日々旁午

2006


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第66回の勉強会・集団討論の模様をお伝えします。今回の集団討論は、20分・7名の方に実践していただきました。通常より5分短かく設定しました。これは時間がなかったというのが大きな理由ですが、本番でも20分くらいでしょうから、ヨリ実践的になったといえるでしょう。

 テーマは、「言葉の力の重要性が語られています。この力をどのようにして児童生徒に養成していきますか。国語の授業に関わらず議論してください」でした。例によって、仮にA〜Gさんとして再現してみますが、その前に、この議論を聞く側にまわっていた方からの指摘にもあったように、今回のテーマには、校種間で考え方に開きがあり、どうまとめていくか難しいかったということを申し上げます。参加者は小学校志望4名、中学校1名、高校2名というように、議論の噛み合いがどうなるか「心配」するものでありました。しかし、この「言葉の力」の育成は、どの校種ででも出題されますし、おそらく、全国的に高い出題率になるでしょうから、一度はやっておく必要があります。

 ある自治体の教育長が、「『ことば』は、学習や生活の基本です。近年、核家族化や都市化の影響で人と人との対話の機会が減っています。国際化や情報化が進み、大量の情報を理解したり、自分の考えを積極的に発信することが求められています。新たにパンフレットを作成し、学校での『ことばの教育』を充実してまいります」と過去にいっていたように、「言葉の力」の育成=「ことばの教育」の重視は、教育課題として柱になるものです。この力だけを育成するにしても、現場では大変なパワーを必要とするでしょう。

 討論再現に先立ち、「言葉の力」の出処を中教審答申に確認しておきます。それは、中教審答申「新しい時代における教養教育の在り方について」(平成14年2月21日)の「国語の力」が下敷きになっています。そこで述べられていることは、次のようにまとめられます。普遍的な教養として、教養そのものを深めるのに欠かせない道具的な力が「国語の力」である。初等教育段階で論理的な思考や表現力を定着させるには、言葉をうまく操れなければならないということである、です。

 同答申では、「時代がいかに変わろうとも普遍的な教養がある。かつて教養の大部分は古典などの読書を通じて得られてきたように、読み、書き、考えることは、教養を身に付け深めるために中心的な役割を果たす。その礎となるのが、国語の力である。国語は、日常生活を営むための言語技術であるだけでなく、論理的思考力や表現力の根源である。日本人としてのアイデンティティの確立、豊かな情緒や感性の涵養には、和漢洋の古典の教養を改めて重視するとともに、すべての知的活動の基盤となる国語力の育成を、初等教育の基軸として位置付ける必要がある」といいます。ここでは、知的基盤としての、つまり論理的思考力と表現力の根源としての「国語の力」≒「言葉の力」が日本人のアイデンティティとともに語られていることに注意しましょう。これがそのまま正しい価値であるかどうかはみなさんの判断に任せるほかありません。

 さらに同答申は、「国語教育や読書指導の重視(幼、少年期)・国語教育を格段に充実する必要がある。その際、名文や詩歌等の素読や暗唱、朗読など、言葉のリズムや美しさを体で覚えさせるような指導の良さを見直すべきである。また、近年多くの学校に広がっている『朝の10分間読書』(朝の始業前の時間を活用した読書活動として、昭和63年千葉県船橋学園女子校で始められ、全国的な広がりを見せている取組。平成14年2月8日現在の実施校は、7909校(内訳:小5299校、中2139校、高471校 朝の読書推進協議会調べ)で、うち全校一斉に行っている学校は6322校ある)は、読書の楽しみを知るだけでなく、集中力の向上などにも大きな成果があると言われ、このような活動が更に広がっていくことが期待される。併せて、司書教諭の配置やボランティアの活用、情報機器の整備などを通じ、図書館の総合的な機能の充実に取り組んでいく必要がある」といっています。「国語の力」育成の具体的教育手段に、朝の読書運動が挙げられています。ここではどのような成果があったのか、「楽しみ」と「集中力」が読書活動に認められていることを確認しましょう。

