日々旁午

2004


ややっ、これは朗報というべきか、それとも、なんじゃいそれ、というべきか。大阪府では、昨年1次に合格した方は、今年度1次試験を免除されるらしい。つまり1次合格の有効期間が2年になる。朝日新聞の伝える府教委のコメントには、「2年続けて教養などの受験勉強をするのは大変。能力は1年でそんなに落ちないはずで、1次試験を免除しても問題ない」とある。たしかにそれはそうであるが、それならそうと、もうちょっとはやくいえよと憤慨している諸君もいるのではないか。「教養などの受験勉強をするのは大変」なのは、はなっからわかっていることである。昨年まで教養を毎年勉強し、合格した多年受験生は、どんな顔をしているであろうか。府の教養試験は一般教養の出題数多く、教職教養からは10〜12問程度である。原理の問題と法規の問題と心理の問題で90l以上、それに教育史が1問くらいの割合であろうか。この点、奈良県とは大違いで、奈良は教職教養しか出題しない。こうも傾向が違うのは、受験生泣かせといわざるをえないが、試験日も同じ日であるし、実施者は各自治体の教育長にあるので、ぼやいてもはじまらない。1次免除とは関係ないが、大阪府と関東地方の併願がかなり減っているのが、今年の受験生の特徴である。大阪府の試験科目に論作文がなくなったのが受験生の動向を大きく変化させたようである。さて、大阪府の場合、1次の教職教養はあんまり勉強しても仕方がないというのが本音といえる。ポイントを押さえれば、教職教養は半年必死に勉強すれば満点がとれる。だから、教職はほどほどにし、新聞をしっかり読み、企業就職用のSPI問題集や時事対策の問題集を何度も繰り返す方が1次突破に向けての効率よい勉強になる。その時に忘れてならないのが数理系の対策である。高校入試レベルの問題を解き、大阪府の傾向と重ね合わせて対策をとるべきであろう。数理系は7問はでるようなので、この分野を絶対切ってはならない。ただし、一般教養の中には、しょうもない問題も間々ある。そうした「100人中、5人しかできない」問題は間違えても致し方ない。全体で40問、7割以上、つまり28問〜30問できれば、2次に進める可能性が高いと去年までは推測していた。だが、それも今年は、免除者の数によって変わってこよう。当サイトは、1次対策サイトではないので、その手の問題はあまり作っていない。昨年、試みに1次向けの問題を10問程度作成したけれども、いまひとつワタクシは作成に乗り気でない。なぜなら、やはり勝負は人物重視の試験科目にあると考えているからである。だいたい府は、討論も含め3回も面接試験をするし、なによりも今回の処置である1次免除が、マークセンス試験の比重の低さを物語っていよう。毎年のように答申がでるし、教育の時事的状況もめまぐるしく変わる。そうしたところを聞く1次試験が免除されるからである。当サイトの閲覧者に、アンケートに応えていただいたが、1次の対策は今年も昨年同様にとどめることにする。府教委のほうで問題作成が終了した時期に、予想問題を数問作ることにしよう。時期は七夕あたりである。七夕であれば、もう府教委の方でも問題を作成し直すことはできないしね。ところで明日は旁午お休みします。所用ででかけます(3/20)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

