日々旁午

2004


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慶応にしても、フェリスにしても、入学試験問題に間違いがあったり、ヒアリングの文章がそのまま印刷されていたり、やる気あんのかと大学受験生からものいいが付く当代入試事情である。トルシエ氏の前に岡田氏がワールドカップにいったのを知らない大学もあるようである。一方、大学側に責任が全くない事件であるが、山口大学の入試当日における爆破予告があった。これは未遂に終わったものの、3000人近い非難を余儀なくされた受験生は、気が気でなかったであろう。試験終了のベルが爆破の合図かもしれないと考え込んでしまえば、普段の実力を発揮し難かったかもしれない。ところで大学入試問題は、一体誰が作成しているのであろうか。ワタクシなどは、全国模擬試験を作成したことがあるくらいである。大学入試問題だと、慎重の上にも慎重に、受験生の間でなんら疑念が発生しないよう、また、周囲に漏洩がないよう、場合によってはホテルに作成チームがカンズメになって作られている。たとえ同じ大学の教授同士であっても、この件については完全黙秘である。極秘機密である。問題作成者の氏名がわかれば、漏洩に直結し、金が動く事件になるからである。日大医学部入試問題が予備校に流れたのは、そうした経緯であろう。様々な不手際や裏口などの事件が後をたたない入試事情だけれども、それは原因と結果の関係が調べによって明らかになるし、失敗は反省すればいい。だが、自民党のものいいは、一味違う。「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」かなんか知らんが、そのこわっぱ政治力をもって、大学入試センター試験の問題作成者の氏名を一定期間後明らかにするよう文科省に圧力をかけた。このこわっぱの背後に大物がいるであろう。弱腰の文科省はその圧力にすぐさま屈し、作成者氏名公表と相成る。屁のツッパリにもならない。政治は透明なのがよく、入試は不透明なのがよいのである。非公開原則を破って、氏名を明らかにするのには、もちろんわけがある。自民党は、「強制連行」という世界史の表現が気にいらないのである。この言葉を、しかもこの時期に使った作成者が気にいらないのである。「強制連行」が歴史的事実であるのは、歴史学者の間ではいうまでもなく、それをセンタ−試験に出題したとして、何の問題があるのか。自分の気にいらない問題を出題したのは誰なんだ、と鬼ごっこの様相である。これではそのうち作成者は皆ソッポを向く。センタ−試験作成の仕事は、御用学者の専売事項になる。とすれば、出題者を調べるのはかなり容易になり、入試の公平性が崩壊する。進路指導の先生はそこまでできないかもしれないが、受験産業はそうしたことも含め、メシを食っているのであるから、お茶の子さいさいである。自民党の政治的思惑から、教育、中就、入試作成をつつくのは、政治権力の教育行政への不当な侵入である。こういうことをしていると、自民党とタッグを組んで次の検定機会を虎視眈々と待ち構えている「新しい歴史教科書を作る会」などが、頭をもたげてくる事態になりかねない。ワタクシたちは、家永裁判の古きよき実績をもっている。入試問題作成において、これとよく似た裁判を繰り返す愚を、将来おかすべきではない(2/29)

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やまとはくにのまほろば、万葉の故郷といっていい奈良で、新しい試みが行なわれようとしている。ひとつは、英語教育の導入である。もうひとつは、なんというニックネームなのか存じないが、大阪府でいう、まなびングサポート事業の奈良版の開始である。まず、英語教育の導入。これは奈良県教委の英断というか、なんというか、こういうことが自治体単位で実現することに地方の自由化をみる一方、教育内容の全国的な均衡の観点からは批判がでる冒険であると評さなければならない。ご承知のように、経済特区では、例のどぶろく認定などがよく知られている。