日々旁午

2005


日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

あすは、当サイト主宰第59回勉強会を開催いたします。多数の申し込みありがとうございます。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします(残り後1座席あります)。今回も、ご参加多数なので、前回同様、集団討論を2テーマ実施しようと予定しております。それゆえ、前半の神戸市の問題の解答解説および答申講読は、少し圧縮して「講義」したいと思っております。今回も40枚くらいレジュメがあります。

 さて、集団討論のテーマを申し上げます。第1テーマは、「児童生徒と教員は、人間対人間の関係であるが友達関係であってはならないという。どのように考えるか議論せよ」です。第2テーマは、「学校マネジメントに関わり、教員間の信頼関係や協力関係をどのようにしてつくりあげればよいか、議論せよ」です。

 ご参加のみなさまにありましては、このテーマ2題に付きまして、空想的にでかまいませんから、なにがしかお考えになっておいてください。

 今回も現役の先生の方のご参加を予定しております。よろしくお願いいたします。
(12/9)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

優しくすべての愛を注ぐ目を持っているマリア。人類のすべての罪を背負って上天に召されたキリスト。彼女、彼の麗しく荘厳な姿を描いた絵を踏むことができるか。人間の内面的心情を外部に引き出し人間のこころの中身を他者が判断するとき、こうした象徴を貶させる行為は最も効果的であり、「被踏者」にあっては屈辱的行為にほかならない。

 こうした屈辱的行為に近い圧迫を教員は日常的に受けている。そして教員になりたい諸君も受けている。前者については詳しい報道も判例もあるのでここでは触れない。だが後者はどうか。たとえばこうである。

 教育答申はバイブルでもなんでもないのにそれを批判的に捉えることに怖さを覚え、主体性を発揮できない。答申の意見に右へ倣えでないと教職に就けないと思い込み、いかに尻尾を出さないかに気を使っているのである。「まずは理解だ」ということならばよい。だが理解のうえで何がしかの自分なりの意見を持たなくては何のための勉強だろうか。これはなにも批判的になれというのではない。

 面接において答申の立論を批判的に捉え、本音をいえば脱落する。さらにおそらく東京都の教採において「私は国歌斉唱のとき意地でも立ちません」と受け答えすれば、門前払いを喰う。教育基本法改正に反対したり、『こころのノート』を無視する態度をあからさまにしたりすれば、都に奉仕する資格がないように扱われるだろう。つまり体制順応的人格でないと任用拒否となるわけである。

 自らすすんで公共団体に奉職するのであるから、そうした制約を受け入れるのは当たり前というひともいるであろう。古い概念でいえば、特別権力関係である。もちろんワタクシたちは地公法や教特法は自覚しなければならない。しかし自由な批判的精神を持たず、入門の際から保身と服従の字を胸に刻んだ教員の人格になんの魅力があるだろうか。子どもの目は純粋である。教員のこころを鋭く見抜く。子どもほど理想を愛し是々非々で迫ってくる存在はない。その目には都政の理屈や国家的思惑など関係ない。

 教採受験生は、ものすごく、ものすごく怖がっている。思想良心に関することで平身低頭、ちょっとでも「お上」に逆らう何かを尻尾として出せば、合格取り消しの憂き目に遭うのではないか、と。そうした心理状況を初任者研修期間がさらに増幅・固定化し、従順な人格に育成する。そうした意味で、教採受験から合格、正式採用までは長期にわたる踏み絵である。何度も何度も踏まされているうちに精神は鈍磨し、マリアの顔を見忘れ、命令を無批判に行為する。こうした服従的精神形成の過程は戦前のそれと同一構造であるどころか、民主主義の比較的発展した現在においては戦前よりも酷いといえる。

 教員は体制内的存在である。それがアキレス腱である。その枠の中で闘うことは常に葛藤を余儀なくされる。そこにあらゆる教員の連合の苦しみがある。そうした教員の連合の組織率は、イデオロギー状況の正確なバロメーターといえるであろう。

 すべての個人は自分がかわいい。まず自分、である。この真理を突き崩す社会的な波動はない。だがその個人が歴史の中に身をおいたとき、かわいがるだけの自分に何がしかの思考が生まれることを期待するのである。
(12/8)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

