日々旁午

2004


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小中高の教壇に立つためには、特別な手続きを経た講師でないかぎり、教員免許状が必要である。免許状は、教職課程の設置された大学において所要単位を修得し卒業すれば、滞りなく手に入れることができる。なぜなら、戦前のいわゆる「師範タイプ」と批判された鋳型にはまった教員養成を反省し、戦後、多様でユニークな人材を得る目的に沿い、師範学校だけでなく、どこの大学でも単位修得すれば教員になれるように制度改革されたからである。つまり教員養成の開放性の原則である。しかし、免許制度は時代に即して変更を余儀なくされよう。とくに最近はクルクルと履修単位の取り決めがよく変わる。介護体験等が追加され、1週間のうち3日は養護学校へ学びにいったり、4日は老人ホームで体験的に福祉を勉強したりして、はじめて免許獲得となるのもその一端である。ワタクシが免許状を修得したときと事情がまったく異なる。そうした昨今の大学教職課程の変更についていけなかった大学もあるようである。室生犀星や三宅雪嶺のお膝元、全国的にも珍しいお城の中にある大学での出来事である。今春教壇に立つ金沢大学卒業生諸君は、不安な日々を送っているであろう。一般に、大学では「教職課程履修の手引き」なる冊子を学生に配布しており、学生はそれを信頼し、履修計画を立てる。旁午読者もよくご存じのように、そこには教職教養科目と、自己の専門必修科目が掲げられており、そのうちのどのひとつが欠けても、免許状は交付されない。その履修案内の根本に間違いがあれば、学生は、たまったものではないのである。金沢大学側の対応は、一見、誠実なものであった。代替的単位認定を認める気配りをし、学生に不利にならないように善後策をとったようである。ところがその化けの皮を剥ぐような形で、石川県教育委員会は、その措置に待ったをかけている状態に現在ある。これはどうしたことなのか。北陸の代表的高等教育期間である金沢大学が、所要履修単位数の数え間違いをするのはもってのほかだし、そのことを教育委員会が叱るのはわかる話である。金沢大学側は、教育委員会を甘くみていたのではないか。代替講義の履修に関する大学側の判断が、簡単にとおると考えていたのではないか。金沢の教育学部には立派な先生方がいらっしゃるのにどうしたことか。教育委員会側がいったん「代替履修の講義内容は本来の学ぶべき内容とは程遠い」と判断したとすれば、これは大学と教育委員会の戦争となろう。なぜなら、どうしても免許を携えて卒業させてやりたい大学と、履修内容に問題があり、単位を代替することはできないと主張する教育委員会と、見解がまったく異なるからである。これは、姉川の戦いとなろう。だが、委員会側が、講義内容に固執するあまり、学生への免許状交付に問題を生じさせるのは、温情的な決着ではないのではなかろうか。ここは一悶着あろうけれども、最終的に学生の利益を優先する「大岡裁き」を願いたいものである。と、こういうように書いていると、こうした結末とこのような新しい事態が舞いこんできた。嘆かわしい(3/27)

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昨日の更新は大幅に遅れました。当サイトの「美術の森」で紹介している緑祥さんが、個展を開かれるため、そのセッティングに駆け付けたからです。会場にトラックで50個以上の壷を搬入し、陳列にあーでもない、こーでもないと思案していたせいか、そしてその後すぐに仕事にいったせいか、すこーし疲れています。25日の22:00までネット環境にいなかったので、25日分の旁午記事を更新できず、その代わりといってはなんですが、ケータイから「うしろのこくばん」にレスをつけることに努めました。レスをつけるのをちょっとサボっていたため、いい機会になりました。ただ、お願いあるのですが、一人ひとりの方から、「応援を」とか、「カツを入れて下さい」とかいわれましても、ちょっと困ります。できれば問題提起的な、第3者からレスがつくような話題提供をしていただけると助かります。あれも、これもはなかなか更新できず、サイト運営はパンパンの状態にあります。そうした中で、ご覧のように、トップページの色合いを変更してみました。春らしい配色にしたつもりです。桜色がないので叱られそうですが。今週末は、緑祥さんの個展を手伝いに参りますので、更新できなくなるかもしれません。お許し下さいね(3/26)