それと同様に、教育特区を政府が指定し、指定された区域では研究開発校なみに、先進的な教育実験をすることが許可されているのである。今月3日、この旁午で紹介した「浮き城のまち人づくり教育特区」もその一例である。ところが奈良は、政府から特区の指定を受けたわけでなく、恣意的に導入するというのであるから、コリャ、出し抜かれた、こんなんええんか、という思いの委員会も多いに違いない。来年度から、奈良全県に10校だけ、低学年に英語を導入する。ホントのところ、この法令的裏付けはどこにあるのであろうか。小学校指導要領の科目設定に当然、英語はないのである。現実的には総合学習の国際理解として、英語を導入している小学校が多いので、そうそう問題化しないと奈良県教委は判断したのかもしれない。横紙破りのこの試みは、教育委員会同士の競争に拍車をかけ、「それならうちも」と乗り出す教育委員会が全国に発生するであろう。こうした国の対地方掌握力低下は、教育内容の自己決定を自治体さらには各学校に迫る。地方の実態をよくわかっていない国は、地方の教育行政にくちばしをいれるべきではない。しかも、規制緩和、自由化の潮流からすれば、政府は監督強化するのではなく、奈良には何もいわないのではないか。初等中等局長の名で「ちょっと待ってや」と努力義務的に通知する程度に終わるよう望む。学習指導要領が守護してきた「全国水準」の形骸化も、ここに極まれりである。国民の教養水準は義務教育の保障する事項ではなくなるのであろうか。その奈良は、第2に、学校教育活動支援事業を出発させる。こちらは奈良市教委の試みである。近年、こうした現役大学生を学校現場に動員し、正規教員を手助けする事業が流行している。大学の最終学年に、長くて3、4週間の教育実習では、教員志望を意識するのに遅すぎる。したがって、大学に入学した頃から学校現場に親しみ、教職への道を深く自覚させたい。こうした大学側の希望と、意欲ある若くてピチピチした教員がほしい奈良市教委の思惑が一致したところに支援事業が成立した。あとは、現場がどう感じるかである。派遣された大学生を「お荷物」と思うか、即戦力ではないのだから、長い目で鍛えてやろうと指導教官が燃えるのか。いずれにせよ支援事業はどんどん進めるべきである。しかし、奈良は、「南北格差」ある県である。十津川や下北山村など南部は取り残される。都のエンクロージャーのごとく、この支援事業に参加しない、あるいはできないからといって、教職希望の学生たちを選別するような腐った方針をとらないようお願い申し上げる。もしそんなことをすれば、開放制の理念は揺らぎ、奈良は消灯する(2/28)

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ワタクシはちょっと用事があって参加してないけれど、ケリー氏、藪中氏、李秀赫氏、ロシュコフ氏、金桂寛氏、そしてホストの王毅氏たちで、宴、たけなわである。6カ国協議が北京・釣魚台で開催されている。中国国営中央TVは、その開幕の様子を6カ国語で伝える熱のいれようである。それも国際社会の政治力学を考えた上での演出だろう。中国は、アジアの将来をアメリカとの協調体制でやっていこうとするのか、それとも別の道を用意しているのか、その意向も、北朝鮮問題を梃子に、この6カ国協議においてあらわれることと思われる。6カ国協議に先立ち、国連事務総長アナン氏が我が国会で演説し、拉致問題にも言及した。この演説についてはもっとマスコミは報道してよかったのではないか。ブッシュの演説より、インパクトがあったとワタクシは感じている。なにしろ本来、世界を調停する政治的な最高存在だからである。日本政府は、国連中心主義であることをアナン氏取り込み策で国民に訴え、かつ、アメリカとの一枚岩体制であると観察されている日本のペット的立場に対する「誤解」を、国外に少しでも解こうとする演出をやってのけたのである。彼を担ぐほどに緊迫した東アジア情勢といえようか。国連で日本のことを「JAP」と呼んだ北の代表の振る舞いは、国際社会から失笑を買った。それをアナン氏は目撃している。こうしたアナン氏の心情をも国会を通してワタクシたちに見せようとしたのであれば、自国に有利な外交交渉の出発点に彼の演説を設定した日本の政治手法は、なかなかのものかもしれない。