日々旁午

2004


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いつも往き返りに使う公用車に乗らず、たまたま歩いて帰宅の途上、若者4人組の「オヤジ狩り」の標的になり、腰の骨を折られる重傷を負い、金銭を強奪された。誰がか。所長である。どこのか。大阪地方裁判所の所長である。犯人は未だ検挙されていないけれども、地裁は軌を逸した若者の暴挙を身をもって知ることになったわけである。庶民感覚から程遠い社会認識をもっていた法曹界は、この事件にどのように反応するのか。この強盗傷害事件は、大上段に構えた社会認識を是正する契機になるかもしれない事件といえる。裁判官も人間である。尊敬する所長がヤラレタとなれば、なるほど判決には私情を挿んではならないとしても、しかし自分たちの親分が悲鳴を上げるまでにドツキまわされたのであるから、捕まれば復讐の法廷になるやもしれない。この事件を裁くのは、犯人が未成年であった場合、家裁であろう。そこでも温情的にはなるまい。地裁も家裁も、ぶっちゃけた話、兄弟関係にあるといっていいからである。栃木から渋谷ヘ「出張強盗」した事件例があるので、決して断定してはならないが、地理的に考えて、残念ながら犯人が大阪の人間である可能性は高い。ということは、かなりの確率で大阪府立校の卒業生かもしれないのである。皮肉なことに、大阪公立学校退職者がその地裁に訴えを起した。学校をリタイアした4200人が組織する「大阪府教職員互助組合」が、年金運用における4億円の赤字の責任を問うべく、年金原資の運用委託先である三菱信託銀行に、公の場でもの申すというわけである。信託とは、相手を信じて金を預け、その運用に期待し、たとえ損が発生しても文句をいわない契約ではないのか。資金運営の結果、信託銀行が受け取る利益は成功報酬として5l程度であろう。ここで約束される予定利率とは、飽くまで予定であり、はなからそんなものを信じる方がどうかしている。確かに超低金利の現状は庶民にとって打撃である。しかも庶民を無視し、逆ザヤを補填する例の生命保険会社おたすけ処置は、国家的犯罪である。さすがに徳政令の伝統ある我が国である。ワタクシも、なけなしのゼニを信託銀行に預けようかと考えて、5年程前、信託銀行のファイナンシャルプランナーに相談したことがある。プランナーはワタクシにこういった。「いまは利率も低いし、信託せず、定期預金のまま、おいておいた方がいいですよ」。なんと愛に満ちた良心的アドヴァイスではないか。まあ、個人の金の高など知れているから、こういわれたのかもしれないが、相談したのは互助組合が訴えた信託銀行と同じところである。信託とは愛である。裏からいえば欲である。たとえワタクシたちの知ることができない由来があって、互助組合が資金を同行に託した歴史的事情があったとしても、はなから予定利率を信じるのであるから、愛人たる信託銀行に裏切られて怒るのは、愛欲の機微にふつつかな不調法である。人情的馴れ合いが契約に絡み付き、そのツケがどこかで発生するのが、日本型契約社会である。「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて泣く方がいい」、これは学校を描いた秀逸ドラマの主題歌の一部分であるが、この歌詞の「人」のところに、「信託銀行」を代入すれば慰めにもなる。親分を病院送りにされた大阪地裁と弟分の家裁は、この2つの未解決事件と訴訟を、どのように解決へ導くのであろうか(2/20)

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文部科学省のサイトをよくチェックしている教採受験生にとっては周知の事柄に属するし、各学校においても、ようやく文科省から通知が配達されている頃であるから、今次の文科省による迅速な改訂についてご存じの現役の先生方が多いであろう。昨年12月26日付けで、学習指導要領が一部改正された。これは第151国会における教育改革議論の帰結である。いわゆる教育改革3法案とか、6法案(公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律・独立行政法人国立オリンピック記念青少年総合センター法の一部を改正する法律・国立学校設置法の一部を改正する法律・地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律・学校教育法の一部を改正する法律・社会教育法の一部を改正する法律)とかいわれる改革案の実現が、法規改正だけでなく、指導要領の文言の改訂にまでなったということである。