日々旁午

2007


あさっての月曜祝日は、当サイト主宰第107回勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いします。第107回のキャンセル待ちのお申し込みにつきましてのご連絡を、先着のかたちでご案内し、タッチの差で参加をお断りしなければならなかった方々に、お詫び申し上げます。

 さて、あさっては、教育再生会議第一次報告を検討することからはじめます。この報告、是非とも2月中に終了したいと思っています。『教職教養スコープ』をお忘れなくご持参ください。

 次に、集団討論です。討論テーマは、「暴力」についてです。まあちょっと、伏せておきましょう。そろそろ、本番に向け、隠しておくのもよいでしょう。

 つづいて集団面接を実施いたします。右欄の質問事項からの出題となりますが、少し手を加えてやっていますので、対応できるようにがんばってくださいね。

 最後に、「自己売り込みのツボ」です。今回は、Fさん、Kさん、お2人にがんばっていただきます。よいトライアウトになることが期待できそうです。この「自己売り込みのツボ」のお申し込みをお待ちしています。3月中でこれは終了するからです。といいますのは、4月からは、個人面接対策もしなければならないからです。3月4日、10日、18日、21日、25日、31日、8名分空いているばかりになりました。メールでも、あさっての勉強会ででも構いませんので、ご申告お願いします。

 さて、先日、この教室の先輩から、昨年度の奈良県の詳細な受験報告書をいただきました。奈良をお受けになる方、ご覧になれますが、これは、3月からといたします。このほか、大阪府・市、京都府、兵庫県、神戸市、愛知県、名古屋市、富山県ほか、50人以上のこの教室の先輩からいただいた「受験報告書」を、勉強会の終了後の珈琲会にて閲覧できるようにいたします。どんなふうに試験が行なわれたのか、面接の質問事項ほか、そのときの雰囲気まで、臨場感もって書いてくださった先輩がいらっしゃいます。このサイトでは、公表できない内容も含まれていますので、是非、夕方以降時間をお作りになられて、閲覧参加してください。報告書を配ることはできませんが、簡単にメモを取ることはできますよ。先輩方に感謝の気持ちを忘れないように。
(2/10)

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フィー。

 ここのところずっと『世界』2月号の書評を書いているから、疲れてきたよ。書評はいままでにも書いたことがあるし、そのいくつかは紙媒体として印刷されたものもあるけれど、結構辛いものがある。まずは、評する対象の論文などを正確に理解しているかどうかが関門となる。これがちゃんとできているようで怪しい場合もある。ワタクシなどは反省しきり。

 書き手のイイタイコトをしっかりつかめてないと、誠実とはいえないからである。今回連載のこの書評が、こうして旁午をご覧のみなさまの目に触れ、「コイツ、ちゃんと理解しとらんな」といわれれば、ちょっとコワイ。

 というわけで、書評は、誠実で正しい理解の上で、賛同なり、批判なりを展開しなければならない。しかも、今回は別だけれども、あまりに「読む価値がない」というような意見を書くのは、読んだ自分が馬鹿らしくなるし、そもそもそんな場合は書評などしないし、そんな意味ないことをズラズラ書評するとしてその対象の本の売れ行きまで考えなければならないとすれば苦痛というほかないだろう。

 「今回は別だけれども」というのは、『世界』を相手に憚られる書き方ですな。申し訳ないというより、身の程知らずと叱られよう。で、この2月号の売れ行きは大変なようで、すでにプレミアがついているそうである。「3倍の値段で買いました」といったメールをもらうと、正直、ひぇぇと思う。岩波にもう在庫がないのかな。まあ、小さな書店でもおいている有名な総合雑誌だから、数軒あたれば手に入れられるでしょう。

 いま、佐久間氏の更新制の論考について書いている途中なんですけど、書き出したら、資料を並べる癖が出て、ちょっと長くなっているのです。で、推敲していたらコケコッコーなわけ。

 そういうことで、きょうはパスして、あす以降、連載をつづけます。でも、ちょっと更新ズレるかもしれないから、そのときは「浩さんも、てーへんだなー」と思っておくれ。

 じゃ。
(2/9)

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仕事があるのは幸せである。しかし、仕事があり過ぎるのは不幸せである。汲めども汲めどもつきない、滾々と湧く知恵の泉ならば我が家の庭にもほしいが、やればやるほど雪ダルマ式に増殖する性質の仕事には、はまりたくない。

 命がいくつあっても足りないのが、教職に就くものの定めなのだろうか。当旁午(bougo)の連載書評(3)で、教育現場の多忙化が告発されているのを、尾木氏の紹介から知り得たワタクシたちであるが、次の高橋誠氏の分析が、それを統計的に立証する。「深刻な精神的ストレスに苦悩する教員たち 『教職員の健康調査』の結果が意味するもの」を寄稿された高橋氏は、この健康調査そのものの実施者の一人である。

 この寄稿は、多忙感がストレスを生み、「壊れていく教員」予備軍の存在を数字で示してくれるという点で、教育行政に携わる人びとに是非とも読んでもらいたい。多忙は仕事の処理量の多さから個々の先生に実感されるわけである。だが、その仕事の性格も、昔に比べて変質している。その変質が多忙の中で「喜び」を感じず、「苦悩」を感じる源泉となる。

 その「苦悩の源」を労働心理学の専門家たる氏は、「教育活動をとりまく環境」、「学校運営と職務遂行の仕組み」、「仕事と生活への影響」の3領域に範疇化し、その原因を分析してくれている。児童生徒とコミュニケーションをとりにくくなっている現場は、容赦なく教員にストレスを与えるし、保護者の教育要求を捌けず、これも「教員の反省」という形でストレス化する。校長から指示を受けた仕事もこなさなければならないし、これって、「教育」と関係あるの?と疑問を感じることにも時間を割かなければならない。いつでも居残りして学校で仕事ができるように、学校の鍵をすべての教員が持っているのかもしれない。我が家の鍵と学校職員室の鍵と。いつ帰宅できるかわからないからである。深夜に職員室の鍵をかけ、警備員さんに「さようなら」というとき、もう夕日は沈み、漆黒の闇である。