 高校段階では、「読書の推進(高校)・若い時期に、和漢洋の古典を始め、優れた書物に向き合うことの大切さを強調したい。読書は、考える力を育てるのみならず、様々な価値観に対する理解を促し、多元的な視野を与える。例えば、各高等学校において、学校としての『必読書30冊』を選定し、生徒に卒業までに読むことを勧めるなどの方策も有効であろう」と述べ、読書案内が提言されています。みなさんも、どんな本を読むべきか、どういう点でその読んだ本を薦めるべきか、教科担任の立場を離れ、ひとりの読書家として考えてみましょう。

 さて、討論はCさんの発言からはじまりました。音楽で音のイメージを語らせた場合、冷たい音とかあたたかい音とか多様な表現があるのに、それをうまく自分の言葉で語ることができない児童生徒がいるといわれ、言葉の力を持っていないと感じるそうです。そしてそれは、算数の文章題の意図するところを読み解けないといったところにもあらわれていると指摘されました。そして、今回、学習指導要領が改訂されるにあたって、「言葉の力」の育成が強調されているのはうれしいと、教育行政に対する評価をされました。

 Bさんは、小学校ボランティアの経験を語りました。けんかの場面によく出くわすが、それは自分の気持ちを言葉に表現できないからで、コミュニケーション能力も落ちているように感じるそうです。Eさんも同様のご意見で、「ありがとう」もいわない児童生徒が増えてきていることに危惧を感じておられるようでした。

 Gさんは、言葉は「想い」を伝える手段であり、言葉が足らないと「想い」の行き違いが生じる、これは大人社会でもそうであるが、だからこそ一つひとつの言葉の持つ力を吟味しつつ活用できるように指導したいと抱負を述べられました。Aさんも、児童生徒同士が互いに相手がどう感じるかを考えながら会話できることが重要で、他者を思いやる気持ちと言葉の力は密接な関係にあると指摘されました。これはBさんの憂いと共通する部分です。

 一方、Dさんは、文学作品に親しんだり、詩を読んだりすることが、児童生徒の感受性を高め、豊かな表現力を手に入れる原動力になるのではないかと、高校志望の立場から発言され、Fさんも高校志望の立場から、読書は大切であると主張されました。Fさんは、人間として大切なこと、日本人として大切なこと、これらを身につける手段が読書にあり、感性、情緒を養うためにも有効であるということでした。また、歴史を学ぶ際、言葉に対する感性を磨かないとならないとも指摘されました。国家は言葉からはじまるかどうかは判断を避けますけれども、『国家の品格』を引き合いに出して議論を続けられました。ところで、ある民族が共通の言葉を持ち、それによって民族の結合が増すことは、国家成立のメルクマールです。近代国家のナショナリズムは、言葉の持つ力に大きく依存しています。

 児童生徒は自己を表現する語彙が少なく、ここをどう広げるかが、Cさん、Eさんの共通の課題として認識されていました。「うれしい」といっても、わくわくするとか、胸が躍るとか、多様ないいかえがある。児童生徒がよく使う言葉に「キショイ」があるけれども、その意味は「気持ちが悪い」であり、「むかむかする」であり、多くの意味内容を一つの言葉が包摂しているので問題がある。Cさんはこのようにいわれ、「どういうふうにキショイの?」と問いかけることによって、言葉の本質を理解させる声掛けを実践されています。非常によくわかる具体的なご意見でした。Eさんは語彙を広げる豊かな泉が日本語そのものの中にあり、それをどのように発掘するかが指導の問題であるといわれ、朝の会で児童に絵本を読み聞かせ、そこから自発的に図書館通いの児童が増えたことに喜びを感じておられました。Aさんは、「キショイ」の言葉に反応し、この言葉を受ける側が傷つくということを、発する方が理解しているかどうか、それがわからないと人と人との関係性が育めないことになるとご意見されました。

 Bさんは先に出てきた読書の話題に立ち戻り、読書経験から伝えきれないままであった気持ちに形を与えることができるといわれました。ただし、その前提に「他者に気持ちを伝えるのは難しいことである」ということも理解させるべきであると述べられました。これに対しEさんが、難しいけれども、逆に自分の気持ちがわかってもらえるようになるのは楽しいことなんだと指導したいと応酬されました。どちらも一理ある考え方ですね。

