日々旁午

2005


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 本日は、第25回勉強会を開催いたします。参加されるみなさま、よろしくお願いいたします。答申の輪読は、「高等教育」答申を終了し、新しく、「当面の教育課程充実改善」答申にはいります。
 集団討論は、2題実施いたします。ひとつは、「いのち」の問題です。もうひとつは、「集団活動」についての問題です。寝屋川の悲しい事件が起こって、まだ数日、そのことを振りかえることは大切です。こうした事件があるたびに、繰り返し同じような議論をするようでは、悲しいばかりですが、原点の確認をするためにも、論じてもらおうと思います。
 もうひとつのテーマは、学校におけるイロイロな場面で協調した行動がとれない児童生徒が多くなっていることに鑑み、テーマ化してみました。
 では明日、期待しております。(2/20)

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 本日は更新お休みです。私事があり、その後、ある集まりがあって呑み疲れ、目を覚ますと午前2時という有様。申し訳ありません。本日の夕刻からも、ある会合があります。ここ数日、このように消化しています。更新楽しみにされていた方、ごめんなさい。明日からまた、ガンバリマス。(2/19)

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 結局、ゆとり教育批判、というよりも、ゆとり教育“自己”批判は、教育課程の自己修正をほどこさなければならない勢いになってきている。学習指導要領が、またもや06年度に改訂されるようである。学校現場も大変だが、教採受験生はもっと大変である。なぜなら、一度先生になってしまった方々は、失礼を承知でいえば、中教審答申などほとんど読まないし、学習指導要領だって、きっちり読まれているとは思われないからである。それに比べ、ネコの目変わりの指導要領となれば、それが教採選考試験の素材となるわけだし、受験生はネコじゃらしを追うごとき対策を強いられよう。
 讀賣新聞の記事をリンク
 総合の授業時数を減らすなど、教育課程に関し、大切な話し合いが行なわれるはずの中教審は、義務教育費国庫負担の問題もあって、地方代表不在のまま開催されている。3者連携が中央レベルですでに不協和音を響かせ、カリキュラム問題討議を、地方代表選手が観察できないまま、中教審は船出したといえる。地方代表選手が現場の意見をどれほど集約し、中教審の議論の場にもちこめるか、いささか不安ではあるが、それでも、それなりの意義はあるにちがいない。
 そうした、いわば「役者がそろった」といえない中教審、片肺飛行の中教審が、大臣の圧力に屈し、規約破りの座長を据えた。「個人的には」と断りつつ、「総合的な学習の時間の導入を学力低下と直結させるのは早計と思うが、授業時間数を減らしたこととは無関係ではないと思う」と鳥居氏をしていわしめているのである。
 困ったものである。今秋までに議論を煮詰めるといい、指導要領の改訂は既定路線となったといっていい。そこででたのが、またまた曖昧な「人間力」である。「生きる力」に懲りていないのか、例の「懇談会」表現をそのまま流用、教育行政を余計に混乱させてしまう気なのか。それとも目先の表現を変えて、批判の矛先である総合導入の理念を、教育行政や学校世界そのものから、駆逐する気なのであろうか。
 神戸市をみてわかるように、教職教養を採用試験に出題する自治体が今後も減少していくだろう。ロックやデューイなど不必要。スパっと出題方針や出題方法を受験生になんの前触れもなく変更してしまう自治体も少なくない。上のような行政の動きや指導要領の内容も、いずれ試験化されなくなるだろう。つまり、受験生の非政治化である。いわば、広い視野をもたせず日々の学校世界の指導に終始する力をもつ人だけを採用するようになっていく。すなわち、このサイトのレーゾンデートルもなくなるというわけである。
