日々旁午

2005


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第2のテーマは、「学校外での児童生徒の生活は家庭教育の問題であるから、学校の教員は関わらなくてよい、という意見に対してどう対処しますか、議論しなさい」でした。ワタクシの勘違いで25分のところを20分にしてしまいスイマセン。A〜Eさんの5人の方にチャレンジしていただきました。

 第1のテーマにおいてもそうでしたが、テーマを表明する前に、採点官役のワタクシが、参加者の緊張を解くため簡単な会話を挿入いたしました。「1次のペーパーの出来具合はどうでしたか」とか、「何回目の受験ですか」とかです。このほかにもごく簡単に、昨日はよく眠れましたかといった受験生をリラックスさせようとする会話を本番でもするやもしれませんので、手短に応答してください。ここで長々しゃべるといけません。

 とにかく採点官は素のままの受験生をみたいのであり、飾ることは必要ありません。20代前半の若い受験生なら、変に言葉を繕おうとせず、「本当の自分をみていただくんだ」といったある程度の開き直りをチャレンジャー精神で包んでみましょう。また、もう少し年上の方々は、社会人としてあるいは講師としてそれなりのご経験をお持ちですから、それを真摯にみつめなおす姿勢を忘れず、厚みを持った主張にしましょう。

 第2のテーマには、上の記述から予想されるように、大学3年生からママさんまで、年齢層が違いながらも同じく教員として燃焼したいと強く願っている方々が参加されました。口火を切ったのは、唯一の男性討論参加者Dさんでした。

 Dさんは、テーマのたずねる2者択一的性格にまず答えを与えました。「賛成」であると。つまり家庭教育に教員は関わらなくてもいいという立場です。しかし、そういいながらはっきりとは学校教育と家庭教育とをわけられないといったり、児童生徒の安全や虐待など「知りません」ではすまないことがあるのでかかわっていく必要もあると続けられました。こうした発言に対し、討論終了後傍聴しているメンバーから、一貫性がないと指摘がありました。賛成といったかぎり、他の参加者が全員反対であっても、意を尽くして諄々と賛成の根拠を述べたほうがあるいはよいかもしれません。討論ではしかしバランス感覚が求められることもありますから、賛成の立場からの論旨を反対者に説き、かつ、反対者の論旨を喝破するのではなく「融合する」ようなまとめをつくりあげるのがいいのではないでしょうか。

 ちょっと批判的に書きましたけれども、主張の内容にある児童生徒の安全や虐待の課題は語るに値するトピックです。

 Eさんはテーマに「反対」する立場から教員は家庭教育に関わっていった方がよいのではないかと述べられました。家庭と学校は本来直結しているのであり、教員が家庭と関わるにあたって連携のとり方を考えるべきであると主張されました。それは家庭のプライバシーに細心の注意を払う必要があるという発言となってあらわれました。Cさんも、「反対」の立場からのご意見でした。Dさんの「安全」を受けつつ、「学校外」の中には登下校時も想定されるわけで、様々な危険や不審者の存在に対応するのは教員の使命ではないかといわれました。教員は学校外における見回りも積極的にこなすべきであり、そのことが地域との連携も成功に導くことになるのではないかと指摘されました。

 Aさんは、「教員が家庭に踏み込まなければならない事態もある」と述べられ、母子家庭と教員との具体的な関わりをご自身の体験を例示されました。そして教員が保護者に対して教えるべきこともあると付け加えられました。

 Bさんからは、3者連携というキーワードがでてまいりまして、個々の家庭には個々の事情があるので、それを踏まえ私たちはどのように対応していくか集団全体に問われました。

 このBさんの発言について2つの注意事項を書きます。ひとつは、質問だけで終わらないことです。必ずご自身の意見をいわなければ、せっかくの発言機会を生かしているとはいえません。もうひとつは、なにを聞きたいのか明確にするということです。なにを集団に対し聞きたいのかはっきり伝わらないと、他の討論参加者がまごつきますし、討論がストップする可能性があります。すなわち、集団討論に「空白の時間」を生むことになるのです。これは「困ったなあ」になります。なにを聞かれているのかわからない質問に答えることは誰もできませんので、次の発言者は強引に話題転換するか、質問の意図を自分なりに解釈して答え返すということになるでしょう。参加者はドキドキしながら、つまり「緊張の頂点」にありながら発言しますので、見当違いの答えになってはいけないと思い、余計に貝になってしまう場合もあります。

 Cさんが勇気を持ってこの意図の明確ではなかったBさんの質問に答えようと苦心しつつ討論をつなげました。Bさんの質問が、「教員が家庭に対して『どう対応していただきたいのですか』と聞くことがいいのか悪いのか」ということなのか、あるいは「教員が家庭にどういう点で協力できるのか」ということを聞きたかったのか、あきらかではありませんでした。Cさんは「質問の意図を自分なりに解釈して答え返す」手法をとって、子どもの寝る時間についてや子どもの食事など学校の手の届く範囲にない生活習慣一般の問題をどうするのか、という質問に転換する形で答えられたとワタクシは理解しています。

 こうしたやりとりをはさみ、Aさんが、もう一度テーマに立ち返り、家庭との関わりは強めるべきであるということを実践的に語られました。不登校となった小学生の家庭で、「母からいかなくていい」といわれた児童の問題をどう解決するか、ということです。この問題に対して、学校全体で取り組み、「母も子もいっしょに外へ連れ出す」対策をとったそうですが、Aさんが発言された「そこまでしないといけない」という言葉が印象に残っています。「そこまでしないといけない」子どもは、たしかに「国の宝」でしょうね。では、「そこまでしないといけない」教育の危機的状況を、政策的にはどう対応すべきなのでしょう。それはEさんのいうプライバシーの問題と絡んできます。ちょっと考えておいてくださいね。

 Eさんは、Aさんの「子どもは国の宝」発言を受け、子どもの健やかな成長を支援するのが学校の役割であるのは間違いないが、それは家庭や地域に共通に課されたテーマでもある、しかしその役割分担がパーフェクトにこなせるかというとそうでもないので、互いに足らないところを補っていかなくてはならないと述べられました。それが子どものためなら一歩踏み込んでいこうという学校の積極的なサポートの必要性を述べる根拠になっていました。その「踏み込み」について、具体的には安全管理のことをトピックに取り上げ、外国では教室を一歩出ればそこは学校外の扱いになっていると紹介し、日本の学校もそうしたきっちりした線引きの下で対応をしていかなければならないのではないかとまとめられました。Dさんはこの発言に反応して、オーストラリアにおけるスクールサポーターの経験を踏まえつつ、日本もプライバシーを重視する世の中になってきており、「必要以外のことまでいってくれるな」という家庭にどう対応するか難しいとし、茶髪にする児童生徒(あるいは保護者が茶髪にさせたい場合など)の権利意識を学校はどうすることもできないのではないかと指摘されました。茶髪にするのは個人の幸福追求権に属するもので、学校が侵入できない個人の精神的自由権、表現の自由の領域でしょう。ちょっと議論が斜めに進行している嫌いがないでもなかったのですが、テーマに付随する論点ではないといい切れないところです。結論としてDさんは、「必要なところだけの支援」ということだったでしょうか。