この迅速な文科省の姿勢は、旧態依然とした官僚体質から脱却している点で評価に値する。指導要領の軟性化は、教育改革国民会議、21世紀教育新生プラン以来の一連の改革の流動性に追従した結果といえる。これだけ猫の目のように変更されては受験生にとってたまったものじゃないけれども、崖っぷちにある日本の飲酒運転的教育政策を表現してあまりある。改正のポイントを3点にまとめていえば、以下のようになる。1つは、総合的な学習の時間のねらいが1項目増加したことである。2つは、従来、一線を画していた社会教育と学校教育が手を取り合って、社会教育施設の活用を、これまた総合学習に関連し、明記したことである。第3に、各教科における教育内容の範囲や程度が自由化され、指導要領の最低基準性が形骸化の憂き目にあっている、あるいは教育のあるべき姿に正常化してきたということである。校種によって解説するのが筋であるが、それは右欄の「簡単な学習指導要領解説」を、おいおい改訂するので参照されることを期待し、ここでは小学校の改訂事項を例に、若干思ったことを述べるにとどめる。第1の点。総合学習のねらいに、「各教科、道徳及び特別活動で身に付けた知識や技能等を相互に関連付け、学習や生活において生かし、それらが総合的に働くようにすること」と付け加えられた。第1章総則の規定に総合学習があること自体、文科省が各教科よりもその「教科的」重要性を強調していることを示しているが、ねらいの密度硬化によって、さらに総合学習の位置の明確化とその意義を確認しようとする印象がある。第2の点。青少年のための教育、つまり社会教育は、学校教育と切り離され機能してきた。だが、生涯学習の一貫に義務教育が包摂される現在の社会的気運にあって、社会教育と学校教育との距離を縮める必要性が出てきた。この両者の整合については、最初にいったように第151国会で議論され、すでに社会教育法の改正されていることを学校現場へ通知し実践させる意味をもつ。それは、同じく指導要領では総則の改正として表現されている。つまり、その6の(4)として、「学校図書館の活用、他の学校との連携、公民館、図書館、博物館等の社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携、地域の教材や学習環境の積極的な活用などについて工夫すること」と規定が追加されることとなった。現在の社会教育がズタズタなのは、知る人ぞ知る事態なのであるが、ここに学校教育を介在させて、その奮起を促す目論見もあるいはあるのではなかろうか。子どもをあずかる郊外教育施設の運営ともなれば、社会教育主事の指導、助言も保護者に注目されるようになり、そうそうオイタはできなくなるからである。公民館の活用など、3者連携の実現が意図されているのはいうまでもなかろう。最後に第3の点。社会・算数・理科・家庭の各教科における「指導計画の作成と内容の取扱い」に付加項目がある。この3点目は、おそらくは発展学習に力をいれ、「学力低下」を是正する立場から追加された文部科学省方針の自己修正であろう。4教科に共通し、「内容の範囲や程度等を示す事項は、すべての児童に対して指導するものとする内容の範囲や程度等を示したものであり、学校において特に必要がある場合には、この事項にかかわらず指導することができること」と、我が子の成績不振の原因を学校の教育課程に見出す教育世論に白旗をあげる形で、基準性を打破した規定を設けざるをえなかったといえる。そしてこの規定はまた、「形式的平等の打破」という、学校教育における個性尊重、つまり「できる子」にはどこまでも難しい教育内容の教材を与える道を用意した措置でもあろう。こうでもいわないと、2、3日前この旁午で紹介したような、東大学長の指導要領範囲外出題発言と釣り合いがとれない。さらには、中等教育学校のエリート校化にたいする批判、いわゆる教育制度の複線化をよく思っていない勢力に行政が対抗できない。その意味では文科省のリップサービスといえるかもしれない。こうした改訂は、教採受験生にあっては、そもそも既知であるし、いわばマイナーチェンジであるので、追加項目を暗記すればそれでよかろう。難しくもなんともない。しかし現場の先生方にあっては、来年度を睨んで教育課程の編成を新規しなければならないからひと悶着ありそうである。ただ使用する教科書は、従来の教科書に、高学年では発展的な質問項目を数点追加したり、低学年では「さらにかんがえてみよう」と子どもに注意を促すページが増やされて編纂される程度であろうから、これまた大層に考える必要もなかろう。ただしいえることは、それだけ教えるべき範囲に歯止めがなくなったのであるから、どれだけ各先生方が教材研究を掘り下げるか、その度合いによって各学校の評判が分かれるということである(2/19)

