日々旁午

2007


先週末実施された勉強会における集団討論の様子を再現することにいたします。さすがに、週末2回開催いたしまして、その両方を再現するのは、他の仕事も抱えるワタクシにとりまして、限界を超えるものでありまして、どちらか一方の再現作業にとどめざるを得ません。申し訳ありません。どちらを再現するかは、ワタクシの一存になってしまいますが、そこはご容赦。しかし、取り上げなかった方に出てきた問題点を付属することによって、今後の討論のヒントになることを期待いたします。

 さて、テーマは、あの永遠の課題でした。「なぜ勉強するの、といった素朴な疑問にどう答えたらいいでしょうか。校種教科に応じ意見を出し合ってください」。これに対し、6名の方がチャレンジしてくださいました。仮にA〜Fさんといたしましょう。時間は20分+αでした。

 まず、Aさんが、テーマを確認され、なぜ勉強するのかの質問に対し、中学理科志望の立場から、ひとつは高校受験という外的理由、もうひとつは内的理由として理科そのものが楽しいから勉強するんだ、というご意見を提示されました。Eさんは、高校地歴ですが、世界史はあまり人気がない、負担量が多いので受験でも避けられる傾向にあるとまず話されます。しかし、世界史は必修であるから、これを学ぶ生徒に、学ぶ理由を説明しなければならないが、それは世界史を通してまさに世界の文化を勉強し、たとえば文化的な障壁を越えるポイントを考えたり、現に文化の相違からトラブルが起こっている状態にどう判断するかの基礎になったりするのである、と。こうしたことを過去に遡って考えさせることが世界史教員に求められていると発言されました。

 Bさんは、まずは勉強に興味を持たせることが先決であるとの立場です。こうした質問が出るのは、勉強をしたくない、勉強から逃げ出したいといった意識のあらわれではないかと分析されます。つづいてFさんは、社会科教員として、地理歴史公民を教える立場であるが、ここでは公民をなぜ勉強するのかに解答をあたえたいとし、こういわれます。日本では選挙権は20歳からであるが、キミたちは日本の未来を決定していく存在である。だから、国の仕組みを知っておかなければならない、ということです。このほか、世の中の仕組みを知っていないと、あるいは不幸な目に遭うこともある。公民は、いってみれば、生きていく技術を自分自身を守る知恵を授けてくれる科目である、ということを話されました。

 Cさんは、人間の存在そのものが、新しいことを知りたい欲求を持っているとの認識を示され、新しいものを、あるいは未知のものをどんどん吸収していくことが豊かな人生を送れるひとつの方法であるということを、この質問に対して答えたいと述べられました。Dさんは、音楽教員を目指す立場から、選択科目である音楽では、よくこの質問を生徒からされるといい、しかも、ある曲の生まれた背景を知ることも大切だよというと、国旗や風土を本で調べるのは、国語やないか、社会やないか、とつっこまれるそうです。これはたしかにつらいつっこみですね。知れば知るほど知りたくなる、相互関連性で知が重なっていくということを、Dさんは生徒に訴えるそうですが、そこまで理解が及ばない生徒に手を焼いているみたいですね。ある音楽を聴いてその背景をイメージできることは、これは相当な勉強をしなければならないのはいうまでもありません。音楽評論家などは、ものすごい知識量をもっているのでしょう。Eさんは、こうした参加者の意見を聞いて、教科間にある種の連関は当然ある、そこで、教科に捉われず、横断的に学ぶ意味を考えてみませんかと問題提起されました。

 Aさんは、Fさんの公民学習の理由に同意しつつ、新しい観点として、情報溢れる現在、正しい情報選択能力を身につけることが、勉強するひとつの目的ではないかと述べられ、「あるある番組捏造」のことに触れつつも、科学的な考え方を是非生徒に育成するべきとまとめられました。Bさんは、社会のルールは頭のよい人が作ったと、モノの本で書いてあったことを紹介し、その社会の中でどういうように豊かに生きていくかを考えるべきで、教員としては教科相互に働くように教えるのがよいと述べられます。この議論から、教育課程の在り方につっこむことができれば、もっといいですね。

 Eさんは、問題提起者として、上の各発言を受けとめつつ、情報リテラシーの育成など学校で身につけるべきであると同意されました。

 ここでCさんは、知識を得る勉強をするということから、受験勉強のことを話題にされました。受験勉強は必要なのか、大上段の問題提起です。なぜ、勉強するの、の質問にどう答えるかを考えさせるこのテーマから導き出されるものとして、受験勉強の問題は、おそらく多くの他の集団討論でも展開されるでしょう。Cさんは、受験勉強について、集中力や耐久力や計画性が身につくとして、評価する方向で捉えているようでした。Bさんは、このテーマの質問が、どのようなシチュエーションで出たのかを検討する余地があるとし、受験勉強で普段よりもがんばっている最中に、ポロッと「なんでこんなにやらなあかんねんやろなあ」という意味で、「なぜ勉強するの」が口をついたのかもしれないと感想を述べられました。Eさんは、受験を乗り越え合格できたら達成感を実感できる、学力がついたら自分の夢を実現できると述べられます。こうして、質問に答えることもできるし、人生の選択肢が広がるということも伝えたいとされます。

 Fさんは、かなり衝撃的な切り口で、この質問に対する回答を「紹介」されました。なんで勉強するのか、それはお金を稼ぐため、だから。読み書き計算ができないと、仕事がない、それ以上の能力を持っていないと、収入の向上もない。これは、アメリカの小学校での実話だそうで、なるほどアメリカならこうしたギリギリの話もあるだろうと信憑性高いです。日本でも、本当はこうした現実主義に立っているはずなのですけど、おおっぴらには教員がこんなことをいうことはないでしょう。討論終了後の議論でも、こうした話題を出すべきかどうか、検討がありました。たるんだ議論をシメる効果は認められますね。

 Dさんは、受験のペーパーテストにない音楽ですから、この議論になかなか参加しづらそうでしたが、それでも食い入ろうと立派です。あのときやったんや、勉強したんやとの後悔しないこと、これが大切であると述べられます「先生のトシになっても勉強やで」と微笑ましく付け加えられました。Cさんは、「あのときこうしとけばよかった」と教員が反省的視点をこめて児童生徒にいって、それがそのまま児童生徒の心に響くかどうか彼らの成長段階を考えると、あるいはいま目の前のことを必死でやっていることを考えると疑問があると発言されながらも、Dさんに同意を示しされます。そして、日々の生活にあらわれる一つひとつの事柄が勉強の対象になると述べられ、討論が終了しました。

 この後、検討会になったわけです。そこでは、様々な意見が出ました。たとえば、具体的に英語をなぜ勉強するのかに対し、世界中で一番使われている言語であるということ。一日中、英語を使わず生活できるか、との提起を生徒にするのも面白かったご意見です。ミルク、バイク、オンリーユー、使わないことはありませんね。それから、なぜ勉強するのかと質問にきた児童生徒だけに説明するのはおかしいとのご意見もありました。「私なら、まず、みずからなんで勉強するのかを4月の1回目の授業でみんなに話す」といわれます。それから、勉強は金のためにするのか、との意見、お金と勉強の関係は、拝金主義になりかねず、いいたかったけど遠慮していたという意見もありました。勉強は面白いものではない、と、ズバリいうのは悪いだろうかとの観点も登場し、受験勉強肯定論もありました。受験勉強は平等であるという主張です。思想、信条、性別、出自に関係なく、受験は純粋に学力で勝負できるから平等であるとの議論がある一方で、しかし、個人の受験を支える環境には大きな違いがあるとすれば、平等性は保障されないとのご意見もありました。塾にいける子いけない子。立場は様々です。勉強が夢の実現を可能にするというご意見に対しては、職業選択とキャリア教育についてのご意見が出ました。また、過激な意見としては、本番では当然いわないでしょうけれども、議論を熱くするものとして、「ニートになるよ」とか、「勉強しないからニートになるのではない」とか、お金に関し「勉強できなくても生活してるやん」といった話題もでて、これはこれで考えないとね、となりました。

 このほか、ここで再現しなかった集団討論のときに登場した意見やコメントをあげます。まず、集団討論に受験勉強のことが全然登場しなかったことが印象的でした。同じテーマでも、ふたつ討論をみると、全然性格が違うものだなと実感しました。まあ、それは当然かもしれませんね。

 このつづき、もう少し書きますね。次回更新時に。
(2/20)

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昨日、一昨日は、当サイト主宰教育学勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。インフルエンザに体調を崩されやむなくご参加不可能な方もいらっしゃいましたが、お身体大切になされてください。

 さて、両日ともに、だいたい勉強した内容は一緒でして、教育再生会議第一次報告からの検討からはじめました。資料中、「個」と「公」なんて対比はなんででてくるんやろう、普通、ここは、「公」と「私」と書くべきだし、「個」を「私」に置き換えても、「『私』と『公』」となり、順番的にもおかしいとみなさんに考えていただきました。

 このことについて、Sさんが、早速調べてきてくださいました。ありがとう。調べてくださった内容に登場する野依氏の発想について、今後議論しましょう。対談相手が、あの河合氏であるというのも、意味深です。なにしろ、京都で、ある運動の中心になっている方ですから。

 さて、次に、集団討論をいたしました。この模様については、次回更新時といたします。

 そして、集団面接。今回の質問事項を挙げておきます。両日、共通のものでした。「いま、緊張していますか」、「きょうは試験ですけど、いままで、どういうふうに勉強してきましたか」、「あなたの短所はどういうところですか」、「不登校児童生徒の対処法を、一般論でいいですから、知っていることを教えてください」、「保護者との付き合い方のコツなどはありますか」、「ある保護者とうまくいかなくなりました。どのように関係を修復していこうとされますか」、「保護者から、うちの子は、よく忘れ物をするので、先生、朝、電話かけてなにがいるか伝えてくれませんか、といわれたら、どう対応しますか」、「学校安全について考えているところを教えてください」、「あなたの人生で、一番感動したことはなんですか」、「教育の中立性ということについて、説明してください」、でした。

 最後に、「自己売り込みのツボ」でした。AさんとSさん、IさんとSさんにがんばっていただきました。一昨日のAさん、がんばりました。しかし、売り込みの観点を再考してください。昨日の珈琲会で議論したことを忘れずに。Sさんの売り込みは、面白いものでした。こうしたアプローチもあるのだなと、お聞きのみなさんも感心していましたね。人間性を評価してもらおうという姿勢は、一定程度成功したといえるのではないでしょうか。昨日のIさんには、厳しいこともいいましたが、是非、再考してくださいね。もっと、いいものができるはずです。毎日忙しいのは、Iさんも、ワタクシも、参加者も同じです。がんばりましょう。Sさんとは、勉強会終了後の珈琲会で、イロイロと議論しましたね。最後まで残ってくれ、話を聞いてくださった他の参加者のご意見をも参考に、分量調整とポイント選択してくださいね。

 すでに、4月期開催のお申し込みを受け付けております。もう満席の日程もありますが、みなさまからのお申し込みをお待ちしております。

 是非、一緒に勉強しましょう!
(2/19)

