日々旁午

2009



日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

当サイト勉強会で使用している問題集や参考書ほかを、大阪駅前第2ビル地下2階で、いつでも購入することができるようになりました。地下2階のレンタルボックス・キャビン(06-6344-0509:営業時間/平日11:00〜19:30/土日祝11:00〜18:00)というお店に陳列しています。下の写真、ロボットが目印です。問題集のほか、しょうもない小物も置いていますのでご覧ください。

現在、「シート式C」、「シート式D」、「平成19年夏実施大阪府過去問解答解説集(教職教養部分のみです)」、「平成18年夏実施大阪府過去問解答解説集(教職教養部分のみです)」、などを陳列しています。

レンタルボックス・キャビン店内に連絡掲示板が設置されています。連絡掲示板にご要望を記入いただければ対応しますので、必要な資料あるいは問題集について簡単にコメントくださいませ。コメントがあれば、おきたいと思っています。そのほかは、こちらのページ(日程の下に資料の一覧表があります)、および、こちらのページを、どうぞご覧ください。よろしくお願いします。

各種資料ほかをご購入いただいた方々、ありがとうございました。お礼申し上げます。

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

■ながらくご愛顧いただいておりましたマグプレ広島教採対策ですが、今冬を持ちまして、発刊終了することにいたしました。ご講読いただいたみなさま、まことにありがとうございました。今後も広島対策は継続いたしますが、当サイトにおきまして、直接の扱いといたします。また、2009年も、広島におきまして対策講座を実施いたします。日程につきましては、また、当サイトにて広報いたします。よろしくお願いします。

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

2月22日の日曜日、(JR大阪駅近辺開催、13時より)、キャンセルがありました。先着1名の募集です。右上のメールフォームより、みなさまからのご応募お待ちしています(すでに決定している場合もあります。その際はご容赦ください)。ドコモほか、携帯からのお申し込みはご遠慮ください。ブロックされて返信のメールが届かない可能性が高いからです。お申込者には、ご連絡差し上げます。確認のため、必ずご返信ください(再募集開始:2月17日23時48分⇒20日21時39分、募集終了しました)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

あす、あさっては、当サイト主宰勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いします。さて、ご参加のみなさまには事前にメールを差し上げておりますが、勉強会の最初に実施している「議論のたたき台としての教育学講義」のレジュメは、ただいまのところ25枚配布しております。お持ちでないページ数をご申告いただければ、持参しますのでよろしくお願いします。@10円です。あすで生涯学習のところは終了する予定であり、そのあと、教育課程や学習指導要領の解説にすすむ心算です。
 次に、「自己売り込みのツボ」を実施します。両日で計4名の方に報告いただきます。がんばってください。
 最後に集団討論ですね。討論のテーマは、両日ともに、「基礎基本の定着ということがいわれて久しいですね。その中でも、判断力というのがありますが、そもそもこれはどのような力なのでしょうか。またこの力を高めるためにはどのような実践をすればいいでしょうか。議論してください」といたします。みなさま、いい議論を期待しています。

(2/20)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

この間、マクドナルドで深夜にPC携えて、原稿を打っていたのだけれど、店内でケンカがおこって、警察がきた。100円そこらの珈琲をすすりあっているのに、ケンカのセリフの「おまえは、そんなにえらいんか」は、ないだろう。このセリフは、通常、ヤクザが金持ちに対してかける言葉だからである。
 官僚の世界で「渡り」が問題視されているが、マクドナルドでも「渡り」が存在する。大阪ミナミには、御堂筋、難波中、千日前、心斎橋などなど「24時間」あいているマクドがあって、数時間ごとに「渡り」をするわけである。固定メンバーが決まっていて、ワタクシなどは毎日行っているわけではないんで、その中には含まれないが、「あ、この人またいるわ」というメンバーがいるわけである。マクドにはコンセントがあるから、ワタクシのようにPCする人間もいれば、朝までゲームをするものもいる。充電しながら携帯の画面に見入っているメンバーもいる。まあ、そうしたいつもみるメンバーがケンカをしていたわけである。なんともいえない。
 マクドは「渡り」をしても、莫大な移籍金が発生するはずもない。日本経済が不況といわれる昨今、マクドナルドで時間を潰す人間が、本当に多くなった。冬の夜は珈琲で朝まで過ごしなんとか暖をとるわけである。
 深夜3時を過ぎて、約束の地へいく。懇意にしているある呑み屋で、天然河豚をサバイテ喰おうの会があったからである。そのマスターと寿司職人と3人でハライッパイになった。天然河豚1匹2kgだから、普通にお店で喰えば3万は下らない。それが4桁で喰えるのだから、持つべきはよき料理人の友といえる。今年初のテッチリ、テッサ、ヒレザケであった。
 で、帰りに二鶴で巾着を買って帰ったんだが驚いた。中のエビがいつもの8ブンノ1くらいになっている。押し寿司にも不況の波が押し寄せているのか。ツライ世の中である。
(2/19)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

3月7日の土曜日、(JR大阪駅近辺開催、13時より)、キャンセルがありました。先着1名の募集です。右上のメールフォームより、みなさまからのご応募お待ちしています(すでに決定している場合もあります。その際はご容赦ください)。ドコモほか、携帯からのお申し込みはご遠慮ください。ブロックされて返信のメールが届かない可能性が高いからです。お申込者には、ご連絡差し上げます。確認のため、必ずご返信ください(再募集開始:2月17日23時48分⇒2月18日13時48分、募集終了しました)。