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必要は発明の母である。PCを携帯し、外でキーボードを打つ時間が長いワタクシであるが、かつてこの旁午で書いたように、ロイヤルホストをよく利用している。近頃ドリンクバー形式になったので、たんにホットを注文したときより、料金は50円程度値上りしたけれども、梅昆布茶も含めヴァラエティーに富んだ飲みものを味わえるし、年齢層もガストなどと比べ若干上なので、無茶苦茶騒がしくなく、非常に重宝なスペースである。もちろんこの旁午はロイヤルホストで書いている。ワタクシのように日参するまでになれば、ロイホニストと命名されてもよかろう。ねらい目は、朝である。朝から行けば、ワタクシのようにPCに向かっている会社員も多く、静かだからである。用意されているコーヒーや紅茶を愛飲する。その際、コーヒーフレッシュを入れる。ここで問題発生である。なぜ、あの小さなフレッシュの容器をプチッと開くとき、爪にミルクが撥ねるのだろうか。カレーを食べたあと必ず服に茶色い点を発見する幼児の気持ちがよくわかる。3杯飲めば、3回とも爪に白い斑点がつく。プチッと開けた瞬間、ミルクがとび撥ねない細工ができないものであろうか。これは容器内圧と外温の関連性もあるのであろうか。それともたんに開けるのが下手だからであろうか。ある友人はペキッと容器の爪部分を上にあげ、あとはレモンやすだちを絞るような感覚で、容器を絞り、カップへ注いでいた。たしかにこれだととび撥ねない。しかし、これでは開ける瞬間を目視できないし、しかも容器をひしゃぐことになるので、つぶれた小さな容器をソーサーに添えられたスプーンの上に置かざるをえない。この方式はワタクシの美意識が許さない。こうした容器にまつわる欠点を科学者が解消するよう願ってやまない。ロイホニストも夜は家中の人となる。若者の友チキンラーメンは中年の友でもある。夜食に、絶妙に窪んだ麺の上に卵を上手に載せ湯を注ぐ。チキンラーメンの麺は、その形状、ボーリングの球を置けるくらいなだらかに湾曲している。この発明は青色発光ダイオードの発明ほどではないが、なるほど卵がラーメン鉢の底へ沈んでいかず、よい按配で麺上鎮座する。カップラーメン派の方も読者の中にはいらっしゃるであろうが、あれは品が悪い。というのは、湯を注ぐとき、同時に筒状の圧縮麺がフタに向かって上昇し、湯の分量が妥当であるのかどうか疑問をもってしまうからである。そこでである。あの円筒状の麺を上から見て凹状に加工できないであろうか。直径10cmくらいの断面積にストローを1本挿し込める穴を開けたような形状をとるよう日清食品に要求したい。そうすれば、麺がずりあがってくることもなく、カップの内壁に指示された目盛まで、安心して湯を注ぐことができよう。日常のちょっとした思いつきが特許を生む例は、たとえば「主婦の発明」といわれ、ときに莫大な利益を生む。「さすべえ」などはスーパーに通う主婦の自転車に100l装着されている。お肌を守る必需品である。さて、ストロー状の穴を円筒麺に掘ることによって、数g麺量を減少することもできる。定価据え置きなら、企業にとってもよい話であろう。しかし、この手の思いつきは相当程度企業で実験され、却下されているのであろう(2/18)