最近の中教審の議論、たとえば「学校組織運営まとめ」(昨年12月)や「義務教育諸制度の在り方まとめ」(今年1月)、「義務教育創造答申」(今年10月)をみていると、そして、次の国会に教育基本法改正案が提出される情勢を踏まえると、ある懸念を消し去れない。教育行政の支配的様相、それも従来型「通達行政」が一層極端化するところの、いわば国民統合を目論む「無融資支配」が、ワタクシたちを覆いつつあるように感じられるのであるが、この感覚はワタクシだけのものであるのだろうか。

 中央と地方が財政分担でいがみあいながら落し処をようやくみつけた。「無融資支配」が、誰もが肌で感じるまでに進んでいくのではないか。これなら中央と地方は仲が悪い方がまだいい。

 いがみあった結末というのはこういうことである。国家財政の観点からは、「三位一体の改革」が文部科学省にも押し寄せ、義務教育費国庫負担をめぐって侃々の折衝が繰り広げられた。半分負担が1/3負担になる現実。これは何を意味するのであろうか。文科省が、結局は経費を出さず、したがっていざというとき「責任なし」と突っ張らないか心配である。地方は地方で移された黄金水を教育費に使わず別の費目として処理するところもでてくるだろう。公債は固定化したものだからなんともなるまいが、土木・民生の費目を削るブレイブマン的自治体があるだろうか。建設族は国会議員よりも地元住民と最も距離が近い県会・市会議員に多い。教育の質的低下はおおいにあり得る。17パーセントの浮動である。

 こうした勘定吟味の下、具体的に教育現場はどうなるか。

 地方や各学校に対し、実現が相当に困難な「自主性」、「独自性」、「特色」を要求し、同時にヒモ付きの「権限」をプレゼントすると「作業部会まとめ」は語る。各学校に教育委員会からマネジメント専門職員を派遣するとはよくわからない行政人事構造であり、ヒモといわざるをえない。袖はないのにヒモがあるから余計におかしな話になる。財政的裏付けつまり学校裁量経費を満足に自治体が担保しなければ、中央の責任行政の放棄と相乗してお先マックラである。地方の是非ともの奮発が望まれる。

 3割自治と長年揶揄されつづけてきた地方は、復権を賭けるにも自主財源に乏しく、他の事業費を削減できないから福祉、衛生や教育費の切り詰めに走ってきた。大都市圏の目が眩む事業税収入、外形標準適用可能な自治体ならいざ知らず、たかだかタバコ、軽油取引くらいしか間接水源がない地方に、荒れた台所の政府が旨みのある大鉱脈を簡単に渡すはずもない。地方6団体は教育だけを考えているのではないから、自分のところに温泉源が発掘されればウレシクてたまらないのは理解できる。だがその放出先が問題となる。

 地方の自立した教育行政を期待する中央の文部科学省なのに、地方には「無い袖」理論でうやむやにするしかないのでは、悲しい限りである。官房に対してもっと分け前をくれといえ。他省の虎視眈々さに見習い、ボトルに黄金水を貯蔵せよ。そうはいうものの、注意すべきはその黄金水の効果的な使い方である。愛飲される前に考えなければならない。

 他省と比べ利権構造にあやかる度合いが低い文科省は、森や井上などは別格だが、昔から伴食大臣を戴いて、教科書関連を除けば「粛々と」行政展開してきた。今の大臣が伴食とはいわないが、国としての教育行政をどういうふうにしていくのか、前職大臣の「引継ぎ行政」に甘んずるのではなく、国民教育のあるべき在り方を明示して然るべきであろう。教育行政の一貫性は重要だが、ゆとりからPISA騒動そして確かな学力と、その一貫性どころか、いわば跛行性が顕著であるのだから、法螺貝を吹いてほしいものである。いつまでも座長が代わらぬ中教審が「国民」を代表する機関であると文科省自体が認識しているところに、文科省の冴えないシラノ的姿がある。自縄自縛に近い。行政決断が大臣にあるのを忘れているかのごとくである。諮問機関が権力化するのはいいものではない。日本の審議会行政が曲がり角に来ているということを一番思わせるのが中教審である。そのうち教育行政に内閣府のメスが入りそうだが、それは極めてコワイ、コワイ話である。

