日々旁午

2007



おしらせ 当サイト勉強会で使用している問題集や参考書ほかを、大阪駅前第2ビル地下2階で、いつでも購入することができるようになりました。地下2階にレンタルボックス・キャビン(06-6344-0509:営業時間/平日11:00〜19:30/土日祝11:00〜18:00)というお店に、すでに陳列済です。今後、教採に関するイロイロな資料を揃えようと考えています。みなさま、よろしくお願いします。問題集のほか、しょうもない小物も置いています。ま、みてやってくださいシート式の種類を増やしました(現在、2種類あります)。売り切れた平成19年夏実施大阪府過去問解答解説集(教職教養部分)を補充いたしました。まだまだ揃えていきますので、よろしくお願いします。
 ご購入いただいた方、ありがとうございました。

今年もあと10日ほどとなりました。みなさまいかがお過ごしですか。
 ワタクシはといいますと、日々異無く消化といいたいところですが、まだ年賀状の手配もしていない有様でして、億劫な気持ちのまま過ごしています。
 今年の冬は、よく風邪を引きます。なんででしょうかね。ホットカーペットで寝てしまうのがいけないのでしょう、起きると汗でズクズクになっているときもありますので。で、着替えないで数時間。これで鼻風邪、喉風邪になる。もうちょっと健全な生活態度に改めないとだめですなぁ。
 きょう、Yさんからメールが来まして、合格とのこと。補欠合格から正式合格へ。いや、よかったです。またひとつ、肩の荷が降りました。ホッ。
(12/20)

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12月22日、キャンセルありました。先着1名の募集です。メールでのお申し込みお待ちしています(お申し込みありがとうございました。再募集終了〔19日18時50分〕しました)この時期、みなさん、大変だと思います。成績処理、保護者との懇談会などなど、お疲れでませんように。修業式ももうすぐということは、打ち上げもありますよね。たまにはパァッとやるのもよいものです。
 さて、文部科学省のサイトを日々チェックしているワタクシですが、中教審から新しい答申は出そうにありません。いま中教審は、すでに自民党幹事長になっている伊吹氏から出された諮問、「子どもの心身の健康を守り、安全・安心を確保するために学校全体としての取組を進めるための方策について」を議論している最中で、このほか独自に「報告」をするかもしれませんが、いずれにせよ教育再生会議第3次報告が出てから動こうとしているといえるでしょう。
 年明けに教育再生会議が第3次報告をします。小学校高学年に理科の専科教員を設置することや、「全国教育サミット」を開催し、学力向上の取り組みに関する情報交換の場を設けることなど、多様な教育提案が盛り込まれる第3次報告です(以上、『讀賣新聞』2007年12月18日付)。このほか、「『頑張る校長、教員を徹底的に応援する』として、小中高の校長が指導力を発揮しやすいよう『在職期間を最低5年に長期化』すると明記。教員が自らの得意分野をアピールして希望校へ転勤できる『フリーエージェント(FA)制』や『スポーツ庁』設置の検討も盛り込んだ」(『同上』)と教育行政への問題提起があります。
 なんといっても理科専科教員の設置にあらわれているように、学力回復教育行政の推進がこの会議の骨子になっています。それは学習指導要領の改訂に大きく影響を与えた議論といえます。こうした教育再生会議の議論は、官邸とも同調します。
 すなわち、OECD調査結果に対する脊髄反射が政府自公政権にもあって、文相経験者町村氏が、「ゆとり教育」についてアナウンスしました。それを『産経新聞』2007年12月5日付(町村信孝官房長官記者会見)から引用しておきましょう。
 −−OECD(経済協力開発機構)が発表した15歳を対象とした国際学習到達度調査だが、日本はすべての分野で順位を下げた。ゆとり世代とかぶっているが、結果に対する評価と今後の対策についてどのように考えているか
 「私も文部大臣として、広い意味でのゆとり教育を進めた立場でございますから、ああいう結果になったことは大変問題であったのかなとも思っております。ただ、ゆとり教育のエッセンス、考え方は、私は今でも正しいと思っております。ただ、それが現場に行って、ゆとりが緩みになってしまった。緩みととられたということは大変残念なことで、何か当時からもゆとり教育、しかし、されど基礎、基本の徹底はちゃんとやるんですよということは、口を酸っぱくして言ったつもりですが、なかなか現場にはそれが伝わらなかったというのは今でも残念な思いをしております。したがって、今回、学習指導要領を変えて、今、その最終局面にあると思っております。来年春までには新しい学習指導要領も決まって来るんだろうと思いますが、その中では今まで以上にもう一度しっかりと学ぶこと、基礎、基本を身につけること、ここをですね、強調する。しかしそれと同時に自分の頭で考えて、そして自分の頭で考えた結果に責任をもって行動すると、そういういわば、ゆとり教育の1つのエッセンスというものは大切なんですね。基礎、基本だけ身に付けて、何か暗記だけすればそれでいいというものではない。身に付いたものに基づいて、いかに自分の頭で考えて行動するのかということまでいかなければですね、多分今回の学力調査の結果に対する適切な答えにはなってこないんだろうと、こう思っております」
 さらに、渡海文相もゆとり教育の「影響」を認めています。「経済協力開発機構(OECD)が昨年、57カ国・地域の15歳を対象に実施した『生徒の学習到達度調査』(PISA)で、日本の高校1年生は前回2003年調査(41カ国・地域)に比べ、読解力が14位から15位、数学的リテラシー(活用力)が6位から10位と後退したことが、4日分かった。科学的活用力も2位から6位になったことが既に判明しており、実施3分野すべてで順位が低下し、トップレベルの分野はなくなった。前回に続く高校生の学力低下傾向に、渡海紀三朗文部科学相は学習内容・時間を大幅に削減した現行の学習指導要領の影響を認めた」(『産経新聞』2007年12月4日付)。
