日々旁午

2005


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 ライブドアとフジサンケイグループとの対立が深まり、両者ともに一歩も引かぬ様相を呈している。どちらの肩をもつのかと問われれば、元首相宮沢氏と同じく堀江氏の方である。
 堀江氏は世間受けが悪いという。金に執着し、資本主義の論理だけで動いていて、人情を知らず、商道徳も弁えていないと評価される。しかし、これはあたっていない。ライブドアがつぶされるかどうかは別として、今次のフジサンケイのやり方もよくみれば五十歩百歩なのである。若者だけに人気があるというのも、的を射ているかどうか。大企業からリストラされた人びとは、企業の恣意性をいやというほど理解しているだろう。だから、堀江氏がギリギリ塀の上で株取得しているのを容認しているはずである。
 もっとマシな手を使ってくるかと思っていたら、フジサンケイは相手の武器と同じものをもって闘っているにすぎない。新株予約権の一手引き受けなどという遮二無二の手法は、伝統的経営体質のグロな表現だろう。これじゃあ、講談社や三菱電気も内心ではしかめっ面だろう。そのほかの株売却企業が態度保留をしているのも、古い企業倫理に拘束される在り方と、企業社会の将来像との間で葛藤しているのであろう。
 そろそろフレッシュな勢力が日本を動かしてもいいころである。(2/28)

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 今週末は、出張しますので、更新お休みします。更新を楽しみにされていた方、すいません。またガンバリマス。(2/26)

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 はやいもので、2月も過ぎ去ろうとしている。冬来たりなば、春遠からじ、なんだろうけど、教採受験生の春は、10月である。これからが大変なのだが、まだまだ時間がある。焦ることは全くない。
 いまは基礎がための時期だから、丁寧な学習が要求される。膨大な学習量に圧迫されて、「あれもやらな、これもやらな」と、そわそわすることがあってはならない。一つひとつの丁寧な学習が、夏になって花開く。そういうものであろう。
 いまは、ひとつところでじっと耐えるように、一冊の問題集なり参考書なりと闘ってほしい。ただ、忘れてならないのは、「書くこと」である。いくらマークシートの問題を解いていっても、それだけでは膂力にならない。論作文試験がない都道府県であっても、かならず文章を書く練習をしよう。それが、面接や討論を切りぬけていく王道である。どうせ勉強するのなら、「受かる」という目標にとどまらないで、その先の発展的な展望につながる学びをしよう。それが職業的将来を見据えた正しいあり方である。大阪府の場合、昨年の合格者がすでにもう辞めている。その数は、噂によれば60〜70名に登るらしい。これがなにを意味しているのか、受験生も考えてみる必要があるのではなかろうか。
 ところで教採試験の過去問を見れば誰でもわかるように、1次試験問題は、教職教養と一般教養とで構成されている。だから、偏りある勉強をしても、これまた問題がある。悩みはつきない。たとえば教職教養も幅広いが、一般教養もそうである。実は、一般教養対策などあって無きが如しなのである。すべてを万遍なくするほかない。いえることは、一般教養の過去問をする程度でいい。似たような問題が毎年出るからである。そして、許せる範囲で時間をとって過去問と関連する問題を演習するだけだろう。
 自治体別に対策をたててやるのもひとつの手であるが、併願をするのなら、それも余り意味がない。本命と併願する自治体と共通にねらわれる部門をしっかりやらなければならないからである。それはつまるところ面接と討論ということになる。だから「かならず文章を書く練習をしよう」なのである。
 毎年この時期に、このように書くのは、受験生活における一番苦しいときだからである。教採試験初受験者は別として、昨年の失敗を反省し、結果を知ってすぐに勉強をしはじめた方々は、「ダレ」あるいは「つかれ」が襲ってくるときだからである。すでに1次向けの参考書や問題集を一冊やりとげた猛者もいると思う。しかし、このサイトで何度も繰り返しいうように、勝負は2次である。2次の対策を中心に今後も精進することオススメする。
 気晴らしに、観覧車に乗ってきたまえ。(2/25)