 このように「高天原」において活動がなされ「無融資支配」が教育を腐食しそうな今日、教員評価の多層厳密化と免許剥奪の試練に晒されている教員は、なにをどうすればいいのであろうか。合理化、スリム化という名の校務分掌の再編を強権的に「指導」されようとしている現場に、権限主体が享有されているといえるだろうか。オカッピキが配備されようとしている現場で、重い岩を背負っている教員に、まだ小石を5つも6つも吊り下げようとするのであるから、そのうち教職は「腰掛的」職業の代名詞になるであろう。骨抜きの権限拡大が「無融資」のまま承認され、校長より鋭い目つきの吏員がそのうち国歌の声量も計るようになるのだろう。
(12/7)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

第2のテーマ、「私たちのめざす教師像とはどのようなものか、その資質・能力について議論せよ」について、再現してみましょう。この討論は、今回の勉強会にはじめて参加いただいた方々に挑戦していただきました。20分間、5人の方に語っていただきました。A〜Eさんとして、その発言を追っていきますが、その前に一言。

 この第2のテーマは、理想を語るテーマであるということです。すなわち、第1のテーマが、いわば教育政策論的に現実問題を扱うものであって、アレヤコレヤが登場して螺旋的に議論を組み立てられなかったところに反省点が認められますが、この第2のテーマにおいては、アレヤコレヤが出ても、それらが「完璧な教員」を多面の角度から眺めて言語化されたのであって、議論しやすいということです。つまり、このテーマでは、対立する意見がない。ここで登場する教員的資質すべてを備えれば、現代日本のスーパーティーチャーができあがるということです。そしてまた、それらをすべて体現している教員などいない、ということでもあります。こんな資質、あんな能力というように種々の意見が登場し、それらをスポンジのように吸収する「理想の教員」が各参加者の頭の中に描かれている、あるいは、どんどん詰め込んでいけるので描ききれる、ということです。間口が広いのは第1のテーマと同一ですが、ここのところが決定的に違う。「その前に一言」といったのは、上のような点を汲み取っていただいて、ご覧のみなさまには考えていただきたいということです。

 そういうわけで、ここでは、まず、各討論参加者の意見を時間経過に即して整理するのではなく、めざす教師像のエッセンスを箇条書き的に掲げるという手法で討論の模様を再現していきましょう。そこに否定されるべき意見がないということが一目瞭然となります。

 Aさんの、コミュニケーション能力を身に付けてやれる先生、子どもの目線に立つことのできる先生。

 Bさんの、わかりやすい授業のできる専門的能力を備えた先生。一人ひとりがどのような性格なのかをしっかり理解でき、心を開くことのできる先生。

 Cさんの、児童生徒に共感できる先生。児童生徒のささいな話題をも取り上げ、そこから集団全体に対する話題にできる先生。

 Dさんの、児童生徒が毎日学校に来たいと思わせる先生。児童生徒の方をみた、対応力を持った先生。

 Eさんの、発達段階に応じたコミュニケーションの取れる先生。児童生徒の発見を拾っていける先生。

 このように、みんながウンウンとうなずく資質、能力あるいは姿勢であるわけです。

 こうして「資質・能力」が出揃ったところから、議論がどのように動いていったかをみていきましょう。

 Aさんが、児童生徒は笑って学校に来ているようにみえても、内心、苦しみを抱えているものであるとの前提に立ち、一人一日一回は必ず声をかけたいと話されました。これを受け、Bさんが、昼休みや掃除の時間にも児童生徒に語りかけて信頼関係を作り上げたいと抱負を述べられました。Eさんは、Aさん、Bさんに刺激され、児童生徒と教員とは、1対1でもあるし1対多でもある、それを踏まえたリアリティのある教員像を提出されました。

 つづいてCさんから、それでは教員の児童生徒への想いをどのように伝えていくかと提案され、学級通信の話題を出されました。受け取り先に保護者がいるわけですから、Aさんより保護者の立場から求められる教師像はどのようなものか議論したいと提案がありました。これを受け、Bさんが、学校に安心して児童生徒をあずけられるかどうかがポイントであるとご意見され、そうであれば連絡帳などを使って頻繁に児童生徒の動向を知らせてくれる先生が望ましいと述べられました。Dさんは、児童生徒の学校での様子と家庭での様子は違うものであろうから、その2面性に注意しつつ、家庭と教員がそれらの違いを知り、共有していくことが必要であると論じられました。家庭と学校の結び付きは学級通信のほかに日記もあるといわれたのはEさんでした。