政府はついにインターネット高校を、特区にかぎり認可した。これまでも、公的に単位認定されていないながら、インターネット高校「風」などの簡単な実践があった。すなわち、実験的には、インターネットを活用した教育実践は民間において行なわれていたのである。高校では、全日制のほか通信制も存在することからして、インターネットを活用する教育課程を編成し、法制度を整えれば、すぐに開校できる段階にまで来ていたといえる。レポートを郵送する代わりに、メールを使用すればいいわけだし、スクーリングもいままで通りでよいからである。あとはインフラさえ整えば、問題はない。だが、このインフラ整備が最大の課題であった。しっかりした学校通信基地、施設を作ることができるのか。YBBやジャパネットたかたの事件が久しいが、個人情報の流出など問題発生時の対策はどうなのか。設置者はこれをクリアしないかぎり、開校することはできない。そこに、渡りに舟で、株式会社が登場することとなる。ネット運営技術に長けた民間の会社なら、通信制高校の運営はその点簡単なことだろうし、特区の枠がはずれれば、新しい魅力ある教育産業マーケットとして、参入が高騰する可能性も高い。哀しいかな、高校中途退学者の数がうなぎ上りであって、その受け皿にインターネット高校が期待されるからである。たとえネット高校であろうと、スクーリング通学区は全県程度に区画され、地域限定されるであろうから、各都道府県に出張所を設けて回線をつなぎ、都心で集約するという方法も夢ではない。あとは教員の頭数である。スクーリングの期間をずらして教員を派遣する形態をとればよい。需要はある。また、特別支援教育に関連しても、新しい道が拓けよう。教育対象生徒数が少なく、利潤追求の目的からそれるので、株式会社は回避するかもしれないが、ネット教育を通級指導と併置するなどして、特殊教育高等部生徒の学力向上も見込める。院内学級の勉強方法も格段に変貌しよう。以上のような意味で、三重県阿児町の伊勢志摩インターネット高校特区において、通信制インターネット高校が、来春から開校されるのは、新しい高校の在り方を占う水晶玉となろう。さて、この伊勢の特区の高校は、東京の会社が設置運営する。さすがに特区的経営を認められ、施設は閉鎖されている企業保養所を再利用する。海辺沿いに幽霊リゾートマンションもゴロゴロあるから、それをスクーリングのために三重へやってくる生徒に安く貸してもいいくらいであろう。あとは生徒指導が直接的にできないこと、集団教育のメリットを生徒が味わえないこと、これをどのように解消するかであろう(3/19)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

大阪府の面接重視は本気である。府議会における教育長竹内氏の発言はそういうことである。2004年度は、どうやら兵庫県はじめ近隣自治体に見習い、面接のやり方を改革するようである。いままで面接は、小中高の教頭や校長、それに委員会の人びとなどでまかなっていた。そうした教採の面接を、民間企業の経営者や大学教授、お医者さんにちょこっと見てもらい、面接質問の改善を目指すのである。たしかに従来の面接質問は、ある程度「読める」質問であった。学校現場から降りてきた質問は、ワタクシたちにとっても、その対処の仕方がやりやすい。しかし今後は色合いの違った、一味違う質問が舞いそうである。ただし2004年度は試験的にこうした「部外者面接官導入」を行なうに過ぎないので、そう多くの「外部者」を面接官に採用しないらしく、2004年度の結果次第で、2005年度の本格的「外部者」面接官の導入となる。だがこれは既定路線なのであろう。この面接改革については、いずれそうなるであろうと、この旁午でもいってきたのであるが、企業人だけでなく、医者、弁護士など教育に深い関わりをもつべき業種からの意見を賜ろうとする府教委の姿勢は、高く評価できる。採用試験の地点から、府教委と「地域」が連携し、教員を選考しようとするからである。だが、逆からいえば、悲しいことに、府の教育の実態が、専門家の手を借りなければならないほどになっており、専門家の目を濾過した教員でないと任せることができない事態であることを告げている。お医者さんなら、面接に教育者として必要な医療または健康教育の初歩を問うてくるかもしれない。養護教諭や体育専攻の受験生にはなおさらである。生活習慣病は小学生にも蔓延しているし、禁煙教育も進めなくてはならない。お医者さんならではの面接意見があるやもしれない。特別支援教育についてはいうまでもなかろう。弁護士なら、少年犯罪をはじめ、いわゆる不適応現象一般についての対処に関する深い質問を提出してくるかもしれないし、教育公務員特例法や地方公務員法など、教育法規についても理解が深いだろうから、そうした面接も可能となる。こうみても、ヴァラエティに富んだ面接の実施が見込まれる。2次面接は是非時間をかけてほしい。集団討論とは別に、ひとり20分ぐらいかける意気込みがほしいものである。あとはどれだけ熱心に他業種の方が面接官としての意欲をもってくれるかである。府教委は、しかし、こうした他業種の方の面接協力費を負担することになる。これは結構かかるんじゃないか。そのうち、公務員試験も受験料をとるようになるかもしれない(3/18)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

