日々旁午

2005


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今年の教育界10大ニュースを選定しようと思って、今年1年書いてきた旁午を見直してきたが、政治や経済についてイロイロ書いてはあるものの、教育界のことについてはあまり書かれていない。

 それは教育界にニュースがなかったというのではなく、勉強会の報告が旁午の何割かを占め、かつそのまとめの仕事の大変さから、教育ニュースに対するコメントを書くのをサボっていたからである。ちゃんと書くべきであったといっても後の祭り。

 今年はそれだけ勉強会に力を入れていたということである。ロングランの教採試験に対応し、週に1回づつ実施し、報告をまとめてきたのであるから、それもやむをえないことかといわざるを得ない。

 今年は公私ともにイロイロなことがありすぎた年であった。疾風怒濤の1年であった。来年はいい年になるよう祈るのみである。

 閑話休題。

 今年も「浩の教室」をご贔屓にしてくださり、まことにありがとうございました。細々ながら教採情報を発信し、ワタクシ自身の感ずるところも述べさせていただきました。このスタンスを今後も続けてまいります。来年も変わらぬご愛顧をよろしくお願い申し上げます。

 年内の更新はこれで終了です。年明けは、長く怠けし頭をたたかないうちに開始する予定です。

 来年早々9日の勉強会は満席となりました。ありがとうございます。1月は座席が埋まりつつあります。みなさまのご参加をお待ちしております。

 また、大阪教採対策メルマガのご講読ありがとうございます。読者のみなさまに、刺激的な議論を提供できるよう、来年も順次発行してまいりますね。

 みなさま、よいお年を!!
(12/30)

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もうこれ以上見直しても際限がないので、一端突き放してみる。そうでもしないと原稿を渡せない。「未完成交響曲」とは便利ないい方だなぁ。

 2005年もきょうを含めてあと3日。1月の締め切り原稿に手を着けて、ちょっとでも先の仕事を片付けていくとしよう。
(12/29)

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なんとか登山でいえば9合目まできた。頂がみえる。

 登山なら、登りきったところで、目的を達するといえよう。そこからみる景色は美の最高だろう。旗でも立てたい衝動に襲われるだろう。しかし、原稿はできあがって目的達成ではない。ここから推敲に時間がかかる。

 この推敲や部分的手入れができてはじめて目的達成である。そのときに景色をみることができる。

 景色をみた登山者は、あとは下山である。これはあまりおもしろくないのかも。違った景色はみることができるが、下山という行程はシンドイものだろう。

 一方、原稿の完成は「下山」の必要なく、すがすがしさだけが残る。だが、一度活字になるとそのすがすがしさが隠滅なものになるのが、ワタクシの至らなさなのだろう。そうか、印刷後の感覚は、下山の感覚なのか。

 つまらぬことを書いてしまった。また、仕事に戻る。

 みんなもがんばって。冬休みだから、この間に、論作文を10枚くらい書いたらいいよ。あるいは200字帳を20枚くらいどう?キリギリスはあかんで。アリじゃなきゃね。
(12/28)

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原稿用紙100枚なんだから、手こずるのは自分の力量の低さにある。くそう、なんとかならんか。資料引用の整合もしなければならないし、ようし、きょうは徹夜だ。

 思うに、ものを書くときは、書く間にものを読むのがいい。読む行為を続けているあいだに、書きたいことがまとまりをもってくる。フォルムが与えられるのである。ショウペンハウエルは、読んでばかりは自分の頭を使っていないといったが、そうともいえないと考える。この偉大な厭世哲学者にケンカを売ってもしかたないのだがね。
(12/27)

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ちょっとヤバイ。なにがかって、締め切りがもうすぐそこなのに、まとまっていないのである。旁午など呑気に書いている場合ではないといえば折角来てくださった方々に失礼であるが、優先順位としては締め切りが先だろう。ということで、申し訳ないんだけれど、更新をお休みします。

 でも、数行だけはこうして書こうと思ってますので、チラッと閲覧してくださいね。2日前に紹介した本によれば、「掲示板は毎日変えないと安心して見ない」そうですから。サイトもそんなものでしょう。サイトって、期限のないポートフォリオですな。
(12/26)