 Eさんは、実習体験から、児童生徒が書いた日記に、教員だけでなく保護者もコメントを付ける努力によって、児童生徒を双方から見守る体制に感銘を受けたと語ってくださいました。これを受け、Aさんは、日記は自己表現の場であり、それを通して、保護者の立場から、勉強をちゃんとしているか、「確かな学力」はついているかが確認できると述べられました。

 ここで話題転換があり、保護者との関わりから宿題についての議論になりました。Aさんの提案です。そしてここにBさんが、宿題を出さない先生もいるが、これについてはどうか、と振られ、それに応える形で討論は進行していきます。Cさんは、宿題を出すことにやや反対の立場でした。その理由が説得力のあるもので、「あすまでにやってきなさい」ではなくて、もう少し長い期間をとって、その期間内に一定程度の学習範囲を終了する計画を学校が組み立て、子どもが自由に学習をすすめられるようにしたい、というものです。子どもの自主性を尊重する態度は、教員の指導能力として不可欠のものでしょう。宿題のトピックに対し、評価のできる応答であったと思います。また、Dさんからは、宿題の意義は学習内容を忘れないようにするためのものではないかと発言され、たとえば土日をはさんでしまうと週明け困ることになると具体的に話されました。Eさんは、宿題は自然に発生するものではないか、とみなさんを引き付ける発言をされました。教員は進めたい学習進行上のラインがある。しかし進み方は計画通りにいかない場合も多く、それが宿題となってあらわれるというわけですね。

 最後にAさんが、宿題に関連し、時間に追いまくられている授業の現状に触れつつ、保護者のニーズと児童生徒の学習面の能力の間には開きがあって、そこが問題と述べられたところでタイムアップしました。

 さて、このように再現しますと、流れるように議論が進んでいるのがわかります。ちなみに総発言回数は20回。つまり20分間の討論時間ですから、1分に1回発言があったことがわかります。第1テーマでは、25分間で17回でしたから、比較的にいって、スピード感がありました。

 こうした短い発言の積み重ねが集団の印象を変えました。つまり、非常に動的になっているということです。話が盛り上がるときには、どのようなテーマであっても、あるいは、なんらかのグループにおける普段の何気ない「話」においてもそうなるものです。

 最後にワタクシから。宿題のトピックはそれだけでひとつのテーマのように感じられるものでした。そこに、「めざすべき教員像」的発想をどのようにして絡めるか、これは難しい問題です。しかし、全体として、フレッシュな議論であったことはまちがいありません。それから、こうした短い発言が重なる討論が、本番でできるかといえば、これは「運」の範囲に属します。2次試験の討論ともなれば、「我先に」との気持ちが高ぶり、かつ、一人で喋り捲る方もいないとは限りません。老婆心ながら申し添えますね。

 では、今週末、また、実り豊かな討論を期待しましょう。
(12/6)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

昨日は、第58回当サイト主宰の勉強会に多数ご参加いただきましてありがとうございました。「うしろのこくばん」でおなじみの、ルパン先生にも来ていただきましたし、小学校の現役の先生にも引きつづきご参加いただきました。お礼申し上げます。日々、業務に追われつつも、後輩たちのためにイロイロとお考え下さり、また、ワタクシのめざすところに共鳴いただき、ご協力いただけますことに、感謝の言葉も思いつきません。週末、お休みになりたいところを、わざわざご参加、無給でこんなに応援していただけることにワタクシだけでなく、大学3年生からママさんまで、すべての参加者が感謝していることでしょう。

 今回も、初参加の方が多数いらっしゃり、新風を送り込んでくださいました。ウレシイことです。是非、自由で楽しくかつ勉強になるようこの会合を、盛り立てていただくことを期待しております。また、今回、多い方で、120枚近い資料をお配りすることになりました。コピー代のご負担ありがとうございました。来週も50枚くらいになってしまいそうです。すいません。しかし、精魂込めて作っていますので、ご自宅にお帰りになった後、ゆっくり目を通してくださいね。お願いいたします。