 Dさんは、気持ちを伝える、表現するということに関連し、新しい自分を発見することが言葉の力の育成とともにできるのではないかと問われ、そのためには、読書感想文の指導が適当ではないかといわれました。Cさんが言葉をたくさん憶えることの大切さを強調し、B、E、Dさんのご意見に刺激を受けつつ言葉の広げ方について、「その言葉はあの本に載っていたね」というようにしていけばいい、そして授業で学んだ言葉を極力次の授業でも生かせるようにし、いわば言葉の訓練的な実践をすべきではないかと述べられました。
 いままでの議論をまとめるように、Gさんは、読書はインプット、コミュニケーションや自己表現、自分の気持ちを他者に伝えることはアウトプット、といわれ、ここで一段落ついたようです。

 話題は転換し、Bさんが、理科の実験の授業において、児童生徒が実験の予想をしたときに教員の想定外の表現をしたことがある、こうした教員の側が思ってもいないながらなるほどとうなずくべき表現をほめることが、その児童生徒の言葉の力を伸ばすことになるのではないかと具体的に話されました。国語の時間においても、今の発表よかったねとひろいあげるのがよいとEさんも同調されました。ここでは「同調」でしたね。

 Fさんは、読書に関し、音読の重要性を指摘され、素読にも触れられ、言葉を使いこなすには、身体に染み付いた言葉の力の育成が必要で、そのためにはなんらかの文章を暗誦するのがよいのではないかと問いかけられました。Aさんはこれを受け、たしかに音読の力も落ちており、PISA調査でも読解力は落ちてきている。読書と音読と、そして読解力をどのようにつなげて指導するかが肝要であり、班活動からはじめて大きい単位の活動へ言葉の力育成の実践を発展させていくことがいいのではないかと答えられました。と同時に、家庭教育が言葉の力育成にかなりの割合を占めるので、この面における学校と家庭との協力が是非とも必要と指摘されました。

 最後にCさんが、教科書の読みとり、正しい理解と、それをもとに想像を膨らませる言葉の力の育成を指摘され、討論は終了しました。

 以上のように、今回の討論では、表現力、コミュニケーション、読書などから討論の発展性があったことが認められます。討論終了後、コミュニケーション力の育成は言葉の力の育成と少しずれているのではないかという意見もありました。というのは、Aさんが指摘されていましたが、読解力の向上がPISA調査結果からもいわれていましたし、学習指導要領の改訂に絡んでも目標化されているからです。たしかにそうした点を勘案すれば、あまりにコミュニケーション能力の育成を云々しても、「政府の教育理念」からは離れていってしまうでしょう。しかし、この議論も現場の生徒指導と言葉の問題とのかかわりからいうと必ず登場するトピックですから、どこまでこのトピックに時間を割くかについて討論参加者の中で共通理解があるとよいですね。これはかなり温度差がありそうなので現実には難しいですけど。

 次の改訂の学習指導要領における「言葉の力」育成については、2、3日前の旁午に書きましたのでご参照ください。

 近い将来もう一度このテーマで議論する場合、校種を揃えてやってみましょうか。ではまた来週!25日にお会いしましょう。
(2/20)

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昨日は、第66回当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。お申し込みいただいたにもかかわらず、不参加の方もいらっしゃり、悲しい思いもいたしましたが、ほぼ満席で、教育哲学(キリスト教倫理に関わること)に関する深いお話も聞けて勉強になりました。過去、キリスト教や教会、托鉢修道院の教育、トーマス=アクィナスについて考えていたことなどをイロイロと頭の中で反芻しておりました。そうした西洋倫理思想の勉強からかなり遠ざかっておりましたので、改めてその関係の本を手に取ろうとする契機となりそうです。

 さて、今回は、ゆったりと勉強会を実施しました。そこでは、「新しい時代の義務教育を創造する」答申を読みつつ重要事項や1次試験で聞かれそうなことを『スコープ』で確認しました。今後、このように、重要事項確認を踏まえながら進めていく予定です。憶えているようでそうでない事項を確実にしてまいりましょう。答申そのものについては、「あるべき教員像の明示」のとことを再確認しておいてください。いかにものところです。今回だいぶん進みまして、同答申はもうちょっとだけ講読して終了です。次回は、配布しました「特別支援教育を推進する制度の在り方について」を読んでまいります。その際、年末あたりに配った「今後の特別支援教育の在り方について」を持参されるといいでしょう。再度解説のところだけでも読んできてください。この解説・本文・問題のセット資料をお持ちでない方は、次回参加のときに頒布いたしますので、必要な方はできればメールいただけるとありがたいです。