 矛盾である。学校では創造力豊かな、あらゆることに興味を示す人間を育成するよう求められるのに、教える側の人間には、フタをするわけであるから。(2/18)

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高校生もなかなかやるもんである。曖昧な教育行政方針の発表に自ら批判し立ちあがり、入試制度改革に「待った」をかけた。ここにはフランス革命以来の、自らの道は自らで決めることを強く願い、自由を勝ち取った熱い血潮が滾っている。すなわちその革命精神が、権利の主張としての「かわいい、だが真剣な学生運動」に再生しているのである。フィヨンはびっくりすると同時に、政治的思惑を別としても、将来のフランスを背負って立つ若者たちのパワーの存在を、きっとよろこんでいるにちがいない。
 今次のフランス教育改革法案は、バカロレアにどう手を入れるかをひとつの課題にしていた。しかしその改革は「主要でない」と政府にいわしめたのである。高校生への配慮を見せると同時に、フィヨンは自己の政治的生命をうまく伸ばしている。これも見逃すことができない、発言の裏面にある政治的意図である。
 西日本新聞が、日本の教育行政を皮肉ってか、はたまた日本の若者を叱咤激励するつもりか、この微妙な時期つまりゆとり教育見直しが喧しくなっているときに、フランスの教育改革案は「バカロレアの判定基準に、現在の全国一斉試験以外に、各高校で行う日ごろのテストの成績も加える改革のほか、授業についていけない生徒対策や補助教員の配置変更など、学校教育全般にわたる内容」であると紹介しているわけである。
 つづけて、「高校生たちは特にバカロレア試験改革について『全国一律の原則が崩れる』と反発。今月初めから高校生組合の指揮で抗議行動を始め、十日にはパリ、リヨン、ボルドーなど主要都市で計十万人を動員しデモを繰り広げた」と彼らのパワーを伝えているのである。西日本新聞の報道姿勢が垣間見れてうれしいし、公正、平等、厳格、そうした価値の要求が、フランスでは常に反省的に捉えられていることを鑑にしてほしいと、高校生だけでなく日本の教育行政首脳にもいいたいのであろう。木鐸をみたような気がする。
 とりわけ、「日ごろのテスト」、「授業についていけない生徒対策や補助教員の配置変更」にフランスの高校生が意義申し立てしているのだから、教育権の所在がしっかり示されているといえる。
 国民教育は国家主義教育ではない。国民教育は国民自らが自己を高めるために用意されるべき教育である。国家に従属したまま上からその教育内容や学力診断方法を押しつけられるものではない。とりわけ大学進学の基準となるバカロレアの「手入れ」に、どうこういわれたのだから、健全な反発心である。
 いま、国民統合の手段としての教育の在り方が動揺し、国際理解に示されるように個人と世界とをハカリにかけて追求されてる時代にあって、国民のめざすべき道が主体的に選び取られようとしている事実は、洋の東西を越えて賞賛に値する。
 これは今月12日の報道であるけれども、「ちゅーきょーしんって何?」といいかねない高校生の目にとまることを期待してやまない。しかし、こうした高校生が日本にいることも、誇りといわなければならない。
 フランスにはまた、コンドルセが生れるのであろう。(2/17)

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 人生における幸せとはなんだろうか。絵に描いたような幸せといって、夫婦と、そのそばを子どもたちがかけめぐっている団欒の様子、アウトドアの様子があげられる。「ごく普通の幸せ」とも形容される。しかし、その幸せを形成するのに並々ならぬ力がいることをワタクシたちは忘れがちである。
 平凡な幸せといわれるこの崇高な「幸せ」を実現するのに、苦しく厳しい仕事をこなし、僅かばかりのおこづかいに甘んじて「おとうさん」はがんばる。「おかあさん」もがんばる。