 先にも少し触れた、Dさんのテーマに「賛成」する立場を補強する立論としては、学校のスリム化における役割分担の明確化ということがあります。茶髪問題はその最たるものでしょう。どこまで学校の役割をスリムにするかは各学校の意思に委ねられます。したがってDさんは、どういうような学校の体制を構想するかによって、ご自身のスタンスも決定されてくるでしょうから、そういった学校の児童生徒に対する貢献の方針を述べてもいいのかもしれません。それが、「学校外での児童生徒の生活は家庭教育の問題であるから、学校の教員は関わらなくてよい」を支持する立場からの議論戦術になるのではないでしょうか。

 また、これは校種によっても意見が変わってくるでしょう。たとえばAさんのいわれた家庭への踏み込みの度合いは、高等学校教育の守備範囲を越えていると判断されるかもしれません。

 ここでBさんから、また違った角度からのご意見がありました。家庭教育の問題といえども、いわゆる問題行動は家庭と学校の双方に足を突っ込んだ問題であるから、粘り強く対応しなければならないというご意見です。児童生徒の家庭でみせる顔と学校でみる顔とは違うケースがあるので、児童生徒の本心を理解することからはじめるとすれば、学校家庭双方の情報の突き合わせが大切でしょう。そしてまたBさんから質問がありました。「具体的に苦心した経験を出し合ってみましょう」というものでした。

 これに対し、Eさんが夜遅く帰宅する母親を持つ家庭の話、弁当も作れない学用品も揃えない父子家庭に実際あがりこんで指導したDさんの話、Aさんの、削ってない買ったままの紙ケースに入った鉛筆を学校に持参した児童の話、などなど、実例が出て、最後は発表会のようになってしまいました。これはいわゆる「積み重ねの討論」ではなく「発表会型討論」の典型で、前半の議論がぼけてしまったようでした。発表型は陥りやすい罠なので、注意が必要です。これについては過去の勉強会報告に何度か書いていますので、ご自身で発見して読んでみてください。下に設置している「サイト内辞書」が役に立ちますよ。

 密室での会話は愛でしょう。しかしこの勉強会の場で傍聴者やワタクシからなにをいわれても、すべては顔と顔を突きつけ合った公開の場での発言ですから発言者には責任が付いてまわりますし、いただいた発言を自分の肥やしにしましょう。ターミネーターのように液体になっては凝固し立ち上がってくる強靭な精神力、これを身に付けてください。現場はヤワでは勤まりませんから。

 19日はワタクシ忘年会が予定されておりまして、20日午前0時に更新作業ができるかどうかわかりません。酔っ払って帰ると更新を忘れそうだからです。それゆえ先に更新させていただきます。
(12/20)

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昨日は、(ひそかに記念すべきと思っている)第60回当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。今回も期末のお忙しい中、現役の先生お二人にご参加いただき、貴重な助言をいただきました。ありがとうございました。また、遠く福岡からのご参加は魂消ました。来年早々の第61回にも確定参加ということですが、ご自身のペースをお守りになってご参加くださいね。老婆心ながらここに記します。「来るもの拒まず、去るもの追わず」のスタンスが、当勉強会の基本的立場です。帰りのフェリー、お疲れにならないように。

 さて、ワタクシの「作業部会まとめ」に対するコメントは、ちょっと空回りし、そのあたりのことも参加者からご指摘いただいてありがたく思っています。これについてはすぐ後で述べます。

 今回の勉強会も3部構成でした。またたくまに時間が過ぎ去るので、もうちょっと時間がほしいところです。もし、朝から実施しても参加したいというご意見があれば、調整したいと思います。この勉強会に期待するものどもを、どしどしお寄せください。いただいたご意見をできうるかぎり反映するよう努力いたします。それから、集団討論のテーマが枯渇してきております。みなさまから、討論テーマを常時募集していますので、メールいただけるとありがたいです。遠方で勉強会に参加できない方からも、テーマを募集しています。「私の自治体でこんなテーマがでた、いちど討論してもらって、その模様を読んでみたい」というリクエストにも応えたいと思うからです。お待ちしています。

 横道にそれました。序盤は、「学校組織運営まとめ」を、前回に引き続き解説いたしました。そこでは、「教育委員会の関与」、「教員個々の責任とチームワークの関連」、「卓越性に基づくリーダーシップ」、「校務分掌の在り方」が大きなイシューとなったようです。みなさんから、多様なご意見を伺いつつ、ワタクシの理解を示しました。ご参加のみなさんからのご指摘の中にあった、「教育委員会と教育委員会事務局」との違いは区分けして考えないといけませんね。ワタクシの理解では、教育委員会(都道府県や政令指定都市では6人[これについて5人と説明したかもしれません。教育委員の人数についてはまちがったことを伝えている可能性あります。お手元の参考書類で確認してください。すいません。])が決定する事項を、「事務局」の方々が「行政する」、つまり実際に行なう、ということです。それから、「校務分掌」については、講師の先生、現役の先生から、イロイロ現状をお伝えいただき、それが「作業部会まとめ」の文章と絡まりあってよく理解できました。大学生の方々や社会人の方も、想像たくましく頭の中に学校世界を描いていきましょう。

 そこでちょっとワタクシの反省点、上に述べたことなんですけど、それは、次の引用に関わることです。「教職員は、『一人一役』の考え方のもと、担当が細かく分けられ、かえって分かりにくいものとなっている。それゆえ実際には分掌と関係なく、その場で気が付いた者が処理するなど、組織が実態と必ずしも合っておらず、責任の所在が不明確になっているものもある」の解釈です。ここの「その場で気が付いた者が処理する」ということを、ワタクシは即断して「児童生徒への個々の注意」というようなことで申し上げたのですけれど、参加者の中から、それは違うのではないかと意見くださいました。すなわち、ある分掌を担当している教員が、他の分掌に関することで気がついた場合にそちらの「気付いたこと」についても処理する、ということですね。分掌違いのものも、その場その場で本来の分掌担当外の教員が行なうときがある、だから、責任の所在が不明確になる、という理解ですね。こちらが正しいでしょう。ワタクシは「処理」という「述語」に無頓着だったので、安易に考えてしまいました。「処理」からすれば、「児童生徒への指導」とは考えにくいです。いや、ご指摘ありがとう。