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確かに始業式や終業式を廃止し、その時間を算数や国語に充当すれば、子どもの学力が向上するかもしれない。その時間を活用し、日々の継続的学習を怠らなければ、計算能力や国語の読み書き能力が向上するだろうからである。儀式的行事を止め、授業時数を20単位時間増やす計画の下、茨城県は総和町で、小学校に通年制を導入するようである。いっそのこと入学式や卒業式における国旗の掲揚や君が代を歌う時間を節約して授業時数を増加させればいい。2学期制というのは聞いたことがあるが、通年制ははじてである。学校生活における折り目をなくし、どっぷり学習に漬かるスパルタ的雰囲気がないでもない。そこまで授業時数にこだわるのは、基礎基本の確実な定着が、新指導要領的教育課程では達成できないと判断したからであろう。教育現場は追い詰められているといえる。授業時数の確保は、算数など系統的教科においては死活問題だからである。こうした各学校の独自性という名の叛乱は、政府の教育政策に一矢を報いようとする性格ではなく、これを実施しなければ、もうどうしようもないと上訴する農民連判状の提出の観すらある。土曜日は休みだし、総合学習はこなさなければならない。とすれば、どこを削って時間を作るか、特別活動を切るほかない。ワタクシは、じつは総和町の教育方針に賛成の立場である。子どもたちの学力が相当に落ちていると客観的、歴史的に証明されているのであるから、それを補う教育課程を実施するのは町の教育行政責任であると考えるからである。経済協力開発機構の統計を信じれば、日本の子どもたちの学校以外における勉強時間は調査に参加した国中で最低だし、宿題の量も最小である。これでは「分数のできない大学生」を再生産するに決まっている。勉強とは本来苦しいものである。粘り強く何時間も机に向かって算数の問題と格闘したい子どもたちなどホンの少数であろう。しかし、こうした机にへばりつく習慣が継続的な創造的学習を可能にし、新たに直面する課題をなんとかしてこなす原動力を形成するのである。そうして、へばりついている間に、なにか教科に関わる素朴な疑問や未知の発見が、子どもたちの内面で生まれるのである。体験はなにも野外にでて身体を動かすことだけではない。机を世界と思い込み、ひとつことに打ち込む地道な、しかし尊い姿勢こそが、将来の野口英世を生むのであり、企業から200億円をぶんどれる科学者を生むのである。それが「関心、意欲、態度」の「意欲」でなくてなんであろうか。そういうへばりつく力をもった子どもこそ、キレル子どもと対極に位置するのである。しかし、まったく息き継ぎもなしに365日間をクロールで泳ぎ切るのは相当体力を消耗する。「ゆとり」をうまく教育課程に組み込み、子どもたちの多様な「達成」を支援するよう期待する。その期待は、同じく総和町が導入する学習カードの設定、つまりポートフォリオ評価の導入が、従来の評価を覆す、子どもたちの本当の姿を浮き彫りにするような評価スタイルであることの期待につながっている(2/17)

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非常勤講師の数が足りないといっても、そんなことは知らん。各自治体の器量で問題解決するほかない。こうした泣き言を漏らしているのは秋田である。秋田は20人学級を実現しようとがんばっている地方教育行政の先進自治体であるが、先生の数が足らず、てんてこ舞いで、非常勤講師の募集を継続している。いまなら抵触事項に引っかからなければ、もれなく秋田では講師になれる。なぜこのような事態になったのであろうか。そしてこうした非常勤講師を増やし現場をやりくりする行政方針は正しいのであろうか。教員給与に対する補助費を払いたくない文科省の内情とは裏腹に、大量採用に踏み切った各自治体も、そこそこ出現してきている。大阪然り、神奈川然りである。その余波をもろに受けたのが、講師不足の原因であると秋田は自己分析している。秋田大学ほか東北圏の大学に魅力があるのかないのかは別として、首都圏に学生が流出する傾向の強い東北は、Uターン教員就職の数も減少してきているようである。「地方の時代」とはいえ、一度都会の甘美にして華美な世界を4年過ごし、大都市生活を経験してしまうと、そこに残りたくなるのは人情であろう。しかも出身地など不問である、どこからでもたくさん受けにきてチョーダイと立派な姿勢で教員募集している神奈川、川崎、横浜がでんと座っているのであるから、合格すればUターンする必然性を感じない学生が多くなっても不思議ではない。また、なかなか秋田に正規合格できない学生が、勇躍神奈川に合格し、郷里をあとにしたとして、それを恨むのはお門違いであろう。秋田の台所の実情はわからない。さらにこれから三位一体の改革のせいで、秋田の財政的事情が悪化する可能性もある。