 ワタクシたちも、そうしたごく普通の平凡な、しかしなにものにも代えがたい幸せを追求しつつ、同時に、職業を通し「自己実現としての幸せ」をものにしようと意欲している。ワタクシたちのことでいえば、教員としての幸福感を求め、教員とはどうあるべきで何ができるのか、その最高度を求めている。民間の仕事も大変であるが、教員の仕事も大変である。そして、仕事を成し遂げた達成感も、両者とも、ひとしおである。
 この両者を均衡して手に入れることがいかほど難しいか。「家庭を犠牲にして手に入れた幸せ」という言葉がそれをいいあらわしているだろう。
 そうした幸せを究極に踏みにじったのが、池田の事件であり、寝屋川の事件であろう。このようにいわれても、亡くなった先生は戻ってこられない。再発防止に努めるという、刷り切れた言葉しかいうことのできないワタクシたちの無力に忸怩たる感をもつ。だが、その擦り切れた言葉を100パーセントに近づける努力をするほか、この亡くなられた先生に捧げる行為はない。(2/16)

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 また壮絶な事件が起きた。殺傷されたのは児童ではなく教職員であった。ご冥福を祈るほかない。そして、重症を負ったお2人の回復を願うばかりである。
 寝屋川の中央小学校の驚きは、想像に難くない。だがもう、「まさか」は通用しない。これだけ学校が危機にみまわれている時代になって、危機管理意識をもち、委員会の指導を受けていたのにもかかわらず、事件は起こってしまう。
 行政が危機管理マニュアルを作成するよう指導し、「開かれた学校」ではあるが、外から得体の知れないものが侵入して来ることには注意するよう、よくよくアナウンスしているのである。ある学校では、警備員を配備しているし、批判を浴びようとも監視カメラを設置しているところもある。そして、そうした機能を中央小もつけていた。だが、起こったのである。
 20世紀の終わりから、猟奇的なものも含めて壮絶な事件が続発している。その刃が学校というフィールドにも進入して来ているのは否定できない。だが、「刺されるかもしれない」と緊張感持って日常生活を送るのはこれまたできない。刺されるとは思ってもいない平和をワタクシたちは築いてきたからである。
 たとえば、巨悪を判定する裁判官などは、駅のプラットホームでまっすぐ立っていないそうである。前後に足を開いて、押されて線路に突き落とされないように身構えているそうである。そうした感覚を市井の人間すべてがもたなければならないのか。安全神話は神話でしかなかった。/ちょっと、お知らせ。(2/15)

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 昨日は、第24回勉強会に参加いただき、ありがとうございました。13名(男性8名、女性5名)の方々お疲れさまでした。とりわけ、今回は、四国は坊ちゃんの国愛媛からもご参加があり、たいへん嬉しく思っています。遠くから信頼して来ていただけるということは、それだけ、このサイトの姿勢が認められたような気がするからです。このワタクシの「気がする」を「勘違い」にしないよう、より一層サイトの内容的な充実と情報の豊富さと正確さを期すべく精進いたします。また、お久しぶりに顔を見せてくださった方もいらっしゃいました。それぞれの方がそれぞれにお仕事をもち、なかなか土日といえど休みがとれないでしょうが、もし時間が合えば、またご参加くださいね。
 さて、今回の勉強会では、まずワタクシからの問題提起として、みなさんからのご意見を随時いただきながらの講義をいたしました。そこでは、最近ここでも書いている「ゆとり教育」や「いきる力」の再検討をいたしました。参加者一人ひとりに「ゆとり教育とは○○○である」と定義付けをしてもらい、「ゆとり教育」とは何かの共通認識をもつことからはじめました。いざ、こういうように「何ですか」とズバリ聞かれたら、スパっといい切れた方が当然よいでしょう。わかっているようでわからない言葉をしっかりおさえていくことは、この「ゆとり教育」に限りませんが、今夏の議論のポイントになりそうですし、あえて時間を使って答えていただきました。