 当日は、次に、神戸市の1次試験の解答解説を行ないました。かぎられた時間の中、4つほどすすめられたのでホッとしています。神戸市においては、来年度の1次試験では心理学や時事を主たる出題とすると「公言」しているので、教育原理からは出題皆無になるかもしれません。しかし、兵庫県が面接で法規の知識理解について「短答」を求めることと同じようなケースがないとは断言できません。それゆえ、法規や原理もおろそかにしないようにしましょう。

 ワタクシの予想するところでは、時事は、やっぱり「教育時事」ということになると思っています。そうであれば、答申類や調査研究報告者会議報告を読み込むことは必須でしょう。時事で答申を出題しないのは、クリープを入れないコーヒーのようなものでしょう。

 年明けあと一回を使って、この「作業部会のまとめ」を終えようと計画しております。本文そのものは、ご自宅でご検討していただくよう期待しています。もちろんたくさんの質問待っています。

 最後に、集団討論をいたしました。第1テーマは、前日、アナウンスしたように、「学校の勉強が社会に出て本当に役に立つのかという児童生徒からの問いにどう答えますか、議論しなさい」でした。このテーマを25分間で5名の方に「料理」していただきました。A〜Eさんとして、発言をトレースし、問題点を抽出してみましょう。

 まずCさんが、発言されました。発言の趣旨は、一言でいえば、思考訓練の重要性という理由で児童生徒を説得する、ということでしょう。Cさんは、小学校教諭をめざす立場ですが、将来的に勉強が役に立つかというこのテーマに対する解答を、高校の学習を引き合いに出して説明されました。勉強の必要性を「考え方が役に立つ」、「一生懸命勉強する行為そのものを大切にしよう」ということで、その際、教員をめざすものがどのように児童生徒に興味を持って授業に体当たりしてくれるか、その順序や構成を示すのが大切だと述べられ、他の参加者に問題を提起されました。勉強の内容そのものではなく、勉強する行為が思考を高め、かつ、そこで学んだ順序つまり整理して自己の考え方を示すことができる能力こそが大切だというのは、まさに「生きる力」だと思います。こうした形式を陶冶する教育が、現代では教育の本質だと捉えてよいでしょう。ただそこに実質的な学習内容の蓄積は前提されますね。イロイロなことを知ってはじめて話ができたり議論ができたりするのであって、実質的な教科内容を手に入れる過程において形式的な学力が身に付くものです。

 Eさんは、この「役に立たない」といい張る児童生徒に、堂々と「役に立っている」とまず答えると力強く述べられました。そうした自信溢れる態度がやっぱり教員には必要です。数学の2次方程式や音楽の音符の名称などそれそのものが役に立つ場合もあるが、それを「学ぶ仕方」が役に立つと語られました。Cさんが述べられた内容とかぶりつつも、それを押し広げようとして発言を練っていたようでした。「他者の意見の焼き直し」はあまり印象がよくないので、この辺の苦労は、参加者みなさんの「苦労」であると思われます。そういう意味では、「いったもん勝ち」になるような今回のテーマでは、「先陣争い」が予想されます。

 ついでAさんは、社会人になってからの「生活」の段階で役に立ってくることもあるのであると主張され、「学ぶことで得ること多し」と、格言的にいわれたのが印象的でした。なにを学ぶかによって、児童生徒の方向性がみえてくるといわれたのも、「可能性」という言葉はありませんでしたが示唆的でした。Bさんは、まさにその教育の可能性ということに言及した発言でしたね。児童生徒はイロイロな可能性を秘めている。その可能性を「夢」に結びつけ、実現を支援すると述べられたのは、ポイント高かった発言です。

 Dさんは、自分の幅を豊かにしていくために勉強するんだよと、諭すように児童生徒にタッチしたいというニュアンスで語られました。ここまではよかったのですが、テーマに「社会にでて役立つのか」とあったので、ここは素直に学ぶ教育内容に対する児童生徒からの批判と捉え、まずはそれに対する解答を用意しましょう。Dさんがいわれた教科外において養成されるべき協調性・社会性、ひっくるめていえば人間性の陶冶は当然学校教育の提供するべき教育内容です。それに対する指摘は、もう少しあとでもよかったかと思います。

 ここで一巡し、Cさんが、学習内容の広狭に話題を振られ、義務教育では幅広い学習をすることが必要で、わざわざ可能性ある児童生徒の将来を狭くするようなことはいうべきではないだろうといわれました。必要・不必要、また、役立つ・役立たない=実利的かそうでないか、というような二者択一で児童生徒に答えるのではないということですね。ワタクシも、児童生徒が自己を作っていくための実務的な能力、具体的にいうと文章作成能力やプレゼンテーション能力は必要不可欠だと思いますが、勉強のいわば「芸術的側面」も重視すべきであると考えています。Dさんのいわれた人間性を伸張するには欠かせない感覚であり、学びであるでしょう。人間を豊かにする教育内容は、いわゆる副次的教科といわれるものに教わるところ多いと考えます。そうすると、テーマから少しそれますが、ここから各教科の存在意義−学校の時間割になぜその教科があるのか−を語ることも可能になってくるでしょう。

 ここで、話題転換がありました。Eさんから、この児童生徒からの質問を、具体的に学校のある状況の中でいわれたとしてどう対応するべきか考えてみませんか、という提案でした。Eさんは、極めて具体的に発言されており、説得力がありました。なかでも、からだを動かす体育は、児童生徒自身がたのしく気持ちいいから、「なんで勉強せなあかんのん」と疑問があまり出ないのに、面積を求める算数の時間では「なんでするん?」といわれ、文章を書かせても「なんで?」といわれる。「おてがみ」を書かせてもそうである、と。ここで児童生徒が「楽しい、気持ちがいい」という判断がなされる教科であれば問題ないのに、文章題などいわば難しく、強いる学び、それこそ「勉強」なのですが、その場合に、どうやら「なんで?」が顔を出す、といわれました。こうした微妙なところを嗅ぎ分ける感覚の発言に、Eさんの講師経験が最大限に生かされているなあと思いました。