しかし財政問題が採用の足枷になっているといわれても、それなら他の予算、たとえば土木費などを減らしてでも教育関係の予算分配を増やしてなんとかするのが当たり前ではないか。そうした配分調整努力を来年期待するほか、この手の解消策はなかろう。ただし非常勤講師を雇うための配分を増やすのでは決して解決しない。だいたい秋田でなくとも身分の不安定な非常勤講師にあえてなりたい学生など少数派であって、そのほとんどは正規を夢見て仕方なくやっているのである。それが本音である。みんなのかわりにワタクシがここでいってやる。だから秋田は採用の門戸をもっと広げ、正規教員を増やす方針をとるほかない。つまり正規教員数の確保である。こうした秋田の目を白黒させる事例は、秋田にとどまるわけはなく、やがて全国化する。いやもうしているかもしれない。地方同士のこうした友食い的状況を、逆に教員の資質底あげと教員の地位向上に転化させ、全国自治体がいわば「神奈川化」していかなければならない。そのためには、地方における財政的力不足が人的資源獲得を無為にしている現状を反省し、地方は「地方100年の計」である教育に経済を投入せよ(2/16)

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教育界には、2006年問題と呼ばれている憂慮がある。これは、学力低下を懸念する大学関係者が唱えている問題である。平成11年度高校学習指導要領の改正によって、教育内容が削減された結果、この新課程を履修した受験生の基礎学力が大幅に落ち込み、たとえ受験を乗り越えたとしても、大学の講義についてこれない恐れがあると気が気でないのである。講義についてこれないとこぼすのは、主に理工系学部の教授たちである。大学の講義が理解できない程度なら、そんなに問題ではないが、学生の能力低下は日本の科学技術教育自体の低下を引き起こす。これが問題の仮面である。理工系専門家は、300km/h新幹線やバイクを開発する一方、医療技術も進んで長寿世界一を達成した。中小企業の努力もあって「世界芯記録」も達成したように、自然科学の成果を享受し、ワタクシたちは日々を快適に過ごしている。そうした生活環境を支えている根底にある理数系学問が廃れるとすれば、大問題である。理数系的な人的能力の低下は、国際競争力の低下に直結することから、政府なら、教育政策をまたまた見直さなければならんといい、昭和40年代に先祖返りして、「教育課程の現代化」を復活させるかもしれない。最近ではアメリカのクリントンドクトリン=「国家戦略としての教育」論にも確認されるが、そうした国家単位の競争に、科学が侍従するのはどうでもいい話しである。そんなことより、純粋に人類の科学的発展が耕作されないのは、その最先端にいる教授たちにあっては我慢がならないだけでなく死活問題であるし、ニュートン先生に対しても面目が立たない。なぜなら、自分の専門分野を引き継ぎ一層深めてくれる若者を見出せないのは、その分野の死を意味するからである。これが問題の本質である。文科省の見通しが甘いのは、年金など政府のほかの行政部門と同じであって怪しむに足りないけれども、今回の文政失策はいつもと違う。大上段に立った教育理念から提言したはずの教育課程編成のあり方に、ご本尊東京大学ですら真っ向から反対、批判しているからである。指導要領を超えた出題をすると学長自らいい放ったのはそういうことではないか。大上段の理念とは、いうまでもなく「いきる力」である。本来この力は、理系にこそ必要な力であったはずで、それを東大に否定されたのであるから文科省も面目丸つぶれである。では寺脇氏が悪かったのか。いわば形式陶冶こそが教育の本質であると主張した寺脇氏は文化庁に「左遷」されたけれど、彼のいい分は断じてまちがっていない。ただ教育内容の削減は残念ながら発想を貧困にする。「いきる力」を育む土俵が狭いため、生徒は創造力を発揮する前に停滞してしまうのではないか。また、合科的な総合学習を中心に「いきる力」を養成しようとしたところに、落し穴があったのであろう。個別の教科学習の充実の上に総合は成立すると考えるからである。とすれば「いきる力」を実現する方法論が未成立であったのに、あえて見切り発車したので、2006年問題が浮上したといえよう(2/15)