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

児童生徒の「意識、感性のちがいの印象」が、「社会環境の変化」による児童生徒の移り変わりというような議論にすすみつつあるというのが、昨日の討論再現の模様でしたが、この傾向は、もう少しつづきます。保護者に朝ごはんを摂ることの重要性を伝えるのが教員の仕事であるとAさんがいわれたのも、その一環といえるでしょう。ここで、Aさんが最初の方で出された問題提起、つまり「小中高のどこかで『印象』を解決するべきものかどうか」に応えるような形でCさんがご意見したのですが、それは、生活習慣の是正は、保育園や小学校の担当するべき課題であるとの発言です。高校地歴志望のCさんにあっては、基本的生活習慣の確立は、高校の生活指導領域と捉えていないように思われます。この感覚については議論の分かれるところでしょう。ワタクシはどちらかといえば、Cさんよりの立場です。高校生の自主性を尊重したいからです。また、小学校に通う児童が23時を過ぎても保護者の都合で外を歩いている状況に対しては、Cさんも当然疑問視されています。やはりそうした状況は、生活習慣に悪影響を与えることになりますね。保護者の意識の変革を求めることが、その是正には欠かせません。しかし、そこまでできるかどうか。学校のスリム化を標榜した90年代後半の教育の在り方に逆行するような感じでしょう。ここは、現代教育のあるべき在り方の再検討を要する議論となり、テーマを越えているものでしょう。
 Eさんは、児童生徒の生活と学力との関係について、先にも登場した朝ごはんと学力向上の関係について言及し、外国とのちがいを語られました。いずれにせよ、児童生徒を取り巻く環境を整えることこそが、「印象」改善の方策と述べられているようです。
 教育への可能性は、こうした環境の改善という方向への議論でしか語ることはやはりできないのでしょうか。この点、ようやく「印象」改善を「意識、感性のちがいの印象」をどうするかとの観点から、Bさんが述べられました。それは、「すべての子どもに丁寧なかかわりを」ということです。そして、それを率先して行なう養護教諭の立場の主張です。
 児童生徒の心の問題に関しては、Fさんが授業参観の話題を出されつつ、花を植える活動を通して児童生徒と保護者と教員との関係を作っていくと述べられます。児童生徒と一緒に活動することが、心の豊かさを増進するとお考えです。こうした内容は、Dさんがいわれたように連絡帳を媒介に、形に残すことが期待されるでしょう。これは、Bさんの保健便りも同様であり、規則正しい生活の指導も含めて、心の弱い児童生徒を救う方策をも探ることになりますね。
 すでに討論時間の90パーセント近くが過ぎたのですが、Aさんは、昔がよく、いまはダメとの比較論で考えるのではなく、「意識、感性のちがいの印象」が、社会環境の変質によって変わっていくとして、情報化社会や治安の問題とリンクさせつつ児童生徒の感性の変化を読み解いていくことが大切なのではないかと発言されました。これは、Cさんの携帯を学校に持ち込むことの是非論や携帯の効果的な活用法ということにも関わってまいります。また、Fさんが最後に述べられたように、インターネットの活用方法ということにもつながってくるでしょう。
 これで20分間が終了しました。開口一番、討論の反省点として登場したのが、「否定的な論点が多かった」ということでした。テーマを再掲しますと、「児童生徒の意識といいますか、感性といいますか、そうしたものが、こちら面接官とかけ離れているのはいうまでもありません。歳の近いみなさんともズレがあるのではないかと思います。みなさんの周辺の児童生徒の観察からして、どのような印象を持っていますか、議論してください」でしたね。いまの児童生徒に欠落しているところの指摘に時間が割かれるのは必然のようにも思われます。そこからどのようにして脱却することができるのでしょうか。
 おそらくそれは、各参加者の「どんな児童生徒を育てたいか」、「どういう能力を持って卒業させたいか」との理念をはっきりさせることにかかっているのではないでしょうか。児童生徒のいいところを見抜く目、これが期待されているということであり、教育実践の上では、これが「ほめる指導」としてあらわれるわけですね。
 そして再説しますと、あくまで児童生徒をめぐる社会環境の変質についての議論は従であり、主たる議論は児童生徒の心の変化について議論してほしいということです。しかし、この議論はむつかしい、ということは、このテーマ自体がむつかしいものであったということでしょうか。しかし、これと同じテーマとして、「あなたが子どもの頃と比べて、いまの子どものちがったところはどういうところでしょうか」という集団面接の質問がありますので、そうそう無視してかかるわけにはまいりません。すなわち、集団「面接」では単発的に解答できるものの、集団「討論」では、苦しくなるのかもしれませんね。そうしますと、いまの児童生徒を観察し、自分の子どもの頃とちがうところを箇条書きで書き出しておくことが必要になってきます。その際に、よい方法に伸ばしてやることを念頭において、いまの児童生徒のいいところを念頭において、「あ、ここは私よりすぐれている」というところを多々書き出していくということになりますね。

(2/18)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

つづいて発言されたのは、Aさんでした。Aさんは、ご自身の「印象」も含めて、みなさんから出された「意識、感性のちがいの印象」で、小中高一貫して問題が発生するものなのだろうか、また、どの校種の段階で解決可能な「印象」なのだろうかと問題提起されました。
 ところでテーマに関する第2のポイントとして、Aさんの発言をお借りして述べてみましょう。問題は、「印象」がマイナスであると決めていいかどうかですね。よい「印象」と悪い「印象」を整理することが、これ以降の議論をしやすくすることになると思われます。Aさんの「指示語で話をする」は、悪い「印象」でしょうし、Dさんの「甘えた」というのもそうでしょう。Fさんの「すぐに放り出してしまう」というのもそうです。Cさんの「純粋」というのはどうでしょうか。と、このように考えていくことによって、議論の幅が厚くなってくると思うのですがいかがでしょうか。ところで、校種を超えて、悪い「印象」がどの段階で発生し、どういうように解決していくかについてのAさんの発言は、他の討論参加者の問題意識として共有されることはありませんでした。ちょっと残念でした。
 次に手を挙げられたFさんは、Dさんの議論に言及されたわけです。甘えてくるのは、保護者に愛されていないあらわれである、と。最近の保護者は、夜9時、10時に帰宅する場合があり、そうした家庭の児童生徒は、愛情が足りずに教員に対して甘えてくるとの認識です。やはり、Aさんへの気遣いは必要で、もちろんFさんが「甘えた」に言及するのはいいのですけど、Aさんの発言を無視する形になったのは、ちょっと反省点ですね。Bさんも、保護者以外の他の大人との関係性があまりなく、異年齢で生活や遊びの場面で一緒になることもほぼない現状において、コミュニケーション能力が低下していることを指摘されました。単に言語能力の発達段階に関わるだけでなく、社会環境の変質が、Aさんのいわれるところの指示語でしか話せない児童生徒を生み出しているのかもしれません。また、単語で話をする、流行語や省略語がはなされるのも、社会環境ゆえでしょう。この議論は、煮詰めると面白いかもしれません。ただこの状況は、ワタクシが高校生のときつまり20〜30年前もそうだったのですよね。そうした意味では、「印象」の範囲にワタクシならばはいらないことになります。いまも昔も同じ、ということです。
 Cさんは、社会環境の代表的な変化例として、携帯電話の普及による学校社会の変化を挙げられました。これは、ワタクシたちの社会環境とはまったくちがうところです。IT社会化した現代は、児童生徒の意識も変質させ、「印象」をまったく変えていくものです。小学生でも6割が「携帯」を携帯している現状ですからね。携帯などの電子機器に頼りすぎている「印象」であり、FACE TO FACEの人間関係形成がなくなるのではないかとCさんはご意見されました。これは、情報教育の光と影の問題を惹起します。Aさんは携帯が登場した後の社会環境に関連し、夜9時に友人に電話するのはだめなのか、だめでないのか、という問題を出されました。また、携帯が個人と個人を結びつけ、保護者が我が子の友人関係を掌握できない問題性を指摘されました。その一方で、Eさんが発言されたように、不登校の児童生徒や軽度発達障害児にあっては、携帯を通してコミュニケーションをとることはウレシイ出来事であるとの保護者の意見があると紹介されました。携帯の功罪ということになりますが、これはこれだけで討論テーマになるものですね。Dさんは、携帯がCさんのいわれるように面と向き合っての人間関係を破壊するのは、地域をも崩壊にすすめていっているのではないかと発言されます。それゆえにDさんは地域の復活を期待すると述べられたのですが、さすがに回答はありませんでしたね。どのようにして地域を復活させるかの具体的手段を述べられるといいのですが、これは、ワタクシにとっても難問です。Eさんも、携帯については「私の世代においてもなかった」といわれます。
 「印象」が児童生徒の「印象」をたずねているのに、児童生徒の環境変化に関する「印象」に議論がすすんでいますね。たとえばFさんの遊ぶ場所が少なくなったもそうです。たしかに、蓮華で花飾りを作ることはなくなったでしょう。遊びの実態が変化していることは衆目の一致するところです。あくまで児童生徒の「意識、感性のちがいの印象」なので、議論の方向修正が必要だと思われましたが…。Aさんの24時間寝ない社会の登場ということも、保護者の都合に合わせなければならない児童生徒の実態も、環境論といっていいでしょう。生活リズムの変化はたしかに起こりますが。Bさんは、こうした社会の変質によって規則正しい生活を児童生徒ができなくなっていることを指摘し、それが脳の発達にも悪い影響を与えているのではないかと推測されます。そして、だるいという児童生徒ほど、不規則生活に陥っていると述べられます。養護教諭の立場から、これらを是正するべく、保護者に対しても保健便りを配布して啓発していくと語られました。こうして家庭の議論が出たところで、Fさんは、朝食を摂らない児童生徒の問題、それが学力低下にもつながっている問題を発言されます。Eさんから、Bさんの保健便りを配布する意義の再確認の発言をはさみ、体調をよくする地道な方法を伝えていきたいとの応答がBさんからありました。
(以下、次回更新)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