 次に、Hさんに「自己売り込み」をしていただきました。ご参加のみなさんから多様なご意見いただき、参考になったことだと思われます。司会進行役をやっておりますワタクシがあまりコメントを書いてペーパーをお返しできず申し訳ないです。しかし、その分は口頭でお伝えしたつもりです。もう一度、論旨を練り直して、イイタイコトがはっきり伝わるようにしてください。大学4年生のフレッシュな意気込みと、まだみぬ学校世界への展望を織り込んでみてください。自分が教員として奉職し、どんなことができるのか、これを書いてこその「売り込み」です。

 集団討論は、「言葉の力の重要性が語られています。この力をどのようにして児童生徒に養成していきますか。国語の授業に関わらず議論してください」をテーマに、20分、7名の方に実践していただきました。この模様は、次回の更新でお伝えいたします。

 今回、コーヒー会(勉強会の後のお茶タイム)を欠席し、失礼しました。両親が留守しておりまして、コイツにエサをやらねば死んでしまうからでした。

 ワタクシなどを信頼して、この勉強会に継続的にご参加してくださるみなさまのために、なにがしかのお力になれるよう、楽しく厳しく実施していく所存です。今後もよろしくお願いいたします。
(2/19)

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本日は、第66回当サイト主宰勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。今回は、キャンセル待ちの方が多くいらっしゃり、ご迷惑おかけしております。座席を確保された方、そうした方がいらっしゃることをご理解お願いしますね。

 さて、集団討論のテーマは、「言葉の力」に関してです。このテーマは、最近の旁午で触れましたように、次回学習指導要領の改訂の柱になっています。この力をいかに育成するか、ちょっと考えてみてくださいね。

 それから、集団面接もいたします。こちらは、是非、予習的に「よく出るかもしれない教採面接質問集」をみておいてくださいね。

 「自己売り込みのツボ」の実践者Hさん、がんばってください。期待しております。成功しても失敗しても、やることが大事。オリンピックも果敢に挑戦した方がいい結果を残しているはずです(それにしても、男子フィギュアはイケメン揃いですな)。

 新しい答申解説集を、あす、配布する予定です。特別支援教育に関する答申です。

 できれば『教職教養スコープ』時事通信社の持参をお願いします。これはコンパクトにまとまったよい参考書ですから。
(2/18)

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大学生の学力が落ちてきているというのは、よく議論されたところである。「分数ができない」と批判されようとも、それなりに受験をくぐりぬけて合格した学生にはある程度の期待を持っているというのが、大学教員の立場である。学力低下は学習指導要領の改訂、ゆとり教育の実施などによって、危惧されてきたが、倫理的な問題に関しては、一定程度、学生の良識に求められるものであり、「ふつう、そんなことはせんだろ」といった見方で、信頼を寄せていたのが、これまた大学教員の立場であった。まさかそれが頭を抱える立場になろうとは、思わなかったであろう。

 京都大学や大阪大学といった日本を代表する大学の学生が、破廉恥な行為や恐喝的行動をするのはどういうことなのだろうか。一部の学生の醜態を引き合いに出して全部を批判する愚はさけなければならない。だが、女学生が教室から泣いて出て行く「鑑賞会」を京大生が開いていたというのは、おいおい、どうなってんの、と思わせるに余りある。

 件のビデオをみるなとはいわない。しかし、その手のものは、自分の部屋、下宿などで、隠れて楽しむものなのである。ワタクシだって男だから、そうしたものを一度もみたことないなどと、金箔付の偽君子のようにはいわない。しかし、図書室でみるようなものではないという自覚(こんなことで「自覚」なんて言葉を使うとは思わなかった)どころか、ふつうの感覚として学生時代に「その手のものは、自分の部屋、下宿などで、隠れて楽しむ」感覚を持っていた。

 ホンの数日前には、京大アメフト部の学生の集団強姦事件があったばかりだし、こんな「鑑賞会」が実施されるとは、いま流行の言葉でいえば「ビックルを一気飲みしてしまった」。