 こうした「場面設定」からの各参加者の発言が続きました。Aさんは、学校サポーターの経験から、「英語なんてやっても意味ないじゃん」といわれ、「外国人と接しないし、英語を使うことないよ」と英語の授業を拒否された経験です。この意見披露につづき、Aさんは、舌足らずではありましたが、現在の児童生徒をめぐる社会的状況は豊か過ぎる、人生を豊かにする内面的な手段をしらないまま、豊かにする道具がなんでもある。インターネットも便利な手段・道具である。ところが、その道具が揃った便利な世界が逆に児童生徒に依頼心を生んでいるのではないか、と大上段に立った批判でした。これでは自分自身の力で道を切り開いていく闊達な精神が養われないのではないか、というご意見ですね。ワタクシたちが豊富なツールの恩恵を受け、それを使いこなすことに精一杯で、それが目的達成の手段・方法であることを忘却してしまえば、若い生命から「創造」が生まれることは難しいでしょう。ではどう指導するか、それを考えるのはこの課題を越えています。しかし是非ご自身で突き詰めていってくださいね。

 Bさんは、このテーマの「なんで?」に立ち返り、討論者がこれまで述べていない、しかしごく普通の感覚から「なんで?」と児童生徒がいう理由として、苦手意識ということを挙げられました。得意なことはやるのであるが、苦手なものは遠ざけてしまう。苦手は苦痛となり、児童生徒の学習からすっぽり抜け落ちやすい。だからこそ、できたときにほめる、それが自信を付けさせることになる、と熱く語られました。問題ができるたびに「やったね」と声かけすることは、そのひとつの大きな手法です。そして教科内容そのものに興味を持たせる写真やビデオの活用にも触れられました。

 一方、Dさんは、「なんで?」には将来不安が潜んでいるのではないかと述べられました。もちろん深層心理的には児童生徒がそうした意識を持っていることはまちがいありません。ただ、ここではどうであったか。それはそれとし、このDさんの問題を肯定したとして、では将来不安の中身はなんであるのかが問われるでしょう。これを具体的に語れるかどうかが、Dさんには要求されます。Dさんは、将来不安を取り除く方策=興味付けといわれて、職業体験について話されました。自分自身で問題点を発見して解決する、そうした個々の自律した主体的学習が自信を生むという発言論旨でした。

 ワタクシたちが気を付けなければならないことはなんなのでしょうか。それは、ワタクシたちの持っている多様な経験を、テーマに即して語ることでしょう。その経験は、児童生徒とのかかわりの中から学んだことであったり、答申や教育学から学んだものであったり様々です。そうした勉強からいかにうまくテーマに即した発言ができるかであると思うのです。ピントが合えば、多くを語らずともいい。痒いところにさえ手が届いたら、採点官はうなずくはずです。Cさんの発言は、そのピントにあったものでしょう。「楽しくない、だから嫌」となり、なぜやらなければならないのという疑問となる。そこにうれしい、や、楽しい、をどう注入するか。「達成感やよろこびの提供」というのはまさにそれで、それを味わわせる「仕掛け」や「工夫」をどうするか、と問題を慎重に読み替えられていっていたようにうかがえました。ここに次は具体的な仕掛けの中身を付け加えましょう。

 Eさんは、その「達成感」に関わり、「いまのができたら、次のもできるよ」(あるいは、「いまのができるようになれば、次のができる」)とステップアップの教育思想を披瀝され、ここから補充学習や調べ学習について発言を進めていかれました。うまい展開でした。そして、音符や休符の学習の思考そのものが、次に他の教科の学習にも生かされるという意味で、学習の転移についても暗示されていました。
 Aさんは、学習の方法という観点から、児童生徒間における「教えあい」というコミュニケーションに触れつつ、教員がそこから児童生徒の疑問点を抽出し、全体の問題意識にしていくというニュアンスのことを述べられました。Aさんはそれを「問題の砕き方」という表現で語られたのですが、それをもう少し説明されると、わかりやすかったと思っています。Cさんも、コミュニケーション能力に触れつつ、教室全体が楽しい雰囲気になるよう指導していきたいと抱負を語られました。

 最後にBさんが、夏休みの課題として歴史新聞の作成を出し、休み明けの発表という学習を進め、自分の力で調べ知を得る実践を紹介したところでタイムアップとなりました。

 全体を通して、採点官役としましては、素直に耳に入る事柄が多く、よかったです。常に忘れないでいただきたい点は、上にも書きましたが、的を得た発言、ということです。テーマからはなれず、ポイントを突いた主張、焼き直しでない発言、これだと思います。

 もうひとつ。ワタクシは、討論を拝聴していて、「学ぶことの尊さ」をもっと強調してもよかったのではないかと思っていました。また、学べることの尊さといいいましょうか、「学べる豊かな環境にある君たち」という意識を児童生徒に自覚させる発言があってもよかったと思っていたのです。このことはCさんの発言の中に潜んでいるのですが、学びの尊さがもう少しのところで出てくるかなと期待していたのですけど、あともう一歩でした。

 それから、Aさんの「なんで?」から「なんでこうなるんやろう」へと主体的な学習意識の芽生えへの転換のところは、お聞きしていてグッドでしたよ。いいたいことがシドロモドロであったとしても熱意が伝わってきます。しかしそれを言語化してナンボということで説得力ある話術をあみだしてください。

 昨日は、交通事情も悪化が予想される中、わざわざお集まりいただきありがとうございました。第2のテーマについては、次回の更新をお待ちください。
(12/19)

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あすは、第60回当サイト主宰勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、ちょっと寒いですけど、熱く語り合いましょう。

 前回お配りした資料類を持参くださいね。

 集団討論のテーマは、「学校の勉強が社会に出て本当に役に立つのかという児童生徒からの問いにどう答えますか、議論しなさい」と、「学校外での児童生徒の生活は家庭教育の問題であるから、学校の教員は関わらなくてよい、という意見に対してどう対処しますか、議論しなさい」の2テーマです。

 ではあす、お会いしましょう〜
(12/17)

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きょう、総理大臣は、靖国神社参拝に関連して、「こころの問題だ」といった。この前の戦争で散っていった人びとに哀悼の誠を捧げ、二度と戦争の惨禍を繰り返さないよう、不戦の誓いをするために人間として靖国へお参りすることになんの問題があるのか、行こうが行くまいがそれは「こころの問題」だろう、というわけである。この意味で、「(私の考えていることが他国に理解されなくて)よくわかりませんねぇ」とぼやくようにインタヴューに対応してるのには、半分反対、半分賛成である。こうした発言をする総理の視野の端に中国が映っているのは紛れもない。