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『世界』2007年2月号・教育特集は、二つのルポを掲載している。その一つが、星徹氏による詳細なレポート、「新人女性教諭自殺 学校現場に不幸をもたらす『教育改革』」である。

 遺族代理人弁護士の川人博氏、山下敏雅氏の記者会見配布資料を基礎資料とし、そこに、星氏渾身の取材ノートが重なって、臨場感あるルポとなっている。事件の表層ではなく、ワタクシたちが知りたい深層部分を伝えてくれている。「知る権利」が満たされた気持ちである。ただ、知れば知るほど、悲しくなる。たとえば、ルポの最後のページに掲載された故女性教諭の父母の手紙などは、ワタクシたちの胸を詰まらせるに余りあるものである。この旁午では、その引用を差し控えることによって、星氏のルポを尊重しつつ、この雑誌がより多くの方の手に落ちることを期待する。

 たった6ヶ月ばかりで、自殺によって教員生活に終止符を打たねばならなかった岡野(故女性教諭・星氏のつけられた仮名であり、ここでもこの名前を使わせていただく)さんの事件は、決して他人事ではない。都下のすべての教員に降りかかっている多忙性、管理職ひいては教委からの、また、保護者からの無理な教育要求などなどが、この事件を引き起こしたといえる。単学級の担任であったこと、校務分掌の分割担当ほか、岡野さんの立場に立てば、誰しも潰れてしまうであろうことは、想像に難くない。自殺といっていいのだろうか。

 岡野さんが、「無能」、「無責任」なのでは決してない。こうした絶筆を残されたワタクシたちは、今後、どんな道を歩けばいいのだろうか。

 これまでも、学校、家庭、地域社会の連携が叫ばれ、昨年末に「改悪」された教育基本法にも、その理念が盛り込まれたが、連携は機能していたか。まったくそうではない。

 学校としては、しかし、精一杯の支援をしたのであろう。たとえ、「新任教諭の指導担当に一年生の担任教諭をあてること自体がおかしい」とささやかれる中、指導教官的なことをほとんどしなかったこと、つまり「ちょっと話を聞いてくれるくらい」であったことや、そうした無理な充て職を校長が「一年生の担任教諭」に任命したとしても。無理に教科担任制を導入しようとしたツケが回ったという意味で、校長に責任の一端があるかもしれないとしても。いまさら、この指導教官や校長を責めても仕方がないが、学校組織としての指導体制の見直しは避けられない。

 公務員にストライキ権はない。だが、労使の関係において労働三権が憲法で保障されているのであるから、市場原理的教育体制を都が実行するのであれば、もうそろそろ、教員にも同盟罷業の権利を認めなければならないのではないか。そうでなければ、教委や管理職と“対等”の立場に立って必要最小限度の要求もできない。

 “対等”といったが、それはなにも争いに興ずることを目的とするものではない。信頼関係ある人間として対等な話し合いが要請されるわけである。それがなく、上からの一方的な差配だけが支配するいまの教育行政と現場との関係性は、イビツというほかない。

 現場を知らない反省が、官僚にも、ようやく意識されたようである。
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 文部科学省は、深刻化するいじめの問題や学力の低下などに対応して新たな政策を打ち出すには、教育現場の現状を的確につかむ必要があるとしています。このため、文部科学省は、幹部候補となるいわゆるキャリア官僚らを、ことし4月から1年間、中学校に派遣する取り組みを始めることになりました。派遣するのは20代後半から30代前半で教員免許をもつ数人で、派遣先の中学校でベテランの教員らの指導のもとに教壇に立つほか、クラスの副担任として生徒指導や進路指導などにあたるということです。文部科学省によりますと、キャリア官僚を採用後に都道府県の教育委員会に短期間派遣して研修させる制度はありますが、長期にわたって学校に直接派遣するのは初めてで、結果をみたうえで段階的に派遣する人数を増やしていきたいとしています。(NHKニュース・2007年2月15日)
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 家庭はどうなのだろうか。高級住宅地を校区するこの小学校に対し、そして岡野さんに対し、無理難題を要求し過ぎなかっただろうか。大卒ホヤホヤの「イラスト大好き!」と子どもたちに自分を紹介する23歳の女性、新人の女性教諭が、保護者を見下すなどあるのだろうか。もっと、もっと、あたたかく見守ってやれなかったのか。

 初任研の結果、正式採用するかどうかのいわば「生殺与奪権」は、校長が握っている。校長は、保護者と岡野さんとの間に立ち、防波堤となって、「絶対大丈夫だから」と、法的に問題があったとしても、一言いってやれなかったのか。他方、教員組合は、学校世界にまだまだ疎い新人教諭に、たとえ組合に入っていなかったとしても、支援の言葉を掛けてやれなかったのだろうか。

 いや、そのすべてとはいわずとも、少なからぬ支援があったのであろう。

 地域社会は、なにか岡野さんをサポートしたのだろうか。

 理念を条文化しても、そこに魂が入っていない。教育基本法を改正して、いじめがなくなるのか、学級崩壊がなくなるのか、といった議論があったが、尊い命が散ってはじめて、それがそうではないということが証明された感がある。彼女が自己否定の極みに追い詰められてはじめて、「初任者研修のレポートを簡素化した」とは、余りにも小さな改革だが、これが今後の大きな改革へと導く扉となることを願う。それが、彼女を失った「弔い合戦」なのではなかろうか。50台の女性教諭の述べた、「教員であることに魅力を感じない人が徐々に増えている。『教育改革』という名のもとで、教育現場はどんどん荒んでいる」との現状を打破する連帯責任が、残されたすべての教員の双肩にかかっているといえよう。

 星氏は指摘する。「国や東京都が推し進める市場主義・競争主義的な『教育改革』は、学校現場で働く人たちを疲弊させ、児童・生徒の保護者を『わが子主義』の消費者にし、学校教育を表層的で協同性のないものに変えつつある」。これは何も都にだけあてはまる事態ではない。市場主義原理の教育への導入は、都を震源地として、大阪や京都ほか、全国の自治体に広まっていくであろう。

 第2、第3の、岡野さんを、出してはならない。
(2/18・『世界』2007年2月号を読んで<8>)

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きょうあす、当サイト主宰勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いします。教育再生会議報告書の検討を継続しますので、配布資料を忘れずご持参ください。

 集団討論のテーマは、あの、永遠のテーマ、「なぜ勉強するの、といった素朴な疑問にどう答えたらいいでしょうか。校種教科に応じ意見を出し合ってください」です。ご参加のみなさま、がんばってくださいね。

 その後、集団面接、自己売り込みのツボというように、いつものように進めてまいります。

 あっ、そうそう、例のヤフオクの『世界』、すぐ落札ありましたね。よかった、よかった。

 では〜

 P.S.前回の集団討論、おぼえてますか。これみてください。考えさせられます。
(2/17)

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日韓合同授業研究会の創設者、主宰者にして、総合学習の実践的研究者でもある善元幸夫氏の寄稿「『新教育基本法体制』をどう越えるか 日韓合同授業の試みを通して」は、日本の教育状況の右傾化に危機感を覚え、この右傾化がどのようなプロセスを経て膨張してきたのかを「授業報告」を紹介しつつ考察する。そして、どのようにすればアジアの近隣諸国、ここでは韓国との誠実な友好関係を結び、互いに理解しあえるかを議論した上で、「新教育基本法体制」を批判的に乗り越える道を模索しようとする論考である。

 一言でいえば、民族対立を止揚することによって「新教育基本法体制」を超える、ということである。

 本来、寄稿の順を追って全編を評するべきかもしれないが、今回、議論の中心にしたいのは、寄稿の表題にある「新教育基本法体制」とは何か、ということである。これが定まらなければ、結局全編を評することができないからであるし、寄稿を読んで、ここが最も論点を含んでいるように思われるからである。

 善元氏は、改正前教育基本法の教育の目的が「人格の完成」であったことに対し、中教審の議論を経て改正された新しい教育基本法における「教育の目的」が、「国民の人格の形成と国家・社会の形成者の育成」という並列的な記載になっていることを問題視し、「『個人の人格完成』」を軽視する日本の教育を深く心配するのだが、実際に、答申はどう語っているのであろうか。

 善元氏は、単に「2003年」と記入しているだけだから、参照した中教審答申は、同年3月の「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」(以下、「2003年答申」と略記する)なのであろうと思われる。引用の出典が明記されていないので、そう推測するほかない。2003年答申では、善元氏が問題にする該当箇所についてどのように説明しているのか。以下は、2003年答申・第2章・2の「具体的な改正の方向 (1)前文及び教育の基本理念」からの引用である。
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(教育の基本理念)
○教育は人格の完成を目指し、心身ともに健康な国民の育成を期して行われるものであるという現行法の基本理念を引き続き規定することが適当。
 教育基本法は、「教育の目的」として、
(@)教育は、人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として、心身ともに健康な国民の育成を期して行うこと、
(A)このような平和的な国家及び社会の形成者として、「真理と正義」、「個人の価値」、「勤労と責任」、「自主的精神」の徳目が求められること、
 を規定している。
 そして、この「教育の目的」を達成する上での心構え、配慮事項を、「教育の方針」として規定している。
 このような現行法に定められた基本理念(教育の目的及び教育の方針)は、憲法の精神に則った普遍的なものであり、引き続き規定することが適当である。
(新たに規定する理念)。
 さらに、制定から半世紀以上が経過した今日において、現在及び将来の教育を展望した場合、特に掲げて強調すべきと考えられる理念として、以下の事項があり、その趣旨を教育基本法に規定することが適当である。
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 ここをみれば、「現行法の基本理念を引き続き規定」とある。「国民の人格の形成と国家・社会の形成者の育成」との2点に分けているとは理解できない。どうも善元氏の指摘はおかしいといわなければならない。『世界』146ページの引用は、一体どこからの引用なのだろうか。そしてこの解釈は、ちょっと強引ではないか。

 それから、「新教育基本法体制」という言葉そのものが、ワタクシは読んでもなんのことか理解できなかった。たとえば、「明治憲法−教育勅語体制」であるとか、「日本国憲法−教育基本法体制」というような両輪揃った表現なら理解できる。つまり、「体制」という言葉につまづいたのである。教育基本法が改正されて1ヶ月あまり、こうした「体制」が存在するのだろうか。善元氏は、これをきっちり定義する必要があったのではないか。なんとなくわかるようで、その実、わからないからである。文科相伊吹氏の「新しい教育基本法は自民党憲法草案との整合性を踏まえている」発言からいって、「新憲法−新教育基本法体制」は政府領袖には意識されているけれども、これはまだ現実ではないし、現実にさせてはならない。ワタクシは、今次の改正は改正ではなく、改悪であると思っている。その点では人後に落ちない。だが、「体制」といわれても困るのである。

 それゆえ、推測を交えてワタクシなりにそれと思うことを述べれば、こういうことだろう。「新教育基本法体制」とは、「個々人の人格完成よりも、国家・社会の形成者としての人間育成を重視し、子どもの学習を保障しない教育の新自由主義的な制度つまり市場主義的学校制度を用意して、国家主義を叩き込む教育体制」である。