 京大アメフト部学生の、復学を可能とする退学届の不受理は国民感情として賛同される。落合恵美子先生は、泣くに泣けないというか、どういう反応をされるのであろうか。

 ちょっと前、スーフリ事件に関連し、某大臣が「ひきこもるなら、強姦するくらい元気があったほうがいい」といい放って物議をかもしたことがあった。いまは逮捕され、その存在が社会的に消滅しかかっている民主党西村議員(まだ党員資格を剥奪されていないし、衆議院議員辞表も出していない。ちなみに西村眞吾氏も京大である。氏は北朝鮮問題を語る前に自分の不明を恥じ、反省するべきである)も、核武装問題において、これとよく似た発言をしていた。日本の知性は倫理の裏付けがないものであることを、コトの大から小までが証明している。

 九州の運転免許講習会のある会場でも、「鑑賞会」があったようだから、まあ、日本中、エロだらけということである。

 ところで、テレビで「夜王」なるものが放映され、ある程度の視聴率がとれているようである。現実に、ホストも仕事として認められるものであることは間違いない。別段、ホストだからといって自分の職業を恥じる必要もない。氷上でウツクしく舞う少女の父親も、ホストを職としているらしいし、そんなことは恥でもなんでもない。ワイドショーが、その辺を嗅ぎまわるのは、それこそテレビの覗き見主義であって、マスコミの反省材料であろう。

 だが、大阪大学のこの件の学生は無茶苦茶である。医学部教授の論文捏造問題に引きつづき、当該学生の不祥事についても総長宮原氏が見解を出さねばならないとは、心中お察しする次第である。

 こうした問題を話題にすることをワタクシは避けてきたが、「鑑賞会」があってから、書く気になった。なぜなら、「すぐやめて、勉強しますから」といった学生の理由に、なんともいえない嫌悪感を持ったからである。「勉強」とは、そんなものではない。正直、腹が立った。
(2/17)

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「うしろのこくばん」のURLを変更しました。独立してブックマークされている方は、変更お願いいたします。海外からのウルサイ書き込みが最近また復活し、辟易しています。それから、「京都のこくばん」は閉鎖の方向で考えております。もうちょっとしてから判断いたします。

 また、この「旁午」のコーナーの上に、アンケートを設置しました。以前にも設置していた、ひとこと返信つきのものです。是非是非、ご回答お願いします。

 いま、各地における日教組学習会のレジュメを手がけています。今年のレジュメも充実させるべく資料を捜査しています。その根本となる文科省のサイトは、アクセシビリティが悪くて困りますね。もうちょっと改善してほしいものです。

 大阪の勉強会は盛況になってきております。お早目のお申し込みをよろしくお願いいたします。新しく参加される方、大歓迎です。知らないサイトの、どこの馬の骨ともわからぬ知らない管理人が運営する勉強会に恐れを抱かれるとは思いますが(笑)、勇気を出してメールくださいね。こちらから勧誘することはありませんから(笑)。そういう意味では、健全です。ハハハ。返信先のアドレスだけは記入間違いないようにお気をつけください。せっかく申し込まれても、不時着のときがあります。これにはマイリマス。

 府教委、大阪大学(医学部教授もホスト学生も)と、なんかヘンナ状況です。でも、大阪府と大阪市が手を組むなど新しい動きもあります。効率よき行政を期待します。
(2/16)

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きのうにひきつづき、例の学習指導要領改訂について書いてみる。
 やはり文科省の態度は、煮え切らないものなのである。国民のゆとり教育批判に対するなんらのコメントもなく、ただ路線踏襲である。文科省自体も平成10年版学習指導要領の文教失政は自覚しているにもかかわらず、気づかない振りをしているわけである。さっさと自己修正を認めて、楽になり、新たな教育改革の理念を掲げた方がすっきりするとは思うのだが、官僚の自負がそれを許さないのであろうか。

