日々旁午

2004


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2月23日に各教育委員会ほかに連絡された「学校で飼育されている鳥が死亡した場合の取扱いについて」によると、学校における飼育中の鳥が、鳥インフルエンザに罹患する可能性は高くないらしい。学校管轄の鳥インフルエンザ発生については、文科省が責任をもつ。みあげた態度である。だが、本当に罹患する可能性は高くないのか。一連の事態を分析し、「り患するおそれが高いということはない」と、文部科学省スポーツ・青少年局学校健康教育課、厚生労働省健康局結核感染症課、農林水産省消費・安全局衛生管理課の3者連名で記し、「絶対大丈夫です」というふうである。国民のあらぬ誤解や無節操な行為、たとえばチャボを道端に捨てるなどの行為を戒め、動揺を解く意味もある。ふつう縦割りで、責任のなすりつけをし合う行政であるが、3者一致した見解であるから、かなりの信憑性というべきか。さらには、この3者一致は、ことの緊急事態性をあらわして余りあると思われる。文科省他2者は、鳥の移動を制限する地域とそうでない地域と2つに弁別し、それぞれに指示を与えている。両方に共通するのは、複数の鳥が異常死、大量死した場合、教育委員会に届け、獣医に相談することである。届けを受けた教育委員会は獣医と相談し、適切な処置と学校やその学校に通う児童生徒の保護者に説明する。だいたいこうした内容を「取扱い」は述べている。ところで、この文章を書いている矢先、鳥インフルエンザに関する「国民の皆様へ」が政府発表された。政府は早い収束を望んでいるであろう。だが、もう少し時間がかかるにちがいない。ワタクシたち教員は、冷静に行動すること、これ以外にない。あまり恐れないで、飼育小屋をチェックし、獣医と個別に相談するなど、教員1人ひとりが行動してもいいのではないか。なにも教育委員会の指示を待つまでもなかろう(3/10)

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鳥インフルエンザに関連し、浅田農産の会長夫妻が自殺した。衝撃的である。死者に鞭打つことは差し控えなければならないが、事態は深刻である。鳥インフルエンザは全国に蔓延しようとしている。カラスも丹波町では数多く死んでいる。それゆえここでは、2つのことを考えておこう。ひとつは、道徳律について、もうひとつは、学校における鳥の扱いについて、である。今日は、前者について述べる。前者の道徳律については、カントの有名な普遍的道徳法則の考え方である「定言的命法」のことに触れよう。カントは、その命法で、こういっている。「君の行為の格率が、普遍的法則となることを望み、欲するような、そのような格率にしたがって行為せよ」と。「格率」とは、主観的な原理をさす。自己の道徳的な行為原理、簡単にいえば、自分が善しと考えて生きる生き方の原理である。いいかえれば、道徳的な行為行動における信条となるものをワタクシたちは各自もっているはずである。これを発揮しつつワタクシたちは日常を送る。そうした各個人の道徳律が、普遍的であること、つまり、息長く、誰にでもあてはまるようなもの=法則であれ、ということである。「ひもじければ、店先からリンゴを奪ってよい」、これは道徳律として誤まっていよう。この法則に同意する人はいない。普遍的でない。では、これを今回の鳥インフルエンザ「隠蔽」事件にあてはめればどうなるのか。「今回の鳥インフルエンザの件では、国民に迷惑をかけました。大変、責任を感じています。それゆえにみずからの死をもって償います」ということになる。こうした「迷惑をかけたから死をもって償う」という行為は、同様の状況に陥ったとき、国民すべてにあてはまる道徳的行為であろうか。そうではない。「迷惑をかけたから死をもって償う」は、普遍的な、誰にでもあてはめて、それを善とする道徳法則にはなりえない。したがって、この法則は道徳律とはならない。そうではなく、生きて、誠実に責任をとらねばならない。それが、人間の在るべき倫理的在り方なのである。そうだとすると、会長夫妻は絶対に自殺してはならなかったのである。夫妻の自殺は、残されたワタクシたちにとって哀しい事件である。いわんや社長にとってはなおさらである。