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ワタクシが勉強会でよくいう言葉に、「学校の教員になるには相当の覚悟が必要である。学校へ行くのとイラクの戦場にいくのと同じである」というのがある。かなりの誇張ではあるが、そう思っている。ワタクシたちはややもすると、自己のおかれている立場を誰よりも苦しく厳しい立場であると錯覚することがしばしばある。ワタクシも「なんと矛盾に満ちたところで生きているな」と溜息をもらすことが間々ある。ストレスが偏頭痛を引き起こすなんてことは常であった。

 だが、そういうときに、街いく人びとのイロイロな顔を盗み見したり、居酒屋やバーの経営者の必死な顔をみたりすると、なんだ、ワタクシのおかれている立場なんて、たいした苦しみのある場ではないな、と反省を迫られる。自己中心的な見方に対する戒めを忘れたくない。日々を誠実に生きる人びとは、それぞれに厳しく想像を絶する環境の中で生きているはずである。

 だが、しかし、ワタクシたち教員の生きている教育の世界が、他の世界と比べて大変な場であることを否定はできない。現実に数字が示しているからである。「精神性疾患で04年度に病気休職した公立の小中高校、盲・ろう・養護学校の教員は、前年度から365人増えて3559人となり過去最多を更新したことが、文部科学省の調査で分かった」(『毎日新聞』12月14日)ぐらいだから、相当厳しい職場環境である。全国100万の教員数からすれば小さな数字と捉えられるが、実際は大きい数字であろう。遊びでやっているのではなく、だいの大人がなりわいと定めて立ち向かって、この数字がはじき出されたのあるから。とりわけ教員になって数年の方々と、退職間際の方がカウント数の中心である。残念ながらワタクシの教え子もカウントされている。忸怩たる思いである。

 希望に満ちた目が、どんよりとし、蛇の目のように硬い目になってしまう。どんなに苦しくても責任を全うし、充実した教員生活を送れるよう必死に指導したつもりが、理想と現実の小笠原海峡的断層とOJTなきがゆえに、こころがゴミ処理圧縮機にかけられたようになるのであろうか。

 ニューカマーは厳しいところに廻されるものである。調理の現場でいえば果てしなくつづく皿洗いの担当を命ぜられよう。何本ママレモンを使うかわからない。営業部に配属された会社員は、新規開拓に執念を燃やすも灰となる。ワタクシたちでいえば、いわゆる「教育困難校」であろうか。名古屋市のある市立中学校など、喜んでいきたいという教員は皆無だろう。

 そういうふうな「若いときに苦しいことを経験させる」のは、一般社会でも教員世界でも同一である。それが「愛」であった時代が、たしかにあった。人間の計り知れない能力というものを信頼していたからである。ところが、どのような職種であれ、こうした厳しい状況に忍耐強く取り組める鋼の精神を保てなくなるとすれば、自分を100円ライターに重ね合わせるようにもなってくる。そうした歴史的環境に現代が突入しているのは事実であろう。教員世界がそのような環境に逸早くおおわれているのかもしれない。それに伴い教員の精神の疲労する期間が相当短くなってきている。それが下の「96.7%」のうちの「56.4%」にあらわれている。耐えられないのである。壊されていく教員の精神がどんなものであるのか、よく「人格が変わる」といった言葉があるが、そんなのでは表現できないものだろう。

 「調査によると、休職者全体の病気休職者の割合は、96.7%を占める。そのうち精神性疾患の割合は過去最高の56.4%に上った。精神性疾患による休職者の増加傾向について、文科省初等中等教育企画課は『学級崩壊や発達障害の子供の増加などの変化についていけないなどの指摘がある』と言う」(『同上』)。このような精神疾患の数から比定し、他職よりも数倍高い疾患率に教職があることを、これまた統計調査によって証明されている。