 もう少し厚くいえば、「新教育基本法体制」とは、「国家・社会の形成者としての国家従属的人間育成を優先し、自ら学び考えるよう子どもが主体的に学習する権利を保障せず、新自由主義思想にのっとって学校選択制など市場主義的学校制度をどんどん用意し、国民に国家主義を注入するべく公共心や愛国心を叩き込むことを内容とするために、学校教育法改正、地方教育行政法改正、教育職員免許法改正をセットで実行し、それらを包括する悪しき理念法として教育基本法を頂におく体制」であるかもしれない。あくまで推測である。

 ところで新旧両教育基本法は、どのような表現になっているのか。

 旧法(昭和22年3月31日法律第25号)第1条は、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」である。

 これに対し、新しい教育基本法(平成18年法律第120号)の第1条、教育の目的の条は、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」である。

 「必要な資質」の中身が何であるかの議論はある。すなわち、上で引用した「現在及び将来の教育を展望した場合、特に掲げて強調すべきと考えられる理念として、以下の事項があり」の「以下の事項」、つまり、社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心の涵養を教育基本法に込めていいかどうか。日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養など、理念法的位置付けにある教育基本法に挿入していいのかどうか。そのほかにも論点(生涯学習の理念、時代や社会の変化への対応、職業生活との関連の明確化、男女共同参画社会への寄与)があり、それらを個別的に撃つべく問題にするのであればわかるのであるが、2003年答申の思想がどういう意味で「『個人の人格形成』の軽視」として侵入しているのであろうか。

 ところで「国民の人格形成」と「国家・社会の形成者」の併記は、最近の中教審答申「新しい義務教育を創造する」(平成17(2005)年10月26日、以下、「2005年答申」と略記する)の「総論」の中で、「義務教育の目的・理念」を語っているところにワタクシは確認している。

 2005年答申では、現代日本社会のおかれている時代状況を、「変革」、「混迷」、「国際競争」の3つのキーワードのもとに捉え、だからこそ一人ひとりの国民の人格形成と国家・社会の形成者の育成が義務教育の役割であると断ずる。

 この2つの視点つまり「国民の人格形成」と「国家・社会の形成者」は、いつの時代でも変わらない教育の目的、理念であるとし、その課題に答えるべき国の責務は、義務教育の根幹としての@機会均等、A水準確保、B無償制を保障することであると答申はいい、その保障によって揺るぎない国家・社会の存立基盤を形成することができると予定調和的である。

 こうした2つの義務教育の目的に照らせば、学校は、知・徳・体のバランスのとれた質の高い教育を全国どこでも提供し、安心し信頼して子どもを託すことのできる場でなければならず、地域格差なく一定水準以上の教育を国民に保障する義務教育制度の充実こそが、「格差の拡大」、「階層化の進行」を防ぐ「セーフティ・ネット」であると答申はまとめるのであった。

 この2005年答申が、「国民」の「人格形成」というように、「個人」の「人格形成」ではなく、もう少しはっきりさせていえば「国民『としての』人格形成」を教育に期待する意図を持っているのが理解できる。と同時に、社会格差解消策として教育の意義を捉え、これにまつわる世間の批判に応答した論理を展開しているのが、「セーフティ・ネット」との文言を使用していることからわかる。ここから読みとれるのは、国際人や世界人としての人間育成を「人格形成」の主目的にするのではなく、個別的な国家的価値を身体化する目的が込められているということである。

 さて、善元氏は、「新教育基本法体制」は、「国家主義」的であると述べる。一般的には、個人の行為行動よりも国家の意思を尊重し、国家の行動を優先する態度、また、国際関係の中で国益獲得にプライオリティーをおくのが国家主義であると思われるが、おそらくここでは前者の意味で、「教育基本法改正の中心は、教育を個人の『人格完成』から『限りなく国家主義的傾向の強い』ものへとシフトしている」との認識を善元氏は示しているのであろう。

 これを乗り越えるために、氏は、日韓合同授業研究会を、12年も指導されてきたのである。すなわち、この国家主義的な「新教育基本法体制」を越えるひとつの手段こそ、韓国と日本との授業実践報告を媒介にし、民族的な軋轢を取り去ることにあり、「民族主義歴史教育を超えて」、相互理解と相互尊重を進めるような土壌を耕すことにある、と努力を重ねておられるわけである。

 韓国の先生の、「歴史において民族主義や国家主義の観点から抜け出せないなら共有するものはないと思われる」との結論に学び、ワタクシたちは古い枠組みから飛び出そう。アジアが過去を総決算し、紐帯できうる思想の発見を、この「日韓合同授業研究会」に期待したい。その発見されるべき思想的紐帯が、韓国のすべての人びと、日本のすべての人びとの意識にのぼり、誤った反日感情や嫌韓思想を是正する力になることを願ってやまない。

 ワタクシも、“The Congnest of Happiness”を読んでみようと思う。
(2/16・『世界』2007年2月号を読んで<7>)

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昨日のつづきです。

 まずは、Dさんの、テーマを分析する発言からはじまりました。高校志望のDさんは、高校では停学・退学の懲戒処分かあるのに対し、小中では、懲戒はなく最高の指導で出席停止措置であることの確認、児童生徒同士のケンカの仲裁で骨を折ったという理解、を示されました。小学校志望者と同時に討論しているこの場では、上のひとつめの確認をされた態度は、本番ではないですけれどもよかったと思います。また、高校志望でも、試験当日に、こうした前提的議論ができるようになっておくことは大切でしょう。

 Cさんは、学校としての取り組みをどうするべきかということについて、簡単に言及されました。Fさんは、実際に児童生徒に注意して暴力を被った経験をされており、それだけ切実な発言になっていましたが、テーマに1ヶ月の診断とあることから、これは学校の指導のみでとどめることはできないのではないかと述べられ、警察への通報は余儀ないことだろうとご意見されました。暴力行為への歯止めとして警察に通報するというスタンスです。通報というか、連絡というかむつかしいかもしれませんが、どちらがいいでしょうか。

 学校現場への警察介入は、指導の限界を学校そのものが認めたことにもなりますし、学校としては「恥部を隠す」意識から、通報に及ばない(及べない)ケースが多々あります。Fさんのいわれる「歯止め」が、どこまで教育現場に貫徹するかは今後の課題でしょう。このときに、指導は「保護」なのか、「厳罰」なのか、判断が困難になるのです。基本的に学校は「保護」の思想で動くべきで、後の議論で登場するゼロトレランスも、その導入は難解です。ある学校では、ゼロトレランスをポイント制にして実施し、停学せざるをえない状況になり、職員会議では議論になったようです。これは運転免許と似たシステムであって、駐車違反、10km速度オーバー云々と、点数がなくなると免停ですね。ゼロトレランス採用校では、遅刻とか、携帯などの校内持込など点数化し、一定になれば停学処分を科すということになる。軽微な校則違反の重なりで停学、ひいては退学までしていいのかどうか、考える点があるでしょう。

 ここで現実にFさんが暴行行為を受けたわけで、警察への通報が「歯止め措置」になったのかどうか、Eさんからツッコミがはいり、それに対してFさんは、該当児童生徒は「かなりこたえた様子」であったと発言し、進学に影響しない最善の措置をとった旨、付け加えられました。

 ひとつの問題は、採用試験の本番で、こうした暴力行為を受けた事実を述べていいかどうかということがあります。Fさん自身も気にされているようでありまして、後で質問があったのですが、守秘義務を守りつつ自己を語るということでは、かまわないのではないか、というのがワタクシの判断でした。というのは、これまた討論終了後、ある方が指摘されたのですが、この発言につづくFさんの発言に、できるかぎり教育的な指導を行なわなければならないという言葉があったからです。ここには詳しく書けませんが、通報のタイミングの問題もあり、校内で起こった事件を何でもかんでも即通報というわけにもまいりませんし、事実、Fさんのケースもそうでした。

 Cさんは、こうしたFさんの報告を踏まえ、暴力行為に対する指導はやはり必要で、テーマのケースを分析し、第1に、たまたま該当児童生徒が蹴ったのか、つまり不可抗力的に(これはないわけですけど)、興奮して蹴ってしまったのか、第2に、蹴られた教員に、継続的な敵対感情を持っていたのかで、対応が変ってくると指摘し、第1のケースで通報は重い指導で、第2のケースであれば、警察への通報は、該当児童生徒に対する警告措置として有効に働くのではないかと述べられました。

 Bさんは、根本的なところを指摘されます。つまり、何が理由であれ、暴力行為は許されない、ということです。相手が誰であろうが、暴力そのものがダメと力強く発言されました。ここからもう少し論理展開できるといいですね。それが発言量を増やすことになります。Dさんは、Cさんの指摘にもちろん同意しつつ、蹴ってしまったことに対して後悔しているかもしれないと場面を想像されます。そして、1ヵ月後、教員もスムーズに該当児童生徒に対応できるかどうか、該当児童生徒を許すプロセスを自覚できるかどうかも、自分の場合はもちろん同僚が当事者であったとしても考えなければならないし、許すプロセスにおいて管理職とどのようにチームとして該当児童生徒を指導していけるかどうかも、「のぞみますか」の中にはいると捉えられています。

 Aさんは、Cさんのいわれたことに呼応し、蹴ってしまった児童生徒の精神状態を気遣われます。その児童生徒がケンカという興奮状態にあった背景を慮らなければならないということです。Fさんは、Aさんの意見やCさんの意見に鑑み、該当児童生徒への対応は2つで、ひとつは、ゼロトレランス。不可抗力であれなんであれ、暴力で問題解決するのはダメであると。これはBさんの立場でもありますね。ふたつは、どうしてケンカにいたったのか、当事者を呼んで指導し、軟着陸させる温和な指導ですね。このように指導のふたつのタイプを話題提供されました。

 Aさんは、これに対し、事件を起こしてしまった児童生徒は、「再犯率」が高いことを指摘し、暴力行為に及んだ児童生徒の心情理解を進めないと、本質的な問題解決にならないと述べられます。Eさんは、この心情理解ということについて、当事者ふたりを呼び、これまでの関係を探ることが今後の対処の第一歩になると発言されました。

 Cさんは、暴力は、怒りの感情の誤った表現であると捉え、これはつい繰り返してしまう可能性があるといい、該当児童生徒の家庭環境の問題、生育歴の調査も視野に入れて対応を考えなければならないと指摘されます。そして、ケンカ、暴力行為を学校からなくすためには家庭の協力が不可欠との認識です。ここでようやく家庭の話題が出てきましたね。Fさんはこれを引き継ぎ、学校と家庭の役割に触れ、学校生活のストレスたとえば学習がうまく進まないなどですが、それが原因となって学校が荒れてしまうとするなら、そうした児童生徒の感じているストレスを何とか解消し、スムーズに学校生活を送れる環境を設定していくことこそ学校に期待されていると述べられました。