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大阪府の教員採用試験については、もう何回もこのコーナーで議論している。だが、まだイロイロとでてくる。ワタクシは、前回、誤まった情報を提供してしまったので、正しく伝え直しつつ、若干附記しておきたい。まず訂正から。大阪府及び市の1次試験は共通であり、例の1次試験免除は、2004年夏受験合格者から適用される。だから、2003年夏に受験し1次合格した者には適用されない。2004年夏受験生において、府と市の両方が免除するのかどうかは、ワタクシもわからない。これは、4月上旬に願書が配布されるので、そこで確認すればいいことであろう。実は、ワタクシは、朝日新聞の記事を読んで、「大阪府教委は18日、04年度の教員採用試験から、最終の2次試験で不合格になった受験者について、翌年度に限って1次試験を免除する方針を明らかにした」という言葉を早合点して誤読してしまったのである。少ないながらも読者をもつサイト運営者としては、この誤読・失態をお詫びしなければならない。次に附記事項。1次試験の専門教科設問についてである。これは受験生を泣かせるなあ。なんともいえない。ただ、推測するとすれば、東京都の1次試験のように、校種別の問題を用意することが考えられる。つまり、共通問題と選択問題を作成する。共通問題は従来のように一般教養、教職教養の問題である。これを20問くらいにして、あと20問くらいを選択問題として、小学校用、中学校用と各自選択し解く。そのうち10問は、学習指導要領の校種別の問題。中学の先生になりたいのなら、中学の学習指導要領をよく理解しているかどうかを試す作成となろう。残りの10問は教科別である。これは、指導要領の第3章各教科からの出題と、それに基礎付けられた実践的な問題構成となるのではなかろうか。この問題数の割合がどうなるか、それはわからない。こうした問題設定はすべてマークシート方式で、1次で記述はないと予想する。2004年夏実施の総受験者数が、13000人前後になるのではないかと予想するからである。この予想は、はずれたら読者に申し訳ないから、おおっぴらにはいえないのであるが、昨年、論作文も試験科目から廃止したし、大阪府教採試験改革の流れから類推して、ここで記述方式を採用するのは一貫性がない。毎日新聞の記事も、「府教委は16日、04年度の教員採用試験1次試験の選択式テストで、一般教養に限定していた出題範囲を専門教科にも広げる方針を明らかにした」と報道しているので、これを素直に読めば、マークシート方式のままであろう。校種別と教科別と弁別するかどうかも、実際のところわからないのであるが、妥当であると思っている。ひょっとすれば、問題数も増加し、試験時間も延びるのではないか。40問から増える量として、60問・3時間くらいが限界であろう。なぜなら、マークシート試験のほか、集団面接が日時を隔てて待っているからである。本日の旁午の文章は、「わからない」のオンパレードだな。大阪府は本当に泣かせてくれるよ。しかし、受験生にとって、試験の条件は全員一緒であるから、文句はいえない。ここに書いたことを願書配布後に再検討し、なにがしか読者のみなさんに情報を提供できないかどうか、いま、ワタクシは、悩んでいる。ただいえることは、1次免除があるからといって、2年計画で教採を捉えてはならないということである。2年目に必ず受かる保証などまったくないからである。受験生はこの点を惑わされてはならない。あくまで免除はグリコのおまけ程度の措置と思わなければ、墓穴を掘ることになろう(3/25)

