日々旁午

2004


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よかったというべきか、インフルエンザではなかった。まいった、まいった、風邪である。それにしてもヒドイ風邪で、39度も熱がでるとはどういうことだろう。月曜日の朝一番に医者へいって、午後からの講義に備えた。1にスイミン、2にストナと象にのった女優が微笑むが、売薬は効かない。それに比べ、医者の処方した座薬は魔法のようによく効く。ウソのように熱がひいていった。座薬で解熱はしたものの本質的に風邪の菌を殺したわけではないので、うつす可能性はある。学生に風邪をうつしたらあかんなと思いながら、表面上37度くらいに熱が下がったので、休むこともできない。こういうときは授業を後日に振り替えして休む方がいいのであろうか。かなり悩んだが、インフルエンザではないから、感染率が低いことを信じ、家を出た。行きの電車の中で、じっとり汗をかいているのを自覚していた。横に座る乗客には悪いけれど、こんなとき「ワタクシ、風邪です」と告白もできない。医者によると、セキ、鼻水、ノドの腫れなど風邪の諸症状が出ていないので、インフルエンザかなと疑ったらしい。しかし鼻腔の粘膜検査の結果、医者も、そばからのぞきこんでいたワタクシも、インフルエンザを示す直線を検査紙に確認できなかった。血液検査もしてもらったのであるけれど、ホンモノの風邪らしい。白血球5800とこれは正常範囲だそうであるが、炎症反応は2,2で、この数値は正常値の4倍を指している。つまり異常である。かなり身体が炎症にさらされているということである。するとシンドサも通常の4倍ということか。そのほかは、赤血球は500万近くあって良好であり、ヘモグロビンも正常値であった。はたして昔の人は、風邪をひいたときどのように治療していたのであろうか。江戸時代、医者は「くすし」と呼ばれていた。「薬師」、くすりしが縮まった表現である。だから医者の仕事は薬の処方以外にほぼない。薬といっても抗生物質なぞあるわけないし、漢方系のそれしかないから治癒するにも相当期間が必要であったであろう。とすると、風邪であれば、それでも数日いいもの食べて寝ていればなんとかなったであろうが、伝染病などはどうであろうか。お百度参りをしてすがるほかなかったのではないか。詳しく調べたわけではないが、幕末期、コロリが流行した。コレラである。ばたばたと人が死んでいったらしい。有効な治療法がなく、瀉血で対応したようである。こうした状況を想像すると、いまさらながらにワタクシたちは、現代の医療に感謝しなけらばならない。ところでインフルエンザは潜伏期間が2日間程度で、その期間が過ぎればすぐに熱が出るらしい。今年の冬はかなり流行しているらしく、大阪ではインフルエンザによる学年閉鎖も多いようである。閉鎖の発動権は学校保健法によると学校の設置者にある。鳥も豚も人間も、インフルエンザである。困ったことである(2/10)

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フラフラしてて熱をはかれば39度、さすがにシンドイ。インフルエンザかな。以下の文章には分厚くワサビを塗っておきました。ご賞味あれ。今晩9日分の更新は、熱が引けばがんばって書きます。でも期待せんとってね、フラフラだから(2/9)

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ワタクシは、人など裁けない。裁く自信がない。全知全能の神でもないワタクシが同等の人間を裁くことなどできない。だがひょっとすれば御呼び出しがあって裁く立場に立たされるかもしれないのである。政府の司法制度改革が着実に進んでおり、数年以内にアメリカ的な陪審員制度が導入されるようである。日本ではこれを裁判員制度といっている。刑事裁判に判決を下す極めて責任の重い仕事に、国民は耐えきれるのか。古くは太政官布告に対しありがたくハハッーと頭を下げて受容し、欽定の憲法を素晴らしき哉、東洋初の憲法よといって中身を読まずに奉る。