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 大阪ほど雑居という言葉が似合う街はないと思っている。この土地に生まれ、ずっとここで生活しているワタクシには、大阪という街の放つ雑居精神が身に染みついているのだろう。時に教育問題を扱い、時にしがない家庭環境を晒しているように、ワタクシが雑多な文章を書くのは、雑多な環境の精神を反映してのことである。
 それぞれの環境はそれぞれの意思をもっていることだろう。
 整然とし無機質なオフィス街。それぞれの思いをもつ人びとが行き交う、ネオン煌く繁華街。強引さと人情が微妙に絡まり合う商店街。世界と争う技術を武器に、しのいでいっている町工場。安らぎが満ちる住宅街。そのほかにも、多彩な顔を大阪という都市はもつ。この都市に住む誰もが、個人主義的な思想をもち、同時に、不思議な共同体意識も捨て去らない。その絶妙の配合が都市を縦横する河川の水面に映し出される。
 密集するビルのど真ん中に、観覧車を設けたのは、雑多な大阪の東西を観察するためなのだろう。ワタクシは、時折、車窓からうかがえる観覧車を見上げては、空想にひたる。
 1周10分ばかりのロマンスである。昼に周遊すれば活動的な大阪人の商業精神が迫ってくるのだろうし、夜に乗るとすれば、一つひとつの灯に幸せと悲しみがあるのを実感できるのだろう。すなわち、他者に対する視線、価値の違う視線を集約し、観覧車は動く意味を与えられている。動力源は電気ではないのである。
 そうした観察をするため、並ぶ恋人たちの列に混じって、帽子をかぶった中年男がひとり存在していても構わないのではないか。若い方々が観覧車を楽しむのとちがう楽しみ方、そんな楽しみ方をしてもみたいものである。それが許されないのなら、「横領の乱」の終結後、嫁を誘っていってみたいと思っている。(2/24)

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 ふぅ〜、勉強会の調整でてんてこまいしています。最近参加申し込み者が増えてきております。いずれ申し込み形式について「継続」の形を見直さなければならないかもしれません。いずれにせよ、この問題は近いうち「勉強会のお知らせ」ページにて、アナウンスいたします。
 また、勉強会参加者の方で、横浜のシンポジウムの情報提供、先日のJOBカフェ大阪における説明会の情報提供いただき、ありがとうございました。勉強会参加者の中で、コピー希望される方に提供しました。
 本日は、こうした調整をしていると、朝になってしまいました。
 こちらのリンクをあげますので、ご覧ください。この記事、また、この記事にも驚きました。今後もこうしたことが日常茶飯になるのでしょうか。また、この問題は、どのような試験でも起こり得ることです。再発防止を協会は考えないといけませんね。/お気付きのように、日付を記事毎に表示するようにしました。(2/23)