数学質問応答会のご案内
 このたび、「浩の教室」では、「数学質問応答会」を開催することに決定いたしました。以下、同会の趣旨につきまして、箇条書きにて説明いたします。
 @はじめての試みですので、4月に2回のみ(4月11日sat、4月26日sun)開催します。好評いただければ、5、6月期も開催を考えてまいります。
 A開催にあたりまして、数学の専門家をお招きいたします。2、3名の予定です。
 B開催時間は1開催あたり、4時間です。
 C通常開催の「浩の教室」は1000〜1200円ですが、今回の数学質問応答会は、1回参加あたり2000円の振込先払いとなります。2回とも参加できますが、その場合は4000円となります。前納の2千円は、「キャンセル、欠席」された場合は、ご返金いたしません。ご承知おきください。定員に達した時点で締め切りらせていただきますが、以後「キャンセル待ち」として随時募集の扱いをさせていだだきます
 Dなにか、講義をこちらから提供するものではありません。これからみなさんが教採1次試験に向けて数学を独力で勉強しているうちに、どうしてもわからないところが出てくると思います。それを講師に聞くというスタイルです。したがって、開催当日より数日前までに、事前に自分でわからないところを整理してくることが参加条件となります。雰囲気的には、「休み時間に先生のところにわからない問題を教えてもらいにいく」といった感覚で実施いたします。
 E質問の内容、程度は、大阪府の1次試験における数学の出題に準じます。過去問でわからないところのほか、みなさんが独自に勉強している数学の問題集、参考書のわからないところを聞く、ということもOKです。
 F募集人数は、10数名です。あまり多いとひとりあたりの質問にお応えする時間が少なくなるからです。なお、同じような問題が質問に挙がれば、集約して説明するなどの手段をとります。
 G募集開始は、3月1日の22時ジャストといたします。先着順です。お申込は、右上の「メールフォーム」の「浩の教室:その他ご連絡」を選択いただき、本文に「数学質問応答会参加希望」とお書きの上、お名前と連絡先の電話番号をご記入ください。折り返しご連絡差し上げます。お申込をすればその確認メールが必ずすぐに自動返信されます。到着していない場合は、不受理ですので、ご注意ください。
(2/17)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

それでは、集団討論の模様を再現します。今回のテーマは、「児童生徒の意識といいますか、感性といいますか、そうしたものが、こちら面接官とかけ離れているのはいうまでもありません。歳の近いみなさんともズレがあるのではないかと思います。みなさんの周辺の児童生徒の観察からして、どのような印象を持っていますか、議論してください」でした。このテーマに、20分間で6名の方が挑戦してくださいました。仮にA〜Fさんとして、発言論旨を追っていきますが、その前に、テーマのポイントを考えていきましょう。
 このテーマは、ご覧の通り、かなり長い文面ですね。一番肝心なところはどこでしょうか。それは、「印象」です。それはわかりますね。しかし、その「印象」に、「そうしたもの」の内容がなければなりません。つまり、「意識、感性のちがいの印象」ということになります。
 「意識、感性の違いの印象」がテーマの本質であることがわかりました。では、これだけを議論すればそれでいいのかどうか。そうではありませんね。テーマを深読みし過ぎるのはダメですけれども、このテーマを提示したワタクシつまり面接官役は、その違いをよいと捉えるところがあるか、悪いと捉えるところがあるか、を判断し、この両者を今後どのようにしていくか、という内容の議論を期待しているわけです。
 実は、このテーマを今回提示した背景には、以前リンクした『毎日新聞』の連載の記事内容があります。すなわち、「東京都内の小学校。月曜の朝会で体育館に児童が整列している。遅刻してきた男児に男性教諭(57)は『急ぎなさい』と促したが、顔色も変えずゆっくり歩く。友達と笑いながらやってくる女児もいる。なぜ慌てないのか、理解できない」(『同紙』2009年1月19日付)という「意識、感性のちがいの印象」という内容です。学習にせよ、生活にせよ、それらを営む基盤的な意識、感性が指導者と異なるとき、亀裂が生じるのはいうまでもないでしょう。この記事の「理解できない」とは、その前提が崩れているわけで、「生徒理解ができない」との告白といっていいでしょう。実際、こうした子ども達は増えているのでしょう。ワタクシも、これを読んで、57歳の教員に同情します。なんといいますか、「新人類」、「宇宙人」といった感じでしょうか。しかし、こうした児童生徒も人間なのであり、ワタクシたちがこの児童生徒の持つ意識、感性にどうにかして刺激を与え、よい方向に変質させていくことが要求されていると思われるのです。
 今回の議論では、そうしたところはあったかどうか。第1発言者はBさんでした。Bさんは、毎回愛知から熱心にご参加いただいている方でして、頭が下がります。今回、果敢に最初に手を挙げ、テーマを確認し、「印象」を述べることからはじめましょうと方向を定められました。Bさんご自身は、高校で勤務されており、いまの高校生は元気でたくましい一方で、もうちょっとがんばってほしいなと思わずにはいられない場合もあると分析されています。その際、心の弱さが印象に残ると述べられ、生徒の両極端化が進んでいるように思えると発言されました。強い子と弱い子とに分かれている、間がいないということのようです。Fさんは、学習面で印象を語られます。勉強がわからないと、がんばる児童生徒もいるけれども、すぐに投げ出してしまう、放ってしまう児童生徒が多いと指摘されます。Aさんは、成人対象の学校の教壇に立たれている方であり、「一児の母」でいらっしゃいますが、最近の子どもは、とにかく単語でしゃべる、主語がない話し方をすると発言されました。「あれ」とか「それ」とか指示代名詞を使うケースも多いのではないかと「印象」を語られました。Cさんは、こうした批判的印象と一風変わり、「なんやかんやといっても、純粋」と指摘されます。教員からの様々な影響をそのまま吸収することもあるし、たとえば友人関係にも人間形成が左右され、どういう意味合いでも染まっていくと述べられました。Dさんは、小学校2年生の支援ボランティアをされている大学3回生の方ですが、そこからの印象として、甘えたであるといわれます。そして、保護者との関わりが薄いように感ぜられると指摘されました。Eさんは、アフリカに滞在して子どもたちをみつめてきた経験から、子どもの目の輝きは日本の子どももアフリカの子どもも変わるところはないと強調されました。もちろんそれはそうでしょうね。ただ問題は、横ではなく縦の比較で「ズレ」の印象を語っていただくところにあります。いまの子と昔の子の「印象」のちがいを議論してほしいわけで、横の、つまり環境のちがいから分析した「印象」を語るのではないということです。
(以下、次回更新)