 『産経新聞』は、正しく今回のゴタゴタを分析している。その見出しも「『ゆとり教育』転換見送り 中教審部会 現行指導要領を堅持」である。ワタクシの見方も、同紙と同じである。少なくとも、文科省が表面上「転換」をアナウンスするわけがないと思っていた。それは下にも書いてあるとおり、中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」がその方向性を示していたからである。昨年10月末のことだから、そこからそうすぐに文科省(=中教審)の行政態度が変わるわけがない。だから、何度も書くが、「ゆとり教育路線からの抜本的な転換は事実上、見送られた」という産経の見方は正しい。

 同紙が「報告書(中央教育審議会の教育課程部会審議経過報告書−浩の註)は『現行の学習指導要領の基本的な考え方は今後も維持すべきだ』と、指導要領そのものを肯定的に評価する立場を貫いている」というのは、上の中教審答申に符合する。

 すなわち、「現行の学習指導要領の学力観について、様々な議論が提起されているが、基礎的な知識・技能の育成(いわゆる習得型の教育)と、自ら学び自ら考える力の育成(いわゆる探究型の教育)とは、対立的あるいは二者択一的にとらえるべきものではなく、この両方を総合的に育成することが必要である」(「新しい時代の義務教育を創造する」。以下、同じ)としてカリキュラム的にいえば教科中心的な構造と経験中心的な構造とを同調させる方向で義務教育を整合させるよう述べているし、「基礎的な知識・技能を徹底して身に付けさせ、それを活用しながら自ら学び自ら考える力などの『確かな学力』を育成し『生きる力』をはぐくむという、基本的な考え方は、今後も引き続き重要」というように、はっきり従来の「生きる力」養成は続行するよういっているのである。文科省の従来路線については、「子どもたちの学力の状況を踏まえると、現行の学習指導要領については、基本的な理念に誤りはないものの、それを実現するための具体的な手立てに関し、課題がある」として、理念が悪いのではない、具体的なやり方に問題があるのだと解釈を示している。

 このような、理念は正しくそれを実現する手立てがない、あるいは難しい、というのは、理念達成できる方法がないのだから、絵に描いた餅となるのではないか。きしみが文科省にあるわけで、これでは国民教育の方向性はまた迷走する。

 ゆとり教育の反対概念が詰め込み教育というわけではない。習得型と探求型の「同調」をうまく成功させる手立て(カリキュラム)は、20世紀にはなかったし、いまもまだない。この「発明」はないのであろうか。いまこそ大正自由教育の発展型を求める時代といえる。そういう中身の詰まった第7次改訂学習指導要領が望まれるのである。
(2/15)

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ちょっと遅くなったけれども、例の学習指導要領改訂について書いてみる。「うしろのこくばん」に、『朝日新聞』(2月9日付)のURLだけ貼り付けていたが、その内容を再確認するのは意義があろう(ちなみに「うしろのこくばん」では、URLを書くと自動的にリンクされる機能をやめました。最近また変な書き込みが多いからです)。

 同紙は、中教審が原案作成作業にはいっており、「文科省は07年度までに全面改訂を終える予定」と報道する。07年度だから、2008年3月までに全面改訂の「原稿」を挙げるわけである。これは教育制度分科会の仕事であろう。とするともうあと2年しかないことになる。そんなに慌てて改訂しないでもよいのにとワタクシなどは考えるわけであるが、特別支援教育の充実した規定の挿入も絡んで、早々に改訂しなければならないのであろう。当然ながら学校教育法およびその施行規則も変わる。

 さてその次回改訂(第7次になる)の指導要領の目玉は、「言葉の力」らしい。同紙は、「『ゆとり』から『言葉の力』へ。約10年ぶりに全面改訂される次期学習指導要領に、学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、『言葉の力』を据えることがわかった。文部科学省が近く、中央教育審議会の部会で原案を示す。『言葉の力』は、確かな学力をつけるための基盤という位置づけ。学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった『ゆとり教育』は事実上転換されることになる」という。

 しかし、現行の学習指導要領においても、「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」の「2」のトップに「言語環境」を整え、「言語活動」の適正を謳っているわけだし、これはすなわち従来の指導要領の主張の一部をクローズアップし取り上げているのであって、「原案」は、それほど大胆な提言とはいえないだろうし、「転換」ともいい切れない。だから2年で改訂できると文科省はふんでいるわけである。