そうした歴史は、兆民など数少ない政治的イデオローグをのぞいて、国民の権利意識や法意識の低さを残念ながらあらわしており、それらの意識は大正、昭和と引き継がれ、経済成長の裏で一層希薄になり、現代に至っているのではなかろうか。たとえば元総理森氏の、投票に行かず家で寝ておればよい発言が記憶に新しいが、この発言を許す精神的な雰囲気が国民に存在するがゆえに、出るべくして出たといっていいであろう。逆にいえば、森氏の心に権利意識が低い日本人という愚民観があるから、ポロっと出たとみてよい。この発言に対する反発はほとんどなかった。あったとしても夏の花火と同様であった。河岸を代えてブレアが議会発祥の地イギリスの国民にこの言葉を発したら、あきれてイギリス国民はイスから引っくり返ってしまうにちがいない。どのような権利であれ、国民自らの手で権利を獲得した経験に乏しい日本人は、森氏の発言をも不問に付すお上意識が根強く残っていると反省せざるをえない。この発言が世界に報道されていたとすれば、これを耳にしたヨーロッパ人たちは、なぜに日本人はこうもなめられておとなしいのか、信じられん、と吐き捨てていることであろう。一人ひとりが投票を行使できる参政権の意識=基本的権利意識でさえこのように低いのに、はたして人の一生を左右する刑事裁判を担当する法意識を保てるのか。だが、ワタクシたちは自己の権利に関する歴史的な出生の秘密を暴いたところで、ジクジク反省こそすれ成長がない。ではどうすれば法意識や有権者意識を伸張させることができるのであろうか。それは教育以外にはない。しかしそのための教育も、つまり公民教育も、戦後一貫して実施されてきたはずである。それは哀しくも森発言を促す公民教育であった。義務教育段階で国民に公民教育を根付かせる努力は、今度はじまる裁判員制度のために継続強化される見込みである。法務省「法教育研究会」は法教育に意欲的な教員の充実を願っており、かつ法教育のための学校教材の作成に熱を入れている。是非とも今までにない有効な法教育への舵取りを期待する。それから、それとは別に、法務省には、はっきりと裁判員拒否の権利も条文化するよう願いたい(2/8)

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遠く海外に目を向けてみれば、こういう問題もあるのだなあと、日本ではそうそう起きないデモに驚かされる。ヨーロッパは奥深いラトビアの首都リガで教育が揺れている。義務教育を母国語で統一するか、ロシア語で教授する選択の余地を大幅に残すか、議会は母国語ラトビア語で教育する決断を下したものの、この政策に反発するロシア民族系ラトビア住民の子どもたちが自らの権利を守るために立ち上がったのである。その規模は大きく、1万人以上からなる集団授業放棄を敢行し、10歳前後の子どもたちが手に手に統一反対表明のプラカードを掲げ、政府、議会に詰めよった。一見、かわいい行進が厳しい顔つきをして民族的要求を突き付ける。当然、保護者も一致団結している。母国語を尊重する彼らの民族的態度には、他に譲れぬ気概が認められ、その背景には、文化と伝統を織り成してきた母国語に対する誇りと敬愛の歴史がある。それを政治的、人為的に剥奪されてはたまるものかという自己主張は正当性を失わない。不羈独立の息吹が教育を梃子に澎湃とし、あるいは民族自決の運動に発展するかもしれない。かわいい行進は、ネーション形成の要因に、言葉を同じくする人びとの団結があるということを教えてくれたといえる。そこには、ほのかにナショナリズムの香りが起ち込めている。民主主義のルールは、自由なようで自由ではない。公正なようで公正ではない。法の支配を貫徹せず、51対49でも勝ちは勝ち、負けは負けであるならば、有権者実数が少ないかぎり彼らの主張は政治的に通るはずもなく、その誇りも踏みにじられる。残された道が物理的蜂起のほか手段がないならば、事態は深刻である。ラトビア含めバルト3国は、スカンジナビア半島を正面に迎え、おそらくはパイレーツと激戦を繰り返しながら、バルト海からの豊富な海産物の恵みを受け取ってきたであろう。