 この学力転落ショック=シビレが結局、文部科学省をもシビレさすわけであって、中教審にも「降りてくる」わけで、そうした内容の「追随文書」が次回の中教審答申(来年1月答申予定)となるわけです。今年春3月20日に答申された「教育基本法の改正を受けて緊急に必要とされる教育制度の改正について」をみれば、中教審が教育再生会議の下請け的報告機関に過ぎないのは理解できるところです。
 しかし、町村氏も述べてますが、「ただ、ゆとり教育のエッセンス、考え方は、私は今でも正しいと思っております」との立場を堅持せざるを得ないので、ややこしくなる。もう、「ゆとり教育」はまちがいであったと政府が正式なコメントをだせば教育行政方針にねじれもなくなり、政府の教育思想も一貫するのです。それをそういえない、認めないのはなぜでしょうか。
 それは、政治家は結果責任を問われますから、口が裂けても「失敗だった」とはいえない。それこそ安倍政権の教育思想は意味がなかったとアナウンスするのと同意味です。だから、「それ(こちらの考え−浩の註)が現場に行って、ゆとりが緩みになってしまった。緩みととられたということは大変残念なこと」というように、現場のせいにして、お茶を濁して会見を終了したわけです。渡海氏の記事でも、「ゆとり教育の失敗」ではなく、「ゆとり教育」の「影響」を「認めた」と報道されています。
 町村氏の「身に付いたものに基づいて、いかに自分の頭で考えて行動するのかということまでいかなければですね、多分今回の学力調査の結果に対する適切な答えにはなってこないんだろう」との認識は、授業時数の増加によって解決できるということを示唆しています。児童生徒が時間をかけて学習し定着した内容を、活用、応用できるように育てたい希望がここにはあります。それが主要教科とりわけ英語の時間増として文部行政に反映されるのです。ちなみに、主要5教科で一番授業時間数が多くなるのが英語です。理科じゃないんですね(このあたりの資料、勉強会で配布します。勉強会参加者で資料が必要な方は、もう渡した方もいらっしゃいますけど、メールくださいね)。
 こうした一連の教育系政治家、教育行政担当者の現状認識は、3年前のOECD調査時点から継続していたものと捉えても、まちがいではないでしょう。現状、町村氏や渡海氏は「ゆとり教育」の失敗を認めないのなら、そして次に書きますけれども、改訂後の学習指導要領も「生きる力」が変わりなき教育理念であるというのであれば、あの、寺脇氏をなぜ、文部科学省に留め置かなかったのでしょうか。寺脇氏はスケープゴートにされたといっていいでしょう。
 結局、「経済協力開発機構(OECD)が昨年、世界の15歳を対象に実施した国際学習到達度調査(略称PISA)で、日本が理数系の分野でトップレベルから転落したのを受け、文部科学省は5日、現在改定作業を進めている次期学習指導要領について、理科と、算数・数学の内容の一部を前倒しして、2009年度から実施する方針を固めた」(『讀賣新聞』2007年12月5日付)ということになる…。
  つづけて、「今年度末に改定される新指導要領は、当初は小学校で11年度、中学は12年度、高校は13年度から実施される予定だったが、早期実施を求める保護者らの声を受け、文科省は先月、一部内容を09年度から前倒しする方針を打ち出していた。何を前倒しするかは未定だったが、今回の調査で理数系の順位の落ち込みが顕著だったことから、急きょ理科と、算数・数学の2分野から優先的に実施することにした。前倒しする内容は、来年1月の中央教育審議会の答申後に検討する。授業時間についても、現在の枠の範囲で、理数系の教科に振り分けられる時間がないかを検討する」(『同上』)というのだから、泥縄式教育行政そのものでしょう。国家100年の計なんてまったくいえません。朝日新聞社説の言葉を借りれば、「単に授業時間を増やしただけでは、どうしようもないことは文科省も承知のはずだ。応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである」(2007年12月5日付)ということでしょう。
 ここ数年の教育審議会行政の展開は、2つの頭があるので、みえにくいと思われます。教育再生会議、中央教育審議会、です。しかもここに上の町村氏のように官邸からも独立して茶々がはいるので、余計にわかりづらい。教育再生会議は首相と文科相もメンバーですから、一層わからなくなる。さらには、教育再生会議と中教審を兼任しているメンバーもいる。
 いやこれは、わからないというよりも、次のようなことだと考えられます。教育再生会議の意思と官邸の意思が一緒なので、教育再生会議の本来的メンバーは相当やりにくいだろうし、本来的メンバーを揃えておくことが、官邸にあってはうまいガス抜き装置になってて、「してやったり」、というところではないでしょうか。魚民との中傷合戦でようやく和解したのに、また火種がついて忙しいワタミの社長も、「教育再生会議って、一体なんだ!」とワンワンほえています。道徳教育に関する勉強もまったくしないまま、勘違いの吠え方をしているのはご愛嬌としても、教育再生会議の存在理由そのものを批判する態度は正しいといっていいでしょう。自分がガス抜き役を演じさせられていることに、ようやく気がついたのでしょう。
 安倍政権のときの教育諮問機関2重構造が継続したものの、教育にあまり関心を示していない現福田政権では、教育再生会議も色褪せています。2、3の人物を除いてアマチュアが集う教育再生会議は、この第3次報告を冥土の土産とし、終了するのがよろしいようです。
 そこからどのように文部科学省が巻き返すのか、今後2020年くらいまでの教育行政方針を示すような諮問と答申が実施される可能性があります。すなわち、第15期中教審答申のような性格の答申が提出されることが期待されます。ただしそれは現文部科学大臣の下ではありません。福田改造内閣が成立した後でもないかもしれません。その前に文部科学省は、例の35、45、55歳の更新制に関するまとめ作業をしなければなりませんね。
(12/19)