 「言葉の力」は、そのほか、PISAの調査発表以来、養成を期待される懸案の事項でもある。PISAのいうところの「読解力」とは、「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」であるが、この読解力が3年前の調査結果よりも3ポイント落ちている。

 こうした事情からすれば、既定路線の改訂に過ぎない。

 だから、『朝日新聞』が、なぜ、「学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった『ゆとり教育』は事実上転換されることになる」と評論しているのかよくわからない。「ゆとり教育」からの脱却は、「生きる力を知の立場から捉えた『確かな学力』」の主張にみられるように、すでに舵が取られている。もっといえば遠山時代に文科省は自己修正しているのである。

 原案が、「言葉は、確かな学力を形成するための基盤。他者を理解し、自分を表現し、社会と対話するための手段で、知的活動や感性・情緒の基盤となる」と書いているようではあるが、「確かな学力」は上のような経緯で出来しているのである。「ゆとり」から「言葉の力」へ転換とは、どうもわからない。

 このように内容的な「転換」はわからないが、授業時数の大幅増加が実現されるというのなら、これはたしかに「転換」だろう。

 小学校6年で、年間1015時間(元年)が945時間(10年)に削減され、国語は272、280、235、235、180、175時間となっている。つまり6年生の年間国語授業時数は175単位時間である。175/945が国語に充てられているわけである。これをどれくらい増やすのであろうか。せめて小5、小6で200単位時間を越える「原案」でなければ「転換」とはとてもいえないだろう。中学校ではどうか。中学校の国語は、140、105、105である。中3で105単位時間は数学や英語と同じ配当である。これも「言葉の力」が柱というのならば、175時間は最低限度の時間配分だろう。

 文部次官結城章夫氏は勢い込んで、06年度内に改訂する、といっているようであるが(『朝日新聞』2月13日付)、上のような授業時数をどういうように、どこからどこへ、もってくるのか。総合学習を削るのか、副教科をまた減らして、45ではなく38などとするのであろうか。土日が休みの現状、総授業時間数を1100時間くらいにするのは並大抵の議論ではできなかろう。ただ、「義務教育はセーフティーネット」(「新しい時代の義務教育を創造する」)というのなら、そこまで踏み込んでみて、国民の反応をみてみてもいいかもしれない。陽性反応がでるようなケハイだからである。
(2/14)

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ガラスで首を切り死亡に至るとは嘆かわしい事件である。阿久津中学校の、ある3年生のご冥福を祈る。

 この事故がどのような経緯で起こってしまったのか。報道によれば「追いかけっこ」で勢いあまってガラス扉に突っ込んでいったそうである。学校ではこうした「追いかけっこ」は、児童生徒の「悪い遊び」としてよくあることであろう。ワタクシも、中学生のときは、室内や廊下で「追いかけっこ」をしたものである。悪いことなのだろうけれども、事件の当事者2人を責められない過去を、ワタクシは経験しているのである。そのときも、バーンとあたって、やっぱりケガをした。

 「廊下を走らないように」とは、よくある校内掲示である。ワタクシの事故のときも、この掲示があった。先生にも叱られた。だが、先生の叱り方は、掲示の通りであった。そういう指導であった。このワタクシの事件を反省し、「問題の戸のガラスを破片が飛び散らない強化ガラスに切り替える方針を固めた」(『讀賣新聞』)わけではなかった。

 ひょっとすれば、ワタクシの場合も、今回の死亡事件と同じような結果になっていたかもしれない。それがそうでなかったから、強化ガラス化しなかったのかもしれない。

 クラスの友人も彼の死を悼んでいるであろうし、精神的なショックも大きいはずである。強化ガラスよりも何よりも、教室や廊下を走るな、という指導をまずはすべきであろう。そのための「特別授業の感想文」(『同上』)ならば意義もある。

 強化ガラスにすれば終わるものではなかろう。
(2/13)

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昨日の事件は、大阪府教育委員会事務局だけでなく、大阪府立高校の各校長教頭に激震を与えたが、唯一救われるのは、この関係臨時職員の勤め先の校長が「高級スーツ」を返却していた点である。これがまた波紋を呼ぶことになったら目もあてられなかった。ただ、「いつ返したのか」という「時点」の問題はあるものの、潔白であることを祈るばかりである。