(2/16)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

本日は、当サイト主宰勉強会にご参加いただき、ありがとうございました。現職の先生(当サイト勉強会卒業のMさん)にもご参加いただくことができました。お忙しい中、ありがとうございます。新しくご参加いただいた方もいらっしゃいましたが、いかがだったでしょうか。今後もよろしくお願いします。いつも勉強会開催の3日前の水曜日に、「最終ご連絡メール」を差し上げております。ご確認いただいていることと思います。BCC(ブラインドカーボンコピー)送信しておりますが、不時着もあった模様です。他の方にはちゃんと到着していますので、ある特定の方にだけ不時着する原因はわかりませんが、善処いたしますので、よろしくお願いします。それから、「最終ご連絡メール」に返信する形でワタクシ宛にご連絡いただきますときは、なにとぞ件名にお名前のご記入をよろしくお願いします。携帯から送信いただくと、PCで受信しているワタクシにあっては、お名前が表示されず、どなたかわからないからです。ご協力、よろしくお願いします。
 さて、本日は、20数名の参加者を得て、ワタクシから「議論のたたき台としての教育学講義」をいたしました。生涯学習に関する議論を展開いたしました。最近では、生涯学習は下火といいますか、社会の動向と連動し、収束感が強まっているように思えます。といいますのは、不況期にはいりますと、まず財布の紐をしめるのは、外食と習い事だからです。生涯学習は、理念的には人生の豊かさを求めて自立的に学ぶ学習なのですけれど、それはやはり経済的に豊かな状態があってこそ、展開できると思われます。経済的に豊かな時期に、出発した個々の人びとの学びへの思いが、断ち切られないようにするにはどうすればいいのでしょうか。
 大阪府では財政を立て直すために、大阪府立大学ですら手仕舞いにし、大阪市立大学との統合が進められようとしています。たしかに橋本知事は、ここ数代の知事が成し遂げられなかった府財政の黒字化をやってのけ、評価が高いです。しかし、こうした緊縮が大学にまで及び、公益性の強い学びの中心たる府大や市大が一本化することは、確実に学ぶ機会や場所を二分の一にするわけでして、統合が実現してしまうとするなら、残念でなりません。大学は生涯学習の基盤的組織でもあるからです。大学の教員が講師として公益的な各種センターに派遣され講演をしている事例は枚挙に暇ありません。とすると、府大と市大とが統合し教員数が半減するとすれば、生涯学習に寄与する「頭脳」がこれまた二分の一に削られるということになるかもしれません。
 つい数年前に、大阪大学と大阪外国語大学との統合があって、「母校がなくなっちゃった」と嘆いていた当サイト主宰勉強会の卒業生もいらっしゃいました。伝統を守ることは、そこに関わった人びとの過去を保存することでもあります。自分の学んだキャンパスが消えることに心を痛めている方は多いでしょう。知事のいう校庭芝生化もよいことですけど、あるいは芝生化するはずの大学のキャンパスが更地にされてしまうのは、あまり気持ちのよいものではないでしょう。
 さて、勉強会では、次に、「自己売り込みのツボ」を実施しました。Nさん、がんばりました。
 最後に集団討論です。例によって、その模様は、次回以降の更新といたします。
 ところで、先日、大阪阪急梅田の紀伊国屋書店にいって、時事通信社の『教職教養の過去問2009』を購入しようとしたのですが、ありませんでした。その代わりに、同様の『2008』が平置きで一番みえるところにおいてあるじゃないですか。これはいただけませんね。この夏の過去問ではなく、一昨年の夏の問題なのですから。別に販売するのは悪いことではありません。しかし、この陳列の仕方では、まちがって受験生が買う確率が高いです。新版を買いにいって旧版を買ってしまうということになりかねません。在庫があるからといってこうした販売態度はいただけません。せめて、旧版であることをちゃんと表示した上で販売するべきでしょう。時事通信社という大きな出版社が、ワタクシにいわせれば、こんな姑息なやり方で販売するのは残念でなりません。「なんでも売れればいい」とのやり方は改めていただきたいものです。また、これが、時事通信社の考え方ではなく、紀伊国屋書店の販売態度であるならば、紀伊国屋さんの販売方針を変更するべきでしょう。いずれにせよ、紛らわしい販売は止めるべきだと思っています。

(2/14)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

「国民経済」復活への期待

1.資本主義成立の議論

 ウェーバーにしたがい、大雑把にいえば、プロテスタンティズムとりわけピューリタニズムによって世紀をかけて準備された敬虔な精神態度が、西洋の資本主義成立の思想的根拠−大塚久雄氏の表現によれば「心理的機動力」−であるようである(註1)。なるほど教会のラビやらなにやらの、たとえ「権威」であろうとも、他者によって噛み砕かれた説教を金科玉条にせず、自分ひとりの心の中に神を降臨させて宿しつづける新しい信仰形態は、徹底した個人主義と精神的に厳格な規律を生み育んだのであろう。厳格な規律を自己設定して生活を整え、自律した信仰が世俗内禁欲に転化するとの思想的な「読み」は、いまでも説得力がある。
 この「読み」は、ウエーバーの持つ鋭い人間観の分析と人間への愛が導いた考察なのであろうか。ウェーバーの研究視角が、「資本主義がどこでどのように発生したのか」におかれているのはわかるし、センチメンタリズムが社会科学の客観的分析に不必要だとしても、最終的には搾取される側の悲惨な人生に対する優しい眼差しを、ウェーバーは持ちあわせていなかったのではないかとも思われるのである。それは彼の生きた時代とも関連するのかもしれない。ウェーバーが資本主義の終末をどのように考えていたのか知る由もないが、是非その予想をたずねてみたいものである。
 ルター(註2)の宗教改革の検討からはじまってピューリタンの精神を考察し、資本主義のエートスを解明しようとした『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が説く資本主義の成立を承認したとしよう。一足飛びではあるが、その20世紀における成長の過程においては、もともとは一個の労働者であったはずの資本家から、宗教性はいうまでもなく、世俗化した禁欲に基づく倹約精神と職業従事倫理をも棒引きした。
 西洋、といっても、ヨーロッパの資本主義さらにはイギリスの産業革命(世界の工場!)で誕生した資本主義が世界を席巻していくわけで、それがまず北米に移植されてから、別次元の資本主義を生んだと考える。その展開は多民族国家の経済活動が調味料となって19世紀段階の資本主義に変化をもたらし、20世紀に爛熟した消費社会を産み落とした。最終的には20世紀と21世紀の交わりあたりに、金融工学の助けを借りて「怪物」資本主義としてソロスのような利ザヤを稼ぐ経済活動を生んだ。日本には、資本主義市場の波が西から東からクリープした。そして浦賀に伝播し世界市場の形成が完了する(マルクス)。これは19世紀、嘉永・安政の頃である。日本型資本主義がどれほど西洋発の資本主義類型と異なるのかを探るのは、八百万の神を認める民族性が資本主義にどのように変質を与えたのかを探索しなければならず、ここでは触れられないし、資本主義出発期の西洋のエートスを確認すれば当面の議論に問題はないと考える。
 現在では、世俗内禁欲たる倹約は、経済的貧困層のみが首に飾るロザリオとなった。資本主義社会のなれの果てである。そして、現代社会における超貧困層の出現の原因として、産業経営型資本主義から金融資本主義への変貌が、なれの果てたる事態を引き起こしたと説明される。送りバントは失敗し、ダブルプレーを喫したといえる。