 Dさんは、このスムーズな環境ということについて、クラスの他の児童生徒にどう対応するか、クラス環境の正常化ということを議論されました。Aさんは、養護教諭志望の立場であり、虐待を受けた経験のある児童生徒を指導していた経験の持ち主で、その経験から、指導した児童生徒がすぐに手が出る性格で、根本的にその児童生徒をみつめてやらないとダメであって、しっかり教員が受け容れることしか道がないといわれます。Aさん曰く、暴力をふるう児童生徒は、クラスの他の児童生徒からもどうしても敬遠され、友達も作れなくなっていく、だから、孤立もしていく。そうした児童生徒を教員が許し、しっかり受け容れ、本人の気付きに期待するほかないと述べられました。児童生徒の立場に立ったご意見ですね。

 Bさんも、先生を蹴ってしまった児童生徒がいじめられたり、孤立してはクラス指導がうまくいかないし、蹴ってしまった児童生徒を責めてしまう体制になってはならないと指摘されました。Eさんも、クラスで起こった事件であるから、クラス担任として教員側も反省的な視点を忘れてはならないと指摘します。とすれば、Fさんがいわれるように、クラス全員で問題を共有し、解決していくために、担任の先生も、クラスの児童生徒も、全員で考え、今後の教室作りの展望を描かなければならないでしょう。

 Cさんは、1ヶ月の診断ということから、事はクラスでとどまらず、学年、学校全体の問題になる、詳細は別として、対応の仕方の基準を設ける必要があるのではないか、また、保護者への連絡の仕方も注意しなければならないのではないかと、提起されました。Dさんは、暴力に直面し、出席停止措置がとられたとして、学習サポートをちゃんとする、生活指導も同時に手厚くしていく必要があると発言されました。

 Aさんは、この蹴ってしまった児童生徒を「教」の立場からはしっかりダメと諭し、「育」の立場からは、見守る姿勢を私たちは忘れてはならないとまとめられました。Cさんは、教員が暴力は絶対にいけないと当該児童生徒に反省を求めて指導しても、理解しない、できない場合はどうすればいいかと場面を設定され、暴力をふるっていると自分自身に問題がはね返ってくるという視点を持たせるべきではないかと述べられました。

 ここで議論が終了です。こう再現してきますと、いかにもスムーズに議論が進んでいるように思われますが、実際には空白のときもあり、どう討論をつなげていいか困っているシーンもありましたことを記しておきます。

 討論傍聴者の側からの意見、感想としては、当該児童生徒の罪の意識の認識の在り方、反省の態度を求めること、それが心の底からでないと意味がないということ、がだされました。このほか、1ヶ月の診断は大事件であるから、事情説明の保護者説明会の開催も必要でしょう。

 全体を通して、テーマに対するアプローチが正確であったかどうか。常にテーマに立ち返り、議論するポイントがずれないようにしなければなりません。テーマは、繰り返し掲示すると、「対教師暴力が増えています。担任のクラスでケンカをしていたのを止めに入り、あなたは蹴られて肋骨を折ってしまいました。全治1ヶ月の診断です。あなたは、このあと、どのような対処をしますか、のぞみますか、議論してください」でした。テーマの本質は「あなたは、このあと、どのような対処をしますか、のぞみますか」にあります。とりわけ、「のぞみますか」には、ここの教員としての意思決定をどうすべきかということが含意されているわけでして、そこを突く意見がもっとあればよかったと思っていました。

 それでも、この「小は大を兼ねる」テーマを、よく議論できたと思います。すなわち、普通ならば「対教師暴力をどう考えますか、議論してください」というのが、普通の、つまり「大」の出題の仕方でしょう。それに対し、「小」のテーマ、こと細かい設定で考えさせる、昔の大阪府の論作文のテーマのような課題にもかかわらず、よくがんばったといえるでしょう。

 ではまた、次回!
(2/15)

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バレンタインデーですね。「義理チョコも もらうとハッスル 年いくつ」と一句詠み、ウサギと踊りながらKさんに感謝の意を記しておこう。

 そのKさんも参加した集団討論、全員で6名、20分間の実践でした。テーマは、細かい設定で、「対教師暴力が増えています。担任のクラスでケンカをしていたのを止めに入り、あなたは蹴られて肋骨を折ってしまいました。全治1ヶ月の診断です。あなたは、このあと、どのような対処をしますか、のぞみますか、議論してください」でした。Fさんの名言、「小は大を兼ねる」、なるほどと思いました。仮にA〜Fさんとして、再現してみましょう。討論は、どのように進行したでしょうか。

 まずは、Dさんの、テーマを分析する発言からはじまりました。

 という感じで、この後も、つづくのであるが、耳寄情報があるので、それを知らせたくて、中断。

 ここで批評している『世界』2007年2月号が、ヤフオクで出ているので、ご案内。

http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f55360269

 売切れで困っている方、落札できるといいね。

 ということで、日付けはそのままにしとこ。つづきは、明日ね。
(2/14)

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昨日は、当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。いつも最初に行なっているご案内のペーパーを説明することなく、すぐに第一次報告の検討にはいってしまったのは、ワタクシの疲れからくるミスですね。すいません。

 さてその教育再生会議第一次報告の検討から、本日ははじめました。ようやく「7つの提言」の内容検討にはいりました。2つまで進むことができて上出来かもしれません。サラッと読むよりは、一つひとつの言葉、文章を吟味して読んだ方が勉強になるからです。みなさんも、勉強会にご参加される前に、精読してきてくださいね。しかし、この検討、いつまでかかるやら。ちょっと心配です。申し上げていましたように、「キャリア教育の手引き」を読みたいものですから、ちょっと焦っています。

 勉強会の「開演」時間は13時ですけど、「開場」時間はその15分前ですので、早めにきていただいて結構です。そのときは、例の『教職教養スコープ』1問1答が待っていますよ。

 第一次報告の検討の終了後、集団討論と集団面接に移ります。集団討論のテーマは、「対教師暴力が増えています。担任のクラスでケンカをしていたのを止めに入り、あなたは蹴られて肋骨を折ってしまいました。全治1ヶ月の診断です。あなたは、このあと、どのような対処をしますか、のぞみますか、議論してください」というものでした。具体的な場面を表示した細かい設定のテーマでしたが、いかがだったでしょうか。みなさん、どんどんうまくなってきましたね。大学4年生の方も、負けずにがんばってください。討論の再現は、次回更新時にいたします。

 次に集団面接でした。参加者が質問にどのように答えたのかは、プライバシーにも関わりますので、それは省略し、ここでは質問事項のみを掲げておきましょう。

 「校種教科を明示し、教員志望理由を述べよ」、「最近の国際的なニュースで気になったこと、事件はなんですか」、「ご近所の方とは最近話しましたか、どんなことを話しましたか」、「遅刻してきた児童生徒に、どのような声をかけますか。実際にやってみてください」、「A君がB君をいじめているとC君から報告があった。C君に対してどのような対処をしますか」、「クラスには学級委員がいますけれど、リーダーを育てる理由は何ですか」、「よいクラスとはどのようなものか、教えてください」、「最近読んだ本は何ですか」、「あなたが採用されたら、こんなメリットがあるよ、ということをPRしてください」。以上です。本番では、どのような方法で尋ねられるかわかりませんので、Aさんから順に、逆廻りに、手を挙げて、を組み合わせて質問しました。面接官役は3名、ワタクシが「主査」役、左右に2人、この2人は、姿勢、声、しぐさなど、形式面をじっくりみていただく役柄です。

 当勉強会では、個人の抱えている問題点の指摘を重要視しています。こちらのシートを活用しています。

 参加者が上記の各質問に答えるのに対し、どうであったのかを、このシートに書き込むわけです。そして、これをハサミで切って、それぞれの参加者に差し上げる、という作業をしています。みなさんイロイロ指摘してほしいですよね。だから、たくさん書いてもらいます。自分が参加者であるときも、評価者であるときもあるからです。

 こうすれば、参加者ひとりにつき、20枚近くのコメントシートを入手できるというわけです。

 最後に、「自己売り込みのツボ」のコーナーでした。これは、参加者の輪番で2名づつ、3分間かけて売り込みをしていただくものです。3分間で自分を語るのは、簡単なようでむつかしい。しかも、それをスラスラと、面接官をみながらできるかどうか。面接官の印象に残るように自分なりのキーワードをいえているかどうか。これまた、勉強会すべての参加者の前で、ひとりきりでやるわけです。だから、度胸がつきます。ひょっとすれば本番よりも大変かもしれません。今回は、KさんとFさんに挑戦していただきました。必死でまとめてこられたのでしょう、お2人とも、よい出来栄えでした。Kさんは、つまりながらも全部いい切れましたね。3つあったポイントを2つに整理し、ゆっくり心を込めて語れるようになれば、もっといいでしょう。Fさんは、早口なので、それを解消し、噛み締めるように語ればいいのではないでしょうか。

 「自己売り込みのツボ」は、これまでの自分の人生を真摯にみつめ直す作業といえます。2月17日の勉強会における担当者、Aさん、Sさん、18日のIさん、Sさん、いいものを期待しています。

 いくら人物をみるのが主であっても、一般教養も、教職教養も、ペーパー対策忘れたらだめよ。それではまた今週末、お会いしましょう。
(2/13)

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匿名座談会を読み終えてまず感じたのは、「本末転倒」とはこうした東京都の事態を指すのだなということである。岩波『世界』2007年2月号で、小・中・高校の先生方が集まって自由に語られたのを文字に起こしている「東京都教員匿名座談会 いま教育現場で何が起きているのか」は、都下の教育の実態を生々しく報告してくれる貴重な証言集といえよう。

 できれば実名で発言してほしかったが、そうすればクビを覚悟しなければならないので、無理はいえない。立派に仕事をやり遂げ、定年をお迎えになられたときに、「あれは私です」とカミングアウトしていただくのを期待するほかない。参考として、このページをリンクしておこう。

 座談の形をとっている性格ゆえ、論理的に文章が綴られているわけではなく、同じ話題が場所を違えて何度も出てくる嫌いはあるが、都に対するシリアスな告発がつづくという意味では、現場の悩みが表出されていて興味深い。都以外に住むものも、自分の自治体と比べながらある程度理解を示すことができるし、「それほど都はひどいのか」とため息をつきながら、「あすは我が身」と連帯意識を感じ、共闘の意を強くする都外の先生方も多いことだろう。

 この座談を読めば、これまでワタクシたちが読んできた『世界』の各論考が指摘する問題点と、先生方の各発言が符合し、具体的に先生方の思っていること、悩んでいることが、教育の大きな枠組みの中で理解できるのである。

 第1節「急増する新規採用」は、大量採用時代といわれる現在の採用状況の裏で、仕事をやり遂げ定年で辞めていくのではなく、石原ティラニーに憤慨し早期に辞めていく実態が告発される。退職が増えると補填しなければならないのはどこの世界でもそうだろうが、それが新採の大量採用となってあらわれる。新採は、1年目は条件付採用だから、初任者研修に従事しなければならない。すると、初年教員は学校における自分の仕事をやむなくほっぽり出して研修センターなどに通わねばならず、手薄な学校がさらに手薄になる。