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(前承)つづいてCさんから、F「まちがえてもいい場所」との回答がありました。これど同時に、他人の失敗を笑わない場所でありたいものですね。Cさんいわれるように、まちがえてもいい場所は、まちがいを怖れない場所でもあります。そうした認識が、活発な学校教育活動を展開させる原動力になりますね。このことをEさんは、社会へ旅立っていくまでの実験の場と表現されました。したがって、体験活動が要請されることになります。
 Aさんは、ご自身の提出されたD「規範意識を形成する場所」の説明を補強し、いいか悪いかをはっきりさせることが、学校の、、教員の存在感を高めるとお考えのようであり、「あの先生がいるから学校へいきたい」と思えるようになると発言されました。信頼関係の形成に関わることですね。学校で大変な事態が起きようとも、それを乗り越える絆を作り強める場所が学校であるとのご意見です。そうした信頼関係の在り方は、小学校では、教員のことをまちがって「お母さん」と呼んでしまう児童の存在にあらわれるのかもしれません。これは、Dさんのご意見です。Dさんは、教員が第2のお母さんになり、「先生には何でもいえる」そんな空間であってほしいと述べられました。G「家庭のようなあたたかい場所」とでもまとめるべきでしょうか。Eさんがいわれたように、様々な友達にいろんなことをいえることが大切で、それが子どもの成長を促します。Bさんは、Dさんのご意見を引き継ぎ、教員にも個性があって、どんな役割をするか各々認識する必要があると述べられます。Bさんはこの点では一貫した主張を討論を通して展開されていますね。教員が個性を自覚し自分なりの学校における役割を発見すること、これが学校への貢献になるということでしょう。
 Cさんは、Bさんのご意見に賛成の態度を示されつつ、児童生徒も教員に協力し、それが実る場であればいいなぁと話され、Dさんも児童生徒の協調性が育める場所でありたいと希望を語られました。これはなにも同じ年の児童だけではないと付け加えられながら。
 ここでAさんが新しい回答を用意、H「努力が実る場所」であるべきと述べられます。みんなでやったからできたんだとの実感を持てる場所、そうした意味では行事などが連想されますが、そこだけにとどまらない「場所」を求められているようです。この点、Bさんが具体的にお話されます。音楽教員を志望する立場から、クラスが一体になって作業するたとえば合唱など、クラスが一丸となれること、同じ方向を向く機会が必要なことを提案されます。そこでは、連携、協調、達成感が味わえますね。
 そうした学校は、Cさんいわれるように、I「開かれた場所」でなければなりません。ようやく答申でよくいわれるこのキーワード(一般的には「開かれた学校」と表現されますね)が登場しました。このI「開かれた場所」についての話題が他の討論参加者によってすぐに深められなかったのは、ちょっと残念です。なぜなら、3者連携と絡んで、いくらでも議論のタネになったからです。
 Dさんは、J「ストレスが発散できる場所」といわれました。これは意味のとりようによっては苦しいので、注意が必要な表現です。その例示としてケンカをだされたので、Dさんがイイタイコトと違う意味で捉えられてしまう可能性があります。Eさんが、ケンカも間違いの場、実験の場だから許されると説明補足されましたが、これも、どうかと。難しいところです。
 CさんはDさん、Eさんの発言にあったケンカに言及し、なぜケンカになったのかを探る必要を訴えられました。そして、軌道修正し、ケンカも間違いとのニュアンスを抽象し直し、「授業を通してまちがいから学ぶ」と述べられました。いささかわからない方向に討論が進みそうになったとき、こうした修正はグループに貢献している姿勢と判断されることでしょう。このときは、こじつけであってもいいのです。ケンカの話題から無理やり授業中における児童生徒の失敗に飛んだような印象を受けられるでしょうが、「なんだかマズイ」と討論の方向性を感じたときには荒業ですけど有効です。今回の場合、Dさんの発言が間違っているとか、間違っていないとかは関係ないのです。そうではなく、評価者の面接官にどのうように受けとめられるかが問題なわけであって、言葉というのは受けとめられ方によっていいようにも悪いようにも受けとめられてしまいますから、パッと話題転換してしまうことによっていわば「追及を避ける」ということです。政治家みたいですな。ははは。
 ここでAさんから、ようやくCさんの提出されたI「開かれた場所」に絡むご意見が出されました。文化祭の開催を取り上げられ、児童生徒の存在が地域からも認められるようになる、と。教員や保護者だけでなく、地域から児童生徒の存在が認められてこそ、C「安全な場所」たる学校の実現も叶います。Bさんいわれるように、児童生徒がイキイキしていれば、地域も安心です。そのためには、基本として、教員がすべての学校教育活動を楽しく感じていることが前提されます。Aさんがいわれたご意見です。
 ここで20分間が終了しました。今回のテーマに対する回答を登場順に示しておきましょう。それは、@「楽しい場所」、A「人格形成の場所」、B「切磋琢磨し学びあえる場所」、C「安全な場所」、D「規範意識を形成する場所」、E「人との違いがわかりあえる場所」、F「まちがえてもいい場所」G「家庭のようなあたたかい場所」、H「努力が実る場所」、I「開かれた場所」、J「ストレスが発散できる場所」となります。これらはすべていいえているかどうか、議論の余地はあります。また、重複しているものもあります。それを公約数化すると、「楽しく、安全で、切磋琢磨し学びあえる開かれた場所」が学校ということになるでしょうか。
 今回の討論では、限界を感じました。なんといいますか、討論参加者の視点が固まっているということです。基本として、開かれた場所など受験生ならだれでもいえることだけでなく、もっと広く学校を見渡して、「回答」を提出していただきたいと思っています。もっと厳しくいえば、せっかく教職教養を勉強しているのに、それが生かされていないということです。何のために過去問をやっていたのでしょうか。ちょっと厳しいですかね。