 ワタクシたちは、どこから手を着けたらいいのであろうか。単に「がんばれ」というような精神論や根性論では、もうどうにもならないところまできている。「精神疾患にかかった先生は弱いのだ」との批判は酷に過ぎる。そういい放つひとは、手の抜き方をよく知っているひとだろう。東京都教職員互助会三楽病院精神神経科部長が、「生徒指導の困難さや要求が厳しさを増す保護者への対応、変化する教育行政への戸惑いが教員のストレスを生んでいる。休職者が出ると周囲にしわ寄せがいき、新たな休職者を生む負の連鎖が起きている。この悪循環を断ち切るには、自助努力だけでは無理で、保護者の理解や行政による現場支援が必要」(『同上』)と語るが、竹中式財政合理化の波及を受け人確法の廃止すらいわれてる政治調整の現実の前では、行政支援など望むべくもない。

 『朝日新聞』がこの15日に伝えるには、「国と地方の公務員の総人件費改革で、政府の経済財政諮問会議が示した原案通りに削減を実行した場合、教職員が5年間で約2万3000人減らされるとの試算を15日、文部科学省がまとめた。1学級40人で算定した定数に上積みして全国に配置されている教員約5万4千人が半減する計算になり、広がりを見せる少人数・習熟度別指導などの取り組みも事実上困難になる」のであって、医者の率直な「現場支援」要求の診断が、経済の論理によって雑音化されるのである。医者があかんでといっているのを平気の平左で国はやる。

 ワタクシたちは、こころにゆとりがない。余裕がない。結局は、そうした余裕のない自己を客観視し、余裕のなさを楽しめる精神構造を構築するほかないのではないか。擦り切れそうになるこころの中に楽園を築くことが教員に求められている。とすれば、その作り方となる。

 中教審答申が「尊敬される教員」なんてしょうもないことをいいだしている。そんなことより、こころに楽園を作る方法を議論してほしいものである。尊敬なんてものは、こっちから求めるものでもなければ、それを求めて仕事をするものでもない。結果がそうならそれはいいことであるが、答申がそんなことをいっても屁のツッパリにもならない。あきれた議論である。

 楽園の作り方といったが、それはワタクシたちの理性を保つために話をすることだろう。とにかく、話をすることである。教員は独立した専門職であるがゆえに、校務に関わる議案のほかは、ともすれば隣のA先生とも話をしない。いや、話す時間を惜しむほかないのである。それを解消して、とにかくしょうもない事柄でもいいから話すことである。ただ単に「がんばれ」なんてワタクシはいわない。とにかく2学期に隣のA先生と話した時間を3学期には倍にすることが、楽園の敷地を用意し、家庭で生活を共にする方々との話を倍にすることが、メリーゴーランドの敷設となるのである。

 多忙な職務に慄くのは教員の常である。教材研究、校務分掌、引き受けなければならない仕事は洪水のようにやってくる。押し流されてはならない。また、全部完璧にしようと思わないことである。焦ってはならない。しかし、そのうちのひとつだけは完璧にしようとすれば、日常に張り合いもでる。こう書けば、手抜き指導のように受けとめられるかもしれないが、全部完璧にしている教員がいるだろうか。それぞれの仕事の領域をそれなりに終了して満足するのもいいだろうが、それでは完全燃焼ではなかろう。ワタクシなんぞと付き合ってくれる若い先生方は、即戦力で奉職しているけれども、それは管理職にとっては建前で、その若い先生の成長を心待ちにしているだけである。なにしろ跡を継ぐ存在なのである。だから、そうした期待を自分なりに解釈してやっていけばいい。

 話をし、話をする。ひとつを完璧にするよう意気込む。その他のことで文句をつけられたら吠えたらいい。すべての罪を背負ってくれるキリスト、彼の生まれた聖夜にしかいえなさそうなことである。だがそれを日常化する勇気が、教員世界を少しづつ変化させていくと信じている。
(12/25)

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クリスマス・イヴである。

 いまごろヨーロッパを巡っている我が教え子が、本場のクリスマス・イヴを楽しんでいることだろう。またもうひとりの教え子はアフリカへ旅立とうとしている。アフリカのクリスマスってどんなんだろうな。