 座談の登場人物B先生が、中学校で新採は担任を持つことはないと述べているが、大阪では持たされているところもあるので、ほほう、そうなのかと思った。「上からの研修」に参加し、その「書類書き」の多さから、責任持ってクラス担任を担当させることができないとの配慮がどうしても現場では働くわけである。これはしかし、教員同士が互いにカバーできる環境にないことを告白しているともいえる。しかし、それは、教えたくなくて教えないのではなく、先輩の先生方の仕事の多さゆえに、そこまで手が回らないからである。しかもそこに、人事考課制度の魔の手が伸びる。ここには、尾木氏のいう「同僚性」の欠如が、見事に語られている。

 それは、第2節の表題が示しているところでもある。「職場の絆が断ち切られた」とは、そういうことであろう。以下、ワタクシの感想をメモ的、箇条書き的に示す。

 石原圧政の下、2000年4月の人事考課制度導入、同年8月の「心の東京革命行動プラン」、同年12月の「東京構想2000」と矢継ぎ早に行政方針が示され、B先生は苦悩しているようだが、なぜそれが教員に苦悩をもたらすのか、もうちょっと話をしてほしかった。

 なお、文中132ページの「国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について通達が出」とあるのは、おそらく、2003年10月23日の通達「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」を指すと思われるのだが、違うのだろうか。もしそうなら、『世界』の書き方では、年代的に不自然だと感じたので一言する次第である。「実施」と「指導」は違うわけだが、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について」を指し示すものだとしても、2006年3月13日である。

 つづいて、東京教師養成塾出身の教員すら、学級運営がうまくいかず、崩壊したとのA先生の指摘は、同塾出身者には申し訳ないいい方ながら、小気味よく感じた。エリート的教員養成で、多様な家庭環境から通学してくる現場の教室運営ができるものか疑問に思っていたからである。教育は、そんな簡単にいくはずがない。今後も同養成塾出身の教員が、どれだけの成果を挙げるのか、都は自らチェックし、塾外の教員と比較するべきであろう。

 このように色合いの違う教員が混ざりつつある状態が、いまの都の教育現場であると思われるが、それが一色に染まり切ると危ない。なぜなら、「管理職と教員を含めて、みんなで力を合わせて、信頼関係の中で学校教育を成り立たせていこうという絆が断ち切られている」状態に拍車がかかるからである。

 政治学において、「抑圧委譲」というウルトラナショナリズムの分析で使用された有名な術語があるが、「校長は校長で教育委員会を意識して自己保身に走る…それぞれがみんな、自分の蛸壺に入って、自分の身を守ろうとする」とは、そういうことではないか。抑圧委譲はゼニカネに絡んで一層ひどくなる。それが第3節のひとつのテーマとなっている。

 第3節「『人事考課制度』とは?」は、東京都の給与体系に不案内であったワタクシとしては、興味津々であった。5段階あるいは4段階で評価付けられる教員は、評価に応じ特別昇給を受けたり、それがなかったり、定年退職するときには退職金の高もものすごく変ってくるらしい。都の「退職金の案はポイント制」(B先生談)として制度化されるらしく、ヨドバシカメラもびっくりである。カネがすべてだとはいわないが、同僚間で数百万単位で生涯獲得賃金が変ってくるとすれば、なにかしら考えもしよう。昔の漫画の決めゼリフにあった「生涯一教師として」は夢となる。ヒラのままでは一生給与が上がらない仕組みを、都は作ろうとしているからである。

 特別昇給査定としての人事考課は、管理職に対しても、厳しい指導として展開する。都教委は、すさまじい。B先生によれば、「管理職に対する教育委員会からの査定はさらに露骨で、彼らはAからEの五段階評価で、DとEにランクされた管理職からボーナス時に五千円、一万円が徴収され、AとかBに回される」そうで、これでは「特色ある学校」ではなく「督促ある学校」となり、変な意味で各学校の競争は激しくなる一方だし、いわゆる組合系の校長会など機能しない。これだけ、都の懐柔策が厳しく貫徹すれば、寄生虫が親木を倒してしまうような事態にならないかどうか。

 校長と各教員がサシで向き合い自己目標と自己評価をするのは他の自治体でもほぼ同じで、これが教員間の「同僚性」を破壊するのも同一であろう。後の節で指摘されるように、「人事考課が出て何か変ったかというと、それまではみんな集団で管理職と対応していたのが、一学期に一回ずつ一対一で面接が入るという形になったことです。そういう中で次第に関係性が変わり、寒々とした状況が生まれてきたのですね」なのである。

 たしかにこれでは「管理職のなり手がない」(第4節の表題)。とりわけ新しく都が設置した「主幹」のなり手がないことをA先生は指摘する。先生方が嫌がるこの主幹制度については、是非この『世界』を手にとり、確認されたい。また、C先生の語る、離島に飛ばされた校長の存在も悲しすぎる。管理職そのもののストレスも大変で、「死んでしまった人もいるし、鬱になった人も帰り道で倒れた」とAさんは同情を寄せる。

 第5節「長時間勤務と自主研修」では、学校における拘束時間の一時間延長が主たる話題となる。たしかに教職の特殊性からいって、他職のように1時間丸まる自由時間になることなどありはしないし、できない。給食の指導もせねばならないのだから。
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 本当に教員が皆で昼休みをとるなら、午後の授業の開始・終了も後ろにずらさなければならないし、部活や生徒の放課後の活動にも影響が出る。それに昼休みだといって職員室を閉めて休憩をとったら、学校はどういうことになると思っているのか
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 このあたりの都の姿勢は「官僚体質」を露にしており、「お役所」的態度を学校世界に適用しようとする無理な要求であろう。都の教員がおかれた立場を思うと涙が出る。いっそ、反乱を起こしてはどうか。だがそれも、指導するかわいい児童生徒のことを思えばできない。集団退職もできない。ポツリポツリと消えていくように早期退職するほかないのかもしれない。真綿で首を絞められるような都教育行政である。なるほどこれでは、「教職は不人気」と他の『世界』論考でたびたび指摘されるのも故なしとしない。

 研修についても、組合系の自主研修参加が制限され、官製研修への参加以外に認められなくなってきているらしい。そう語るAさんは、「教育の力がガクッと落ちてきた」と憤る。官製の研修の中身の公表をするべきではなかろうか。

 第6節の表題は「すべてで格差が」であり、さきの特別昇給でもそうだった。このほか、論旨を追うと、次のようである。教員の配属にも「格差」が発生する。中高一貫校にいける教員といけない教員。生徒の方でも「格差」が進む。公立中学校の選択制は、希望校にいけない生徒を産む。特別支援学校でも選別体制が進んでいる。

 「日の丸・君が代強制の意味」では、「仕上げ」という言葉が使われていた。この第7節を読んで、都の教育支配の駒になり、服従する教員かどうかが、教員として生きるかどうかを決定する指標になっていると感じた。この傾向は、教育基本法改悪によって全国を網の目にかけることに必ずや、なる。

 Dさんの鋭い指摘として、「学校では生徒の人権が小さいんです」、生徒に対する頭髪検査も厳しく、「規律を守るためにはやむをえない、という発想が強くて、生徒の人権が大きい学校にしていこうと言う発想をなかなか教員がもてない」という表現には、学ぶべき価値がある。

 権利の主張や自由と責任の関係性を完全に自覚できている児童生徒は少ないだろう。だが、子どもの権利条約に謳われているような権利が、たしかに児童生徒には保障されなければならないのであって、こうしたディメンジョンで、学校のスタンスが、通達ひとつで簡単に変更されるようにでもなれば、児童生徒は何を信頼していいのかどうか酔ってしまうだろう。

 だが生徒の人権が小さいぞなどと面と向かって都にいえば、都の姿勢に楯突いて離島に飛ばされた現実をこうむることになる。

 教員は思考を停止させる。だんだんだんだんものを考えず従うだけになる。そうした人間を都は欲しがる。そして、そうした都の色で染め上がった学校がどしどしできあがる。

 そこでは「自ら学び、自ら考え、問題を解決する資質能力」(学習指導要領)など児童生徒に育成できない。B先生の次の発言と、ワタクシは少し違うところもあるが、現代教育に対する警鐘句であるといえよう。
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 自分で考える子どもを教育することに対して、権力が本気で危機感を持ったのではないか。自分で課題を見つけ、自分で解決する。自分の足で立つ人間を教育しようとするわけで、そんな人間が出来てしまったら、鋳型にはめていけなくなる。総合学習は、いろいろ問題はあるけれども、様々な実践が試みられてきている。それに対して、学力が低下したという曖昧な理由をつけて叩き潰していく。そして強引にもとの世界に戻していく力が働いたのだと思います。
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 あらゆる事柄を強制的にさせられる、それに耐えられる耐性を植えつけられていく現実をB先生は告発する。教育を介して、脆いロボットではなく、きわめて従順、かつ、ちょっとやそっとでは潰れないロボットを作ることに、本気で乗り出す体制を厳しく批判するのである。

 そこから抜け出すには、「子どもたちとどう向き合うか」(第8節の表題)を真摯に考えるほか、道はないといえよう。
(2/12・『世界』2007年2月号を読んで<6>)

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佐久間亜紀氏の『世界』への寄稿「なぜ、いま教員免許更新制なのか 教育ポピュリズムにさらされる教師たち」は、免許という「制度」そのものに着目する立場から、他の免許制度、たとえば運転免許制度の実施意図を解説し、それと対比しつつ教員免許制度そのものの意図を教えてくれたり、アメリカの教員免許制度について話題を提供し、国際比較的視点から日本の更新制導入の姿勢を批判したり、有益な指摘をわかりやすく説いている。著者にならって、この旁午でも、教員免許更新制度を単に「更新制」と表現することとしよう。

 佐久間氏は、最近の教育関係審議会の論調として、「制度」としての教員免許に関する履き違えた議論に失望し、次のようにただしてくれる。「教員免許状とは、個人が何を学んだかを公証する『免許』制度であり、問題教員への対処は『任用』制度によって対応すべき問題である」。つまり、免許は教職課程の勉強の成果を認定するものであり、「指導力不足教員」は分限処分で対応するのが筋だ、というわけである。そうであれば、最近議論になっている教員免許の「国家試験化」はどのように位置付ければいいのだろうか。佐久間氏がこれに触れていないが、それは触れる前に、『世界』原稿の提出期限があったからだろう。

 「国家試験化」すら検討事項にいれた、昨年10月に組織化された教育再生会議は、更新制についてどのように考えているのか。それは、教員の資質能力の向上を期待するのが更新制導入の表向きの理由というならば、不適格教員の排除が、その裏の顔であるということである。もっといえば、裏の顔こそ、更新制の目的だというのである。佐久間氏にいわせれば、それは誤った認識で、両者を弁別した正しい認識に立った2002年2月の中教審の態度を肯定的に評価する。

 だが、当の中教審は、2007年以降においては、教育再生会議の軍門に降るようになるかもしれない。教育担当首相補佐官山谷えり子氏の最近の発言「(中教審は−浩の註)大ざっぱなことを延々と議論している。再生会議でメスを入れていきたい」(『毎日新聞』2007年2月8日付)がそれを物語る。しかも、自分のところの教育再生会議が傍聴をシャットアウトし、議論進行を密室化しているのにもかかわらず、公開性の中教審そのものを批判せず、その下部組織の作業部会の密室化を批判しているのはいただけない。文科相伊吹氏は苦い顔、官邸は、火消しにヤッキのようでもある。