なぜなら、社長と連携し、ことの解明に尽力すべきであったからである。たしかに、マスコミの攻勢からわかるように、状況は厳しかったであろう。しかし、再発防止のためにも、あらゆる情報を流し、真実を明らかにしてこそ、事態は好転するのであり、そうした責任の取り方こそが、農場経営者のあるべき態度ではなかったであろうか。そして、こうした責任の取り方をすれば、国民はある程度納得するはずである。なぜなら、そもそも鳥インフルエンザの発生は、その原因が渡り鳥による場合が多く、それを防ぐ手立てはなかったからである。この農場から感染した鳥が飛来し、学校で飼育している鳥に近づく可能性がある。果たして、ワタクシたちはどのように対応すればいいのであろうか。今回の旁午は、誤解を恐れずに書いた。真意あるところを読みとってほしい(3/9)

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コミュニケーション、クリエーション、コラボレーション、それぞれいい言葉である。大阪府はこの単語の頭文字をとって、e-おおさか3cといい、IT化を強力に推進しようと意気込んでいる。ヴァーチャル府庁構想やITステーション事業など、本格的な策定プランを、先月、大阪府は明らかにした。もちろん、この策定プランには、「教育」に向けての提案も含まれている。ひとつは職員室の電脳化、そして、事務室のネットワーク化である。学校総務の効率化を目指し、今年度、学校の管理機能をまずIT化していくことからはじまるわけである。まあ、こちらのIT化については、教員になってからその恩恵に与るとよい。なぜなら、人事、給与、福利厚生に関するサービス享受に関わることだからである。次に、国の方策ともかかわって、教室のIT化の立場から、ごく普通の教室の改造に乗り出す。すなわち、動画コンテンツの配信を受け、授業に活用すべく、教室環境をIT化するわけである。そのため、教室に「情報コンセント」を設置するらしい。この「コンセント」は、学校に据え置かれたでっかい中枢コンピューターからLAN接続された端末のことを指すのであろう。こうした教育環境の整備拡充は、17年度内に実施すると府は豪語している。こうなってくると、いままでの授業スタイルとはまったくちがったスタイルが可能となる。まさにCAI(Computer Assisted Instraction)の実現である。ニュースタイルが実現すると、一挙に情報の光と影が学校現場に押し寄せる。光の部分としては、作業主体の自主的な学習が進むし、児童生徒一人ひとりに見合った学習プログラムを組むことができるから、個別指導と一斉学習がミックスされた理想が実現できるのではなかろうか。そのほか、おもしろく、ためになるコンテンツを充実すれば、児童生徒は内発的に動機付けされるケースが増加するであろう。魅力的な学習コンテンツが、各学校で創造されれば、それをネットを通じて交換し活用することもできる。民間企業の教育コンテンツも採用すれば、お金はかかるが有意義な授業を構成できよう。だが、一方で、PCゲームの弊害でもあるが、視力の低下は避けられないし、「考える」力がどこまで伸びるか、これは未知である。PCに頼り切った授業は、画面が主体となるから、ややもするとコンテンツ内容を、たんに受容する非主体的な姿勢にもなりかねない。従来手法をIT化しただけということもありうるわけである。その意味では諸刃の剣である。PCを活用する能力が前提となり、児童生徒のITリテラシーの成長度合いが学習を左右する。PCが家庭にあり、常に触れる状態の子どもたちの方が、そうでない子どもより学習に有利になる。また、学校にノートパソコンを携えて登校してくる小学生が珍しくなくなる。「情報コンセント」を「小賢しく」利用する子どもも出てくる。しかし、概ね、府の計画には賛成である。「情報コンセント」を活かせるかどうか、後は平均年齢48歳の大阪府教員の研修姿勢に委ねられる(3/8)