 総理大臣が靖国参拝することにアジアの諸外国から非難を浴びせられるのは、20世紀前半の歴史的経緯を知るものであるなら誰でもよくわかる話である。彼らの恨みはそう簡単に消えない。しかし一方で、一国の大将が、過去、自国のために散っていった人びとを鎮魂することに「いちゃもん」をつけるのは内政干渉だと総理に同調し擁護するグループもある。これはこれで一理ある。しかしその主張を携えて、国際政治の舞台において、弱肉強食の政治力学の理論に自国の存亡のすべてを賭けるようなことは、賢者の選択ではないだろう。現状、日本がアメリカの植民地である状態から脱出する気合もないくせに、パワーポリティクスを持ち出すのは聞いていて滑稽である。中東の貧困はアメリカに弓を引いた結果であろう。アメリカと手を切って、その貧困を受け入れる覚悟が擁護派グループにはあるのだろうか。

 戦前の高級官僚が免罪されて戦後も支配層として居残り、擁護派グループに連なっていること、さらにオーストラリアやニュージーランドが天皇の戦争責任に関して引き下がったことによる有耶無耶的決着、つまり60年前の戦争の総体的な清算を済ましていないから、森や武部の発言が「忘れた頃にやってくる」のであり、戦艦大和が映画化されるのである。

 法的な清算に関していえば、いかな松本蒸治が泣こうとも、旧憲法から新憲法に転換したのは形式的にはワタクシたちにとっては幸福だったのである。だが、国家体制転換を明示する憲法の転換が「民主主義革命」の成果であるというのはフィクションに過ぎないと思っている。「一種の革命」はありはしない。この議論は優秀な組み立てと権威ある論者によって「宣伝」されたので「信頼」されているが、どうしてもワタクシは結論的に同意できる議論ではない。ワタクシごときでは、このことに関するバシッとした結論はない。しかし納得できる議論ももう長い間、聞かないのが残念である。

 このように、思想的にも法的にも制度的にも、戦後は清算されていない。それがこの60年の道である。こうした液状化した日本の戦後思想と支配制度をアジアとりわけ中国は笑っているのではないか。

 ところで国家理性の観点からいって、自国がぎりぎりまで追い詰められればナショナルな立場をとるのが政治の常である。だがいまフレンドシップを求め、東アジア共同体構想を提示した総理にあっては、参拝を考え直す契機になりはしないか。「共同体」とは「同盟」ではなく、究極的には共同体内における倫理的な結合をめざすからこそ、この「共同体」という言葉を使ったのではないのか。

 いままさに高度経済成長期の中国がアジアの諸国に経済的優越の地位に立ち、アジアの諸国を従えるまでになってきている。アジア世界のリーダーは中国だといわんばかりの発展である。アメリカの力を借りないで、総理がアジア世界の「友好」と「経済」を「政治」的に束ねたいと思っているのならば、譲るべきは譲る姿勢も必要だろう。靖国懇談会設置とその議論の中で、将来の方向性を探るのが、いまなすべき最大の仕事だろう。総理は分離がそんなに嫌なのか。総理の一本釣り的大臣採用をみていると、このひとは審議会的なものが嫌いなようであるが、自分の信念だけですべてはうまくはいかない。なぜなら政治は調整作用にほかならないからである。

 ところで冒頭に「こころの問題だ」と示した。これも総理にあっては「使い分け」のようである。いいときだけ「こころの問題」を使用するのは慎んでもらいたい。もしも「こころの問題」つまり思想良心の自由を守護する態度を外交的に表明するのなら、内政的にも一層強く身を持って模範を垂れるべきであろう。それが政治の均衡である。そうでなければ中国の人権問題やチベット問題を云々する資格はないのである。国旗国歌法と学習指導要領をタテに教員の思想良心・信条を蹂躙する恫喝的教育行政を文部行政に依頼(容認は依頼と同意である)しておいて、自分だけ「こころの問題」というのは理に合わない。勝手な政治家の放言と見做されないよう倫理的なけじめをつけるのが筋というほかない。
(12/15)

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すべての時間を注ぎ込んで仕事をやるとするならば、食事をどうするかは、個人において、さらには夫婦において、最大の関所となる。思うに教職についておられる方々は、朝早く出勤し夜遅く帰宅する。今の時期は「うしろのこくばん」にもあるように、評価にてんてこまいなわけで、飯を喰う時間も惜しいはずである。いわんや、飯を作る時間おや、である。

 こういうときに教職に就かれている(疲れている)方々は、どういうふうに切り抜けられているのであろうか。

 教員における外食の割合はどのくらいなんだろう?一度アンケートでも設置して投票してもらおうかな。こんなふうに
(12/14)

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第59回勉強会の集団討論における第2のテーマは、「学校マネジメントに関わり、教員間の信頼関係や協力関係をどのようにしてつくりあげればよいか、議論せよ」でした。6名の方に25分間で取り組んでいただきましたが、ワタクシにおいても討論を傍聴している方々にあっても、どうも評価が悪かったようです。ワタクシから、ちょっと厳しいいい方になってしまい申し訳なかったのですけど、忌憚なくいいたいことをいわせていただきました(この勉強会につどってきてくださる参加者の、へこたれない意欲を前提としているからいえることであるのはいうまでもないでしょう)。討論終了後、一言まず、「面白くなかった」と申し上げましたが、討論の全体的な評価において、聞いている側は「面白い・面白くない」の2者択一的判断をするものなのです。これは自然な感情で、料理が出てきて喰って、ウマイ・マズイをいう感覚と同じです。本番の採点官もおそらくそうでしょう。

 ワタクシが感じたこの討論の最大の反省点は、「具体的に語れていない」ということでした。難しいことをいおうとしたり、答申べったりに意見をいったりするのではなく、フレッシュな感覚を表現され、採点官の目に留まるよう期待していたのでした。

 さらに、傍聴していたメンバーの方からご意見をいただいたように、このテーマの「難しさ」を感じ取ってしまった討論参加者が、どのように議論を作っていくか右往左往してしまったようにみえたのも、反省点でしょう。つまり問題の把握がうまくいっていなかったということです。そして討論者が意見を提出しても、ではそれをどうやって実現していくのかという視点が欠落していたのも評価が低かった所以でしょう。採点官の要求しているニーズにあった議論が組み立てられていなかったという厳しいご指摘もありました。

 テーマ冒頭の「学校マネジメント」という単語からして難しそうにみえます。そこのところにだまされず、やはり具体的に語れるかどうかがポイントといえます。また、この討論実施の前に「学校組織運営まとめ」の解説を少しばかりいたしましたので、それに引きずられてしまった感もありました。