世の中、やり過ぎはなんでもよくない。酒もほどほどがよく、メシも腹8分目がよい。徹底し過ぎは、ギスギス感を生み出す。制限速度40kmの道路であったなら、警察は42km/hでは取り締まらない。そうだとすれば、都教委はやり過ぎではないか。君が代の斉唱の際、生徒が集団起立しなければ、担任教員が懲戒されるという。異常である。国歌を斉唱するかどうかは思想・良心に関わる問題である。歌詞に反発を覚えれば、歌わないでよい自由だってある。それを、「横山教育長は『教員が自らの主義主張を生徒を使って具現化することがあったならば、卑劣な行為であり、当然処分対象になる』と述べた。また、1クラスのみが起立しないような場合は、そのクラスを担当した教員は処分対象となるとの考えを示した」(毎日新聞)というのは、滝沢孝一氏も都教委を叱責しているように、戦前回帰の無法といっていい。国歌の内容である「君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔のむすまで」に、同意あるいは反発を各個人が判断し、その判断に応じて態度を決定するのが、自由社会のあるべき在り方ではないのか。1人ひとりの捉え方に任せる、それが個性を尊重するということでもあろう。とりわけ問題点は「君が代」の「君」は誰なのかということにある。この「君」を天皇とすれば、「天皇の代」となる。「千代に八千代に」とは、永遠に、の意味である。しかも細石に苔が付着して巌になるまで永遠に、ということである。苔が付着するまでどのくらい時間がかかるのか詳しくはわからないが、相当の年月がかかるのは想像できる。つまり天皇が統治する時代が長く続け、という意味になる。こう解釈すれば、日本は主権在民のお国柄であって、主権は天皇にもちろんないし、天皇統治でもない、だからこの歌詞はまちがっているといえる。しかし、そうではない、との解釈もある。「君が代」の「君」は天皇であるけれども、その天皇は象徴天皇制の天皇であって、権力が集中した戦前天皇制の天皇を指しているのではないと、ある勢力は主張する。すなわち、「君が代」は「国民主権のもと、国民を象徴する天皇の代」との意味になり、そうした「代」が永遠に続くことを望む意味内容なのであると。現代の象徴天皇制の、政治権力を剥奪され、形骸化した天皇を歌っているのであると。いかにも苦しい解釈であるが、しかしこれはこれで牽強付会ともいい切れない。現実に生徒が起立しないままの卒業式もあった。しかしそれが「教員が自らの主義主張を生徒を使って具現化すること」であるのかどうか。それを見極めるための教育委員会から学校への使節派遣なのである。だが、この措置を逆手にとって、生徒が意図して集団着席すればどうなるのであろうか。いやな先生だった、「お礼参りにみんなと組んで着席してやるか」となれば、その先生は懲戒処分になるのであろうか。その場合は委員会から来た職員が生徒を直接指導するのであろうか。権力とは、人を思うように操りたい願望を備えている。支配欲=権力のギラギラした本質である。やはり、近づきたくない(3/17)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

本日は、論作文をアップしただけで、作業終了です。にわかに仕事が忙しく、あわわ状態になっています。もちろん仕事だけじゃなく、行事がつづいていまして、幸せです。しかし一番の問題は、はやく身体を直すこと。左足を悪くして、ここ数日歩くこともままならず、1人になるとどうも気分が滅入ってきます。この旁午は当然1人で書いていますので、筆が進まない気持ちになりやすいのです。最近、短文がつづくのも、そのせいです。せめて正座ができたらいいのにな。桜が咲くまでには治っていますように(3/16)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

今月4日、河村文相が教育委員会改革について中央教育審議会に諮問した。早稲田の奥島氏を除き、もうそろそろ中教審のメンバーは、教育委員会をどういうふうに位置付け直すか、その役割をどう見直すか、その思うところがおぼろげながら見えてきていることであろう。第16期中教審で、少しだけ教育委員会改革に触れていたが、本格的に議論するのははじめてのことであり、結論の出る年末が楽しみである。一番の関心事は教員人事権の行方である。従来、都道府県および政令指定都市のみが、教員人事を担当してきた。これを市町村教委にまで委譲するかどうかが今次議論の焦点である。確実にこの問題は教員採用試験の在り方にまで変更をもたらす議論になる。なぜなら、人事権委譲は、任命権者の変更を意味するからであり、任命権者が試験実施者であるからでる。現在、教採試験実施者は都道府県および政令指定都市の教育長である。教採願書の説明書に、教育長の顔が印刷されているところもあるくらいである。それが、町や村の教育長の判断で独自に教員を採用することができるようになるわけであるから、論理的に推論すれば、どのような教員を採用するかは町や村の考え方ひとつになろう。そうだとすれば、たとえば教採の問題を作ったり、効果的な面接を実施したり、3人で構成される村教委に耐えられる仕事なのであろうか。1次の試験は都道府県問題を流用することができるであろうが、市町村の実態に即した面接質問は、そう簡単に用意できまい。さらに、もし都道府県問題を流用するとなれば、大学入試の1次テストのような関門の設定となる。これを解決する方法は2つある。解決策Aは、これまた今次議論のポイントであるが、小規模市町村教委を合併し「広域教委」を設置することである。一般行政との兼ね合いもあるだろうけれども、教委はいまのところ独立行政だし横断的にグループ化することも可能であろう。「広域教委」なら、試験作成から面接まで対応可能となる。解決策Bは、Aとまったく異なり、教育委員会をたたきつぶして、一般行政部門に統合し、公務員試験一般と同様の構造を教採においても採用することである。だがこれはどうだろうか。教委は政治的に中立でなければならないため、厳しく地方教育行政法がそのメンバー構成に政治的条件を課している。教委の廃止は政治的中立が無視される結果を招来しかねない。教委の一般部門への解消は、教育への政治介入を容易くするきらいがあるわけである。だがこの断行の恐れもある。解決策として、手っ取り早いからである。ABともに難しい再編成になるけれど、あるいは形骸化しつつある市町村教委に喝を入れる「副作用」もあろう。どのような形態になろうとも、公平な採用試験になることを望む(3/15)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