 そうした仕事群が、学校にいるときにだけ課されるのではなく、持ち帰りの仕事として教員の生活を圧迫する。小テストの丸付けや連絡帳へのコメントなど、深夜に及ぶケースもあろう。その犠牲が、新宿区の女性教員であった。

 高橋氏の寄稿から、そうした教員の苦しい実態が浮かび上がる。そこで考えたいのは、「教員の自己実現」とは何か、ということである。なぜなら、数字にあらわれる苦しみは、自己実現によって解消されるに違いないからである。

 もともと、たくさん給料がほしいとか、出世したいとか、名声がほしいとか、処世術に長け、経済を求めて教職に就こうとする人間は少ない。ただただ子どものためとか、子どもの成長をみるのが生きがいでとか、そうした心情的なところに喜びを見出すのが教員である。しかも教員は児童生徒に物事を教え、自分を乗り越えていってほしいと願っている。教育者は社会において捨石であることを自覚したとき、自分の仕事によってつぶれていくことがなくなるわけである。汲めども汲めども、なくならない。浸水した船のような存在が教員であろう。そしてそうした状態に嬉々として立ち向かっていけるバイタリティが求められる。

 沈没するタイタニックに乗船したいもの、それでなければ教員とはいえない。本当に沈んでしまうこともある。学校選択制によって廃校の憂き目にあうことを想像せよ。

 再度、問う。教員の自己実現とは何なのだろうか。数十年経ったときに同窓会で「ありがとう」といわれ、その感動的なシーンが「教師冥利に尽きる」という言葉で表現される。これが、自己実現なのだろうか。自分の教え子が立派になって社会で活躍していることを確認するのが自己実現なのだろうか。そうだとすれば、それは他者の自己実現を通してしか自己実現できなくなることを意味するだろう。

 人の成功を心の底から喜ぶことのできる人間でなければ、教職には就いてはならないことになる。卒業式におのずと涙が流れる人間、感動する心を忘れていない人間こそが、教員に向いている。現実主義者は教員世界では生き残れないのではないか。

 そうした意味では、社会人経験を持つ教員を採用したいと計画する文科省や自治体は、立ち止まってちょっと考えなければならないのではないか。全教員の2割を社会人出身にしたいと意気込むが、それが現場にどんな影響を与えるのか、採用する側は予想くらいはしてほしい。9時5時でないことを自覚し、現場に臨む教員を採用しなければならない。このあたり、民間人校長であまりうまく学校運営ができていないのをみれば、ちょっと心配にもなる。大阪府立高津高校校長の例もある。

 企業的経営が学校世界に適用されつつある現実が、多忙感として教員にあらわれているのであろう。
(2/8・『世界』2007年2月号を読んで<4>)

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法令執行人といった、いささか、いかつい表現で教員を形容する尾木直樹氏の論考「子どもたちに『先生』を返せ 『法令執行人』化させられる教師」(『世界』2007年2月号、岩波書店)は、何を主張しようとしているのだろうか。その核心は、こういうことであろう。

 改正前教育基本法の第10条の文言「直接性」の価値を深く理解し、児童生徒と面と向き合い誠実に「仕事」をすることこそ、教員のあるべき姿であるのに、現実は時間的余裕を奪われ汲々としていて、およそ教育の場とは程遠い似非教育空間が広がっている。その似非教育空間は、同時に、教員評価が学校現場の隅々にまで行きわたっている場であり、管理職の監視下におかれた教員たちは、やるせない気持ちを抱えつつ、管理職からの評価視線を一身に受ける場へと学校が変質していくのを、下を向いてやりすごすほかない。淡々と「法律を守る立場」に自己をおいて、教育の本当の仕事=児童生徒と真剣に向き合うことができなくなっている…

 そうした他の場所にいる先生を子どもに返せ、と。教室に返せ、と。

 「理想の教員像」というようりもむしろ、「正しい教師像」が崩されている。「子どもの前から姿を消す」教員が増えるのも無理はない。

 法令執行人という言葉それだけを聴けば、死刑執行人と同列なのかなと、ひとは想起するであろう。それだけ凄まじい上意下達的行政命令が、教員という地方公務員に降りかかるのである。その実態を、尾木氏は独自の調査に基づきワタクシたちに示してくれる。この独自調査結果に述べられた教員たちのうめき声を聞くだけでも、教員世界のある断面を知ることができ、この雑誌『世界』を購入する価値があろう。それほどシリアスな言葉が並べ立てられているからである。

 また、改正教育基本法を遵守し、上からの命令だけをソツなくこなすティーチングマシーン以外は、現場から排除されることになる。法規を守らない規格外教員は廃棄処分にされる。そうならないためには、命令系統を伝達する一歯車として自己を自覚し、上からの命令=「法令」を、ソツなくこなす=「執行する」ほかない。同論考で紹介されているシリアスな言葉からみてみよう。

 それらは、「三〇年のベテラン教師と競争を強いられる新採」、「勤務時間内で終わらない、仕事量の多さ」、「教員評価が気になり、実情出せない」といった見出しにまとめられるものである。2ページにわたって紹介されるこうした教員のうめき声を分析し、そこに尾木氏は、「同僚性」の欠如を指摘する。尾木氏のいう「同僚性」とは、教員同士が助け合い、声をかけ合い、協調性を持って仕事をする連帯意識であり、多様な資質能力を持った教員同士がスクラムを組んで学校を豊かな教育の場に変えていく力そのものであろう。この力がゼロにまでなったとき、あの新宿の、若き教員の自殺があったといえるのではなかろうか。これでは、厳しくいえば、自殺か他殺かわからない。

 「同僚性」と尾木氏が呼ぶヨコのつながりが、教員評価、人事考課制度の導入によってズタズタにされ、代わってこの「評価」によって教員間をとり結ぶところのタテの関係が、学校現場を貫徹することになる。児童生徒を指導するにしても、保護者対応をするにしても、結局その指導が良好なのかどうかが管理職にフィードバックされる。そのフィードバックの仕方も、評価対象の教員にあるいはみえ、あるいはみえない形でなされるのである。しかもその評価によっては「指導力不足教員」の烙印を押される結果となるやもしれないし、「減給10パーセント」といった生活に直結する仕打ちを喰らうかもしれないのである。