 このテーマの回答は、実は簡単なんです。もちろん「開かれた場所」は当然としても、過去問を勉強すればすぐでてくる「回答」として、「人権が守られる場所」とか、「法規が貫徹する場所」とか、「環境に配慮する場所」とか、「本に囲まれている場所」とか、「言葉に敏感な場所」とか、どうでしょう。難しいことをいおうとするのではなく、勉強してきたことをいおうとすること。それが大切でしょう。いま紹介したそれぞれの「場所」は、府の1次試験で登場する問題そのものです。簡単でしょ。
 集団討論だ〜、ということで構える必要はまったくありません。地道にやってきたことを言葉にすること、です。何度も申し上げて恐縮ですが、それが「血の通った教職教養」ということです。
 次回で年内最終ですね。いまは、まだできなくともいいんです。7月に最終型ができればいいんです。そこに目標を定め、一つひとつクリアしていきましょう。
(12/18)

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第150回勉強会における集団討論のテーマは、「子どもにとって学校はどんな場所でなければならないでしょうか。多様な見方があると思います。議論してください」でした。今回は、20分間で5名の方が議論してくださいました。このテーマは、「どんな場所でなければならないでしょうか」と問われているので、参加者1人ひとりがそれにパシッと答える必要があるでしょう。その意味では、最初に発言する方が有利かもしれません。このテーマですぐに思いつく回答は、現場はもちろんですが答申でもさんざん使われた言葉である「開かれた学校」にしなければならない、というものでしょう。当然この回答が討論中にだされました。このほか「どのような場所でなければならない」のか、数点登場します。そこで、以下、再現してまいりますが、テーマに対する回答が出てきたときに、@、Aというように丸数字を冠しますね。
 まずAさんがテーマを読み上げられ、回答を用意されます。最近の文部科学省の調査にもみられるように、不登校の数が増えてきている、これは、学校に行きたくない気持ちのあらわれといえる、だから、学校を@「楽しい場所」にしなければならない、と。この@「楽しい場所」を実現するためにBさんは、教室がキレイでなければならないとご意見されました。自分たちの学習し生活する場所の掃除が行き届いていれば、楽しい場所であると自覚できるとの理解です。また、その一環ではありますが、Bさんは、掲示物の工夫もするべきであると述べられ、これまたきれいな掲示、古い日付の掲示ははずすということも含めて提案されました。このように、「どのような場所?」⇒「○○な場所」⇒「その実現方法」というパターン化が以下の議論においてもみられます。これはこれでよいとワタクシは思っています。むしろ、これ以外で討論を続けるのは難しいかもしれません。
 Eさんは、高校志望の立場ですから、A「人格形成の場所」であると同時にB「切磋琢磨し学びあえる場所」と発言されました。Cさんは、EさんのB「切磋琢磨し学びあえる場所」を敷衍し、授業が楽しいように児童生徒が感じてこそ学びあえる場は実現されると述べられました。Cさんはこのほか、心の面でも楽しくなければならないと次に続く提起をされました。おそらくここで、次の発言に登場するC「安全な場所」をいいたかったのでしょう。しかしここではCさんはこの回答をあえて述べられませんでした。
 Aさんは、Bさんのご意見を受けつつ、私たちは児童生徒がどんなことを知りたいのか把握している必要があり、それを授業計画に生かして魅力的な授業を構成したいと発言されました。Bさんはこれを受け、児童生徒の個性を把握し、飛びついてくるような発問や指示を用意すると応答され、こうすれば児童生徒も満足し学ぶ喜びを実感できるのではなかろうかと、Eさんの提起にも同時に答えつつご意見をまとめられます。的確な発問や指示をすることによって、彼らの思考の過程をつかみとることもできますね。
 ここでCさんがC「安全な場所」と提案されました。児童生徒が防犯意識をたくましくすることを要請されます。池田小学校のことも話題にされつつ、教員の役割を「危険を取り除くこと」と具体的に述べられました。ところでC「安全な学校」というのも、ルソーのいわゆる消極教育なのでしょうかね。つづいてAさんから、学校は、楽しいだけでなく、守らないといけないことを守らせる場所でもあると述べられます。学校教育活動は集団活動です。集団活動を通して社会性を獲得させたいとの意識があらわれていたご意見でした。これはD「規範意識を形成する場所」といえます。
 ここでDさん、がんばりました。学校には、多様な環境で育ってきた児童生徒が集まってきている。それぞれの児童生徒が生活環境に依存する悩みを抱えているのであって、それを個別に解消するのは難しいが、そうした悩みにも対応できる学校でありたいとの主旨のご意見を述べられました。
 思わず助け舟をだされたBさんの発言をはさみ、Eさんが、E「人との違いがわかりあえる場所」でなければならないと回答し、そこから自分をみつめ理解し自分自身だけでなく友達もかけがえのない存在であると理解できるようになってほしいと述べられました。
 Bさんは、AさんのD「規範意識を形成する場所」に対し、いけないことはいけないとちゃんと注意できる毅然とした対応を学校組織的にできるようにしたいと述べ、教師間連携を強化すると抱負を語られました。
(つづく)
(12/17)

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本日は、第150回当サイト主宰勉強会にご参加いただきまして、ありがとうございました。急遽募集しました席もお申し込みがあり、満席となりました。また、勉強会終了後の珈琲会には、今年の合格者が3名(Tさん、Kさん、Sさん)ご参加くださり、みなさんからの質疑応答に答えていただきました。有意義な時間となりましたことをお礼申し上げます。
 本日は、まずワタクシの方から講義いたしました。その中心は、日本における学校の展開といっていいものでした。近代の教育が変質していく状況を、次回の現代社会との対比で考えてまいります。このときみなさんに尋ねた高度経済成長時の様子、面白かったです。経済成長の時代をリアルタイムで経験した方のお話は、ワタクシの経験とも重なるものであり、なんだか過去を思い返しておりました。