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第1回勉強会に参加された方々、お疲れさまでした。4時間の長丁場、いかがでしたでしょうか。初めて会うもの同士、本番さながらにすすめたつもりです。知らない人の前で発表することは、パワーがいるものです。多数の眼がひとりに集中するのですから。そこから逃げず、自分を表現しようと努力されていたところに、主宰者として感銘を受けました。また、知らない人の発表を聞いて、「ああ、勉強せなあかんな」とおおいに刺激を受けたことでしょう。こうした自覚を促すことができただけでも開催した価値があったであろうと主宰者は感じております。そして、「こうした勉強会を開いてよかった」と、いま、思い返しながらこの文章を綴っています。昨日議論したこと、反省点を忘れないうちに、文章にしておくことを参加者には期待しています。ここで、参加したくともできなかった方々のために、その様子をお伝えします。昨日は、19名の参加者と1名の見学者(男性8名、女性12名)が集まりました。参加者を6人、6人、7人と、3つのグループに分け、1グループあたり、70分を配当しました。ひとつのグループが面接対象になっている間、他のグループの方々は聞き手にまわっています。だいたい30分の発表時間と、40分の反省的討論および聞き手からの質疑応答でした。これを3クール行なうわけです。間に2回、10分ほど休憩です。具体的な内訳は、ひとり3分自己PRをしていただき、それに司会者であるワタクシが、ひとりPRが終わるごとにコメントし、反省点、改良点を伝えつつ、聞き手にまわっている参加者からもコメントをいただくという実践的な形態を採用しました。あらかじめ自己PRについては課題として伝えておりましたので、みなさま滑らかにPRされていました。しかし、表現力は十人十色でありまして、それぞれ苦しんでおられるところ、楽しいところがありました。そしてその後、集団面接の質問事項を参加者に順次答えていただきました。概ね、以上のような内容でありまして、充実した土曜の午後になりました。さて、主宰者として、当然反省があります。それは、自己PRに対するコメントに時間がかかりすぎ、集団面接の質問事項を1グループに1問しかぶつけられなかったことです。最後のグループは時間的に厳しく、質問できないまま終了してしまいました。申し訳ない。もっとPRに対するコメントは少しにして、面接質問を増やすべきであったと反省しています。しかし、自己PRの仕方について、教採試験でどういうふうにPRすればいいのか、そのコツを会得され、かなり勉強になったのではないかと、それはそれでよかったのではなかろうかとも思っております。また、参加者の自由な発言が飛び交うよう、雰囲気作りに主宰者はがんばっていたのですけれど、これもどうであったか。もっと厳しい評価姿勢を求められている方も、あるいはいらっしゃったかもしれません。次回の課題といたします(3/7)

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本日は、当サイト主宰の第1回・定期勉強会を開催いたします。ご参加下さる方々、よろしくお願いいたします。その準備のため、参加者も、ワタクシも、なんやかんやとやってきました(笑)。しかし、フタを開けてみて、はじめて中に何が入っているのかわかるものです。遠方の方や、予定がかち合い参加したくてもできなかった方に、当日配布するレジュメの一部分(「開催にあたって」)をここに掲げます。「本日は、『定期勉強会』に参加していただき、誠にありがとうございます。本勉強会は、教員を志望する熱意ある方々のお役に立つことを目的に開催する集会です。この試みは、基本的には『教採合格』のための勉強会ではありますが、そこにとどまらず、広く教育的な発想とはどういうものなのか、教育に携わるとはどのようなことなのか、そうした地に足ついた思考を参加者に持ってもらいたいという主宰者の問題意識に発しています。それゆえ、時には厳しいいい方をするかもしれませんが、ご容赦下さい。 なぜなら、大阪府教育委員会(他の自治体受験の方、すいません。しかし以下のことは、全国的傾向です)によりますと、『熱中先生』がほしい、子どもを親身になって支援してくれる、子どもが好きな先生がほしいということを強調しており、ことのほか面接を重視するといっているからです。すなわち、そうした人材を選ぶ際、面接において、いかに自分の言葉で自分の教育にかける情熱を表現できるかにあるわけでありまして、これはなかなかに身に付け難いのではないか、と思います。