 ところで、大阪府の採点官が集団討論のテーマを受験生に申し渡すとき、テーマだけをずばり示すときもあるにはありますが、多くの場合、なにか「前振り的説明」をしつつ提示されるので、ワタクシたちは試験実施教室に入って採点官がなにかいいはじめると、集中して聞かなければなりません。そこに討論のヒントがあるからです。

 ワタクシはそうしたやり方を真似て、テーマをみなさんに示す際、もちろん前日にテーマは明示されているわけですけれど、なんらかのヒント、こういうふうにすすんでいってくれるといいなという「前振り的説明」をいたします。今回の場合、それは「フレッシュ」でした。「学校マネジメントに関わり、教員間の信頼関係や協力関係をどのようにしてつくりあげればよいか、議論せよ」は、すなわち簡単に分解すると、@「学校マネジメント」=「学校運営」=「みなさんが採用されて学校に配属されてどんな校務を担当するか、具体的に示せるか」=「学校の全体的なイメージを描いているか」ということ、A「教員間の信頼関係や協力関係」=「学校に配属されていらっしゃる先生方とどのように付き合うか」ということになります。

 するとこのテーマは、「新人の先生が配属先の学校にどんな希望を持ってはいり、校長、教頭、先輩の先生方と協力してどんなふうに学校をよくしていくか」という平凡なテーマに読み替えられるということです。マネジメントというビジネスライクな言葉におののいてしまうと、なんにも意見をいえない結果に終わってしまいます。たとえマネジメントなどという経営に関わる言葉がでても、学校を離れた議論であるはずはないのです。ワタクシたちは、答申を勉強したからといって答申の言葉を頼りに自己の意見を粉飾しようとする愚を犯すのではなく、自分自身の言葉でテーマにアタッチしないといけません。もっといえば、答申に準拠することなく発言してもいいのです。所詮、学校といえど、人間が集って運営していく組織です。であれば、ワタクシたちがそれぞれに所属している集団内における多様な人間関係において、自分たちが常に注意していることはなんなのか、どういうふうにしていけばその集団がよりよい方向に導かれていくか、それらを討論の前提にすればいいのです。そこに「学校イメージ」をプラスしていくことが要求されている、と考えられればいかがでしょうか。

 前置きが長くなりました。このテーマに挑戦していただいたのは、6名の方でした。25分間でどのような議論がなされたのか、A〜Fさんとして発言された内容を個別にとりあげコメントしていきましょう。

 まずAさん。Aさんは、校長のリーダーシップの下、学校の教育理念を共有することが大切であるといい、教員間の相互理解を深めたいと述べられました。それぞれの教員にはそれぞれの得意分野があるので、個々の教員の特色を人事エントリーシートにまとめておいて協力体制を有効に機能させたいとご意見されました。自分の専門性を深めてそれを組織たる学校に還元していく姿勢をみせたいと抱負を語り、give、give、giveを重ねてtakeをひとつ得る覚悟で取り組みたいと述べられました。また、教員間の信頼関係なくして協力関係がうまれるべくもないから、なにか学校ぐるみの行事を行なうとよいと提案。組織論におけるマトリックス制という高度な議論もAさんから提起されましたが、ちょっと他の参加者がついていけないようでした。

 Bさんは、教員間における共通理解を深め、従来の学年で囲いを作るのではない学校としての全体的な関係形成をしたいと主張されました。研修の活用についても触れられました。また、職員会議では発言者が決まっていると批判、学年会は学年のことしか議論がないので、そこに所属したら他の学年のことがわからず問題ではないかと述べられました。職員会議が学年会の集約的な場になることを期待されているようでした。

 Cさんは、組織としてどのようにチームワークを高めていくことに学校運営は左右されると切り出され、一人ひとりの教員が資質能力を高め、協力関係を形成していくのが、あるべき在り方であるとご意見されました。校務分掌、OJTのことにも触れられつつ、マネジメントを活性化し、各教員がなにをなすべきか、校長のリーダーシップの下、一貫して取り組んでいくことが大切であると述べられました。

 Dさんは、教員が同じ方向をみて、共通した目標・目的を持ち学校組織としての協力関係を作り上げていくと述べられました。その際、個々の教員の役割の明確化も必要とし、職員会議についてご意見ありました。それはすなわち、現在の職員会議が果たして教員集団の共通理解の場になっているかどうか疑問であるということでした。企業組織では、大きな会議を開催する場合、そこでなにを提案するか小さなユニットを作る。ユニット単位で会議に意見を提供しあい、さらに大会議で生まれたものをユニットが持ち帰りその場その場に生かしていくということを話されました。ある集団に属する人びとが、どのように交流すべきかをモデルケースを通して説明されたのです。ここからどのように職員会議を「改造」するかの提案がほしいところでした。

 Eさんは、学級担任はひとりの教員では大変だがなんとか協力体制を仰ぎつつ指導したい、そのためには学校目標を設定、個々の教員がこれを自覚し協調体制を作っていくべきであると述べられました。さらに一人ひとりの教員が得意分野を形成していくことも大切である。しかしそこには落とし穴がある。PCが得意な先生に学級便りほか一手に任せていた学校の運営にあって、その先生が転勤され、その後を引き継ぐことができず、てんやわんやの騒動になったと述べられました。専門家が抜けてしまうとその仕事が学校としてまったくできなくなるのは困るので、オールラウンダーに教員は能力を高めつつ協力体制を作っていかないとならないのではないかを警鐘を鳴らされました。このほか、職員会議はなんでもいえるような自由な雰囲気を作らなければならないこと、校務分掌のおいて安全面の分掌を設けるべきことなどの提案をされました。

 最後のFさんは、学校の教育理念へのアプローチの仕方に各教員が特色を生かしつつ取り組むべきであると述べられました。すなわち、児童生徒へのアプローチは教科面、クラブなどの人間関係面と様々であるから、それぞれに応じた対応を教員が分担しつつ総合していくのがよいのではないかという提案でした。またユニット制やマトリックス制については、個別に学校ですることを分割するのではなく、学校が一体としてどう取り組んでいくかも考えるべきと指摘されました。

 このように、今回の再現は時間経過に沿うのではなく、それぞれの参加者がどのような発言をされたのか個別に提示する方法を採用しました。それぞれの方の発言内容をみれば、なぜ最初に「面白くなかった」と評価されたのかわからないかもしれません。