 こうした山谷発言に官邸の本音があるが、これだけ同会議と中教審の思考態度が違うと、教育行政方針も二本立てになりはしないか。これでは国民に責任ある教育行政は期待できない。「延々と」云々は、更新制も「大ざっぱ」な議論ばかりで、教育再生会議がスパッと決めてやる、との宣言であろう。アメリカの大統領補佐官に倣って設置されたブレーンがブレーンでなくなり、同時に、政治が業績主義に堕している。

 さて、アメリカの教員免許制度との対比考察では、教員のなり手の少なさの指摘とともに、「米国の学校では、研修どころか、四年制大学を卒業しておらず、免許ももたない教員が、多数採用されている」とアメリカの現状を紹介し、州によって独自の教育行政を貫徹しようとするアメリカ教育は、更新制を導入しているけれども、それは無理からぬ理由があると佐久間氏は説明する。すなわち、「米国で免許更新制が成立したのには、独自の事情がある」ということだが、国にも州にも教員に研修をする権限がないので、あえて更新制を頼りに、州は更新条件に研修を課すようになっているわけである。こうしたけじめある運用に、ワタクシたちは学ばなければならないのではないか。憲法に対するアメリカ自国民の信頼の強さと根の張り方の深さがうかがい知れる制度運用といえよう。

 佐久間氏によれば、更新制があるのは先進国ではアメリカだけだそうである。上段のようなアメリカのけじめある制度運営の在り方から、「更新制によって免許が失効するかもしれないという不安を抱く教員は、皆無といってよい」と、アメリカの更新制は日本と違って意味があると評価している。それに対し、日本ほど徹底して研修を用意している国はなく、この世界に誇りうる研修制度の効果的な運用をすれば、わざわざ制度設置するまでもない、更新制など「無用の長物」であると主張するのである。

 更新制の導入は、プラスに働くどころか、長期的にみれば教員の「質」の維持もままならず、マイナスであり、教育現場の崩壊を惹起する、まったく「不合理な制度」の導入となる、というのが、佐久間氏の寄稿の結論である。上の2つの理由のほか、「不合理」と断言できる根拠が、「引き起こされる悪影響」の節において、コンパクトかつ具体的に、6点指摘されている。失職の可能性は教員を萎縮させる。教員統制が強まる。更新制が恣意的に運用される怖さ。教員志望者の激減。身分不安定化による男性の教職からの撤退。更新を目指す利己主義的な態度の教員が増えること。以上の理由から、更新制導入の無謀を指弾する。

 こうした指摘を読んでいて、ワタクシは急に全国の学校でがんばっている非常勤講師の先生方に思いがいたった。失職の可能性どころか、いつ雇用されるかもわからなければ、「明日からきて」と前日にいわれる理不尽。契約期限が終われば来年はどうしようと悩む彼ら。給与が全然違うのに、正教員とほとんど変わらない仕事をしている彼ら。奉職したとして、管理職だけでなく、正教員からすら、「統制」を受ける状態にあるのはいうまでもない。この世に、堂々と教育的識見を自己主張できる非常勤講師がいるか!クラブの引率の仕事を「用事あるねん。帰ります」とバシッといえる非常勤講師がいるか!身分が不安定なのは更新制に慄く正教員の比ではない。

 社会一般における労使闘争でも、正規、非正規雇用の合同争議態度が実現しにくいが、教員世界でもそうである。いま、更新制が正教員の立場を危なくさせているとすれば、ここはもう正教員・常勤・非常勤問わず、体制に対する合同闘争を社会一般に先駆けて実現すべきではないか。女性の産休権利獲得や通勤交通費の正当な要求の実現をはじめ、人間として当然の権利を血と汗を流し勝ち取ってきた教員組合の輝ける戦後の歴史は、立場を問わず全教員の紐帯になるパワーをいまこそ発揮するべきなのである。そうでなければ、ワタクシたちが怖れている「管理職以外の非正規雇用化」が、近い将来やってくるにちがいない。

 社会一般も、奥谷禮子氏に代表される派遣業がハバを効かせ、労働者のウワマエが掠め取られているのである。このままでは、教員界も同様の悲惨に陥っていくであろう。つまり、「改悪」教育基本法からの引用であるが、その第9条の第2項、「前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない」の規定が、本当の意味で、いつまでたっても実現できなくなるのである。

 正教員ひとり分の給与を分割し、3人も4人も非常勤講師を雇うなど、正しい教育行政の在り方だろうか。

 話題を更新制の導入経緯に移そう。そもそも、更新制は、どのような経緯でここまで議論されてきたのであろうか。

 更新制の導入は、バブル経済の崩壊とともに、社会が変質した90年代後半からチラホラ聞くようになる。それは、国会で議論されるようなものでもなく、教員組合でもそうそう話題になるテーマでもなかった。しかし、ワタクシたちの社会が経済的に破綻していくにつれて、倫理道徳が問題視されるようになり、道徳教育批判の声の増大と比例して、更新制についての議論が登場するようになったと客観的にいえるのである。

 両者の因果関係を簡単に矢印でつなぎ合わせれば、「衣食が足りて幸せ→ジュリアナに象徴される狂乱社会→地価税導入によるいきなりの経済破綻→明日がみえず不安感増大→社会が殺風景になる→凶悪犯罪が増えているようにみえる→子ども世界にも変化ありそう→現実としての17歳の犯罪→先生の教え方が悪いのではないか→教員自身の破廉恥事件多発→更新制導入だ」となる。

 倫理道徳が世間的に問題になるのは、いつでも経済的に苦しいときである。故橋本龍太郎氏が神戸の事件に戦慄し、危機感を持ってメッセージを述べたが、この意識が中教審に共有され、第16期答申「『新しい時代を拓く心を育てるために』―次世代を育てる心を失う危機―」(平成10(1998)年6月30日)が提言され、その数年後(平成12年3月)出発したのが、あの、悪名高い教育改革国民会議(座長:尾崎玲於奈氏)であった。「青少年による衝撃的な事件が続いている。教育改革国民会議はこのことを真剣に議論した」とは、同会議の「緊急アピール」(平成12年5月)の巻頭言であった。

 教育改革国民会議は、道徳的に弛緩した社会であると90年代後半の社会をみなしていた。同会議の言葉を借りれば、「惰性的気風」渦巻く社会とみなしていた。だからこそ、「『ここで時代が変わった』『変わらないと日本が滅びる』というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う」との不可解な、恐るべき発言が登場するのである。さらには、「子どもを厳しく『飼い馴らす』必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」と、犯罪に手を染める一部の少年たちの問題を拡大解釈し、児童生徒を「飼い馴らす」とまでいっていたのである。「心の教育」では生温いと考えていたのではなかろうか。

 いま考えても、よくぞまあ、このような発言が吐けたものである。子どもは、飼いならす存在に過ぎないというのが、この国の為政者の子ども観なのである。そしてそうした発言を許し、議事録に残すのが、「遺伝論者」尾崎氏であった。

 彼らのいう、飼いならすための「覚悟」というのは一体、何を意味するのだろうか。おそらくそれは家庭教育の再確認ということであろうが、学校規律でいえば、体罰容認あるいは懲戒範囲の拡大ということなのだろうか。そう考えれば、最近、懲戒範囲の拡大、出席停止措置の強化の通知がなされたのも歴史的に合点がいく。

 そして、惰性的だから「変わらないと日本が滅びる」という根拠は何なのだろうか。はっきりわかるのは、その「変わらないと」は、具体的には「教育基本法を変えないと」であったということである。

 同会議メンバーは、「教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする」などと、国民を痺れさせたらそれでいいかのように教育政策を考えていたのであった。単に「惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法」として教育基本法が改正されたわけだから、国民はたまらない。もう少し教育内在的な理屈があったのかといえば、座長であったノーベル学者尾崎氏や、あの元首相森氏を含めて、まったくないわけである。とりわけ最終報告を受けとる立場であった森氏は、ここまで表層的にしか、社会をみていない報告をよしとし政策に反映させようとしたのであるから責任は重い。

 しかも、大人社会にも警鐘を鳴らすべく、「スローガン、目標を作り大人一人一人の生涯徳育を助長する」と社会教育に関連しても言及するが、「生涯徳育」とは噴飯ものの言葉である。心の自由に不干渉なのが、近代以降の立憲主義の基本的政治原則だからである。また、大人は自分の行為行動を自己制御できる。わざわざ「生涯徳育」など唱えるまでもない。

 広田照幸氏が、戦後、大人の犯罪だけでなく、少年の犯罪も減少している事実から、日本の治安は世界で最も良い状態にあることを実証し、為政者だけでなく国民の「社会不安増大」的認識の間違いを分析したが、これにしたがえば、現代の日本は、きわめて犯罪の少ない住みやすい社会環境なのである。つまり、『日本人のしつけは衰退したか』(1999年・講談社現代新書)は、教育改革国民会議における上のような発言の前提認識を覆す論考であったわけである。

 日本がそうした世界でも最も治安のよい社会であるにもかかわらず、一部の少年による凶悪犯罪を根拠に、「学校は道徳を教えることをためらわない」と同会議はキャッチフレーズを設けて力説し、「学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視し、自由と規律のバランスの回復を図ることが重要である。また、善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない。人間は先人から学びつつ、自らの多様な体験からも学ぶことが必要である。少子化、核家族時代における自我形成、社会性の育成のために、体験活動を通じた教育が必要である」と的外れの感性を表現したのであった。この表現の社会的背景を振り返らず、すっと読めばいいことが書いてあると感じてしまうところに、官僚の作文の怖さがある。

 年金不安ならいざ知らず、社会不安が増大していると煽り、これを解消するのは教育の仕事であるとみなした同会議は、「国民不在会議」といってもよい。その解消の仕事を担当し、ちゃんと「飼い馴らす」ことに手を貸し成功した教員は、正当に評価されなければならないというのが、同会議の論理構造だろう。しかし、それが「正当な評価」に値する教育的営為であるのか。道徳問題は、世間からの批判をかわす教員統制のための更新制を産み出す伏線であった。同会議は、こうした現代史的事情から、次のように教員評価について述べ、更新制についても言及したのである。