 我がクリスマスは、仕事である。とめども尽きぬ資料の山と学生のレポートとを目の前に、イヴの夜を過ごしている。それぞれの方のそれぞれのクリスマス・イヴだろう。

 ようやく期末を終えひと段落ついた先生方、お疲れさまでした。スキーに行っている方、事故に遭わないように。車でお出かけの方、ゆっくり走ってくださいね。

 しかし、まさかイヴの早朝にリングをみるとは思いませんでした(みたのは松島と真田のだけど)。
(12/24)

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本を読むのか、本に読まれるのか。いま、数年前に出版された教育に関する本を読んでいる。「ハハー、ごもっともでござりまする」と全面降伏するほかない記述に直面すると、「本に読まれている」のかなあと思い、「いやそれは違うやろ」と文句を付けられる文面に出会えば、「本を読む」になっているなと思ってちょっと喜ぶ。それだけ、ワタクシの読み方は「批判的読書」なのである。ずっと昔からそういうふうにモノを読んできた。そうした読み方が一般的なのだろうと信じてきた。

 本に読まれるくらいなら、本を読まない方がいいということである。流されるような「読み方」は時間の無駄な消費だともいえようか。客船が難破し、太平洋の真ん中で漂流する。どこへでも行けというような捨て鉢なことでは命を落とす。そんな漂流状況でもなんとか一定方向をめざす流されない漕ぎ方をするものが、陸地を発見する幸せに出会う。そういう姿勢で漂流を航海に変えるのが重要なのである。そして、陸地が発見できるかどうかは、どうでもいいとはいわないが、二の次になる。

 ワタクシは、そんなふうな本の読み方つまり学問を躾けられた。もっといえば、なんでもかんでも、こっちの理屈が間違っていても批判するように自分自身の身体を逆方向や斜めに向けた。だから、この本を読んでいて、苦しかった。合点がいくことが多かったからである。それだけ書かれた内容がスルリと入ってくるのであるから、批判したくともできず、負けたような感覚にもなる。そう、本を読むのは、ワタクシにあっては、勝負なのである。

 批判的に読むことは、それだけ読み手の側にしっかりした批判根拠がないとできないし、じゃあその根拠なるものを自分で手に入れなければならないから、これがシンドイ。そうして、そういう読み方を他者から強いられると苦痛な作業に終わる。児童生徒が夏休みの課題図書感想文に苦手意識を持つ理由はここにあるのではないか。読んでていちいち止まるより、流されるように読むほうが楽である。ひっかかりを要求されるのが苦痛なのである。ところがある文章を吟味して、オイオイとかいったり、ホホゥとかいったりしながら読むと、消化した、喰ったという満足感が残る。ひっかかりがなにもない本は、本の体裁を保った(    )だろう。甘いだけである。

 時折、うわの空で読んでしまっていて、「ええっと、何かいてあったっけかな」と数ページ戻る経験を誰しもするものだろう。それは、うわの空にさせる本が悪いのである。本から集中が離れ、今日あった些細な出来事を思い返したり、字面を追いながら明日の会議の構想を考えたりするのは、本に責任がある。その本は本の体裁を保った(    )である。読み手は甘くはないのである。

 ただし、その本の内容によって想像力たくましく、うわの空状態になるのは許される。そういう幸せな時間を享受できる本、それがこの本であった。

 問:(   )に適語を入れよ。
(12/23)

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2004年度の教員採用試験全国平均倍率は、7.6倍だそうである(『産経新聞』12月14日)。もうちょっと同紙から校種別倍率を引用すると、「競争率は小学校が前年度比0.3ポイント減の4.5倍、中学が0.1ポイント減の11.7倍、高校が0.1ポイント減の14.0倍」という。総受験者数は16万5000人近く、すごい数字である。これだけ受けて2万人以上が採用される算段である。叱られるのは承知の上でいえば、採用されたものにあっても「玉石混交」だろう。

 80年代のことを思えば、広き門になったものである。当時は、受験者数=採用者数といった高校の教科たとえば地歴科もあって、試験を受ける行為自体が無意味に感じられ、あきらめて他職に就くものも多かった。150倍の競争率にまじめに向かっていくのはドンキホーテに等しいといってよかった。大阪府の高校国語なども、40倍くらいあったのではなかろうか。また、その他職といっても、教育に関係する仕事に就きたくて、塾など教育産業に就職したり、自身で塾など起業したり、ちょっと方向は違うが出版社などに我が身をおいていたりしていたのである。