また、北方戦争を戦った勇者ぞろいであっても小国ゆえ大国の軍事力に屈服し、USSRにいやいや服従していたのであろう。こうしたたくましい海の人としての国民性は、USSRからの離脱を求めた東欧の民主的運動でも先陣を切ったお国柄が示すとおりである。とすれば、ペレストロイカ以来、USSRから独立したラトビアには、言語問題というさらに分裂する火種が燻りつづけていたということか。ここにきてまた国民を統合してきた接着剤が溶けだし、新しいセメントを必要とするのか。そうだとすれば、ひとつの疑問が浮かび上がる。ラトビア在住少数ロシア民族、といってもラトビア国民の3割を占めるのであるが、10数年に渡ってそこを離れなかった。なぜ、離脱以前にロシアへ入国しなかったのか。住み慣れた地を去ることができなかったという理由以外に何があったのであろうか。ワタクシは、ラトビアには生涯行くことがないであろう。だが、その地に住む住民や文化には思いを馳せることができる。かわいい行進が実を結ぶことを期待している(2/7)

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子どもの将来の就学先を視野に入れ、住宅を新築したり、マンションを購入したりする若い夫婦が増えている。分譲であれ、賃貸であれ、売り手の方の不動産会社の張り紙にさえ、通学区域が赤書きされているほどである。ちょっと前なら、駅近かで車庫があり、陽あたりよく、手頃なスーパーがあれば、すぐにでも契約書作成の打ち合わせとなったはずである。ところが事態は変わった。より豊かで安全な生活環境を求めて、裕福な家庭は住居選択に際し学校選択をその主たるポイントにおいているわけである。たしかに青少年に悪影響を及ぼしかねない繁華街に居を構え、我が子をその空気に染めたくはなかろうし、校内暴力頻発などの噂ある学区にも、できれば引っ越したくない。孟母三遷の教えは形を変えて今でも教訓としての価値を含んでいる。金持ち孟母でなくとも、本来どこに住んでいても同じ水準で教育を受けられるのが公教育の精神である。教育を受ける権利である。それがいま、音を立てて崩れようとしている。同一水準であるべき学校の善し悪しは、そう簡単に判断できるものではない。しかし、各学校の善し悪しを左右する特色ある学校づくりが、どのように展開されているのか、情報公開、ネットの普及、開かれた学校と、集めようと思えばその判断を確かなものにする材料を容易に収集できるようになってきている。そうした学校情報獲得の整備完成と学校選択制とが相まって、経済的要因によって地域が新しく色分けされるのも遠い将来のことではない。否、もうそれは徐々に進んでいるといえる。昔の芦屋麓麓荘みたいな高級住宅地の高所得者とワタクシのような長屋住まいの低所得者とでは、選べ通わせられる学校に格段の開きが出てくる現実である。かてて加えて小学生の医療費を無償にしますといわれれば、誰しもそこに住みたくなる。良質な学習環境に手厚い医療保障、「子育ては品川区で」と二枚看板がキラキラ輝いているのであるから、やあ、それ、品川だ、と江戸っ子でなくても住んでみたくなる。みたくなる、ではない、住みたい、住むぞ、である。ある特定の地域が、熱心に住宅や教育、医療の問題をまさに「三位一体」ととらえ、人間中心、人間尊重の施策をどんどん実行していくのは、政府に対し地域の熱っぽさややる気満々な態度を見せつけ素晴らしいと思われる。従来は「政治」の侍従的立場としての「教育」であったが、ここでは立場を変え、「教育」の問題意識が「政治」に回答を求めようとしている。つまり教育の自立は20世紀では夢物語に過ぎなかった。それが品川のように、「区の顔」が教育長であるところにまでなってきており、その教育行政が大きく政府にも影響を与えている。かわいそうなのは、ズボンのオナラ、右と左に泣き別れ、であろう。品川の隣接区は品川の教育行政態度を羨望しているだろう。ひろく教育行政に腰の重いその他自治体もかわいそうである。だが、一自治体の突出を嫉妬するのではなく、キャッチアップする努力がなによりも大切である。そうした競合的努力が教育社会を地均しし、結局、均等な教育を受ける権利が保障されるとするならば、めでたしめでたしというほかない(2/6)