 次に、「自己売り込みのツボ」を実施しました。Iさん、Tさん、お疲れさま。Iさんのチャレンジは相当なもので、原稿をみずに話しきり、訴えるところがあってよかったです。回収したみなさんからのコメントをさらに活用し、再度練り上げてください。Tさんは、もう少しでした。全体的に難しい言葉を使いすぎて、イイタイコトがなかなか伝え切れなかった印象です。声のトーンも考えて(といっても自然がイイのですが)、表現力を豊かにしましょう。自己売り込みのツボでは、相手にわかってもらうとの姿勢が大切であり、そのためには、原稿の分量をもっと減らした方がいいですね。これはみなさんにいえることです。
 最後に集団討論でした。例によって、この模様は、次回更新時にいたします。
(12/16)

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あすは、当サイト主宰勉強会を開催いたします。第150回になります。思えば遠くに来たもんだであります。ご参加のみなさま、よろしくお願いします。
 あすは、まずワタクシの方から講義をいたしまして、次に、「自己売り込みのツボ」を実施いたします。今回担当のお2人の方々、がんばってくださいね。ペーパーをみながらいうのもよいですが、暗記してそらでいえるならその方がいいです。ただ3分間なので大変ですよね。過去、全部をそらでいえたのは、おひとりだけでした。
 最後に集団討論をいたします。集団討論のテーマは、「子どもにとって学校はどんな場所でなければならないでしょうか。多様な見方があると思います。議論してください」といたします。第150回も開催しておりますので、テーマの重複も若干ありますがご容赦を。目新しいテーマを探すのも大変です。教員となるのに必要な技量が備わっているかどうかを試すいいテーマとなりますと、やはりある程度定まってくるようです。基本を大切にしたテーマで今後も討論をしていただこうと考えています。
 今回、勉強会のご案内メールの送信が遅れ、ご迷惑おかけしました。これに懲りず、よろしくお願いします。
(12/15)

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ときどき夜を徹してこの旁午の文章やそのほか必要に迫られた文章をロイホやマクドナルドで書く。このことについては、サイト内のイロイロな場所で紹介したので、古い読者なら知っているであろう(横のサイト内辞書で「ロイホ」を見出語に検索かけてみてね)。過去、マクドはあまり使わなかったのだけれども、ACコンセントが常時利用できるので、いまではロイホよりも重宝している。なにしろ気分がのってきたときにバッテリー切れになるのは、なによりも辛いからである。
 コンセントのないロイホでは、PCの電源が切れるまで作業をするのが常である。最初の3時間は集中するが、残りの1時間はいつ蓄えがなくなっても気にならないようなウダウダ作業に切り替える。この間、ミナミのロイホでいつものように深夜ウダウダしていたら、縦向こうの席で販売か勧誘か、一生懸命女性がしゃべりまくっていた。女性蔑視の感覚は、さらさら持っていないワタクシでも、あんだけしゃべられたらウンザリするだろうと思いながら、「よう、まあ、あんな説明をあきんと聞いてるわ」と心中その女性を前にしている男性に憐れみの感情を禁じえなかった。こっちが作業をしている間、ずっと販売か勧誘のプレゼンテーションを受けているのであった。その内容は何かわからないが、内容はこの際関係ない。ただただずっと聞いている男性に、その内、凄さを感じるようになった。これが彼女とか恋人とかだったら、会釈のひとつもしながら文節ごとに合いの手をいれながら対応するであろう。だが、販売や勧誘でそんな必要はない。対面2人掛の4人シートで、前にそのやり手の販売員(勧誘員)、横にも同類の女性がいる。いわばL字型の折れ曲がる位置に件の男性が座っている。これではトイレに立ってホッとすることもできない。そういう位置取りが販売あるいは勧誘に有効であることを、その女性は知っているのであろう。その後、そのときの作業をし終えたワタクシは、ミナミの闇夜に消えていったので、件の男性の「その後」を知る由もない。ワタクシなど、ただただ憐れみと凄さをカクテルした感想を持つばかりである。件の男性はアイスコーヒーに刺さったストローをクルクルまわし続けていた。
 ロイホに比べてマクドは安い。あの赤い地に黄色のMの字がエンボスされた看板は、カネもなく深夜の都会を彷徨う人びとを引き付ける誘蛾灯といえる。引き付けられたワタクシは、早速100円でアイスコーヒーを頼み、コンセントが確保できるコーナーの特等席に陣取る。3、4時間使っても、2円か3円くらいのものだろう。10円使おうとするなら8時間は必要。誘蛾灯にまんまと引っかかって、固定客がいるようである。いっつも同じカップルに遭遇する。フツーのカップルならば別に気にも留めない。だが、そのいつも遭遇するカップルは、男性は60手前くらい、女性は20代半ば、つまり親子ほど年が離れているようにみえるのである。男性は白髪交じりの初老としか形容できない。その2人が、これまた何をしゃべるのでもなく、お互いメモ用紙をにらんでいたり、携帯やipodを手にとって時間をつぶし、しまいには座席でぐったり寝るのである。きわめて不思議。もう数回遭遇しているから、相手もこっちを意識しているのは間違いない。むこうはむこうで、変なおっさんが深夜にPCカタカタさせとるなあと感じているのであろう。なにも好き好んで、マクドのシートで寝るわけがない。そうすると、親子の「マクド難民」なのかなとも想像させる。繰り返すがまったく不思議である。ただ、販売か勧誘かわからぬがロイホで散見する言語発生器的存在ではないのでよろしい。
 ところで、マクドの「24h」の看板は偽りである。「今年の漢字」は「偽」だそうだが、マクドは一定時間閉める。深夜4時から6時くらいまで、客を追い出すのである。これで24時間営業というのは、許されない。看板には「22時間営業」と表示するべきであろう。まさに「偽」である。朝の電車が走る頃、ミナミを後にすることもあれば、そのままサウナにいくこともある。最近は「サウナ難民」と化しているワタクシである。ああ、一度でいいからホテルで缶詰になって原稿作成と洒落てみたいものである。
(12/14)