 さて、年内最後の勉強会を、この18日開催いたします。18日の勉強会はすでにキャンセル待ちの方が出ている状況です。ありがとうございます。18日の開催で第60回になります。曲りなりに続けられてこられたのは、ご参加のみなさんのご協力の賜物です。第60回にも、現役の先生にお2人来ていただく予定です。今現在持っている悩みや疑問をぶつけられてください。よろこんで答えてくださる先生ばかりです。ご参加のみなさまの意欲的な姿勢を期待しております。刺激に飢えているワタクシに、頂門の一針を待っています。
(12/13)

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この週末、当サイト主宰、第59回勉強会に多数ご参加いただきましてありがとうございました。当日は、ほとんど満席、寒い冬であるにもかかわらず、教室は熱気で溢れていました。今回もまた、大阪府の現役の先生にご参加いただき、貴重なコメントいただきました。厚くお礼申し上げます。そして、今回も初参加の方が数名いらっしゃり、ウレシク思っております。毎度まいど申し上げますが、女性一人でこの勉強会に申し込まれるのは、度胸のいることだと思います。今回16人のご参加で、12名が女性の方でした。はじめてきてくださった方から、「安心した」とお聞きし、ホッとしております。

 「ネット社会」というものがあるかどうかわかりませんが、ネットを介した集まりに警戒を抱くのは当たり前の感覚でして、ご参加は勇気のいるものだと強く思っています。ワタクシが逆の立場ならと考えると、申し込みにかなり躊躇するでしょう。

 さらに当日は、わざわざ愛媛県や広島県からご参加いただき、その熱意に打たれております。毎回のご参加は大変ですが、時間があえば、是非またご来阪ください。今回、ちょっとばたばたしておりまして、失礼いたしました。

 さて、当日は40数枚のレジュメをお配りし、中教審作業部会のまとめの検討と、平成17年夏実施神戸市1次試験の解答解説、および集団討論を2題いたしました。勉強会開催時間が4時間ですので、少し早い展開になり、ご参加のみなさまにご迷惑をかけたかもしれません。

 みなさんが、ご自宅や学校で教職教養の学習を積まれ、それをこの4時間にぶつけていただくことを期待しております。集団討論のテーマを前日に発表しているのには、そうした意図があります。この4時間の勉強を充実したものにするため、ご参加のみなさまは、教職のバックボーンを作り上げてくださいね。そして、イロイロな質問をワタクシや参加者にぶつけ、刺激を与えてください。参加者の一人ひとりがそうした主体的な意識を発揮することによって、この勉強会がさらに密度濃くなっていきます。さらにいえば、友情と競争心と、つまり切磋琢磨できる空間が提供できるかどうか、そしてみなさまの今後の参加を得られるかどうか、それはこうした報告書やこのサイト自体の運営にかかっていると自覚しています。

 さて、まず、答申類検討のことから述べます。今回は、中教審・初等中等教育分科会教育行財政部会・学校の組織運営に関する作業部会「学校の組織運営の在り方について[作業部会の審議のまとめ]」平成16(2004)年12月(以下、「学校組織運営まとめ」と略します)を検討しました。この「学校組織運営まとめ」は、義務教育および高校教育に対する中教審の「熱い想い」が詰まったものでした。そこで登場するキーワードを確認されただけでも、今後、中教審が現場にどんなことを要求したいのかがわかります。また、現場感覚の極めてペラペラな中教審が、現場をどうみているのかも少しばかりわかります。ワタクシの簡単にまとめた解説をもとに、本文を読まれることを期待します。今回、まだほんのでだしのところだけの解説でしたので、次回の第60回勉強会で残したところを口頭でお話させていただきます。巻末の問題を解いてみることによって、本文を再確認できるようにしています。

 そして次に、神戸市の問題をみていきました。時間の関係から2問しかできませんでした。ただ、ひとつひとつを資料を通して精密にトレースするにはこれだけ時間がかかってしまうのは仕方のないところです。ひとつの問題をたたき台に多面的な方向に教育的思考を広められることを望みます。今回は特別活動の問題と総合学習の問題でした。キーワードであった「望ましい集団活動」を単に覚えるだけでなく、そこから学校現場へ思いをはせ、乾いた指導要領の文章と現場をリンクさせることが大切です。また、総合学習の取り組みに関しては、10年版と15年改正版の学習指導要領の対比表から、講師をされている先生に図書館の活用実態に関しイロイロ教えてくださいました。安全面に関する議論もなるほどと思わせられるものでした。乾いた文章の指示するところの、動的な学校運営を鮮やかにご説明いただき、大学生の方も臨場感持って聞き入っていた様子でしたね。

 最後に集団討論を2題実施いたしました。2題していただくと時間的に余裕がなく、十分なコメントができなかった点が反省材料です。1題1時間はかけたいところです。みなさまからの活発な意見がどしどしでてくることを望みます。聞いてるだけでひっこんでいるのではなく、「正しくてもそうでなくてもなんかいってやろう」の精神で参りましょう。

 前日アナウンスしましたように、第1テーマは、「児童生徒と教員は、人間対人間の関係であるが友達関係であってはならないという。どのように考えるか議論せよ」です。第2テーマは、「学校マネジメントに関わり、教員間の信頼関係や協力関係をどのようにしてつくりあげればよいか、議論せよ」でした。

 今回の「旁午」では、第1テーマについてその模様をお伝えいたしましょう。このテーマには、25分間で7名の方にチャレンジしていただきました。仮にA〜Gさんといたします。

 まず、Cさんが、先生は「先に生きている」というわけであるから、児童生徒に対して兄、姉、父の関係でいるべきかと述べられました。児童生徒と教員が友人関係であっては指導できないということの自覚を表明したものといっていいでしょう。テーマを素直に受け入れる立場からの発言でした。次にBさんが教育実習体験において児童生徒とやりとりしたことを提示され、このテーマに潜む問題点に触れられました。すなわち、休み時間に児童生徒と話をしていて、チャイムが鳴っても児童生徒との話が終わらず、「センセー、まだええやん、お話しようよ」といわれたそうです。このことからBさんは、規則を守る立場にある実習生つまり教員が、こうしたことではいけないなと反省させられたということでした。まさによく出くわす場面です。この体験から、ではそうした場面をいかに「かわす」かを具体的に指導の方法論として語ることが必要となるでしょう。Aさんからは、実習生のように年齢が近い先生だと、児童生徒の先生に対する親しみがわきやすいといわれ、また、Bさんの問題はメリハリの問題であるとし、いかに児童生徒と私たちがけじめをつけるかが大切だと端的に話されました。「いまは○○をする時間だよ」と、なにを目的とする時間なのかを児童生徒に自覚させることによって、「友達関係」から脱出することを意図しているようでした。ここでは一人の児童生徒を対象にその解消策を考えられているようでした。