 本日は、参加者多数のため、集団討論を2回いたしました。急遽のことでありましたので、アナウンスしておりました「信頼される学校」のほか、「めざす教師像」=「教員としての資質能力」について議論していただくことになりました。臨機応変の進行にご協力いただきありがとう。次回も2回実施することになるかどうか、参加人数によって決定いたします。ただ2回実施が答申講読と問題解説の時間を圧迫しないようにしなければなりません。困難な運営を余儀なくされます。このあたり、みなさまからのご意見を踏まえつつ、進めてまいりますのでヨロシクお願いいたします。さてその答申についてです。
 昨日は、まず、「キャリア教育答申」について検討いたしました。例の勤労観、職業観を育てるための答申です。教採の合格を視野に、どこにポイントがあるのかを前回開催の勉強会の内容を復習的にお話ししつつ、新しいページに踏み込みました。キャリア教育の「キャリア」とはなにか、という議論の中で、参加者なりの考え方が示され、「誠実、経験、能力」という3つのキーワードが提出されました。教採の面接だけでなく、すべての面接に共通することですが、「自分の言葉で語る」ということを、今後も念頭において勉強していきましょう。資料巻末の関連問題を是非、解いておいてください。次回は新しく、「学校の組織運営の在り方について[作業部会の審議のまとめ]」〈平成16(2004)年12月〉の解説と検討をしてまいります。この資料の検討も2、3回で終えるよう予定しております。

 次に、今夏に実施された大阪府の1次試験の解答解説をいたしました。オリジナルのテキストを使って、資料豊富に作成しているものです。ただ、ボリュームの厚さが裏目に出て、今回でようやく全問終了に漕ぎ着けました。古代教育史に登場するソクラテス、プラトン、アリストテレスについて簡単に説明し、また、近代西洋教育史の主人公数名を掲げて、どこにいわば「教育史の背骨」があるのかを伝えたつもりです。このほか、ポリスの帝国化つまりギリシャ世界のローマ帝国化について、市民権の問題と絡めて簡単に説明いたしました。「教育史の背骨」として黒板に板書したことはしっかり押さえておいてくださいね。

 さて、集団討論について記します。今回は上に書きましたように、2回実施いたしました。時間的な問題もあって、早口になり申し訳なかったです。第1のテーマは、「信頼される学校とはどのようなものか、議論してください」というものでした。このテーマは、よくよく出題されるものでありまして、この夏にもいくつかの自治体で出題されたものです。

 このテーマはとっつきやすいテーマであるものの、間口が広すぎて議論の凝集点がみつかりにくいものです。そこをどのようにうまく収束させるかが協調性として、この先、問われるでしょう。さて、議論はどのように進行したでしょうか。

 第1テーマには、6名の方に25分間でチャレンジしていただきました。仮にA〜Fさんとして、いつものように討論の模様を再現していきましょう。

 口火を切ったのはBさんでした。Bさんは、信頼される学校は信頼される教員集団が前提となるという発想から、安心して児童生徒が授業にとりくめる環境や、生活指導・進路指導を児童生徒中心に進めることができること、この2点が「信頼される学校」の中身となるべきであると話されました。教員の授業力といいますか、教材研究に長けた能力を持ち、実践できることが児童生徒から信頼を得られることになるというわけです。もっともなご意見でしょう。

 次に、トピックを提出する意欲的な立場から、Eさんは、学校の地域への働きかけが大切であり、教員の地域行事への参加が、ややもすれば密室にとられかねない学校世界を透明化するものであるの述べられ、そうした活動が地域からの信頼を得る端緒になると主張されました。また、教員があいさつに注意することによって、地域に溶け込み、信頼を得ることも可能であると、議論進行のポイントを提出されました。

 このB、Eさんの議論は、両者ともに当然このテーマに即し登場すべき話題です。やや図式的になりますが、Bさんのご意見は、学校内部における信頼形成=児童生徒からの信頼、Eさんのご意見は、学校世界外からの信頼醸成=地域からの信頼、と整理することができるでしょう。