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小学校から英語の授業が必要か。これはもう数年来対立した意見の飛び交っているテーマであろう。英語導入にかかわる対立意見は、早期の英語教育が児童に役立ち、親しみもって中学英語につながる良いことづくめの対策であるのか、それとも言語能力もままならない児童に、いらぬ負担を背負わせる無謀な取り組みになるのか、という2点に集約されると思われる。教育特区の多様な取り組みを前提し、小学校への英語の導入が陽の目をみようとしているわけであるが、旁午の読者はどのように捉えられているであろうか。おそらく小学校教育課程における「英語」は、技術家庭における情報教育と同様に、例によって「慣れ親しむ」と目的規定されよう。そしてその教育内容は、子どもたちと英語によるお遊戯をしたり、英語の歌を歌ったり、フラッシュカードをつかったりするものと予想する。かごめかごめに代わる英語での遊びを組み入れようといったところであろう。あるいは紙芝居的にリンゴの絵をみせて、ジャイアント馬場のように「アッポー」といわせるハラであろう。どう考えても、高度な文法構造の解読をメインにする授業にはならないし、英単語をいくつか憶える程度であって、その意味では中学1年生の教育課程を前倒しに実践するものでもあるまい。とするならば、年間授業時数がどのくらいになるのかわからないけれど、手詰まりになって、3学期は英語ナシ、ということにならないともかぎらない。そういう意味では、もし導入するのなら、小学校の英語は少なくとも高学年、つまり5、6年生に限定し実践されるべきだし、かつ、週1回程度でよいのではなかろうか。とすると、高学年でも年間945授業時数しかないのであるから、英語の枠を無理に作って他教科を圧迫するまでもないのではないか。総合学習に包摂させたままでもいいだろう。翻ってみるに、英語の導入を後押しする強力な根拠は、保護者の強い希望にある。イロイロな学者が、学力低下の元凶を第6次改訂学習指導要領に見出し、言外に総合学習の無意味さを突いていることもおおっぴらになって、保護者は基本的に総合学習を眉唾物と思っている。総合学習イコール遊びと刷り込まれた保護者は、何をやっているのかわからない総合なら、いっそのこと教科教育に傾斜した学習を要求してもおかしくない。総合学習に保護者が求めるのは、環境問題でもなく、就業体験でもなく、実に国際理解教育であり、しかもそれは残念ながらアジア理解などではなく、就中、英語教育なのである。「せんせい、うちとこの小学校でも総合は英語にしようや」との保護者の願望を背景に、政府はこの計画の実現を、押し切ってしまうつもりなのであろう。ワタクシは小学校への英語導入に反対ではない。やるならやりたまえ、といったところである。しかしその教育課程の編成には慎重でなければならないと思っているだけであり、土曜日をその学習に充ててしまい、政府の朝令暮改的な文教失政を露呈するような結末を見たくないだけである(2/5)

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この間のウソ泣きが、かなり国民の怒りを買っている。奈良においては、元民主党古賀議員の学歴詐称を告発する動きがあるようである。サイトにおいて二転三転する出身大学の名称変更は、いかにも見苦しい態度であった。巷でも、自分がちゃんとどこの大学を出たのかどうかわからん議員に国政を担当させて大丈夫なのかと疑問に感じている人びとが多い。歳費返還の直訴は、議員年金の加算期間の放棄も含まれた主張なんだろうかと疑問をもつ。日に焼けた爽やかスマイルにテニスルックがよく似合う古賀議員の様子と、泣いて地元福岡選挙区の有権者に自己の非を詫びる姿勢とが、交互に放映され、国民の嘲りと同情をさそった。