ワタクシたちは、相互に敬重していることを前提に、相互批判の精神を持って、なんでもいいあって、教員に必要な資質を高めあいましょう」。それから、事前に「当日は、個人面接、集団討論にスポットをあてたいと思います。当日までに、@『自己PR』・A『どのような部活を担当できますか。その理由は』・B『少年犯罪についてどう考えていますか』・C『どのようなクラスを作りたいですか』・D『学校開放と安全確保とは矛盾した考え方ですか、賛成反対を示し、根拠を述べなさい』の各問に3分間で応えられるよう準備して来て下さい。ゲストの方に来て頂けるかもしれませんが、まだ未定です。当日不参加は、多数応募者に申し訳ないですので、よろしくお願いします。それでは3月6日、楽しみにしております。このメールは、携帯にも送信しております。こうした詰め詰めの文章ですいません。ご理解下さい」と送っております。このほか、2枚、あわせて計3枚配布いたします。当日の議論をたたき台に、後で考え直したたこと、疑問に思ったこと、そのほか、イロイロとネット上でお話したいと思っております。過去に数回行ないましたが、チャットを今月末に開く予定です。そうすれば、遠方からこられた方とも議論できますしね。当然ながら今回残念ながら参加できなかった多数の方のチャットへの参加も願っております。よろしくお願いいたします(3/6)

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いまさら検事にこうつぶやかれても、困惑するばかりである。山形は新庄市のマット死事件は、抗告審判断こそ然るべき結果であったが、実は多くの疑念を残したままである。それなのに、苦しい心情であるのは理解できるけれども、「取り調べ時間が10日しかなく、捜査は到底十分とは言えなかった」(毎日新聞)と話すのは、被害者遺族を落胆させるいい方であろう。遺族と一緒に闘った仲であるのなら、こんなことを担当検事はいうべきではない。検事自身の心情はさておき、我が子を殺された遺族の心情はどうなるのか。制度的不備からたった10日の拘束であったとしても、そこで徹底して調査したといってこそ、遺族の気持ちも救われよう。つまり、隠すべき心情もあるのではなかろうかということ、公に報道してよい言葉であるのかということをいいたいのである。この事件については、神戸タンク山事件とともに、匿名報道か、実名報道かで揺れた経緯もあった。いまではどうかわからないが、実名だけでなく住所や電話番号を暴露しているサイトも存在した。それだけ少年事件は世間の関心を引く問題を抱えているのである。すなわち、少年に自己責任観念をいかに自覚させるか、その手法にワタクシたちは苦しんでいるということ。また、社会が少年事件をいかに捉えるべきか、その司法的判断基準の前提となる国民の一般的理解が、社会にあって分裂しているということ。少年事件コンセンサスの未確立といっていい。社会的制裁を実名報道によって加えるか、それとも保護の思想を貫徹し、加害者少年の人権を尊重する立場を重視するか、一長一短というほかない。そしてこの分裂傾向はいまでも論争を呼んでいる。この事件だけではないが、あまたのいじめ死事件、いじめ自殺を契機に、少年犯罪をいかに裁くか、その制度と過程が反省された。最終的に少年法の改正が実現(平成13年4月1日施行)し、刑事処分妥当の場合、16歳から14歳に地検逆送の適用年齢が引き下げられたのは記憶に新しい。殺人などの重大事件では、検察の臨席介入もあるし、3人合議の判事複数制も実現した。少年鑑別所の拘留期間も最長8週間。だから検事の忸怩たる心情にみられた取調べの不足も解消されたのである。だがこれを学校教育の観点からいうと、敗北である。とりわけ16歳から14歳に引き下げたのは、14歳が中学2年に妥当することからすれば、中学の「心の教育」がなっていないということが、法的に喝破されたことを意味するであろう。かつ、中学の「道徳の時間」が無力であることを証明しているのである。道徳的判断力や実践力は、子どもだけでなく大人にあっても、主観的、内的能力である。人は外在的な法規範のプレッシャーと内的に自分で作り上げた倫理観によって理性を保っている。人間は、この両方の外圧と内圧を皮膚に感じ、日常を危なげなく生きているのである。少年はその途上にあるのであり、内圧の力が弱いのは否定できない。心の中の裁判所は、その定礎工事が終わっただけである。天使と悪魔が戦い、天使が勝つ判決を少年みずから下せるよう、息長く待つのも教育者の姿勢である。その点、法規範にべったりな態度とは異なった指導を行なっても、非難に値しない(3/5)