 風声鶴唳に怯える教員に、すっと伸びきった、フレッシュな指導など、学習指導であれ、生徒指導であれ、できるものだろうか。まさに、「人事考課制度が、目的とは正反対に教師たちを孤立させ、『子どもの成長のため』にではなく、『評価されるため』にポイントを稼げる仕事をする人間へと変質させている」といえよう。

 学校が評価のモザイクであることは否定できない。教員が生徒を評価し、教育課程が教員によっても、家庭によっても評価されてきたように、これまでもそうであった。それがいまや教員が生徒を評価すると同時に、アンケートの形をとって生徒から教員が評価されるし、家庭が教員を評価し、管理職が教員を評価する。地域も然り。第3者評価機関の設置までささやかれている。

 してみると、いまや教員に対する評価の体制が、他の職よりも突き抜けているように思えてならない。この評価制度が労働法制とどのように関連しあうのだろうか。むつかしい。たしかに企業においてもホワイトカラーエグゼンプションの導入が話題になっているように、厳しい労働環境にあるし、非正規雇用の問題がある。教員にも「しっかりせよ」との発破がかかるのは、別段、問題ではない。だが、教育公務員の世界は、一般企業の世界ではない。一律に、一般企業的な労働思想を適用し、うまくいくのかどうか。ストライキも許されない世界である。製品を作るのではない、人間を作るのが仕事である。

 教員が、自己の思想・信条に基づいて、今まで培ってきた社会観や世界観から児童生徒に直接責任を負って教育を担当するのでなければ、いま流行の人物重視教員採用試験をする意味もないだろう。多様な個性を持った人材を育成するのが公教育としての学校の使命なら、多様な資質、多様な考え方を持った教員が集まる学校でなければ、その目的を達成することはできない。上からの命令に対し、健全な批判的意識を持つことなく、従うばかりの教員が、豊かな人間性を持ち、自分の頭で考える児童生徒を育成できるであろうか。

 よく、「規範意識の形成」という。これは簡単に翻訳すれば、ルールを守る、反社会的行為に及ばないように指導するということだろうが、暴力をふるう児童生徒をたしなめ、社会秩序を自覚させるのは当然だとしても、自己実現の道すら自分で模索しない、あるいはさせない、従順すぎる人間を育成する方便に、この「規範意識の形成」が使われているような気がしてならない。

 教員も、体制に都合のいい法令を順守する「規範意識」を身につけるよう、踏み絵を実施されるわけである。教員のロボット化である。この法令順守は「長いものには巻かれろ」的に教員採用試験の受験生にも感覚される。どれだけ受験生がその手のものに敏感であることか。教員組合の臨時採用教員部にさえ、参加するのを怖がるのである。とにかく平身低頭、批判なんてモッテノホカ、採用されるためには従順な姿勢であることを自治体に印象付けたい。それが教員を目指すものの姿勢一般である。悲しい。なかんずく、都がそうした態度を要求する一番手である。

 尾木氏の、「すでに教員採用試験の倍率は、その不人気から小学校では、かつての十数倍の高率から四倍程度にまで落ち込んでいる。とりわけ、管理・統制が厳しい東京などでは、二倍すれすれになっている」、「学生も異常なほど非人間的な職場には参入しないのである」との感覚は、教員を目指しチャレンジするもののなかなか受からない立場からすれば、「えぇ、ウソだろう」との感想を持つかもしれないが、客観的にはそうである。それを示すのが、上の各教員の告発文である。

 教職は、いまや「不人気」職なのである。今後も、いまのままでは一層そうなっていくし、教育再生会議的方針で進めば、事態は悪化するだろう。安定した職だと思われる教職が、免許更新制の導入で身分的にあやうくなり、人事考課制度によって給与も成果主義になる。給与面の安定は昔語りになる。分限処分もますますその数が増えていくだろう。

 だが、この教職が「不人気」という尾木氏の見方も一面的であることを伝える記事がある。それを掲げておく。2006年12月に実施された「教員意識調査」についての『毎日新聞』の記事である。記事の見出しは「会社員以上に、仕事に満足感と多忙感」である。

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 公立小中学校の教員は会社員よりも仕事に満足感を得ていると同時に、多忙感も感じる傾向にあることが11日、文部科学省の調査で分かった。また、教員自身は勤務実績などで給与に差をつけることを否定的にとらえているが、保護者は肯定的ということも分かった。
 文科省は10月、全国354校の公立小中学校教員8976人(回収数8059人)と保護者1万4160人(同6723人)を対象に意識調査を行い、平均点を算出。中央教育審議会の「教職員給与の在り方に関する作業部会」に中間報告した。
 中間報告によると、「仕事にやりがいを感じている」と答えた教員が5点満点で平均4.23点だった。一方、「仕事が忙しすぎて、ほとんど仕事だけの生活になっている」のは3.75点となり、調査会社が所有している会社員のデータと比較すると、教員は会社員よりも満足感と多忙感を同時に感じているという。
 また、「指導力不足教員らに給与などへの反映が必要」と考える教員は3.37点。保護者への同種の質問では4.41点となり、両者のかい離が際立った。
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 不人気職と尾木氏は断じたが、それなら上の記事にあるように、会社員より満足感を感じることはないだろう。昨年12月の統計である。現職教員が多忙に苦しみながらも、満足を感じているなら、まだ救いがあるというものである。しかし、尾木氏の表現が、将来を見越してのものであると読み込めば、それは正しい感覚といわなければならない。

 上にみられる数字は、どんどん低くなるだろう。学校に配属されてサクラが散るまでに辞める新採もいる。理想に燃えて教育するぞと意気込む若者が、「非人間的な職場」たることを実感するのである。はいってみなければわからない、しかし、はいってからわかっては遅すぎる。校庭に骨を埋める覚悟を持っていなければ、教職はつとまらない。教育実習で、学校のいいところばかりをみるのではなく、腐ったところを直視するのも、教員をめざすものには不可欠である。