元を質せば、変態元自民党幹事長山拓とウソ泣きペパーダイン古賀の選挙戦は、ゴジラ対モスラであったということであろう。一瞬、彼の卒業したのはターミネーターの悪の巣窟、サイバーダイン社かといらぬ想像をしたのは、ワタクシだけではないかもしれない。自民党はここぞとばかりに議員辞職を勧告せんとし、「ウソつきは泥棒のはじまり」とさえいってのけるメガネザルもいた。女性問題で失脚蟄居していたはずのテディベア中川氏が古賀氏を攻めているのも一興である。一言以って之を覆えば、政界動物園といっても可なり。さて件のウソ泣きであるが、これはなんと有権者の同情を引き寄せる戦略であるらしい。こうした失態をカバーするシナリオを描き、イメージ回復を販売する黒幕が存在するのである。黒幕はそのシナリオを準備して古賀氏に渡し、それを実行するかしないかは古賀氏の判断と、周到に逃げ道を用意している。そしてこの黒幕を古賀氏に紹介したのが、かの小沢一郎という噂である。これは噂に過ぎず、確証ないことではあるが、それが流布するところに、政界の怖さを感ずる。権謀術数の奥深さ、フィクサーの跳梁跋扈、国民との端倪すべからざる距離、ああ、政治とはこれほどまでに暗黒なのかとため息をついてしまう。だが、権力奪取せんとする人間の集まりとは本来そんなものである。伏魔殿と外務省を形容した角栄の娘だって、みるからに怪物だし、誰がどう見ても嘘八百であるのに、疑惑のデパートムネオ氏は、最後までバッチに執着した。その点、清美は線が細いといわざるをえない。ダダ坂口も医者ではあるが年金を改悪処理したところなどは国民の心情を解さない敵役であろう。ほかにも、キュウリやブルドック、ヒグマ、ライオン、モグラ、ヨーダは引退したか…しかし、こうした面々が一つところに集まって、議論をする国会はさすがに迫力がある。まさに個性のぶつかりあいである。与野党対決法案の審議はギリギリの喧嘩である。表に政治理想、裏に支配欲、それが政治的人格の姿である。たとえいかなる批判を浴びせられようと、国会に登ってくる政治家の姿勢には見習う余地があるといえる。古賀氏はどこまで踏ん張るか。批判なんか無視して政界動物園の檻に入り我を貫くか、それとも線細く消えてしまうか、ハムレットの心境であろう(2/4)

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行田市による季節はずれの教員採用試験が2月1日に実施された。30人学級を目指して、それに見合う教員数を充実させようとする「浮き城のまち人づくり教育特区」の教育政策は、教採受験生にとっては、受験機会を増やし、その意味で勇気付けてくれる構想といえよう。普通、市立中学校勤務であろうと、その教員給与は県費負担教職員の取り決めからすれば、県が出す。しかも、その県が出すべき給与の半分は、国が補助することになっている。もしそうはからわず、設置者負担主義を遵守するとすれば、自治体財政は、教員給与で食いつぶされてしまうからである。そうした給与体系の枠から自由になって、行田市は市費で教員給与を賄おうとするのである。政府の規制緩和が進行し、地方への財源委譲が実現され、3割自治と揶揄される地方財政の問題点を解消すれば、こうした行田市の試みは、都道府県のキツく縛られたサイフのヒモを緩め、市費が潤うきっかけにもなり、市が独自の教育行財政を遂行できるかもしれない。しかもその教育行政態度は全国化する希望を潜在させている。行田市は、おそらくは教育荒廃を反省し、少人数指導に教育の再生を賭けている。ただ問題は、その採用選抜方法にあった。ある全国紙の報道によれば、採用試験科目のひとつ、模擬授業に、ナマの子どもの声を反映させた採点方法を採用する予定であった。教採受験生の運命が、子どもに委ねられるのである。子どもたちに採点させる配分点は、模擬授業配点分の4分の1であったらしい。これは多いか、少ないか。子どもに採用試験の採点をさせるだけでも前例ない大胆さだが、しかも25lもかいな、というのがワタクシの感想である。