今日は、古き懐かしき友と、伊勢までツーリングにいってきました。久々の再会でした。全行程、450km程。ちょっと疲れています。イタイ足をステップに載せて、強い横風にあおられながら走り切りました。途中、度会で、非常にウマくて安い新鮮な海の幸の定食を堪能し、外宮に到着。土産物店を冷やかしてきました。でも、ツナギを着たまま人ゴミであふれた通りを歩きたくないよね。マグロ焼きのあんちゃんに、「そこのケガしてるバイカー、買ってってよ」と声掛けられ、ちょっとムッとしましたよ。「ウルセー」と文句のひとつでもいってやるべきだったかな。まあ、そんなんいうのも大人気ないし、「単車乗りならツナギがいい、安心感がある」と再認識しているワタクシは、掛け声を無視して立ち去りました。というわけで、今日は短文にてご容赦下され。あっそうそう、下の確定申告は1時間くらいで済む作業です。この機会にもうひとつ。ばんこ丸さん、ごめんなさいね。論作文届いていますよ。ご心配なく。ばんこ丸さんのを含め、4枚あるから、がんばってコメントしますね。厳しい評価を希望の方は、その旨書いて下さいね(3/14)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

今日は確定申告にいってきた。普通、前年申告した基本情報によって、申告用紙が郵送されてくる。一般的には、それに記入して送り返せば済む。この如月は仕事が忙しく、申告期間は1ヶ月あるから後回しにしようとし、「大事な書類であるからきちんとしまっておかないといけない」と考えたのが裏目に出て、どこにしまいこんだのか申告書類一式を見つけることができず、紛失の憂き目にあってしまった。2、3日前から、嫁と一緒に家捜ししたのだけれど、徒労に終わってしまった。領収書類はなんとか発見、申告書類だけが4次元空間に吸いこまれたのである。「人間は、死と税金からは逃れられない存在である」とは、けだし名言である。納税マスコット女優にいわせたいものである。微笑む女優に「人間は、死と税金からは逃れられない存在である」の言葉。迫力と優しさが同居するポスターのできあがりである。ワタクシの場合、税理士に頼むまでもなく、自分で申告するのであるが、女優ではない嫁の分も提出しなければならないので、一苦労である。決して、2000万円以上収入があるから申告するのではなく、給与を2ヶ所以上の事業者からちょうだいしているのと、ほかに収入があるので、申告義務が発生するのである。ちまちま源泉徴収票を申告用紙に貼り付けたり、数々の領収書を丹念にまとめ、原稿収入調書を貼り付けたりするわけである。そして、上限25万に過ぎないが、定率減税分を書き込み、配偶者特別控除の計算も確認、なんでもかんでも還付可能なお金は返還してもらう。黙っていると国はさっさと徴収したまま返してくれないのである。国といえば、ワタクシは、2割の定率減税廃止を主張する公明党には投票しない。さて、領収書の金額は、どこまで必要経費として認めてもらえるか。これは税務署役人の匙加減ひとつではないか。このあたりの折衝は、最近一度経験したが、勇気とはったりと根気の勝負となる。「ある本を書くのにこれだけの資料がいる」といって、こちらは四の五のいう。スズメの涙ほどの印税を取り返すのである。机をはさんだ目の前の役人は数字のプロであるから、妥当なところに誘導して決着をつけようとするようにみえる。源泉額より数倍上回る阿漕な数字を書くと目をつけられるので、予め落しどころをそれなりに考えなければならない。国民はこんな些細なところで苦しんでいるのに、警察の裏金作りなど、もってのほかの破廉恥といわざるを得ない。一体誰の金だと思っているのか。ところで、過去、税金に関する本を何冊読んだことか。節税戦略を練るのが国民の義務だからである。だいたい源泉徴収方式は、国民をブロイラーに見立てたやり方であって、国民の納税意識を弛緩させるに余りある。サラリーマンは家を買うときぐらいしか税務署にいくことがほとんどないから、納税から導かれる権利意識を覚醒することなく、ブロイラーに堕す。だから申告納税制度に一本化するべきではないか。そうすれば会社組織は経理部をダイエットできるメリットも生まれる。しかもサラリーマンの納税感覚が研ぎ澄まされる。また、勝手に毎月見込み分をさっぴく現状のやり方にもおおいに問題がある。その利子分を収入から減量するよう認めるべきである。こうした運動が起きないのは、ひとえに源泉方式だからであろう。クロヨンは21世紀に是正すべき悪しき把捉率である。公平な税制を構築するのが国の義務であるといえよう(3/13)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