 週5日制導入に象徴される授業時間の削減、豊かな人間性を主にはぐくむための課程編成、そうしたところに落ち着いたと思われます。全人的な調和的な人間像を知徳体の統一に求め、その達成が「人格の完成」でしょう。その際、知徳体のどの分野に強調点をおくかでカリキュラム編成が創造され、みなさんのよく知る融合カリキュラムや経験カリキュラムが時代に応じて採用されてきました。いまは、豊かな人間性=徳育を中心としたカリキュラム特性が知育中心の特性へとシフトし直しているような感じをワタクシはもっています。
 勉強会をしていて、いつも思うのですけれど、「もっと時間があったらなあ」。どうも議論が山場を迎えるところで、次に進まないといけません。つまり、個人解剖の面接対策に進まないといけないと、時間を気にしながらの進行にならざるを得ません。狭く教採試験のためと限定した学びでなく、教育のあるいは教育学の本質的なところに触れていきたい、そう考えると、時間はいくらあってもたりませんね。
 個人解剖につきましては、面接の質問内容に答えることが、どうしても「解剖」される参加者のプライベートなことに関連してきますので、それをすべて書くことはできません。ですので、形式的なことと一般的な注意点として、旁午読者に有効と思われる事柄を記すことにいたします。
 ワタクシが面接官役をいたしまして、約15分間、6つ質問をします。それぞれの質問が関連あるように配備し質問をつなげました。そしてその対応に、ときにはつっこみもいたしました。それを参加者全員が見守ります。この15分間に、左欄にあるシートが塗り潰されるほどイロイロなことを書いていただきます。解剖終了後、シートの右側の「質問の意図を適確に捉えているか」以下の点について、おおよそをクリアしているかどうか手をあげていただきました。今回の場合、被解剖者一人に対し、判定者が12名プラスワタクシがいるわけです。捉え方が各人各様で、見方の違いがあらわれ、よい試みではなかったでしょうか。とりわけ評価が分かれるポイントについて、被解剖者は見つめ直すことが必要でしょう。
 とりわけ「具体性」と「自分なりの視点」において評価が厳しく、それを適確にいい切れるかどうかが合否を分けるでしょう。さすがに客観的に判断できる声とか面接官を見ているかについては、○か×かがはっきりでますね。
 なくて七癖、するどく見抜いている方、見抜かれてしまった方がいて、それでこそこうした「個人解剖の試み」をしている甲斐があります。ある有名な哲学者がいっています、「恋人には信じられたい、友人には見抜かれたい」。含蓄ある言葉です。
 このシートを被解剖者は、みなさんから手渡されます。つまり、今回でしたら12枚のシートをプレゼントされるわけです。チョコレートよりいい贈物となったでしょう。このシートについて、まだまだ改善すべき余地があるでしょう。みなさんの意見を反映したく、メールでのご意見をお待ちしています。
 勉強会の終了後、いつものようにコーヒー会をしました。そこでもまだいいたりない点を述べてもらい、被解剖者は反省するべき点があってよかったのではないでしょうか。そのときに、「本番の面接に挑んで、なんだか準備してきたことをいっているような感じにみられ、そんなカタログ的な面を嗅ぎ取られたらどうしようか」というようなご意見もありました。これに関し、ワタクシは、「準備を何もしないで受験しにいっても無意味である」といっておきたいです。たしかに面接用参考書類は多々あります。しかしそれをそのままいって通用するわけではありません。苦心して準備し、面接官に相対する。そうでなくちゃ。準備してなんぼです。面接で今まで勉強してきたすべてをみせようとする方は、きっと授業準備も一所懸命される方ではないでしょうか。(2/14)

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 授業時間を減らしたことだけが問題なのかどうか。中山大臣は、「内容の削減はともかく、授業時間の削減はよくなかった」、また、「(ゆとり教育が)勉強しなくてもよいという誤ったメッセージを児童・生徒や教師に発してきたのではないか」と、讀賣新聞のインタヴューに答えている。少し以前のものであるが、こちらの産経の記事も参照していただきたい。