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おだやかな春の日が続いていた先月下旬から一変して、寒波が襲う月はじめとなった。雪の舞うTOKYOは久しぶりのことであったであろう。大阪はそうでもなかった。だが、TOKYOの天候急変と同時に、ワタクシの家庭でも、ちょっとした変化があった。ワタクシがお使いに行かされたのである。男女協同参画社会なので、「行かされた」という表現は不適切かもしれない。紙に書かれた品物を購入するため、近くのスーパーにスタスタ出かけていった。小学生のようである。昔、身体作りに燃えていたときは、よくスーパーに通って買い物したものである。一日6食が目標であったので、肉や魚、ツナ缶、ナッツ類など、手当たり次第たんぱく質含有量の多い食品を買い込んでいた。ナッツはいい。これはエネルギー価も高い。ツナ缶は1日1個消費した。エンゲル係数は高騰していた。その成果か、2年ほど前は、体重80kg、胸囲100cm、腕廻り40数cmと、巨漢であった。それが、スポーツクラブを辞めてから、徐々にしぼんでいき、いまでは体重64kgの華奢な体つきである。みるかげもない。ベンチプレス等、スポーツにいそしんでいたことを思い返しながらのスーパー再体験である。すでにスーパーの商品陳列など、勝手を忘れている。卵を買うことになった。いまでは赤卵が幅を利かせているようである。色の違いは値段の違いを証明し、なかでも「ヨード卵・光」は6ヶ入り300円もする。1ヶ50円だぞ。貧乏性のワタクシは卵のコーナーで立ちつくす。よこから年配の女性がひょいひょいパックをもっていく。普通の白い卵であったら、200円もしないので、オッサンは、悩みに悩む。自分はこんなに優柔不断な男だったのだなと値段をつぶやいていると、それが聞こえたのか、年配女性は笑っていた。しかし、倍違う値段なのだから、悩んでも不思議ではないのと違うか。主婦であろう人たちは、何の抵抗感もなくカゴに優しくいれていく。この瞬時の選択は初心者には難しいと、主に旁午の男性読者に忠告しておこう。ワタクシも赤卵を手にとってカゴに入れ、第2コーナーを目指す。2割引の味噌めがけてハングオンである。コーナンなどと違い、頭上に商品案内掲示板がないので一苦労。「みそしおしょうゆ」というから、醤油をみれば味噌が近くにあるだろうとあたりを付け、さまよう。次はピザソース、次はキウイフルーツ、ようやく品が揃った。しかし、スーパーには罠が多く仕掛けられている。痛々しい野ウサギのように、ワタクシはその罠につかまってしまった。そう、スーパー内に、100均があるのである。これは避けて通ることができない。わかっていてもひっかかる、蜘蛛の巣である。あーあ、5つも買ってしまった。巣でもがいても遅い。こうして家計は苦しくなっていくのであろう。別に買う必要がないのに、そのうち役に立つと軍手を買ったり、何のために使うのか自分でもよくわからん仕分けのためのBoxを買ったり、駐車禁止のシールを買ったり散々である。駐車禁止のシールは、ほんまになんで買ったのだろう。しかし、それは100均の放つ魔法あるいは催眠にかかっているのである。当方に責任はない。100円だ!、安い!、と感覚すれば、もう止まらない。スーパーの思惑通りの筋書きにはまる。くそう、スーパーに出かけなければ、こうした無用の出費はなくなるにちがいない。しかし、100均なのに、525円とはどうしたものか。この4月からは内税表示になるので、100均看板も替えなければならないだろう。こうして寒波が去るのとともに、中年男性の貴重な休日は暮れていく(3/4)