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卒業式も多くの学校で終了し、在校生の終業式も終わろうとしている。大野睦実ちゃんも、同級生と一緒に石川小学校を卒業することができた。お母さんもきっと落着かれたに違いない。睦実ちゃんは2002年の秋、ダンプカーの左前輪に巻き込まれ、亡くなった。青信号の横断歩道をわたっていた、何の落ち度もない睦実ちゃん、すごく痛かっただろう。10年の短い命ではあったが、ご両親が大切に育ててこられた愛娘である。察するに余りある。おそらくは、小さい頃夜泣きをすればどこか悪いんじゃないかと悶々と心配し、風邪をひけばあわてて病院につれていったことであろう。ご家庭には睦実ちゃんの描いた絵や作文も残っていよう。一つひとつの嬉しいこと、悲しいこと、総ての出来事を、何度思い返されたことであろうか。卒業式、出席番号0番の呼び出しに、お母さんが元気よく返事をする。切なさと力強さが交錯する卒業式である。ふつう、亡くなった児童を卒業させることはできない。そこをなんとか工夫し、お母さんを卒業式に参加させた小沢校長の温情ある決断に、敬意を表する次第である。睦実ちゃんのような不幸を再発しないために、小沢校長は、今後も交通安全指導を充実させていくはずである。現代の交通事情は、社会的弱者にとって厳しい現実にある。小さな子どもはいうに及ばず、高齢者にとってもそうである。特別活動を活用し、春と秋の2回、交通安全運動の時期に、さらに夏休みなどの長期休暇の前の安全指導も含め、警察と協力して、年5回、行事を開くよう全国の小学校は取り組むべきである。そこでは、残念ながら、こう教えなければならない。車や単車を運転する者を信頼してはならないと。青信号も信頼してはならないと。青・黄・赤ではなく、歩行者にあっては黄・黄・赤の感覚で交差点の信号を認識しなければならない。常に事故に遭うかもしれないとの危機感覚を自覚しながら交通社会を生き抜かなければならないのである。ワタクシも、いつ加害者になるかもしれないと恐れながら、車や単車を運転している。たとえ後ろからクラクションをけたたましく鳴らされようとも、交差点では徐行を遵守している。青信号の交差点を突っ切るときも、速度をかなり落す。一般人的感覚はどうだかわからないが、ワタクシなど、教育に少し携わるものどもは、スクールゾーンを知っている。だからスクールゾーンのグリーンの看板を発見したときは、なおさら速度を落す。教習所でもこれをしっかり教えればいいと思っている。スクールゾーンの看板を、交通標識のひとつに加えてもバチはあたらないのだから、警察は一考してもよいであろう。ねずみ採りにも有効な意図はある。だが、余りにも無意味なねずみ採りに金と時間を割くくらいなら、もっと効果的な事故防止策に知恵を出せないものだろうか(3/24)

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携帯としっかり書くのはオッサンの証である。ケータイと書かねばナウくないらしい。携帯と表記しても、携帯電話なのか、携帯辞書なのか、なんだかわからないはずなのに、すでに携帯は電話を指すのが一般になっている。それが片仮名化した。ケータイはじめワタクシたちの日々携える持ち物は増えてきた。サイフ、定期入れなどの貴重品類、鍵、それにPC。人によってはここに、免許証、ハンコ、コンタクトレンズ用品一式、タバコのセット、化粧品道具、いや、コスメティクアメニティというべきか、そうしたモノも持ち歩かなければならない。高校生はどれだけのモノを日々携帯しているのであろうか。さて件のケータイであるが、讀賣新聞の記事はこう伝える。26道府県教育委員会独自調査によると、高校へのケータイ持ち込みは、7割が条件付きで容認しているらしい。授業中に電源を切るよう指導するのが限界で、持ち込み不可を謳ったところでそんな規則は破られるからである。いまの高校生からケータイを取り上げるのは、時代錯誤もはなはだしいから、さもありなんという印象である。だが最後の一線は死守しなければ、学校教育は成立しないであろう。授業中にメールをする生徒は生かしてはおけない。いわんや大学生をや、である。けれどもワタクシは、どれだけ深く教材研究をしても、300人規模の大教室においてケータイを使用させないようにすることは無理だとあきらめている。ノーベル賞学者野依教授や大江健三郎氏でも、講義中携帯を使わせないことに1回は成功しても、年間通じてはムリだろう。そうした魔力がケータイにはある。なぜか。なぜなら、ケータイは、つまるところ、オモチャだからである。子ども、生徒、大学生はオモチャを与えられれば触るものだからである。そのオモチャがコンビニエンスツールに化けようとしている。日英の自動翻訳機能がケータイに付加されるようである。ATRの中岩浩巳氏は、「国際的な言葉の壁が低くなり、旅行者の利便性や企業のビジネスチャンスが拡大し、国際理解が進む」(毎日新聞)と利便性を強調している。だが、本当にそうなのであろうか。教育の目からこのケータイの機能を考察すると、利便性はたしかに増大するが、国際理解が進むかどうかには疑問がある。中岩氏には、国際理解ってなんですか、と尋ねなければならない。国際理解とは、文化的価値を相互に認めることである。異文化理解の第一歩が語学であろう。センテンスの構造ひとつとっても、そこに文化的差異がある。英語圏がSVOなら、日本はSOVである。言葉と格闘せず、安易に言葉の壁を低くしたとして、真の国際理解は進まないであろう。高校生はケータイを持ってきてもいい。しかし、しっかり外国文化を理解するよう語学をするべきである。20日の記事に誤まりがありました。大阪府1次免除は、今年度受験から適用されます。お詫びして、訂正します(3/23)