 こうした2つのトピックの提出が、討論の出発時におかれたことからわかるように、すでにこのテーマの間口の広さが示唆されています。そして、トピックの多さが議論のまとまりにくさになる危険性もあるわけです。ちなみにワタクシは、今の段階では、質的に高い討論を要求するというよりもむしろ、討論参加者がいわば「なんでもかんでも、なにかしゃべれる」ということに視点をおいています。各参加者の個人的な話題提供能力とでもいうのでしょうか、「話せる主体になる」ということをまず求めています。その次が、協調性を持った発言主体になっているかどうかということです。なんでも順番があります。まだ本番の試験まで、7ヶ月あります。あせってはいけません。いまの「なんでも話してみよう」という気持ちが場数を踏むことによって練れてきます。心配いりません。発言主体として地に足着いたとき、次のステップがみえてくるものです。

 ちょっとそれました。元に戻します。

 上の2つのトピックが出てきたことに対応し、Aさんは、「誰に対する信頼か、はっきりさせるべきだ」と考えられたようで、児童生徒からの信頼なのか、地域からの信頼なのか、どちらから議論していくか悩んでいられたようです。結局、後者の「地域からの信頼」ということに関してご意見を述べられました。たとえば、地域からの信頼を得るには地域に学校のことを公開しなければならない。そのために学校はホームページをもっているところが多い。しかし更新されないままであるケースがこれまた多い。こうしたことでは学校公開のひとつの方法が窒息していることにほかならなず問題ではないかということです。

 Dさんは、学校が信頼されるためには、「開かれた学校」の実現がポイントとなるといわれました。この立場から、地域と良好な関係を持つためにも、たとえば総合学習を活用していわば「地域密着度」を高めるようにしたいと語られました。児童生徒への授業提供を通してあるいはバネにして、地域からの信頼を得る工夫を講じたいということですね。ここに具体的なひとことを挿入することによって、Dさんの発言は厚みが出ます。

 Eさんは、学校が地域の拠点になることを望まれており、そうした拠点化のためにこそ、学校が情報公開し、説明責任を果たさなければならないと論理的に述べられました。もちろんそれは、学校・家庭・地域の3者連携を前提として実現されるものですね。

 Cさんからは、小学生が殺害される事件の多発に心を痛められ、信頼される学校は、安全面の強化ということも考えなければならない領域ではないかと提案されました。そして、下校時の体制を整えるよう地域ボランティアを募り、学校と地域との絆を深めたいと述べられました。

 このCさんのご意見を受け、Dさんから、学校を開放し、さらに教室を一つ開放して地域社会の人びとが集まる場所を作ってはどうかと提案されました。そうすれば、「大人が子どもの顔を知るようになる」し、「子どもも地域の大人の人を知るようになる」。ここから防犯体制ができあがるのではないかという具体的なものでした。

 以上、テーマが「地域からの信頼を勝ち取るということ」が中心となって進んでいることがわかります。ただここで問題なのは、上でも述べたように、授業を通しての「信頼」、教員の地域への貢献度から形成される「信頼」、学校拠点化のための方法論的の提示を通しての「信頼」、安全対策、防犯意識の向上を通しての「信頼」というように、てんでんバラバラにトピックが提出されていることです。これは各参加者の勉強の度合いが高いためにこのようになっているのでしょう。「今のところ」はそれほど問題になりません。ここでこうしたことを何度も強調しているのは、「黙っているよりもしゃべれるようになれ」だからです。このバラバラのトピックをどのようにして螺旋的に構造化し、採点官が唸るような「議論」として作り上げていくことができるか、ルパン先生は、そこのところを心配されていらっしゃいました。集団討論における「チームワーク」がどこまで達成されるかは、集団が沈没するかどうかに関わり重要な評価ポイントであることだけは自覚を求めたいところですね。

 さてここで、Fさんから、また、問題提起がありました。「地域住民は、子どもを学校に通わせているときはいいが、卒業して学校と関わりがなくなると、学校に対して無関心になる。こうした地域の人びとの意識をどのようにして学校に再度向けさせるか」ということです。一言でいえば、「身近な学校」の再生ということです。そのために教員はどのようにして地域にコミットしていけばいいのでしょうか。

 この問いは、ワタクシは聞いていて、誰でも思いつく疑問ではあっても、かなり高度な討論を求める提案であるなあと感じていました。まさに集団討論に爆弾が投下された感じです。なぜなら、学校に児童生徒を通わせている保護者にして学校に対して信頼を寄せていない場合もあるのに、さらにその上の議論であるからです。この提案があったとき、ワタクシも内心、どう答えたらいいか苦しんでいました。いうならば、政治的無関心層をどのようにして選挙へ引っ張り出すか、に似た問答になりそうです。