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教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる
 学校教育で最も重要なのは一人ひとりの教師である。個々の教師の意欲や努力を認め、良い点を伸ばし、効果が上がるように、教師の評価をその待遇などに反映させる。
(1)努力を積み重ね、顕著な効果を上げている教師には、「特別手当」などの金銭的処遇、準管理職扱いなどの人事上の措置、表彰などによって、努力に報いる。
(2)すべての教師が、退職するまで児童・生徒に直接接し、教える仕事に就くことが望ましいとは限らない。学校内でも適性によって異なる役割を負い、また、必要に応じて学校教育以外の職種を選択できるようにする。
(3)専門知識を獲得する研修や企業などでの長期社会体験研修の機会を充実させる。
(4)効果的な授業や学級運営ができないという評価が繰り返しあっても改善されないと判断された教師については、他職種への配置換えを命ずることを可能にする途を拡げ、最終的には免職などの措置を講じる。
(5)非常勤、任期付教員、社会人教員など雇用形態を多様化する。教師の採用方法については、入口を多様にし、採用後の勤務状況などの評価を重視する。免許更新制の可能性を検討する。
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 以上が、フォーマルに更新制に言及した体制側の最初の発言だろう。単なる私的諮問機関の提言に過ぎない更新制が、これまた閣議決定下の教育再生会議で議論増幅され、いまや佐久間氏がいうように、更新制が「まず導入ありき」になっている。驚くべきは、「すべての教師が、退職するまで児童・生徒に直接接し、教える仕事に就くことが望ましいとは限らない」といい切っていたところである。上の(2)と(3)の順番に注目されたい。逆なのである。そこには教員を「育てる」視点がない。ダメ教員はクビを切れといっているのと同じである。これなら、研修を充実する必要もなかろう。一方、雇用形態の多様化は、経済的合理性をにらんだ提言である。「教師の採用方法」において、「入口を多様」化するのはよいが、「採用後の勤務状況などの評価を重視」して、免職される可能性が強く残るのが、更新制である。

 21世紀に衣替えした中教審は、上のような教育改革国民会議の最終報告に気兼ねし、当時の文科相町村信孝氏の諮問に易々と応えることとなる。だが、それでも中教審は佐久間氏の指摘のように「正しい認識」を確保し、必死の抵抗を試みる。このときの中教審は、まだしも健全であったといえよう(註1)。

 町村氏は、「教育新生に向けた抜本的な改革の推進に当たっては、緊急を要する事項に迅速に対応するとともに、様々な角度から検討を要する事項について速やかに検討を進め、具体的な方策を打ち出していく必要があります。このため、今回、新しい時代にふさわしい教育の実現のために不可欠な四つの事項について、中央教育審議会に検討をお願いすることとしました」と前置きし、「四つの事項」のひとつである更新制について、「文部科学大臣諮問理由説明」(平成13(2001)年4月11日)に、以下のように厚顔無恥にも述べたのである。なぜ、厚顔無恥なのかといえば、教育改革国民会議は、設置法もなく、いってみれば、ほぼ学生サークルと同じような組織であるのに、そこでの議論をなんの疑いもなく教育行政の指針に取りいれようとしたからである。「国民不在会議」のごり押しが通った形である。

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 第二は、教員免許更新制の可能性の検討についてであります。教育改革国民会議の報告においては、教師の意欲や努力が報われ評価される体制を作る観点から、教員免許更新制の可能性の検討が提言されています。教員としての適格性の確保又は専門性の向上という観点から、免許更新制を実施した場合の効果と問題点等を明らかにしつつ、免許更新制を導入することの可能性について、教員の養成、研修等の在り方との関係も踏まえ、幅広く御検討をお願いしたいと思います。(平成13年4月11日)
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 この諮問に答えて、平成14(2002)年2月21日に同審議会が答申したのが「今後の教員免許制度の在り方について」である。

 そこで語られているのは、第1に、教員の適格性確保に置く場合、第2に、教員の専門性向上に置く場合の2点からの「更新制の可能性」であった。教育改革国民会議のマトや町村氏のマトが、不適格教員の排除にあるのはいうまでもなく、それに対して中教審は、「必死の抵抗」を試みる構図である。中教審は、「教員免許に更新制を導入することができれば、適格性を欠く教員への対処が格段に進む」と意義を確認「させられ」つつ、この「必死の抵抗」を表現する文章もあって、中教審がきわめて強い葛藤状態に置かれているのが伝わってくる。悲しみが溢れているのが読み取れる。議論に必要な箇所を引用しよう。

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 教員の適格性確保
 (意義) これまで、公務員全体について分限制度がうまく機能しなかったことから、教員免許に更新制を導入することができれば、適格性を欠く教員への対処が格段に進む可能性が広がる。
 (検討) 現行の教員免許制度において、免許状は大学において教科、教職等に関する科目について所要単位を修得した者に対して授与されるものであり、免許状授与の際に人物等教員としての適格性を全体として判断していないことから、更新時に教員としての適格性を判断するという仕組みは制度上とり得ず、このような更新制を可能とするためには、免許授与時に適格性を判断する仕組みを導入するよう免許制度自体を抜本的に改正することが前提となる。
 また、更新時のメルクマールは分限制度がよるべき基準と類似のものとなると考えられ、このためには、更新制の導入以前の課題として分限制度を有効に機能させていくことが不可欠である。

 教員の専門性向上
 (意義) 科学技術や社会の急速な変化に伴い、教員としての専門性の維持向上を図るには教員一人一人の不断の努力が不可欠であるが、教員免許の更新制が導入され、更新のために厳しい研修を課すことができるならば、個々の教員がその力量の維持向上のため日々研鑽に努めることになり、教員の研修全体が活性化する。
 (検討) 一般的な任期制を導入していない公務員制度全般との調整の必要性等の制度上、実効上の問題がある。また、免許状の一定の資質能力を公に証明するという機能から、現職教員に更新制の対象を絞ることができず、人によって研修内容に差異を設けることにも一定の限界があることから、教員の専門性向上のためという政策目的を達成するには必ずしも有効な方策とは考えられない。 以上見てきたように、現時点における我が国全体の資格制度や公務員制度との比較において、教員にのみ更新時に適格性を判断したり、免許状取得後に新たな知識技能を修得させるための研修を要件として課すという更新制を導入することは、なお慎重にならざるを得ないと考える。
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 この中教審の正しく切ない思想が、はるか彼方に遠のいてしまったのが、平成18(2006)年7月11日の同審議会答申「今後の教員養成・免許制度の在り方について」であったというのが佐久間氏の了解であろう。佐久間氏は、「今回の答申は、導入目的を、教員の資質能力を『時代の変化に対応した資質能力』に『刷新(リニューアル)』すること、という論理を展開している」と中山氏にいいなりになっている中教審の姿勢を確認しつつ、「刷新」はできないと4つの理由を挙げ、明快に批判した。その理由は『世界』そのもので読んでいただくとして、佐久間氏の引用した中教審答申部分は、「教員免許更新制の導入−恒常的に変化する教員として必要な資質能力の確実な保証−(1)導入の基本的な考え方」に書かれている(註2)。ここの部分、中山諮問=中教審の思想と佐久間氏は捕らえているように感じられる。

 ただワタクシは、下で検討しているのであるが、中教審は、町村−中山ラインの諮問に名を借りた文科省行政要求に対し、強く動揺しているとは思うが、最終的に中教審は基本姿勢として、更新制の導入が不適格教員の排除ではないと述べている点からみて、政府文部省と短いとはいえ、距離をおいていると感じられるのである。

 ところで、おもしろいのは、中教審が、平成14年の答申と平成18年の答申との関係について、「平成14年の答申において指摘した課題との関係」とのページを割き、「いいわけ」している「別添3」である。中教審は、ここで、14年答申は将来的な更新制導入を否定していたわけではないといい、学校教育をめぐる状況の変化に即応したものであると確認する。しかも、教員の資質能力を確実に保証するための方策を講ずる必要性は、「平成14年の答申時に比べて、格段に高まっている」との認識を示し、どこをどう変えるべきか論点整理するのである。ちょっと苦しいこの「いいわけ」を、4点にまとめ、明示しているので、考察するが、ここに中教審の動揺と「政府からの距離」を感じていることを附言しておこう。

 第1は、「分限制度との関係」である。そこでは、「資格制度としての教員免許状は、あくまでも個人が身に付けた資質能力を公証するものであり、個人の素質や性格等に起因するような適格性が確保されているかどうかについては、基本的に任用制度により対応すべき問題」というように、佐久間氏と若干異なる認識を示している。佐久間氏は「学んだこと」の「公証」といっていたが、ここでは、「個人が身に付けた資質能力」の「公証」といっている。「学んだこと」と「資質」とは、「獲得したもの」と「もともと備わっているもの」という意味だろうから、微妙に違う(註3)。しかも、中教審が「資質」と「素質」を区別しているので、ここまでいくと、ちょっとわからなくなってしまう。両者は、どう違うのか、中教審は説明すべきだろう。

 任用制度によって指導力不足と判断する立場は、両者ともに同じである。中教審はつづけて、「したがって、このような意味での適格性に欠ける者については、現在すべての都道府県・指定都市の教育委員会で進められている指導力不足教員に対する人事管理システムや分限制度等の厳格な運用により、対応することが適当」と述べる。

 更新制と「指導力不足」判断との関係性については、「更新の要件を免許更新講習の受講・修了とする場合、それが修了できない者は、その時点で教員として最小限必要な資質能力を有していないこととなり、教員免許状は失効するため、更新制は、結果として、教員として問題のある者は教壇に立つことがないようにするという効果を有している」と述べるのであるが、必要最小限の資質能力(註4)を持っていたら、それでいいのか、といいたくなる。

 第2に、「専門性向上との関係」である。中教審は、教員としての専門性の向上は、自己研鑽や現職研修によるとの基本的立場に立つが、「免許更新講習が、およそ教員として共通に求められる内容を中心に、その時々で教員として必要な資質能力に刷新(リニューアル)するものとして構成されるのであれば、当該講習の受講により、教員としての専門性の向上も期待できる」と説明するのである。だが、教員に「共通に求められる内容を中心」としながら、専門性向上の講習受講がどうしてできるのか。「共通…内容」と「専門」は別物ではないのか。そして、この「共通…内容」とは、何なのか。生徒指導の力量形成ということなのだろうか。

 だから、中教審は「免許更新講習と現職研修の目的及び内容面での類似性が課題となる」と自己矛盾を解消するべき言葉をいわなければならなかったのである。すなわち、「免許更新講習はあくまで、その時々で教員として最小限必要な資質能力の保持を直接の目的とするものである。これに対して、現職研修は、更新制の導入により保証される、このような基盤的な資質能力を前提として、個々の教員の能力や適性、経験等に応じた、より多様な研修が行われることにより、専門性の一層の向上を期待するものである。今後、このような観点から、現職研修の体系化の考え方や、個々の研修の見直しを行っていくことが必要である」というが、これなら、従来の研修をもっと、もっと、いいものに練り直していけば済むことではないのか。そもそも、上でも触れられている「最小限必要な資質能力」は、採用試験時、初任研時、それにつづく官製研修によって、保持されるものだろう。この説明の仕方だと、更新制導入は屋上屋を設けるムダとなろう。

 第3に、「一般的な任期制を導入していない公務員制度との関係」についてである。この点の調整が最も難問だと思われるのであるが、中教審は、「更新制はその時々で求められる教員として必要な資質能力が保持されるよう、教員免許状に有効期限を設け、その満了時に、一定の更新要件を課し、これを満たせば、免許状が更新される資格制度上の制度」として更新制を捉え、「免許」と「資格」の混同した説明をしつつ、「今回の更新制は、いわゆる不適格教員の排除を直接の目的とするもの」ではないと位置付ける。日常の職務に支障なく、自己研鑽に努めていれば、「通常は更新される」ものだというのである。