これは、日本政府の国内的対策でもある。また、藪中三十二氏と新しい北の外交代表金桂寛氏とが80分も話し合った。日本と北朝鮮の間の2国間協議も継続される様子である。美味しいものを食いながらの事前協議も火花を散らしながら終わったようだし、その裏で、アメリカは「人権報告書」を公にし、北朝鮮を人権無視の最悪国と断罪した。この「報告」は、情報統制のため、北朝鮮国民には決して伝わることはなかろうが、北の政府高官に反省を求める材料になりはしないか。自国の体制に嫌気がさし、黄氏のような大物の脱北の可能性が高まったといえる。さらにこの「報告」は、中国やロシアにも批判的に言及し、6カ国協議の主導権を握らんとするアメリカの代表を援護射撃している。中ロもいれて5カ国による北朝鮮包囲網というといいすぎかもしれないが、日本のいわゆる対北経済制裁外為法の制定も含め、かなりの程度、北朝鮮は追い詰められているといえる。濃縮ポンジュースならかわいいもんである。しかしことはウラン濃縮計画であるので、カーン博士の言質をとったアメリカでなくともやっきになるのはわかる。韓国は緊張し、板門店の防衛線上は大変であろう。民族対立は避けねばならないが、日本も人がさらわれているのであって、一歩も引いてはならない。それが現在の日本国民の感情である。6カ国協議の終着駅は、たんに核問題の平和的解決、つまり北を暴発させないこと、に止めてはならないのではなかろうか。金正日体制の崩壊⇒民主的体制の開始、あるいは百歩譲って中国的な「修正」した「民主集中制」の開始でなければならない。その第1歩が核と拉致とが議論の俎上に登ったことではじまったにすぎない。しかし、アメリカ的価値が全く以って正しいかどうかも議論の余地がある。東アジアのデタントは22世紀なのであろうか(2/27)

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市長選ライバルから、選挙結果が出た後に大阪城天守閣名誉館長の肩書きを奪ったことで、報復人事と噂された新しい大阪市長関氏であるが、その教育行政の公約は陽の目をみようとしている。市は今年の春から3年かけて、市内の全小中学校において習熟度別学級編成を実施するらしい。習熟度別学級編成は、小学校高学年と中学2、3年生の積み上げ系教科に導入されるようである。こうしたクラス編成は、児童生徒を目に見える形で「区別」するものであり、児童生徒の間で、優越感や劣等感を味わう事態が必至となる。だから、どのようにしてクラス編成をするのか、保護者も児童生徒も気になって気になって仕方がないところであろう。我が子はどっちに入るのか。その点、選択権を児童生徒に保障した市の姿勢は正しい。よかった。なぜなら、政令都市規模でおおがかりにクラス分けする以上、「区別」はテストの点数で割り振りされるのではないかと心配していたからである。児童中心主義の立場からいっても、選択権は当然児童生徒に与えられるべきである。みずから、「先生、ぼく算数わかれへんねん。もうちょっと教えて」といいにきて、みずから「Bクラス」を選択するようもっていかないと、ギスギスした学校運営になりかねない。同一学校内において「区別」、「区分」を実施した結果、おうおうにして失敗したケースを近代日本教育史が教えてくれている。児童生徒の自主性を尊重しつつ、そのうえで、是非とも時間をかけて児童生徒の学力の伸びを再追跡するべきであろう。それが「関心・意欲・態度」を第一に評価する姿勢である。ところでしかし、いいにくい「もうちょっと教えて」の言葉を胸に、職員室に足を運ぶ児童生徒の学習意欲は、大変強いのではないか。それだけでも「A」に値するのではないのか。そのように教課審はいっているのではなかったか。どうやら現場の実態と保護者の思いと政府の教育行政と、考えていることがバラバラの感じがする。学校現場は、上から下まで学力差ある児童生徒をたくみに組み込んで学級開きしてきた。そうしたクラスで個性がぶつかり、問題が浮上してもなんとかやってきた。そうした「なんとかやってきた」状況が崩壊した、そう現役の先生方は自覚しているといえる。