 少し前に、テレビで「いい教員と悪い教員と見分けるために、給与を半分あるいは全額返上して、つとまるやつかどうか調べたらいい。それでわかる」というニュアンスの言葉をノタマッタ馬鹿な教員がいたが、そんなことで教員として適格か、不適格かなどわかるはずがない。先従隗始、そう嘯くご自身が、無給でやってから吐くべき言葉である。

 現場に「同僚性」が花開き、児童生徒のみている星と同じ星をみることに努力する教員、これが求められている。
(2/7・『世界』2007年2月号を読んで<3>)

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『世界』2007年2月号、岩波書店の特集の巻頭を飾ったのは、野田氏の「復古『教育基本法』下の教師たち 教師をいじめれば教育はよくなるのか」であった。全編にわたって、現在の教育行政、教育現場に対する筆者の深い憤りが感ぜられて胸が苦しくなる。

 鬼面人を驚かすような見出しで、読むものの注意をひかねばならないほど、教育基本法の改正=改悪は指弾されて当然であった。「祖父母、父母殺し」とあるのが目にすぐ入り、ワタクシたちは、尊属殺人の当事者であったのかと自問自答せざるをえない。野田氏は、非常なる産みの苦しみ、つまり、戦前の反省と真摯な議論を踏まえてできた改正前教育基本法が、国粋主義的傾向が強まる現実的背景において、簡単に改悪されたことに忸怩たる思いなのであろう。野田氏自身もその共犯者であると自省せざるを得まい。その反省の気持ちが、後輩の学問的姿勢の批判につながっている。

 野田氏は、「若い人文・社会科学の研究者のなかには、『何を書いても、論文の落し所は“日本は優れている”だよね』と察する者まで現れた」ことに憤慨している。さらに、「今、教育学が拠って立つ基本が崩されているのに、若い教育学者はほとんど感受性を持たなかった」と手厳しい。この一文は、小さくまとまるものへの警鐘といえるし、教育基本法を作った世代の正しい思想的継承が成立せず、「転倒」している愚の指摘であった。この「転倒」の愚は、教育再生会議のメンバー構成についても向けられているし、沈黙を守る教育学者一般にもおよぶ。

 教育再生会議のメンバーで国際日本文化研究センター教授川勝平太氏がチョーチン学者かどうかは知らないが、野田氏の批判を読んで、苦笑いしているかもしれない。 このほか、教育再生会議のメンバーを見渡せば、独立行政法人理化学研究所理事長野依良治氏(座長)、株式会社資生堂相談役池田守男氏(座長代理)ほか、話題になった横浜市教育委員会教育委員義家弘介氏、公立学校勤務から私立の雄・立命へ華やかに転進した陰山英男氏、京都市教育行政の刷新によって脚光を浴びている京都市教育長門川大作氏、教育バウチャー制度の推進派である白石真澄氏、ワタミ株式会社代表取締役社長・CEOにして学校法人郁文館夢学園理事長渡邉美樹氏などであり、生粋の教育学者と位置付けられる「有識者」はいない。あえて教育畑の人を挙げれば、「教育ジャーナリスト」の肩書きで参加している品川裕香氏だけだろう。

 これは教育の専門家を口封じした結果なのだろうか、それとも、教育を語ることが、誰でも語れる経験則の議論であることの裏返しなのか。官邸主導のこの会議に、体制に棹差す教育学者を人選するはずはない。都合の悪い意見を声高々に主張して、左翼の烙印を押されてしまえば、いかに教育学の大家であろうと、無視されるのである。そもそも人選リストには、「女王の教室」女優は入っていても、教育学者ははいっていないだろう。

 それだけに、中教審に賭ける期待は、まだしも大きいといわなければならない。同会議の報告は、中教審で診断され、行政方針になるからである。その座長に、山崎氏が就任したが、ちゃんとした音頭をとってくれるのかどうか。だが、このように行政に期待をすることは、ハナッから意味がない。教育行政に対抗するのは、市民の自発的活動であり、教育的アマチュアなのである。

 とすれば、本来、教育再生会議のメンバーになってはいけない教育的アマチュアが、体制に絡めとられてしまったことが、躓きのはじまりなのである。つまり、教育的アマチュアたる自覚が、メンバーにはないというところに、同会議の傲慢さがある。

 さて、教育基本法の話に戻そう。百歩譲って、憲法が「押し付けられたもの」だとすれば、教育基本法はそうではなかった。「教育根本法」を制定しようとの意欲から、民主的な教育刷新委員会(中教審の母体)が出した成果である。自主憲法制定に燃える自民党が、自主「教育基本法」を作りたかったのかといえば、そうではない。憲法改正の前座として、改悪してしまったと考える。これがワタクシの立場である。露払いの役目を担わされた教育基本法。その価値が矮小化されてしまった基本法。ワタクシたちは「空気のようなものであり、私たちはそれを吸い込み、その爽やかさも凛凛しさも忘れて、当然あるもの」として胡坐をかいてきてしまった。そのツケが、60年後のいま、取立てに追われている。是非、この歴史的事情を劇団四季は公演してほしい。

 野田氏の筆は、教育基本法改悪批判のあと、第1に、広島県教職員組合の調査資料を駆使し、第2に、『教育委員会月報』の数字に基づき、現場教員のおかれた厳しい環境をあぶり出している。こうしたガケップチに立たされている教員に対する医学的なアプローチが機能不全していることをも、比較文化精神医学専攻の立場から、追及する。

 新世代向精神薬の議論は読んでいておもしろかった。よく話題になる三楽病院の医療実態についても、告発している。ただ、この三楽病院については、実際、情報が錯綜し、ワタクシを含めた一般の人びとにはどう判断していいかわからない。教員に対する治療そのものが、野田氏が指摘する「医療を利用した拷問」なのかどうか。二項対立的に校長に服従するか否かを迫り、受診に来た教員の投薬量を増やすような医師が本当にいるのか。もっといえば、三楽病院と東京都教育委員会の間には、「指導力不足教員」を葬る密約があるのだろうか。

