、弾圧といわないまでも国民からは眉を顰めてみられていたようです。
 ワタクシはどちらかといえば神を信じないほうです。「アーメン」と「ラーメン」の発音の同じきを論じ、内容の違いを論じる方が得意です。実際、ワタクシが付き合ってきた外国人の方々には、このように説明し、よくわかっていただきました。あと、「Eat a dirty mouse」を説いたもの(これはわかるかな)でした。
 それはともかく、クリスマスキャンドルは照明をおとしたほの暗い神秘的な教会内をゆらゆらと照らしておりました。神の光なのですね。幻想的な空間の演出にローソクの炎は欠かせません。聖楽隊の「きよしこの夜」、牧師の説教もそれなりにおごそかさを増します。
 ところで、「きよしこの夜」の歌詞の4小節目は「みははの胸に」ではないのですか。はじめて知りました。というより、宗派のちがいによっても歌詞がまちまちなのですね。(12/26)

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 毎年のことだが、この時期になると、どこのチャンネルでもあまり面白くないテレビ番組が放映されるので、ビデオをみることにしている。今年もやはりみているビデオにこれがある。DVDだと7万円以上するのか。なんと高いことよ。ワタクシはNHKで放映されたものを秘蔵しているので、テープが擦り切れるまではこれでみてやろうと思っている。
 11集全部をみれば、20世紀の主たる事件がよく理解できて勉強になる。その中でも圧巻はやはり第5集だろう。「世界は地獄を見た」。題名の通り、悲惨なシーンや残酷な行為がフィルムに納められている。
 ヒトラーの煽動したドイツ国民が戦争に突っ込んでいく有様をフィルムを通して検討できるし、その誤まった国家社会主義に対し反省を迫る壮絶さがそこにはある。第1次大戦と第2次大戦とのつながりがヒトラーの思想を介して紹介されているのが興味深い。
 人間という存在は、なんと悲しいものであるか。民族とは守らなければならない価値なのか。失業対策が膨張主義と重なり合い侵略が国是となる。この国是を許し、共産思想の防波堤たる役割をナチスに求めた資本主義諸国のヨミの浅さは、将棋でいえばアマチュア初段くらいであるといわなければならない。
 平成日本の現状は、バブルがはじけ、失業者が増え、緊縮財政がとられ、諸文化領域における淘汰主義が蔓延っている。バブルを20年代アメリカの大恐慌、失業者増大を路地でなんともいえない顔をして人の行き来をみている20年代ドイツの国民に代表して想定すれば、日本の現状は、戦争前夜かもしれないと思わせるほどである。だが、20世紀前半とちがうのは、ワタクシたちが「20世紀を学んだ」ということ、これである。
 昨日71歳の誕生日を迎えた天皇でさえ、例の「まさこさま人格否定発言」以外にも「心の痛むことの多い年でした」と参賀国民に感情を披露しなければならないほど、日本は追い詰められているのであろう。
 2005年は、様々な意味で節目の年である。たとえば、敗戦60年、自民党結党50年などがあげられる。この機会に乗じて多様な催しが開かれると思われる。それを、どんなところが、どのようにチェックしていくのだろうか。モノいえば唇寒し、だけはご免被りたい。
 明日の旁午は、場合によってはお休みします。クリスマスイブくらい格好をつけさせてくれよ、という意味です。わはは。(12/24)

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 騒動はある方がおもしろい。なにか原因があってなんらかのことを質そうとするものだからである。長野の教育長の件もそうである。
 長野は田中知事になってから、改革を矢継ぎ早にすすめているが、教育行政においてもそうであった。ところが、渡瀬教育長が長野県議会によって罷免される事態になっている。これは極めて「異例」だそうである(『朝日新聞』)。
 教育長の選任に議会の同意がいることになったのは周知のことであろう。第16期中教審によって、議会の同意=住民の意志の確認の必要性が答申され、民主的選択が貫徹するよう地方行政の在り方が変更されたのであった。その趣旨は用意に理解できるし、同意できる事項である。
 朝日が伝えるに、「同県教委は、移動図書館の車体デザインをめぐって、受注業者の決定後に田中知事から知人のイラストレーターを使うよう指示を受け、契約内容を変更していた問題が表面化」というのだから、田中知事もヤキがまわったということか。このイラストレーターがどんな人物で、なぜ田中知事に近いのかは知らない。しかし発注が決まった後の横紙破りはいただけないと思われる。
 事の真相を長野県議会が追究するのは、民主主義の真髄を示すものであろう。たとえ改革派知事といえど、権威を振りかざす気配がみえればそれを是正するのが、長野県民の利益につながるからである。(12/23)

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 本日は、イロイロリンクです。どうやら現代ではこうみられているようです。わからないこともないなという感想ですが、逆ヴァージョンの調査もしてほしいですね。この、137人という数字は悲しいことです。このほか、子どもに関してこちらこちらをどうぞ。食についてこちらを、クリスマスが近づいたので、こちらをどうぞ。新春は、ここに行く予定です。こういう研究もしておきましょう。ではまた明日。とんでいけ〜まじっスか?(12/22)

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 年末といえば大掃除である。大掃除といえば、大ゲンカである。それが我が家の年中行事である。だが今年はちょっとマシである。
 台所、風呂、窓、床、水回りなど、担当すべき箇所は多々ある。それなりに手伝わないと夫婦関係が崩壊するので、しょうもないギャグを投げかけながら、手始めに、手垢のついた冷蔵庫を磨いたのであった。開けばビールが横たわっている初夢を期待しながら。
 常日頃、学生の緊張を緩和させるために仕入れておいたネタを、嫁相手に確かめる。ある落語家の、「昼に見るNHKの連続テレビ小説より、やっぱり朝に見るテレビ小説の方が新鮮だよなぁ」というようなボケネタを披露したり、「テレビを見てて怖い思いをしたんだ。画面に怨霊(音量)って、でてくるねん」といってみたり、嫁の顔色を見るわけである。
 愛想笑いくらいはしてくれたので、まあ合格かなと思いつつ、冷蔵庫上部を拭く。そして他の大掃除の担当を仰せ付けられたのであった。それは窓。正確にはガラス戸である。小さな小さなベランダ、そこは唯一タバコが吸える我が家のスポットである。ガラス戸とともに、網戸もなんとかしなければならない。
 タバコのヤニがついているのか、網戸は相当汚れている。そこに「アミライト」を吹き付けて、待つこと5分。汚れが浮き出す。そこに水を流し、さっぱりしたところを拭くのである。
 事件はそこで起こる。
 「そういえば、小学校の頃、学期の終わりに大掃除をしたなあ。パートに分けて、オレは窓を拭いたモンだったよ」というと、「小学校の頃から窓際か」とのご返答。
 それはないやろ。いくらなんでも。
 ムスッとしたワタクシは、いつもの要求を突き付ける。
 箪笥の1/4を解放せよ〜、亭主のために解放せよ〜。メガフォンをもって応戦する。ワタクシの着るモノはベッドサイドにだらしなく置かれているわけであるが、それは箪笥に空きがないからである。いうまでもなく嫁の衣服が占領しているのである。なにかにつけてこの要求を振りかざし、嫁の口を塞ぎ、特命清掃担当大臣を「退陣」に追い込むのである。
 そんなこんなで大掃除も1/4を終了した。この調子では、先が思いやられる。年賀状も仕上げないとならないし、着手すべき仕事やあれやこれやもまだまだある年の瀬である。(12/21)

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