2.資本主義と戦争

 いま、最大の社会的課題が経済問題の解決にあり、富の産出と同時に雇用の創出が企業家の果たしうる最もスバラシイ社会貢献であるにもかかわらず、世界的金融危機が富の産出を減少させ、雇用をナロー化している。とりわけ雇用の創出は、資本家しか実行できないところの、そして、資本家が人びとから尊敬されるところの、もっとも大きな社会的価値である。雇用の崩壊はそれゆえに資本家批判の最大の要因となるのは論を俟たない。現実は派遣村の存在がよくも悪くも示しているが、資本主義社会の破綻がすぐそこに迫っているように思われる昨今であるのに、思想界や哲学の分野ではそれに変わるべき社会思想も主唱されないばかりか、解決の予言さえ提示できない政治の貧困状況にある。雇用形態の正常化が期待されるにもかかわらず、まだ福岡出身の現首相は常用雇用の望ましさを認めつつも、「登録型派遣の原則禁止を求める野党側の主張に関しては『直接雇用より派遣雇用を好む人もおり、禁止はかえって労働者の不利益になる』と慎重姿勢を示し」(『日経新聞』2009年1月31日付)ているのである。
 残念ではあるが、こうした社会的、政治的情勢に対し、優しい眼差しを無理やり向けても解決策にはならない。たとえば、生活保護は、所詮、生活保護でしかなく、労働で得た対価とはまったく違う。そこには人間としての喜びの感情である「汗して働いて得たもの」の感覚がないからである。では、解決策は、なんなのだろうか。ひょっとして、戦争なのだろうか。近代日本の発展は、それを示している。
 近代日本は、短距離走のように資本の本源的蓄積過程=松方デフレを経て、独占資本主義へと突き進んできた。110mハードルと同様、いくつものハードルを蹴り倒して進んできた。その一つひとつのハードルは戦争を意味し、「2億両」然り、「天佑」然り、戦勝してハードルを乗り越えるごとに日本の資本主義は焼け太り的発展をしてきた。軍国多事は経済発展の必要条件であった。近代史と現代史を貫徹して、もう少し資本主義の成長過程を長期的視点から捉えれば、敗戦であってもその後に大英帝国の経済成長を凌ぐスコアをたたき出した事実は、成長のためには多少の犠牲をいとわない冷徹な倫理観を容認したとみなすことができよう。これはすでに倫理と呼ぶよりもむしろ背徳である。こうした近現代の焼け太りの仕方は、世界が羨み日本型経済発展がアジアを中心とする第3世界のモデルにもなるべくもてはやされたのである。90年代には、儒教倫理と資本主義の精神が関数関係にあるとの主張もチラホラみられた(もちろんこの考え方にはウェーバーは真っ向から否定するだろう)。
 すでに資本家は敬虔を求めない。敬虔と禁欲は職務専念義務を用意したが(天職!)、堕落をもその胎内に宿していたのであり、それが孵化した。まさに、エイリアンであろう。コンプライアンスとはリップサーヴィスであって、背徳の裏面に過ぎない。背徳こそ、資本主義が最終的に宗教性から学んだ精神なのである。背徳の最大の表現が戦争として遂行される。
 ものっそい破滅的前提ではあるが、日本が成長するには戦争を必要としているとの仮説である。成長への突破口が戦争というのは、なんとも悲しいことである。『希望は戦争』(註3)との若者の議論が言論界に颯爽と登場したつい最近と不況突入の時期とが符合する。戦争を望む所以はこの若者の主観であり、ここで述べようとする根拠と違うが、この符号はひょっとすれば偶然でないのかもしれない。そこでは、戦死を持って自己存在証明を国家に期待し、いまの目にみえないがしかし確実に存在する経済的階級社会を暴力的に一掃する願望を持つ。だが国民の間にその願望が広がり、運悪くそのガスに着火する為政者あるいはクーデター首謀者が登場すれば、事は成立する。肩書きがなくなってチマチマ講演をしているけれども、田母神氏がその由々しき未遂事例であってよかったし、それを側面支援する西村眞吾のメディア露出度が低下あるいはほぼ無視されてよかった。こうした正常な判断がくだされる現代社会には、まだしも救いがあると評価するべきである。だが、社会に現実に不平不満があるからこそ、それが言葉となってこうした『希望は戦争』なる議論が言論界で無視されることなく活字化するのである。
 戦争は、悲しいかな、人を整理する、人間を抹殺し、排除する。労働力の余剰は人を整理すればなくなる。そうだ、両者は握手しやすい。この握手が意味するところからすれば、人間の数が多いと資本主義は成立しないというわけだろうか。明治でいえば3千万人の人口が世界的経済競争に負けないよう一等国入りをめざして努力を重ねた。現代の1億2700万人だが、成熟した経済社会にあっては、人間の数自体が多いのか。飛躍的なことをいえば、中国が資本主義化しないのは人間の数が多いからではないか。成長の果実としてパイが大きくならないのであれば、それを平等に分配することも難しくなる。直径10cmのパイを分け合っても、「パン2枚と魚3匹」(数字が逆だったか?)の比喩ではないのだから、腹いっぱいにならない。直径xxxkmのパイが必要なのである。その何分の一を受け取るかの最低が、「文化的に最低限度の生活」を営むことのできる分量である。神の愛ある平等では、ハライッパイにはならない。

3.断末魔の声

 上述のような近代以降今世紀にいたる戦争をバネにした焼け太り的経済成長は、ジョーカーを引き当てることになった。そのジョーカーが、新自由主義という「支配原理」であって、労働規制の緩和ゆえに多数生み出された派遣労働という現代の口入れ稼業下の「奴隷的」就業体制を動力源としてしまった。派遣労働に対する庶民の感情は2つに分かれる。そのひとつは、派遣という不安定な就業を選んで苦しむのは自己の責任であるとの立場であり、これはおそらく「自己責任論」と呼ばれる立場であろう。もうひとつは、派遣の道を選択したのは、たとえば就職氷河期にぶちあたりやむなく就業せざるを得なかったというような消極的選択であり、この消極的選択が就業循環となってスキル修練を得ることなく時間を消費してしまい、いまにいたっているのだろうと推測する立場である。これはあるいは「社会責任論」と説明される。ここに、勝ち組・負け組理論がおおっている。
 いずれの感情を持とうとも、客観的には、労働力を低価格に平準化するのが、派遣業者の役割なのである。人間の価値をとことんまで切り詰める作業なのである。その結末として以下の3つの記事をみよ。
 ひとつの記事の見出しは、「派遣解雇の27歳男性、電車に飛び込み死亡」である(『朝日新聞』2009年1月30日付)である。「埼玉県蓮田市のJR蓮田駅で29日午前9時25分すぎ、昨年12月20日に栃木県小山市の人材派遣会社を解雇された住居不定の無職男性(27)が宇都宮線の特急列車にはねられ、死亡した。岩槻署によると、男性は死亡する前に親族に『これまでありがとう』と死をほのめかすような電子メールを送っており、飛び込み自殺だったとみている。同署の発表によると、ホームには男性のバッグ1個が置かれていた。昨年末に解雇された後、職はなく、住居も定まっていなかったらしい。亡くなったときの所持金は2200円だったという」。なんとも切ない。この小さな記事が人目にしっかり触れるようになり、議論されるところにインターネットの有効性を確認することができる。「これまでありがとう」と認める若き成人男性の心中を想像することができる淵にワタクシたちは立ちつくしている。
 もうひとつは、こうである。『産経新聞』の1月31日付の記事であるが、「人生が嫌に…」と40歳の男性が、東京駅で自殺未遂している。「30日午後6時15分ごろ、東京都千代田区丸の内のJR東京駅日本橋口の階段で、『ナイフが首に刺さった男性がいる』と通行人から119番通報があった。男性は病院に搬送され、意識はあるという。警視庁丸の内署によると、所持品などから男性は名古屋市の40歳とみられ、『自分で刺した。人生が嫌になった』と話している。調べでは、男性は1階と2階の間の階段の踊り場に倒れており、近くに血の付いた包丁が落ちていた」。ナイフで自分の首を刺すとは。40歳はまだ、人生を嫌になる季節ではない。この現場をみて通報した人間もまた同じ人間なのであり、あるいは鏡をみている気持ちだったかもしれない。通報した人間は、ナイフとは違った鋭利な刃物たる社会の厳しさと残酷さを血を通してつきつけられている。みえないナイフがみえた瞬間であろう。
 最後の記事は、2月3日付の『毎日新聞』である。「『派遣切りで強盗しようと』包丁隠し持ち逮捕」との見出しである。かいつまんで紹介すれば、「北九州市小倉南区の公衆電話から男の声で『派遣切りに遭い、強盗しようと思ったが怖くなって通報した。包丁を持っている』と110番があった」のだから、思いとどまってよかった。「同署(福岡県警小倉南署)によると、白樫容疑者は昨年3月から三重県内の大手精密機械製造会社で派遣社員として勤務したと供述。派遣期間は昨年12月末までだったが、10月末に契約を解除されたという。福岡県内に実家があり、その後、フェリーで北九州市に渡った。JR小倉駅周辺で路上生活し、おにぎりやパン1個で一日の飢えをしのいだこともあったという。派遣切りされた際、所持金は7万円あったが、窃盗の被害に遭ったといい、逮捕時は10円玉と1円玉の計11円だった」。
 警察での調べに対して、「『包丁はJR門司駅近くのごみ集積所で拾った。警察に捕まれば食事や寝場所、入浴に困らないだろうと思った』」と供述しているのである。11円を持って、故郷に最後の望みを託す旅程は、半生を振り返る旅路であると同時に、この現代社会に対する憤懣と「なぜオレが」の反芻で時間が消費されたであろう。「これまでありがとう」と「嫌になった」では、人生の最後に吐く言葉としてずいぶん異なる。包丁を拾って空腹を根拠に強盗の寸前までいった心境は、いかばかりか。