 最後に野田氏は、「子ども嫌いが教育を語る」と節の題を設定し、結論として「今日の教育再生とは、教育行政が教師を尊敬することに始まる」という。この結論にたどり着くまでの野田氏の論旨は、教育長批判、「偽りのネーミング」批判を展開している。

 そこでは、「未履修問題」は「単位詐欺問題」であると論破し、なるほどと合点がいった。勉強不足のワタクシなどは、こう切り込まれると賛同するほかない。まさになるほどの読後感であった。たしかに生徒に罪はない。罪を犯したのは、校長であり、教育委員会である。管理職は権力のお片棒をかつぎ、ご都合主義であると野田氏の舌鋒は鋭い。

 だが、学校現場の管理職全員を「子ども嫌い」といい切るのには、同意しない。広島県世羅高校校長石川氏は、そうではないのではないか。

 最後にワタクシから述べておきたいことがある。それは、教育行政に「教師を尊敬する」よう求めるのは、馬鹿げたことだということである。尊敬なる精神態度は、誰かが誰かに依頼するものでなければ、当事者から要求するものではない。ここは、「尊敬」と言う言葉を使うのではなく、「敬意」を使うべきだろう。すなわち、「今日の教育再生とは、教育行政が現場の教師に敬意を払うことからはじまる」といわなければならない。この点、どうも野田氏は、中教審の議論、つまり「新しい時代の義務教育を創造する」に引きずられているように感じるのである。
(2/6・『世界』2007年2月号を読んで<2>)

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前日の更新に引きつづき、集団討論の再現を報告します。出席停止措置の強化が叫ばれているけれども、どう考えていますか、というのがテーマでしたが、同一テーマについて2回やっていただいたので、グループとして比較対照し、若干感想を記したところです。

 このテーマに、20分間、6名の方が挑戦されました。まず、Cさんが口火を切り、出席停止される児童生徒はどのような立場であるのか、定義することからはじめましょうといわれ、討論の第一の方向を示されました。これに答え、Aさんは、安心して学習できる環境を保障するのが前提であるから、他の児童生徒の学習や学校生活を妨害する児童生徒といわれ、Bさんは、授業中、大騒ぎしたり、問題行動を起こし、他の児童生徒の権利侵害をする児童生徒といわれました。

 Dさんは、他の児童生徒の教育、授業を受ける権利を侵害する児童生徒と述べられ、Fさんは、他の児童生徒に危害を加える児童生徒と述べられます。Eさんは、その対象は、授業妨害ほか暴力をふるう児童生徒、性行不良の児童生徒といわれました。Eさんは、この発言に付け加えて、テーマが、「強化」をどう思うかも尋ねているので、出席停止措置を是々非々でするのかどうか、議論しないといけないのではないかと発言されました。このように1巡したあと、Cさんご自身は、出席停止がいじめる児童生徒であった場合ほか、出席停止対象の児童生徒にも、教育を受ける権利が保障されるべきであるので、「両立させるべきである」とご意見されました。この意見の意図がちょっとお聞きしていてわからなかったのですけど、どういうことをいいたかったのでしょうか。やむをえない措置として出席停止しなければならないときもあり、そうでないときもあるという意味で「両立」だったのでしょうか。いずれにせよ、この発言は、Eさんの是々非々論を受けてのご意見でありました。

 つづけてBさんは、出席停止措置の強化に賛成であると自己の立場を述べ、しかし、不安要素もあるといわれます。停止措置に踏み切った児童生徒にどんなフォローをすればいいか、そして、停止措置をして対象児童が抱える問題が本当に解決するかどうか、どうも出席停止を措置するのは、延引、時間稼ぎのような気もすると述べられました。ここは、時間稼ぎであるとして、ではEさん自身はどんなことをするのかを述べるといいですね。討論や面接における発言は、その根拠を明示する、あるいはテーマに対して批判したとしてもどういう理由でそうなのか、また、今回の場合では、代替案といいますか、自分ならこうするという建設的な意見をつづけるようにするのが、発言のコツといえるでしょう。すなわち、問題を感じているから時間稼ぎのようだなという感覚があるわけで、それに自問自答するわけですね。

 Aさんも出席停止措置の強化に賛成の立場です。しかし、これまたBさん同様、問題をはらんでいるとされ、問題点を整理して発言されました。まず、学校が何とかしようとし過ぎではないかと学校の一般的体制そのものを批判されます。その裏には、家庭教育の充実を求める意見があったと思うのですが、これをAさんご自身が明示すればもっとわかりやすかったでしょう。Aさんの示された論点は、第1に、精神的な苦痛も含め、いじめが理由でいじめた側を出席停止した場合、それがいじめであるのかどうか立証するのをどうするか、第2に、出席停止措置に踏み切った学校が責められないか、第3に、Bさんもいわれたが、これで問題が解決できるのか、原因がいじめなら、いじめがなくなるのか、ということでした。コンパクトに3点提出されたので、発言時間が長くても、聞いていてそう感じさせない有利な言い方となっていました。ここはこのサイトをご覧のみなさんも参考にするべきです。

 なぜなら、大阪府の集団討論や個人面接における注意事項の決まり文句である「てみじかに」に対応する発言の仕方だからです。ちなみに、ちょっと話がズレるのですけれど、大阪府が「てみじかに」というのであって、ワタクシが「てみじかに」というのではありません。なんでこんなことをいうのかといえば、「てみじかに」=「手短に」であって、これは差別用語ではないかとの批判があるからです。大阪府は、あるいは他の自治体も、「適切な時間内で」とか、「発言時間を考えて短く」とかの注意を与える方がいいでしょう。ただし、「端的に」は意味が違ってきますので、これまた注意です。「端的に」を辞書で引いてみてくださいね。