 DさんもAさんと同じ立場であり、「自由と規律の指導」と表現されました。インターンシップのご経験から、Bさんの逸話と同じような場合に、困ったということを語られました。不登校の児童生徒を対象に、甘やかした指導をした結果、かんばしい成果がなかった点を反省的に述べられたのです。自由と規律、onとoffの切り替えをどう指導するかは、家庭教育における養育態度とも関連し、学校の指導だけで成功させられるかどうか難しいですね。家庭教育に触れるなど、話題を広げすぎるとテーマから離れてしまいますので慎重にコメントすればいかがでしょうか。

 Eさんは、小学校教員をめざす立場から、小学生どうしが互いに関わり合いを持ちながら学んでいく場合もあるので、友達として互いに学ぶことはとてもいいことだとしつつ、しかし、教員は友達として関わることもあるが学ばせていかなければならない存在でもある。そこを忘れるといけない。学級全体をみて、常になにをするべきか−これを教育実習の指導教官から教えられたと語られました。力強い表現で自信に溢れたいい方でした。信念を伴った発言は、集団に対し、また、採点官に対し説得力を持つものです。Eさんの学んだ全体をみてなにをなすべきかを、時間を切り詰めつつ具体例を挙げて話せば、一層よくなるでしょう。そうした場面を想定する訓練をしましょう。すなわち、テーマから現場を発想するということです。どんなテーマについてもいえることです。

 最後にGさんは、このテーマそのものに立ち返り、児童生徒との信頼関係を作るには、友人関係は前提となる場合もあるのではないかと喝破され、根っこのところを批判されました。指導的な関係におけるラポール形成は不可欠であり、友人関係がいけないとは一概にはいい切れないのではないかと述べられたのです。また、児童生徒に歳が近いということ、若さは武器であることを微笑ましく議論されながら、「歳のはなれた友人」であっても信頼形成はできると指摘されました。後のGさんの発言にあったのですけれど、児童生徒との関係作りにおいて、「きょうは先生、次は兄、そして父と、いろんな役柄であたっていくのがいいのではないか」と刺激的な発言をされました。

 次にBさんから、「友達関係ではいけない」ということについて、Gさんとはちがった立場からご意見がありました。児童と生徒の信頼関係形成という点において、「昔の先生」はどうであったかという議論です。昔は、なんでも知っていて、児童生徒に答えてくれるいうのが先生のイメージであった。そこにおのずと尊敬もあった。ところが、いまはそうでもなく、「先生も人間」という感覚がある。なんでもなにか答えてくれる頼れる存在が、児童生徒に先生として認められることにつながっているのではないのか、これが現代の教員に欠けているのかもしれないということです。

 ワタクシなども、なんでも答えられるといいのですが、恥ずかしい限りです。児童生徒との信頼関係形成を友人関係を出発点としない、なにが威厳のようなもの、これを喪失しているのがいまの教員の問題なのかもしれないということをおっしゃりたかったのでしょう。

 Fさんからは、児童生徒から卒業してからも先生として信頼を残したい、また、先生としてだけでなく、いい先輩として児童生徒からみられるようになりたいと抱負を語られました。そのためには、自身の教員としての態度を、言葉だけでなく身体全体で発したい、教員としての態度をしっかり養うことで児童生徒に伝えていきたいと述べられました。

 Dさんからは、Bさんの議論を受けつつ信頼関係に関して、児童生徒から尊敬される先生とは、コミュニケーションをちゃんととれる先生だとご意見があり、そのコミュニケーションも、ある一人に集中した指導ではなくバランスの取れたコミュニケーションであると付け加えられました。

 ここで、CさんがFさんの議論を受けながらいわれた、卒業していったん「教員−児童生徒関係」が途切れてからも信頼を寄せられる先生になりたいというご意見を挿み、Aさんから身近な大人としての教員の態度を培うことが大切で、児童生徒の模範的な存在であり続けることが、「友人関係」ではない信頼に裏打ちされた「教員−児童生徒間関係」の成立に寄与するとの指摘がありました。そうした「教員−児童生徒間関係」の成立は、指導にあたって「常に3人の自分を持つ」ことにはじまるとFさんが発言されました。つまり客観的に自分自身をみつめられることが大切であるということですね。なお、Fさんからはこのほか、児童生徒との関係性を教員集団全体の中でどのようによりよく形成していくかという観点から、学校にいる多様な教員のうち、なにか問題を抱えている児童生徒を指導する際、どの先生の個性とマッチするのかを考えるのが、とりわけ信頼関係を作り上げるのに難しいケースにあって有効な方策ではないかと指摘されました。そしてEさんは、Gさんの多忙な教員生活の中で児童生徒と接していくための多様な引き出しを作る意欲を持とうとの発言を踏まえ、教員が本や研修から学んで引き出しを作るだけでなく、児童生徒から学ぶことによって作っていく引き出しもあると返答されました。

 ここでAさんは、自分の気持ちを表に出してくれない児童生徒との関係をどのように作り上げていくかという教員誰しもが悩んでいるポイントを提言されたのですが、これは提言のままに終わったようです。しかし無視されたご意見ではありません。この提言に本格的に答えるには大変な力量が必要で、討論のメンバーは「うなずく」同意にとどまりました。Dさんも提言として、ボランティアだと児童生徒が身構えないのに、担任の先生がくると身構えてしまうと、ご自身の教育ボランティア経験から語られました。「先生という意識」がパッとあらわれるというところに、友人関係ではない教員と児童生徒との関係を発見したということですね。

 最後にCさんが若い先生だと児童生徒が勝手に寄ってくるのかな、と「本音」発言、教員生活を継続すれば若さだけではなんともならないときがやってくるし、そうした場合をわれわれは考え、教員から心を開いていき信頼関係を勝ち取れる能力を養うべきであると述べられ、討論が終了しました。

 さて、テーマの掘り下げ方については、Fさんの指摘が参考になるでしょう。テーマを常に念頭において討論に参加する態度を忘れないようにしましょう。

 そして、討論の意見の重なり合いを尊重するべく、他者の発言の内容を瞬時にまとめ、それに少しコメントしてから自己の主張をしていく姿勢を身に付けるよう、少しづつがんばってみてください。

 あすは、もうひとつのテーマについてまとめてみます。
(12/12)

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勉強会の後、忘年会がありまして、更新遅れています。第59回の模様をもうすぐお伝えしますので、しばらくお待ちください。

 いや〜、羽目はずしすぎました〜
(12/11)

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