4.等式

 こうした3つの言葉が吐かれる状態は、戦争状態ではないのか。
 上述で、「破滅的前提」と書いたけれども、これは戦争ではないのか。
 社会から人間が消滅していっている。
 平和のうちに、「平凡だけど、誰かを愛し、普通の暮らし、してたでしょうか」(註4)ではまったくない。
 領土拡張ほか多様な欲望充足のための戦争と、上に確認した経済戦争と、どこがどうちがうのか。
 結果は同じではないのか。「死」である。
 背徳の最大の表現としての戦争が遂行されているではないか。
 時の流れに身を任せられない。

5.なれの果ての先へ

 経済社会において余剰人員が過多である状態があれば、切るほかないのが冷徹な資本の論理である。成長もなく、現状維持で経済のパイが一定であれば、派遣労働者を切らなければなんともならない。背徳は人を戦争状態に追い込むのであり、それが承認されている。しかもこうした承認は、労働者だけに向けられたものではない。いうまでもなく後期高齢者医療制度は、現代の姥捨政策である。富を生まず消費もあまりしないといわれる高齢者を彼岸に追いやるわけである。こうすればパイがデカくなる。
 いまさら「反新自由主義」を主張してなんになる。その主導者が反省文を書いて儲けている。なんだこれは。ツケがめぐってきただけである。さらには、底の抜けた桶のように、社会保障制度は欺瞞と疑惑にまみれている。『日本之下層社会』や『女工哀史』の著者が描き出すいわばヤスリで削られていくような労働環境と変わりない現実が、暗雲に包まれた現代の労働者の住む気候である。この厳しい環境は、ツンドラ地帯と同断である。経済的に、との限定の元で考えるとして、「万人平等という状態になったら、幸福な人間は一人もいないであろうから、それに比べれば、ある人々が不幸である方がよい」というある思想家の言葉が正解だとすれば、派遣労働形態は正しい形態であるものの、これでは21世紀は、不幸な先行きを暗示されているといえよう。
 では資本家から倫理を取り戻し、労働者が正常な環境つまり「平凡だけど」云々を奪回する手段と方法はあるのだろうか。新しい雇用の創出を政府の公共政策に任せていいのだろうか。グリーンニューディールといった心地よい響きの公共政策に、われわれは酔っていいのだろうか。グリーンの範疇に介護産業をいれていいかどうかわからないが、環境や介護といった産業に育てにくかった分野を活性化させる政策は、それが持つ言葉の魔力によって人びとの心をくすぐるし、反論を許さない倫理を備えているように感ぜられる。自然と人間の豊かな関係性を取り戻すようにも聞こえるグリーンニューディール。しかし月給15万円もいかない介護サービスにどれだけの雇用が集まると政府はいうまでもなく、民主党の若き議員たちは考えているのであろうか。経団連所属企業に公的資金提供するくらいならば、こちらに供与した方が理屈は通る。25歳平均の介護産業従事者に月給25万円を保証することができれば、期待感も膨らむけれども、そうした動きはない。もともと介護保険の行方はあやしいものではないか。いまはまだ「消えた年金」の後始末で苦しんでいる状態だから後回しになっているだけで、国会で追及されていい案件であるはずである。
 また、最近の経団連が再度提唱しているワークシェアリングは、信ずるに値する雇用環境なのであろうか。幻想かもしれないではないか。かれらが自己保存のための内部留保を切り崩すはずもない。しかもここで登場する民間企業への公的資金の導入という政策は、はたまた、妥当なのかどうか。政府によって認められる「大企業」とは、その基準はなんなのか。中小企業は指をくわえて凍死するのを待つだけなのか。たとえば経団連所属企業にはカネを供給し、名もなき中小企業を無視するのなら、東大阪一帯は壊滅する。銀行の場合は、血液循環的発想を公的資金注入の屁理屈として国民をだましつつ実行されたが、たとえ巨大であろうとも、フツーの民間企業へこうした公的資金注入を許す根拠はどこにあるのだろうか。基幹産業であれば許されるとする約束がなされるというわけだろうか。フランスが未成年に1年間新聞購読料をロハにする政策と、えらいちがいといえるだろう。なぜなら、社会的関心を増進するためのいわば教育的措置を若者に提供し、産業のことだけでなく幅広いネイションの在り方を探らせようとする息長い政策と、企業延命策に右往左往する政策と、どちらが将来を見据えた政府判断かということを考えてみればよいからである。多少は、マインドコントロールがあるのが読み込み済みであっても。
 経団連がワークシェアリングを唱える理由は簡単である。賃金支払いの全額を何人で分けようとも、総額が一緒なら懐は痛まない。さらに、正社員の社会保障費用負担も少なくなるのだからウハウハである。正社員のクビを切っていもいいというような、整理解雇の合理化が国民に認知されれば、労働審判の数がウナギのぼりになろう。さらに上の「3.断末魔の声」で紹介したような、治安に関わる問題が同時多発するとき、そのコストは社会的コストととして跳ね返り、結局は国民負担となるのはいうまでもない。
 さらにこのとき、公務員バッシング、たとえば「あいつら給料ようさんもらっとって、働きが悪い、給料泥棒」といったような怨嗟が増幅されれば、実は、資本家にあっては、これまたウハウハなのである。それは、矛先が他方にいくからとの単純な理由ではない。待遇改善をめざすのは労働者の正当な権利であり、公務員といえども生活がかかっているのであるから、ストは国家及び地方公務員法違反になるからダメだとしても、主張するのはよいのである。親方日の丸の労働環境が是正されないなら、民間企業もいいではないかと、なるからである。おぞましい責任転嫁的理屈がまかり通り、民間企業の不正が防いでないかのような錯覚に国民は陥る。NHKですら、「ブラック企業」に関する番組を報道している事実は、木鐸的な役割を果たさなければならないとのあらわれであろう。公務員の地位と労働環境を守ることは、民間企業における社員の労働契約上の地位が不断に確認されることを意味するのである。