 さて、Fさんは、出席停止に「少し賛成、基本的に反対」という微妙な立場です。聞いていて不自然ではなかったのですが、こうして文字にすると変ですね。出席停止措置をとることは、対象児童生徒の学ぶ権利を奪うことになるので反対といいつつ、いじめが停止の原因であった場合、いじめた理由ほか親身に理解し、内面的にどうフォローするべきかむつかしいからというのがこのように発言される理由でした。Dさんは、明確に反対の立場でした。出席停止措置は、法規に規定されているけれども、どの子にも学ぶ権利=教育を受ける権利(憲法26条)を持っており、このことをあまり考えていないから、強化と簡単にいえるのではないかとのご意見です。

 Eさんは、条件付賛成の態度です。自殺にまで追い込まれるいじめられた児童生徒の「生きる権利」はどうなるのか、いじめた方の人権も守らなければならないのは理解できるとしても、自殺してしまった児童生徒が現実にいて、どっちの人権を守るべきなのか、と喝破されます。すなわち、ひょっとすれば自殺の一歩手前まで思いつめている児童生徒がいて、いじめる側がいて、いじめる側の児童生徒を出席停止するのに躊躇していて、もし自殺してしまったらどうするのか、ということでしょう。したがって、ことここに至るまでに全力を挙げることが要求されているとのべられます。これも「職務専念義務」でしょう。Eさんは、あくまで出席停止措置は、緊急措置であることを力説されました。

 ここでDさんが議論の方向を切りかえる発言をされます。実際に出席停止したとき、どんな問題点がでてくるのだろうか、という発言です。

 これを受け、 Cさんは、何も理由がない場合いじめないとすれば、いじめた場合そのいじめる理由が存在するのであって、その理由を解明するのが先決であると問題点を出されました。ここに、しかし、いじめが原因なら、第一義的にはいじめられた児童生徒を守る態度をとることは忘れないと付け加えられました。

 Aさんは、先にも述べた立証の困難性のほか、いじめが問題として出席停止した場合、いじめた側のフォロー、出席停止の状況にある児童生徒の学習フォローをどうするか考えていると述べられつつ、しかし、いじめた側は当然悪いのであり、毅然とした対応が求められるし、そうした態度をとりたいと語られました。さらに、最近、児童生徒の自殺が増加していることにも触れられ、学校は、最終的にいじめた側の児童生徒に対する指導が行き届かない、指導する余裕がない状況に追い込まれているのではないかと、追いつめられた学校そのものを心配されているようでした。

 Bさんは、出席停止措置下にある児童生徒の学習フォローは当然必要とされ、同時に、なぜそうした措置対象になったのかを探るため、身近な立場の担任、副担任の先生を切り離して指導するべきではないといわれ、さらに、出席停止に至るまでに別室指導という方法もあると発言されました。

 Eさんは、これまでの議論をふまえ、第1に、出席停止措置は、法律上は保護者に意見を聞いて停止措置をしなければならないこと、これがそう簡単に停止措置にいたらない歯止めになっていること、説明責任があるということ、などを話されました。ここにかいたように、Eさんは主語が不明確だったので、そこを教育法規の勉強をしてちゃんといい切ることができれば、だいぶん印象が変りますよ。たとえば説明責任するのは誰でしょうか。

 Eさんは、つづけて、こうした説明責任がちゃんとしていない場合、保護者も不信感を持ち、裁判になるかもしれないと述べられます。だから、出席停止措置のガイドラインが必要ではないかと提案されました。

 第2に、出席停止対象児童生徒の学校復帰の問題を挙げられました。通学するようになって、クラスの児童生徒とどのようにパイプを作り直すか、といううことです。

 AさんもこのEさんのご意見に同意し、教員と保護者と児童生徒のパイプをどうするか、また、出席停止するにあたって説明の仕方が地域によっては変るかもしれないということ、対応マニュアルの作成ということを提起されました。Cさんは、家庭の責任ということに言及されます。出席停止に至る原因、その解決が教員に求められているということを話されました。

 Dさんは、明確なガイドラインの作成はもっともだが、出席停止措置対象がいじめた児童生徒であったとして、では、いじめた側とは誰なのか、と問われます。これは、Aさんのいう立証の困難性と関係する議論です。いじめの構造は複雑で、ふつうDさんいわれるように4つに分かれます。いじめる児童生徒、いじめられる児童生徒、はやしたてる児童生徒、傍観する児童生徒、ですね。後2者は、どうなるのだろうということです。たしかに、出席停止対象がいじめた側だとして、よくいう「傍観者もいじめている」が正論だとすれば、ほぼクラス全員の児童生徒が「いじめの加害者」になるのであって、その児童生徒全員を出席停止にするのだろうか、ということになります。これは、理論的にはそうなるわけで、なかなか反論できる意見ではありません。「傍観者も加害者だ」と政府のエライさんも、教育関係者もよくいいます。深く出席停止問題を見つめれば、こうした問題点がでてきます。Fさんいわれるように、「どこまでの範囲の児童生徒をいじめた側とみるべきか」なんですよね。クラス全員がいじめの共犯者であるとして、現実的にそのすべてを出席停止になどできるわけがない。しかし、理論上は出席停止にできる。しかも、「強化」が主題のこのテーマ、はやしたてる者を停止措置にだってできますし、しなければ何のための「強化」なんだということにもなる。

 最後に、Bさんが、出席停止措置に踏み切ったとして、学校が仕事を投げ出したのだと保護者や地域の人びとに思われたくない、と述べられ、議論は終了しました。

 さて、この議論に、反省点が提出されました。ますは、教職教養の学習が生かせていない、とのご意見です。ワタクシも感じたのですけれど、出席停止が何の法規に基づき、どんな手順なのか、その確認がないままでした。1巡目に参加者全員がCさんのいわれる「定義」に答えようとしたし、その発言はそれぞれに的を射ていたわけですけど、学校教育法という言葉すら出てきませんでした。これはこれで議論は可能なんですけれど、やっぱり不満です。以下に、引用しておきましょう。