学年成績分布のふたこぶラクダ状況は、もう数年前からの解決すべきテーマであった。新幹線と753理解を反省し、ラクダからせめて馬の背までに復活させたいものである。保護者は、いつの時代も「我が子命」である。そしてそれはいつの時代であっても正しい考え方である。市は、相当の覚悟で習熟度別編成導入に踏み切ったのであるから、保護者は今回の「区別」を快く受け入れ、公教育を信頼する態度をもってほしい。市教委は責任重大である。今回の試みが成功するようおおいにワタクシは期待している。仲がいいのかどうかわからんが、市教委の成果を市は喜んで府教委に伝え、次には府全域で習熟度別学級編成が実現するよう要求したい。府全域でこうしたメリットある「区分け」運営が成功するよう府民は望んでいるであろうからである。ただ、市には釘を刺しておこう。4億円かけて非常勤講師を雇用するのではなく、新採を増やしてくれ、と(2/26)

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ようやくではありますが、こうちゅうさんが「うしろのこくばん」に書かれた疑問について答えます。その疑問あるいは質問とは、そのまま引用すると、「毎日(?)情報収集をどうやって(手段・方法)どのくらい(時間)されているのですか?」というものです。@手段・方法について。これは、情報ソースをどこから得ているのかということでしょうが、もちろん、インターネットからです。ワタクシは、国内の大新聞、地方新聞、海外のメディア合わせて300近い新聞社、個人の新聞的運営サイトをブックマークしています。そのほか、みなさんも講読されているように、毎日新聞社発行の「毎日教育メール」、讀賣新聞社発行の「よみうり教育メール」を読んでいます。これら2つのメールマガジンは、無料ですし、教育情報に焦点をあてて編集されていますから、教育に限定した情報を得るにはもってこいでしょう。西日本新聞社のは有料ですからとっていません。こうした情報ソースの中から、教育にかかわる報道、解説をメインに、政治、経済をサブとして、情報収集しています。300といっても、日常的に見ているのは10紙ほどで、そこにうかがえる微妙な主張の違いやイデオロギーの違いを客観的に把握しつつ、自分の主張に活かしています。ADSLの常時接続ですので、産経新聞の即時的報道はよく見ます。ところで実は、ワタクシ、新聞をとっていません。1年以上前に止めました。ネット利用料金が定額かつ24時間なのですから、ワタクシにとっては不必要になりました。嫁はんは、スーパーの安売りチラシが来ん!といってプンプンしていましたが。その嫁も、今ではネットで食料品注文しています。ははは。報道の解説も、検索を活用すれば、こと足りますし。そういう意味では紙媒体は姿を消す運命にあるのではないでしょうか。A時間について。これはそうですね、新聞記事を読むという点では、みなさんと余り変わりなく、1時間くらいでしょうか。1つのテーマ、たとえば、昨日、一昨日でいえば障がい者問題についてとなりますけれど、これに関する記事を5つくらい集中して調べ、読みます。しかし、それでも10分くらいでしょう。ただ、旁午そのものの文章を構成し、書くのは時間がかかります。基本的に、ワタクシのPCのリチウムバッテリーが終了するまでに仕上げるのを目標にしています。ですから、1時間10分まで、ということになります。この時間内に書きあげ、再度、深夜の更新前に読み返します。文意がおかしいときは、更新前に直すわけです。以上で、こうちゅうさんの質問に回答したことになるでしょうか。では、どうして旁午を書いているのか、その理由について書きましょう。教採受験生のため、といいたいところですが、1番は自分のためです。正直でしょう(笑)。自分がどれほど文章を書けるのか、挑戦しています。もっともっと日常の仕事が忙しくなればどうなるのか、止めると思います(笑)。あるいは従来のスタイルに戻ると思います。誰かに頼まれて金をもらってやっているわけではないのですから。それから、もうひとつ本音をいえば、「こんなこと書いている奴はどんな男なんだろう」と読者に思わせることにあります。定期勉強会を開くにあたって、「あんなボロクソに書いている奴を見てみたい」と宣伝的意味もあります。また、論作文道場の投稿者に、「こんなふうに書いている人に添削してもらいたい」と思わせる意味ももっています。そして、読者を獲得できなければ、ああ、趣味が違うんだなと思うことにしています。こうちゅうさんとは、はじめて勉強会でお会いしましたが、どんな印象でしたか(笑)(2/25)