22lも「万引きは問題ない」と答えるとは思わなかった。都の中高生1400人のアンケート結果である。20lとしても、300人の生徒がこう考えているわけで、驚くべき結果といえよう。万引きに罪の意識を感じない生徒に、いかにしてそれが悪いことであると感覚させるか。事件が起こってからでは遅い。しかし、「万引きをしてはいけませんよ」と、正面切っていえる場所は、学校現場ではなかなかない。大人である教員にとっては、あまりにも当たり前すぎて、ことさら注意しなくても、そんなことはわかっているであろうと思いこんでいるからである。実際に万引きの「悪」についてとりあげ、たとえば「道徳の時間」をしている学校は皆無に近いであろう。こうした「授業」をするとすれば、なんだか生徒を犯罪者扱いするような気にもなる。実際、そうした指導をして、勢い余って生徒を犯罪者と呼んでしまった教員もいる。そのことを理由に生徒に詰め寄られ、顔面を蹴ってしまった。この事件は、生徒が悪いとワタクシは思っている。生徒の一部は、もうワタクシたちと感覚がちがうらしい。とすると、残念なことであるが、アンケート結果が50lを超えるようなことにでもなれば、このような「授業」をしなければならないのかもしれない。では、生徒の感覚が麻痺してきたのは、なぜなのだろうか。その理由は多様である。家庭のしつけの問題がまずあげられる。「他人のモノを盗ってはいけません」と教える家庭が減少していると推測する。しかし、それは、上の「大人の感覚」からすれば、家庭でもできないのであろう。「うちの子に限って」意識が保護者には強いことがこのことを実証している。こうした注意を常日頃からしているケースは少ないといえる。では学校ではどうか。学校ではこれを教えることができる。現に教えている。ワタクシたちは、教科教育において、物事の理解能力を養うべく授業実践しているからである。ワタクシたちが実践しようとしている教育の中身は、「教えるべき内容」なのであって、「記憶すべき内容」なのではない。数学そのものを教えるのではなく、数学的な思考法を身につけてほしいと願っているのである。英単語をいくら憶えても忘れる。そうではなく、英語の論理的な文法構造を読解する力、英会話から英語圏の人びとの思考法、文化価値を理解するよう指導しているのである。この教育の在り方を崩したのが、偏差値教育である。まとめていうと、教えるということは、生徒に理解力を養わせることなのであり、ひいては、生徒に判断能力をつけることである。教科に即して理解する力がつけば、自律した判断能力が養われるのである。知的な判断能力は、自己の倫理的な生き方を規定する。本来の教育のあり方とは、こうしたものではなかったか。さらに、いま流行している「就業体験」は、教科と違い、即時に労働の大切さを実感できる。働くことの尊さ、賃金を得ることの難しさ、ありがたさ、これを自覚させることにつながる。知的な判断能力が道徳的判断力の根本となり、道徳的判断力が就業体験によって現実感に転換するように指導すること、これがワタクシたちの仕事である(3/12)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ

今日はさすがに、ハイな気分のサイドなので、おやすみします。たのしみにされていた方、ごめんなさいね(3/11)

日々旁午・表紙へ 浩の教室・トップページへ