 学校教育法第26条
 市町村の教育委員会は、次に掲げる行為の1又は2以上を繰り返し行う等性行不良であつて他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる。
 一 他の児童に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為
 二 職員に傷害又は心身の苦痛を与える行為
 三 施設又は設備を損壊する行為
 四 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為
 A市町村の教育委員会は、前項の規定により出席停止を命ずる場合には、あらかじめ保護者の意見を聴取するとともに、理由及び期間を記載した文書を交付しなければならない。
 B前項に規定するもののほか、出席停止の命令の手続に関し必要な事項は、教育委員会規則で定めるものとする。
 C市町村の教育委員会は、出席停止の命令に係る児童の出席停止の期間における学習に対する支援その他の教育上必要な措置を講ずるものとする。

ですね。だから出席停止の対象となる児童生徒は幅はありますが概ね「確定」しているわけです。上の「一〜四」です。そうであれば、いじめが出席停止の理由になる以外にもイロイロあるわけで、今回の議論がいじめに偏り過ぎていた議論であったといえるでしょう。対教師暴力や器物破損なども取り上げてよかったのではないでしょうか。いじめに議論が集中するのは社会的現実からしていいとしても、どなたかがこういうケースもあるよ、といってもよかったと思われます。また、いじめが停止理由だったとして、いじめの態様も千差万別だし、たとえば小学校低学年と高学年でもそのあらわれ方がちがいます。これは対教師暴力でも違うでしょう。

 それから、Eさんの発言のところで書きましたが、手順の問題、主体の問題を確認し、自分でいえるようになってほしい。

 この2つは大きな反省点でしょう。このほか、教員として自分なら何ができるかが語られていない、学校全体の視点からの意見があまりなかった、といったことが挙げられました。また、志望校種に即してのご意見も少なかったと思われます。小中では出席停止、高校では停学・退学ですが、その違い、懲戒であるかどうかなど、法規上のの議論ももっとあってよかったでしょう。厳罰主義、保護の思想、ゼロトレランス、規範意識の形成、反社会的行為など、いくつものキーワードがありますし、テーマにオンするとして何がいえるか。マスコミのこの問題に関する報道について、悪いことをしたときにズバッと叱ってほしいと実は願っている児童生徒もいること、慎重な運用を行政に求めるかどうか、ひいては再生会議の議論の問題点、少人数教室の導入が生徒指導とどう関連し、出席停止措置を抑止することになるのではないか。出席停止措置に至るまでに、教員が児童生徒理解を深める。etc...

 指摘されてみれば、イロイロとトピックがでてきます。上の指摘は、第106回の討論で出てきたご意見であり、反省点です。

 このテーマ、教育再生会議の重要なイシューでありますし、もう一回夏前にやってもいいかもしれませんね。
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昨日は、第106回勉強会にご参加いただきありがとうございました。また、本日、特別開催にご参加いただいた方々、お疲れさまでした。

 さて、両方ともほぼカリキュラムは一緒でしたが、違ったところは、第106回では「自己売り込みのツボ」があり、OさんとTさんに担当報告していただきましたが、特別開催ではこれがなく、代わりに教職教養一問一答があった点です。

 両日ともに、教育再生会議第一次報告を検討しました。いつも通り、あんまり進みませんでした。2ページくらいでしょうか、しかし、みなさんと一緒に議論ができてよかったです。この点、「うしろのこくばん」に、えむさんの書き込みがありますので、みなさま、レスお願いします。もちろんのことながら、勉強会に参加していらっしゃらない方からの書き込みも歓迎いたします。

 この報告書について、ようやくTの1が終わろうとするに過ぎません。議論がバウチャー制度に集中して、それが進行を遅らせつつも実りある議論を紡ぎだしていました。次回からはもう少しスピードアップしますね。

 次に、集団討論を実施いたしました。両日とも、テーマは、予告通り「小中学校における出席停止措置の強化が話題となっています。教員として、この問題をどのようにとらえていますか。議論してください」でした。ワタクシは主宰者として、同じテーマの議論を2回拝見することになりました。やはり違うものですね。あえて甲乙はつけませんけれど、感じたことは、やはり討論にのぞむ前の準備に時間を割いた方とそうでない方とでは意見に差があったという当たり前のことです。第106回の議論も、特別開催の議論も、両方とも20分間でしたが、総発言数はそれぞれ18回と23回でした。その差5回は、たった20分の討論では大きな違いです。18回の討論ではかなり空白の時間があったのに対し、23回の方ではほぼなく、前者がどんなトピックをたてるべきか苦しんでいたのに対し、後者の議論ではよどみなく進んでいっていました。

 テーマに対し論点提出が少ないと、おのずから発言回数は少なくなりますね。実はワタクシが第106回の議論終了後コメントした項目が、特別開催で登場していて、議論に厚みがあったと評価できます。甲乙つけないといいましたが、ちょっと触れてしまいました。次回の更新では、特別開催の議論進行を見直していくことにし、それに付加する形で第106回の議論のポイントを重ねます。

 次に、集団面接でした。面接質問に対する個々参加者の発言はここに載せません。質問事項だけ挙げておきましょう。「なぜ、その校種を志望したのですか」、「あなたの人生経験において、感銘したこと、すばらしいと思ったことなど様々にあるとおもいますが、その中で児童生徒に一番伝えたいことは何ですか」、「総合学習が実施されていますね。あなたの身近な方で、あるいは近隣にお住まいの方で、この人に来ていただいて授業をしてほしいと思っている方がいれば教えてください」、「学校では『しつけ』をするべきですか」、「土日も部活動の引率などで休日が犠牲になることがあるかもしれませんが、大丈夫ですか」、「習熟度別学習のいいところと悪いところについて教えてください」、「保護者から自分の子どものことがわからないといわれた。どのように対処しますか」、「自分の好きな花はなんですか」です。ご覧のみなさんも考えてみてくださいね。

 最後に、「自己売り込みのツボ」でした。Oさん、がんばってきましたね。よくまとまっていました。ワタクシや参加者からいただいた問題点を考え直し、まとめなおしてくださいね。Tさんのは、売り込みになっていたかどうか参加者からも厳しい意見がつきました。是非、がんばってください。それから、空咳はホドホドにいたしましょう。お2人とも、ワタクシが添削しますから、書き直せたら持ってきてください。ひとり、10万円です。ウソ、ウソ、無料です。