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混迷を深める大阪首長選である。話題を振りまいているのは、「行列ができる」と形容される番組のレギュラー芸能人の動向であった。自民党府連が出馬打診し、出るや出ないや、便秘的状況であったが、TV局との折り合いもついたのであろう、出馬と相成った弁護士橋下徹氏である。妻の反対はそれほどの障壁でもない。彼が出て公約に少子化対策を掲げてくれてそれが実現するならば、万々歳である。
 大阪は、政治的価値ではなく経済的価値が優先されるお国柄である。そこを間違わず切り盛りすれば、彼が当選した暁にはなんとかなると思われる。微妙に大阪との関わりをリップサービスすれば、200万票近くとれるかもしれない。というのは、大阪府民おおよそ900万、その内、有権者はおおよそ720万、その内、投票にいくもの6割としておおよそ420万、その半分近くが200万票という数字だからである。
 だが、民主が相乗りしないとすれば、激戦となる。そもそも大連立ショック以降、対決姿勢を鮮明にしたい民主が相乗りをすれば、国政にも関わる事態となるので、対抗馬を躍起になって探しているところと推測する。大連立を完全否定した小沢氏が乗り込んで、面白い大阪首長選にしていただきたい。おそらくもう水面下でイロイロなカタガタに接触しているにちがいないが、ワタクシは、2人を推す。
 ひとりは、民主友軍の女性である。といえばすぐに田中真紀子と、このページをご覧のみなさまは思い浮かべられるであろう。彼女が出馬すれば大変面白い選挙になる。民主は口説くも、それなら新潟のトップになるワイと、撥ね付けられる可能性の方がきわめて高いが、それでも彼女の政治的豪腕に賭ける価値はある。大阪の膿を一掃するパワーが彼女にはある。府庁の面々は、彼女が来たら顔面蒼白になる。裏金がワァワァ出てきたコゾ今年、それらを軒並み叩いてくれるパワーボムに、彼女なら、なれる。もうすでに、財政再建団体になりかけの死に体の大阪府なのだから、もうこれ以上壊れることもなかろう。いくら壊し屋のイメージがある真紀子氏でも、壊れたところに舞い降りる再開発年配レディに映るのではないか。府民はこうした選択をして、4年間を預けてみるのも悪くはない。黒田、岸、中川氏以降、しょうもない府行政展開であったのだから。彼女は地盤の新潟で、交通関係企業を牛耳っていたオヤジのやり方を留学期以外はよくみていたわけであって、公共的私企業の扱いにも慣れているだろう。オヤジの息がかかっているわけではない大阪ではあるが、商いの街は、真紀子的キャラクターに親近感を持つに違いない。
 もうひとりは誰か。それは、ミスター年金、長妻昭氏である。問題は、大阪となんらの関係もない人物というところである。しかし、太田氏も単に通産官僚からのいわば天下りであって、中央からカネをひっぱってくるかぎりにおいて、府民は、いやむしろ、府の企業連合は支持表明していたに過ぎない。出馬は、東京選挙区の国会議員の席を捨てる勇気があるかどうかにかかっている。それは、すなわち道半ばで舛添氏との第2、第3ラウンドを放棄することを意味している。きわめて難しい身の振り方になる。ここまでやってきて…、だから。しかし、あの迫力ある国会での追及は、大阪人受けする。ノックはシリで、太田氏はカネで墜落したことからすれば、表面的に愛人問題もないし、金にも清廉だろうから、出れば当選の可能性はおおいにある。とりわけ、消えた年金追及にみられる客観的資料に基づいた追及は、利に敏い大阪人にとって魅力がある。ただしこれは、大阪人にとって、であって、大阪府の企業連合にとって、ではない。公権力に対する追及の姿勢が、そのまま受け容れられるのは、反権力の気骨に惚れる一般大阪庶民なのである。もうすぐ討ち入りの日、赤穂浪士の大坂版を展開してくれれば、これまた真紀子氏同様、大阪の沈滞を吹き飛ばしてくれるのではないかとの根拠のない期待がある。
 そのほか、まったく目がないけれど、挙げるとすれば、議員宿舎愛人問題で墓穴を掘った本間正明氏など。これなら秀吉の方がましか。また、橋下氏が出馬する関係上、「行列対決」になるから紳助は出ないしね。今次は無理だが紅白の余勢をかって、鶴瓶も4年後に出てきそう。
 さて、そうこう書いているうちに、熊谷貞俊大阪大教授・電気電子情報工学専攻の名が登場。うわー、申し訳ないけど、面白くないわ〜
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(承前)これまでの議論を聞かれていたBさんは、ボランティアについて様々な考え方があるのだなぁと、しみじみいわれ、固定概念に縛られていたと反省の弁でした。しかし、その発言がなかなか好意的にグループの中に伝わっており、よかったです。小さなことからはじめるといいとの意見に対しても、「この気持ち、いいですね」というように思っていらっしゃることをそのまま述べられていました。
 Eさんは、保育実習にいった高校生のことを例示し、幼稚園訪問中にその高校生が触れ合いの大切さを実感したことをレポートされました。その発言においても、小さなことからはじめるボランティア、相手のことを思いやるボランティアという考え方が貫徹していました。Aさんは、重症心身障がい者を対象としたボランティア活動に従事されていた経験をお持ちで、吸引作業の大変さと、まさに命に直結するこの介助作業の大切さについて語られました。Fさんはそうしたボランティアに実践的意欲を注ぎ込めるよう、総合学習で点字学習、盲導犬について調べるなど講師として指導されていらっしゃり、ボランティア精神をこそ養うべきであると力説されました。
 ここでDさんが、従来、論争されてきた問題を提示されます。それは、ボランティアが自発性を尊重する活動であること、したがって、学校で強制的にボランティア活動を推進するのは無理があると捉えられるということ、そこから、わたしたちはどのようにボランティア活動を推進する根拠を導き出すかということについてです。ボランティア活動を推進する皮切り役が教員にあることをどう考えるかとDさんは訴えられました。