 それにしてもこうした「口利き」があるのはなぜなのか。ふつう非常勤講師の採用は、各学校長の裁量に任せられるのであるから、そこに情実が働いたとしても致し方ない。一般的にいって、だれを講師として雇うかは、イロイロな記録を基にして、校長の「独断」で決めてよいのである。思うに「口利き」などしなくても、元教育監の和佐氏がごく「普通」に依頼すれば、別に問題の起こりようがなかったのではないのだろうか。実は非常勤講師の採用にあって、「よくある話」なのである。

 問題は2つ。ひとつは、ここに金品の授受があったこと。そんなことをしなくても採用されていたであろうに。正式教員ではないのであるから。もしもこれが正式教員の採用に当たっての贈収賄事件であったなら、ことは破滅的に大きくなる。いままでもよく受験生の間でウワサがあったが、正式教員採用における「縁故(コネクション)」は、(もしもあったとするならば、)これを機に完璧になくなるであろう。職種は違うが公務員という点でいえば、奈良の消防署員不正採用のような馬鹿げたことをしてはならない。しかし、渦中の非常勤講師に採用された女性はどうなるのだろう。この女性自らが頼み込んだのなら罪ありであろう。だが、なんとなく上宮元理事と和佐氏との密約のように思える。そうだとすれば、この女性も被害者といえる(『讀賣新聞』を参照のこと)。ひょっとすれば上宮に採用されなかったから府の非常勤講師に「せざるをえない」と元理事が動いたのかもしれない。ワタクシには、上宮に知り合いの教員もいる。ちょっとどうなっているのか聞いてもみたい。何にも語ってくれないだろうけれども。

 もともとこの元理事はいわば「学校から追い出された理事」なのであるから、そうした悪事に長けた理事なのだろう。1億円以上の接待支出は誰がみてもおかしすぎるからである。上町大地に激震とともに余震も起こりそうである。

 もうひとつの問題は、非常勤講師そのものの存在である。いっそ、これを機会に非常勤講師なんぞなくしてしまえ、というと、現に非常勤講師でがんばっている方々に叱られてしまうが、いま非常勤講師をされている方を、すべて正式教員に採用していただきたいというのが、ワタクシの主張である。こんな教育基本法第6条に照らして正常ではない採用形態があるからこのような事件も起こる。そして事件は非常勤講師の採用においてすら、相当の困難な事態にあるということを自白した。つまり、財政の問題に直結する。大阪府下では圧倒的に先生の数が少ないのである。しかし、正式教員ではカネがかかるから講師採用となるのである。

 いま、大量採用しているのが教員不足を物語っているが、それでも足りない。この夏の試験では、非常勤講師に頼らないよう、3割り増しくらいで採用すればいいと切に願う。
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大阪府教育委員会(事務局)が揺れに揺れている。元教育監の汚職事件である。教育監は事務局のナンバー2にあたるらしい。『毎日新聞』の速報である。「元」とあるようにすでに退職しているのであるが、「贈収賄容疑での立件を視野に入れており、府教委を舞台にした教員採用汚職事件に発展する可能性が出てきた」と報じられている。

 詳細な報道はまたTVでなされると思われるが、毎日の報道が勇み足でなければ、これはひどい。贈賄側私学幹部(市内中高一貫教育校の理事長)の孫娘を臨時職員に採用し、それ絡んで金品(スーツ仕立券)の収賄をしたのだからなにをかいわんやである。まさか、この教育監がHN氏であるわけないし、NA氏であるわけないし、ひょっとしてMW氏なのであろうか。この辺ははっきり報道されていないし伏せなければならない。

 この件だけでなく、上のように「府教委を舞台にした教員採用汚職事件」(『同上』)というのがほんまにほんまなら、今夏の採用試験にもなんらかの影響があるのかもしれない。具体的にそれがどういうふうなのかはわからない。しかし、こうした贈収賄が現職において伝統的に行なわれているとすれば、ごっそり府教委事務局上層部のメンバーを入れ替えなければならない。まあ、本件は、元教育監と私学理事長のプライベートな関係が収賄の温床になったのであって、いわゆる「組織ぐるみ」でないことを祈る。しかし府警は徹底して調査すべきであろう。
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