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国民の代表が議論する場所を見学するのに許可がいるなどというのは、最初からおかしい話である。衆議院の議論の邪魔になるならいざしらず、ワタクシたちの選んだ代議士が、どんな空間でぐたぐたいっているのか、閉会中に小学生でなくとものぞきたいものである。参議院は何の問題もなく、どうぞ、どうぞの姿勢であったのに比べ、衆議院は歯切れが悪かった。まあ、最終的に許可を出したのだから、それはそれでいいのかもしれないが、「開かれた姿勢」が求められるのは、なにも学校だけではない。相手は修学旅行の小学生なのである。だからその辺りは臨機応変に対応してもよかったのではないか。WTCテロ以来、神経質になり、危機管理を名目に一度この見学要請を断ったのであると好意的解釈をして、この一件を受け止めよう。では三権分立の他の権力機関はどうなのであろうか。行政トップの各省は、「許可」が必要かもしれないが、市役所見学程度なら子どもの社会見学は可能である。実際ワタクシも、中学時代、地元の警察署に取材にいったことがある。市役所にいった仲間のグループもあった。裁判所は大人なら傍聴できるが、地裁レベルなら見学可能であったと思う。最高裁はどうであろうか。その「判決」を聞きたいものである。こうして体験学習が広がり、修学旅行における学習が、一過性の「記念学習」として終わるのではなく、その体験をたたき台に、継続・深化学習が望まれる。それはワタクシたち教員の大切な仕事であろう。政治についても深く学ばねばなるまい。純ちゃんは、イラク派兵に疑問を持ち、質問書を提出した宮崎の女子高生にコメントし、その女子高生を教える教員にまで、「先生はちゃんと教えやなあかんな、国際政治は複雑だから、しっかりね」といったが、反対意見であろうとなかろうと、女子高生の問題意識は尊重されるべきであり、ある相撲取りにいったように、一言、「よくやった、感動した」と上機嫌でほめなければならなかったはずなのである。どうも純ちゃんは感動する相手を間違えている。思えば、ハンセン病上告取り止めにはじまり、国民意識に即した政治を展開していたのに、イラク特措法以来、国民の方を向かなくなってきたのではないか。あのパフォーマンスはどこにいったのか。スーパーチューズデーを迎え、盟友にしてご主人様のブッシュの立場が悪くなってきている今日この頃、かなり純ちゃんはお疲れのようである。民主党ケリーの評価がうなぎ上り、「Anybody but Bush」の声が喧しくなり、海の向こうで政権交代が実現すれば、対イラク協同歩調をとっている自分の立場が危うくなるのは明白である。それに加えアナン氏盗聴事件があかるみに出て、ウヒャ−、ブッシュもハラハラ、パウエルもギョロギョロ、プードルも吠えまくり、びっくらこいている。中国もさらに対米批判を強めることになる。純ちゃん、郵政特命担当相の設置が、いまのところ唯一の国内向け話題なのは、いかにも寂しいよ。ところで先の修学旅行を企てたのが、矢祭町の学校であるというのは因果な話である。総務省を向こうに廻し、例の住基ネットに反対した町である。この町はなかなかやる。町長も、教育長も(3/3)

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雛祭りを過ぎると、新しく中教審が答申する。地域運営学校、公設民営学校に関する答申である。前者は、文字通り、地域住民が指定された既存の公立学校の運営に参加する。90年代であっても、地域の声が学校に反映されることは難しかった。それに、ここ数年、自治体、教委は、積極的に学校評議員を配置し、理念として地域密着の先鞭がつけられていたものの、評議員制度自体、それほど具体的に機能しているとはいいがたかった。しかも、評議員制度は地方教育財政に左右され(1ヶ月5000円程度の報酬!)、また、規模的に小さく、思うままに地域と学校を伝導する役割を果たせなかった。そこに旧態依然としたPTAの横滑りの余地があった。期待を込めていうと、そうした状況が、地域運営学校となれば、PTA主体の地域参与規模を超え、本来の意味で地域との結合の度合いが一層深まるであろう。答申案は出たようであるが、最終答申本文を当然まだワタクシは読んでいないのでなんともいえない。しかし、たとえば、職員会議の質もガラッと変わるのではないか。夕方、仕事を終えた地域住民が、学校にやってきて、「学校運営協議会」、つまり先生方と「夜の職員会議」を開く。あるいは土曜日に昼間から開催される可能性もある。1週間に1回これを開くことができれば、地域の願いが木目細かく反映されるにちがいない。