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なぜ大学にいこうとしたのか。以前にもこの旁午で書いたかもしれないが、ワタクシの場合ははっきりしていた。ワタクシは、無謀にも、新聞記者になりたくて、大学を目指したのである。浪人時代、本を読むことが好きになって、できれば、なにか文章を書いて生きていきたい、そう思ったのが、記者志望理由であった。国語の成績を省みて、文才のないのは当時でも自覚していたから、もの書きとか、小説家とか、およそ作家といわれる職業につくことはあこがれでこそあれ現実感に乏しい妄想であった。しかし、新聞記者なら、長い年月がかかろうと、こっちから一所懸命文章作法を勉強し、かつ先輩から文を書く技を盗んで、なんとかやっていけるのではないかと浅はかにも希望をもっていたのである。だから、ちょっと古いが扇谷正造氏の著書など、むさぼるように読んだし、粕谷稀氏のものも、なにかにつけて読んでいた。扇谷氏の青森における修行時代を知って、ああこんなふうになりたいと彼の人生にあこがれたものである。そのほか、氏が学んだ「我以外皆我が師」的吉川感覚を信奉するようにもなった。さらには、文章そのままではないけれど、「新聞の文章を、人は年齢10プラス社会経験10数年で読みこなしている。だから、内容は別にして、小学5、6年生に理解できる文章を記者は書くべきである」というようなことを氏の著書で読み、なるほどそうしたものなのかと、愉快になったこともある。世相的にはプラトーの80年代終盤、正しいかどうかわからないけれど、個人が社会的な存在として希薄に過ぎると直観していたワタクシは、ことさらに、それじゃあ社会を客観的にみていきたいと意気込んでいた。なぜなら、80年代中盤以降にはじまったバブルを、そう捉えていたからである。社会の木鐸になりたいと、若者は時として純粋さをとりえとして奮起するものであるが、その典型のひとりの馬鹿が、ワタクシであったということである。いまでも蔵書の片隅に、最初数ページだけ読んだ羯南の全集第1卷が埃をかぶっている。このように、新聞記者はワタクシにとって羨望のマトである。うらやましくって仕方がない。ひとつ年下の後輩の女性が、誰でも知っている大新聞社に採用されたのを風に訊いたとき、心底うらやましかった。手のひらサイズのビデオをもって、優作の真似をしている歌手にして俳優が、「いいなぁ」と店頭で商品をすりすりしているシーンがあるけれど、まさにそれである。「いいなぁ」である。よくできる同輩も、ある新聞社に就職が決まり、それを盛大に祝った後、ワタクシは大学から汚い下宿ヘ通じる薄暗い道をトボトボ歩いた。彼らはいまもがんばっているにちがいない。違う道を歩いているワタクシはワタクシにできることだけをしよう。新聞社に就職するには、それ相応の知恵知識がなければ到底無理である。つまりは、そういうことなのである。さて、旁午の読者よ、是非これをやってみてくれたまえ。教員採用試験の1次とも親和性がある。これができれば、自信をもっていいと思われる。この日にちなんだワタクシからのプレゼントである(2/14)

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羹に懲りて膾を吹く、こういう読み方すら難しいことわざの意味を、中学生にもはっきりわかるように実例を示したのが、この度の首都新大学のすったもんだである。怪文書といってもいい「意志確認書」が出回って、文科省もアタフタ、事態の火消しに都と国の境界線上、塀の上で纏を回している。実際、マッチポンプと疑われても仕方がないが、真実は想像するほかない。その意志確認書とは、どういう内容のものなのか。都が4つの大学を統合して新大学の設立を構想し、来春開学に動いていることは周知の事実であろう。その旧4大学に勤務しているセンセイ方に、「今度新しい大学に統合しますけど、ちゃんと移って来ますか」と念を押したいわば踏み絵である。もちろんこれには羹がある。少し前、新法科大学院の設置において、そこに就任予定のセンセイ方が都の方針に反旗を翻し、集団抗議辞職をした。これによって都の新法科大学院は講義担当者が確定せず、開校を延期せざるを得なくなった。入試もすんでのところで実施できなくなった。延期だけならまだいい。はたして抗議辞職した穴を埋めるセンセイが集まるのであろうか。高潔で武士的気概をもった立派なセンセイ方が、一斉に辞めるといい放った大学院である。武士の辞める根拠を作った大学院運営方針を都が変更しないとすれば、そこに後釜として就任することは都の軍門に降ることを意味し、それだけでなく、辞めていったセンセイ方の思想と180度異なる考えの持ち主であることを表明するわけであって、普通の神経なら耐えられないであろう。