6.将来展望

 「国民経済」という言葉の喪失、これがいつ起こったのかを確認することから、日本の将来展望を云々することは、はじまるのではないか。物質的豊かさの追求が昭和の経済の仕事であった。経済的貧困の是正として高度経済成長がそれを達成した。だが、いまやバブル崩壊、そこからの脱出つまり失われた10年を取り戻す括弧つきの経済政策を経て、日本再生が成功したようにみえた。だがそれも実体経済を無視した評価に過ぎなかったといえようか。小泉・竹中改革が相当批判され、反省を求められる中、ノーテンキな政治状況がつづいている。
 「国民経済」とは、一方で富を労働者にもある程度高く配分し、他方で、家族主義的な雇用関係が継続していた時代の賜物であった。国民が一体化して利潤追求に燃えた時代であった。そこでは1億総中流意識があり、経済的中間層が多数派を占め、それが投票行為にも反映され政治が安定あるいは独裁していた。そうだとすれば、その再現は時代を30年は遡らなければならない。とすると、1980年あたりの社会状態への遡及ということになる。
 今後、経済発展は右肩上がりでないのだから、予定調和的な経済発展はないものと覚悟して、低成長に幸福感を充足する精神が求められる。これは「分」を知るといったような封建時代の精神性に類似してくる嫌いはあるが、それとはちがった、「ある程度の高い配分」を人間の精神性に求めるような前進に期待するべきであろう。これは人間観の転換を時代に期待することになる。
 利便性の追求がはじまり、コンビニが徐々に登場してきた時代、地球温暖化が叫ばれはじめた時代。矛盾する2つのベクトルの示す解決を同時選択できなかった時代の出発が80年代であろう。人間は欲望によって前者を突き詰め、後者を後回しにした。こうした事態は、人間に豊かさの意味と人間観の転換をを再度追求させようとする時代のめぐり合わせであって、後者の解決を、いま、しようとしている。問題は、きわめて主観的であるけれども、その解決を80年代の持っていたバブル以前のまだ健全な状態の精神を持ってできるかどうかである。1980年代の、もっとナローにいえば1982、3年のエートスとでもいうべき、オイルショックから脱出に成功した「起動力」、しかもそれが享楽に塗れるまでの「起動力」、そうしたエートスが、新たな地平としての「国民経済」復活の原動力となり、かつ、それが健全なまま政治と経済を指導するようなエートスとなることが、平凡で誰かを愛し続けることのできる社会の実現に要請されている。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

(註1)

 資本主義といっても、資本主義の形態は18世紀後半から20世紀、そして21世紀には当然変わっている。資本主義の最初期の産業経営資本主義については、大塚氏の適確な表現を借りて、以下に掲げる。なるほど資本主義の出発とはこうしたものと教えられた。「産業経営をうちたてるような企業家には、すぐれて経営者でありうるような人間的資質と能力が必要です。さまざまな外的諸条件を見極めた上で、合理的な経営計画を立て、道具や資材、またそれに見合う労働力を調達してきて、それを組み合わせる。そればかりではありません。それらすべてが簿記の形式をとって表現され、原価計算や損益計算がはっきりと数理的に行なわれなければならないのです」(岩波新書『社会科学における人間』)。とりわけ「数理的に」、つまり合理的に経営されているところが、それまでの単なる“商売”と異なるポイントである。

(註2)

ルターについては、とりあえず、http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC/

(註3)

http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html を参照。

(註4)

いうまでもなく、『時の流れに身をまかせ』。 詞:三木たかし  曲:荒木とよひさ
http://moto33osaka.web.infoseek.co.jp/kashicard/tokino_miomakase.htm

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
 さて、あすは当サイト主宰勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いします。集団討論のテーマは、「児童生徒の意識といいますか、感性といいますか、そうしたものが、こちら面接官とかけ離れているのはいうまでもありません。歳の近いみなさんともズレがあるのではないかと思います。みなさんの周辺の児童生徒の観察からして、どのような印象を持っていますか、議論してください」といたします。ちょこっと考えてきてくださいね。

(2/13)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

つづいて発言されたのは、Fさんでした。Fさんは、生徒の自主性を育む教育を学校は提供するべきとの立場に立たれます。それが大阪の教育の未来の方向であると位置付けられ、しかも自主性の尊重が地歴の教育、特別活動で実践されるとき、地域との連携が図られることにもなると述べられました。Fさんの自主性育成に関わって、Cさんからキャリア教育についての言及がありました。そこでは、高校が進学にせよ就職にせよ、その一歩手前なのであり、その意味で重要な時期といえるし、生徒自身がなにに向いているのか、なにがしたいのかということに向き合わなければならない時期であるとされます。これは自主性とともに個性の発見作業にも通じることではありますね。具体的にCさんは、将来の夢を発見するべく、就業体験を地域で実施できないかどうかなどを考えるべきとのご意見です。
 自主性ということに関連し、数学志望のAさんは、常々、数学は役に立たないと生徒にいわれた経験を持ち、ある意味では憤慨されたこともあったでしょうけれども、この意識をとっぱらいたいとお考えです。その際に、生徒の若さに期待すると述べられます。若い時期、なんでも吸収することができる時期に、数学も、ということですが、もう少し説明の言葉があってもいいかもしれません。同じく数学志望のBさんからは、キャリア教育は生徒一人ひとりの自立、それは経済的にも精神的にもでしょうが、をめざすところに目的があると述べらます。社会の中で活躍すること、社会にどのような立場から貢献するかを指導するところに高校段階のキャリア教育の意義を認めておられます。そのための知識や技術を提供また指導することが大切といわれ、それが職業指導ともつながると発言されました。さらに、Aさんは、なにに向いているのかはやってみないとわからないと発せられ、苦手の中にもすばらしい世界があるかもしれないとご意見されました。そのためには、Dさんがいわれたように、関心を呼ぶ授業を私たちは実施しなければなりません。それは生徒の心に寄り添う教育でなければなりません。アンケート調査などを実施し、生徒のことについて多様に把握しておくことこそ、キャリア教育を進める前提となるでしょう。実態把握が重要とのDさんの主張です。
 「関心を呼ぶ授業」ということがDさんから出ましたけれども、これを教員はプロフェッショナルでなければならないといい換えられたのがBさんでした。Bさんは進学の場合、点数が問題となるが、個々の生徒の点数が低い場合は正答率をデータ分析してその結果を指導方針に生かすほか、勉強方法のアドヴァイスにも生かせると述べられます。ノウハウ的な指導が可能となるということです。
 ここでEさんが新しい話題に踏み込まれました。もちろんそれは、ここまで議論されてきた授業論や進学問題と関連付けて話されているのですが、大阪府の学力向上に関するプランに触れ、私学に負けない学習指導ということを主張されます。
 なお、この府のプランは、「大阪の教育力」向上プランとして、つい最近(今年の1月28日)、確定したものです。このプランに対する評価は、様々であるが、各自、検討してもらいたい。上のリンクでは、ぶつ切りPDFでアップされているのだが、もうちょっとなんとかならんか。一括PDFダウンロードを用意してくれるとありがたいのだがなあ。このあたり、府は親切じゃないね。
 Eさんはつづけて、授業力向上のために、教員同士が授業を見せ合う研究授業体制を構築することが期待されると述べられました。
 このほか、Fさんからは、教員自らがあいさつなど進んで生徒に声をかけ、コミュニケーションを積極的に採る教員像を提示され、Cさんは、生徒個々人の興味関心に鑑み進路指導を充実させ、たとえば大学の授業も受けてみることなどを提案されました。
 最後にAさんがコミュニケーションスキルの低下を憂い、家庭と連携しつつ、しっかり主張したいことを言葉で述べられる生徒を育成することが大阪の教育のあるべきあり方であると話されて議論が終了しました。
 今回の討論は、教科は違いますが6名とも高校志望の方々でした。それゆえ、議論も噛み合いやすかったのではないでしょうか。
 討論終了後、こちらから若干の質問をグループに投げかけます。「お隣の方の意見で印象に残っているのはどのようなものですか」が定番の質問です。どれだけ他者の意見に耳を傾けているかを試す質問です。そこには協調性を確認しようとする意図があります。
 さて今回、傍聴者から議論が楽しかった、よかったとの評価がつづきました。一点、退学や停学などの懲戒処分についての議論があればよかったとのご意見がありました。
 当勉強会では、集団討論の終了後、聞き手に回っている方々からコメントをもらって、互いに評価しあいます。そして、最後にワタクシからも一人ひとりにコメントいたします。いつも教室をお借りしている時間が4時間なので、時間的に苦しい展開になるのですけど、最近は なんとか全員の方にコメントできるようになってきました。最後に、個人にではなく集団に対し100点満点で評価します。もちろんワタクシの主観的評価ですので、あんまり気にされないでください。
 土曜日第19回の討論では、上の再現と重なり合うところのほか、どのようなご意見があったのか、どのようなコメントがあったのか、紹介します。
 @現在、教育面において大阪府がどのような状態にあるのか、府民がなにを要求しているのかを考えるべきであるということ。
 A体力の充実も大阪府の教育の未来に必要なプランであること。
 B食育について。
 C学力調査の結果をどうみるかの議論。
 D小学校におけるクラブ活動の充実。
 E「だめな公立校」を特色ある学校作りによって再編すること。
 F繰り返し学習で基礎学力を定着すること。
 Gバウチャー制度とともに学校選択制について、少しは議論があってもいいのではないかということ。
 H学校教育と家庭の経済の関係性について。
 Iいじめや不登校をどのようにしてゼロに近づけていくかということ。
 J第3者評価と学校評議員について。
 Kフリーター、ニート問題について。
などなどでした。このほか、土曜日の議論に対しては、主観的ではありましたけれども、「イキイキしてなかった」との評価がありました。これは思ったより評価基準として大きいところです。グループとして沈んだ感じのする議論、元気のないようにみえる議論は、結構、採点において厳しいものがあります。グループの雰囲気は点数評価しにくいですけれども、採点官の心証に影響を与え、それがどこかでマイナスの評価となってあらわれることもあるでしょう。討論の途中で笑うことはできませんけれども、ヴァイタリティ溢れる姿勢をみせた方がよいに決まっています。どんよりどよどよした気候よりも、まさに受験する夏のように、さんさんとした雰囲気がいいのではないでしょうか。