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 昨日の旁午、ウミガメの件ですが、嫁はんもこのサイトをみているのを理解していたのに、またまた「レトルトの乱(Nov.9,’04の項をご覧ください)」の失態を繰り返す結果となりました。うちの嫁は細かいことをいう奴で、困った奴ですが、どちらかといえば「豪放磊落」なワタクシの性格を補ってくれるようで、ありがたくもあります。
 「あんた〜、『お小遣い』はな〜、『おこずかい』やなくて『おこづかい』と書くんや。そんなことも知らんのか。そんなんで、よう先公やってんな。ひょっとして、ウミガメのって浦島太郎になったんか。なんもかんも忘れてしもたんか。これで私のことも忘れてくれたらなぁ〜。デューク更家とやり直すのに」。
 更家は関係ないやろ。いいかけた口を閉ざす。今宵はもう、なにもいいますまい。せっかくのデタントなんだから。玉手箱の中身を説明するうちに、「風呂いくわ」とあきれた顔。しかしその風呂場へ去る姿は、まったくデューク調ではないぞ、とボソボソ。ホッとしている内に、勉強会の報告をいたしましょう。
 20日は、男性7名、女性2名の計9名の方か集まり、あがとうございました。体調不十分な主宰者の愚痴をもお聞きくださり、申し訳ございません。ウミガメの気持ちに託す男性心理をもご理解いただき、ありがたく思います。
 前半は答申の輪読です。高等教育の将来像答申の5つのポイントを確認し、「21世紀型市民」について少しばかり談じたあと、平成15年10月の答申「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」を読みはじめました。現在、うまくまとめられた教育改革の経過に位置付けて考えてみても、色褪せた答申であることは否めません。現在主流でない考え方であることを承認しつつ読んでいくと、文科省の基本スタンスが確認され、それは深いところでいまもなお継承されていることがわかります。
 この答申は、知徳体の全人的な力=生きる力を養うことを教育の根本としつつ、それを知の側面からとらえた「確かな学力」を育むための取り組みを模索するとなっています。つまり知育を軽視しているわけではないといっているわけです。そのために、@基礎基本の確実な定着、A個性を生かすため、内容に応じ教員が柔軟に指導できること、B個に応じた指導ができること、C総合学習を中心に体験的、問題解決的活動を展開することが提起されています。もちろん学習指導要領の「基準性」の明確化が前提になっています。
 まだ答申のほんのさわりを参加者とみているだけですので、3月以降、もう少し現在の問題状況と突き付け合わせて論点を抽出しようと思っております。その前提として、右欄のキーワードをご覧ください。
 さて、後半は、集団討論をいたしました。第25回は、参加者が少なかったことと、勉強会のあるべきあり方についての特別論義があったので、ひとつのテーマしかできませんでした。お詫び申しあげます。
 そのテーマは、予告した内のひとつである「いのちを大切にするための学びについて議論してください」というものでした。討論参加者は7名で25分。受験本番でこの人数なら、討論参加人数としては最大数かもしれません。A〜Gさんと仮定して、討論の様子をお伝えいたします。
 まずAさんが口火を切り、現在、いのちについての意識が薄くなってきている。だから、いのちにたいする認識を深めるため、性教育の充実が望まれるとの発言がありました。性教育の観点がいのちの大切さを議論するときにでるのは有効であり、初っ端にでなくても、どこかで登場する言葉でしょう。
 この提言を受ける形で、Cさんから、自分が大切な存在であることを確認できるよう育てたい、つまり自己肯定感の養成があげられ、それができてはじめて友人などまわりの人びとも大切な存在であることが理解できてくる、というご意見がありました。Bさんのご意見も、他者尊重の気持ちをどのように形成するかがポイントであるという話方であり、また、そうした精神的理解を促進するためにはどうすればいいのかを語るものでした。したがって、ここから理科教育において、「生命のつながり」をテーマに、なにがしかの授業をしたいと抱負を述べるのは当然であったでしょう。Fさんも、自分自身を好きになる方法を考える上で、父母をしっかり理解するよう児童生徒に求めるというような発言がありました。Fさんには、かけがえのないいのちの確認は、自分の生きている時間の大切さも認識させ、それが目標の設定にもつながっていくという、発展的議論もありました。同じようにCさんから、いかに生きていくかを考えることが大切であるとの結論めいたことが述べられました。
 一方、Eさんからは、性教育の観点を受け、自分の生れてきたことを考えようという提起があり、それが次の論点への橋掛かりとなったようです。教室でいのちのことを考えるだけでなく、教室を飛び出して養護老人施設を訪問し、そこからもいのちの大切さを学ぶ観点があるのではないか、それを学校世界にフィードバックし、生への充実を考えさせる、つまり具体的には学校生活を楽しめること、これこそがいのちを大切にすることの帰結になる。たしかにいい意味でにぎやかな教室はいのちにあふれた躍動感がありますね。
 その論点とは、自殺をなくすというものでした。いのちの大切さが、はじめに“誕生”、つぎに“自殺”=死の問題へと移行したわけです。これに関しては、Dさん、Gさんから、いのちを軽々しく扱う事件の頻発を問題視し、さらに、「死」を身近に感じることができないことも、児童生徒からいのちの大切さを理解しがたい環境を醸成するという意見がでました。ただしかし、Dさんの、「子どもをなくした人に話をしてもらう」というのは、実現可能性の問題もありますし、どのような原因で亡くされたのか、その内容、たとえばイジメなのか、交通事故なのか、なども考えなければならないポイントです。
 討論を聞いていて、全般的に暗かったかなという気がしました。ワタクシの体調不良を差し引いても、自殺や事件の話題に時間が割かれすぎると暗い印象となってしまいます。いのちの大切さを死と対照させて議論するのも一手段ですが、いのちの大切さを積極的に語る方向で議論した方が、児童生徒も意欲する授業、学びになるのではないでしょうか。(2/22)