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黄金細工を誇らしげに作った竹下政治下のくだらない「ふるさと創生」手法を採用せず、地に足ついた郷土活性化に燃えている改革派知事が多い。主のいないサッカースタジアムやお荷物箱物の後始末に頭を抱えている首長もいるが、「地方の時代」というよりもむしろ「知事の時代」と、標語の名称を変更してもいいであろう。地方財源一部独立化や道州制への地方区画再編が取り沙汰される包括的な行政改革プランを背景に、良くも悪くも改革の先鞭をつける地方の動きが加速してきた。その実施者のひとり宮城県知事浅野氏は、宮城県警とやりあった「実績」もあり、マニフェスト男北川氏が三重を降り早稲田に帰ったいま、信州ヤッシーとともに改革派の旗頭的存在であるといえる。その浅野氏が、あたためていた改革案である知的障がい者入所施設の撤廃を、「アメニティーフォーラムinしが」において提言したようである。この提言は、一部、障がい者教育および障がい者施設関係者にあっては、年来の主張であったが、その反面、実際にこう提言されて、行政の行き過ぎを警戒する声もちらほらあり、様々な反響を呼んでいる。世界的な障がい者にまつわる議論は、福祉先進国スウェーデンを震源地とし、ノーマライゼーション理念の普遍化の方向に舳先を切っている。これに同調し、フットワークよく宮城は、脱施設を標榜して1800人余りの障がい者が「コロニー(植民地!)」ほか施設を出て地域に生活の拠点を築けるよう支援するようである。この方向性は、人間の存在を考える上で重要な示唆を与えるものであり、また社会の在り方として理想に近い。しかしまた福祉行政の充実は、ワタクシたちの強い願いでもある。施設を含め強い願いであるのに、是非とも削減しなければならない行政分野財を削除するのではなく、福祉行財政にヤスリをかける自治体は、慢性的な財政赤字を解消するもってこいの財として施設をみているのかもしれない。つまりこうした宮城提案を「奪施設」と捉えている批判者も存在するのである。理念と現実が施設を舞台に拮抗している様子である。はたして障がい者を受け容れる社会は、どのような意識的準備をしているのであろうか。グループホームについては「うしろのこくばん」で議論があったけれども、そこでは、グループホームがまだまだ問題を抱えている形態であることが書き込まれていた。いみじくも三木精愛園の責任者が、「まずは軽度や中度の人たちが地域に出て交流を深め、障害者への誤解を解いてから、重度の人も受け入れてもらうという段階を踏むべき」(朝日新聞) といっているように、しかも天理の教員のような意識の低い人間が、この責任者の言葉を証明するように、障がい者に対する「誤解」を解けるかどうか、「誤解」といわざるを得ない社会の偏見的状況を打破できるかどうかに、障がい者との完全な等生がかかっている(2/24)

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ふぅ〜。昨日、一昨日のつづきとして、宮城方式あるいは宮城提案の検討に進もうとしたのであるが、それよりも先に、一部改正された学習指導要領の問題編をアップした方が教採受験生の利益になると考えたので、そちらに力を注ぐことにした。さすがに高等学校の指導要領の一部改正のアップまでには至らなかった。それは明日にでもなんとか処理したいと思っている。ご寛恕を乞う。だいたいの変更点は、数日前のこのコーナーで解説したので参照されたい。この欄の上のグーグルを使い云々の辞書エンジンで検索すれば、すぐに該当ページに到達できる。今回の修正では、ずいぶん細かなところにおいて追加されている文言があるので、注意深く見ていただきたい。