それに付随的メリットとして、足繁く住民が学校に顔を出せば、たとえばLDやADHDの対応も含め特殊学級からの要望がストレートに伝わるし、児童虐待などの兆しも、それとなく先生方に伝わる。「安心できる学校環境」実現も、大きく進むのではないか。一方、今回その実現が先送りになる公設民営学校は、民間に委託して学校を運営するものである。これは、「民間」=「民間業者」≒「予備校?、塾?」であろうから、ちょっと問題かもしれない。公設なのに民営であるとは、どのような形態になるのか。なんとなく3セクの香りがする。「公設民営」の言葉に、そこはかとなく不自然さを感ずるのは、学校は設置者負担主義でもあるべきだし、設置者管理主義でもあるべきだからである。設置者管理主義でないと、もろもろの問題が発生したときの責任が問えない。委託とは、今風にいうとアウトソーシングなわけで、これを採用している企業の実情を知る地域住民にあっては、「ほんまに運営を任して大丈夫なんか」と、はなから不審感を拭えない。今回の答申が提案する学校形態の変容、学習指導要領の改正等、矢継ぎ早に教育改革が進んでいるような気がするのはワタクシだけではないであろう。この改革の波は70年代、80年代には見られなかったビッグウェーブである。水前寺清子氏の謡うように、「3歩進んで2歩さがる」の精神を適用しないと、どこかでほころびが出るような気がしないでもない(3/2)

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いやー、弥生3月、春である。春なのに、あんましいいニュースがない。それは、ワタクシが社会を批判的に見過ぎるところに問題があるのであろうか。だが、この旁午は、木鐸旁午として、その存在意義があると自分では位置付けているので、それも仕方がないところである。スポーツのほか、あんましいいニュースがない。ホントに悪いニュースばかりである。いつからいいニュースに、ワタクシたちは接していないのであろうか。だがしかし、ニュースとは元来そういうものなのであろう。かの浅田農産船井農場の鳥インフルエンザへの対応は、経営者の倫理観を疑うに余りある。今回の顛末は養鶏家の風上にもおけない仕儀である。「えらいすんまへん」で済むのだろうか。しかも地方行政⇒農水省への報告が遅れたばかりでなく、大量死があった養鶏場の生き残り鶏を優先的に出荷したのであるから罪は重い。誰が見ても「駆け込みのように早く出荷しようとしたことは全くない」(毎日新聞)という言葉はウソである。それ以外に出荷を早める理由がない。昨年12月、東アジアでこの病気が発生した瞬間から、気掛かりであったはずであり、それが現実になったのである。莫大な損害が出るのは必至であった。しかし、それはもう運命と諦め、誠実な判断を下すべきではなかったか。業界の役職を退いたとして、それがなんの慰めになるのか。近隣農家、養鶏家への信頼まで奪い、かつ鶏肉処理業者も最悪の悪夢をみることになる。これと同様の例に、京都城陽の6ヶ月前卵事件があった。半年前の卵を、さも最近のとれたて卵と偽っていた件である。この事件も、結局は我が身可愛さから他の人間が腹をこわしてもどうだっていいという意識から起こったのである。翻ってみれば、雪印牛乳の一件もそれほど事件の質に変わりはない。自己保身と隠蔽、農業、企業問わず、これらの事件に共通したエッセンスである。浮かばれないのは処分殺される鶏たちである。無類の動物好きのワタクシでなくとも、心を傷めている方も多いはずである。人間においてでさえ、インフルエンザは第二種伝染病に属す。家畜伝染病予防法にはっきり法定伝染病と書かれている鳥インフルエンザは、鶏にあっては死を逃れられない病気なのであろう。いつか詳しく獣医に聞いてみよう。可愛そうな処分された鶏たちのために手を合わすほかない。ワタクシたち教員にあっては、学校で飼育している鳥たちをどうするべきか。オランダではこれに感染し、死亡している獣医さんもいる。子どもたちの安全のためには、しっかりした対応が望まれるし、ひいては命の教育の実践ともなろう。抗体検査で陰性であれば、子どもたちと一緒に鶏を可愛がってほしい。最後に、このページをリンクしておく(3/1)

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