 特別開催での一問一答では、Fさんが面目躍如、すばらしい出来でした。みなさんも負けないように『教職教養スコープ』を全部おぼえましょう。大阪府の1次試験対策としては、これ以外、ワタクシの問題集や参考書、討論へ参加すれば、やる必要ありません。いろいろ参考書や問題集が市販されてますが、大部のものをやっても、効率的とはいえないでしょう。時間があれば、一般教養にあててください。ペーパー対策の教職教養の勉強に時間を割きすぎると、ワタクシの考えではダメですね。もともと大阪府は40問で12、3問しか出題されないわけですから。もうちょっとちがった意味で教職教養を学びましょう。

 本日、あの、福岡県教採試験漏洩事件の元校長が発見されました。悲しい結末でした。ご冥福をお祈りします。
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本日とあす、当サイト主宰第106回、特別開催勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。カリキュラムはほぼ同一です。

 まずは、教育再生会議第一次報告の検討です。ワタクシの簡単なコメントをつけた資料を持参します。本文ともで20枚ですので、コピー代の200円だけご負担お願いします。前回参加者の方はすでに配っておりますので、お忘れにならないようにお願いします。

 次に集団討論を実践しましょう。参加メンバーが異なりますので、両開催とも、テーマは、「小中学校における出席停止措置の強化が話題となっています。教員として、この問題をどのようにとらえていますか。議論してください」といたします。法的背景や現実問題など、楽しくシリアスな議論が生まれることを期待します。

 つづけて、集団面接です。1次試験の対策になりますね。6名くらいの方に実践していただく予定です。

 最後に、自己売り込みのツボです。本日3日報告担当のOさん、Tさん、よろしくお願いします。あすは、希望予定がありませんでしたので、「一問一答」を代わりにいたしましょう。
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ここ数日、『世界』(2007年2月号・第761号)岩波書店と週刊『東洋経済』(2007年1月27日特大号)東洋経済新報社を読んでいた。前者の特集は、「教師は何に追いつめられているか」であり、後者の特集は「ニッポンの教師と学校 全解明 いちばん身近な『見えない世界』」である。

 ワタクシは香川の先生に、この特集の存在を教えられたのだが、もう手にとられた教採受験生は多いと思われる。勉強会のメンバーも持参していた方がチラホラいて、「さすが」と思った。週刊『東洋経済』はさて置くとして、『世界』について簡単にその感想を記しておこう。

 複数の教育研究者やルポライターが寄稿し、この特集は成り立っているけれども、それらにほぼ共通して取り上げられていた、2006年4月に自殺した新宿区立小学校教諭(23歳女性教諭)の事件に象徴されるように、寄稿者に底流する意識は、教育現場の多忙さ、「疲れ果てる教師」(尾木直樹)像であった。それはまた、各執筆者がこぞって財団法人労働科学研究所「教職員の健康調査」統計を引用する態度からもうかがえる。

 特集の前段に、寺脇研氏と浅野史郎氏の対談があり、文科省と市民との教育要求の噛み合わない様子を寺脇氏が語っていておもしろかった。体制内部であれだけ活躍した寺脇氏が官尊意識の払拭をいうのだから、彼以上の文学の「ぶ」の字も知らないごりごりの文部官僚たちなら、もっと「お上意識」、「中央意識」が強いのだろう。

 もうひとつおもしろかった点は、教員が官との団交において、文学的な言葉を使って泣き落としをするのを寺脇氏が批判しているところである。いってみれば、教員が「文学的な言葉を使う」=「社会科学のように理論的に話さない」と教員を叱咤しているわけで、このあたりが本当なら、教員も反省しなければならない。だが、この特集に寄稿した小学校教諭の論考などを読めば、寺脇氏の批判は、そうでもないような気がするのである。

 団交について書いている前後の文脈において、寺脇氏は、「文部省、いまの文部省もそうなんですよ。教科調査官なんかみんな先生だから、『ゆとり』とか『いじめ』とか、全然、社会科学的じゃない言葉を使うわけです。『ゆとり』なんて最たるもので、『ゆとり教育』と言うからややこしくなる」と喝破している。

 ワタクシなどは、「ゆとり教育」というキャッチフレーズを世に流通せしめ、この教育政策を遂行せしめたのが寺脇氏であると認識していたから、プッと噴いてしまった。この寺脇氏のいい方からすれば、それはレッテルだったようである。

 浅野氏がおどけていう「ミスター文部省」という表現は、福沢諭吉が「文部相は三田にあり」と評されて以来ではないか。

 映画少年だった寺脇氏が「文学的」であったラサール時代を語り、そうした意識を根底に持ちつつ官僚生活を送り、他の文部官僚との温度差を感じなかったか不思議である。もし寺脇氏がその「温度差」を感じていたとすれば、前半の論旨と、「『ゆとり教育』と言うからややこしくなる」という姿勢が齟齬していることになり、ワタクシなどは違和感を持ってしまった。

 しかし、対談で「セクショナリズムと二項対立」が文科省の抱える(抱えてきた)問題点であると寺脇氏が述べている点は、官僚の行政態度がみえてきておもしろかった。寺脇氏は、その文学性を内包する人間性のユニークさが命取りとなって、文科省を去らねばならなかったのだろう。政府自民党教育系議員に、まだ「ゆとり教育」に未練を持っている人間力肯定論者が根強く存在することから、そう感じるのである。政治によって追放されたのではなく、官僚世界から押し出されたという了解である。

 特集は、この後、野田氏、尾木氏の論考などに続くのであるが、次回以降の更新で、ワタクシなりにコメントをしてみようと思う。「師範塾」のルポは力作だと思う。ということで、この項、つづく。
(2/2・『世界』2007年2月号を読んで<1>)

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以下の論説は、いずれ右欄に移動し、閲覧できるようにいたします。(すでに移動しました。こちらのページをお願いします)長すぎてここでは読みにくいですので。門外漢のワタクシが書いたものですので、是非ともご叱正を仰ぎたく、特別支援教育に携わっていらっしゃる先生方や研究者の方からのコメントいただけることを切に願っております。
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