 教員がボランティアを率先垂範することに、ワタクシも、いささか偽善的な感覚を拭えません。やはり、心底ボランティアをしたい「人」がするべきであって、教育課程上位置付けがあるからやむを得ずやるとの指導態度では、そのうちボロがでます。まあ、そんな教員はいらっしゃらないでしょうけど。しかし、たとえば高校単位未履修問題があったように、受験目的が世界史や総合学習すら消滅させてしまっている過去があります。どうしてボランティア活動を無視しないと断言できるでしょうか。
 この問題はともかく、実際、児童生徒の自発性に期待するのがボランティア活動です。そうした意味では、答申のいわゆる「活動の成果」としてボランティア精神を根付かせるというのは、やはり詭弁に近いものがあります。ところが、もう最近では、ボランティアありきになっており、こうした自発性の有無は問われなくなっています。学校でボランティア活動を推進するのは当たり前だよとの風潮が感じられます。果たしてそれでいいのかどうか。もちろんこれが、最初のCさんの発言、つまり公共の精神の涵養と響きあっているのは、いうまでもないでしょう。ボランティア活動を学校で一括して推進することは、それをやりたくない児童生徒の基本的人権を侵害することになります。ボランティアの行事が内容的によろこばしいものであることは、おおよそ一般の人びとに認知されているとしても、強制参加はやはり問題であるといわざるをえません。理論家の立場からいえば、これが結論になります。比較対照として、愛国心の強制を挙げれば、納得できるのではないでしょうか。学校教育が、強制力(公権力)を行使して、児童生徒の承認なく、ボランティアをさせるのは、本来おかしいことといわざるをえません。
 ただし、是非ともボランティア活動をしたいと要望する児童生徒の切なる希望を排除することも、これまた許されることではありません。とすれば、選択的な活動として、学校はボランティア活動を実施するべきではないでしょうか。総合学習の範囲で実施するのではなく、放課後の自主的選択活動として実施するのが筋のある実施態度でしょう。
 これは難しい判断を児童生徒個々人に迫るものです。しかも、「内申点を上げるためにボランティアをする」児童生徒も登場する恐れがある以上、評価対象になる総合学習を活用してボランティアをすることに、ワタクシはあまりよい気持ちがしません。
 こうしたワタクシの考え方が、Dさんと共有するものであるのかどうかは、今度、Dさんに直接お聞きしないとわからないところです。Dさんは、「児童生徒の自発性に任せるのには無理がある」とお考えである以上、ワタクシと近い立場にいるとは感じています。
 さてこのDさんの問題提起に対して、他の討論参加者たちはどのように対応したのでしょうか。Bさんは、ボランティア活動への誘発活動は、基本的にしなくていいのではないかとの立場を表明されました。その根拠を論理的に教えていただきたいところです。Bさんご自身は、過去を振り返られ、ボランティアにあこがれて、実際におこなったと発言されました。これはこれでいいと思われます。児童生徒の時代のBさんが、自発的にボランティア活動をしたいと思い立ったわけですから。そうした立場は尊重されなければなりません(だからこそ、逆に、ボランティア活動をやりたくない立場も認めなければならないという相互の立場の承認が、上で述べたように、求められるわけです)。Bさんは、「ボランティア活動とは、こういうものなんだよ」と示して、経験させてみるのはよいことであると位置付けられました。
 Aさんは、この問題に対し、ボランティアを実際にしている方々をみてみることで、実践意欲が湧くのではないかと述べられます。発達段階に応じて働きかけをすることが、教員としての役割と認識されているようです。Fさんは、ボランティア活動の押し付けはダメであることを前提し、その上で、学校教育活動においては、小学校であれば、低学年で活動をさせるのではなく活動に結びつく態度の育成に力をいれ、高学年で環境についてなど具体的なボランティア活動をやるのがいいと提案されます。Fさんの全発言を貫徹して、その基底部分には、ボランティア精神を養うことが第一であるとの認識が確認されますね。
 最後に、Eさんが、ボランティア活動をやってみたくなるきっかけの提供についてご意見され、討論は終了しました。
 今回は、ワタクシの意見をわりあい多く挿入しながら、討論の模様を再現しました。今回の討論は、実は18分くらいでありまして、ちょっと短かめでした。それは今回の勉強会のプログラムがいっぱいいっぱいだったことによります。討論の全発言回数は17、8回でして、これはこれまでの発言回数と比較すると、少なめです。いつもは平均して、22、3回あるでしょうか。今回少なかったことは、時間の問題でしょう。一般的にいって、発言回数が少ないことは、評価に直接するとはいえません(もちろん20分間で10発言機会などはダメですけど)。量より質だからです。
 ただし、今回の18分であっても、もっと総発言回数が増える可能性はあります。というのは、最初の問題提起が難しかったので、つまり公共の精神が登場しましたので、そこからどういうように議論を組み立てていくかに苦しさを覚えた討論参加者もあるいはいらっしゃったと考えられるからです。もちろん、このことはCさんの責任ではありませんし、ワタクシとしましては、このCさんの冒頭の発言は、意義ある発言であると評価しています。しかし、誤解を恐れず、かつ、申し訳ないいい方かもしれませんが、大学4年生、あるいは、教職教養を勉強し切れていない受験生が一緒になる可能性がある本番の討論の出だしにおいて、「法規的角度から議論しましょう」と口火を切れば、下手するとかなりの沈黙の時間がつづくやもしれません。そうした意味では、内容的によいご意見であるCさんの最初の発言は、2回目の発言機会のときに、自分の主張としてまとめて提起された方がよろしいかもしれません。
 いや、イロイロ申し上げました。また、次回ですね。年内はあと2回あります。今後、集団面接対策も実施してまいりますし、集団討論との違いも実感・理解できるように、いまは、集団討論実践に慣れておきましょう。
(12/12)