(2/12)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

2月14日の土曜日、(JR大阪駅近辺開催、13時より)、キャンセルがありました。先着1名の募集です。右上のメールフォームより、みなさまからのご応募お待ちしています(すでに決定している場合もあります。その際はご容赦ください)。ドコモほか、携帯からのお申し込みはご遠慮ください。ブロックされて返信のメールが届かない可能性が高いからです。お申込者には、ご連絡差し上げます。確認のため、必ずご返信ください(再募集開始:2月10日00時19分⇒11日16時56分、募集終了しました)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

2月22日の日曜日、(JR大阪駅近辺開催、13時より)、キャンセルがありました。先着1名の募集です。右上のメールフォームより、みなさまからのご応募お待ちしています(すでに決定している場合もあります。その際はご容赦ください)。ドコモほか、携帯からのお申し込みはご遠慮ください。ブロックされて返信のメールが届かない可能性が高いからです。お申込者には、ご連絡差し上げます。確認のため、必ずご返信ください(再募集開始:2月10日00時19分⇒11日16時56分、募集終了しました

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

3月14日の土曜日、(JR大阪駅近辺開催、13時より)、キャンセルがありました。先着1名の募集です。右上のメールフォームより、みなさまからのご応募お待ちしています(すでに決定している場合もあります。その際はご容赦ください)。ドコモほか、携帯からのお申し込みはご遠慮ください。ブロックされて返信のメールが届かない可能性が高いからです。お申込者には、ご連絡差し上げます。確認のため、必ずご返信ください(再募集開始:2月10日00時01分⇒11日16時56分、募集終了しました

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

3月28日の土曜日、(JR大阪駅近辺開催、13時より)、キャンセルがありました。先着1名の募集です。右上のメールフォームより、みなさまからのご応募お待ちしています(すでに決定している場合もあります。その際はご容赦ください)。ドコモほか、携帯からのお申し込みはご遠慮ください。ブロックされて返信のメールが届かない可能性が高いからです。お申込者には、ご連絡差し上げます。確認のため、必ずご返信ください(再募集開始:2月10日00時01分⇒11日16時56分、募集終了しました

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

次の発言者は、Aさんです。1巡して戻ってきたわけですけど、別に発言者に順番があるわけではありません。必ず規則正しく1巡1巡しなければ発言できないわけではないのです。議論をつなげる発言、発展させる関連発言であれば、どなたが発言しようと構いません。ただし、なにか発言権の取り合いのような状況は見苦しいですから、それは避けましょう。集団討論ではどうしても目立とうとして「ハイハイ」いってしまうものですけど、そのあたりは大人的な姿勢を保ちましょう。
 Aさんは、知育の話題が登場したことに触れ、これを魅力ある学校とする骨子にしたいと述べられます。高校志望のAさんは、中学から進学してくる生徒に思いをはせ、「入れる学校」作りよりもむしろ、「入りたい学校」にすることが学校としての目標になると発言し、かつ、卒業してよかったといえる学校にしたいと意欲的です。Cさんも学力だけに定めるわけではありませんが、具体的な学校のあり方について、どういう人材を育成するかを明確にし、それを学校目標に設定することは重要であると述べられます。Dさんは、これまでも特色ある学校作りに府も各学校も邁進してきたけれども、それが目にみえるものとしてはなかなか表現されなかったことを反省し、高校1年生で英検3級は全員修得するほか、部活動でも大会で入賞を目指すなどハッキリした形に残るように指導すると、Aさんに負けず劣らず意欲的です。議論の途中、「目にみえる形で」というのがありましたが、これに反応したBさんが、授業をどのように行なっているのかも公開授業で示すようにし、また、そのときに教育方法がよりよく展開している学校の姿勢をみせるため、少人数学級や個別質問に対応している様子を示すのがいいと発言されました。
 それでは、結果を目にみえる形では必ずしも残せない教育分野についてはどうすればいいだろうかと問題提起されたのがFさんでした。Fさんが意図するところは道徳教育です。そこでは、学校がオリジナルな道徳教材を作り上げることが、大阪の教育の未来に貢献することになるとお考えのようです。
 Eさんは、Aさんのいわれた中学から入学してくる生徒に魅力を感じてもらう学校作りとともに、批判的に言われることもある出口指導を充実する方向で日々の授業を考えさせる授業に構成し、「我が校はこういう学校である」との特色を打ち出し発信するべきであると発言されます。また、「我が校はこういう学校である」という内容をシラバスとして整理整頓して公開することも実施すればどうだろうかと提案されました。Bさんはこのご意見をさらに付け加え、シラバスだけでなくビデオで授業を撮ったものをオープンにする手もあると述べられます。ここで議論されているのは、大阪の教育の未来をよくするための方策であり、それを授業公開の度合いを高めることによってなそうとする計画案ですね。それは教員自身の肩にかかっているというのがAさんのご意見でありまして、魅力的な学校を作るには、魅力的な授業が展開される必要がある、それは教員の質の向上による、と述べられます。そして、新人教員の私たちとしては、経験豊富な先輩教員に学ぶべきところを学び、指導技術を高めていくと語られました。
 ここでCさんは、魅力ある授業作りの話題にのり、歴史の授業論として、歴史上の人物を調べて発表しあう方法をとりたいと抱負を語られました。そしてその発表をクラスで評価し合い、議論ができればさらによいとのことです。
(以下、次回更新)

(2/11)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