 前者の授業時数を減らしたのが問題というのは、まさに、このコーナーで先日述べた激烈論をいったものに近い。つまりはスパルタ的に時間を増加して勉強すれば学力低下は防げるという議論である。トレーニング重視といったらいいかもしれない。土曜授業復活も辞さずの大臣であるから、中教審に気遣いながら、本音はここにある。はげしい受験競争を前提すれば、こうした考え方にどうしても落ちつかざるを得ないのである。では、一連の発言の「内容削減はともかく」の「ともかく」は、一体、何を意味しているのだろう。そこに何かを嗅ぎつける必要はないのであろう、単に「時間が大事」という主張を引き出す枕言葉だろう。ただ穿った見方をすれば、そこに、これまでの教育課程編成の一般方針に誤まりがないことを滲ませたいのであろうか。
 後半の発言、「勉強しなくてもよいという誤ったメッセージ」を行政が伝えたかどうか。文科省自身の自己反省の言葉としてこの発言をしたのだろうけれど、腑に落ちない。これはゆとり教育の全責任を一官僚にかぶせるきらいがある。そんなメッセージであったと受けとめている国民はいないのではなかろうか。
 児童生徒が行政メッセージに敏感であるはずがないので、まずは違う。朝、新聞片手に「これ、おかしいなぁ、勉強せんでいいんか〜」と独り言をいう8歳児は想像できない。つまりは保護者がそう感じているといいたいのであろう。とすれば、これも国民感情を逆撫でする。「勉強しなくともいい」と本気で思っている保護者はいない。
 誤ったメッセージを教師に発してきたかどうか。これは重大な思い違いといわざるを得ない。勉強せんでいいというように感じていた教員など一人もいない。現場は従来授業時間の確保ができず、のたうちまわっていたのだから。こんなことをいわれるのは、心外も心外だろう。始業式、終業式の時間も省いて2学期制にしてまで、足りない時間を確保しようと涙ぐましい努力をしている現場を馬鹿にする発言というほかない。
 どうも中山大臣は国民の教育観をご存じでないらしい。
 もともと「ゆとり」という言葉を使ったのはなぜであろうか。これは、推測するほかない。週休2日にほぼ転換した現代社会は、週40時間以下のジョブタイムを国民に希望し、働きすぎと世界から批判を浴びた事態をなんとかしたかった。いまとなっては、時短、時短といわれたことがなつかしい。余暇の使い方、豊かさとは精神的なところにこそあると真剣に考えられ、大人社会のギスギスした社会環境の再生産だけは次世代に繰り返させたくなかったと当時の精神的な状況を心理的に分析できるであろう。こうしたリラックスを過度に求める社会は学校世界に波及し、学校にも「ゆとり」を、となったのである。過渡期と呼ばれる期間もない。ギスギスが反動してゆとりになった。急激な意識転換に国民はついていけない…
 悲劇は「ゆとり教育」が時機に遅れてやってきたことにあった。すなわち、ゆとりが必要であると大人社会あるいは産業社会が反省しだしたときに、すぐさま教育行政がそれを実施できるはずもなく、総合などの新しく「ゆとり」を効果的に活用するための課程を立案し、文部省はなんとかそれを早く軌道に乗せるべく必死にがんばった。ところがその立案中に社会の側が激変した。ゆとり社会から一転、リストラ社会になった。社会環境がハードあるいはタフになってきているちょうどそのとき、つまり平成10年に、ゆとり教育推進指導要領を告示したのだから、大人社会ははなっから相手にするはずもない。遅れてきた「ゆとり教育」の甘さを受容するほど社会はそれこそ甘くない。リストラに怯えているのに、ゆとりだの、へったくれだの、いっている場合ではなかった。そんな状況に、競争社会に慣れ切っている団塊の世代の一喝があったかどうかはわからない。だが社会一般の様相として、団塊世代のあらゆろ組織における権力中枢掌握が進んでいって、彼らの投影する「精神論」が教育界に逆流しているような感想を抱くのみである。