文科省サイトに新旧対照した変更点一覧がある。これも見るべきである。というより、そちらを先に見るべきである。この改正が1次試験に出題されるかどうかは微妙である。だが、押さえておいて損はない。ただ、試験にでるでないに応答し、損得勘定から読むというよりも、指導要領は本当に大切な資料であるから、教育のことを考える大人として、国民として、一読することを望んでいる。今回の指導要領の改正は、現状を煮詰めて再理念化した意味で、平成教育思想の変質を表現していると思う。改正について、ヒントをいえば、社会教育とのかかわり、総合学習のねらい追加、指導方法・指導体制の変更点についてどう考えるか、そこがポイントである。したがって、社会教育法の改正についても、そのうちi-mode用のポケット法規集の改訂をしなければならない。各教科の変更点もあるやもしれないが、それについてはワタクシはチェックしていない。これについても文科省のサイトで確認されたい。まあ、大幅な変更はないみたいだけど。サイトが常に新鮮さを保つには、やはりこうした改訂を加えていかなくてはならないが、どうしてもひとりでは遺漏、粗漏があるはずである。どうか、閲覧者のみなさまの批判的な目をもって、テキストクリティックしていただきたい。誤字、脱字ほか、訂正すべきところをメールにて伝えていただけることを望んでいる。年度末を迎え、講師をされている方などは成績処理、来年度への展望と、大変な時期であるけれども、指導要領の確認のほか教採の勉強は勉強と切り離して捉え、日々の学校業務に埋没しないよう学習を少しでも進めるのが大切であろう(2/23)

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昨日のつづきである。障がい児教育は、今日、大きな変貌を遂げようとしている。それは、最近では、平成元年の指導要領が特殊教育諸学校を含め全校種に改訂を加えたときにはじまり、「特殊教育」から「特別支援教育」へと、大きく枠組が変わる変貌であり、その線に沿って、日本全国に993校ある特殊教育諸学校が、改革の波に洗われようとしている。改革の基本的立場は、障がいが先に認識されるのではなく、人間が先に認識されるPersons with disabilitiesの発想を貫く姿勢であって、障がいを法規がむごく表現している「欠陥」ではなく、個性として捉え、その個性をどのようにして伸張していくか、障がいに応じた教育的ニーズに密着した支援をしていこうというところに特徴がある。この立場から、いままで位置付けが不明確なままであったLD(Learning Disabilities・学習障害)やADHD(Attention Deficit Hyperactivity Disorder・注意欠陥多動性障害)、高機能自閉症の子どもたちに対する指導の見直し要求もポツポツ出はじめており、彼らの自立と社会参加をも、指導の視野に入れている。とりわけ特殊教育の高等部に進学する生徒数が増えている昨今、障がい者の社会参加を経済的自立つまり就業と絡めて指導することが一層期待され、従来の鍼灸への道や歯科技工への道のほか、多様な就職先を開拓、確保しなければならない。知的障がい養護学校が、簡易作業を企業から下請けまたは委託され、またたとえばパンを焼くなどの就業体験をし、社会へ旅立つ準備運動をしているけれども、こうした注文受け付けが不景気の中、頭打ちになっている現状からすれば、企業の倫理的協力体制を信頼するだけでは苦しい。知的障害者の雇用を条件付ける福祉保障的社会体制に頼り切るのではなく、特殊教育諸学校は独自な就職支援を推進する態度が肝要である。歯科技工士への道を拓り開き、全国から入学応募が殺到した堺聾学校の歴史的業績はその意味で特筆されるべきであり、そうした先生方のなみなみならぬ生徒への熱い思いが、さらに増幅されることを願っている。その点では、学校教育卒業後の社会福祉施設との連携も考えられるべきであろう。実際に先んじて、交流や特別支援など特殊教育理念が高唱されるのは、それはそれで結構なことである。理念が現実を批判するからである。