だが結局現場の校長の反発で、子どもたちは採点権を奪われ、「試験協力員」になった。一度委員会がいいだした決定がこうも簡単に変わるのである。おそらく採点の内情についてまであらかじめ子どもたちには知らされていないであろう。教育委員会の勇み足があったのは間違いないところである。しかし、子どもに採点させてみるのもあるいはよかったのかもしれない。なぜなら、子どもは純真だし、人を見抜く目やズバリと叩き切る言葉をもっているからである。25lも子どもが受験生の生殺与奪を握っている事態は、適度な緊張感を受験生に与えるし、子どもの機嫌をとろうとしたり、試験であっても実際に子どもを叱りつけたり、様々な応対を見せることになるからである。たとえ叱りつけたことによってその受験生が子どもから得る得点がなかったとしても、そのあたりを調整するのが委員会の仕事であろう。受験生の本当の姿が子どもに映るかどうかに、こうした新しい採用方法の成否がかかっている。行田市は、女子生徒の相談に乗るうちに特別な感情を抱くようになりみだらな行為をした、行田市立中学の男性臨時教諭を懲戒免職処分にしたが、臨時とはいえ委員会が見抜けなかったそうした教員としてのあるまじき資質を、子どもたちが見抜けるかどうかも試してみてもいいだろう(2/3)

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今後の大阪の4年間を太田氏に託した結果になった。次点に88万票以上の差をつけ当選し、険しい財政再建への道を歩む彼女にエールを送りたい。通産官僚としての経歴は、商都大阪の水に合うかどうか心配であったが、、府民からの批判の眼に耐え、府議会を向こうに回し、過去4年間、辛くもつとめあげたと評価できよう。今回、彼女に対する批判は、多々あった。ビックリする造語、「オール大阪」の意味するところの相乗りもそうだし、いわば敵対勢力であってもおかしくない労働組合まで根回しうまく味方につけた。その政治能力は、江本氏にはないものである。ブルドック冬柴とキュウリ安倍を手なづけているようにさえみえた街頭演説も、アピール満点であった。駐車禁止を咎められ、「ワタシだけちゃうやろ」といい張る大阪の「おばちゃん」の心をつかんだのも大きい。結果が出たいま、オール大阪は、ワタクシなどのプロレタリアを含めたオール府民という立場からの舵取りと捉えたい。職業政治家としての才能を成長させた女性政治家と、元プロ野球選手で知名度抜群ではあったけれど、旧知の野球人や芸能関係者を呼ぶほかオルグの力量をもちあわせていなかった参議院議員との相違は、ことのほか大きかったといわなければならない。さらには、阪神優勝に酔いしれた府民は、「ベンチがあほやから」の捨てセリフを忘れていなかったのかもしれない。もうすぐファンが多数飛びこんだあの通称ひっかけ橋も、公募アイデアの線にそって建てかえられる。螺旋階段を降りる日もそう遠くはない。また、革新行政をのぞむ土壌は伝統的に耕されてない。京都と違い大阪では残念ながら共産思想は根付かないのであろう。弁護士の主張は正しい。だが、国政レベルでない選挙戦で、憲法擁護を訴えた政治姿勢は受け容れられなかったといえる。40lそこそこの低投票率に加え、最大の挑戦者、羽柴正三秀吉氏が出馬していなかったことも、助かった要因に数えよう。大阪の台所は厳しく、赤字転落自治体と予想されて久しい。いつ政府の管轄下にはいっても不思議ではない状況にある。そんな中で公約したのであるから、「小学校1、2年の35人学級実現」について、「4年間かかりますわ」なんていわず、是非とも任期前半に実現してほしい。文科省の教員増員抑制の態度と真っ向から反する少人数学級化である。それなりの成算があっての政治的主張であろうからである。また、安全の街づくりも強調しておられるが、交番に常駐する警官の数も増やしてほしい。この注文は関係各方面と協議しなければならないけれども、いつのぞいても、近所の交番に誰もいないのは、不安を増加させるに余りある。まあ、政策的注文は多いと思うが、最後の注文も聞き入れてくれたまえ、あなたの身体を気遣ってのことである。ダイエットコカコーラでも飲んで、大阪も、ご自身も、シェイプアップに励んでほしい(2/2)