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集団討論のテーマは、「ボランティアの必要性について、さまざまな角度から議論してください」でした。このテーマに、6名の方が挑んでくださいました。20分くらいの討論時間です。ボランティア活動の議論は、ここ数年よく出題されたテーマでしたが、昨年は、鳴りを潜めたようです。各都道府県も、食傷気味になったのでしょう。しかも、総合学習の授業時数の減少が規定路線になっておりますし、このボランティア活動についても含め、体験学習系の授業についてのテーマは、今後さらに減っていくような気がします。というのは、ボランティア活動の重要性はいうまでもないのですが、基本的な学力が低下した現状を受け、どうしても学力向上系のテーマが平成20年夏は多くなると予想されるからです。
 先に公表されたOECDの調査結果は衝撃的で、とりわけ大阪は学力がもっとも低いといっていい都道府県ですから、余計にそう思われます。「ボランティアなんか、やっている場合やない、勉強をもっとせんとアカン」といい切るわけではないものの、大阪府の求める教員像が、「なにより教科の教え方のうまい先生」にシフトするといって過言ではないでしょう。一時もてはやされた「心の教育」は少しおいておいて、学力だ、との声が、家庭や「大阪社会」から強くなるのを反映する府教育行政の展開が進められそうです。
 しかも、このワタクシの予想は、首長交代にも大きく左右されることも関わって、そう述べるわけです。来年1月27日が投票日ですから、まだ誰になるかわからないですけど、太田行政の、いってみれば「教員倍増計画」が終了するのを待って、新しい行政方針に転換する可能性があるからです。文部科学省の教員増加予算請求に財務省が首を横に振り続けている政治状況をみますと、おそらく復活折衝でもそう多くの予算を文部科学省は獲得できないでしょう。とすると、いかな陳情に府の役人が中央に行っても、そうは問屋が卸しません。つまり県費負担教職員給与分の金額増加が望めません。したがって、定数内講師の増加的対応にすがるほか、府は学力向上政策を打ち出すことができないでしょう。これは、残念なことです。
 無償の学校ボランティアに依存するのはちょっと無理ですし、東京の和田中学のように「夜スペシャル」の猿真似をするやもしれません。大阪府学校教育審議会がどのような独自の「報告」をするのか注視されるところです。また、首長選に出馬が噂されている橋下氏は、大阪府立北野高校という名門です。大阪から優秀な人材を輩出したとの意識は高いでしょうし、名門公立高校の復活に意欲を示すでしょう。その意識が牽引して義務教育の制度的変革と学力底上げを図る政策を掲げるかどうか。苦しい台所事情の府財政から、もっとも結果が出るのが遅い教育行政にカネをかけてくれるかどうかです。
 いやいや、話が長くなりました。上のような予想、あるいは、ワタクシの勝手な思い込みはあるものの、思いやりがなければできないボランティアの意義について、ワタクシたちがワタクシたちなりに足場を固めておくのは大切なことです。
 最初にCさんが、問題提起してくださいました。すなわち、このテーマを法規的角度との関わりからまず位置付けたいと述べられ、昨年暮れの教育基本法改正によって公共の精神の涵養が期待されていることに言及し、こうした精神は体験活動やボランティア活動によって養われるとされます。それゆえに、ボランティア活動を実施するのは喜ばしいことであると発言されます。Cさんは、阪神大震災以降の人びとのこころの動きにも触れられて、新しい公共に寄与する態度を教育によって培いたい希望を持っていらっしゃいます。
 Aさんは、Cさんのご意見を受けつつ、ボランティアの精神は、相手の立場に立って考えるという態度が基礎にあることを指摘されまして、そうした精神の涵養は学校が担当するべきとしつつも、個々別々のペースでボランティアをすると、ボランティアしてほしい相手が、時には不快感を抱いてしまう場合もあるので、これをどうするべきかと発言されました。ここに、すでにボランティアをめぐる問題があらわれています。いやいややるボランティアほど空しいものはないし、相手方にも迷惑になります。学校単位でボランティアをすることの意義はどこにあるのか、との議論を呼び起こすでしょう。
 Fさんは、Cさんの提起を受け、公共の精神の涵養に同意しつつ、ボランティア活動をする実践力について議論しようとされます。この実践力は、道徳的実践力に裏打ちされて効果があると考えられているようです。自分のボランティア活動の実践が、社会の役に立っているとすれば、自己肯定感、自己の存在証明につながるといえます。Bさんもボランティア活動を経験することが大切との立場から、奉仕をする心が尊いということを力説されます。できることから、簡単なことから実践していこうとする奉仕の精神が、ボランティア活動を支える原動力たることが求められるわけですね。Eさんも、ボランティア活動が認められて、児童生徒個々人が社会の一員たることを自覚し、公共の精神を理解していくようになるのがめざすところであるとご意見されました。
 Dさんは、相手の立場に立って行動することがボランティアの精神の内実であって、それが学校生活においても期待されていると発言されました。Bさんが簡単なことから、といわれた点に呼応し、たとえば休んでいる級友のためにノートをとっておこうとか、廊下にごみが落ちていたらすすんで拾ってやろうとか、身近な活動とその活動を実行させる精神が重要であると位置付けられます。そして、教員もこうした精神を持つことが、学校を豊かな実践の場とするのであると主張されました。こうした議論にみられるボランティアの実践態度をFさんは「チョボラ」という数年前にはやった言葉を出して説明し、ボランティアをするのに構えたり、考え込んでしまったりするのを避けるのが、スムーズなボランティアとの「出会い」になるとお考えです。「やってみよう」は、案外大切ですね。これに関連し、Cさんは日常の教育活動で折に触れてボランティア活動の意義について説くことが、ボランティア精神の涵養において奏功すると述べられます。募金活動の事例をCさんは提示し、具体的にボランティア活動の意義について語ろうとされました。
 以下、次回更新時。ここで、だいたい、発言量的にも時間的にも、半分です。
(12/11)

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