 学校と社会の人心面におけるねじれ関係が、酷くも寺脇スケープゴートを用意しつつ収束させようと動いているわけである。しかも禊を中教審に負わせるのだから、この2月いっぴに新しくメンバーとなった委員たちは、立ち往生するかもしれない。なぜなら、前に大臣、後ろに現場が控えているからである。(2/13)

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 山口大学では成績優秀者の授業料免除を実施するし、名古屋大学では構内に保育所を置くようである。讀賣新聞がそう伝えている。授業料免除制度は、国立大学時代にはちょっと無理だった措置ではなかろうか。国立大学法人化するからこそ可能な措置と思われる。私立では早稲田がすでにその導入を広報していたのは記憶に新しい。
 大学のマイレージ制の導入にはじまる付加価値の乱れ咲きは、その効果はどんなものであろうか。ケンケン女史のおはします青森大学では、代返絶対不可能な携帯による出席点呼をするそうである。これもひとつの付加価値だろう。しかしこれなどは、大学で「やらされ」勉強をするようなもの。出席を強制してどうするのだろう。
 それなら上の山口大学のように、学費タダをめざす方が、にんじんぶら下げ方式として、喜ばしい。勉強に力ははいるし、お金もいらないとなれば、学生にとっては夢の世界である。「大学によると7学部すべてが対象。前、後期に分け、単位などを基に各学年の成績優秀者2人を教授会などで選び、半期分の26万7900円を免除する。成績が良ければ何度でも選ばれ、4年間(医学部と農学部獣医学科は6年間)免除になる可能性がある」というのだから、優良な競争環境を整える高等教育の在り方ともマッチしそうである。ただ2人というのがどうも少ない。せめて3人にしようよ。(2/12)

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 「たとえ中山氏がなんといおうと、中教審は節操もって『ゆとり教育』と同じ内容のことを『基礎定着教育』と名称変更して答申し、やり遂げればいいと考えています」ということについて、まだ言葉がたりないように思われるので、やや激烈に補足しておきたい。その議論の土俵に、讀賣新聞のこの記事を読んでいただきたい。
 そこでは、ゆとり教育の定義を「ゆとり教育 1977年から段階的に実施され、小中学校では2002年4月から、週5日制実施とあいまって、『総合的学習の時間』の創設を柱とした新学習指導要領が導入された。高校は翌年度から実施。だが、授業時間が減ることなどから、保護者からは学力低下への不安が高まっていた」と説明する。77年から段階的かどうかについて、ワタクシは同意しないけれど、授業時数の1割削減から今次3割削減になったのは事実である。そしてこの説明からすれば、ゆとり教育批判は総合学習設置批判であろう。保護者は総合を信じていない。
 勉強時間と成績の相関関係は、やはりあるだろう。玉葱の皮を剥きに剥いて芯だけをみせるようにいえば、義務教育段階の成績向上は、どんな子どもでも時間をかければできる。こういうと批判的意見がでるだろうけれども、範囲の決まった勉強なのだから、時間をかけ、総てを記憶すれば中間や期末テストなど得点率90パーセント間違いなしである。だから、机に向かう時間が増えれば増えるほど成績は伸びる。保護者の義務はどれだけ我が子を机にシバリ付けられるかに尽きる。
 学校でいくら効率よく教え、宿題を出し、かつ塾へ通ったとしても、家庭(あるいはそれに代わる図書館などの環境)で勉強しなければ成績など伸びない。学力低下が心配というのは、子どもに対する家庭の責任放棄である。家でしないでどこでするのか。成績が悪いのは学校が悪いのではない。したがって、「指導力不足など問題がある教師に教員免許の更新を認めないようにする制度の導入については、『賛成』が89%に達した」というのは、教員にいまなお期待する反面、解決策とはいえない。おそらく更新制は骨抜き的改革あるいは「やりましたからもういいでしょ」的シャンシャン改革になる。