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 どこにいくにも電車賃がいる。お昼にカツドンを食いたいし、仕事がえりに缶コーヒーのひとつも買いたい。世の男性陣を代表していう。いわゆる「おこずかい」は、月に3万程度という方も多いだろう。5万もあれば、月に1、2度居酒屋へもいける。刺身の一切れとつくねくらいはなんとかなる。
 だがどうしても、業務上横領に及ぶこともある。足がでてしまった月には、嫁の目を盗んで、通帳と印鑑もって銀行ヘGO!くるしいふところをホンのちょっとだけ潤すための冒険である。誰がこの苦しい立場のダンナを責められよう。
 おこずかい賃上げ闘争をいくらしても、財務省たる嫁は首を縦に振らない。そうした闘争の歴史を世の男性陣は繰り返し、勝つ見込みのない応酬に疲れ果て、眠るほかない。
 夢に見るのはウミガメである。大洋を悠々とめぐり、自慢の甲羅を見せつける。直径1.5m、宝石のような自身を、自由な海に委ねる。電車賃などいらない。腹がへれば、大陸棚にもどって、豊富な海藻や小魚を食らい、また悠然と海の底へ戻っていく。
 15世紀には京都を舞台に大きな戦争があった。応仁の乱という。いま、手元不如意ゆえ、「てへっ」といいながら嫁と2人で作った通帳を手にして玄関を出る。「オレの稼いだ金じゃないか、ちょっとつかわしてくれよ。今月はどうしても、どうしても、くるしかったんだ。男の付き合いもあるんだよ、雑誌のひとつも読みたいじゃないか」。
 だが、こうしたエクスキューズをしても、見つかるものは見つかる。現に貯金の残高がへっているのだから。こうなると世の男性陣は弱い。弱すぎる。20世紀の阪神タイガースのように、弱すぎる。
 沈黙の時間。伏せた目。「応仁の乱」ならぬ、「横領の乱」はこうしてはじまった。そのホットな戦争から冷たい戦争まで、かなり長い期間を経ないと解決しまい。
 ウミガメはいい。悠々と大海原を渡っていく。自由の象徴でなければなんであろう。何晩も続けてこうした夢をみるようでは精神衛生上よくないが、あの、黒く大きな目をもち、独立して生きている勇姿がまぶたに焼きついている。「まぶたのウミガメ」なのである。
 「横領の乱」も敗戦を迎える時期になると、少しだけ伏せた目の角度が上がる。そこには「待ってました」とばかりの嫁の目が、同じ高さにある。
 「ひょっとしてあんた〜、またウミガメの夢見てんのちゃうか〜。奴らはな、こんまいこんまいときに、何万匹も食われて、あんたの夢見るウミガメになれるのは、ほんの一匹か二匹なんやで。あんたは成長したウミガメしかしらんようやが、その世界も大変なんやで。なにが大陸棚や、笑ってまうわ。あんたの大陸棚は、駅前の立ち食いソバで十分や。海藻もはいってるがな」。
 夢さえ否定される世の男性陣よ、いまは耐えよ。いつかはこうした「横領の乱」が楽しかったと思える日がくる。そのときには世の男性陣よ、水族館をめぐった後、ウミガメの夢を肴に、杯を酌み交わそうではないか。あの水槽のウミガメをどうしたら大海原に返せるのか、作戦をたてようじゃないか。/本日の勉強会の報告は明日にいたします。(2/21)

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