 そしてBさんから、学校の中で児童生徒の環境を知ることを通して地域を知ることができるのではないかと述べられ、地域と教員との結びつき方の一例を挙げられました。Eさんからは、このBさんのご意見に関連し、学校の教育が奏功しているかどうかは、そこで学んでいる児童生徒をみればわかることで、たとえば児童生徒がちゃんとあいさつをするようであれば、そうした態度が地域に自然と伝わり、学校評価にプラスされていくのではないかと述べられました。Bさんは、こうした学校と地域との相互の信頼関係を作り上げるのに有効な方法としてEさんのあいさつ運動を評価されました。

 ここまで議論が進み、Dさんが議論をまとめる発言をされました。それは、児童生徒の立場からすれば魅力ある授業の提供が学校に対する信頼となる、保護者の立場からすれば児童生徒を教員全員で守ってくれるかどうかが信頼となる、地域に対しては学校が説明責任を果たしているかが信頼となる、ということです。児童生徒(当事者)、家庭(保護者)、地域住民と、学校内外からの信頼に応える在り方を語っておられ、筋が通った発言でした。

 さらにCさんから、児童生徒が困ったときに相談できる体制を整えることも大切であって、そうした自覚を持って教員は存在すべきで、児童生徒の抱える問題解決への支援が、遠く、地域から信頼を得るようになると述べられました。

 ここでAさんが、久しぶりに口を開いた格好でしたが、「信頼は誰から得るのか」にこだわっていたようで、そしてそこにこだわるのは議論の出発からして当然なのですが、児童生徒か地域かと、2分的に信頼を得る方策を考えるのではなく、イキイキと学校へ通う児童生徒が地域からの信頼を得ている証であり表出であると発言されました。

 Eさんは、なんらかのイベントをすることによって、具体的に学校と地域とが一体化すると述べられ、学校にLANをひくことを一つの事例(LANに関して調査班や工事班を設けるなど)として挙げられました。それに付け加えられる形で、Aさんが中学や高校であれば部活動のコーチを公募して地域から支援を求めたいと抱負を語られました。

 と、ここで25分が過ぎ、終了です。

 さて、ご覧のみなさまは、この再現を読まれて、どのような感想をもたれたでしょうか。集団討論は各参加者の力量によっても左右されますし、テーマによっても左右されます。問題点については、すでに上の再現文の中で指摘しましたので再説しません。ただ、他者の意見の後追いにならず、ご自身の創造的意見をどのように他者の意見と折り合いつけながら発言するか−、これはいつでも気になるところです。これに対する解答はあるのか。残念ながら、それは、「経験」としかいいようのないものです。みなさん、苦しみながら場数を踏み、自らを鍛えていきましょう。

 さて、次回更新では、第2のテーマについて再現を試みることにいたします。
(12/5)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

あすは、第58回当サイト主宰勉強会の開催日です。ご参加のみなさまよろしくお願いいたします。あすは、大阪府の問題の解答解説の最終回であり、また、キャリア教育の答申を読みます。集団討論のテーマは、基本に立ち返り、「信頼される学校」をテーマに討論していただきます。豊かな議論を期待しています。まだちょっとシートが空いております。参加希望の方は、ご連絡くださいね。
(12/3)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

「戦争」が終了した。思った成果を挙げることができなかったのはいうまでもない。敗戦報告である。しかし区切りが付いたので心中穏やかなり。今日から数日、第58回の勉強会で実施する集団討論のテーマをここに書くほかは、その報告書を書くまで、更新を休む。「新年」の休暇だからである。以下、ご連絡。

 「うしろのこくばん」と「広島のこくばん」のマスターが代わりました。ながらく引き受けてくださったカルシファーさん、れのんさん、ありがとうございました。そして、新しく担当していただくことになりましたルパンさん、わさくさん、よろしくお願いいたします。

 さてその「こくばん」ですが、こちらも敗戦処理で、この更新お休み期間中に新装版を作成しようとしています。でも、あんまり期待しないでください。
(12/1)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