 いま、上のような倍率低下を結果するようになったのは、年齢制限が緩和され受験資格を再び手にした人たちが、積年の教育に対する「熱い想い」を復活させ、参入しているからであろう。大歓迎である。もちろんそれだけでなく、社会人から教員への「パッとみい」華やかな転換もある。ワタクシの勉強会出身者にもこの両者のケースは多く、昨年はたくさん大阪府や市に送り込んだ。ウッシッシである。

 ところで採用が一番厳しいのは高知県だそうである。25.1倍。この数字は小中高全体のものだから、なんともいえないが、やはり高校が一番採用が少ないのだろう。高知がこうした「狭き門」なのは、全国の過疎地が抱える共通問題である少子化と、橋本知事の県政の意向によるのであろう。しかし、行政にあっては第2、第3の竜馬やいごっそうをしっかり育てる「教育立県」化、そして、教科書無償闘争を牽引した地元の教育熱を別の形でメラメラ再燃させることを祈念している。

 その前者の具体化が、「希望担任制」であるのかもしれない。傍からみるだけならおもしろい試みであるが、『朝日新聞』が伝えるところでは、「高知市にある県立高知丸の内高校(浜田幸作校長、505人)が、来年度の担任を生徒自身に選ばせる『希望担任制』を導入する。今回対象となる普通科の1年生139人は締め切りの16日までに、『私の先生』に票を投じた」(12月17日)というのだから、これはキツイ。

 人気のある先生といわば嫌われ者の先生とを区分けすることになるのではないか。得票数最少の先生は悩みに悩むだろう。20人が担任を持つから20番目の先生が必ず出るのである。「生徒は第1希望から第4希望までの担任候補者を選んだ。人気が集中した場合、教頭らでつくる調整委員会が1〜2月に抽選し割り振る。選ばれなかった教諭は他学年の担任に回ることもあるという」のだから、人気が集中した教員はウヒウヒでサワチ料理を楽しみ、最少得票教員は波の打ち寄せる音しかしない静寂な桂浜を「反省」しながらトボトボ歩くことになりはしないか。他人事ながら心配である。どうもこれは民主的な決定とはいえないような気がする。ここまで教職が「人気商売」化しなければならないのであろうか。児童生徒に媚びる姿勢を少しでも強いるとすれば、それが蟻の一穴となる恐れなしとしない。「生徒の間では『話の合う先生を選べる』『嫌いな先生に当たらずにすむ』とおおむね好評だ」と無邪気に語る生徒は、教員の生殺与奪を握っているといえよう。顧客満足度が教員を「グレさす」ことになるとすれば、本末転倒である。

 学校は評価のモザイクであるとはよくいわれる。しかし、上は教育委員会や校長から「人事評価」され、下から生徒に「『嫌いな先生に当たらずにすむ』」と突き上げられ、右から保護者にイロイロなことどもを要求され、左からは地域の行事に出ないと小突かれたりすれば、どこに高知の教員はストレス発散の場をみつけるのであろうか。「広島のこくばん」のわさくさんではないが、宮沢賢治でも苦労するだろう。

 それでも高知は最高倍率を誇る、教員になるのが難しい自治体である。
(12/22)

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情報通の方なら、もうご存知だと思われるが、きょうは仕事を終えて、あるサイトあるいはブロクを読むのに必死でした。ということで、みなさんも読んでみてください。ワタクシなどの書いた駄文よりも、面白く、真実があります。

 こちらのサイトと、そして、こちらのブロクを読んでいる今日この頃、みなさんいかがお過ごしですか?いやー、「リーチ一発ツモ創価一色ドラ3」(『きっこのブログ:レイザーラモンHGあらためレイザーラモンSG』)のところにきて大爆笑し、じゅうたんに直においていた500ml缶ビールを倒してしまったではないか!このクリーニング代の請求は、きっこ大先生にしよう。

 いや、冗談はさておき、インターネットの底ぢからをみせつけられた思いでイッパイである。
(12/21)

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