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坂口氏の「モー、ケッコー」駄洒落発言や石破氏の「自閉隊」発言など、政治家は隙を見せてはいけないことを改めてしめした。「モー、ケッコー」は狂牛病や鳥インフルエンザによって食糧環境が危機を迎えているのに、何様のつもりだ、行政トップが冗談をいっている場合か、と叱責を買った際の発言である。冗談もいえないのはつらいであろうが、私生活で「あ〜、そうか、そうかの創価学会」と存分にオヤジギャグをかませばいい。公的な場で失言してしまうのは、それだけ他人の痛みに鈍感だからであろう。しかし、それでも「もう結構」とトップが形容したい気持ちはわかる。年金問題も抱えている氏であるし、ワタクシでも彼の立場に立ったとすれば、そうこぼしてしまうにちがいない。養鶏家ほか農業生産者も、内心は、「もうやめてくれ」、「もう病気はいい」と悲鳴をあげているからである。この坂口氏の発言にさほど非難が集まらなかったのはそうした国民感情の真意を突いている理由からではなかろうか。また、イデオロギッシュな発言でもなかったからであろうか。それに対し、「自閉隊」はヒドイ。自閉症の児童生徒が隊をなしているかのような言葉である。差別的ですらある。いや、差別である。これまでPKF活動のほか、自衛隊は海外に出動しなかった。だから「不出動隊」である。それを「自閉」と形容したのであるが、どうせなら「密閉隊」といったほうがよかった。「真空パック隊」でもいいかもしれない。だが、どういい代えても、それなりに批判は発生する。人ではなくモノにたとえて「密閉隊」といっても、容器製作会社は怒るからである。とすると、変なたとえはせず、自衛隊は自衛隊といっておけばよかった。学もあり非常に多弁でもある石破氏であるから、こうした発言になってしまったのである。ワタクシは彼の政治思想には反対を唱えるものであるが、彼の国会答弁を見るかぎり、ニヤニヤ笑ってばっかりの純ちゃんよりもずっとマシだと思っている。純ちゃんは橋龍に似てきている。石破氏は、うわめ使いでまばたきもしない独特の語り口ではあるけれども、少なくとも懇切に説明しようとする姿勢がうかがえる。それだけに残念なたとえ言葉であった。石破氏は教育学を勉強しなければならない。しかし、このように形容する石破氏の失言の裏には、自衛隊を軍隊として海外に「出したい、出たい、出せるようにしたい」という物理的強制感覚がありありとうかがえる。「自閉」を改善したいと石破氏は考えていたということは、自己を開きたいわけだからである。「開かれた自衛隊」思想は、防衛庁の防衛省昇格問題と絡んで、次の国会か、その次の国会の主題となろう。夏の参院選がどのような結果になるか、それ次第である(3/22)

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