 この信念を中教審は教育再生会議を向こうに廻して貫けるだろうか。

 他方、任期制と更新制の違いについて、任期制は一定の期間を決めて採用する「任用」制度であって、再任をもともと前提しないが、業績によっては再任用の可能性も残されるものである。だから、更新制とは性格の違う「任用」制度で、「今回の更新制の導入により、任期制を教員についてのみ一般的な制度として導入する結果とはならないものと考える」との認識を示した。だが、この説明は、ワタクシにはよくわからない。任期制と更新制の違いはこの説明から理解できるのだが、教員以外の他の公務員で任期制を導入しているのかといえばそうではく、終身在職だろう。だから更新制導入の可否の説明をなしていない。

 第4に、「我が国全体の資格制度との関係」について。教員において生ずる多様な評価は、客観的、短期的にするのは他職よりも困難である。しかも児童生徒に対して強い影響力を持っているのが教員である、したがって、児童生徒の発達段階に応じ、「国民として必要な知識、思考力等を培うことを職責とする教員の資格を定める教員免許制度においては、当該制度の本来的な在り方として、教員として必要な資質能力の更新を制度的に担保する更新制を導入する必要性が高い」というのである。

 ここまで検討してきたことにより、たとえ中教審が、「更新制は、いわゆる不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく、教員が、社会構造の急激な変化等に対応して、更新後の10年間を保証された状態で、自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ていくという前向きな制度である」と啖呵を切っても、佐久間氏のいうように、更新制が「不合理な制度」であることは間違いない。だが、その啖呵は、政府文科省によって切らされた啖呵と同情するほかない。

 ワタクシたちは、最後にもう一点、更新制導入に関わる問題点を考えよう。それは、更新制をどの段階で導入するかの議論についてである。つまり、新規採用された教員から導入するか、現職教員にも適用するかの議論である。この点で、政府文科省、中教審ともに国民的批判をどのようにかわすべきか、議論が割れていたのは容易に推測できる。

 現職教員に更新制を導入するかどうかこそが、そもそも更新制導入の根幹に関わって最大の課題であった。もう何年来の課題であろうか。少なくとも、平成14(2002)年2月21日に同審議会が答申した「今後の教員免許制度の在り方について」においても、言及しているのであるから、議論は5年以上ということになろう。現職教員への更新制適用の発想は、このころからあったはずである。それだけ困難な教育行政課題であることは衆目が認めるところであった。平成16(2004)年10月の中山諮問にはじまった話ではない。この山を越えないことには、更新制導入の意義がないというのが文科省の本音であった。

 平成17(2006)年5月の段階では、現職の免許更新に関連して、中教審がこういっていた。「新たに教員免許を取得する者についてのみ更新制を適用するのでは、保護者や国民の信頼に十分こたえることはできない」(『産経新聞』2006年5月26日付)。「こたえることができない」と指摘する背景に、教員の資質・能力への国民の批判が高まっている「事実」があるのは理解できるが、その「資質」に対する「批判」の中身は多様だろう。

 もちろん教科の指導力不足という教育内在的な批判もある。だが、「思想教員」問題を視野に入れて更新制度を議論していないか。「思想教員」などを「排除」ないしは容易に「懲戒」的運用をするべく更新制が活用される怖れなしとしないのである。だから更新制は、導入するとして、その要件を限定した更新制でなければならない。

 『産経新聞』(2006年5月26日付)は、つづけて中教審WG(working group)のいい分が、「現職教員が終身有効な資格として免許を取得している点にもふれ、『既得権益で、絶対不可侵ではなく、公共の要請で合理的な範囲内で新たに制約を課すことは可能』とし、法的にも適用は可能」としていることを紹介している。ここにいう「公共の要請」を国民の要請と解釈すれば、それは一般的社会通念を集約した「要請」でなければならず、その集約的判断はむつかしいし、「合理的な範囲内」というのも、なにが「合理的」なのか、これまた恣意的になる。「合理的な範囲内」というのは、えてして法制度解釈の放棄を産む。

 他方、平成17年12月に中教審が示した中間報告は、この更新制の導入はだけでなく、教職大学院の創設も提言していたが、後者はテーマの外なのでここでは触れない。更新制にかぎっていえば、中間報告は、現職には適用しない方針であったのを転換し、検討事項としたのである。これは、中山諮問のいう「教員養成・免許制度の在り方については、今後、学校教育を取り巻く課題や社会状況の変化等に伴い、検討が必要になる課題が出てくることも考えられることから、本審議会におかれましては、これらの課題についても、必要に応じて、逐次、御検討いただきたいと考えております」を踏まえてのことであった。その結果、現職教員については、現行法のもとで免許を取った者に適用することは難しいとの見方が動揺し、現職にも適用の方向で答申のまとめに向かって検討されていくこととなったのである。

 ところで教員免許の終身有効性は、数年で教員の所属勤務校が変わるとはいえ、教員の技量つまり授業研究や教材開発の技量のプラトー化を生むといわれている。つまりマンネリ化である。また、「ある程度やっておけば首になることはない」といった親方日の丸意識が頭をもたげ、自己の教員的将来像つまりキャリアを描くことなく、また、教職が生きた仕事であるにもかかわらず、ルーティーンワーク並にそこそこで教員生活を終了している場合もある。そのなれの果てが自己保身に走る管理職かもしれない。修学旅行で酒を飲む「楽天」的校長もいるが、民間からの管理職導入に恐れをなし、生え抜きはもっと競争意識をたくましくしていただきたいというのが、官邸や文科省の態度といえる。

 たしかに指導力不足の教員や破廉恥な教員がいるのは事実だし、そうした教員に対して分限処分や懲戒処分をとることは視野に入れるべきであろう。しかし、更新制がそうした処分一般を左右する制度であってはならないだろう。そして、更新制が正当に機能するために、第3者評価機関を設置しなければならないなら、これは、どこまでいっても解決策はなくなる。

 さらにいえば、更新制実現が、全般的な教育制度改革の決定打になるかどうかは別である。更新制はいままでの議論からわかるように、単に「首切り」の断頭台にへんげするやもしれないからである。また、もし、優秀教員確保の手段としてなら、研修だけでなく、FA制度だってある。とすれば、教員界おしなべての淘汰を更新制という濾過装置によって実現してしまうということになる。

 佐久間氏も指摘するように、10年あるいは5年ごとに更新を行なうにあたってのコストの問題もある。佐久間氏によれは、講習を受ける教員数は毎年9万人だそうで、膨大なコストがかかるのは目にみえている。佐久間氏は、更新時受講費用は「手弁当」になると推測されるが、更新制にかかるコストは、学校権限を現場に近いところに委譲する考え方からいえば、都道府県に廻ってくる可能性が高いのではないか。大学に依頼するとして、そのコストを各自治体が支出すると思われるのである。30時間の講習の費用は、単価で見積もってどのくらいだろう。30時間といえば、小学生が一日6時間授業で5日間、つまり1週間である。民間がやれば5万はかたい。自治体なら2万でできるかどうか。評価者は、大学でなければ、都道府県・政令指定都市レベルの教育委員会が担当するということになろう。毎年教員を採用するのだから、毎年更新制の講習が実施されるわけで、その手間ひまは相当なものであろう。しかも大量採用の今の時期、10年後が怪しまれる。更新OKの評価は誰がするのかの問題もある。

 免許更新制、教育の地方分権化、そして学校選択制の3者が絡み合い、義務教育および高等学校教育の行く末がみえない。教員だけがみえないのではなく、教育の主役の児童生徒また義務を負う保護者にとっても、もともとみえないものが、もっとみえなくなるといえる。だんだん離れていく視力検査表の「C」である。「C」が「c」なり、そのうち「・」なっていくのであろう。どこが開いているのかわからない。つまり「開かれた学校」ではなくなっていくということである。

 教育再生会議第一次報告「社会総がかりで教育再生を」が明記し、今国会で法案が提出される教育3法案のひとつに、この更新制がはいっている。拙速に過ぎるというのが、ワタクシの見解である。

 他の寄稿者には申し訳ない話であるが、今回評した佐久間氏の文章が一番わかりやすく、読みやすかった。しかし、教育ポピュリズムについては、もう少し議論をつづけてほしかった。紙面の都合であろう、佐久間氏ももっと論じたかったに違いない。警察の不祥事が新聞に載らない日がないような昨今だが、他方、彼らのがんばりを視聴者につたえる「警察24時」といったタイトルのTV番組がある。これと同じように、不適格教員を晒し上げて批判するだけでなく、また、夜回り先生番組ばかりでなく、教員の地道な努力をレポートする「教員24時」も放映するのが、ポピュリズム的には平等というものであろう。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
(註1)

 ここで、これまでの更新制をめぐる中教審の発表を時系列に沿って整理して示しておこう。
平成13(2001)年4月11日  町村諮問「今後の教員免許制度の在り方について」
平成14(2002)年2月21日  中教審答申「今後の教員免許制度の在り方について」
平成16(2004)年10月20日 中山諮問「今後の教員養成・免許制度の在り方について」
平成17(2005)年12月9日  中教審中間報告「今後の教員養成・免許制度の在り方について」
平成18(2006)年7月11日  中教審答申「今後の教員養成・免許制度の在り方について」

(註2)

 教員として必要な資質能力は、本来的に時代の進展に応じて更新が図られるべき性格を有しており、教員免許制度を恒常的に変化する教員として必要な資質能力を担保する制度として、再構築することが必要である。
 教員免許状に一定の有効期限を付し、その時々で求められる教員として必要な資質能力が確実に保持されるよう、必要な刷新(リニューアル)を行うことが必要であり、このため、教員免許更新制を導入することが必要である。
 更新制の導入により、我が国全体における公教育の改善・充実が期待でき、公教育に対する保護者や国民の信頼が確立する。
 更新制は、いわゆる不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく、教員が、社会構造の急激な変化等に対応して、更新後の10年間を保証された状態で、自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ていくという前向きな制度である。
 更新制を導入し、専門性の向上や適格性の確保に関わる他の教員政策と一体的に推進することは、教員全体の資質能力の向上に寄与するとともに、教員に対する信頼を確立する上で、大きな意義を有する。

(註3)

 『大辞林』では、「資質」を「生まれつきの性質や才能」と定義している。

(註4)

 中教審中間報告「今後の教員養成・免許制度の在り方について」(平成17(2005)年12月9日)は、「『教員として最小限必要な資質能力』とは、平成9年の教養審第一次答申において示されているように、『養成段階で修得すべき最小限必要な資質能力』を意味するものである。より具体的に言えば、『教職課程の個々の科目の履修により修得した専門的な知識・技能を基に、教員としての使命感や責任感、教育的愛情等を持って、学級や教科を担任しつつ、教科指導、生徒指導等の職務を著しい支障が生じることなく実践できる資質能力』をいう」と規定している。文中、「教養審」とは、「教育職員養成審議会」のことである。
(2/11・『世界』2007年2月号を読んで<5>)

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