 これは、かなり乱暴な意見である。
 金持ちになりたければ24時間働けばいいのと同じように、成績を上げたければ24時間勉強すればいいだけの話である。だから、所詮学校だけで全部できると考えるのが、不思議といえば不思議なのである。
 たとえば、「学力低下の原因(複数回答)では、『ゲームやマンガなど誘惑の増加』53%がトップ。続いて、『授業時間の削減』50%、『教師の質の低下』41%、『日常生活の乱れ』37%、『教科内容の削減』36%などの順で、学力低下は『ゆとり教育』や教師の質の低下が原因とみる人が多いことがわかる」と先の讀賣は伝える。保護者は学力低下の原因の本質がどこにあるのかわかっているくせに、あえて眼を伏せている。讀賣の書き方にも問題がある。
 たしかに教師の質が原因のひとつではあろうが、それよりもむしろ「誘惑」がトップなのである。この「誘惑」を振り払う努力をする方が問題の解決の近道である。「マンガを長時間読んだりゲームしたりするな」と顔を真っ赤にして叱りとばす教員を配置すれば効果覿面である。してみれば、教員の資質能力は、いくら憎まれようとも、ズバッと、あるいは「殴ってでも」勉強させることができるかになる。小中の教育など、こうすれば伸びるといい切っている岡田塾があるではないか。ただし岡田塾はその方法論を岡田塾なりに備えている。
 顔を見れば怯えて勉強しないかんなと児童生徒に思わせる教員は、その存在だけで受験目的の私立で食っていける。もちろんそこに教科教育指導の力があってのことである。成績は向上する。しかし、そこにいわゆる「青春」はない。いうまでもなく、そこに学びの楽しさはないし、いわゆる「やらされ」勉強である。
 総合学習の価値は、そうした詰込主知教育批判に出発したのではなかったか。いまの保護者の世代が強烈に批判してきた教育システムの変更を世論として形成し、教育行政に突きつけてきたはずである。いくら無謀な試みであったと現在批判されているとしても、そんな簡単に、ひとりの官僚の手によって総合が設置されるはずもないのである。教育政策のツケは、学校、家庭、地域社会のすべての人びとが払うべきであろう。
 それゆえ、児童生徒の主体的な問題意識形成の場としての総合は是非とも置いておき、それと同時に基礎学習を徹底する方針を貫徹すれば問題は解決する。この学力低下問題も、総合で考えさせればいいではないか。教員選択制を学校に導入してもいい。ひょっとすれば「生徒が先生を選択できる」制度と、「先生が生徒を選択できる」制度も、22世紀にはできるやもしれない。すなわち、いまの私立か公立かの2者択一の究極的展開である。
 上の激烈論は、実はワタクシの本音ではない。ワタクシは総合学習の価値は大変大きいと考えている。やめるのはもったいなさ過ぎる。数学科免許状や国語科免許状と同じく、総合学習免許状を発行しプロパーを育成するのも一方法である。それを特別非常勤講師にまかせるなどというから事がおかしくなる、あるいは不安定になるのである。
 すなわち、こうである。大学の教職課程に「総合学習教育法」はない。このあたりから手をつけてもいい。そうした名前をつけるのをはばかるなら、「道徳教育の研究」に倣って「総合学習の研究」を年2単位程度で設置すればいい。しかも、総合学習免許状は小中高の枠をなくし、他の教員と同様都道府県単位で採用し、校種横断的な流動性をもたせるような仕組みを作る。転々と小中高の各学校をめぐって総合を教えるのである。総合の先生を各学校が3名ほど常備し、時期が来ればトレードすることも企画すればよいだろう。実際、民間教育産業が総合の授業案を売っているのである。それに依頼するより自前で用意するべく計画するのが行政の責任というものであろう。
 総合はまだはじまって5、6年である。いまつぶすのは惜しい。学力低下が叫ばれているからこそ、つぶすわけにはいかない。それだけの意義を秘めている時間である。(2/11)

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