この羹に懲りてふぅふぅ息を吹きかけ、またヤケドしないかなと確認書送付と相なったわけである。都は法科大学院設立にまつわる武士の一揆という失態を反省し、そこから学習することもなく、こうした踏み絵を踏めというのであるから、新大学の都方針も推して知るべしといえるであろう。センセイ方だって人間である。霞を食っては生きていけない。この確認書の回収を心の中で手を合わせて願いつつ、回答期限の16日を迎えることになるのであろう。いやはやまったく無関係のワタクシですら心配である。首都旧4大学のセンセイ方が集団辞職するような事態は想像の外であるし、もしそうなったら首都圏は今以上に私学の天下になるであろう。まず、父権の復権と心地よい言葉が風靡する中で乱立した都知事選を制し、次に、某家政大の平和主義者に大差をつけて連勝し、強いリーダーシップが要求される都政に「君臨」して2期目、都知事はこれはちょっとなあと思わせる政策、たとえば外形標準課税など、都民に豪腕行政を見せつけてきた。そうした豪腕はマスコミにも容赦はしない。捏造かどうかの判断は司直に委ねるが、テロップの件は間違いだったと平にヒラに謝っているTBSに対し、あかん、キャンキャンいわしてやるといってはばからない都知事だけあって、こういう「意志確認書」の提出を義務付けたのであろう(2/13)

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純ちゃんが国会で力説している教育論のひとつに、「食育」というのがある。なかなかウマイ造語であるし、そのいいたいこともよくわかる。義務教育段階の子どもたちの平均身長、体重が、ともに年を追うごとに伸びているにもかかわらず、昔でいう成人病、つまり生活習慣病が蔓延しているので、そこを是正したいのであろう。発育不全の問題がかなりの程度解決したいま、学校における食の指導は新たな局面に入っている。純ちゃんの意図と関わっているのかどうかまでわからないけれども、栄養教諭の設置も、そうした一連の食に関する児童生徒の危機的状況から立案されたといえる。今後、栄養教諭の配置が進めば、養護教諭と連携し、立ち眩みする児童がめっきり減るようになるであろう。こうした改革は、古色蒼然とした学校給食法の条文を改正することにつながる一方、その条文の不易なところを強調するように変化するのではなかろうか。学校給食法は、「児童及び生徒の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与するものであることにかんがみ、学校給食の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実を図ること」を目的としている。飽食の時代といわれて久しい現代、欠食児童が間々みられた法制定当時と状況が異り、「普及」の点では明文化するまでもなかろう。朝に配達される一本の牛乳を家族で奪い合った1950年代はいざしらず、学校給食では一人一本配膳されるし、確実に給食は「充実」しているといえる。制定当時は、朝やってきた牛乳を半分飲んで、水を加えてフタをし、薄い紫のフィルムを元あったように被せて知らん振りする子どももいたようである。いたずらっ子の生きる知恵である。しかし困ったことに、この「充実」について現代では、保護者が学校給食費を確信犯的に支払わず、学校給食の質的低下を余儀なくされている自治体もある。保護者が給食費を支払わないのは、経済的諸事情もさりながら、勝手に過ぎる。我が子の食らう給食なのだから、文句をいわず払うべきである。変なところで「充実」が阻まれているといえる。これで自治体が給食のおかず数を減らし、その結果給食を「充実」させていないと批判されるのは可哀想である。給食費保護者負担は、同じくこの学校給食法に明記されているからである。さて学校給食は、「日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を養うこと」というように朝昼晩の規則正しい食生活を習慣付けるよう位置付けられている。そして、「学校生活を豊かにし、明るい社交性を養うこと」と、児童が笑顔を見せながら楽しく食事を摂取できるよう指示している。また、「食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図ること」というように、栄養バランスの理解を児童に浸透させつつ、医食同源の見地から、学校給食の意義を説明する。今日のコンビニ食摂取に警鐘を鳴らしているといえよう。最後に、「食糧の生産、配分及び消費について、正しい理解に導くこと」と小さな教室から、日本全体さらには世界の食糧事情にまで想像を及ぼすよう期待する文言で締めくくられる。政治的にあまり同意するところのない純ちゃんだが、こと「食育」については同調するワタクシである。それはなにも、食い意地を張っているからではない(2/12)