だがもっとも大切なことは、障がい児教育や障がい児に対する社会や教員の意識革命ではなかろうか。いくら高級な言葉が唱えられようとも、指導する教員の意識が低ければ、天理市のように、ある教員のレベルの低い発言が校長の自殺をも招くのである。こ奴は人間的にしょうがない奴だろう。こうした事件は教員界の恥部であるが、それだけ特殊教育への偏見が根深いことを示している。そしてこうした偏見は他のあらゆる心理的差別と根を一にしている。この議論は、明日の旁午につづく。たとえば、宮城の取り組みをワタクシたちはどう受けとめるべきなのか。果たして障がい児の教育を受ける権利や成人した障がい者の自立は宮城方式で問題がないのであろうか。検討を明日へ譲る(2/22)

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いやそれにしても、わからないことは本当にわからないまま過ぎ去るものである。45年の長期にわたって違反を自覚しつつ、北海道北見市は就学「時」健康診断を実施してこなかったのであるから、よくもまあ、問題が発生しなかったものである。医療診断の性格から考えて、「問題」とは子どもの生命にかかわる「問題」である。1958(昭和33)年施行の学校保健法は、その第2章4条において、市町村の教育委員会に、就学に先駆けて健康診断することを義務付けている。ワタクシは、この診断が実施される時期が、子どもの入学する4ヵ月前までに完了しなければならない義務であるので、就学「前」健康診断と理解し、あらゆる場面でこういってきた。「前」なんだよと。こうした思い込みは恥じねばならない。反省する次第である。しかし、そういったのには理由がある。健康診断が実施されるのは、まさに入学前年の11月30日までと規定されているからである。まさに4ヵ月も「前」に医者が子どもたちを診るからである。言葉の使い方には慎重を期さねばならないが、法規上、就学「時」なので、今後はこれで通すことにする。それが、過てば則ち改むるに憚ること勿れの論語精神を引き継ぐ姿勢である。こうしたワタクシの誤認識も、「わからないことは本当にわからないまま過ぎ去るものである」の一例というほかない。ところで、ことは障がい児教育にもかかわってくる。この辺りがよく問題化しなかったものである。実は、我が子が「他人と違う」ことを公的に突きつけられるのが、特殊教育諸学校への入学通知書である。公園デヴューした保護者は、入学以前に砂場で他の子どもたちと一緒に遊んでいる我が子の姿をみて、「普通」の子と変わらないと思いきかしているのである。それが一通の通知書の落手によって、その保護者の「思いきかし」が崩される。4ヵ月前に行われた健康診断問診票を基礎資料とし、医者と障がい児教育の専門家などによって組織される就学指導委員会が、1月31日までに就学先を決定するのである。2月初旬、家庭に通知書が配達される。その後、保護者は教育関係行政職員ともろもろの議論を繰り返し、我が子の進路が確定する。特殊教育諸学校へ通うことになれば、充実した自立活動を含む教育課程を享受することができる一方、砂場で遊んでいた他の子どもたちと決別することにもなる。砂場の思い出は交流教育で再発見されるのを待つほかない。では、北見市の特殊教育行政は一体どうなっていたのであろうか。上のように就学時の健康診断に基づいて、子どもたちが小学校に行くか、特殊教育諸学校に通うか判別される。とすると、北見には障がい児がいなかったということなのであろうか。それとも科学的な医療診断も下さず、保護者や子ども本人と健康相談もせず、道が指導権限を持つ特殊教育諸学校に入学させていたのであろうか。洒落ではないが、どうも腑に落ちない。たんに医者関与のない調査票で処理していたのであろう。検診不実施は地方財政逼迫が原因ではない。そうだとすれば45年間、財政が苦しかったということになるし、それは北見市民を納得させる理由にはならないであろう。医者不在問題が一定程度解消されたいま、北見市の行為は、たんなる手抜きであるといわなければならない(2/21)

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