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イモ蔓式にしょっぴかれた観のある無断情報提供事件である。生徒に内緒で大学合否情報を予備校に報知したのは、現代のいかなる教育状況を反映してのことであろうか。予備校側がメクサレ金や図書券を都道府県立高校にちらつかせ、その餌に食いついた学校の破廉恥がみっかっちゃったと他愛無く解釈するのは、事件の表層をなめた見解に過ぎない。いうまでもなく、事件の起因は学校と予備校の癒着を固結させている学歴社会の残滓にある。いくら得点すれば望みの大学へ入れるのかを予想できる、予備校のもつ信頼すべき測定表が健在であって、結局はその測定表ほしさに学校が釣られているのである。ここに事件の本質がある。つまり、大学への進路指導にしっかりした定見を持ち得るにいたっていない高校の無対策が浮き彫りになったということである。いくら各学校の自主性に任されるべき教育課程の編成、その課程をクリアした生徒の個性に応じた進路進学といっても、横の連帯乏しい高校では、比較の上に成り立つ入試指導をすることはもともと困難なのではないか。母集団の少なさにも不安があろう。結果的に進学を意欲する家庭においては、予備校的なメジャーが不可欠なのである。さらに追い討ちをかけたのは、教課審が答申し、文科省の打ち出した絶対評価導入政策である。相対から絶対へ評価の衣替えに右往左往させられ、進路指導に自信をもてない高校は、頼るべき拠り処に予備校の指導能力を選択したといえる。このつながりが断ち切れないのは、教育改革を政府主導でいくら進めても、それに肯んじない非革新的心情が国民の中に巣くっていることを示している。そしてそれは健全な感覚でもある。たとえAO入試やAP入試を推進しようと笛を吹いても、その大学の要求に応えられる生徒数はマイノリティであり、大多数は普通の入学試験を経て、大学に進学するものである。さらに、指定校入社など、嫌というほど苦渋を味わってきた学歴による差別を、大人の脳髄から削り取ることは難しい。非革新的心情とはこのことを意味している。一皮剥けばなんとやら、絶対評価の採用による甘い進路指導を信じない国民多数が存在する。とすれば、偏差値に進路を任せた旧来の方法が大手を振って罷り通るのも、故ないことではない。究極のところ、人間は比較したがる動物である。他人と違う自分の発見に満足する生き物である。しかも大相撲の番付表を気にするように他人の並びを見たがるものである。人間の性根がこうであるから、能力の序列を全国的に確認できる予備校作成の学力レベル表に興味をもたないものはいない。週刊誌が出身別大学合格者速報を企画すれば飛ぶように売れるのは、こうした事情を裏付けていよう。ある精神科医がある著書の冒頭で語っているように、「東大入っても家の一軒建てられないようじゃあねェ」と終電間際に叫ぶ塾帰りの小学生の声に我にかえり、酔いを覚まさせられた大人は、「そりゃそうだが、学歴もなけりゃなんともならん」との大人気ない反発を胸に仕舞い込んでいるのであり、旧来の非革新的心情を保持するほか、有効な教育的手立てを見出せないのである旁午では、気になる記事やためになるサイト、あるいは息抜きのサイトを、毎日ひとつ冒頭にリンク〔新しいウインドウが開きます〕しています。また、旁午は毎日更新でi-modeでも見ることができます。ただし、1行目のサイトをi-mode版ではリンクしておりません。その紹介サイトのすべてがPC対応サイトだからです。http://www.liberalarts.cc/i-mode-hibibougo.htmlを入力して下さい。なお、yahoo!モバイルにディレクトリ登録されていますので、そちらからもアクセスできます(2/1)

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