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前期中等教育と後期中等教育の教育内容を自由に交換または配分し、生徒の希望に叶った教育課程を作っていい。こういわれれば、学校関係者、保護者を問わず誰しもが魅力的に感じ、2次関数と3次関数など教育内容を連続的に取り上げたり、英語の会話など似通った単元を組み合わせ、一時に高度な教育内容を系統的に学習できたりするのであろうと未来図を連想させる。教育課程の編成の幅に、このような柔軟性が生まれることによって、学校は独自路線を走ることができ、「特色ある学校づくり」を計画する上でも魅力的であろう。こうした編成の柔軟性が中高一貫教育校にだけ認められようとしている。もしこの柔軟性を最大限に生かし、大学入試対応のカリキュラムを組むとすれば、これは保護者にとって願ってもない学校の在り方になる。高校の古典を中学から学べますと宣伝されれば、これは大学受験に役に立つと保護者は勘違いし、その校目指して「受験」が白熱する。現代のぬるま湯のようなカリキュラムが多い中で、ここだけ学問中心カリキュラムでやってます、というようなものである。学校側も売り込み文句を考案しやすい。なによりも学校紹介パンフレットに、多様なカリキュラムを並列明記できるやもしれず、あとは保護者のチョイスに任せますと謳うこともできそうである。表面的には多様な進路を見据えた個性尊重の校風ですと紹介できる。学校の思惑ひとつで、受験重視校に改編できるのである。全国の公立中高一貫教育校118校のうち、このフレキシブルな教育課程編成に手を染めない学校は馬鹿であろう。もし手を付けないとすれば、チャンスをモノにできない学校という悪評判がついてまわるに違いない。なぜなら、普通の高校中学に認めていない、こうしたかなりの特権を無視して、なんのための中高一貫教育なのか、と必ずや批判を浴びるようになるからである。しかし、このチャンスの波に乗れない中高一貫教育校が出現する可能性は高い。なにしろ、これだけ編成の自由度をあげるわけだから、そこに勤める教員たちは、闇夜の中を手探りで進んで行く冒険家の心境を味わうのではなかろうか。いまのところ前期中等教育に入学する段階で学力試験が課されていないのであるから、教育対象の学力を把握せず夢のような教育課程を編成せよと世間から要求されたって、これはキリキリ胃が痛くなる作業であろう。なにかお茶を濁したような教育課程を用意するのが関の山である。そしてこうした前例のない、創意工夫を加える編成は、そえゆえにこそ中高一貫教育校間の連携を密にする。独自路線はどこ吹く風、中高一貫教育校連合教育課程研究会のようなものができ、そこでモデルカリキュラムがしあがり、それを各学校が持ってかえって簡単に塩胡椒するお手軽料理的教育課程となるのではなかろうか。前例のないものに、ことのほか日本人が恐れるが、それは進取の気溢れる教育界にも流通している廃棄すべき官僚的体質である。将来エリート教育を担当することになる中高一貫教育校のお手並み拝見といこう旁午では、気になる記事やためになるサイト、あるいは息抜きのサイトを、毎日ひとつ冒頭にリンク〔新しいウインドウが開きます〕しています。また、旁午は毎日更新でi-modeでも見ることができます。ただし、1行目のサイトをi-mode版ではリンクしておりません。その紹介サイトのすべてがPC対応サイトだからです。http://www.liberalarts.cc/i-mode-hibibougo.htmlを入力して下さい。なお、yahoo!モバイルにディレクトリ登録されていますので、そちらからもアクセスできます(2/11)

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